安息日
安息日とはユダヤ教のsabbathを翻訳したものです。ヘブライ語שבתの「休む」という意味です。
英語のSaturday、ラテン系言語のsabadoの語源になったものだが、ユダヤ教では、金曜日の日没から土曜の日没までの間を意味します。
日本語としての由来は、19世紀の中国の英華辞書に、sabbathの訳語としてあり、日本にはこれらの辞書を通じて伝来した用語です。
それにしても「安息の日」という翻訳は、sabbathの深い意味を暗示していて秀逸です。
旧約聖書の第2で、「天地創造は6日で終わり、7日目は休み」となったことが記述されています。
この7日目はどのような意味があるのでしょうか?
第2章
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
way'khuLû haSHämayim w'hääretz w'khäl-tz'vääm
Thus
the heavens 8064 and the
earth 776 were
finished, 3615 z8792 and all x3605 the host x6635 of them. y6635
2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
way'khal élohiym BaYôm haSH'viyiy m'lakh'Tô ásher äsäh waYish'Bot BaYôm haSH'viyiy miKäl-m'lakh'Tô ásher äsäh
And
on the seventh 7637 day 3117 ´Élöhîm אֱלֹהִים 430 ended 3615 z8762 his work 4399 which x834 he had made; 6213 z8804 and he rested 7673 z8799 on the seventh 7637 day 3117 from all x4480 x3605 his work 4399 which x834 he had made.
3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
way'värekh' élohiym et-yôm haSH'viyiy way'qaDësh otô Kiy vô shävat miKäl-m'lakh'Tô ásher-Bärä élohiym laásôt
And ´Élöhîm אֱלֹהִים 430 blessed 1288 z8762 x853 the seventh 7637 day, 3117 and sanctified 6942 z8762 it: because 3588 that in it he had
rested 7673 z8804 from all x4480 x3605 his work 4399 which x834 ´Élöhîm אֱלֹהִים 430 created 1254 z8804 and made.
律法の中で特に重要とされているのが、安息日です。שבת、英語: Sabbath
最後の審判の時にすべての魂が復活して律法を守っていたものが救われる、とアブラハム教では信じられています。
安息日に言葉も話さないならば、あなたはエホバに歓ばれるものとなる。
イザヤ書58.14
ユダヤ教では安息日の前日の夕方から安息日を聖く守ります。
すると、て霊的な人が朝には天的な人になる、といいます。
天的な人は自分自身の願いに従って行動するのではなく、主の悦びをたまうことに従って行動する、といいます。
自分自身の願いとは、人間自身のことで、自己と世間への愛着から、天の感覚ではなく自己を基準にしていることです。
その根拠は感覚からの情報と科学(理性)であるので、これらに把握できないものの存在を考えることを排除している状態です。
この状況を判断と行動の起点とすることで誤謬と悪を重ねる、というのがエデンの園でリンゴを食べたことで、起きる因果関係であるというのが、聖書で記述されていることです。
具体的には、善を悪に、悪を善に、真を誤謬に、誤謬を真として認識することです。
なぜ、この休みが一番大切である、と記述されているのでしょうか?
唐突かもしれませんが、ヨガを実践している人は、アーサナ(ポーズ)の中でsavasanaシャヴァーサナ(屍のポーズ)を体験しています。
このポーズは、マインドの集中と鎮静とを同時に体験でき、意識が冴えた状態でマインドを静止する方向へ実践者を導きます。
全てのアーサナの後に、この休息のアーサナを行うことで、「いま・ここ」を体感します。
それは、身体や感覚やマインドが日々の義務から一時的に離れて“死んだ”状態になります。
屍とは、身体と感覚が不活性になることで表層意識も不活性になりますが、意識は非常に冴えている状態になり、スポットライトは表層から潜在意識へと移ります。これがsavasanaによって、静穏な状態でマインドフル(心が集中している)な状態になり、いつもは気づかない意識に寄り添うことです。
マインドがさまようのを止めるのは難しいことですが、何度もトライして、徐々に慣れてくると、思考などの表層意識の流れから離れるようになり、一歩離れた所から表層意識を感じることができるようになります。
そして、次の潜在意識を見つめる段階に入っていきます。
「自分の内面を見つめ、内なる精神と向き合う時間です」
これが「休む」ことによって得ることが可能になる体験です。
働いているときは5感覚器官からの信号を介して表層意識を使って暮らしていますが、休むことによってはじめてその意識を自分の内なることに向けることができるようになります。
これが律法の中で安息日שבת を何よりも大切にする理由です。
『出エジプト記』20章と『申命記』5章に記されている十戒の中に安息日は一番大切な日であることが銘記されています。
いくら倫理観のある生活を守っていても、自分の意識を深く神に向けなければ、神との契約を実践することにはなりませんから。
新約聖書
安息日の言及は旧約聖書だけではなく、新約聖書においてもなされます。
神は7日目を安息日として聖別されました(創世2:2−3参照)。
安息日の規定は、神が天地創造をされ、すべてを完成なさった後、第7日に安息されたことに由来し、定められました(創世記 20.8-11)。
「安息日を覚えて,これを聖とせよ。」(出エジプト20:8)
「安息日は,主とその民との間の永遠の聖約である」出エジプト31:16−17
「安息日を聖日として守る」出エジプト35:1−3;レビ26:2−4,6,12
「安息日を守るように」(申命記 5.14-15)。
ニーファイ人も神の戒めに従って安息日を守っていました(ジェロム1:5参照)。
「安息日を喜びの日と呼び,主の聖日を尊ぶべき日ととなえ」(イザヤ58:13)。
「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ 2.27-28)。
安息日を神が定められたときの精神を忘れ、ただ安息日の規則があるので守らなければならないという形式的な安息日の守り方を、イエスは批判なさいました。
安息日の目的は,思いや行いを神に向けられるようにすることです。単に仕事を休む日ではなく,神を礼拝し敬虔な思いで過ごす神聖な日です。
「安息日に善いことをするのは律法にかなう」ルカ6:1−11
「安息日に善い行いをするイエスの模範」ルカ13:11−17;ヨハネ5:1−18
スエデンボルグSwedenborgの解釈
1745年にスエデンボルグが57歳の時に霊眼が開かれて書かれたものが「天界の秘儀 Arcana Coelestina」です 。
この本は聖書の注釈書で、安息日で休むのは神自身である、という解釈もしています。
「こうして霊的な人は朝には天的な人になるのは、神が人間のために戦い、創造し、形成したので、これを「神の業」という。
それまでの争闘を行ったのは人間自身ではなく主であるので、静謐の7日目の休まれているのは主自身である。」
1 こうして天と地と、その万象とが完成した。
2 神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。
3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
私見では、創造の神も、具象化という活動をするときには意識を遡ることができないので、具象化という行為を一度とめて静謐の中にいることで、創造の1日目の意識を再体感するのだと推察します。
ゾハールの書の第一章からの抜粋
神を安息日と同一視する
彼らの後を追っていたロバ飼いが質問を差し挟みました。「あなたがたは私の聖域を敬うでしょう」(Lev. XIX, 30)とはどういう意味ですか?
R. Abbaは答えました。これは安息日の神聖さを示しています。」
「では」ロバ飼いは言いました、「安息日の神聖さとは何ですか?」
「それは上から与えられた神聖さです。」
「そうであるならば、安息日それ自体に神聖さがあるのではなく、上からによって神聖であるのですか?」
「確かにそうです」R. Abba は言いました,
「Is. LVIII, 13にあるように、安息日は喜びであり、主の聖なる高貴さ、です。安息日と「主の聖なるもの」とは、それぞれ別々に言及されています。」
「では、『主の聖なるもの』とは何ですか?」
「それは上から降りてきて、同時に上にとどまる聖なるものです。」
「しかし、高みから発せられる聖性が「尊い」と呼ばれるなら、明らかに安息日自体はそう呼ばれていません。「あなたはそれを尊重しなければなりません」(同上)と書かれていますが。」
R.EleazarはR.Abbaに言いました、「あの方と議論するのはやめなさい。彼は私たちが知らない謎を知っているようです。」 それから彼らは言いました。「あなたが言わなければならないことを教えて下さい。」
「Lev. XIX, 30に'eth Shabthothai、すなわち、私たちの安息日とあります。
助詞のeth は、安息日の戒律に安息日の歩みの限界が含まれることを示しています。これは、あらゆる方向に 2,000 キュビトの限界です。 「私の安息日」とは、2 つが 1 つに結合された上位の安息日と下位の安息日への言及です。 まだ言及されていない安息日が1つありました。
屈辱を感じた安息日は創造主の前で嘆願し「宇宙の主よ、あなたが私を創造された時から、私は単に安息日と呼ばれてきましたが、一日には一夜が確かに伴わなければなりません。」と言いました。
主は安息日に言われました。 「私の娘よ、私はあなたを安息日と呼びます。しかし、私はあなたにさらに輝かしい冠を授けます。」
それから彼は宣言をしました。
「私の聖域を怖れるでしょう(Lev. XIX, 30)」とは、安息日の前夜への言及であり、恐れを引き起こして怖れるでしょう。 そして、「私は主である(Lev. XIX, 30)」と言って、自分自身を安息日と同一視したのは、祝福された聖なる方です。
私はさらに'私の父から次の説明を聞きました。父は安息日の歩みの限界を表す助詞 eth を強調しました。
'eth Shabthothai הַשַׁבָּ֖֨ת 安息日には、円と四角が含まれています。
(円、四角、点は、最高位の 3 つのセフィロストを象徴するためにカバリストによって使用されています)
安息日に何を覚えておくのか
ここで言及されている安息日は、「あなたは私の安息日を守りなさい」と十戒の第 2バージョン (Deut. v, 12)に書かれているように、「守る」という禁止令の対象です。
もう 1 つは、最高の安息日は Shamor (維持) のための禁止令ではなく、十戒の最初のバージョン (Exod. xx、8) で使用されている Zakhor (覚えておく) という意味です。
そのため「平和の住む王」と呼ばれ、彼の平和はZakhor (覚えておく)の禁止令の範囲内にあります。
そしてこれが天界の領域に争いがない理由です。なぜならば、「遠くにいる彼にも近くにいる彼にも平安あれ(Is. LVII、19)」とあるように、「遠く離れた彼」とはJacobを指し、「近くにいる彼」とはJosephを指し、ここには二重の平和があるためです。
「遠く離れた彼」は「遠くから主が私に現れた(Jer. XXXI、3)」、および「そして彼の妹は遠くに立っていた」(出エジプト記II、4)に、「近くにいる彼」は、「近い時から現れた新しい神々」(申命記XXXII、17)に対応しています。
「はじめにbereshith」の内にすでにあった安息日
R・ヒズキヤは言いました。「自分の罪を告白する者は、それによって神から赦しを得ることができます。神が世界を創造したとき、神はこの契約を結び、その上に世界を築きました。bereshithと書かれているよういに。我々はそれをbara shithと解釈しています。「彼は基盤を創造しました」とは、つまり、世界がその上に置かれている契約であり、それは祝福が世界に流れ出る谷であるため、shithとも呼ばれます。
安息日SaBbaTHはセトとの未来の契約
しかし、アダムはこの契約を破ったため、契約を象徴するYod(世界の根本と基盤を意味する)はそこから取り除かれました。
アダムが息子をもうけたとき、Yodに象徴されている契約を破ってしまっていたので、彼はあえてYodを挿入して彼を「Shithシス」と呼ばす、その子をSethセスと呼びました。
その罪の告白の代償として、神はSethから人類を広め、それ以来生きてきたすべての義人の先祖とされました。
また、イスラエルがシナイ山の前に立ったとき、Sethの 2 つの文字 (shin と tau) の間に契約を象徴するbethの文字を入れました。つまり、神はイスラエルに「そしてイスラエルの子らは安息日を守り、 安息日は世代を通して永遠の契約である」と言ったように、3文字SaBbaTHからなる安息日を与えました。
このようにして、この二つの文字Sethは本来の効力を獲得していましたが、聖なる契約が2つの文字の間に入るまで、その効力は保留されたままでした。
R. ホセは言いました。「これらの2 つの文字はbethという文字を通して完全に復元され、すべての文字はSethの誕生とともに適切な順序に戻り、イスラエルがシナイ山の前に立つことで、最終的に復元されました。」
安息日の必要性 具体化しようとする邪悪な力に対する慈悲の力
「第 14 の戒律は、安息日を守ることです。安息日は、すべての創造の働きから休む日でした。
この戒律は 2 つの部分で構成されています。1 つは安息日に休むこと、もう 1 つは安息日に聖さを与えることです。すでに述べたように、私たちはその日を安息日として守らなければなりません。なぜなら、この日が最初から安息日だったからです。創造のすべての働きは、この日が聖化される前に完了しているからです。
その日が聖化された後、体が造られていない霊が残っていました。
なぜ、神はそれらの霊のために体を創造するまで、その日を聖化するのを待つことができなかったのでしょうか?
その理由は, 善悪の知識の木から世界を支配しようとする「邪悪な力」が出てくるので、多くの様々な霊が力ずくで肉体を手に入れようとしたからです。祝福された聖なる方はこれを見るやいなや、命の木から立ち上がりました。風が吹き、命の木が他の木にぶつかり、「慈悲の力」が生じ、その日が聖化されました。
その夜の肉体の創造と霊の鼓動は、「悪の力」ではなく「善の力」の影響下で起こるからです。
あの夜、「悪の力」が「善の力」を先制していたら、悪霊のせいで世界は一瞬たりとも存在できませんでした。
しかし祝福された聖なる方は、前もって治療法を提供してくださいました。
彼は悪の力が支配する前日の聖化を早め、それによって世界が確立され、悪の力が思ったように世界の支配者になったのではなく、その夜勝利を得たのは「慈悲の力」でした。したがって、「慈悲の力」の影響下で神聖な体と精神は築かれています。
安息日とセックス 聖化されると弱まる邪悪の力
そのため、これを知っている賢明で学識のある人たちの夫婦関係は、安息日ごとです。
さらに、「邪悪な力」が「慈悲深い力」に取って代わられた夜に、多くのホストと軍団を伴って歩き回わり、人々の夫婦の性交をろうそくの光で無遠慮に覗き見ると、そのような性交から生まれた子供たちはてんかん質になり、悪霊(shedim)と呼ばれる悪人の裸の霊である「邪悪な力」の霊に取り憑かれ、悪魔Lilithによって追跡され、殺されます。
その日が聖化されるとすぐに、邪悪な力は弱まり、安息日の昼夜を問わず身を隠します。
例外はAssimonとその一団だけで、彼らはわいせつな性行為を偵察し、大深淵の洞窟に潜んでいます。
安息日が終わるやいなや、無数の群れが世界を飛び回るのは、聖なる人々の力を破壊するために、苦難に対する賛美歌(詩篇XC1)の朗読が行われるのを撃退するためです。
聖なる人々の支配権を得るために早々と出陣した後、悪霊たちが人々が祈りと賛美歌に没頭して、「分離」Habdalahを唱えた後に、杯を囲むのを見て、悪霊たちは逃げだし荒野にたどり着くまでさまよいます。
安息日と指の爪
「そして神は二つの光を作った。」 発光体には2種類あります。 上に昇るものを「光の灯」、下に降りるものを「火の灯」と呼びます。後者は下層に属し、平日を支配します。 安息日が終わるとランプの上で祝福が語られ、灯火のルールが戻るのはこのためです。
人間の指は、表と裏に分かれた上界の神秘的な階級を象徴しています。 裏側は外側にあり、指の爪によって象徴されているため、安息日の満了時にろうそくの光で指の爪を見ることは許されています。しかし、ろうそくの光で指を内側から見ることは許されません。
これは、「あなたは後ろから私を見るでしょう、あなたは私の顔を見ることはありません(Ex. XXXIII、23)」という節に暗示されています。
したがって、「火の光の創造主」の祝福を唱えるとき、人は自分の指を内側から見てはいけません。 安息日には、神はその栄光の玉座にある内なる等級によって独りで支配し、それらはすべて神の内にあり、神は支配権を引き受けます。
安息日と「光あれ」の光
したがって、この日、彼はすべての世界に休息を与えました。 この日の遺贈の一部として、特別の聖なる人々は、最初の日にあった原初の光である右の側から「光の輝き」を継承しました。
安息日には、それらの光の輝きが単独で輝き、支配権を持ち、それらから下のすべてが照らされます。 安息日が終わると、光の輝きは撤回され、火の輝きはそれぞれの場所で揺れ動きます。 彼らは、ある安息日の満了から次の安息日の開始まで統治します。 このため、安息日の終わりにランプの光を使用するのは適切なことです。
安息日によって顕現した霊、そして淵に隠れる
「神がソロモンに関して、「わたしは人の鞭と人の子らの災いで彼を懲らしめるであろう(II Sam. VII, 14)」と言われました。これらの「人の子らの災い」とは悪霊たちのことです。 悪霊たちはちょうど安息日が神聖化された瞬間に創造され、肉体のない霊として残されました。
これらは完成されていない生命体です。それらは御名と繋がっておらず、そのことを非常に恐れています。
聖なる御名は、欠陥のあるものと安らかにいることはありません。
それらが霊であるのを見て、なぜこれらの存在を上で完成させなかったのかと疑問に思うかもしれません。 答えは、それらは地上である下界で完成していなかったので、上界でも完成していなかったということです。 それらはすべて左側に起源があります。
それらは人間には見えず、人間の周りを飛び回っていたずらをします。 他の場所で述べられているように、それらには天使との共通の特徴が 3 つあり、人間との共通の特徴が 3 つあります。
それらは創造された後、安息日の夜と昼の間、大いなる深淵の裂け目に残されました。 その日の神聖さが終わると、それらは未完成の状態でこの世に出てきて、あらゆる方向に飛び回り始めました。 それらは世界にとって大きな危険となりました。なぜなら、それらとともに左側全体が立ち上がり、ゲヒンノムの火が点滅し始め、左側の住人全員が世界を徘徊し始めたからです。 それらは肉体を身にまとおうとしたが、それはできませんでした。 したがって、私たちはそれらからの保護が必要となり、それらから危険が脅かされるあらゆる機会には「事故の賛歌」(詩篇 XCI)を朗読することが規定されています。 というのは、金曜日の夕方に安息日が神聖化されると、平和の幕屋が天から降りてきて、全世界に広がるからです。
この平和の幕屋は安息日であり、安息日が到来すると、すべての悪霊や悪魔、そして汚れたすべての生命体が、深淵の裂け目の穴の中に隠れています。
なぜなら、神聖さが世界中に広まっても、両者は互いに避け合うため、不浄の霊は活動しない状態になります。
安息日には悪霊の保護が必要ではなくなる
したがって、世界は(安息日の前夜に)特別な保護の下にあり、「ご自分の民イスラエルを永遠に守られる方、アーメン」という祈りを唱える必要はありません。 この祈りは、保護が必要な平日に使われます。
しかし、安息日には平和の幕屋が世界中に広がり、こうして四方八方から守られます。 ゲヒンノムの罪人でさえも保護されており、上界と下界の両方ですべての存在が平和であるため、私たちはこの日の祈りを次の言葉で締めくくります。「私たちとその民イスラエルとエルサレム全体に平和の幕屋を広げてくださる方よ」(エルサレムが言及されている理由は、エルサレムが幕屋の住居であるからです。)
このように、母が子供たちを守るように、その幕屋が私たちの上に広がり、私たちの上で安らぎ、私たちを守ってくれるように招くのは、私たちに当然の義務です。 あらゆる面で安心感を得ることができるはずです。 見てください、イスラエルがこの祝福を唱えてこの平和の幕屋を聖なる客人として家に招くとき、神の神聖さが降りてきて、子供たちを包み込む母親のようにイスラエルの上に翼を広げます。 そのとき、すべての悪霊は世界から消え、イスラエルは主の保護された神聖さの下で安らぎます。 さらに、この平和の幕屋は、子供たちに新しい魂を与えます。 なぜなら、魂は平和の幕屋の中に住処を持ち、そこから発せられるからです。そのため、平和が降りてきて子供たちに翼を広げるとき、それは子供たち一人一人に新しい魂を注ぎます。
R. シメオンはさらに言いました。「私たちが学んだように、安息日は未来の世界を映す鏡であるのはこのためです。同じ理由で、安息日と記年祭Jubileeを互いに鏡のように映し出されます。
この付加的な魂は、 平和の幕屋にあるzachor(思い出す)という語句に暗示される神秘的な力から降りてきて、、未来の世界から取り出され[48b]、幕屋はそれを聖なる人々に与え、人々はそれを喜び、すべての世俗的な事柄と悩みと苦しみを忘れることができるようになります。
この追加の魂は、zachor(思い出す)という言葉に暗示されている神秘的な力が、未来の世界から得られ[48b]、平和の幕屋に降りてきます。
こうして預言者の言葉「その日、主はあなたの悲しみ、悩み、そして厳しい奉仕などから休ませてくださるでしょう。(Is. XIV、3)」が実現します。
安息日と食事
金曜日の夜、この平和の幕屋がすべての原則の一体化によって形成されたことを示すために、フルコースの食事をとるべきです。そして、翌日の1回分、または他の人によると(これはより正確です)2回分の食事を残しておくことが条件です。もちろん、翌日にもっと十分な量が残っている場合はなおさらよいです。
子供には2皿で十分です。 ( 料理は最低でも 2 品は必要です)
安息日と女性
安息日の光を灯す役割は聖なる民の女性たちに委ねられています。
同僚たちが言ったたように、「女性は世の光を消して暗闇をもたらしました」。しかし、もっと深遠な理由があります。
この平和の幕屋とは世界の主婦のことであり、天の灯である魂がその中に住んでいます。 したがって、女主人は明かりを灯す義務があります。それによって彼女は自分の正当な場所に身を置き、正当な役割を果たしているからです。
女性は、安息日の光を熱意と喜びをもって灯すべきです。それは彼女にとって大変名誉なことであり、さらに、彼女は学習と敬虔の輝かしい光となって成長し、広まっていく聖なる子孫の母となる資格を得ることができるからです。 世界の平和、そして夫の長寿ももたらします。
したがって、彼女はこの儀式を守ることに細心の注意を払う必要があります。安息日の戒め(出エジプト記XX章8節、申命記V章12節)には、「覚えておく」と「守る」という語句があり、"覚えよ "は男に対して、"守れ "は女に対して、より特別に適用されます。
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