アブラハム教の死後の世界観

 

 

 

死後の世界

旧約聖書

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

創世記27

 

その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼の諸々の計画は滅びる。

詩篇1464

 

しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。

水が湖から消え、/川がかれて、かわくように、

人は伏して寝、また起きず、/天のつきるまで、目ざめず、/その眠りからさまされない。

ヨブ記14:1012

 

 

新約聖書

ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。

なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。

この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

死のとげは罪である。罪の力は律法である

しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

1コリント15:5158

 

善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ヨハネ福音書529

 

 

 

ユダヤ教

信仰の土台となっている旧約聖書には、霊界の記述はほとんどない。

イエスの死後、新興勢力のキリスト教と交わっていくことにより、救世主が降臨した後、すべての死者が墓から蘇り、神が各人の功績に応じて審判し、「正しき者には祝福する天国の永遠の生命を与え、その他の者には地獄の刑罰を与える」という思想が芽生えた、と考える学者もいる。

ただし、救世主が降臨するまでの期間、墓にいる死者がどんな世界にいるのかということは、明確になっていない。

 

 

 

キリスト教

新約聖書には、イエス・キリストの言葉として、

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ 7:21)、

「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(マタイ 5:29

と、天国と地獄が存在することを明言している。

これに加えてカトリック教会では、犯した罪が大きくない者が行く霊界として、天国と地獄の中間である「煉獄(れんごく)」というものを認めている。煉獄の苦しみは永遠ではなく、浄められ後には天国に行くとする。

さらに近代になると、一部の自由主義的なプロテスタントは、地獄にも煉獄と似たような性質(責苦が永遠ではないという性質)がある、また洗礼を受けずに死んだ幼児は「リンボ」(辺獄)と呼ばれる地獄のはずれで暮らすという解釈をすることもある。

1テサロニケ4:1618の「よみがえり」は私審判or公審判?

末日聖徒教会(モルモン教)では死者のために洗礼を実施していた 1コリント1529

 

 

キリスト教の死後

死は終わりを意味していないので、悲しいことではない。

人は死ぬと神による裁きをうけてどこへ行くか決まる。

裁きは私審判と公審判がある。公審判とは最後の審判のこと。

裁きでは生前の行いが問われる。

 

カトリックでは、人には自由意志があるから善行をすれば天国に、悪いことをすれば地獄に落ちると考えた。

 

ジャン・カルヴァンの預定説では生まれた時点で天国に行けるかどうかは決まっているが、この説はマイナー。

「救われる予定の人は勤勉に働いているはず。自分は救われるはずだから一生懸命に働こう」

 

私審判で行く場所は、天国、地獄、煉獄、辺獄の4箇所。

天国      永遠の命   聖書には詳細な記述はない

地獄      火の湖で昼夜問わず苦しみ続ける

煉獄      天国でも地獄でもない人が行く場所

父祖の辺獄   キリスト誕生以前の場所   イエスが死んでから復活するまでいたところ 1ペトロ3:18

幼児の辺獄   洗礼を受ける前に死んだ子供の行くところ

 

最後の審判  この世界の終わりにイエス・キリストが復活し、すべての人が復活する。この時に改めて人々は裁きを受けて、天国へ行く人と地獄に行く人とに分かれる。この地獄は私審判の地獄とは異なるという説がある。

 

天の住人が生きている人を見守ることができるのか?死者と生者との交流はあるのか?

 

「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている・・・」ヘブル人への手紙121

この証人たちを、天国の住人と解釈し、死者は私たちを見ることができると考える者たちがいる。

しかし、これはユダヤ教からキリスト教に改宗した後にユダヤ教に戻ろうとする信者に対しての手紙であり、11章では信仰の先輩たちを列挙した後の12章なので、この文脈の証人たちとは11章の信仰の先輩たちを指すのであって、こちらが彼らを模範として生きていくことを説いているのであって、天国の住人がこちらを見守っているのではない、と思われる。

天の住人が生きている人を見守ることができるのか?死者と生者との交流はあるのか?

について聖書には記述がない。

 

「・・・1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にある」ルカ福音書157             

天とはなにか?

神と天使と死後に天国に行った人たちがいる場所なので、彼らが私たちを見ることができるかどうかはわからないが、救われた人の情報は伝えてくれるのではないかと推測することはできる。

 

ある金持ちがハデスに落とされ、アブラハムに向かって願いを祈る。

「・・・彼らまでこんな狂うし居場所に来ることがないように彼らに警告してください」ルカ福音書1628           

先に天国に行った人たちにできる最大の善行は、大事にしている人を天国に行くことができるように伝道すること。

 

ギリシャ語のハデスとはヘブライ語のシェオルのことで、日本では「よみ」と訳されている。

ハデスは2層で構成され、上が慰めの場所で別名はアブラハムの懐やパラダイスと呼ばれ、、下が苦しみの場所は地獄と呼んでいる。

 

 

しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。わたしは再び彼をかえらせることができますか。わたしは彼の所に行くでしょうが、彼はわたしの所に帰ってこないでしょう」。

2サムエル記1223

 

わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。

ピリピ人123

 

 

 

復活と蘇生の違い

蘇生しても後に死を迎えるが、復活とは死後に永遠に死なない体が与えられること。

 

しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

1コリント15:20

 

復活は携挙rapture(よみがえり)の時にある

携挙とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において、神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

テサロニケの信徒への手紙一 4:16-1

 

 

「よみ」に下った魂

また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。

ダニエル122

祝福された復活は永遠のいのち

祝福されていない復活は「恥辱と永遠の嫌悪」

 

海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。

黙示録2013

復活はするが裁きのためであり、その後には火の池に入れられる。

 

派閥の由来  どこに意識を囚われてしまうのか?

サドカイ派 霊魂不滅や肉体の復活はない  モーセ五書  エリート この世は天国で死後に期待必要なし

パリサイ派 霊魂不滅と肉体の復活はある  預言書    庶民  律法を遵守してあの世の救済を求める   

エッセネ派 霊魂不滅と肉体の復活はある  砂漠で暮らす     堕落した祭司の神殿の実践を否定 

「ユダヤ古代誌」ヨセフス

 

死後の霊魂の行方

キリスト教 

カトリック二審制

プロテスタント 一審制   

個人の解釈   信仰があれば現世が天国 ルカ2343節「今日私と一緒に天国にいる」

 

ユダヤ教

サドカイ派  霊魂不滅はない 肉体復活はない  上流階級

パリサイ派  霊魂不滅    肉体復活     庶民階級     別名ファリサイ派

熱心党    霊魂不滅    肉体復活  ユダヤ国家の樹立、ローは帝国への反逆 ファリサイ派の一部

エッセネ派  霊魂不滅    肉体復活

復活の根拠  ダニエル書121-4節   天使長ミカエルの預言

世界の終末の日に塵から目覚めて、永遠の命、もしくは永遠の咎めが決まる。

 

 

 

 

イスラーム

ユダヤ教、キリスト教と同様に、天国(楽園)と地獄があるとしている。

天国については「永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。

かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の真珠のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である」、

地獄については「(かれらは)焼け焦がすような風と、煮え立つ湯の中、黒煙の影に、涼しくもなく、爽やかでもない(中にいる)。かれらはそれ以前、裕福で(享楽に耽り)。大罪を敢て犯していた」と、ユダヤ教やキリスト教よりも描写は具体的である。

「かれらの行いに対する報奨である」、「大罪を敢て犯していた」とあるように、生前の行いが霊界での位置を明確に決定することを説いている。

 

 

 

人類史の死後の世界観

古代エジプトのヘセプーチ王の棺に死者の書が描かれている[2]。古代のエジプト人たちは霊魂は死後、「バー」という鳥の姿になって、肉体からあの世にとびたち、あの世の楽園アアルで永遠の生を送ると考えていた[2]

 

古代ギリシャの哲学者ではプラトンが霊界が存在していると述べ、あの世の様子についても語った[3]

 

不可知論の立場では、死後の世界については、あるにしてもないにしても、人間の認識能力では知ることはできないと考える。インドの仏陀は、死後の世界があるとも無いとも語らず、それよりも、いま苦しんでいる人の苦しみを取り除くことが先である、と述べた。こうした姿勢は無記と呼ばれている。

 

17世紀から18世紀のエマヌエル・スヴェーデンボリは霊界日記を記した[3]

 

18世紀にヨーロッパで唯物論 materialismという考え方がある程度広がったが、唯物論では物質以外は存在しないと考えるので、死後に霊が残るとは考えず、霊界の存在は想定しなかった。唯物論の立場からは、霊界という用語は霊実在論の立場から論じられていることにすぎない、という理解であった。

 

1847年には米国のアンドリュー・ジャクソン・デイヴィスが『自然の原理』The Principles of Natureという本を出版し、霊界、霊界の構造、死後の世界について解説しており、「スピリチュアリズムのバイブル」とも呼ばれている。

 

 

1857年にはフランス人アラン・カルデックが霊の生まれ変わりや死後の世界について記した『霊の書』(Le Livre des Esprits)を出版した。

 

1920年代にはイギリスのモーリス・バーバネルが霊媒役となりシルバーバーチの霊訓を伝えはじめた。そこには死後の世界、霊界に関することも多数含まれていた。

 

日本では、大正〜昭和期に宗教大本を立ち上げた出口王仁三郎が、入神状態で多様な霊界の諸層について語り、『霊界物語』(全81巻)としてまとめた。

 

 

ヒンドゥー教

輪廻が教義の根幹となっているヒンドゥー教では、信心と業(カルマ)によって生まれ変わるとされている。死後、閻魔(ヤマ神)が裁判長となり、生まれ変わり先が決まる。したがって、霊界とは生まれ変わり先が決まるまでの一時的な待合室のような所にすぎないと考えている。利己心、淫欲、暴力などのカルマがある者は、以前よりも苦悩の多い存在に生まれ変わり、放っておくと生まれ変わりが無限に続くことになる。瞑想や苦行によって解脱(輪廻からの脱出)に達した者のみ、生まれ変わりがなくなる。解脱者は、インドラ、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナ、ブラフマンという名の神が臨在する「五つの天国」のいずれかに赴くとされている[10]