天界の秘儀 Arcana Coelestina Swedenborg
1745年にスエデンボルグが57歳の時に霊眼が開かれて書かれたもの。
聖言のすべてには、霊的な天的なモノが含蓄されて意味されている。
聖言は生命そのものである「主」から発しているため、天界、地界のすべてが含まれる。
外なる人とは身体のことで、それを生かしているのは内なる人である霊魂である。
聖言も同じように、文字は外なる形であり、その形の内は霊魂である。
外側の文字の意義にのみ固執しているかぎり、その内の霊魂と交信(共鳴、共振)することはない。
意識は外なる人に属する。霊的なものは外なる人に属するのか、それとも内なる人に属するのか?
意識は外なる人に属するのか?
霊的なものは外なる人に属するのか?、それとも内なる人に属するのか?
身体は外なる人に属するのか?
エネルギー |
人 |
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神と人 |
内容 |
意識 |
領域 |
パターン |
パーリ経典 |
普遍 |
内なる人 |
天的 |
神 |
内なる神 |
深層意識 |
神 |
天使 |
Dhamma |
魂 |
外なる人 |
霊的 |
人間独自 |
輪廻の本質 |
中層意識 |
人間 |
悪霊、善霊 |
sankhāra |
意識 |
外なる人 |
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人間独自 |
心 |
表層意識 |
動物 |
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viññāna |
身体 |
物質の人? |
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人間独自 |
物質 |
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元素 |
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kāya |
6日期間の意味
1 先行する「空」「空ろなもの」「空しいもの」「暗闇」の状態である期間。 水の面の上に動いている神の霊
2「主」に属した物(残ったもの)と人間に固有な物との間に区別が行われる期間。
「主」に属した物は、残ったものと呼ばれ、試練と悲哀なしには存在していない。
試練により存在する身体は、
3 悔改めの状態で、その内なる人(霊魂)から信仰的に語り、仁慈のような善を生み出すが、それは生きていない。
こうした善は「柔らかい草」「種子を生む草」、最後には「果を結ぶ木」と呼ばれる。
4 ヒトは愛に動かされる。しかし、それは内なるヒトである信仰と仁慈からではない。
5 ヒトは信仰から語り、それにより真理と善とを確認する時。生み出されるものには生命があり、海の魚、天の鳥と呼ばれる。
6 ヒトは信仰と愛から真を語り、善を行う時。 生きたもの、獣を生み出す。
霊的なヒトは映像を持ち、霊的生命は食物と呼ばれる。
1はじめに神は天と地とを創造された。
はじめとは永遠の日、最古の時。
人間が再生する最初の期間。
天は内なるヒトである霊魂を、地は外なる人である物質を意味する。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
人間は再生以前は、「地」と呼ばれ、善も真理もなく、空ろであった。
ここから暗闇、すなわち愚鈍が生まれ、天界に関わる無知が生まれた。
「エレミア4.22〜23」
深淵の面とは、再生しない人間の欲念とそこから発生してくる諸々の誤謬を意味している。
再生しない人間は、欲念によって構成され、その中に全く沈んでしまっている。
「イザヤ書51.9〜11」
天界から見ると、深淵には光がなく、分別ができず混同されている。
したがって、真のものを知ることも善に感動することも遮断されているので、まずはこの障碍を除くことからはじめなければならない。
そのためには、まず古い人は必ず死ななくてはならない。次いで新しい人が身籠ることができる。
神の霊とは主の慈悲を意味し、覆っているものは人間の中に隠し貯えられた「残りもの」である。
この残りものは真と善に関わる知識から成るが、外側の障碍を取り除かなければ、光の中に現れてこない。
この知識は「水の面」と呼ばれる。
善とは
最も内なるものを通じて主から認識が発しているものが善である。
したがって最も内なるものが天的なものでなければ善ではない。
換言すれば普遍エネルギーと繋がっている場合だけが善である。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
全てが外なる人間にとっては、自己と外界への愛に関わるものが善であると妄想している。
しかし新たに身籠ると、はじめてそれまでの善は誤謬であることを知り始め、更に光の中に入るにつれ、主が善と真理自身であることを知り始める。
私が存在することを信じないなら、あなたたちは罪の中に死ぬであろう。
ヨハネ伝8.24
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
光は善自身である主から発しているために「善」と呼ばれている。
闇とは、再生以前の光のように見えたもの凡てのものを意味している。
形を基準にする人にとっては、悪が善のように、誤ったものが真のように見るのである。
主に属しているものは、光に属しているので日に喩えられ、
人間に属しているものは、闇に属しているので夜に喩えられる。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
夕とは蔭、誤謬、無信仰と、人間自身そのものに属した凡てを意味し、
朝とは光、真理、信仰と、主に属した凡てのものを意味する。
信仰とは何か? 語源は?
古英語gelIfan. 中英語で接頭辞がbi-に置き換えられbelevenとなる.(be-強意+leven信ずる).
原義は「愛情を持つ」で,LIEF(喜んで)に残っている
私見 信仰とは盲信するのではなく、奥底にあるものと繋がることではないだろうか?
神は陽の昇る朝の光のようであられ、実に輝きから、雨から、柔かい草が地から生えでる雲のない朝のようであられる。
サム後記23.2〜4
6 神はまた言われた、「水の間に空があって、水と水とを分けよ」。
真であり善である主自身によって光は与えられ、主は内なる人と外なる人とを区別した。これがcognitionesとscientificaの違いである。
7 そのようになった。神は空を造って、空の下の水と空の上の水とを分けられた。
cognitions 知識 ひりがり、ひろがりの上の方の水 それを知っている。 内なる人 霊魂 天界
scientifica 記憶知 ひろがりの下の方の水 知識の厖大な蓄積 外なる人 身体 地界
8 神はその空を天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
ひろがり、すなわち内なる人はいまや、天と呼ばれるようになる。
「地を広げ、天を張る」イザヤ書44.24
神エホバは地とその生産物とを拡げられる、神エホバはその上の民に息を与え、その中を歩む者に霊を与えられる。
イザヤ書42.5
9 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
諸々のscientificaの間に分類が行われるのは、自然的や霊的や天的やものでも、記憶知として止まっているからである。
外なる人は「かわいた地」と呼ばれる。
10 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
聖言では水はcognitionesとscientificaを意味する。
水が海を蔽うように、地はエホバを知る知識scientificaに満ちるだろう。
イザヤ書11.9
エホバは天を張り、地の基をすえ、人の霊をその最中に形作られる
ゼカリヤ書12.11
11 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
地、すなわち人間は主から天的な種子を受け、柔かい草、種を持つ草、実を結ぶ果樹を発する。
これは地すなわち人間から発するのではなく主から発することを未だ信じることができないのが再生に至る段階である。
12 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
主は種子を播く方であり、種子は種の聖言であり、地は人間であることは主ご自身が宣べられた。
マタイ13.19〜24、37〜39、マルコ4.14〜21、ルカ8.11〜16
神の国はあなたたちの中に存在している
ルカ17.21
13 夕となり、また朝となった。第三日である。
これは人間が悔改めによる3段階の再生(蔭→光、夕→朝)の話である。
14 神はまた言われた、「天の空に光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
15 天の空にあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
16 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
大きい光を理解するには、信仰の本質、再生のプロセスにおける信仰の変化を学ぶ必要がある。
子を信じるものは永遠の生命を得る、しかし子を信じないものは生命を見ない、神の怒りがその上に止まっている。
ヨハネ伝3.36
17 神はこれらを天の空に置いて地を照らさせ、
18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
昼は善を、夜は悪を意味する。
「人は光よりも闇を愛した。真理を行うものは光に来る」
ヨハネ伝3.19、21
生命は善いものと真のものの中にのみ在って、生命は悪と誤ったものの中にはない。
まずは記憶知の信仰fides scientifica 3〜13 生きていないもの
次に理知的信仰 3〜13 生きていないもの
最後に愛の信仰、すなわち救いである心の内なる信仰 20〜25 生きたもの 光体
によって受ける。
愛 日を支配する大きな方の光体 太陽
信仰 夜を支配する小さい方の光体 月
この2つが1つのものになるため、単数で「光あれ」と神はいわれた。
理解と意志が一体になると天界に向かい、
理解と意志が矛盾すると地獄へ向かう。
「戒めの第一は心情と魂と心と力を尽くし主を愛することである。第二は隣人を自分のように愛することである」
マルコ伝12.29〜31
2つの結合
太陽によって月が生かされる時に、真の生命が構成される。
意志によって理解がある時に、真の心が構成される。
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霊界 |
信仰 |
理解 |
男 息子 |
光 |
月 |
教義的 |
知識 |
思考 |
天界 |
愛 |
意志 |
女 娘 |
熱 |
太陽 |
体験的 |
実践 |
行動 |
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凡ては主から |
知識 |
真理 |
増える |
草 |
聞く |
映像 |
光の子 |
聖言から学ぶ |
体験 |
善 |
生む |
果実、種 |
行う |
似た形 |
神の子 |
体験から学ぶ |
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理智 |
甦る |
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智慧 |
くみ建てる |
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結合させる賢者と分離させたままの愚者
たれでも私の言葉を聞いて、それを行う者は私は岩の上に家を建てた賢い者に譬えよう、
しかし私の言葉を聞いて、それを行わない者を砂の上に家を建てた愚か者に譬えよう。
マタイ7.24,26
形だけの人
外なる人は、凡てのモノが主のものであることを承認しないので、自分が持っているものを自分のものと認識し、それらを失うと自分も失うと考えてしまう。
愛の対象
人間は自己と世とを愛するのに比例して、隣人を憎み、それによって主を憎悪する。
真の愛とは主に対する愛である。
真の生命は主から発する愛の生命である。
真の喜びはその生命の喜びである。
19 夕となり、また朝となった。第四日である。
20 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天の空を飛べ」。
大きな光体が内なる人の中に点火され、外なる人がそこから光を受けた後、初めて人間は生き始める。
「1人、すなわち、神を除いてはたれ一人善くはない」
ルカ18.19
水が生み出す這うもの、魚 記憶知scientifica 理解 エゼキエル書47.8
鳥 合理的なものと理知的なもの エレミヤ記 4.25
地の生み出す生きたもの、獣 意志
人間に固有な物は生命を持たない。
「主」から発しているものは生命を持つ。
21 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。
2種類の獣
有害で悪い獣 クマ、狼、犬 人間の悪のこと
無害で善い獣 雌牛、羊 善・悪の情愛のこと 欲念と快楽 野生の動物
人間の原理の喩え
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鯨 |
果樹 |
地の獣 |
野生の動物 |
畑の動物 |
這うもの |
鳥 |
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理解 記憶知 |
生産の主体 |
意志 |
欲念、快楽 先天的 |
精神性 後天的 |
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合理性 |
22 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海たる水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
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知識 |
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増える |
柔かい草 |
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体験 |
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生む |
果実、種 |
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23 夕となり、また朝となった。第五日である。
24 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがって生みだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがって生みだせ」。そのようになった。
25 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。
まず信仰の知識を自分の中に播かれないかぎり、善いものは何一つ生み出すことができない。
再生の段階
1
2
3
4
5 理解をし、真と善を確認する状態 海の魚、天の鳥
6 理解と意志から、真と善を語り、行う状態 獣、生きたもの
しかし、欲念と誤謬に支配されているので、人間は絶えず争闘にたずさわっている
7 休息
26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
人間は少なくても2人の霊と2人の天使がいるが、それを人間は知っていない。
霊と天使を介して霊界と天界を通じて主に関わっていないと、人間は生きることができない。
人間は再生していないときには、悪霊が人間を支配しているので、天使は最悪に陥らないように導くことしかできない。
わかわれのかたち(映像)とは似た形ではなく、似た形に従って順応したものである。
霊的な人は映像であり、天的な人は、似た形に類似したものである。
霊的な人 映像 創世記第1章 光の子 ヨハネ伝12.35 友 ヨハネ伝15.14 魚、鳥、獣
天的な人 似た形 創世記第2章 神の子 ヨハネ伝1.12,13 獣、鳥、魚
27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
かたち(映像)が2回記されているのは、御自身の像と呼ばれる信仰に対し、後に現れるかたちは神の映像と呼ばれる。
内なる人は内なる物を喜び、外なる人は眼で眺めたに過ぎない。
人間は自分たちの結婚の幸福は天界の結婚から発していると認めた。
理解(信仰)が意志(愛)に結合する時に、人間は「結婚した地」と主から呼ばれる。
イザヤ書62.4
28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
主権(支配)は、外なる人から内なる人へ向かって出ている。
29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。
種をもつすべての草
各各の真理
種のある実を結ぶ木 信仰の善
草 主が霊的な人に与えるもの
果実 主が天的な人に与えるもの
その水は聖所から流れ出るからであり、その果は食物となり、その葉は薬となるだろう。
エゼキエル書47.12
聖所から流れ出る水は、主の生命と慈悲を意味している。
果実は智慧であり、葉は理智である。
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肉体 |
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欲念と誤謬に支配 |
悪なる人間 |
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霊への再生過程 |
野菜と青草 |
戦闘的 |
欲念と誤謬を持つ |
悪霊は逗まる |
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再生して天なるもの |
種ある草と果実 |
静謐 |
永遠の生命と善 |
主によって善へ |
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30 また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。
再生しつつある霊的な人間は、争闘を堪えなければならない。
人間が争闘の時は、主が働いている時である。
31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。
霊的な物と天的な物との間に結婚が行われる。
はなはだ良いのは、人間を主自身に似た形のものとして働かせたからである。
人間は、人間ではない状態から、徐々に人間のようなものになり、6日目には神の映像となる。
6日目には悪霊らはよい霊に代わり、天界の楽園に入る。
第1章と第2章の違い
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視点 |
主の呼び名 |
人間 |
地の呼称 |
善悪 |
争闘 |
死の過程 |
愛 |
生きる目的 |
1 |
天的人間 |
エホバ |
内なる人 |
土地と畑 |
善のみ |
静謐 |
復活 |
愛から行動 |
主 |
2 |
霊的人間 |
神 |
外なる人 |
地・大地 |
両方ある |
勝利 |
再生中 |
愛を認める |
永遠の生命 |
3 |
死者 |
神 |
身体のみ |
地 |
気づかない |
敗北 |
死 |
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死者の特徴
1 身体と外界に属したものだけを崇める
2 形と世間の生命が生きる目的 永遠の生命や主が何であるかを知らない 知っても信じない
3 争闘では常に敗北する。争闘しない時は悪と誤謬に支配される奴隷である。
束縛するのは恐怖。生命、富、利得、名声を失うこと。
聖言の4つの文体
1 シンボルで自分自身を表現し、それに生命を与えるために、歴史的に連続したものに作り、古のものを口から出させない。
サム前2.3
2 歴史的なもの
3 予言的文体
4 ダビデの詩篇 予言的文体と普通の文体との中間
第2章
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
安息日に言葉も話さないならば、あなたはエホバに歓ばれるものとなる。
イザヤ書58.14
天的な人は自分自身の願いに従って行動せず、願いである主の悦びをたまうことに従って行動する。
ユダヤ教では安息日の前日の夕方から安息日を聖く守る。
こうして霊的な人は朝には天的な人になるのは、神が人間のために戦い、創造し、形成したので、これを「神の業」という。
それまでの争闘を行ったのは人間自身ではなく主であるので、静謐の7日目の休まれているのは主自身である。
自分自身とは
人間自身のことで、自己と世間への愛着から、主や聖言を信じないで自己を信じる。
その根拠は感覚からの情報と科学(理性)であるので、これらに把握できないものの存在を考えることができない。
この考えを起点とすることで誤謬と悪を重ねる。
具体的には、善を悪に、悪を善に、真を誤謬に、誤謬を真として認識する。
4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、
「天と地とが造られた」とは、天的な人が形成されたことである。
5 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。
霊的段階の人間は「地」と呼ばれ、
天的段階の人間は「土地」すなわち「畑」と呼ばれる。 天的な種子が植え付けられると、地は土地になる。
ヘブライ語をチェックする。
6 しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。
内なる人(精神)から外なる人(形)に力が注がれると、潤わされる蒸気が雨と霧である。
この蒸気が畑の灌木と畑の草を生み出す。
欲念と誤謬から生じる不安の争闘が停止すると、平安な静謐が訪れ、これが生命である。
理解と意志、信仰と愛は、この平安の歓喜である生命から生まれる。
平安の契約を結び、・・・祝福の雨をふらせよう。
「エゼキエル書34.25〜31」
7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。
「土の塵」はまだヒトではない。
命の息spiraculumを吹き込むことで信仰(理解)と愛(意志)の生命を与えることになる。
「人は生きた者となった」とは外なるものがヒトになったことを意味する。
これまで外なる人は内なる人に仕えることをせずに絶えず争っていたので、人間ではなかった。原語は?
鼻孔の息 哀歌4.20
彼は息を吹きかけ、あなたたちは聖霊を受けなさい。 ヨハネ伝20.22
風はその好むところに吹く ヨハネ伝3.8
息により作られた 詩篇33.6
息を取ると、死んで塵に帰る 詩篇104.29
全能者の息がかれらに理解を与える ヨブ記32.8
全能者の息がわたしに生命を与えられた ヨブ記33.4
霊や生命を「風」や「息」に喩える、そのメカニズムとは?
霊や生命とは、この宇宙に遍くエネルギーのことである。
あらゆる時空の基礎となり、時空があるところに常に生まれ出る力である。
最小エネルギーで構成される回路に普遍エネルギーが風のようにインプットされると、回路は生命として力を得る。
8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
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庭園 |
エデン |
東 |
西 |
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理智 理解 感覚 科学 |
愛 意志 |
主 |
自己 |
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イスラエルの神の栄光が東から来た エゼキエル書43.24
霊なる人、すなわち外なる人では生命の秩序が理解、理性、記憶に流れ入り、
天なる人、すなわち内なる人では生命の秩序は愛に流れ入るので、
2つは反抗して戦うことになる。
しかし、先に内なる人に生命が流れるとその愛が、外なる人の理解に流れることで、争闘はなくなる。
エデンの園は人間が天的なものになった時に入ることができる主の王国である天界である。
人はこの地球上にいると同時に、天界に諸天使とともにいる。
各々の人の内には主の生命があり、それが人に認識を得させている。
9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。
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シンボル |
見て美しい |
木 |
食べるによい |
生命の木 |
善悪を知る木 |
庭園の真ん中 |
意味 |
真理 |
認識 |
善 |
愛 |
記憶知scientifica |
内なる人の意志 |
この文脈では木が認識を意味するのは、天的な人にとっての木だからである。
霊的な人にとっての木の意味は良心である。原語は? 良心とはパターン認識や信仰(盲信)のこと?
死んだ者にとっての木の意味は知識?である。
認識とは何か?
天使にとっては、主と自分の内から発せられる真と善の内的な感覚のこと。
人間の善と意志
人間は自分自身で善を行うことができない。
心と呼ばれる意志は、単にその人の欲心の回路があることによって発しているものである。
生命の木とは、すべての生命の源泉である主の慈悲が愛として発している。 原語は?
10 また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。
エデンから出る川は、エデンは愛、川は智慧を意味する
ヒトを潤すことができるのは、理解・智慧という「川」である。
庭園とはヒトを意味し、庭園を潤すとは、人間に理智を与えることである。
イザヤ書58.11
水は聖所から流れ出るためであり、その果は食物となり、その葉は薬となるであろう
エゼキエル書47.12
生命の水は神と子羊の王座から流れ出ていた。
ヨハネの黙示録22.1
11 その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、
ピソンは信仰の理智、金は愛と智慧の善を、ハビラは地は心を、めぐるは流れ入ることを意味する。
イシマエルの子孫は、アッシリアに向かってハビラからエジプトの前にあるシユルまでで暮らした。
創世記25.18
12 その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。
ブドラクは、愛から生まれた信仰の真理、しまめのうは愛の真理を意味する。
宝石は真理のシンボルであり、その真理は愛から発した信仰(理解)に関するものである。
これが天的な人である。
しかし理解されないのは愛から生まれた理解(信仰)と、そこから派生する智慧と理智を体感していないからである。
霊的な人(外なる人)は、記憶知の段階でしか理解することができないのに、その段階のものを智慧と理智だと理解(信仰)しているからである。
したがって天的な愛を体験していないのに、自分ではすでに体験していると早合点するのである。
13 第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。
ギホンは知識、クシは心の能力を意味する。
心は意志(愛、生命)と理解(信仰、善、真理、知識)とから成り立っているが、
ピソンは意志、ギホンは理解に関わる。
クシは地理的にはエチオピアを表す。
ゼバニヤ書3.10
エジプトはscientifica、エチオピアはcognitionを意味する。2つの違いは?
記憶知と認識
14 第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。第四の川はユフラテである。
ヒデケルは理性、アッスリヤは合理的な心、ユフラテは記憶知scientificaを意味する。
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川 |
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1 |
ピソン |
意志 |
イスエル |
理智 |
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2 |
ギホン |
知識 |
エチオピア |
認識能力 |
cognition |
3 |
ヒデケル |
理性 |
アッスリヤ |
合理的な心 |
理論 誤謬を生み出すもの |
4 |
ユフラテ |
記憶知scientifica |
エジプト |
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感覚的なもの |
ミカ書7.10〜12
東は主を表し、主から智慧が生まれ、智慧を通して理智が生まれ、理智を通して理性が生まれ、理性によって記憶の知識が生かされる。
15 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
エデンの園は天的な人を意味する。
16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
木とは認識を意味するので、
凡ての木の果実を食べるとは、善で真なるものを認識している、ということである。
天的な人は主と天使と語り合い、夢で教えられ、至福を体験した。
17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
人は主から発した認識によって知ることは許されているが、自己や世間から知ることは許されていない。
すなわち、感覚と記憶を使って秘儀を探求してはならない。
もし探求すれば、天的なものとつながるルートが破壊されるからである。
感覚と記憶を使って秘儀を探求する欲望は、子孫と教会の堕落の原因になる。
理由は不完全な秘儀から誤謬と生命の悪が発生するからである。
善悪の果実を食べると、自分の善悪の感覚を基準にしてしまい、
他からの知識や自分の記憶から教えられて、それらでは理解できない事柄は信じるに値しないと想って生きると、天的なモノを感覚するのはラクダが針の穴を通るように不可能である。
たとえば見えないものは信じない、という座右を持つものである。
理由は信じるものがなくなり、霊的なモノや生命の存在さえも信じなくなるからである。
こうして善悪の実を食べると、自分の判断を標準にすることから、生命そのものから離れてしまうことになる。
つまり、死に向かってしまうのである。
善悪の回路を作ることで、その誤った回路からアウトプットが決定されるので、回路に支配されてしまうことになる。
科学を学ぶことや、学者のように考えることは禁じられていないが、それは出発点は自分自身ではなく主であることが条件である。
理由は科学や学者の考え方を自分から始めるのは死にいたり、主から始めるのは生命だからである。
18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。
「独り」とは、主によって導かれることに満足せず、自己に導かれることを欲することを意味する。
「彼とともにいるような助け」とは、人間自身(人間の固有性)を意味する。
それは後にある「肋骨」と呼ばれる。
19 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。
獣は天的な情愛、鳥は霊的な情愛を意味する。
20 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。
名を与えるとは、対象の本質を理解し、起源と性質を知ったことを意味する。
イザヤ書45.3.4
助け手がみつからないとは、人は主のものであることは明らかであるのに、人はそれに敬意を払わない。
21 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。
深い眠りとは、人間が自分自身で生き、語り、行動していると考えない状態のことを意味する。
あばら骨とは人間自身の生命のないものを意味し、肉は人間自身の生命力のあるものを意味する。
主とは生命であり、主自身を贖うことで、死んでいる人間は生かされ、救われる。
起きているときには人間は自分だけの力で生きていると勘違いもできるし、主によって生かされていると自覚することができる。
眠りのときには人間は思考を止めるので、起きていたときのどちらかの認識をそのまま継続している。
人間自身は何事も考えることはできないので、思考や観念は主から流れ入ってくるものである。
主エホバはこの骨にかく言われる。見よ、わたしはあなたらの中に息(霊)を入れよう、あなたらは生きるであろう、わたしは筋を骨の上に作り、肉を骨の上につけさせ、皮膚で覆い、息を中におき、あなたらは生きるであろう。
あなたらはわたしがエホバであることを知るであろう。
エゼキエル書73.4〜6
22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
造る、すなわち組み立てるとは、堕落したものを引き上げることを意味する。
肋骨は、生かされていない人間自身を意味する。
女は、主により生かされた人間自身を意味する。
「人のところへ連れてこられた」とは、人間自身のものが、人間に与えられたことを意味する。
この人間自身は、肉体ととなった肋骨が心臓を抱くように囲む。
換言すると、人間が自分の本質を自覚できるようになったことを意味する?
人間自身とは自己愛と世間愛のことである。この妄想の愛が人間を欺くことになる。
女とは欺かれたものを意味する?
組み立てるとは悪から善へ
甦らす(再び起こす)とは誤謬から真理へを意味する。
イザヤ書61.4
凡ての悪と誤謬は人間自身のものから発する。
理由は全体から切り離された「部分」が悪だからである。
主によって生かさている人間は、主の天的なものが適用される生命に応じた変化を伴って、美しく可憐である。
自分自身のものが主によって生かされる時、それは主の花嫁と呼ばれ、天界の結婚となる。
これが肋骨が女になるという意味である。
この天界の結婚により、自分自身は愛の善と理解の真理を認識し、幸福に関わる智慧と理智を持つことになる。
「自分自身」とは全体性から切り離された部分を意味する。
23 そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
骨は生かされていない自分自身を、肉は生かされている自分自身を意味する。
骨の骨、肉の肉とは、内なる人の内に存在した外なる人の自分自身のものを意味する。
多少なりと血縁関係にあるものは、「骨の骨、肉の肉」と呼ばれる。
男は内なる人を、女は外なる人を意味したが、一体化することで、女は妻と呼ばれる。
天的な人とは、中にある内なる人が外なる人から明らかに区別されている。
天的な人は、内なる人を通じて外なる人を主が支配していることを認識している。
しかし、その子孫は、自分自身(外なる人の領域である「部分))を欲した結果、内なる人が外なる人から区別されることを認めなくなり、2つを混同して1つであると盲信した。
24 それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。
父と母を離れるとは、内なる人から後退することを意味する。
内なる人が外なる人を孕んだため、霊が具体化して肉体になったからである。
妻と結び合うとは、内なる人が外なる人の中にあることを意味する。
一体となるとは、内なる人と外なる人が共にあることを意味する。
以前は内なる人は霊であり、それにより内なる人を通じて外なる人も霊であったが、
以後は、2つとも肉となったことを意味する。
仁慈 原語は?とは 愛(意志)と信仰(理解)の中に主が存在する行動
天的な生命の秩序から真理と義原語は?の法則が流れ出る。
主のみが天的な人である。
換言すると、善悪は天的な生命を体感していないものには理解できないので判断できない。
一夫一妻と多夫多妻
一夫一妻 内なる人である場合
一夫多妻 子孫が内なる人(天界の幸福)ではなく、心が頑なになり、外なる人(快楽の幸福)となった時
モーセが許可する?
25 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。
裸で恥じないとは、無垢原語は?であることを意味する。
仁慈と無垢は自分自身である人間の悪や誤謬を恕すだけではなく、それらを破棄する。
高潔と無垢が去った時に自分の裸を恥じる。
小さな子どもたちが私のもとへ来るままにさせておきなさい。神の国はこのような者の国である。
マルコ10.14
死から甦り、永遠の生命に入る
死んで甦る過程で、感覚がなくなる状態になる。
その間、生命はあり、考える力を持ち、音を立てないで呼吸していた。
心臓にいる天使たちの他に、頭に2人の天使がいた。
天使がいると死臭も芳香になる。
心臓は天使たちと密接に結合しているのに気づいた。
死につつある者は永遠の生命について考えるので、救いや幸福について考えるのは稀である。
甦りつつある者は霊的な天使と交わる。
身体の内なる部分が冷却するやいなや、生命を持った原質は閉じ込められていても分離する。
甦った人は天使とともにいる。以前は考えただけであったが、甦った人は光を用いてなにものでも見る。
左眼を巻き上げるように鼻梁の方へ向けると天使たちの働きが見える。
淡青色の影のある小さな星が変化しながら現れる。
その生命は黄金の色合いを持つ白光は霊的だけではなく天的である。
最初は幸福に感じるのは、永遠の生命の世界に入ってきたと想うからである。
次に、馬に乗った青年が地獄の方へ馬の首を向けるが、馬が動くことができない。
後に青年は馬から降りて徒歩で歩き始める。
第3章
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蛇 |
女 |
男 |
知識の木の実を食べる |
男が食べた |
目を開けた |
エホバの声を聞く |
感覚的 |
自己愛 |
合理的 |
主の言葉を検討する |
合理的同意 |
残存する悪の認識 |
善が残存している |
1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
狡猾とあるが、鋭敏とも訳されている。原語は?
蛇とは人間が信頼している感覚を意味する。 蛇は地に密着して、感覚は最も身体に近接している。
蛇は感覚により把握できないものを信じようとはしないため、奈落的なものになってしまった。
畑の野生動物は、外なる人の情愛を意味する。
女は、人間自身を意味する。
蛇の毒とは理論を意味するのは、感覚によるデータで造られた表層的な因果関係が理論だからである。
現代の問題は、5感覚器官で感じることができないものを信じないだけではなく、感覚と科学と哲学を使って天界を判断していることである。
感覚の証明によってのみ信じる者は、霊を見ることができないので、霊を否定する。
「私は感じないから存在せず、見て触れるものは存在している」
科学知の者は、霊とはエネルギーであるとする。
哲学者は自身でも理解していない言葉を使って霊について話す。
物質的な言葉は霊には適用できない。
また、霊とは思考であると主張しても、思考から実体性を分離してしまえば、身体が息絶える時に思考は消え去ると結論する。
こうして、感覚、科学、哲学から論じると霊の存在を否定してしまう。
しかし、心が単純な者は、主は死後も生きると語られたから、霊が存在することを知っていると言って、主の聖言によって合理的な霊を生かす。
蛇とは用意周到であることも意味する。
蛇のように慎重であって、鳩のように単純でありなさい。
マタイ10.16
2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
庭園の木とは善と真理を認識することを意味する。
実とは、源泉から発した善と真理を意味する。
食べても良い庭園の木の実とは、善と真理、そしてそれらに関わる知識を意味する。
食べてはならない真ん中の木の実とは、自分自身から学んではいけない善と真理を意味する。
3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
庭園の中央とは、最も内なるものを意味している。
触ってはいけないとは、自分自身、すなわち感覚と科学知から善と真理を考えることを禁じることを意味する。
すなわち、触るとは、知識を感覚と科学知から学ぶことで、天から霊、霊から物へと沈むことを意味する。
死なないためであるとは、理解・知恵・理智が虚しくなるためであることを意味する。
ここでは知識の木とあるが、2,9では生命の木がそこにある、と記述されている。
「善から真理を知り、すなわち、愛から信仰を知った」前世代が「真理から善を知り、信仰から愛を知った」次世代に変わったからである。
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意志 |
愛 |
善 |
認識 |
行動 |
実践 |
天使 |
智性 |
全体性 |
意識 |
深層意識 |
ありのまま |
今 |
融解 |
理解 |
信仰 |
真 |
真理 |
思考 |
知識 |
霊体 |
理性 |
部分 |
感覚 |
科学 |
理智 |
記憶・計画 |
良心 |
それは世が破滅しないように洪水後に行われた変化である。
洪水前は人間も生命の木を中心にしたが、洪水後は人間だけは知識の木を中心にした。
しかし、天使たちの中心は以前からの生命の木のままである。
対して、霊たちの中心は知識の木である。
その霊たちの信仰(知識・真理・理解)は天使たちにとっては聞くに堪えることはできないものである。
天使たちは主から善と真を愛を通して認識するので、合理性や理屈ではなく、すぐに、そしてすでに知っている。
ただそうである、ただそうではない、とのみ言いなさい。そうでないものは凡て悪から来ている。
マタイ伝5.37
これが、知識の木の果実に触れることを許さなかった理由である。
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
「目が開け、神のように善悪を知る者となる」とは、人間が自分自身の感覚と知識から真理を知り、それから善悪の判断をするようになることを意味する。
へびは神のように善悪を知る者といったが、実際には神ではなく人間としての善悪である。
このような誤謬をするのは、
自己愛が優勢になった結果、人間は自分自身を導いて、主のようになることができると考え始めた。
なぜなら自己を求める愛は主の導きに従うことを欲せず、自分自身から導かれることを好み、感覚と記憶知に原因を求める性質になったからである。
人間は自分の目は開いており、人間は神のように何が善と悪を知る、と考える者が最も盲目である。
永遠の生命や霊のことさえ知ることはない。
自分自身と自然とその原理のみを信じているからである。
主や良心は想像の産物である幻想であり、無知な者を支配するのに役立つものだと考える。
これが蛇の正体である。
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
食べるに良く、とは欲情を意味する。
目には美しく、とは幻想を意味する。
賢くなるには好ましい、とは快楽を意味する。
彼も食べた、とは合理的に同意したことを意味する。
最古代教会の子孫
1番目 天的な人間 洪水前 善から真理を得る
2番目 霊的な人間 洪水後 真理から善を得る 意志よりも理解を優先させる
3番目 感覚と科学を基準にする人間 無垢を保持する
4番目 自己愛にたぶらかされる人間 善悪の木の実を食べる 恥辱を感じる
現代 恥辱感も失ってしまった人間
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人間 |
基準 |
恥辱 |
|
善 |
洪水 |
裸 |
1 |
天的 |
全体性 |
ない |
善から真理を得る |
天的 |
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|
2 |
霊的 |
心 |
ない |
真理から善を得る |
霊的 |
|
|
3 |
感覚的 |
感覚信号 |
ない |
感覚と科学を基準にする |
自然的 |
|
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4 |
自己愛的 |
自己愛 |
感じる |
善悪の木の実を食べる |
自己的 |
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隠す |
5 |
現代 |
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失う |
自然的善も失なう。 |
求めない |
|
隠さない |
天的な人は、視覚を手段として外なるものをみるが、そのシンボライズされているものの元である天界を同時に見ている。
天的な人は、身体の感覚的なものは内なる人に従う性質があったので、それ以上に感覚的なものを顧慮しなかった。
しかし、感覚的な人は視覚を使って見たものを基準にすることで心は対象に愛着を持ち、次に天界を考えた。
そして自己愛的な人は感覚を内なる人よりも優先させ、感覚的イメージは分離して形となり、それを基準として生きることで罪に定められた。
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
目が開くとは、内的な指示により、以前の無垢ではなく、悪の中にいること承認したことを意味する。
無垢のない所では、裸は悪を考える意識を伴っているので、裸は不名誉であり、恥辱である。
真理と善について裸であり、理智と意志を持っていない。
眼は認識、理解、解釈を意味する。
エホバはあなたたちに知る心を、見る目を、聞く耳を与えられなかった。
申24.4
この心は意思を、目は理解を意味する。
誤謬の原因は知識
いかなる時も霊自身から語ったことは凡て悪い誤謬である。
これまで真理として確信して疑惑の対象にすることがない事柄であっても、直ちに誤りであることを知るようになる。
同様に、人間自身から語られることは凡てが悪い誤謬である。
したがって、天なる生命についての考えを論じ始めたならば、その論議は誤謬である。
なぜならば思考や感覚器官を基準にした解釈は、他の思考や解釈を否定することになるからである。
わざわいなるかな自分の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ
イザヤ書5.21
おまえの知恵とおまえの知識とはおまえを迷わせた。・・・おまえの知らない荒廃(剥奪)が不意におまえに来るだろう。
イザヤ書47.10,11
凡ての人は知識により愚鈍となり、凡ての鋳物師はその彫んだ像のために狼狽する、その鋳た像は虚偽であって、その中には息がない
エレミヤ書51.17
いちじくの葉をつづり合わせて、とは自分自身に言い訳をする意味する。
いちじくは自然的な善を、つづりあわせるとは恥辱を感じることを意味する。
自然的な善の中にいるメリットは悪が隠されていることだが、デメリットは恥辱を感じることである。
聖書ではブドウは霊的な善、イチジクは自然的な善を意味する。
イエスは途中で一本のイチジクの木を見たが葉しかみられなかった。
これからは果がならぬようにとイエスが言うとイチジクの木は枯れてしまった。
マタイ伝21.9
イスラエルが荒野のブドウのようになっているのを見た。あなたの父祖がイチジクの初生の実のようであるのを見た。
ホゼヤ書9.10
8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
園の中とは、自然的な善を意味する。
主の顔とは慈悲、平安、あらゆる善を意味し、身を隠した、とは恐れることを意味する。
木とは、認識を意味するが、認識が殆ど残っていなかったので、木は単数で記述されている。
日とは、認識していること、風とは、普遍エネルギーである天を意味するので、日の風とは、天を認識していることを意味する。
夜とは、認識していないこと、すなわち理解できず、信仰(思考できない)がない状態を意味する。
認識により自分の堕落を知ることができる。
わたしを使わされた者の業をわたしは日のうちになさなくてはならない。夜が来ると誰も働くことができない
ヨハネ伝9.4
人間が苦しむ折にはつねにエホバも苦しまれ、その御顔の天使が人間を救った。
イザヤ書63.8
教会とは再生の過程を歩む信者の心の状態を意味する。
9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
呼びかける理由は人間が認識して告白するためである。
認識と内なる指示と良心の起源
悪霊が支配し始めると天使たちは悪と誤謬とを人間から外そうと努力することで、争闘が生まれる。
天使と霊の努力が内なる指示と良心であり、争闘は試練になる。
この争闘を詳細に見つめ、その因果関係、TPOを知ることで、天使たちと語り合うことができる。
天使たちは人間の考えを完全に認識している。
人間の考えとは霊界の一部であるからである。
蛇に欺かれたのは、人間が合理性に愛着して、その合理性を基準にすることにより自らが欺かれたことを意味する。
この合理性の対する愛着も自己愛の一部である。
神は蛇ではなく人間に呼びかけたのは、人間が自身の感覚によって欺かれただけではなく、人間が自己愛に基準をおいていたからである。
人間の悪は自分自身と自分の感覚を信じ(基準にし)て、主を信じ(基準にし)ないことである。
したがって、主を基準にしないところには隣人の愛も存在しないので、凡ては誤った悪である。
現代の人間がさらに悪いのは、人間の感覚が基準にならないことを科学と論理性によって確認しているのに、変わらず自己愛と感覚を基準にしていることで大きな暗闇にいることである。
感覚と科学が扱う領域は天的そして霊的領域と比べると粗雑であるので、自然のより微細な因果関係を発見するどころか、気づくこともできない。さらに粗雑な領域で因果関係を結んでしまうので、過剰一般化や誤謬に陥ってしまう。
悪霊と天使と主 人間は悪くない?
人間が悪を行っているのではなく、悪霊とも呼ばれるもの、すなわち各自が過去に作成した自動反応回路が悪や誤謬を行うのである。
その間違ったアウトプットによって人間は主から遠ざかるのであるが、人間は主ともいわれる普遍エネルギーによって構成されているのである。
同様に、人間が善を行っているのではなく、天使とも呼ばれる自動反応回路からの離脱によって善を行うのである。
主に向く、すなわち善を行うことは自分自身では出来ないので、主のみが善を行う力がある。
これを認識することで、人間は自分自身から行動者として善を行い、自分自身を主に向けることができるのである。
これらのことは知覚、科学知、哲学によっては理解できないので、対象として扱われないので、これらのことが真理であったとしても科学や哲学の領域では否定される。
10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
裸は、高潔と無垢が去ったために理智と意志を持っていない状態を意味する。
裸で恥じないとは、無垢であることを意味する。
動物は裸を恥じることはない。
高潔と無垢が去った時に自分の裸を恥じるようになる。
無垢のない所では、裸は悪を考える意識を伴っているので、裸は不名誉であり、恥辱である。
裸をインプットとしてある行動をアウトプットするアプリをつくったことで、そのアウトプットを恥じることになる。
真理と善について裸であり、理智と意志を持っていない。
隠すとは、主の慈悲、平安、あらゆる善を恐れることを意味する。
自然的な善の中にいるメリットは悪が隠されていることだが、デメリットは恥辱を感じることである。
11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
裸であることを恥辱と感じるようになったのはなぜなのか?
遍くものが繋がっているという基準から、感覚信号を基準に判断するというレベルに変わっていることを認識させようとしている。
12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。
木から取ってくれたので、とは
人間が合理性に愛着して、その合理性を基準にすることにより自らが欺かれたことを意味する。
この合理性の対する愛着も自己愛の一部である。
自分の言動を合理化する時に、自分が優先すべき主(全体性、根源性)との交流をしないで、世間の刺激を優先させていることに気づいていないので、自分のしている責任転嫁にも気づいていない。
13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
蛇がだましたとは、人間自身の感覚により欺かれたことを認めることを意味する。
「それで食べました」とは、自身で完結する部分的な合理化による責任転嫁を意味する。
神との接触を怠り、物質エネルギーのレベルでの因果関係に判断を委ねたためである。
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領域 |
エネルギー |
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悪 |
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体 |
合理化 |
欲界 |
物質 |
科学知 |
自己愛 |
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霊 |
理知 |
色界 |
意識 |
理性 |
知識から主へ |
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天 |
神 全体知 |
無色界 |
普遍 |
全体知 |
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家族や氏族の中で暮らすことを大事にしていたので、現代人のような多くの世俗愛や金の蓄積欲はなかった。
14節 感覚的な部分が天的なものからそれ自身を離反させた。
15節 それを再び結合させようと主は世に来られるであろう。
16節 外なる人がそれ自らを離反させた結果、争闘が起こった。
17節 そこから悲惨が起こり
18節 罪に定められてことが起こり
19節 ついに地獄に至る
14 主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
「主なる神はへびに言われた」とは、人間が感覚を基準にすることが堕落の原因であることを人間が認めたことを意味する。
塵とは、霊的や天的なものをみずに、形体的なもののみを見る者を意味している。
塵は蛇のパンとなる
イザヤ書65.25
足の塵を払い落とさなくてはならない
マタイ10,14
呪いの神は全体性を学ばさせるための方便
神エホバは誰にも呪うことはない。怒ることもない。試練を与えない。罰しない。
これらのことは奈落のグループによって行われる。すなわち感覚により把握できないものを信じようとはしない自分自身で作った自動反応回路である。
慈悲、平安、善良が源泉にあるときには、自動反応回路は作成されない。
宇宙に遍くエネルギーによって万物は構成され、流動している。
人間が善悪もこのエネルギーによって存在するという全体性を理解させるために、神エホバが呪う記述が聖書にはある。
これも後に神エホバ自身が悪を善に変えることにより、凡ての根源であるエネルギーであることを学ぶためである。
15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
この節は主が世に降臨することを予言している最初のものである。
蛇は、悪の凡て、とくに自己愛を意味する。
女は、再生プロセスの人間、自己愛によるアイデンティティ(自分自身の固有性)、すなわち教会を意味する。
すえは、裔(子孫)、種、精を生み出し、生み出さたものを意味する。具体的には理解(信仰)を意味する。
蛇のすえは、凡ての不真実を意味する
女のすえは、主に対する理解(信仰)を意味する。
かれは、主自身を意味するとあるが、宇宙法則を意味すると私は想う。主とは欲界の意識体であると判断するからである。
蛇の頭は、悪の支配、とくに自己愛の支配を意味する。地上の凡てを治める主権を求めるほどである。
かかとは、蛇の損なう最低の自然的なもの(形体的なもの)を意味する。 ヤコブはかかとに由来する。
人間の天的、霊的なものを頭、そこから生まれる仁慈を胸、自然的なものを足、形体をかかとと解釈する。
蛇の頭はルシファとも呼ばれる。
ああルシファよ、おまえは天に登り、神の星の上に自分の王座をあげ、・・・至高者に等しいものともされよう、と心の中で言った。
イザヤ書14.12
蛇に象徴される自己愛そしてそこに属する感覚、科学、哲学によって、形体そのものをも破壊し続けている。
蛇と救い
蛇は感覚により把握できないものを信じようとはしないため、奈落的なものになってしまった。
それゆえに、主はこの世に来ることを約束された。
16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。
「子を孕んで産む」とは、子は真理、孕むとは思考を意味するので、真理を探求することになる。
子は真理の理解(信仰)を意味するので、種から生まれる息子とは、全体性とつながる善の意志と全体性の理解という真理である。
「産みの苦しみを大いに増す」とは、真理を考え、それを生み出すことを意味する。
胎内の妊娠は栄光である。
ホゼヤ書9.11
治めなくてならないものとは、レプリカされて合理性となった本体の理智である。
女とは、自己愛によって真理を理解することができない再生プロセスの人間を意味する。
夫は合理性を意味している。
知識の木の実を食べたことで、智慧と理智が破壊されてしまったので、他のものが残らなくなった。
夫は女を治める、とは、結婚の法則のことで、女は男のように理性から行動するよりは、女自身の願望から行動するために、男の深慮に服従することを求めている。
17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
「妻の言葉を聞く」とは、男すなわち合理的な同意を意味する。
これによって自身を神から離反させ、自身を呪うことになる。
苦しんで食物を取る、とは理智はもう消え去り、推理のみが残ったことを意味する。
苦しむとは、悪霊と闘うために天使たちが労苦することを意味する。
「食物を取る」とは、内意で生きることを意味する。
悪霊が主権を獲得し始めると更に悲惨になのは、内なる人には僅かなものしかなく、悪霊が外なる人を支配して、不安がうまれてくるからである。
死んだ人間が悲惨と不安を殆ど感じないのは、自分自身を他者よりも優れており、真の人間だと自負しているが、実際はもはや人間ではなく獣だからである。
霊的、天的、永遠の命について獣と同じように知らない。
外なる世界を見て、自分自身のもののみを好み、それを合理化することで、自分の性向と感覚を溺愛するからである。
死んだ者であるので、生前は霊的な争闘を受けることはなく苦悩は免じられるが、死後は試練の時に、その生命は重圧の下に沈み、自らの呪いにより地獄に突き落とされ、最も痛ましい苦悩に苛まされる。
この苦悩は土地が呪われることにより、大いに悲しみながら食べることを意味する。
「あなたは一生」とは、教会の日の終わり、すなわち洪水を意味する。
あなたは個人ではなく、教会の状態を意味する。
内なる人と外なる人と肉体
善と真理の種は、情愛と記憶である外なる人に植え付けられる。
諸々の善と真理は、人間独自のものがなにもない内なる人にはじめから在る。
その内なる人の中に魂・霊すなわち意識パターンが蓄積され、それらが外なる人(感情や感覚パターン)や形体に顕れる。
このことが表層意識で認識されないのは、試練や不幸や病気や臨死などの外なる人が機能しない時にしか内なる人が現れないからである。
合理性も外なる人の一部であり、内なる人との媒介ではあるが、基準が物質エネルギーの粗雑なレベルなので、より微細な意識エネルギーのレベルの因果関係から見ると、条件を吟味しない過剰一般化によって起こる誤謬やが多い。
合理性が内なる人のレベル、すなわち意識エネルギーの因果関係である理知を使って、外なる人の合理性、形体なる人の科学性に働きかけるからである。
18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
原語は? 野なのか畑なのか? הַשָּׂדֶֽה׃ haś-śā-ḏeh. of the
field
いばらとは呪い、アザミとは荒廃を意味する。
畑の草を食べる、とは野生の動物のごとく生きなくてならないという意味である。
人間は内なる人が外なる人から分離した場合は野生動物のように生きる。
理由は内なる人を通して主と交流することで人間となるからである。
外なる人だけでは野生動物と同じ性質、欲望、幻想、知覚を持つ生物になる。
外なる人でも思考や推理ができるのは、霊的な原質によるものである。
その霊的原質は神からの流出ではあるが、それは歪められているので悪の生命となる。
意識は外なる人に属するのか?霊的なものは外なる人に属するのか?それとも内なる人に属するのか?
19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。
人間が理解と意志に対して反感をもったので、人間は人間であることから人間でないものになった。
すなわち、再生以前の状態である外なる人に再び陥ることを意味する。
顔に汗してパンを食べ、とは天的なものに反感を持つことを意味する。労働をしてパンを得るという解釈は表面的なものである。
パンとは、霊的や天的なものを意味する。
これは天からくだるパンである。このパンを食う者は永遠に生きるであろう。
ヨハネ伝6.58
それをくだらないパンと呼んだため、火の蛇がかれらの間に送られた
民数記21.5
土とは、外なる人を意味する。
ちりに帰る、とは罪が定められ、奈落的なものになることを意味している。
再生以前の状態である外なる人に帰ることを意味している。
20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
第1 再生を完了させた人
人とは、天的な人(最古代教会の人)を意味する
妻とは、生きたもの凡ての母(第1の教会)を意味する。 広義では天界と地界における主の王国を意味する。
母とは、第1の教会を意味する
生きたものとは、生命そのものである主に対する信仰を持つ結果を意味する。
エバとは、生命を意味する
主のみが人間である。
主の形に似ている天的な人が人間と呼ばれる。
主のみが生きた方(生きたエホバ)と呼ばれる。
エレミヤ5.2 12.16 16.14、15 23.7 エゼ5.11
永遠に生きる者 ダニエル4.34 黙示録4.10 5.14 10.6
生命の泉 詩篇36.9
生きる水の泉 エレミヤ7.13
21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
第2子孫 天的善、3子孫霊的善
「皮の着物を造って、着せられた」とは、主が人間に霊的そして自然的善を教えられたことを意味する。
皮は羊であり、仁慈を意味する。
主は羊飼いと呼ばれ、仁慈を与えられている者は主の羊と呼ばれている。
人間が無垢を失った時、自分らが悪の中にいることを意識し、悪の中にいないようにするために裸にならないように皮を着せられた。
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善 |
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着物と衣服 |
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最も内なるもの |
天的 |
智慧 |
無垢 |
裸 |
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外なるもの |
霊的 |
理智 |
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着物 皮 |
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更に外なるもの |
自然的 |
自然法則 |
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着物 |
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更に外なるもの |
人工的 |
合理性 |
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衣服 |
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22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
第4子孫 自然的善の消滅が始まる
主なる神は単数、われわれは複数なのは、われわれとは天使を含む天界を意味している。
善悪を知るとは、人間に木の実を食べたことで霊的要素が流入したため、理智的なものを基準にするようになってしまったため、本来の善悪の判断ができないのに、誤謬のある善悪の判断を勝手にするようになったこと。
人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」とは、人間が天使や霊レベルの善悪を知るのであって、主レベルの善のみではなく、理智的なレベルの善悪までは知ることができるようになったことを意味する。
しかし人間には悪霊(デーモン)、すなわち思考パターンに操作されているので、それらを除かないかぎり理知的善悪は誤謬に晒される。
「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」とは人間に諸々の秘儀を教えてはならないことを意味する。
命(複数形)とは愛と理解を、食べるとは知ることを意味する。
「永遠に生きる」とは、教えてはならない理由は未来永劫に救われることができないからである。
身体と共に永遠に生きるのではなく、死後に地獄で永遠に生きるのである。
人間は善悪の実を食べて、転倒した秩序の生命となり、自分自身を基準にして賢明になることを望むことで、主を基準にすることをしなくなることで、理解した知識がそうであるかないかという議論をする。
しかしそれは自分の感覚と記憶知(科学、原理、法則)を基準にするため、必然的に「いのち」の否定に陥り、神の冒涜に陥ることになる。
こうして人間は汚れたものと聖いものと混合することにためらいはしなくなる。
このようにその者がなると救いの望みがなくなるほど罪に定められる。
冒涜により混入したものによって、聖いものは必ず汚れたものと混同されて、呪われた者(地獄)の社会にしかいることができなくなる。
思考パターンは霊の世界では認識されるので、1つの回路からその人物の性格が知られる。
汚れた思考パターンと聖なる思考パターンが連結されていると、分離するには地獄の拷問によらなくては不可能である。
ユダヤ人には人間の死後にも生きること、そして主が救いのために世に来られることも告げられていなかった。
現在まで続いているユダヤ人の無知と愚鈍は、内なる人を知らないことである。
もしこれをユダヤ人が知ると、これまで神を冒涜していたことを知り、来世では救いの希望もなくなる。
かれは彼らの眼をめくらにし、その心を閉じられた、彼らが目で見て、心で理解し、回心して、わたしが彼らをいやすことのないためである。
ヨハネ伝12.40
主がかれらが見るが見ない、聞くが聞かない、また理解しないために
マタイ13.13
譬えでは話すが、その意味を説明しなかったのは希望がなくなるからである。
秘儀は教会の表象的な物の下に隠された。
知ることと承認することは別物である。
知ってはいるが、承認しない者は知らない者である。
しかし、主のこれらの言葉により意味されている者は承認はするが、後になって汚し、冒涜する者である。
2つのアルカナ(秘儀)
1 神エホバは主と同時に天界を意味する。
2 人間に秘儀を教えるならば永遠に滅びることである。
神とエホバ
主には多くの名前がある。エホバ、神、イスラエルの神など。
また複数で呼ぶこともある。
第1章では神、第2章では神エホバと呼ばれている。
神とよばれるのは、凡てのことを行うことができるためであり、その力からそう呼ばれた。天使たちの務めがあるときは複数形。
エホバと呼ばれるのは、彼のみが存在し、また生きているからであり、その本質あらからそう呼ばれた。
この区別に触れているのが
イザヤ49.4,5 55.7 詩篇18.2 28 29 31.14
人間と語り、力を持っていると考えられたもの、すなわち天使や霊はすべて神と呼ばれた。
神は神の集会の中に立たれた、神は神々の最中に審判を行われるであろう
詩篇82.1
神々の息子たちの中で誰がエホバに似たものとされよう
詩篇89.6
神々の神にあなたらは告白しなさい、諸々の主の主にあなたらは告白しなさい。
詩篇136.2,3
神々
ヨハネ10.34,35
モーセも「パロに神」と呼ばれている。
出エジプト7.1
ヘブル語の神は複数形のエロヒームである。
天使たちは告白しているように天使自身では力を持っておらず、ただ主のみが持っているため、ただ1人の神しか存在しない。
神エホバとは、主のみであることが意味される。
23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
第5子孫 凡ての善と真理が奪われ、再生以前の状態に陥っている
「エデンの園から追放される」とは、理智と智慧をすべて奪われたことを意味する。
天的な善から分離されたことを意味する。
「人が造られたその土を耕させられた」とは、再生以前の状態であった形体的なものになることを意味する。
24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
第6子孫 善に関する記憶知が奪われている 第7子孫 自身の汚れた愛(愛着)と信念(誤謬)を基準にする
「人を追い出し」とは、善の意志と真理の理解を凡て剥奪し、人間ではなくなることを意味する。
エデンの園に向かった東とは、理智を発してくる天的なものを意味する。
「東にケルビムを住まわせる」とは、人間が真理の理解に入り込まない主の配慮(摂理)を意味する。
「自らをまわす剣の炎」とは狂った欲望と確信的な自己愛の肯定を意味する。
ケルビムとは、人間が狂って人間自身から、すなわち感覚と記憶知からの認識を使って秘儀に参入したことにより、人間が神の世界を冒涜して人間が自分で自分を破壊しないように主がそなえたものである。
ユダヤ人は秘儀について明らかな知識を持ったならば、神を冒涜し、ユダヤ人は永遠に滅びてしまう。
ケルビムは天にのみ属する生命の木や神殿の箱を守ることを意味する。
主はケルビムの間からモーセとアロンに話された。
出エジプト25.22 民数記7.89
回る炎のつるぎとは、秘儀に入ろうとする欲念を伴った自己愛を意味する。
剣は、良い真のものを一切見ないで、単に誤謬をみる人間の荒廃を意味する。
わたしは彼らの門の凡てにその剣の恐れをおいた、稲妻のようにされた。
エゼキエル書21.15
洪水以後から現在に至るまで人間は天的な種をもたず、霊的な種のみを持ち、愛がないので善の意志もないが、真理の理解は可能性がある。
それは真理に関わる善の知識を基準にした良心を主から徐々に注ぎ込まれることによって行われる。
洪水後の人は洪水以前の人とは全く異なっている。
つまり現在の人間は天的な人、霊的な人、そこから生まれてくる人間の心と生命の特質、死後の状態が何であるかを知らない。
人とは最古代教会であり、アダムとは、主による再生により、人間ではない「地」から人間になったことを意味する。
最古代教会とは主により再生した人々のことを指すのか?
進化と堕落
野生動物
霊的な人
天的な人 最古代教会の人
第4子孫 堕落の始まり 自然的善の消滅が始まる
第5子孫 凡ての善と真理が奪われ、再生以前の状態に陥っている
第6子孫 善に関する記憶知が奪われている
第7子孫 自身の汚れた愛(愛着)と信念(誤謬)を基準にする
死後に永遠の生命の生活にはいることについて
人間は死んだ後でも、生前の生活に一致した者らと交わり、生活を共に送る。
しかし、その後は時間の長短はあるが、地獄へ連れ去られていく。
対して、主に対して信仰のある者は、新しい生活のはじめから天界へ一歩一歩導かれる。
死者の霊は何一つ所持していないので途方に暮れるが、各自の思考は各自に委ねられている。
そして各自の思考は他者から認識される。
天的な霊たちと交わり、大きな親切を受けるが、それらに報いることを考え始めると、仁慈の中にいることが明らかになり、すぐに天界に向かうことになる。