光と闇
現代では「光と闇」を相対するものとして理解している人が多くいます。
言葉を換えると、この世に絶対の光と絶対の闇がある、ことを前提にしています。
しかし実際には、この宇宙には絶対の闇などは存在しません。
たとえば絶対の無などはこの宇宙には存在しないように。
これらのことは量子力学や宇宙物理学ではすでに理論化され、観測もされています。
この宇宙にはエネルギーが0の空間は存在せず、どんな辺鄙な宇宙空間においても、瞬時に水素原子が対生成しては現われ、次の瞬間には対消滅して消え去るというサイクルを繰り返しています。
したがって、完全な無などは存在せず、エネルギーのあるところには瞬間的な仄かな光も一時的に存在します。
こうして絶対の闇や無というのは、人の頭の中にしか存在しない妄想もしくは空想の概念であることがわかります。
この妄想は善悪の樹の実を食べたことに起因し、何事にも判断せざるを得ないアプリケーションを作成してそこから離れない現代人は、正義の戦争を起こすことに躊躇しない生物に落ちぶれてしまいました。
闇の英語訳はdarknessであり、暗いということは明かりがある、ということを意味しています。
これらのことは中世時代以前の人々にとっては常識でした。紀元前においてなおさらのことで、近代の文字や数字を知らない人々にとっても、いや知らないためにより惑わされることなく、闇を体感していました。
つまりどんなに暗いところでも、仄かに明るい状態があることを体感していました。
夜に月がなくても星だけの光で歩けるのはもちろんのこと、洞窟の中では真っ暗闇で指先も見えない状態ですが、それでもヒカリゴケ、虫、静電気、摩擦熱などの蛍光するものがあったりすることもあります。
視覚では捉えられませんが、前述したように、この宇宙の素粒子のレベルでは一瞬の対生成は常にある状態です。
すなわちエネルギーがあることは確認されており、その対生成エネルギーは、光エネルギーに転換が可能になります。
たとえば、目隠しなどをして眼球を経由する視覚がない状態はありますが、長期にわたるアーナパーナ瞑想の訓練を積むことで、その僅かな微細な光を感じられるほどになります。
そのため、長年にわたって祖先と先達たちは、光の話をする時に、闇を語り、それは暗く仄かな光だと語ってきました。
しかし、光のない完全な静的な闇は確かにありませんが、「分ける」という作業を行うことで、光に対して、完全な闇がある、と想ってしまうのはなぜなのでしょうか?
「分ける」とは相違点を見つけて区切ることなので、たとえば光子があるというグループで区切れば、残ったのは光子がないグループになり、これが完全な闇があるのではないかという根拠になります。、
光子がなくても明るいことなどはあるのでしょうか?
ここで2つのトリックを紹介します。
1つ目は
対称性の破れ 「分ける」ことの副産物
この世に対称性はない、という考え方があります。
対称性あるとすれば、世界を大雑把な概念で捉えた時にだけ現われる一時的なもので、きれいな対称性が実在するのはヒトの頭の中の空想だけ、ということです。
これを上座部仏教では、すべては瞬間ごとに生まれては消え去っていくものなので、対称性は一瞬あるように感じますが、次の瞬間にはその対称性は崩れていると、考えます。
2つのものを並べて対照の相互関係だとすることが日常生活ではよくあります。
たとえば、戦争と平和、上と下、光と闇、などなど。
しかしこれらの関係をよく吟味すると、それらは対立ではなく、含有の関係だということがよくあります。
しかし、視界を部分的にすると、2つの関係は含有関係から、対立関係に変化したようにヒトは認識します。
これが私たちの理性がよく行っている作業で、これを思考パターンとしてしまっている人は、多くのケースで過剰一般化をして、この誤謬した結果に導びく方程式を認識の基準として、以後の判断の根拠にしています。
「分ける」とはAとAではないもの、というのが論理学の手法だが、これは粒子の粗いものを基準とすると、そこから導かれる概念の粗雑な分類法です。
実際には、「分ける」とは連続したものを濃度や密度の違いで分けて、それぞれに名前をつけることでしかありません。それはそのときのTPOにふさわしいと社会が合意した一時的で勝手な線引であり、どこでもいつでも通用する普遍的真理ではありません。
また、この宇宙における共通の法則は「常に変化し続ける」ということなので、AとAではないものという分類法は正確には成り立たないもので、成り立つのは、限られた状況の中での一時的なものでしかありません。
Aの特質がAでないものにもあるケースも多いので、、便宜上の概念なので、利用者にとって都合が良いなにかがあって、その場限りで分けているに過ぎません。
ですから、分けた基準と結果をどこでもいつでも通用すると信じたり、それに利用されることは回避するのが賢明です。
大事なのは共通点をまず知ることです。たとえば原子はいまのところ117種類ありますが、構成物質は電子と陽子と中性子でその数が異なることで、どちらもエネルギーの塊であることに変わりはありません。
そして次に違いです、たとえば、陽子の数が80から1つだけ減って79になることで、金属の性質が変わり、水銀が金になります。
相違点だけにスポットライトを当てるのではなく、共通点と相違点のセットではじめて「分けた」意味が明らかになります。
たとえば、「上と下」が相反するものと私たちの概念では考えますが、具体的に見てみると、私たちの下は地球の中心で交わりますが、各自の上は放射的に広がっていくので、私の上とあなたの上は必ず別の方向を指しています。これも私たちの上は同じものを指していることを前提にして成り立つ考え方です。
このように私たちは全体性を見て含有関係を認識するのではなく、部分を比較して対立させる思考パターンを学問の世界で学び、毎日の生活で使用しています。
最後に、上の図の光と闇の含有関係はあるTPOで成立するものなので、このTPOを変えると闇が光を含有するという逆の関係になることがあります。
つまりどのような方程式でも、ある条件における関係性であって、普遍的なものではありません。
2つ目は、素粒子より微細な要素の存在の可能性です。
現代物理学では素粒子がエネルギーの最小単位と仮説して成立させている学問ですが、宗教では素粒子よりも小さい意識エネルギー、そして思考回路などを形成する霊魂エネルギーがあることを前提にしてします。
上座部仏教では意識エネルギーを構成するbhūtaという構成要素、そしてデータと反応回路と生命を構成するdhammaという構成要素です。
アブラハム教では、メンタル体の心lib-bōw、経験を自動反応回路にした魂neshamah、宇宙創造の1日目からある霊rū-aḥが素粒子よりも微細な要素で構成されているエネルギーです。
別の機会に詳細に説明しますが、生命のメカニズムとは、dhamma構成要素で作られたスクリューの形状のものであり、この宇宙の特徴である、絶え間ない運動によってこのスクリューが回転して動力エネルギーを生み出します。創世記の1日目の水がdhamma構成要素で、造られたスクリューは水面に置くことで、天の流れ続ける風エネルギーによって回転し、これを動力エネルギーとしているのが霊であり、他のスクリュー構造がないモノとの相違点です。
創世記の光の変化
創世記は宇宙の創造から話が始まります。
「無」と呼ばれてきたモノから、この地球や私たち自身が誕生したプロセスを描いたものだと思われていますが、
丁寧に読んでみると、形のないモノと深遠の闇と水面の神の霊の世界から話が始まります。
次に「光あれ」と宣言することで、光が顕れ、その光が2つに分けて、明るい光と闇(暗い光)に分割されます。。
そのプロセスを「光と闇」を通して、見てみます。
私たちは翻訳を通して、これらの話を理解しているので、その翻訳された語句に囚われてイメージすることで、紀元前の人たちが伝えたかった本意を誤解してしまうケースがあります。
理由は使われている文字を現代社会で使われている意味で理解しようとしてしまっていることに起因します。
繰り返すと、創世記は「無限の光」から読み手(すなわち私たちヒトの意識)に至るまでのプロセスを説いています。
これは、この原初の意識から私たちの表層意識までの過程を描いていることが前提なので、書かれている文字を現代の表層の意味に変換してしまうと、紀元前の人たちのメッセージを受け取ることができなくなります。
ここでは、聖書の中でシンボルとして説かれているものを、あえて物理学用語と上座部仏教用語とカバラ用語を使うことで、新たな「偏見」を手に入れて、何千年前の「伝い手」の意図に近づこうという試みです。
日 |
被創造 |
宗教学 |
宇宙物理学 |
界と構成要素 |
ゾハールの光 |
|
|
|
|
出世間界 |
|
0 |
なし |
神 |
宇宙外 |
無色界dhamma |
中Kether |
1 |
はじめに 神の霊の原動力 闇 |
神 霊 霊 |
原初 ダークエネルギー ダークエネルギー |
無色界dhamma |
右Hokmah 左Binah |
1 |
天と地 光 昼と夜 |
霊 |
ダークエネルギー |
無色界gati |
「右」Hesed 「左」Geburah |
2 |
空(天) |
意識エネルギー |
ダークマター |
色界bhūta |
中Tifereth (美) |
3 |
地と海 |
上のエデンの園 魂 |
素粒子 光子 |
天界 微細dhātu 天使と玉座 |
左Nepal(勝利) 右 Hod (栄光) |
4 |
太陽と月と星 |
物質 |
原子 太陽光 |
欲界 粗雑dhātu |
中Yesod (基盤) |
5 |
海と空の生物 |
天と海の生命体 |
生命体 |
生物界 |
中Yesod (基盤) |
6 |
地上の生物(緑や人) |
地上の生命体 |
|
地上界 |
中Yesod (基盤) |
7 |
仕事に満足して休んだ |
意識の遡上 下のエデンの園 |
|
|
中Malkuth |
0日目 宇宙内のエネルギーがある世界 無色界をつくった 空(dhamma)の状態
1日目 宇宙内に光と闇を造った。 無色界をつくった gatiの状態
2日目 宇宙の意識界を造った。 色界をつくった
3日目 素粒子を創った 欲界(天界)をつくった
4日目 原子核と電子を融合させた 物質を創った 宇宙に恒星と惑星を創った
5日目 物質と魂を結合して生物を造った。 地球に生命体をつくった
6日目 生物と逆行意識の結合で人を造った 読み手の意識に到達した
7日目 拡張して発展した意識を内向させた 具体化するプロセスを内省することで0日を自覚
光の種類
日 |
|
|
色 |
|
0 |
Kether (王冠) |
中 |
「無」 |
|
|
Hokmah (叡智) |
右 |
「無」 |
|
|
Binah (理解) |
左 |
「無」 |
|
1 |
Binah (理解) |
左 |
原初の闇 |
|
|
Hokmah (叡智) 光あれの光 |
右 |
透明 |
対象を照らすことで秩序が生まれる ダークエネルギー |
|
Hesed (Mercy慈悲) |
右 |
白 |
密度が低い 善 |
|
Geburah (力) |
左 |
黒 |
密度が高い 悪 |
2 |
Tifereth (美) |
中 |
赤 |
下の水であるダークマターの誕生 |
3 |
Nepal (勝利) |
右 |
黄、 |
素粒子photon 物理的光 |
4 |
Hod (栄光) |
左 |
青 |
原子核と電子を融合 |
5 |
Yesod (基盤) |
中 |
物質 |
生物の意識 物質と魂の結合 |
6 |
Malkuth (王国) |
中 |
物質 |
ヒトの遡上意識 自ら発する光は持たない |
7 |
安息日 |
|
|
原初に戻る意識を実践 |
この表は、ゾハールの訳者のHarry Sperling と Maurice Simonとは見解が違います。再考
相違点はGeburahを2日目にして、そこから1つづつずれるので、7日目にMalkuth (王国)が来ることになります。
ゾハールには概略しか書かれていませんが、カバラ教の他の文献であるCordoveiroの『Pardes Rimmonim』では次のような明確に表現された説明があります。
第一原因は、反射ガラスを照らす光に例えられ、その光は別の反射ガラスに投射され、そこから第三の反射ガラスに投射され、9つの反射ガラス(あるいは10かもしれないが、元の光が10に含まれるかどうかについては意見が分かれる)を通して光の投射が続けられます。このように、さまざまな強さの10個の光がありますが、すべて同じ光です。
この図は、人間の心が第一原因を理解する度合いには段階があることを説明するものでもあります。
しかし、この図ではカバラにおいて前提にされている第一原因を客観的に10のパートに分割することを説明できていません。なぜならば、お互いの反射ガラスを関連させるモノが何であるのか、そしてその方法がこれだけではわからないからです。
創造の発展の流れに対して、それを遡る方法はあるのでしょうか?
その一例はこの章の最後に書き置きます。
光と闇の具体的な記述を見ていきます。
創世記1日目
Zohar によると、最初の maamar(創造的な発話)によって3 つの等級の光を生成しました。
透明な光、白い光、暗い光です。
1神が天から地といたる創造されたはじめのときには
In the beginning God created
the heaven and the earth.
B'rëshiyt Bärä élohiym ët haSHämayim w'ët hääretz
2 地は形なく、空洞で、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてに浮かんでいた。
Now the earth was
unformed and void, and darkness was upon the face of the deep; and the spirit
of God hovered over the face of the waters.
w'hääretz häy'täh tohû wävohû w'choshekh' al-P'nëy t'hôm w'rûªch élohiym m'rachefet al-P'nëy haMäyim
וְהָאָ֗רֶץ wə-hā-’ā-reṣ, And the earth
הָיְתָ֥ה hā-yə-ṯāh was
תֹ֙הוּ֙ ṯō-hū formless
וָבֹ֔הוּ wā-ḇō-hū, and void
וְחֹ֖שֶׁךְ wə-ḥō-šeḵand darkness
עַל־‘al- [was] over
פְּנֵ֣י pə-nê the face
תְה֑וֹם ṯə-hō-wm; of the deep
וְר֣וּחַ wə-rū-aḥ And the Spirit
אֱלֹהִ֔ים ’ĕ-lō-hîm, of God
מְרַחֶ֖פֶת mə-ra-ḥe-p̄eṯ was hovering
עַל־ ‘al- over
פְּנֵ֥י pə-nê the face
הַמָּֽיִם׃ ham-mā-yim. of the waters
3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
And God said: 'Let there be light.' And there was
light.
waYomer élohiym y'hiy ôr way'hiy-ôr
וַיֹּ֥אמֶר way-yō-mer And
said
אֱלֹהִ֖ים ’ĕ-lō-hîm God
יְהִ֣י yə-hî let
there be
א֑וֹר ’ō-wr; light
וַֽיְהִי־ way-hî- and
there was
אֽוֹר׃ ’ō-wr.
light
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
And God saw the light, that
it was good; and God divided the light from the darkness.
waYar' élohiym et-häôr Kiy-ţôv waYav'Dël élohiym Bëyn häôr ûvëyn hachoshekh'
'And God saw the light (i.e. the centre) that it
was good, and God divided between the light (i.e. the right) and the darkness.'
וַיַּ֧רְא way-yar And saw
אֱלֹהִ֛ים ’ĕ-lō-hîm God
אֶת־ ’eṯ- -
הָא֖וֹר hā-’ō-wr the light
כִּי־ kî- that
ט֑וֹב ṭō-wḇ; [it was] good
וַיַּבְדֵּ֣ל way-yaḇ-dêl and divided
אֱלֹהִ֔ים ’ĕ-lō-hîm, God
בֵּ֥ין bên
between
הָא֖וֹר hā-’ō-wr the light
וּבֵ֥ין ū-ḇên and
between
הַחֹֽשֶׁךְ׃
ha-ḥō-šeḵ. the darkness
3つとは、1つ目は「光あれ」の光、2つ目は分けた後の光、3つ目は分けた後の闇の光です。
これらの光とはどんなものなのでしょうか?
このどれもが私たちの知っている光、すなわち光子photonではありません。
この時点ではまだ星々も太陽も創造されていません。それらが創造されるのは4日目(1章14〜16節)とあるからです。
「光あれ」の光は、混沌や闇や深淵や水を照らし出す光で、この光によってすべてのものが見られるもの、すなわち対象物になることで、雑然としていても秩序と呼ばれるものになります。
「神はその光を見て、良しとされた」とあるように、神は創造した光を、満足と喜びの対象となり、深淵と混沌の海を照らした光とは昼と夜とを分けたように秩序の光です。
昼とは対象が照らされて見られたことで秩序づけられた領域、
夜とは対象が照らされていないので、まだ秩序づけられておらず、その可能性がある領域です。
「そして神は光(中央の光)を見、それは良いものだった、そして(この世界を)神は 光(右の光)と暗闇に分けました。」
'And God saw the light (i.e. the centre) that it was good, and God divided between the light (i.e. the right) and the darkness.'
これは1つ目の「光あれ」の光は「分けられる」ことで登場と同時に消えて、分けられた後の光(2つ目)がメインになっていることを意味しています。
この闇と分けられた光は、Zoharでは「右」すなわち、Hesed(慈悲)と呼ばれる等級の機能に属しています。
右とは英語のrightで正当、健全、正真正銘、主、本物、権限という意味も重ね持ちます。
聖書では1日目、2日目の「日」にあたります。
ヘブライ語では、
右the rightは הַיָּמִ֖ין hay-yā-mîn 、
左 the leftは הַשְּׂמֹ֣אל haś-śə-mōl
ちなみに義 righteousは、צַדִּ֛יק ṣad-dîqで、原初(第一原因、より微細なもの、神、)に向かって遡上する意識。
私見では、3節の「光あれ」より前の2節に闇の記述ががあることから、この2節の闇は3節の闇とは違い、
「はじめの創造」である1節の天と地の創造によって顕れた「闇」だとし、これを第3等級Binah (Understanding理解)に由来とするもので、「光あれ」の透明な光は第2等級のHokmah (Wisdom叡智)を指しており、聖書が記述していない、その元になった宇宙の時空を存在させた遍く光が第1等級Keterだと考えています。
このことは次の章である「創造以前」で再び説明しますが、
ゾハールでは天と地を分ける前に、3つの段階があることを前提にしています。
それらは
アイン(Ain) 「無」と訳されている、「原初」、
アイン・ソフ(Ain Soph) 「無限」と訳されている「原初の点?領域?」、別名は叡智
アイン・ソフ・オウル(Ain Soph Aur) 「無限光」と訳されている「原初領域の光」 別名は理解
という段階があり、
アインからアイン・ソフが生じ、アイン・ソフからアイン・ソフ・オウルが生じ、アイン・ソフ・オウルからケテルが流出した、としています。
「あなたの視線を高く上げて見てください、誰がこれらを創造したのですか(Is. XL、26)」、
これが探求の限界、つまり、「創造以前」を創造したモノを問うことが、ヒトの思考の限界になります。
理解は叡智によって、 叡智は探求できないアイン(原初)から生じて完成されたため、それは理解できない叡智、そして叡智という意識も届かない領域になります。
光が広がりの対象にとして始まる時点から、光はヒトの思考の探求の対象になりますが、その奥にあるものは知られることはないので、「これらを創造した誰か(Mi)」、または「誰か(Mi)の子宮から出てきた氷」などでは疑問代名詞である「誰か」と呼ばれていますが、私たちが尋ねても把握できない認識です。
このように、「光」の最上等級はまったくの原初(Ain)に対応し、最下等級は以下の章で述べる、人間の意識的な魂(neshamah)に対応しています。
この魂とははたして潜在意識なのか、体験したことのデータなのか、霊なのか、生命なのか、エネルギーはあるのか、死後の世界との関係があるのか、については別の章で探求していきます。
創造力自体は「思考」または「意識」として考えられ、「思考」は創造の過程で「光」すなわち「輝き」になります。
神の最高等級をこの宇宙の無と呼ばれる原初(Ain)とするのがユダヤ教の特徴であるのに、対して、上座部仏教はこの宇宙には無や原初は存在せず、無があるとするのはヒトの空想であるとします。
この宇宙ははじめから光があり、この宇宙の外側にはエネルギーが0の「知る」機能がある、としています。
これが解脱の境地です。
言葉を換えると2度とこの宇宙に戻ることを拒否して、それを実現させたということです。
したがって、上座部仏教では解脱という出世間界の体験によって知るものであり、カバラのいう「思考」では到達できない「意識」だと考えます。
「光あれ」の光は、人間の(そして天使の)誕生以前にあるものですから、人間の理解を当然として超えています。 しかし、等級が下がるにつれて、「光」はいわば、服を重ねるように徐々に具体化して、最下位の等級の光は、人間の意識的な魂との間に密接な交わりが確立されて、人間の認識の中に入り込みます。.
第1等級の光は最も神秘的で難解なものであり、En-sof(境界線がなく、特徴づけられない、原初の点)と見分けがつかず、創造の働きにおける絶対的な無(原初)に相当するものは聖書には直接の言及がありません。
bereshith(はじめに) という単語のbeth (=in)とは、「それ自体に入り込み、開始する」ことを意味します。
このスタートは「閃光」(Zohar)で構成され、「無限」の創造力を解放します。
詳しくは次の章で述べます。
ゾハールの書の中ではラビたちの光に対する意見が記述されています。
R.アバは「それらの光はすべて、地上に光を与えるために天の大空に集められています。地上に光を与えるこの大空とは何なのでしょうか? それは「そして、エデンから出る川が庭に水を与える」と書かれているように、もちろん、エデンから出ている流れです。
月が流れ出る川に照らされるとき、すべての下層の天とそこにすむ生命体たち(霊や天使も含む)はより多くの光を受け取ります。 地球を担当する太陽は、地上の植物や木々を成長させ、大地を豊かにし、水や海の魚もより豊かにします。」と述べています。
R・イサクは「そして神は、「光あれ」と言われました」という節から、神が私たちが話した芽を根こそぎにされ、再び植え直されたことを私たちは学べます。 したがって、「そして光があった」という表現には、光がすでに存在していたことを暗示しています。」と述べています。
R.エレアザルは、「すべての力は最初から地に潜在していましたが、「地は生きた魂を生み出しなさい」(創世記1,24)と書かれているように、6日目までその成果を出しませんでした。 確かに、3日目に「地は草を生みました」と書かれていますが、これは単にそれが力を準備状態に導き、すべての産物は期限までその中に潜んでいたことを意味します。」と述べています。
創世記1,24のヘブル語原文では「地は生きた魂を生み出しなさい」ではなく「地は種類にしたがって生き物を出しなさい」となっています。魂ではなく、その種類(種子)にしたがってである。英語翻訳者のミスか?
私見では3日目の「地の草」とは、素粒子の誕生のことを意味しているので、地球の植物の誕生は4日目の太陽の誕生、そして5日目の生物の誕生をを待たねばなりません。
ここまで見てくると、光には多層の段階があり、1日目の光は透明な光と白い光と黒い(または青い)色があることがわかります。(高温の炎の縁は青色です。)
黒い光とは白い光に比べて、暗いので、闇と呼ばれます。
白と黒は対照しているように見えますが、前述したように、黒とは光のない状態ではなく、濃い色の光があります。
白い光のの周囲には、ほとんど知覚できない透明な別の光があり、これは至高の本質を象徴しています。
したがって、上昇する炎は智慧の最高の神秘を象徴しています。
白い光と黒い光の両者は分かちがたく結びついており、白は黒の上に安らぎ、この黒い光は、その下にある何かと付着していることで炎は維持されます。この青または黒の光は時々赤に変わりますが、上の白い光は色を変えることはありません。
黒い光は常に、その下にあるもの、すなわち黒い光が触れたものをすべて焼き尽くします。
黒い光は、その性質上、破壊と死の源となるからです。 しかし、その上にある白い光は決して消耗したり破壊したりすることはなく、変化することはありません。
そこでモーセは「あなたの神である主は火を焼き尽くされるからです」と言い、文字通り、その神の下にあるすべてのものを焼き尽くしました。
それが、モーセが「私たちの神」ではなく「あなたの神」と言った理由です。なぜなら、モーセは黒い光の上にある、消耗も破壊もしない白い光の中にいたからです。
また聖書の中には「あなたの神である主に固く結びつくあなたがたは皆、今日も生きています。(申命記4、4)」と書かれているように、黒い光は、その下で接触しているすべてのものを焼き尽くすという性質があるにもかかわらず、イスラエルは下の黒い光に固執していても、まだ存在することができています。
私見ではこれは、神とアブラハムとの契約によって起きているのでは、と推測します。
確かに、一方のヘセド(光、善)と他方のゲブラー(闇、悪)の間には、常に対照性があります。
これらの 2 つの側面がそれぞれ右と左と呼ばれる理由は、ゾハールには明確に述べられていません。
その理由は、聖書の一節にあるかもしれません。
「ああ、彼の左手は私の頭の下にあり、彼の右手は私を抱きしめていました」(S. S. II, 6)
善と悪、光と闇という対照性を自分の外部に、そして概念として捉えるのではなく、2つの側面を内面化かするために、左右という表現を用いることで、内側の具体的な事象として捉えるようにするためかもしれません。
そしてこの内面化のステップを介した後に、左右の対照性は原初と繋がりを持つことで対照性が全体性に転換するためです。
これが、ゾハールのさまざまな場所で、ヘセド(第4)とゲブラ(第5)とシェキナ(第1、第2、第3等級)との関係に適用されている理由です。
1日目の創造の天と地の関係性は、最小点の密度が希薄なところを天、最小点の密度が高くなったところを地と呼ぶことです。
この最小点とは、聖書にある「天地創造」以前のもの、すなわち、コクマー(第2)の光であり、この宇宙が誕生するときのベースになっているものです。
つまり天ではこの最小点の光が四方八方に拡がり、光の密度が高いところが地と呼ばれ、その特徴はṯō-hū無形formlessとḇō-hūむなしさです。
このṯō-hū無形の集合体を「水」とよび、より密度が高いところではṯō-hū無形のスピードは停滞し、動きが円となるとともにスピードは緩慢となるが動きの場所が限定されるので、空間的エネルギーは集中し、2番目に小さいḇō-hū(むなしさ)と呼ばれる点になります。
このようにコクマーの光(最小点)の密度の高い地でもも密度の高低はあり、より低いところは「水」、より高いところは「深淵」と呼ばれます。その深淵ṯə-hōは闇と呼ばれるビナー(第3)の光のことです。
これらの点とは、数学的0ではなく、円周運動をしているエネルギーのことです。
「水の表面に浮かぶ神の霊」からは、「善」として特徴付けられる第2の光が発せられ、その後第4のヘセドの神聖な属性(慈悲)の庇護の下で初日の内容を形成します。
私見では闇と呼ばれる第3の光を構成要素として2種類の形状が発生します。結晶化した時に、スクリュー型かそうでないかの2種類です。スクリュー型に、天で動き回る第2の光が当たることで、スクリューは回転運動を起こし、それが霊と呼ばれるものです。
加えて、最小点をコクマー(第2)の光、深淵ṯə-hōの光は闇と呼ばれるビナー(第3)の光としたのも私見です。
このような光と闇の相互作用は続き、2日目以降の創造の力の源になりますので、創造の章で具体的なことを説明します。
闇の由来
創造のはじめには、闇がありました。天と地に分けたときです。
この創造とはまだ素粒子は存在しておらず、より微細な世界の話です。
形はまだないので、測定することができません。
しかし、1節の天地創造の後に、まだ「カタチ」ともまだ呼べない、エネルギーがあり、そこには闇や霊があった、と2節にはあります。
聖書には「光」の誕生は3節なので、その前に「闇」があることが記載されています。
はたして、闇の後に光ができたという解釈で良いのでしょうか?
また3節の光の後の4節に闇がまた出てきます。
この闇は2節の闇と同じものなのでしょうか?
順番に創造のプロセスを見ていきます。
1 はじめの神は天と地とを創造された時には
In the beginning God created the heaven and the
earth.
B'rëshiyt Bärä élohiym ët haSHämayim w'ët hääretz
2 地は形なく、空洞で、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてに浮かんでいた。
Now the earth was unformed and void, and darkness
was upon the face of the deep; and the spirit of God hovered over the face of
the waters.
w'hääretz häy'täh tohû wävohû w'choshekh' al-P'nëy t'hôm w'rûªch élohiym m'rachefet al-P'nëy haMäyim
3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
And God said: 'Let there be light.' And there was
light.
waYomer élohiym y'hiy ôr way'hiy-ôr
光には性質の異なる多くの段階があり、「はじめの創造」の前から「光」はあったと推定されています。
ですから、「光あれ」と発語できたのは、以前に光があったためである、とゾハールの書では説かれています。
はじめの創造より以前の光が、この「光あれ」の光なのか、また別の段階である原初の光なのか、については多くの説があります。
「光あれ」の光である、透明な光から、白い光と黒い光が分離して生じ、この黒い光を「闇」(הַחֹֽשֶׁךְ׃ ha-ḥō-šeḵ. the darkness)と聖書では呼んでいます。
闇が黒い光というのは、強く輝く白い光と並べて比較すると、仄かな弱い光であることを意味しています。
右の光に対して左を闇とすると、2つは相反するように思うかもしれませんが、両方を並べると、明るい方を光暗い方を闇と呼ぶだけで、強弱、大小という程度の違いだけで、どちらもエネルギーがあります。
ユダヤ教の縁起説であるカバラでは、「闇」は厳しさと懲罰の源となるのは第5等級のGEBURAH(直訳「力」)です。悪やと苦しみの由来も、4節に出てくる「闇」とゾハールの書では説明されます。
これらは左のGeburahから発せられるので、「左」の光とも呼ばれます。
ここが蛇SERPENT、すなわち原初の暗闇に内在する悪の原理が棲家であるとも。
2節に出てくる闇について考察しないのはなぜなのでしょう?
私見では、闇の由来は4節にある第5等級のGEBURAHではなく、2節にある闇で、それは第3等級のBinahに由来するものです。
根拠は書かれている順番にしたがって、ということです。
「光あれ」の透明な光は第2等級のHokmah (Wisdom叡智)を指していると考えています。
つまり、「光あれ」の前にすでに存在していた「深淵の闇」(t'hom、ゾハールでは tohu)が悪の根拠となります。
2日目には「深淵の闇」から大空が発生しましたが、これは良いとは見なされず、第5等級のゲブラーの神聖な属性 (力、または厳しさ) の加護の下で 2 日目の内容を形成しました。
2節と4節の闇は異なるものですが、どちらもそれ自体で光っています。闇とは暗い光のことを指すので、周囲の明るさと比較することで闇と呼ばれます。
そして、悪の由来についてですが、「神はそれがよかったと見た」という常套句が二日目の記述から省略されているのは、その日の働きに悪がなかったわけではない、という意味なのかもしれません。
このことは次の章である「創造以前」で再び説明します。
「闇」とは色の強い黒い炎のことです。 赤い火は視認性が高く、黄色い火は形が強く、白い火はすべての色を内含しています。
闇の光は弱いとありますが、それは明るい光と比べての名称であり、とんでもない高温・高気圧の中での話であり、この世界の炎の中では最強なのが「闇」である、という解釈がゾハール書の中にあります。
この闇がTohuをそのまま定着させています。 見られる対象にしないことでこれが可能になります。
「闇」は熱を持つ火ですが、私たちの目の前にある火は「闇」ではありません。
すなわち、闇∈火の関係で、火だからといって、それは闇とは言えない、ということです。
それが象徴されている聖句は「彼の目はぼんやりして何も見えず、エサウを呼んだ(Gen. XXVII, 1)」です。
「悪の顔が暗くなった」のも、悪を許したからです。 それゆえ、この火は「闇」と呼ばれます。
闇はTohuに寄りかかり、それをつかんだからです。これが「そして深淵の闇」という言葉の内的意味です。
換言すると闇の光はTohuによって成り立つ仄かな光である、ということです。
ゾハールの書に明記されていませんが、1日目の「光」と「闇」が2日目には「上の水」になります。「下の水」と分けられるまでは、「上の水」は「下の水」を含んで一体化したものでした。
2日目のmaamar(神の発語)では、下の水が上の水から分離されます。
この分離の実行は、Zoharの「左」であるGeburah (力) によって行われ、これを聖書では「三日目」と呼びます。
次のmaamar(発語)は、上の水と下の水に特定の流れ、すなわち方向を与えることで、その結果、「地」すなわち「乾燥した地」が現れることが可能になりました。
密度の低いものは空と表現され、密度の高いものは地と表現されます。
この3日目の空は下の水を分離したものなので、2日目の空とは別物です。
このパラダイム(次元、構成要素、構造)の違いは重要です。
9 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
And God said: 'Let the waters under the heaven be
gathered together unto one place, and let the dry land appear.' And it was so.
waYomer élohiym yiQäwû haMayim miTachat haSHämayim el-mäqôm echäd w'tëräeh haYaBäshäh way'hiy-khën
10 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
And God called the dry land Earth, and the
gathering together of the waters called He Seas; and
God saw that it was good.
waYiq'rä élohiym laYaBäshäh eretz ûl'miq'wëh haMayim qärä yaMiym waYar' élohiym Kiy-ţôv
11 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
And God said: 'Let the earth put forth grass,
herb yielding seed, and fruit-tree bearing fruit after its kind, wherein is the
seed thereof, upon the earth.' And it was so.
waYomer élohiym Tad'shë hääretz Deshe ësev maz'riyª zera ëtz P'riy oseh P'riy l'miynô ásher zar'ô-vô al-hääretz way'hiy-khën
下の水が一箇所に集まることで、地の存在が可能になり、それは「新緑と果樹を生む地」と呼ばれ、天使たちを従えた「栄光の玉座」を生み出しました。
私見では、上記の出来事は3日目のことで、4日目の太陽や地球の誕生以前の話なので、まだ原子は存在しておらず、新緑と果物を生む地というのはメタファーであると解釈します。
この3日目の「地」とは初めて人間にとっても知覚可能なものであることを意味し、栄光の玉座とは人が測定できる最小単位である素粒子を意味するのでないかと推理しています。
、
青草 シンプルでお互いの力が働くための基盤となる光子
種を持つ草 種の大きさが違う電子、ニュートリノ
果樹 素粒子の中で一番大きく、組み合わせによって中性子や陽子になるハロゲン素粒子
と素粒子の3つのタイプを暗示しているのではないでしょうか?
これらは聖書で「三日目」と呼ばれる段階の機能であり、Zoharでは He Olmin (世界の生命Life of Worlds) と呼ばれています。
次のmaamarは4日目です。
14 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
And God said: 'Let there be lights in the
firmament of the heaven to divide the day from the night; and let them be for
signs, and for seasons, and for days and years;
waYomer élohiym y'hiy m'orot Bir'qiyª haSHämayim l'hav'Diyl Bëyn haYôm ûvëyn haLäy'läh w'häyû l'otot ûl'môádiym ûl'yämiym w'shäniym
15 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
and let them be for
lights in the firmament of the heaven to give light upon the earth.' And it was
so.
w'häyû lim'ôrot Bir'qiyª haSHämayim l'häiyr al-hääretz way'hiy-khën
ここでついに原子の核融合による光が発生します。
やっと星、すなわち太陽の誕生で、太陽は物質の塊として光ります。
輝きの主なものは太陽と月であり、もともとは同等の地位にありました。
自ら発光するのと反射するのとの違いはありますが、共通点は「地上に光を与える」、つまり地上のすべての存在の形と特徴を決定する責任を担っているのが、これらの輝きです。
この素粒子の光とエネルギーを得ることは、聖書では「第4日目」と呼ばれる等級の機能です。
光の色と神の名前
光の色は神聖な統一の象徴で、神の名前と対応しています。
中世のユダヤ教のラビは光と闇を白い光と青い光に喩えることがあります。
私たちの身の回りで言うと白い光とは製鉄所の炎、青い光とはガスバーナーの炎の色です。
聖なる名前であるYHVHの光の色は白と青です。
Yod, Hé, Vauは白い光、
2 番目のhéは、青色、すなわち闇の光ことです。
青い光が白い光に付着するように衝動を与えるときはhéですが、青い光が燃えても白い光に結合しないときはd(ダレス)です。 d(ダレス)の深層的解釈は? YHVDには意味があるのか?
理由は男性原理と女性原理が結合していないので、héが排除されてダレスになります。
2つの関係を男性原理と女性原理で説明し、2つの結びつきを聖婚のシンボルとすることもあります。
(申命記22章15節では、na'arah(私たちがする)の代わりのna'arは「乙女」の意味で使用されているのは、乙女は男性と一体化していないからです。)
しかし、青色と白色の結合の鎖が完成すると、héは白い光に固く結ばれ、イスラエルは白い光に寄り添い、破壊されることなくその光を培います。
これは連鎖が完了したことの現れであり、青い光は白色光に繋がり、青い光の下にある全焼のいけにえの脂肪と肉を消費します。
というのは、上昇して白色光につながるとき以外は、下にあるものを消費しないからです。
この青い光はその下にあるものすべてを破壊し焼き尽くす性質があるため、
「主の火が下って全焼のいけにえを焼き尽くす(列王記上18章38節)」ことになります。
青い光は白い光に繋がり、青い光の下にあるいけにえの脂肪と肉を消費します。
白い光につながらないと、青い光の下にある脂を消費ません。
これが犠牲が喜ばれ、儀式の意味です。
この青い光はその下にあるものすべてを破壊し焼き尽くす性質があるため、犠牲が喜ばれ、全体に完全に火が灯ると、エリヤの場合のように「主の火が下って全焼のいけにえを焼き尽くす(列王記上18章38節」)ことが起こります。
物質と青い光と白い光の3つの連鎖が完了することで、すべての世界に平和が生じ、全体による一体化が形成されます。
青い光がその下にあるものをすべて焼き尽くすと、ユダヤ教の祭司、レビ人、平信徒は集まり、唱え、瞑想し、祈りを捧げます。
光が一つに溶け、世界が輝き、上にいるものも下にいるものも祝福されます。
それゆえに、「あなたがたは、あなたの神、主にすがりながらも、今日も生きている」ということになります。
「光と闇の関係」を意識の段階で考えてみると
この光とはは、人の意識の象徴でもあります。
白い光は深層意識を表し、全体性との一体化を象徴します。
青い光は表層意識を表し、分離している部分を象徴します。
意識と心と神とのアナロジーは
白い光=深層意識=上座部仏教のおける9段階の心の1から7段階=私たちの神(モーセの視点)
青い光=表層意識=上座部仏教のおける9段階の心の8と9段階=あなたたちの神
となります。
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