アブラハム教における悪の由来

 

 

はじめに    聖書の中の悪のはじまり

悪の本質

サタン、悪魔、悪霊

ゾハールの書

スウェデンボルグの悪の解釈

 

 

 

コラム

ネフィリム    神の子? 巨人? 人間?

アザゼルAzael  堕天使?

シェディム    ユダヤの精霊

ナアマNaamah  女悪魔

ソロモンの72悪霊   『ゴエティア』(Goetia)  

悪魔と病気

悪魔と男性社会

思考のメカニズムと悪

エノク書

闇と悪と蛇

マイモニデスの善悪

ヨブ記のサタン

vs

ソクラテス

悪の反意語 トーヴ、ツァディーク、ヤシャル

七福神

 

 

 

はじめに

 

聖書に登場するはじめての悪の存在は創世記3章1節に登場する蛇です。

הַנָּחָ֑שׁ  han-nā-āš  the serpent

蛇は神に背き反逆するもの、すなわち悪として表されています。

 

この蛇は霊的存在で、イザヤが天の玉座の幻を見た時に、神は玉座を取り囲むケルビムという 霊的存在に賛美されていた。イザヤはこれらの霊的存在をセラフィムと呼び、ヘブル語で蛇を意味します。

 

預言者エゼキエルは神のもとで生きることを嫌った霊的反逆者と言っています。

蛇は世界を治める神になりたかった。

聖書では、邪悪なもの、誘惑者、中傷するもの、と呼ばれています。

敵対者という意味をもつサタンのことです。

 

悪という語句が初めてでてくるのは創世記の65節です。

創世記6章にある神の子らの反乱により、人間の女性との間にネフィリムと呼ばれる超人の子供を産んだ。

רַ֖ע  ra‘   evil

רָעַ֥ת rā-‘a  the wickedness

 

創世記10章ではそのようなネフィリムの1人であるニムロデがバビロン王国を建国した

この劣った霊的存在を悪霊とモーセが初めて申命記3217節で呼びました。

לַשֵּׁדִים֙ laš-šê-îm  to demons

 

霊的悪は人間に勘違いをさせて暮らすように導きます。

したがって、痛みと苦しみは死と霊的悪に囚われている1つの証です。

 

 

 

聖書の悪はどこから始まったのか?

サタンの心によって悪は始まり、アダムの背きによって地上に入ることになりました。

 

エゼキエル書281417

14 わたしはあなたを油そそがれた/守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。

15 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日までは/そのおこないが完全であった。

16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から/汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを/火の石の間から追い出した。

17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

 

イザヤ書141215

12 橋明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。

13 あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、

14 雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。

15 しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。

 

ローマ人への手紙512

12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。

 

 

 

悪の本質

地獄の対極は生命の喜び

「聖書の中の地獄は、場所というよりは、「生命と喜びの源である神」から、自らの自由で決定的に離れた人々の状態のことである。・・・地獄とは、この世における人々の姿勢や行動の結果として生じる状態である。」

ヨハネ・パウロ219997月「神へ帰る」p396

つまり、場所ではなく、各自の体験や状態であることに修正されました。

 

宇宙の変化

宇宙は構成物質が小さいものが大きいものに結合して成長するプロセスを私たちは観測することができます。

原子レベルで言うと、はじめは鉄やウランなどの原子はなく、水素やヘリウムしかなく、そこからリチウムや炭素などが徐々に構成されていった、と科学的論理を使って推測できます。

このように具象化のバリエーションが増加が時間の流れとともにありますが、この具象化の宇宙の流れを「意図的に」進めるのが悪、「意図的に」遡上しようとするのが善です。

そして具象化の流れに入らないで、そのまま一体化を保っているのが神の領域です。

 

悪とは各自の内側にある

意識する者の外側に悪や地獄があるのではなく、各自の自分自身が悪や地獄の体験を創造しています。

つまり悪は自分自身が作り上げたものです。

2極性に変化していくメカニズムを誤解して理解することで、悪の概念が創り出されました。

 

私たちは、満たされないこと、自分が何者であるかを知っていながら、それを体験できないこと、本来の姿に比べて、卑小な在り方の時に苦しみを感じます。

自分自身が真の自分でなくなる時、自分で地獄の体験を創り出します。

宇宙には地獄という場所はないが自分が創造して現実に体験することはできます。

 

なぜこの世に悪魔や地獄を見つけたいのか?

では、人はどのようなプロセスで悪を発見したのでしょうか?

「この世の苦しみは神が創造した。」

「各自の苦しみの現実は、自分自身が創造した。」

上の2つを否定すると、苦しみの原因となる存在が必要となります。

これが悪を生み出す本体、すなわち悪魔の必要性です。

 

悪魔が存在すれば、愛情が豊かな神、責任のない各自、苦しみの現実世界という3つが矛盾なく存在することが可能であるかのように考えることができます。

つまり、悪魔をスケープゴートにすることで、自分自身の責任を免れる錯覚することができるようになります。

地獄とは神の懲罰ではなく、自分が神から分離したと教えられた人々が孤独の中で勝手に作り上げたものです。

そのため「思考」が悪魔や地獄をつくりあげている、と言えます。

 

宗教の背景

神と私たちは離れ離れである。

神が残酷で無情な世界を創造し、人間は神の気まぐれに弄ばれている

これがはじめの種類の宗教ができた背景です。

 

しかし、深く考えると、神がそんな残酷で無情なことをするはずがない。

そこで、悪魔の仕業を考えます。

悪魔のせいにすることで、他の因果関係を探るのをやめてしまいます。

これが2番めの種類の宗教ができた背景です。

 

 

対処法

地獄や悪は実際には自分自身が作り上げたものであることをよく自覚することです。

すなわち、悪魔は思考が捏造したものなので、思考の中に悪を入れないで、自分の意識がどこにスポットライトを当てようとしているか自分の心の中を探ることからはじめます。

そして、できるだけ自分の内側に神性(個性化した神、本来の自分、全体の一部、分離しないもの、1つのもの、Oneness、原初の意識、深層意識の外側、無限の微細な光エネルギー、純粋な愛と慈悲、一体性)があることを知って、すべてが一体化の経験をする方向に各自の表層意識をフォーカスし、真の「自分」や真の相手だけにスポットライトを当てるようにします。

自分が意図的にスポットライトを当てないと、応答が感じ取りにくくなります。

そうすると低次の霊的存在すなわち低次の自動反応回路(サンカーラの波動)の影響を受けなくなり、一体性の包まれるので、分別する意識が一時的に止まるので、心が分離することで生じる不安がなくなります。

 

すなわち「自分の外側にあるもの」に根源を探すのではなく、自分の内側に作ってしまったアプリによって世界が異なって感じることに気づき、それらを解体する意図をもつようにします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マインド

正しさ

探求・発見

行動

意図

外なる神

精神 思考

ハート

愛と慈悲

体験の表現

あり方

あるがままの受容

内なる神

小さい創造主

 

 

言葉を換えると、自分で蒔いた種は自分で刈り取ることを自覚します。

すなわち因果法則に自分の役割や責任を自覚することです。

神や悪魔が各自の人生に影響を与えているのではなく、意図的な選択が人生を創るからです。

 

つまり悪い結果を他人や現象や社会などの外側のせいにするのではなく、

善と悪の戦いがあるという思い込みから離脱して、神の世界につながると善悪のどちらも1つのものに囲まれて一体化するので、そこは戦いが消えて、安らかな状態しかない時空になります。

 

 

神の世界には「悪」も悪魔もなく、あるのは一つの認識と経験です。

各自がこの一つの認識と経験に向かうことが善であり、愛が溢れてくる場所で、ここから離れる方向へ向かうことが悪であり、心は不安になっていきます。

 

この「一つ」の経験と、そこから離れる両方が全ての領域なので、この観点で全体を見るときは、神は善であり悪である、ということができます。

換言すると、神はすべての心(感覚、感情、思考)の総和であるので、喜びであり悲しみであり、笑いであり怒りであり、慈しみであり憎しみである、と言えます。

本来の自分から離れているときには、善悪があるので、 本来の自分に近づく方向性がある時には正直、誠実、勇気、優しさ、親切、思いやり、公平、平等、調和、自由などを体験し、本来の自分から離れる時には不安な気持ちになって、様々な否定的な面が生じてきます。

ポジティブな状態を人格化して神と呼び、ネガティブな状態を人格化して悪魔と命名しました。

 

成熟した人はこの相対性の世界のメカニズムに気づき、そこから生まれてくるものが幻想であることを認識し、「一つ」という全体性だけを選択し続けます。

 

「分ける」2極性の相対性の神は善であり悪ですが、「一つ」の絶対性の神は、善悪の幻想がない、すなわち不安のない愛のみです。

換言すると、人類の集合意識が分別、不足、優越、適者生存だと2分化する相対性であり、一体、分かち合い、神性において平等であると1つの絶対性を体験していることになります。

 

人が神の意識に戻るためには、自分の中にある多層な意識のメニューの中から、各自に適した順序のよい意識の道を選ばなければなりません。

 

 

迷いと病気

無いものをあると思っていること

有るものを無いと思っていること

この迷いがカタチになったのが病い。

 

生命が「光のエネルギー」であり、この光の本源の大生命(カミ)をであり、これをそのままに見る時に円満完全な「真生命」であり、病気も不幸も欠点もない状態と仮説します。

この真の人間を観ることを「実相を観ずる」、「本来の面目を観る」と言います。

 

病気は自分の心で造った「観念の牢獄」の中に閉じこもることで発生することがあります。

病人は生命も人間も孤立し、ヒトもカミも冷たいもの、人々との関係に親しいつながりや愛を感じることができず、カミの怒りを持つ厳しい側面だけにスポットライトを当ててしまっている傾向があります。

すなわち、病人は温かい愛に飢え、星の運行のように自分を中心として多くの幸福と完全な繋がりを感じることができていない状態です。

 

病気を治すには、まず病人の心から「お互いに人間は繋がっていない」という間違った先入観を取り去る必要があります。

すべてが繋がっているという知性な理解も必要ですが、具体的な愛、真心の言葉、寄り添う態度、勇気、心を明るくする言動によって、自分ひとりが孤立しているのではない事実を眼の前に見せることが重要です。

手で触れるような愛を実感すると、病人は心に兄弟の愛、神の愛をありありと感じます。

するとここに「カミからいただく癒す力」が流れいる門が病人の心に開かれます。

 

 

憎しみ、怒り、嫉妬 そして愛

悪感情が存在するのは、「万物は調和ある一体である」という存在の実相(あるがままのすがた)に触れていないからです。

万物調和、万物一体の真理から生じる感情が愛、実相を知らないときの心情は万物孤立、万物争闘の迷いから出発してしまいます。

これを脱するのは、具体的な愛のある言葉と行動です。

そして本人が本当に大事なことに熱中することです。

 

幽霊とはサタンとその使いのもの

「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。

だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう」

2コリント11:1415

 

悪の限界

サタンは各自の過去の秘密を言い表すことで人々の信用を得るが、それは多くの経験による統計学的因果の結びつけなので、未来予知の力を持たない。

 

 

 

 

 

 

Satandevildemonの違い

一般的な日本語訳はSatan devilが悪魔で、demon悪霊や聖霊や鬼です。

ヘブライ語のサタンשָּׂטָןのギリシャ語訳がディアボロスDiabolos διάβολος、この英語訳がdevilです。

一方、デーモン(Demon)の方は、ギリシャ語の「ダイアモーン δαίμων」が語源で、西洋文学においてデーモンの軍勢をdevilが率いると考えられているようです。

『鬼滅の刃』の英語タイトルはDemon Slayer(鬼を退治する人)です。

 

demonとは、各種の神話や伝承などに現れる超自然的な力として理解されたので、精霊とか鬼神の意味だったようですが、一神教では「悪霊」を指すように変化していきました。

 

Satandevilは、元は天使であったが神に反逆してHell(地獄)に堕ちた堕天使のことを表します。Satanは一種の固有名詞で、聖書に登場してエデンの園でイブに禁断の木の実を食べさせたり、荒れ野でキリストを悪の道へ誘ったりします。

 

ヘブライ語のサタン(サーターンは「敵対者」「妨げる者」「誹謗する者」「訴える者」「告発者」「検察官」を意味しており、ヘブライ聖書では「敵」を意味する普通名詞としても使われている。

創世記の(口語訳)3:1-6でサタンは最初の女イヴに嘘をついて騙し、神から食べると死ぬと明確に言われていた善悪の知識の木の実を食べさせた。この事により人類全体が死ぬようになったとパウロは論じた。

ヨブ記ではヨブの義について試すことを神に提案し、神はそれを受け入れた。

 

 

イスラム教においては悪魔はシャイターン、イブリースと呼ばれる。

 

漢字の「悪魔」はもともとは仏教用語の漢語から来ている。

サンスクリット語マーラ(殺す者の意、「魔羅」)の漢訳が「魔」(+)で、「魔」はもともとは死者()を指していたことから悪魔と悪霊は同じ意味で使われることが多い。

 

 

悪魔と悪霊

悪霊には、普通の人間でも、心が悪かったり、悪い行いをしたりすれば、なることができるとされています。

犯罪行為をしない場合でも、悪い想念や暗い想念を持って生きれば悪霊になります。

心が悪く腹黒いことを考えていたり、いつもいさかいが絶えなかったり、人をだましたり、怒ってばかりいたり、人を傷つけたり、悪いことを平気でしたり、このように、主として破壊的な想念や感情で生き、周りに迷惑をかけて苦しめた人たちが、死後、天国に還れずに、苦しみつつ暴れているのが悪霊の正体です。

 

神は善を行なうか悪を行なうかを自分で決めることができる被造物を創造し、それを霊と呼びました。

最初に反逆した最も悪名高い霊は,サタンです。「その者は,……真理の内に堅く立ちませんでした」と,イエス・キリストは述べています。(ヨハネ 8:44

なぜサタンは神に刃向かうことにしたのでしょうか。

創造者にのみささげられるべき崇拝を自分も受けたいと渇望するようになり,その欲望に基づいて行動し,対抗する神として自分を高めたのです。

そのようにして,「反抗者」を意味する「サタン」に自らなりました。

ノアの時代の大洪水の前に,他の天使たちもサタンに加わりました。天での立場を放棄し,肉体を着けて人間の姿になり,地上で暮らすようになったのです。(創世記 6:1-4。ヤコブ 1:13-15

大洪水が起きた時,それら「罪をおかしたみ使いたち」は霊の領域に戻ったようです。(ペテロ第二 2:4。創世記 7:17-24

やがて,その天使たちは悪霊と呼ばれるようになりました。―申命記 32:17。マルコ 1:34

「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居所を捨てたみ使いたちを,[神は]大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密な闇のもとに留め置いておられます」。ユダ 6

 

「悪霊の教え」(テモテ第一 4:1)によって「人の住む全地を惑わしている」(啓示 12:9; 16:14)とされています。

偽りの教えにより,人々が思いをくらまされ,神に関する真理を見いだせなくなっています。(コリント第二 4:4)たとえば、亡霊を見せたり,声を聞かせたりすることで、肉体の死後も魂が生き続けるという信憑性を与えようとします。

また、「全世界は邪悪な者の配下にある」(ヨハネ第一 519節)ので、何をしても構わないという道徳観を人々に与えて、ヒトは6感覚器官の信号の欲望のままに行動してもよいという邪悪な考えを広めています。(エフェソス 2:1-3

 

悪魔は、悪霊より影響力や指導力、知恵があるとされています。

残忍な行為、残虐な行為が心の底から好きだったり、自分の権力を実現して人を恐怖で支配することが目的で、大勢の人を殺したりしたり、また思想的に多くの人を迷わせ、人々を洗脳して狂わせた人は、結果として大きな悪を遺した人たちは、悪魔になりやすいとされています。

 

 

 

 

 

ゾハールの書の第1章からの抜粋

 

悪霊

悪の力、誘惑者、告発者、邪悪な蛇であるSamaelは左側に配置され、等級Geburahと同一視されています。

この文脈では、SamaelHesed慈悲(第4等級)ではなくTifereth美(第6等級)の敵として表されています。

Samaelは偉大なドラゴンであり、新年に月を飲み込み、Matronaと聖なる王との結合を妨害します。

Matronaとは女王の名前で、別の名称はShekhinah

Shekhinahは神の顕現を表し、上界では創造以前の3つの等級(Kether 王冠; Hokmah 叡智;Binah tanding理解)を意味し、下界では、「女性」を意味します。

 

それは、イスラエルが贖罪の日の犠牲によって彼をやめさせるまで続きます。

 

また、Samaelは聖王の意向に反して、手先であるLilithなどを使って、人々を誘惑して魂を汚します。

彼女は夜に徘徊し、人の子らを悩ませ、自らを汚す原因になります。これらの精霊は、家の中で一人で寝ている人を見つけるとどこでも、その人の上にとどまり、抱きつき、ぴったりとくっつき、欲望を刺激し、子供を生みます。 彼らはさらに、無意識のうちに月の縮小によって病気を引き起こします。 月が元に戻ると、メオロス(光)の文字が反転してイムラート(言葉)になり、「主の言葉(イムラート)は試され、彼を信頼する者の盾となる。(詩篇 XVIII, 31)」とあります。つまり、祝福された聖なる方は月の満ち欠けで世界をさまよっているすべての悪霊や悪霊から、祝福された聖なる方への信仰を堅持する者たちに対する盾です。

ソロモン王が「木の実の庭の奥深くに侵入した(降りた)(S. S. VI11)」ときに、木の実の殻(klifah)を取ったというのは、これらの霊たちが人間の官能的な欲求を刺激している、というアナロジーです。

「そして、人の息子たちの喜びは、男性と女性の悪魔から来ている(伝道II8)」とあるように。

この聖句はまた、男性が睡眠中に耽る快楽が多くの悪霊を生み出すことを示しています。祝福された聖なる方は、この世界の永続性を確保するために、これらすべてのものを作成する必要があると考え、いわば、多くの膜に包まれた脳があるようにしました。境界線の相互作用が認識の基礎である2進法の元となる

 

 

蛇について、R・イサクは言いました、「これは邪悪な誘惑者です。」

R・ユダは、それは文字通り蛇を意味すると言いました。 彼らはR・シメオンに相談しました、

そしてR・シメオンは彼らに言いました。『両方とも正しい。 それはサマエルであり、彼は蛇に乗って現れました。蛇の理想的な姿はサタンだからです。 その瞬間、サマエルがこの蛇に乗って天から降りてきて、すべての生き物が彼の姿を見て逃げ出したことを私たちは学びました。 それから女性と会話を始め、二人は世界に死をもたらしました。 確かに、サマエルは知恵を通して世界に呪いをもたらし、神が世界で最初に創造した木を破壊しました。

 

この責任は、サマエルが上に祝福され、エサウが下に祝福されることがないように、別の聖なる木が来るまで、

すなわち、ヤコブが来るまでサマエルにあった。

ヤコブはアダムの子孫であり、アダムと同じ美しさを持っていたからである。

したがって、サマエルが最初の木からの祝福を保留したように、アダムと同じ種のヤコブは、サマエルから上も下も祝福を保留しました。 そうすることでヤコブは本来の自分を取り戻しました。

 

蛇は巧妙であった。この蛇は邪悪な誘惑者であり、死の天使です。蛇が死の天使であるがゆえに、世に死をもたらしました。

そして蛇はその女性に、そうです(af)、と言いました。

R・ホセは、「蛇はaf から始まり、世界にaf (怒り)をもたらした」と言いました。

蛇は女性に言いました[36a]。「神はこの木で世界を創造した。だからそれを食べなさい。そうすればあなたがたは神のようになり、善と悪を知ることになる。この知識によって彼は神と呼ばれるからである。」

 

R・ユダは言いました。「これは神の話したことではありません。なぜなら、神がこの木を介して世界を創造したと蛇が言っていないからです。その木は実際には「伐採者の手にある斧のようなもの」すなわち、使用されるものであって、使用者その人ではないからです。

 

しかし、蛇が言ったのは、神がその木を食べて世界を造ったということでした。「それゆえ、それを食べれば世界を創造することになる。神はそれを知っておられるからこそ、それを食べてはならないと命じられました。

 

R・イサクは言いました、「蛇の言葉は偽りの塊だった。 蛇の最初の発言は「確かに神があなたがたに園のすべての木を食べてはいけないと言われた」は嘘でした。なぜなら、神は「園のすべての木を必ず食べなければならない」と言って、すべての木は食べることが許されていたからです。

R・ホセは言いました。「「いま見たように、アダムがまだ世界に一人だったのを見て、なぜ神はこれが必要だと想って禁じたのでしょうか?

答えは、これらすべての禁止事項は善悪の木だけに適用できるということです。 なぜなら、それを手に入れる者は誰でも分別を引き起こし、それに執着する下界の群れと結びつくからです。

 

 

神がソロモンに関して、「わたしは人の鞭と人の子らの災いで彼を懲らしめるであろう(II Sam. VII, 14)」と言われました。これらの「人の子らの災い」とは悪霊たちのことです。

コラム参照 ソロモンと72の悪霊

 

悪霊たちはちょうど安息日が神聖化された瞬間に創造され、肉体のない霊として残されました。

これらは [48a] 完成されていない生命体です。 それらは左側から、金の滓であり、完成しておらず欠陥のままであったので、聖なる御名がそれらと関連して言及されることはなく、悪霊は御名と繋がっておらず、それを非常に恐れています。

 

聖なる御名は、欠陥のあるものと安らかにいることはありません。 したがって、息子を残さなかった欠陥のある生涯を終える者は、カーテンの内には入れません。

私たちが言及した被造物は上でも下でも拒否され、居場所がありません。

なぜこれらの霊魂の存在を上で完成させなかったのかと疑問に思うかもしれません。 それは、地上である下界で完成していなかったので、上界でも完成していなかったということです。

それらは人間には見えず、人間の周りを飛び回っていたずらをします。

 

R.エレアザルは、「蛇が自分の不純物をエヴァに注入すると、彼女はそれを吸収しました。そしてアダムが彼女と性交したとき、彼女は二人の息子を産みましだ。一人は不純な側から、もう一人はアダム側からでした。

そしてアベルは高次の形態で、カインは低次の形態だったので、生き方が異なりました。

悪魔、ゴブリン、悪霊などの邪悪な「死の天使」の側から来たカインが弟を殺すのは当然のことでした。

 

 

悪人が長生きする理由

ソロモン王は言いました。"地上に行われる虚栄があり、悪人の働きによって起こる正しい人がいる。(伝道814節)。すなわち、彼らの行いが善であるために、彼らが罰を受ける前に神は彼らをこの世から取り出します。この節の残りの部分、「悪人がいて、その悪人に正しい行いが行われる」とは、神が悪人らに猶予を与え、長く憐れんでくださるという意味である。

 

このように、善良な者は堕落しないために早く死に、悪しき者は悔い改める機会を得るために、あるいは徳の高い子孫が生まれるために生き続けるのである。

エノクは高潔であったが、神は彼が堕落することを見抜かれたので、やがて彼を天に集めた。

 

 

悪を排除する方法

第四の戒律は、主が神であることを認めることです。「今日を知り、主こそ神であることを心に留めなさい」(Deut. IV, 39)とあるように、つまり、Elohim () という名前とJehovah () という名前を、それらが不可分な一体性を形成しているという意識の中で結合することです。 そしてテキストの内的意味は「天の空に光がありますように。 emoroth () という言葉から vau が省略されることは、完全な一体性を示しており、黒い光と白い光とは 1 つの不可分な光」[12b] 2 つの現れにすぎません。同じことが「昼の白い雲」と「夜の火の雲」(出エジプト記 XIII21)によって象徴されています。昼と夜の 2 つの位相は互いに補完し合い、どちらも 1 つの全体を形成します。「地上に光を与えるため」とあるように。

 

ここに、下界を統合し、上界では分割した原初の蛇の罪があり、そのために私たちが今も嘆くような災難を引き起こしたのです。正しい方法はこの逆で、下界に多様性を認識し、上界に一体化性を認識することです。その結果、黒い光は上界では完全に融合し、その後、その多様な要素に関して一体化され、悪の力から遠ざけられます。

 

したがって、人間は、「神」と「主」がいかなる裂け目もなく一体であることを認める必要があります。「主とは神のことである」(1 Kings XVIII, 39)とあるように。そして、人類がこの絶対的な一体性を普遍的に認めたとき、

邪悪な力(sitra ahra)そのものが世界から取り除かれ、地上に影響を与えることはなくなります。

 

これは、meorothという語句が、moth ()に囲まれたor(光)によって作成されることが暗示されています。

ちょうど光の象徴である脳が、死である有害な力(sitra ahra)の象徴である脳膜に包まれているように。

光(or)が取り除かれると、両側の文字が合体して死(moth)を形成します。

 

 

 

 

 

 

スウェデンボルグ

1745年にスエデンボルグSwedenborg57歳の時に霊眼が開かれて書かれた天界の秘儀  Arcana Coelestina      

からの抜粋

 

 

4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

光は善自身である主から発しているために「善」と呼ばれている。

闇とは、再生以前の光のように見えたもの凡てのものを意味している。

形を基準にする人にとっては、悪が善のように、誤ったものが真のように見るのである。

 

主に属しているものは、光に属しているので日に喩えられ、

人間に属しているものは、闇に属しているので夜に喩えられる。

 

 

18 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。

 

昼は善を、夜は悪を意味する。

「人は光よりも闇を愛した。真理を行うものは光に来る」ヨハネ伝3.1921

 

生命は善いものと真のものの中にのみ在って、生命は悪と誤ったものの中にはない。

 

まずは記憶知scientificaの信仰fides                   313  生きていないもの

次に理知的信仰                               313  生きていないもの

最後に愛の信仰、すなわち救いである心の内なる体感        2025  生きたもの        光体

によって受ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

太陽

生命

日を支配する大きな方の光体 

信仰  

物質

夜を支配する小さい方の光体 

この2つが1つのものになるため、単数で「光あれ」と神はいわれた。

 

 

理解と意志が一体になると天界に向かい、

理解と意志が矛盾すると地獄へ向かう。

 

「戒めの第一は心情と魂と心と力を尽くし主を愛することである。第二は隣人を自分のように愛することである」

マルコ伝12.2931

 

 

2つの結合

太陽によって月が生かされる時に、真の生命が構成される。

意志によって理解がある時に、真の心が構成される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天界

意志

女 娘

太陽

体験的

実践

行動

霊界

信仰

理解

男 息子

教義的

知識

思考

 

 

 

 

 

 

 

 

凡てを主から

体験

生む

果実、種

行う

似た霊

神の子

体験で学ぶ

知識

真理

増える

聞く

形の映像

光の子

聖言で学ぶ

 

 

 

 

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 

人は主から発した認識によって知ることは許されているが、自己や世間から知ることは許されていない。

すなわち、感覚と記憶を使って秘儀を探求してはならない。

もし探求すれば、天的なものとつながるルートが破壊されるからである。

感覚と記憶を使って秘儀を探求する欲望は、子孫と教会の堕落の原因になる。

理由は不完全な秘儀から誤謬と生命の悪が発生するからである。

 

善悪の果実を食べると、自分の善悪の判断を基準にしてしまい、

他からの知識や自分の記憶を参考にして、それらでは理解できない事柄は信じるに値しないと想って生きてしまうと、天的なモノを感覚するのはラクダが針の穴を通るように不可能である。

 

たとえば見えないものは信じない、という座右の銘を持つ者でいる。

すると天的なものを感覚できなくなり、霊的なモノや生命の存在さえも信じることができなくなるからである。

こうして善悪の実を食べると、分別を優先させる基準から始めることで、生命そのものから離れてしまうことになる。

つまり、死に向かってしまうのである。

換言すれば、アウトプットが決まった善悪の回路に支配されてしまうことになる。

 

科学を学ぶことや、学者のように考えることは禁じられていないが、考えの出発点は自分自身ではなく主であることが条件である。

理由は科学や学者の考え方を自分から始めるのは死にいたり、主から始めるのは生命だからである。

 

 

22 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

肋骨は、生かされていない人間自身を意味する。

女は、主により生かされた人間自身を意味する。

「人のところへ連れてこられた」とは、人間自身のものが、人間に与えられたことを意味する。

この人間自身は、肉体ととなった肋骨が心臓を抱くように囲む。

人間自身とは自己愛と世間愛のことである。この妄想の愛が人間を欺くことになる。

「自分自身」とは全体性から切り離された部分を意味する。

 

組み立てるとは悪から善へ

甦らす(再び起こす)とは誤謬から真理へを意味する。

イザヤ書61.4

 

凡ての悪と誤謬は人間自身のものから発する。

理由は全体から切り離された「部分」が悪だからである。

造る、すなわち組み立てるとは、堕落した部分を全体性に引き上げることを意味する。

 

主によって生かさている人間は、主の天的なものが適用される生命に応じた変化を伴って、美しく可憐である。

 

自分自身のものが主によって生かされる時、それは主の花嫁と呼ばれ、天界の結婚となる。

これが肋骨が女になるという意味である。

この天界の結婚により、自分自身は愛の善と理解の真理を認識し、幸福に関わる智慧と理智を持つことになる。

 

 

 

29 神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。

 

種をもつすべての草      各各の真理

種のある実を結ぶ木    信仰の善

 

草               主が霊的な人に与えるもの

果実              主が天的な人に与えるもの

 

その水は聖所から流れ出るからであり、その果は食物となり、その葉は薬となるだろう。

エゼキエル書47.12

 

聖所から流れ出る水は、主の生命と慈悲を意味している。

果実は智慧であり、葉は理智である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

肉体

 

 

欲念と誤謬に支配

悪なる人間

 

 

霊への再生過程

野菜と青草

戦闘的

欲念と誤謬を持つ

悪霊は逗まる

理智

 

再生して天なるもの

種ある草と果実

静謐

永遠の生命と善

主によって善へ

智慧

 

 

3

 

 

 

 

 

 

 

知識の木の実を食べる

男が食べた

目を開けた

エホバの声を聞く

感覚的

自己愛

合理的

主の言葉を検討する

合理的同意

残存する悪の認識

善が残存している

 

7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

目が開くとは、内的な指示により、以前の無垢ではなく、悪の中にいること承認したことを意味する。

動物は裸を恥じることがないように、裸で恥じないとは、無垢であることを意味する。

しかし、高潔と無垢が去った時に自分の裸を恥じるようになる。 

無垢のない所では、裸は悪を考える意識を伴っているので、裸は不名誉であり、恥辱である。

つまり、無垢のないところは2つにわけることで成り立つ世界観であり、裸と着服が並列した場合は裸は劣ることになり、2分した世界からみると、恥に感じるようになる。

 

眼は認識、理解、解釈を意味する。

エホバはあなたたちに知る心を、見る目を、聞く耳を与えられなかった。申24.4

この心は意思を、目は理解を意味する。

 

 

 

誤謬の原因は知識

いかなる時も霊自身から語ったことは凡て悪い誤謬である。

これまで真理として確信して疑惑の対象にすることがない事柄であっても、直ちに誤りであることを知るようになる。

同様に、人間自身から語られることは凡てが悪い誤謬である。

したがって、天なる生命についての考えを論じ始めたならば、その論議は誤謬である。

なぜならば思考や感覚器官を基準にした解釈は、他の思考や解釈を否定することになるからである。

 

いちじくの葉をつづり合わせて、とは自分自身に言い訳をすることを意味する。

いちじくは自然的な善を、つづりあわせるとは恥辱を感じることを意味する。

自然的な善の中にいるメリットは悪が隠されていることだが、デメリットは恥辱を感じることである。

つまり、自然的な善の内にいると2分別していないので悪は見いだせないが、隣りにある善の外にいると2分別の世界なので、善という対象は恥を感じさせるものになる。

 

 

聖書ではブドウは霊的な善、イチジクは自然的な善を意味する。

つまり、霊的善は素粒子より微細で見えないが、自然的な善は肉眼で見えるものなので、視点によっては恥になる。

 

イエスは途中で一本のイチジクの木を見たが葉しかみられなかった。

これからは果がならぬようにとイエスが言うとイチジクの木は枯れてしまった。

マタイ伝21.9

 

イスラエルが荒野のブドウのようになっているのを見た。あなたの父祖がイチジクの初生の実のようであるのを見た。

ホゼヤ書9.10

 

 

良心の起源

悪霊が支配し始めると天使たちは悪と誤謬とを人間から外そうと努力することで、争闘が生まれる。

天使と霊の努力が内なる指示と良心であり、争闘は試練になる。

つまり、この争闘を詳細に見つめ、その因果関係、TPOを知ることで、天使たちと語り合うことができる。

天使たちは人間の考えを完全に認識している。

人間の考えとは霊界の一部であるからである。

 

蛇に欺かれたのは、人間が合理性に愛着して、その合理性を基準にすることにより自らが欺かれたことを意味する。

この合理性に対する愛着も自己愛の一部である。

 

 

誤る科学的認識

神は蛇ではなく人間に呼びかけたのは、人間が自身の感覚によって欺かれただけではなく、人間が自己愛に基準をおいていたからである。

人間の悪は自分自身と自分の感覚を信じ(基準にし)て、主を信じ(基準にし)ないことである。

したがって、主を基準にしないところには隣人の愛も存在しないので、凡ては誤った悪である。

 

現代の人間がさらに悪いのは、人間の感覚が基準にならないことを科学と論理性によって確認しているのに、変わらず自己愛と感覚を基準にしていることで大きな暗闇にいることである。

つまり、感覚と科学が扱う領域は天的そして霊的領域と比べると粗雑であるので、自然のより微細な因果関係を発見するどころか、気づくこともできない。さらに粗雑な領域で因果関係を結んでしまうので、過剰一般化や誤謬に陥ってしまう。

 

 

悪霊と天使

つまり人間が悪を行っているのではなく、悪霊とも呼ばれるもの、すなわち各自が過去に作成した自動反応回路が悪や誤謬を行うのである。

その間違ったアウトプットによって人間は主から遠ざかるのであるが、人間は主ともいわれる普遍エネルギーによって構成されているのである。

同様に、人間が善を行っているのではなく、天使とも呼ばれる自動反応回路からの離脱によって善を行うのである。

主に向く、すなわち善を行うことは自分自身では出来ないので、主のみが善を行う力がある。

これを認識することで、人間は自分自身から行動者として善を行い、自分自身を主に向けることができるのである。

 

これらのことは知覚、科学知、哲学によっては理解できないので、自動反応回路は対象として扱われないので、これらのことが真理であったとしても科学や哲学の領域では否定される。

 

 

10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

隠すとは、主の慈悲、平安、あらゆる善を恐れることを意味する。

 

 

15 わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

 

この節は主が世に降臨することを予言している最初のものである。

蛇は、悪の凡て、とくに自己愛を意味する。

女は、再生プロセスの人間、自己愛によるアイデンティティ(自分自身の固有性)、すなわち教会を意味する。

すえは、裔(子孫)、種、精を生み出し、生み出さたものを意味する。具体的には理解(信仰)を意味する。

蛇のすえは、凡ての不真実を意味する

女のすえは、主に対する理解(信仰)を意味する。

彼は、主(イエス)自身を意味するとあるが、宇宙法則を意味すると私は想う。

主とは欲界の意識体であると判断するからである。

蛇の頭は、悪の支配、とくに自己愛の支配を意味する。地上の凡てを治める主権を求めるほどである。

かかとは、蛇の損なう最低の自然的なもの(形体的なもの)を意味する。 ヤコブはかかとに由来する。

人間の天的、霊的なものを頭、そこから生まれる仁慈を胸、自然的なものを足、形体をかかとと解釈する。

 

蛇の頭はルシファとも呼ばれる。

ああルシファよ、おまえは天に登り、神の星の上に自分の王座をあげ、・・・至高者に等しいものともされよう、と心の中で言った。

イザヤ書14.12

蛇に象徴される自己愛そしてそこに属する感覚、科学、哲学によって、形体そのものをも破壊し続けている。

 

 

 

蛇と救い

蛇は感覚により把握できないものを信じようとはしないため、奈落的なものになってしまった。

それゆえに、主はこの世に来ることを約束された。

 

17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。

 

「妻の言葉を聞く」とは、男すなわち合理的な同意を意味する。

これによって自身を神から離反させ、自身を呪うことになる。

 

苦しんで食物を取る、とは理智はもう消え去り、推理のみが残ったことを意味する。

苦しむとは、悪霊と闘うために天使たちが労苦することを意味する。

「食物を取る」とは、内意で生きることを意味する。

 

悪霊が主権を獲得し始めると更に悲惨になるのは、内なる人には僅かなものしかなく、悪霊が外なる人を支配して、不安がうまれてくるからである。

 

死んだ人間が悲惨と不安を殆ど感じないのは、自分自身を他者よりも優れており、真の人間だと自負しているが、実際はもはや人間ではなく獣だからである。

霊的、天的、永遠の命について獣と同じように知らない。

外なる世界を見て、自分自身のもののみを好み、それを合理化することで、自分の性向と感覚を溺愛するからである。

死んだ者であるので、生前は霊的な争闘を受けることはなく苦悩は免じられるが、死後は試練の時に、その生命は重圧の下に沈み、自らの呪いにより地獄に突き落とされ、最も痛ましい苦悩に苛まされる。

この苦悩は土地が呪われることにより、大いに悲しみながら食べることを意味する。

 

 

18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

 

いばらとは呪い、アザミとは荒廃を意味する。

野の草を食べる、とは野生の動物のごとく生きなくてならないという意味である。

人間は内なる人が外なる人から分離した場合は野生動物のように生きる。

理由は内なる人を通して主と交流することで人間となるからである。

外なる人だけでは野生動物と同じ性質、欲望、幻想、知覚を持つ生物になる。

外なる人でも思考や推理ができるのは、霊的な原質によるものである。

その霊的原質は神からの流出ではあるが、それは歪められているので悪の生命となる。

どのように歪められているのか?

 

21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

「皮の着物を造って、着せられた」とは、主が人間に霊的そして自然的善を教えられたことを意味する。

皮は羊であり、仁慈を意味する。

主は羊飼いと呼ばれ、仁慈を与えられている者は主の羊と呼ばれている。

人間が無垢を失った時、自分らが悪の中にいることを意識し、悪の中にいないようにするために裸にならないように皮を着せられた。

 

 

 

着物と衣服

 

最も内なるもの

天的

智慧

無垢

第2子孫

外なるもの

霊的

理智

 

着物 皮

第3子孫

更に外なるもの

自然的

自然法則

 

着物 

第4子孫

更に外なるもの

人工的

合理性

 

衣服

 

 

 

22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

主なる神は単数、われわれは複数なのは、われわれとは天使を含む天界を意味している。

善悪を知るとは、人間に木の実を食べたことで霊的要素が流入したため、理智的なものを基準にするようになってしまったため、本来の善悪の判断ができないのに、誤謬のある善悪の判断を勝手にするようになったということ。

「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」とは、人間が、主レベルの善ではなく、天使や霊レベルの理智的なレベルの善悪までは知ることができるようになったことを意味する。

しかし、人間には悪霊(デーモン)、すなわち思考パターンに操作されているので、それらを除かないかぎり理知的善悪は誤謬に晒される。

 

「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」とは人間に諸々の秘儀を教えてはならないことを意味する。

命(複数形)とは愛と理解を、食べるとは知ることを意味する。

 

「永遠に生きる」とは、身体と共に永遠に生きるのではなく、死後に地獄で永遠に生きるのである。

命の木を食べることを教えてはならない理由は未来永劫に救われることができなくなるからである。

 

人間は善悪の実を食べて、転倒した秩序の生命となり、自分自身を基準にして賢明になることを望むことで、主を基準にすることをしなくなることで、理解した知識がそうであるか、ないかという議論をする。

しかしそれは自分の感覚と記憶知(科学、原理、法則)を基準にするため、必然的に「いのち」の否定に陥り、神の冒涜に陥ることになる。

こうして人間は汚れたものと聖いものと混合することにためらいはしなくなる。

 

その者が永久に生きるようになると、救いの望みがなくなるほど罪に定められる。

冒涜により混入したものによって、聖いものは必ず汚れたものと混同されて、呪われた者(地獄)の社会にしかいることができなくなる。

 

思考パターンは霊の世界では認識されるので、1つの回路からその人物の性格が知られる。

連結された汚れた思考パターンと聖なる思考パターンを分離するには地獄の拷問によらなくては不可能である。

 

かれは彼らの眼をめくらにし、その心を閉じられた、彼らが目で見て、心で理解し、回心して、わたしが彼らをいやすことのないためである。

ヨハネ伝12.40

 

だから、彼らには譬えで語かたるのである。それは彼らが、見みても見みず、聞きいても聞きかず、また悟さとらないからである (マタイ13.13

 

譬えでは話すが、その意味を説明しなかったのは希望がなくなるからである。

秘儀は教会の表象的な物の下に隠された。

 

知ることと承認することは別物である。

知ってはいるが、承認しない者は知らない者である。

しかし、主のこれらの言葉により意味されている者は承認はするが、後になって汚し、冒涜する者である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラム

ネフィリム  Nephilim, which was developed in the second century b.c.e. in the Book of Enoch.10:8

Nephilim「(天から)落ちてきた者達」という意味の巨人。「ネピリム」とも表記される。

『創世記』第614節によれば、地上に人が増え始め、娘たちが生まれると、神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。こうして神の子らと人間の娘たちの間に生まれたのがネフィリムであった。彼らは大昔の名高い英雄たちであったという。

『民数記』第133233節ではカナンを偵察したイスラエルの一隊が、「そこにすむ民は巨人であり、ネフィリムである。彼らアナク人はネフィリムの出だ」とモーセに語る場面がある。

 

旧約聖書のギリシア語訳(70人訳)では、ネフィリムを「gigentes(ギゲンテス)」と訳しています。これは、英語の「ジャイアンツ(巨人)」の語源となった言葉です。

 

「神の子ら」とは,神様に反逆した天使たちのことです。彼らは天の「あるべき居所を捨て」,人間の体を着け,

「自分たちのために妻を,すべて自分の選ぶところの者をめと[]」ました。(ユダ 6。創世記 6:2

 

 この不自然な結びつきから生まれたのは,普通の子どもではありませんでした。(創世記 6:4

ネフィリムは乱暴な巨人であり,地を暴虐で満たした虐待者です。(創世記 6:13

「昔の力ある者たち,名ある人々」と呼んでいます。(創世記 6:4

彼らは暴力と恐怖の象徴として記憶されるに至りました。(創世記 6:5。民数記 13:33

「まことの神の子ら」(創世記 6:2

この同じ表現を天使に対して使っています。(ヨブ 1:6; 2:1; 38:7

かつて,天使は人間の体を着けることができました。(創世記 19:1-5。ヨシュア 5:13-15

「獄にある霊たち……かつてノアの日に神が辛抱して待っておられた時に不従順であった者たち」(ペテロ第一 3:1920

一部の天使たちが「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居所を捨てた」と説明しています。(ユダ 6

 

創世記 64節の文脈から,ネフィリムは天使ではなく,人間の体を着けた天使と人間の女性との性関係によって生まれた子どもであることが分かります。

天使たちが「自分たちのために妻を,すべて自分の選ぶところの者をめとっていった」後,エホバは当時の邪悪な人間社会に対して120年後に行動を起こすと言われました。(創世記 6:1-3

人間の体を着けた天使たちは「人の娘たちと関係を持ちつづけ」,「昔の力ある者たち」つまりネフィリムを生み出しました。(創世記 6:4

 

 

 

アザゼルAzael

レビ記第16章の贖罪の日の儀式についての記述のなかで言及される。また、黙示文学やラビ文献にもアザゼルという名の堕天使が登場する。

 

 

70人訳聖書では該当部位に「アザゼル」という単語を使わず、8節の「(主に捧げない方の山羊は)アザゼルのために」、10節の「(山羊を)荒れ野のアザゼルの元へ送り出す」という部分がそれぞれ「送り出されるもののため」、「解き放つため」というように、山羊に対して行う行為内容として翻訳されている。これはギリシャ語に翻訳した70人訳聖書の訳者が、「アザゼル」が何だったのかわからなかったためと考えられている[5]

 

英語の scapegoat (初出16世紀)は scape escape, 逃げる)と goat (山羊)の合成語で[6]、「贖罪の山羊」、あるいは身代わりや犠牲を意味する言葉として用いられる[7][要出典]これは山羊が罪を負わされて荒野に放逐されたという「レビ記」の故事に由来する[8]。日本でも、身代わりに他人の罪を負わされる者[9]、不安や憎悪のはけ口として迫害の標的にされる者[10]をカタカナ語で「スケープゴート」という。

 

堕天使としてのアザゼル

アザゼルまたはアザエル (Azael, Azzael) は『第一エノク書』などの黙示文学やラビ文学において堕天使として登場する。この天使はアシエル (Asiel, Assiel)、アゼル (Azel) とも表記される[4]。『アブラハムの黙示録(英語版)』では7つの蛇頭、14の顔に6対の翼をもつとされる[4]

 

エノク書

旧約偽典のひとつであるエチオピア語の『第一エノク書』によれば、

アザゼルは人間の女性と交わる誓いを立ててヘルモン山に集まった200人の天使たちの一人で、その統率者の一人であった(第6章)。

 

200人の天使たちは女性と関係をもち、女たちに医療、呪いなどを教え、女性たちは巨人を産んだ(第7章)。

アザゼルは人間たちに剣や盾など武具の作り方、金属の加工や眉毛の手入れ、染料についての知識を授けた(第8章)。

神の目から見れば、アザゼルのしたことは「地上で不法を教え、天上におこなわれる永遠の秘密を明かした」ことであった(第9章)。

神はラファエルにアザゼルを縛って荒野の穴に放り込んで石を置くよう命じた(第10章)。

エノクは縛られて審判を待つアザゼルを見て声をかける(第13章)。

天使の言葉のなかでアザゼルが堕天使の頭目として言及される。第69章では堕天使たちのリストの10番目にその名が挙げられている(第5455章)。

 

『エノク書』に記される伝説では、堕天使としてのアザゼルはもともとは神に命ぜられて地上の人間を監視する「見張りの者たち」(エグレーゴロイ)の一人であった。アザゼルら見張りの天使の首長たちは、人間を監視する役割であるはずが、人間の娘の美しさに魅惑され、妻に娶るという禁を犯す[ 1]。アザゼルらとともに200人ほどの見張りの天使たちが地上に降り、人間の女性と夫婦となった。『第二エノク書』では、この堕天使の一団はスラブ語でグリゴリ(Grigori=見張り)と呼ばれる。こうした物語は、“「神の子ら」(ベネ・ハ=エロヒム)が人間の娘と交わった”とする創世記の記述を後世の黙示文学の作者たちが発展させたものと考えられている。

 

アザゼルに関する諸説

この節の出典は、Wikipedia:信頼できる情報源に合致していないおそれがあります。そのガイドラインに合致しているか確認し、必要であれば改善して下さい。(20165月)

『エノク書』の伝説においてはアザゼルらグリゴリの行動は人間の文化向上に貢献した[12]が、結局のところ、神の機嫌を損ね、神は地上に大洪水を引き起こし、大虐殺を行った。

 

アザゼルが堕天使となった経緯についてはいくつか説があるが、そのひとつに、神の創り出した人間アダムに仕えるように命じられるも、「天使が人間などに屈すべきにあらず」と頭を下げなかったという伝説がある。このアザゼルの行いは神を否定するに等しい行為で、結果、天界を追放されたとされる[13]

 

アザゼルという名は「神の如き強者」という意味のヘブライ語に由来する[12]。前身は砂漠の神で、カナン人(古代パレスチナの住民)の神アシズ (Asiz) がルーツであると言われる。この神は太陽を激しく燃やすことを使命としたとされる[12]

 

魔神学におけるアザゼル

フレッド・ゲティングズによると、中世ヨーロッパの鬼神論ではアザゼルは風の元素、アザエルは水の元素にむすびつけられる悪魔である[14]。ネテスハイムのコルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学』は、四方を司る精霊の王[ 2]の別名、あるいはそれに対応する悪魔の四君主としてサマエル[ 3]、アザゼル[ 4]、アザエル[ 5]、マハザエル[ 6]の名を挙げている[15]。ロバート・フラッドの『普遍医学』と『宇宙の気象学』に基づいて、その対応関係を以下に示す[16]

 

 

四方と元素と悪魔の対応

方角

元素

天使

風の霊[ 7]

悪魔

ミカエル

オリエンス

サマエル

ウリエル

アマイモン

アザゼル

西

ラファエル

パイモン

アザエル

ガブリエル

エギン

マハザエル

 

コラン・ド・プランシーの『地獄の辞典』によると、アザゼルは山羊番の魔神である[17]。ゲティングズは、通俗的なデモノロジーで悪魔のアザゼルと山羊がむすびつけられるのは「レビ記」のアザゼル(前述)にかこつけたものであろうと指摘している[18]

 

 

UZZA AND AZA'EL

heroes of a medieval tale based on the biblical story of the Nephilim (cf. Gen. 6:4), which was developed in the second century b.c.e. in the Book of *Enoch.

 

中世の物語によれば、ウッザとアザエルは人間の邪悪さを神の前で証明しようとした二人の天使で、彼らは人間の女と罪を犯した。一人の少女イステハルは、彼らが天に昇るときに唱えた神聖な名前を明かすように説得し、それを使って星になった。ウッザとアザエルの二人の息子、iwaiyyaは大洪水で死んだ。

ウッザとアザエル自身は神によって追放されたが、彼らはまだ生きており、この世の悪のいくつかに関わっている。

 

この伝説は、中世ヘブライ語散文における第二神殿時代文学の一般的な復興の一部であり、カバラによって翻案された。ゾーハルには長い説明があり、さらにカバラ的な特別な意味が多数紹介されている。いくつかの魔術の写本、例えば「ハヴダラ・デ・ラビ・アキバ」では、2人の天使の名前が魔術の公式で使われている。

 

 

 

 

 

シェディムShedim、ヘブライ語: שֵׁדִים‎)は、初期のユダヤ神話における精霊または悪霊。

シェディムは彼らが創造神ではないという意味でのみ悪である。

シェディムは悪の半神半人や共同体外の神々という意味での悪であり、病気の原因と考えられている悪霊という意味での悪とは異なる。

シェディムは必ずしも悪意を持つ存在ではなく、人間にとって役に立つこともあると考えられている。

シェディムはアスモデウスのように、トーラーを守って生きることさえできると言われている。

 

旧約聖書の『申命記』3217節、『詩編』10637節に登場し、『詩篇』の次節でそれは「カナンの偶像」と説明される。

 

ローズマリ・エレン・グィリーによれば、これはマジキン(Mazziqin)と呼ばれる「人を傷つける悪霊」の一種で、リリスまたはサッキュバスと人間の子であるという。

元々、「死後の死体を動かす」とされたが、後の伝説では毛深く獰猛な悪霊で、不機嫌な人間を異形なものと一緒に置き去りにすると信じられるようになった。

 

キャロル・ローズ『世界の妖精・妖怪事典』で「人間にとって危険」な「悪魔、デーモン」で、「呪術と関連」付けられるものの、この悪霊は現代において必ずしも悪の存在としてイメージされるものとは同じではない。

 

 

ナアマNaamah נַעֲמָה‎  トバル・カインTUBAL CAINの妹

Genesis 4:22,

チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。

 

「楽しい」「愉快な」を意味する女悪魔

The Zohar I 55a,において、ナアマは大天使サマエルの妻の一人として登場する。

彼女は、彼女の一味であるリリスと共に、子供達に癲癇を引き起こす。

カインがアベルを殺害した後、アダムは130年間イヴから離れる。

この間、リリスとナアマは彼を訪ねて、人類にとって疫病となる彼の悪魔の子供を産む(ゾーハル 3:76b-77a)

ゾーハルの別の話では、ナアマはシェムハザとアザゼルを堕落させる。

 

R・ヒヤは言いました。「なぜ聖書は特にナアマについて言及しているのでしょうか?

その理由は、彼女が男性だけでなく、精霊や悪魔をも誘惑する偉大な魅力があったからです。」

R・イサクは言いました。「聖書で言及されている「神の子たち」とはウザとアザエル(コラム参照)のことで、彼女に誘惑されました。」

(創世記VI4章) そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

R・シメオンは、「彼女はカインの側にいた悪魔の母親であり、リリスとともに子供たちに癲癇をもたらしたのも彼女だ」と述べました。

R・アバは彼にこう言いました。「彼女の役割は男性を誘惑することだと前に言いませんでしたか?」

彼は答えました「その通りです。彼女は男たちと楽しみ、時には男たちから霊を宿すこともある。そして彼女は今でも男たちを誘惑するために存在しています。

R・アバは彼にこう言いました『しかし、これらのデーモンは人間のように死なず、どうやって死ぬのですか?』

彼女は今日まで存在するのでしょうか?

「そのとおりです。リリスとナアマ、そして彼らの側から出たマフラトMahlathの娘IggerethイゲレスIggerethは、「わたしは汚れた霊をこの地から追い出すだろう。(ゼカエル132節)」とあるように、聖なる者が汚れた霊を一掃するまで、存在し続けるでしょう。

 

 

 

病気と悪魔と測定できる領域

悪魔とは人間の迷いの心のこと、つまり思考を使うのではなく、思考に使われている、ということです。

ヒトは他の動物と同様に自動反応回路も使って生きていたが、それをあえて意識する必要もなかった。

表層意識では計測できる領域を分析して評価するので、全体性を把握することはができない。

 

蛇の誘いによって善悪の判断をしてしまうようになったが、それは深層意識を除外した表層だけなので、長い目で見ると、善悪の判断が逆にひっくり返るようなことにもなってしまった。

どのようにひっくり返ったでしょうか?

 

野生が家畜に

原野から牧場に

森から動物園に

 

長期的因果関係が短期的因果関係に

智慧が知恵に

自然の法則が人間の法則に

気の流れが病理学に

自然の因果関係が人間が想う健康法に

 

つまり、あるがままの世界から思考の世界という波動の中に暮らすことで、

野鳥が抗生物質を与える衛生的空間でくらしても病気になるということです。

 

 

 

 

 

悪の生まれた創造神話の社会変化

母系社会から男系社会への変化

悪はもともと神話であり、大きな憎しみや怒りをもつ一部の邪悪な男性によるでっち上げであった

その一部の男性とは女性から見向きもされない人間的魅力のない男性の不満が力の根源である。

 

 

 

 

 

 

 

 

思考のメカニズム  善悪を生み出す構造     ゾハールの書より抜粋

聖なる方は、この世界の永続性を確保するために、これらすべてのものを作成する必要があると考え、いわば、多くの膜に包まれた脳があるようにしました。境界線の相互作用が認識の基礎である2進法の元となる

 

 

全世界は、最初の神秘的なポイントからすべての段階の最も遠いところまで、この原則に基づいて構築されています それらはすべて[20a]互いに覆い合うものであり、一方が他方の殻となるように。頭脳の中の頭脳、精神の中の精神となります。

原初の点とは、純粋さの最も内側にある光で、透明さと粘り強さがある理解を超えたものです。その点の延長は「神殿」(Hekal)となり、輝きの透明性をまだ知ることができない原初の点のために神殿は「法衣」を形成します。

知ることのできない点の「法衣」である「神殿」もまた、理解することのできない輝きですが、それでも原初の神秘的な点よりも微細でも透明でもありません。

 

この神殿は光の「衣」である原初の光にまで及びます。 この点から、次から次へと伸びていき、それぞれが互いに膜と脳のような関係にありながら、他のものに対する法衣を形成しています。

最初は法衣ですが、各段階が次の段階にとっての頭脳になります。

 同じプロセスが下界で行われるため、このモデルでは、この世界の人間は、世界のより良い秩序のために、脳と殻、霊と体を組み合わせています。

 

月が太陽とつながっていたとき、月は輝いていたが、太陽から離れて自分の霊的集団の責任を割り当てられるとすぐに、彼女は自分の地位と光を弱め、シェルの上にシェルが脳を覆うために作成され、すべては脳の利益のために作成されました。 したがって、メオロスは不完全に記述されます。これはすべて世界の利益のためであり、したがって「大地に光を与えるため」と記述さています。

 

 

 

 

『エノク書』

ゲエズ語(古代エチオピア語):መጽሐፈ ሄኖ,ヘブライ語: ספר חנוך א'

『第一エノク書』は、紀元前12世紀頃成立と推定されるエチオピア正教会における旧約聖書の1つ。

エノクの啓示という形をとる黙示である。多くの文書の集成であり、天界や地獄、最後の審判、ノアの大洪水についての予言などが語られており、天使、堕天使、悪魔の記述が多い。

 

『第一エノク書』は元々アラム語で書かれていたらしい。アラム語の断片が死海文書の中に見出される。現在エチオピア語訳が現存しているが、19世紀にエジプトにおいて、ギリシア語でかかれた『エノク書』の断片が発掘された。しかし、スラブ語訳・エチオピア語訳共に、原本の通りに訳されたわけではなく、様々な記述が加えられている。

 

書かれた当初は広く読まれたらしく、教父達の評価も高かった。初期のキリスト教の一部やエチオピア正教では『エノク書』は聖書の一部とされる。 他では偽典とされるが、七大天使などでエノク書にしか現れない天使名が使われており、キリスト教初期には広く知られていた。

 

『ユダの手紙』114-15節は『エノク書』608節と19節を引用している。

 

 

 

正典とは認められていなくても人の心に深く残り影響を与え続けてきた外典の物語は多数ありますが、

その中でも有名なのが「エノク書」です。

この「エノク書」には「創世記」には

「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」

と6行の言及があり、エノクが体験した話が108章にわたって綴られているもの。

その中には、200人の天使が地上に降りて来て

人間の女性と交わり巨人を生んだ話など、聖書では簡潔に触れられている話が事細かく書かれています。

『旧約聖書外典 下』関根正雄編(講談社文芸文庫)は、第六章〜第十一章、第九十四章以下が割愛されています。

 

さて、その割愛されているノアに関する物語の部分は、The Book of Enoch にエチオピア語からの英語訳があります

 

 

 

『第一エノク書』とその概要

■成立過程について

 『エチオピア語エノク書』は『第一エノク書』(1 Enoch)とも呼ばれています。現在全体としてまとまって残っているのは、エチオピア語のものだけですが、これのほかに、クムランの洞窟から発見されたヘブライ語の断片やアラム語の断片、またギリシア語やラテン語の断片があり、さらに、エチオピア語訳よりも短くまとまったスラブ語訳のものもあります。現在では、『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)は、その大部分がアラム語で書かれ、これがギリシア語訳を通してエチオピア語へと訳されたと考えられています〔村岡崇光訳『エチオピア語エノク書』〕。

〔注記〕引用した『第一エノク書』の訳文は、この岡村氏の版からのものと、Nickelsburg(3)に基づく私訳とを併せ用いています。また、岡村訳で用いられている「寝ずの番人」という訳語は、わたしなりに「見張りの天使」と訳し変えてあります。この点ご了承ください。

 この書の内容からその成立過程をたどると、その起源は古く、古代バビロニア語の賢人の文書やバビロニアの神話『アトラ・ハシース』、それにバビロニアの天文学へさかのぼると見られています(紀元前1800〜600年)。なお『第一エノク書』を構成する諸文書は、独立して区別されているのではなく、内容的に互いに重複します。上記の古代バビロニアの伝承から、ヘブライ語の創世記6〜9章が書かれました(前10世紀か)。創世記6章4〜5節にでてくる神々と人間との結婚話は、エジプトにも、またバビロニアのギルガメシュ神話にも見られます〔Wenham Genesis.6:45〕。ただし、創世記のネフィリム(巨人)に関する記事は、バビロニア型ではなく、ウガリットやギリシアなど、地中海系の神話につながるもので、このことはヤハウェ資料が地中海系の伝承ともつながりを持っていたことを意味します〔関根訳(注)165〕。

 創世記のこの部分とバビロニアの天文学から、『第一エノク書』の「ノア書」にあたる部分(6〜11章/同65〜67章/同83〜84章/同106〜7章)が成立し(前4世紀)、さらにこれらバビロニア語とヘブライ語の諸文書から、「エノクの旅」(同17〜36章)と「エノクの幻」(同6〜16章)と「エノクの天文の書」(同2〜5章/同72〜82章)がアラム語で書かれました(紀元前3世紀)。エノク伝承のこれら三つの書から、「見張りの天使たちの書」(同1〜36章)がアラム語で書かれ(前4世紀末?〜前3世紀)、「見張りの天使たちの書」を始め上記の諸書から「巨人の書」が書かれ、また「エノク書簡」(同91〜105章/108章)と「エノクの夢」(同83〜90章)と「エノクのたとえ」(同37〜71章)が、やはりアラム語で書かれました(前2世紀)。これら三つのエノク文書をもとにして、ギリシア語で「エノク諸書」が書かれます(紀元1世紀頃)。ただし、「巨人の書」だけは、上にあげた三つのエノク文書とは別個に伝えられて、この「巨人の書」と「エノク諸書」とから、マニ教の聖典となったペルシア語の「巨人の書」(紀元250年頃)が成立したと考えられます。「エノク諸書」と先の「見張りの天使たちの書」から、ヘブライ語かギリシア語?で「エノクの奥義」が書かれました(紀元1〜2世紀)。エチオピア語版のエノク書は、「エノク諸書」のギリシア語版から訳されたと推定されます(紀元4世紀〜5世紀)。これに遅れて、その後スラブ語の「エノクの奥義の書」が書かれています(紀元9〜16世紀)〔フォーサイス22021〕。

 以上で分かるとおり、『第一エノク書』は、長期間にわたって複雑な過程を経て成立した文書です。この文書は「ギリシア・ローマ時代を生き延びた最も重要なユダヤ教の文書」〔Nicklesburg (3) vii〕と言われるほど多様で豊かな内容を含む書です。特にイスラエルの黙示思想を探る上では、重要な文書と見なされています。以下にその内容をできるだけ分かりやすくまとめてみたいと思います。まとめは、村岡崇光訳とその解説『第一エノク書』『聖書外典偽典』(4)に基づきながら、さらにこれを Nicklesburg: 1 Enoch. A New Translation. Fortress Press (2004).と照合してあります。

■(1)序の書:1〜5章(ペルシア時代からヘレニズムの初期)

ここは1〜36章(前250〜前200年)までの導入部分です。神から啓示を受けた義人エノクは、終末の苦難の時に選ばれる義人と追放される不敬虔な者たちについて、天使たちから見聞します。最初に、主なる神が、シナイより天の軍勢を従えて顕現し(申命記33章1〜2節)、その栄光によって、山々はふるえもろもろの丘は低くされます(第三イザヤ56〜66章)。次に来るべき遠い時代のことが語られます。神が創造された宇宙では、星の運行も四季の巡りも樹木の葉が落ちるのも落ちないのも、すべて神の定めの通りに行なわれています。ところが人間は神の定めに従わず、傲慢に陥り平和を失ったのです。

このため、人間たちに終末の裁きが臨み、義人と選ばれた者たちは知恵と命を授かり、地を受け継いで長寿を全うし、老いてしあわせな年月が与えられます。しかし不敬虔な罪人らは不義を告発され、堕落天使たちは恐れおののくのです。ここでは、終末の裁きはこの地上において行なわれます。その結果、選ばれた幸いな義人は祝福を与えられ、不敬虔な者や堕落天使たちは呪われるのです。

■(2)見張りの天使たちの書:6〜36章(前300〜200年)

創世記6章の記事に基づいて、見張りの天使たちが(シェミハザやアサエルなど200名)、結束して誓いを立てますが、この時にアサエルはすでに反逆の兆しを口にします(村岡訳『エチオピア語エノク書』では、「アサエル」ではなく「アザゼル」と読んでいますが、この点は第6章で説明します)。彼らは、ほんらい人間を教え監督する「見張り役」であったのに、神に反逆して堕落して、人間の女たちと通じて巨人たちを生みます。その結果生まれた巨人たちは、人間たちを食らい、互いの血をすすり合い、結果として暴虐が地に満ちることになります(巨人たちは作者の時代のヘレニズムの王たちを反映)。アサエルたちは、金属(武器など)、染料、魔術(薬草類)、天体のしるしや占星術など文明の技能を人間に教えますが、この結果、人々は道を踏み外して堕落します(禁じられた秘義の啓示という神話的なテーマで、アサエルはギリシア神話プロメーテウスを反映)。

ガブリエルとミカエルとラファエルとサリエル(ウリエル)の四天使は、地上の暴虐を見て、この有様を主なる神に報告し、暴虐の犠牲となった死者の魂の叫びが天の門に届いていると告げます。彼らは、諸時代の主である神に裁きを祈り求めます(9章)。聖なる至高者は、アルスヤラルユル(天使ウリエルのこと?)をノアに遣わし、大洪水が起こってこの地に終わりが来ることを彼に告げるように命じます。また主は、ラファエルに、アサエルを縛って、終末の審判の時まで暗闇に投げ込むように命じ、ミカエルに告げて、シェミハザたちを永遠の審判が終わるまで「丘の下へ」つないでおくように命じます。堕落した人間たちは、やがて大洪水によって滅ぼされ、堕落天使たちの子らは火の拷問にかけられるのです。裁きが行なわれるその時には、新しい時代が始まり、正義と道理の木が生え、地は豊かな実を結び、人々とが老年まで安らかに暮らす時が来るのです。その時、人の子らはすべて正しくなり、すべての民は主を崇めるようになり、天は祝福の藏を明け、平和と道理が一つになります(6〜11章)。

 天にいる見張りの天使たちは、天にいるエノクに向かって、地上で堕落した天使たちに断罪が臨むことを告げます。エノクが降って、アサエルたちに裁きを告げると、彼らは恐れおののいて、赦しの嘆願書を書いてくれるようエノクに懇願します。しかし、「聖にして大いなるお方」は、彼らには赦しがないことを文書に書いて堕落天使たちに渡すようエノクに命じるのです。彼らの裁きはすでに終わっているからです。彼らは二度と天に戻ることができません。天上の霊と地上の肉とを区別する神の掟を破ったために、地上の堕落天使たちは、地上で悪霊に変じることになります(6〜11章で彼らが滅びるとあるのとは少し異なる)。エノクは、彼らが燃えさかる火の海に投げ込まれる幻を見ます。地上では、巨人たちが死ぬと、その死体から悪霊どもがでてきます。だから、巨人たちの肉の存在は、死ぬまで裁かれることがなく、人々は大いなる裁きの日まで、堕落した生活を続けるのです。この部分には、おそらく当時のエルサレムの祭司たちへの非難がこめられているのでしょう(12〜16章)。

 エノクは、天使たちに連れられて地の果てにある火の川を見、深淵の水が注ぎ込む場所を見、また太陽とすべての星の回転を西の空に没せしめる風を見ます。そこは神に背いた天の軍勢(堕落した星々たちのこと)が閉じ込められる場所です。この部分は、ギリシア神話にでてくる黄泉にある処罰の場所巡りと共通することが指摘されています(「火の川」とは、ギリシア神話で黄泉の国へ渡る時に通るスキュテス河か)。また堕落天使たちと通じた女たちも魔女にされます(17〜19章)。

 第二の旅が始まり、エノクが見ると、ウリエル(タルタロスを見張る)とラファエル(人間の魂を見守る)とラグエル(世界と天体に復しゅうする)とミカエル(選民たちを護る)とサラカエル(罪に誘う人間の魂を見張る)とガブリエル(蛇とエデンの園を見張る)の6人の天使たちがいます。またエノクは、混沌の荒れ野を見ます。そこでは、「天の七つの星たち」が、彼らの「罪の日数が満ちるまで」神によって縛られています。次に燃えさかる炎と大きな火の柱を見ます。そこは堕落天使たちが永遠に留め置かれる場所です。さらに行くと、高い山とその回りに四つの窪地があります。そこは、死者の魂が、定められた時に裁きを受けるまで留まる場所です。また「死んだ人の子たちの霊魂の叫び」を聞きます。それはカインによって殺されたアベルの(すなわち殉教者たちの)叫びです。

 四つに区切られた場所では、死者の霊魂が、選り分けられてそれぞれの場所に住んでいます。悪人は、「裁きの日に殺されることもなく、ここから連れ出してもらえない」のです。ここで「復活」がでてきますが、ここで言う復活とは、再び地上に戻ることを意味しています。彼はさらに、駆けめぐる火と、火の山を見、美しい七つの山を見ます。真ん中の山は、主のみ座にも似た高い山で、薫り高い木に囲まれています。「すべてのことについて知りたい」エノクは、その場所に、裁きと復しゅうの時に選ばれた者に与えられる命の木の実を見ます。それらの実は、艱難がなく先祖たちのように長生できるようにと永遠の王が創られた木なのです。祝福の土地があり、そのまわりに呪いの谷が見えます。そこには裁きの木があり、またサリラとかカルバネンとか呼ばれる水があります(ギリシア神話の神々の飲み物ネクタルに似ている)。また義人の園と知恵の木を見ます(これはかつてアダムとエヴァが食らい、知恵を知り、目が開いて裸であることを知った木)。エノクはそこから、天の門が開いて、星の運行や霜や霞や雪や雨の降るのを見、全地の果てにいたるまでを見るのです。エノクの天体への旅(33〜36章)は、後の72〜82章の描写と重なり、これのまとめと見ることができます(20〜36章)。

■(3)たとえの書:37〜71章(前40年?〜後50年?)

 エノクの系図がでますが、アダム→セツ→エノス→カイナン→マハラレル→ヤレド→エノクとあります。ヤハウィストのこの系図は、創世記5章21節のイエレド→エノク→メトシェラ→レメクから来ています。ところが創世記4章17〜18節には、カイン→エノク→イラド→メフヤエル→メトシャエルとあります。エノクには、このようにセツ系とカイン系との二つの系図があります。なお、エノクの名前の語源は「賢く訓練された」あるいは「捧げられ聖別された」のふたとおりに解釈されています。

 創世記5章で、エノクは「神と共に歩んだ」とあり、神によって天へと引き上げられたとあることから、知恵の人エノクの伝承が生まれました(彼が365年生きたとあるのは、捕囚期のバビロニアの天文学がエノク伝承に関わっていることを示唆)。エノクが神の領域へと引き上げられたとあるのも、ジウスドラ→ウト・ナピシュティム→アトラ・ハシースというバビロニアの知恵の人の系譜につながるのでしょう〔フォーサイト219〕。この知恵の人エノクの伝承が、エノクの幻による天界の旅へもつながることになります。以後の幻が「知恵の幻」と呼ばれ、「もろもろの霊魂の主」(天使と人間の両方の霊の主という意味で「神」のこと)から授かる「知恵のことば」を語り、これが「知恵のはじめ」であると言われるのです(37章)。

 「たとえの書」は、選ばれた義人たちと暴虐な王や権力者たちの両方への神の裁きを語るもので、いくつかの別個の文書がまとめられていると考えられています。これの成立年代については、紀元270年頃〔村岡164〕という説もありますが、56章5節などから判断すると、世紀の変わり目である前40〜後50年頃と見ることができます〔Nicklesburg (3)6〕〔Stegemann9394〕。したがってこの部分はキリスト教成立前後にあたることになります。ユダヤ教においては、この「たとえの書」で初めて、「人の子」が神の権威を帯びた個人像として現われることになります。これはイエス直前のユダヤ教の歴史的宗教的背景から生まれたものでしょうか? それとも原初キリスト教会から影響された後のものでしょうか? この点が目下議論されています。

〔第一のたとえ〕もろもろの霊魂の主(ヘブライ語の「天の軍勢の主」からでた言葉で、「神」を意味します)に従う義人・聖者たちが顕れる時には、罪人たちは追い払われ、権力者の命運が尽きます。その時には、主は、天使と人とが結ばれて生まれた種を憐れむことをしません。天の果てには聖者たちの住処があり、「義と信仰の選民」が住んでいます(ここで、彼らの住む「場」と「時代」とが重ねられている点に注意)。主の御前には終わりがなく、世界が創造される以前から、それがどのように変わるかも主によって知られているのです。エノクには、主の御前に立つ四天使が見えますが、「選ばれた者」(単数)であるメシアも現われます。それから「天のすべての秘密」、すなわち選民の住処と罪人への稲妻による刑罰(ギリシア神話でゼウスが巨人ティタンたちを退治する雷光を想わせる)、霧や霞、太陽と月の運行が見えます。ここでは、「光と闇との間の隔て」が、人間の霊的な「光と闇」に対応されています(41章)。「知恵」は、人間の間に住もうと降りますが、自分の住居を見いだせないまま、再びみ使いたちのところへ戻ります(シラ書24章3〜10節)。するとエノクは、別の空に、稲妻と空の星を見ます。それらの星は、主を信じる義人たちの名前で、それらは、ちょうど天体の運行のように、その場と時とを定めて姿を現わすのです(43章)。

〔第二のたとえ〕「選ばれた者」メシアが、栄光の座に座り主を否定する罪人たちを裁き、選民を住まわせ、平安を与えます。次に「高齢の頭」(ダニエル書7章9節の「日の老いたる者」)と人の子が現われます。人の子には義が宿り、彼はすべての秘密の藏を開き、王と権力者たちの高ぶりと横暴を砕くのです。彼らは、富と権力を頼んで暴虐をあらわにしたために、暗闇とウジ虫の中に住まわせられます(46章)。義人たちの祈りと血とが主の前に届き、天に住む聖者たちは義人たちの血と祈りのゆえに、彼らのために裁きを行なうよう主に懇願します。「高齢の頭」(「神」を指すと思われる)が栄光の座について、「生ける者の書」がその前に開かれます。「義の数」(正しい者のための裁きの時のこと)がめぐってくると義人たちの祈りが聴かれて、彼らの心は喜びます。それから義の泉といくつもの知恵の泉が見えてきます。渇く者はこれを飲んで知恵にみたされ、彼らは、聖者と選ばれた者たちと義人たちと共に住みます。人の子の名前が、高齢の頭の前にあります。この人の子の名前は、「太陽としるし」が創られる以前から存在していたのです。世界が創造される以前から、彼は選ばれ、主の御前に隠され、永遠に主の御前にいるのです(イザヤ49章3節)。主の知恵が、聖者や義人たちに人の子の姿を顕わし、彼らは救われ、彼らの命を奪った者たちはその報復を受け、主とその油注がれた者(メシア)を否定した者たちは、義人たちの前で、火に投げ込まれます(48章)。メシアの前では、知恵が水のように注ぎ出され、暴虐は影のように過ぎ去り、知恵の霊、悟りに導く霊、教えと力の霊が彼に宿ります(イザヤ書11章2〜3節を参照)(49章)。その(メシアの)時に、罪人たちは主の御前に悔い改めて憐れみを受けますが、悔い改めない者に憐れみはありません。その時、黄泉は与っていた死者を主に返し、地獄も借りていた者を返し(ここには人類全体の復活が予測されている)、メシアは知恵の奥義を口から語り、人々の中から義人と聖人を選び出します(51章)。

 エノクは、地上に起ころうとするすべてを見ます。鉄、銅、金、軟金属(鉛や錫)の山々が見えます。これらは地上の権力を象徴するもので、メシアが姿を顕わす時に、地の面からことごとく消滅するのです。そこには深い谷があり、大地に住む民がメシアに贈り物を持って来ますが、谷は埋まりません。正直者が稼ぎ出したものを不法な者が食い荒らすのが見えると、サタンが責め具を用意しているのが見えてきます。責め具は地上の王たちと権力者たちを滅ぼすためのものです。別の方には、火の燃えさかる深い谷があり、王たちや権力者たちが投げ込まれます。ミカエルとガブリエルとペヌエルが、アサエルの軍勢を地獄の深みへ投げ込み、サタンの手下となって地に住まう者たちに刑罰が降されます。

 上にある天の水と地下にある水の泉が開かれます(水はバビロニアの宇宙論では原初のもの)。高齢の頭はこれを見て、二度と水で滅ぼすことをしないと言います(ノアに与えられた主の約束と同じ)。主は、「程なく選ばれたメシアを見るだろう。彼は、わたしの栄光の座に坐り、アサエルとその手下たちを裁く」と告げます(54〜55章)。懲罰のみ使い団が、青銅の鎖を持って歩いてきます。彼らは、それぞれが選んだ者たちのところへ行くと、王たちを王座から揺さぶり落とします。すると王たちは、狼のように、み使いが選んだ土地/国を踏みにじるのです。56章5節には、「パルティア、メディアのほうへ王が向かう」とありますが、これはヘロデ大王を指すと考えられています。前40年にハスモン家のアンティゴノスがパルティアと組んでパレスチナを占拠した時、ヘロデはローマへ逃れてそこで「ユダヤの王」に任ぜられました。その後、前39〜37年に、彼はローマの援助を得てパレスチナに戻り、パルティアを追い出して東へ侵攻し、パレスチナの実権を握ることになります。王たちによる蹂躙の結果、人々は父母も子も見分けがつかなくなり、黄泉は口を開けて、人々を貪り食うのです。すると別な車の一隊がやってきます。その音が轟くと、全ての者が倒れ伏します。ここで第二のたとえが終わります(57章)。

〔第三のたとえ〕このたとえは、「幸いなるかな、あなたがた義人たち、選民たちよ」で始まります。義人たちと選民たちは太陽の光にあって永遠の命を与えられ、霊魂の主の前に暗闇は過ぎ去り光が確立されます(光と闇という時間的でかつ空間的な区別が、義人のためであることに注意)。ここでエノクに「稲妻の秘密」が教えられます。「稲妻の秘密」の法則とは、稲妻が、主のみ旨次第で祝福ともなり呪いともなることです(ヨブ36章32〜33節)。同様に雷鳴の響きは、主の御言葉次第で、祝福ともなり呪いともなります。

高齢の頭が現われると、憐れみ深かった主が、裁きを重んじない者のゆえに怒りの裁きを行なうとミカエルが告げます。すると海の怪獣レヴィヤタンと陸の怪獣ベヘモトが現われます。ここで「黙示」という言葉が「隠されたこと」を意味することが知らされます。黙示とは、「はじめのことと終わりのこと、天上にあることと地上の深みにあること、天の果てにあることと天の基にあること、風の藏にあること」なのです。そこで雷鳴と稲妻とがそれぞれ区分され、海の霊、霜の霊、雹の霊、雪の霊、霧の霊、露の霊、雨の霊が、それぞれ季節によって区分され、それぞれの藏から出されるのです(60章)。

 天使たちが紐と綱を持って飛んで行き、「地の深みに隠されたこと」(ゼカリア2章5〜6節)を測り、これを露わにします。これは人々が、選ばれた者メシア(単数)により頼むためです。メシアは栄光の座にあって、聖人たちの行ないを裁きます。聖人たちは声を一つにして、信仰の霊、知恵の霊、憐れみの霊、裁きと平安の霊、善の霊によって主を崇めます(61章)。栄光の座にメシアが座り、王と権力者と貴人たちを裁きます。彼らは栄光の座に人の子が坐るのを見るのです。義人たちは人の子と共に住み、主の剣が王や権力者たちの血で酔いしれます(62章)。王と権力者たちは、主の御前にひれ伏して懲罰のみ使いに嘆願し、メシアである人の子を崇めて「陰府の激しい炎に落ち込むのを防いでください」と嘆願します。すると別の顔、「人の子らを惑わして罪を犯させた」堕落天使の顔が隠れているのが見えてきます(63章)。

 ここでは、エノクではなく、ノアがでてきます。ノアは父祖エノクから、大地に住む者たちの最期を知らされるのです。エノクはみ使いたちの全ての秘密、サタンどもの全ての不法、魔術を行なう者の全ての力、悪魔払いの全ての力、鋳物の偶像を作る者たちの全ての力を知ったのです。これらの者たちは裁かれ、悔い改める可能性はありません。ただノアとその末裔だけは義をもって栄光の地位に定められます。エノクはノアに、懲罰のみ使いたちが地下水の力で裁きを行なうのを見せます。主のみ使いたちは、堕落天使たちを金と銀、鉄と錫などの山に閉じ込めます。すると山に水が波立ち、火の川が流れ、硫黄の臭いがします。硫黄が水と混合して燃え出すのです。堕落天使たちが裁かれます。水の泉の温度が変わると水が変じて火となり、大地の住民たちと支配者たちも「肉体の情欲に信頼をおき、主の霊を拒んだゆえに」裁かれます。エノクはここで、「すべての奥義の解釈」の本をノアに見せて、エノクに授かったたとえをノアに語ります。ミカエルとラファエルは、堕落天使にくだされる裁きの厳しさを語り合い嘆きます(65〜68章)。

 ここで、堕落天使たちの名前が列挙されます。彼らは、人の娘たちを惑わした者、エヴァを誘惑した者、人の子らに殺戮の武器を見せた者、また墨と紙で書くことを教えた者などです。なぜなら「人間は墨と筆で信仰を全うするように生まれたのではない」からであり、「知識のゆえに彼らは滅び、この知識の力のゆえに死はわたしを食い尽くす」からです。世界は創造の時から永久にその位置からずれることなく、日と月はその運行を完了し、星はその運行を完了するのです。大地の人々は霊魂の主を賛美し、人の子が啓示されたことをほめたたえ、人の子に裁きの権限が与えられ、悪が彼の前から消え去ったことを賛美します。ここで第三のたとえが終わります(ここは福音書にあるイエスの「人の子」像へつながる)。

 この後に、人の子メシアは、生きながら主のもとに上げられ(エノクと同じ)、エリヤのように「霊の馬車で」(列王記下2章11節)引き上げられます(70章)。エノクは霊的に(現実の肉体ではない)天に引き上げられます。すると衣装は白く顔は水晶のようなみ使いたち(の子ら)が歩いていて、二つの火の川が見えます。光の間に水晶で建てられたものがあり、セラフィームやケルビームたち、ミカエルやラファエルやガブリエルたち、そして、彼らと共に「高齢の頭」が現われます。「その頭は羊毛のように白く、その衣は形容を絶する」とあります。エノクがその前にひれ伏すと、高齢の頭は、エノクに向かって「あなたは義のために生まれた人の子である。義はあなたの上に宿り、高齢の頭の義はあなたを離れることがない」と告げます。こうして人の子は長寿を給わり、義人は平和を給わるのです(71章)。

■(4)天文の書:72章〜82章(紀元前3世紀?)

 この天文の書の原文はアラム語で、クムラン文書に含まれています。これの初期の原稿は前200〜150年頃と考えられるので、文書それ自体は前3世紀にさかのぼり、その内容はさらに前3世紀以前からのものと推定されます。したがって、「天文の書」は、『第一エノク書』全体で、最も古い部分になります。ただし、原文のアラム語版は、長大であり、エチオピア語訳は、これを縮小していると考えられます。これは、「種類、主従の関係、季節、名称、起源」について述べる書であり、天使ウリエル(名前の意味は「神はわたしの光」)がエノクに、「この世の全ての歳と、永遠に続く新しい創造ができあがる時までが、どのようにかかわるかを」示しています。

 1年は、30日からなる12か月ですが、第三、第六、第九、第十二の月は31日となります。太陽は東の六つの門から昇り、西の六つの門へと沈みます。太陽の運行は、12の窓に区切られて、昼と夜の長さと昼・夜の区分の変化について述べられます。昼が10区分、夜が8区分になる時、昼が最も長くなり、これが逆に、昼が8区分、夜が10区分へと変化します。1年はちょうど364日になります(創世記5章23節のエノクの年齢365と関連)(72章)。次に月の区分が、光を14区分に分けて、太陽の運行と比較して語られます(73章)。月の運行は七つに区切られ、太陽の運行と比較されます(この当時、ユダヤでは、太陰暦と太陽暦との関係が大きな問題になっていた)。「月の順に従って太陽が昇りまた没するのを見る」のです。5年間を合計すると、陽は月に対して30日分だけ超過が生じるから、5年の総計では、太陽が1年間に得る日は、最後には合計364日となる。だから月齢だと、5年間では50日不足することになります(ここで著者は太陰暦の視点から、29日の月が6か月あり、30日の月が6か月あり、1年で354日の月の暦を念頭に置いている。したがって、太陽暦に比べると、1年で10日ずつ、5年間で50日不足することになる)(74章)。

 さらに1年を360日とした場合に、4日を加える必要があると述べます。太陽と月と星の運行を「12の門」に分けて見ています(75章)。次に12の門から出る風を東、西、南、北に区分し、それぞれの方角をさらに三つに区分しています。それらの区分の四つから祝福と繁栄の風が吹きますが、八つからは、禍の風が吹き、それらは、滅亡、干ばつ、繁栄と雨と露、寒冷と干ばつなどの風となります(76章)。次ぎに東西南北、12の方角について述べます。西は光が減じるから「減少」と呼ばれ、北は人間の住居、海、森、雲を入れるところ、さらに「義の園」のある方角です(ここはテキストの読み方に問題がある)。また七つの大河について語られ、さらに「七つの大きな島を海と陸に見た。二つは陸に、五つは大海に」とあります(78章)。エノクは、これらを「わが子メトシェラに」見せていたことがここで語られます。天使ウリエルがエノクに見せてくれた「全ての発光体」がここで終わります。

 ウリエルはエノクに「罪人の時代」について啓示します。罪の時代では、一年は短く、地上で生起することは変化し、雨は遅れ、地は実らず、月もその秩序を変えて姿を見せず、星の頭どもは迷い、「彼らは天罰によって滅びる」のです(80章)。ウリエルは、エノクに「天の板」を示して、「そこに書き付けてあるのを読んで、一つ一つよく悟る」よう言います。エノクは、そこに書いてあることを全部読んで、書いてある一切のこと、人間と地上に住む全ての肉の子の行為を知り、未来永劫までも読み取ります。そして、善人は善人に義を告げ、罪人は罪人とともに死に、「義を行なう者は人間の行為のゆえに死に、悪人の行為のゆえに(この世から)断たれる」ことを悟ります(81章)。ここでエノクは、その子メトシェラに、自分の知識一切を啓示して、子孫に「彼らの思いも及ばないこの知恵」を伝えるよう伝授します。それは一か月を30日として、4日の日をこれに加えて、一年を364日と計算することです。著者にとって、これは神から啓示された大事な定めなのです。それから太陽、月、星などの天体の運行とその区切りを司る12の指導的な星とその名前があげられます(82章)。以上で分かるように、この書にはユダヤ教の祭日は一切語られず、安息日もでてきません。

■(5)夢幻の書:83〜90章(前164年)

〔滅びの幻〕83〜84章

 エノクは、自分の見た二つの幻をメトシェラへ語ります。その一つが、ここで語られる洪水による滅びの幻です(83章は61章と106〜09章に並行し、84章は9章に並行します)。エノクは、「天が崩れ、ばらばらにちぎれて地上に落ちてくる」のを見ます。すると口から「地が滅びた」という叫びがでます。エノクの祖父であるマラルエル(マハラルエル)は、孫のエノクに、その夢と幻は「地の全ての秘密にかかわることだ。地はやがて亀裂の中に沈み、完全に滅びる」と言い、「地上に一部を生き残らせてもらうよう」神に懇願するよう告げます。そこでエノクは、太陽の運行を定めた「裁きの主」を崇めて祈ります(83章)。エノクの祈り。「全地は永久にあなたの足代。知恵であなたの目につかぬものはありません。あなたは全てを知り、見通される方です。あなたの天使たちは過ちを犯しました。あなたの怒りは裁きの日まで、人の肉(ヨブ12章10節参照)に臨むでしょう。人の肉をすっかり抹殺せず、義と公正の肉は、永遠の種の木としてたててください。」(84章)。

 

〔牛と獣の幻〕85〜90章

 次の幻は動物の寓喩によるこの世の歴史です。先の幻を受けて、ノアの洪水が寓意として語られますが、これもエノクがメトシェラに語ることになっています。白い(罪がないこと)雄牛(アダムのこと)と牝牛(エヴァ)がでてきます。続いて黒い(罪人でカインのこと)雄牛と赤い(アベルの血)雄牛が来て、黒牛が赤牛を殺します。先の牝牛は、別に白い雄牛(セツ)を産み、多くの雄牛と黒い牝牛を産みます。白い雄牛(セツ)も多数の白牛を産みます(85章)。すると天から星が一つ(堕落天使アサエル)落ちてきて、牛たちの間に混じります。大きな黒牛が見えます。すると多くの星が天から落ちてきて、先の第一の星のところへ集まった。彼らの陰部は馬のようで、牝牛(人間の女たち)と交わり、象やらくだやろば(巨人たちを獣にたとえる)を産みました。彼らは互いに角で突いたり、かみつき合ったりしました。大地はこの争いで叫び始めました。すると天から白い人が3人に伴われて現われました。3人はわたし(エノク)を地上から引き上げて(創世記5章24節参照)、そびえたつ高い塔を見せて、象やらくだやろばや星や牛たちを見終わるまで、そこにいるように告げました。すると4人の一人が、天から落ちた最初の星を縛って恐ろしい谷に投げ込みました。象とらくだは互いに斬り合いを始めて、大地全体が大きく揺れます。先の4人の一人が、性器をぶらさげた巨星を集めて大地の裂け目に放り込みました(大洪水による人類の滅亡)(88章)。

 4人の一人が先の白い雄牛に告げると、その雄牛は人間になって箱船を造り、他の雄牛も一緒にそこに住みます。天の七つの水門が開いて、水が囲いにあふれると、囲いの牛は全部水で溺れました。すると別の幻で、水門が取り払われて、箱船は地上に止まり、闇は退き光が現われました。人間と他の雄牛たちは箱船をでましたが、1匹は白く(セム)、1匹は赤く(ハム)、1匹は黒(ヤフェト)でした(皮膚の色で人類を三種に分けること)。彼らから、獅子、虎、犬、狼、ハイエナ、猪、狐、ウサギ、豚、禿鷹(異邦の諸民族のたとえ)などが産まれました。しかしその中に、白い牛(アブラハム)がいて、それが野ろば(イシュマエル)を生み、ほかに白い牛(イサク)を生みました。この白い牛から、黒い猪(エサウ)と白い羊(ヤコブ)が生まれ、猪は多数の子を生み、羊は12匹の羊(イスラエルの12部族)を生みました。12匹の中の1匹(ヨセフ)は、野ろば(エジプト人)へ渡されました。

 狼(エジプト王)は、羊たちを恐れ始めて、河にその子らを投げ込んだので、主は狼の手を逃れたあの羊(モーセ)を呼び出して、狼と語らせますが、狼はいよいよ辛く羊を扱ったので、主は狼どもを殴り、羊たちは狼から逃れました(出エジプト)。狼は羊たちを追跡しましたが、海が割れて、羊たちの後を追った狼たちは溺れ死んだのです。主は羊たちを養い、水と草を与えて、あの羊が彼らを導きました。しかし、あの羊が岩山の頂きに登った時に、羊たちが道を踏み外したので、主はその羊に怒られたのです。羊たちはその羊を見て恐れ、もとの囲いに戻りたいと願いました(出エジプト24章12節)。

指導してきた羊が死ぬと、2匹の小さい羊(ヨシュアとカレブ)が代わりに立ちました。やがて別の羊たち(士師たち)がやってきましたが、犬や狐や猪(異邦の諸民族)が、羊たちを食い始めたので、別の1匹の羊(サウル)が立てられました。この雄羊は、犬や狐や猪を突きまくりましたが、別の雄羊(ダビデ)を見ると、その羊をも突き始めたのです。主は、この別の雄羊を指導者としました。その家(エルサレム)は大きくなり、高い塔(神殿)が建てられました。ところが羊たちは再び迷いだしたので、主は羊の中から何匹かを召して(預言者たち)、羊たちのところへ遣わしました。そのうちの1匹(エリヤ)は、殺されませんでしたが、主は彼をわたし(エノク)のところへ引き上げたのです。

ついに羊たちは、自らに殺される運命を招いて、獅子、虎、ハイエナなど、あらゆる獣たちに、餌食として投げ与えられました。主は70人の牧者たちを召して(世界の諸民族を司る天使たちのこと。エレミヤ25章11〜12節参照)、羊たちを管理させたのです。しかし主は、別の牧者に命じて、牧者たちのすることをきちんと書き留めるように命じました。獅子(アッシリア)と虎(バビロニア)と猪(エドム)は、羊たちを食い荒らしました。羊たちは決まった数だけ殺されていったのです(イスラエルが犠牲の民とされたこと)。牧者たちのしたことは、すべて主の書に書き留められて、その書が、主の御前で読み上げられました。それから12時間経って(捕囚の期間が終わること?)、3匹の羊(エズラ、ネヘミヤ、ツァドク)が戻ってきました。彼らは倒れた塔を建て直したのです(エルサレムの神殿が再興されたこと)(89章)。

 ここからは、ギリシアの時代に入ります。このようにして35人の牧者たちが羊を牧しました(先にでてきた70を12+23=35として、前半の35と後半の35に分けて、ここからは後半のギリシアの時代、すなわちアレクサンドロス大王の時代に入る)。すると鷲(マケドニア)と禿鷹(エジプトのプトレマイオス朝)と鳶(パルティア王国?)と烏(シリアのセレウコス朝)などの空の鳥たちが来て、羊たちの肉を食らったのです。羊たちは骨だけにされたけれども、それから23人の牧者たちが58期間を牧しました。さて白い羊たちから仔羊が生まれると(ハシディーム派のユダヤ教か?)、烏がその中の1匹を引き裂いて食べました。するとこれらの仔羊たちに角が生えて(マカベア派の戦士たち)、その中の1匹の角が大きくなり(ユダ・マカバイのこと)、羊たちに呼びかけます。すると雄羊たちがそのもとに集まりました。エノクが見ていると、牧者や禿鷹や鳶がやってきて、雄羊の角を砕くようわめきます。先の記録する者は、最後の12人の牧者たちが殺した人たちを記録した文書を開きました。すると主の怒りが燃え上がって、主が怒りの杖を手にして大地をたたくと、地が裂けて、獣たちと鳥たちとは大地に飲み込まれた。

 王座が麗しい地に設けられ(ダニエル11章16節)、羊たちの主がこれに坐り、封印された書が開かれました。7人の白い色の者が呼ばれて(トビト記12章15節参照)、堕落した星たちが連れ出され、その星たちは、裁かれて火の柱の中へ投げ込まれました。次に70人の牧者たちも「預けられた羊を勝手に殺した」ために火の谷へ投げ込まれ、また同時に、目のくらんでいた羊たち(背教のユダヤ人)も火の谷へ投げ込まれました。

 生き残った全ての羊たちと動物たちと空の鳥たちは、ひれ伏して羊たちに従いました。先にわたしを引き上げた白い衣の3人が、わたしを白い羊たちの中に坐らせました。彼らの毛は豊かで、清潔で、目の見えない者はいませんでした。すると1匹の白い雄牛(メシア)がうまれました。その角は巨大で、野の獣も空の鳥も恐れます。すると彼らの全ての種が変化して、いずれも白い家畜になるのを見ます(創造の初めに戻り、ユダヤ人と異邦人との区別が消える)。その最初のものは指導者になり、大きな獣になり、真っ黒な巨大な角が生えました(90章)。

■(6)エノク書簡:91〜105章(前100年頃)

 ここからは知恵文学の形式に従うエノクによる教訓と諭しの書になります。91章11〜17節は、93章の後につながるほうが内容的に適切です。したがって、93章が、91章の10節と18節との間に挟まりこむ形になります。また、ギリシア語版では、104章は106章に続いています。105章がどうなったか不明ですが、クムランの文書では、104章に105章が続いています。以下この順序でまとめます。

 エノクは「わたしの口の言葉に耳を傾けよ」という知恵文学の諭しのスタイルで始めます。教えの内容は「公正を愛する」ことと「義の中を歩む」ことです。暴虐、罪、涜神、不法がはびこっても、必ず天罰が下るからです。その時に不法は根絶やしにされ、異教徒は火の裁きに投げ込まれるのです。エノクはこれから「義の道と不法の道」について、また「将来起こるべきこと」について語るのです。

 エノクは書物に基づいて、「義の子ら」、「この世から選ばれた者たち」、「義と公正の木」のことを語ります。それから世界の歴史を10週に分かち、各週を七つの時期に分けます。

1週目は、裁きと義がまだ行なわれていた時代で、エノクはその七日目に生まれます。

2週目は、欺瞞が生じて、最初の滅亡が訪れ、罪人に対して法が定められます。

3週目は、その終わり頃に、正義の裁きの木となる人(アブラハム)が現われます。

4週目は、その終わり頃、聖人と義人の幻が顕れ、法の囲い(モーセの律法)が定められます。

5週目は、その終わり頃に、栄光の家と王国が建てられます(イスラエル王国)。

6週目は、この時代の人たちが、皆、盲人になる時に、一人の人(エリヤ)が顕れて、王国の家は焼け、全ての者は散らされます(イスラエルの分裂と捕囚)。

7週目は、背教が起こり、義の選民は、永遠の義のひこばえ(イザヤ11章1〜5節参照)から報いを受け、彼の創造について教えを受けます。

 ここでエノクは、「およそ人の子の中で、聖なるお方の声をおののかずに聞ける人があろうか?」と問いかけ、霊あるいは息を見ることができるか? それについて語ることができるか? と問います。ここからが未来に関することになります。

8週目は、この週に剣が渡され、不法を行なう者たちに正義の裁きが下り、義人は永久に残ります。

9週目は、正義の裁きが全世界に啓示されます。悪人はいなくなり、世界は滅亡すべく記録されます。

10週目に、その7期目に永遠の裁きが行なわれ、天使たちが裁かれ、先の天は姿を消して過ぎ去り、新しい天が現われます。天の力は世界を7倍明るくします(イザヤ30章26節)(91章と93章)。

 学者エノクは言い残します。時勢に心を悩ませないがよい、聖なる方は、すべてのことに日を定められた。義人は眠りから覚めて義の道を歩むであろう。罪は永久に暗闇に葬られ、この日から永遠に現われることはない(92章)。

 エノクは、わたしの子よ(智恵文学の言い方)と呼びかけ、平和の道を歩んで繁栄の日を送るように言います。知恵をあしざまに言い、知恵の場が見あたらないようにする者たちがいなくなることはない。わざわいなるかな暴虐と不法を築き、欺瞞を土台として家を建てる者、わざわいなるかな、富める者、あなたたちはその富を失う。あなたたちは涜神と暴虐を行ない、暗闇の日、裁きの日にふさわしい。あなたたちの創造者があなたたちを覆す。あなたたちの創造者はあなたたちの滅亡を喜ばれる(94章)。義人たちよ、罪人を恐れるな。わざわいなるかな、隣人に悪をもって報いるあなたたち。わざわいなるかな、偽りの証人となるあなたたち。わざわいなるかな、義人を迫害するあなたたち。あなたたちは滅ぼされ、迫害される(95章)。義人たちよ、希望を持つがよい。罪人の艱難の日に、あなたたちの子らは鷲のように高く登る。あなたたちは、暴虐が来ると兎のように大地の裂け目や岩の割れ目に入り込む。癒しはあなたたちのもの。光があなたたちを照らす。あなたたちは、天の安らぎの声を聞く。わざわいなるかな、富のゆえに義人のように見える者、あなたたちの良心が、あなたたちを告発する。わざわいなるかな、良質の麦を食い、下層の者を踏みつける者。わざわいなるかな、暴虐と欺瞞を行なうあなたたち。あなたたちの滅亡が来る。あなたたちの裁きの日に、義人たちには幸いな日が続く(96章)。義人たちよ、信ぜよ。罪人は恥をかかされ、暴虐の日にあなたたちは滅びる。義人たちの祈りが聞かれる裁きの日に、あなたたちはどうするつもりか。聖なる方の前で、あなたたちの暴虐の記録が読み上げられる。わざわいなるかな、銀と金を不正に手に入れて、富む者たち。「銀は集めたし、藏は満ち、家には宝がどっさり」と言うが、あなたたちは騙された。富はあなたたちの手には残らない(97章)。

 わたしは賢者と愚者に誓う。あなたたちは男なのに女のように化粧し、若い娘のように長袖をまとい、豪華、絢爛、権勢、金銀、威厳に浸り、ごちそうを食べる。彼らは、その財産と栄華と共に滅びる。彼らの魂は殺戮と赤貧のうちに火に投げ込まれる。罪は地上に送られたものではなく、人間が自分で生み出したもの。全てが天の至高者の前に記録されている。わざわいなるかな、あなたたち愚者は、その愚かさのゆえに滅びる。罪人に助かる見込みはない。贖いもなく、この世を去り、死に赴く。わざわいなるかな、心のかたくなな者、あなたたちに平安はない。わざわいなるかな、暴虐を行なう者。あなたたちは義人の手にわたされ、首を切られ、殺される。わざわいなるかな、義人たちの艱難を喜ぶ者、あなたたちの墓は掘られない。わざわいなるかな、義人の言葉をないがしろする者、あなたたちに救いはない(98章)。

 わざわいなるかな、偽りの言葉を褒めそやすあなたたち、あなたたちは滅び、救いも幸せも来ない。わざわいなるかな、真理の言葉を曲げるあなたたち、あなたたちは永遠の掟にもとり、自分は無罪だと思うが、あなたたちは地上で踏みにじられる。義人たちよ、その祈りを通して、天使たちの前に、彼らの罪を提出して、至高者に訴えてもらうがよい。その時もろもろの民は動揺し、その時、親は乳飲み子を放り出し、憐れみをかけない。罪は、流血の日に向けて備えられている。石を拝む者、木石粘土の像を拝む者、汚れた霊、悪霊、偶像を知識によらず拝む者、彼らは理性の愚かさのゆえに不敬虔になり、恐怖の夢と幻のゆえに目がかすむ。その時、知恵のことばを受け容れ、これを悟り、至高者の道を行ない、不敬虔な者と交わらない者は、さいわいである。わざわいなるかな、悪を隣人に広めるあなたたち、あなたたちは黄泉で殺される。わざわいなるかな、他人の労苦で家を建てる者、それは罪の煉瓦と石ではないか。義人と聖者たちは、あなたたちの罪を思い起こす(99章)。

 その時、父は子と共に殺され、兄弟は隣人と共に倒れる。血は河となり、人はわが子わが孫を殺す。罪人は自分の兄弟を殺し、明け方から日暮れまで殺し合う。馬は胸まで罪人らの血に浸って歩む。その日、至高者は、全ての罪人に大なる裁きを行なう。また聖なるみ使いによって、全ての義人を護る。その時、賢者たちは見て、この書の全ての言葉を悟る。わざわいなるかな、義人たちを苦しめ、彼らを火で焼く罪人たち、あなたたちはその行ないに対して報復を受ける。み使いは、天上で、太陽から、月から、また星から、あなたたちの行状と罪を調べ上げる(100章)。あなたたち天の子らよ(堕落天使たちへの呼びかけか)、天と至高者の業を観察せよ。彼があなたたちに怒りを発したらどうするつもりか。あなたたちは、彼の義について不遜なことをまくしたてたから、あなたたちに平和はない。海と水とその運動は、至高者の業である。彼がいさめると海は畏れるが、地上のあなたたち罪人は彼を畏れない(101章)。彼があなたたちに火の苦しみを投げつける時、あなたたちはどこへ逃れるつもりか。全ての光は大いなる恐れのゆえに揺らぎ、全地は振動して大混乱になる。み使いたちは命ぜられたことを成し遂げ、大いなる方から身を隠そうとする。地の子らはふるえおののき、罪人は永遠に呪われ、彼らに平安はない。義人よ、義のうちに死ぬその日を望むがよい。あなたたちの魂が黄泉に下っても嘆くことはない。あなたたちの肉体は、この世でふさわしい報いを受けなかった。罪人は「見よ、義人たちも俺たちと同じに悲嘆と暗黒のうちに死んだ」と言う。人の衣類をはぎ取り、略奪し、罪を犯し、人生を楽しむ者、義人たちの安らかな最後を見たか。だがあなたたちは言う。「彼らは滅び、この世にいなかったようだ。その魂は苦しみのうちに黄泉に下った」と(102章)。

 さて義人たちよ、わたしは奥義を知っている。わたしは天の書板を見、聖者たちの書(「聖なる書」という読み方もある)を見た。義のうちに死んだ義人たちは、その霊魂が救われて喜ぶ。彼らの霊魂は滅びることなく、大いなるお方によって、世々代々まで覚えられる。わざわいなるかな、あなたたち罪人よ、あなたたちの同類はこう言う。「幸いなるかな、罪人は、彼らは天寿を全うし、幸福と富のうちに死に、悲惨や殺戮に逢わなかった。栄誉のうちに死に、罰を被ることもなかった。」彼らの魂は黄泉に引き下ろされ、悲惨な目に遭う。あなたたちの霊は、燃えさかる炎の中に入り、永遠の裁きが続く。

 生きている義人たちと善人たちに向かってこう言え。「われわれはあらゆる難儀を体験した。精根尽き果て、気力も衰えた。われわれは滅びた。言葉と行ないをもってわれわれを助けてくれる者はいなかった。救われる望みもなく、頭になるつもりがしっぽになり、難儀して働いても苦労は報われず、罪人の食い物にされ、乱暴者はわれわれの軛を重くした。われわれは、自分を憎む者に頭を下げたが、彼らは情けをかけてくれなかった。彼らから逃れたいと思っても、逃れる先がなかった。悲惨の中から訴えても、訴えは無視され、われわれの声を聞いてくれる者はいなかった」(104章)。

義人たちよ、わたしはあなたがたに誓う。あなたたちの名は、大いなる方の前で、覚えられている。あなたたちの名は、栄光のまえに書きとめられている。あなたたちは空の光のように輝き、みんなの前に姿を顕わし、天の門は、あなたたちのために開く。あなたたちの叫びを、裁きを求め続けよ。それはきっと実現する。希望を持て。希望を捨てるな。あなたたちはみ使いたちのような大きな喜びに浸る。義人たちよ、罪人が威勢をよくしても恐れるな。彼らの不法から遠ざかれ。天の軍勢にくみせよ。罪人たちの罪はすべて毎日記録されている。心の中で不義を犯すな。嘘をつくな。真理の言葉を変えるな。聖なる大いなるお方の言葉を虚偽だと言うな。義人たちと賢者たちには、書が与えられ、喜びと真理と豊かな知恵のもととなるであろう(104章)。

その時、地の子らを呼び寄せて、知恵について教え聞かせてやるがよい。あなたたちは彼らの道案内ではないか。わたしとわたしの子らは、真理の道において、永久に彼らと一体となる。あなたたちには平安がある。喜べ、真理の子らよ。アーメン(105章)。

■(7)ノアの誕生:106〜107章

 エノクの子メトセラは、その子ラメクに嫁をとってやった。男子が生まれたが、体は雪のように白く、またバラのように赤く、髪の毛は羊毛のように白く、眼は美しく、目を開けるとそれらは太陽のように照らした。そこで天にいる先祖エノクに、この子はどんな子かを尋ねると、エノクはこう答えた。「主は地上に新しいことをなさろうとしている。天使の中のある者たちは主の言葉に背いた。彼らは女たちと交わり、霊のものではない肉の巨人を産むだろう。地上に滅亡が臨み、大洪水が起こる。しかしその子は、彼の3人の子と共に助かる。その子をノアと名付けよ」(106章)(107章もほぼ同じ内容)。

■(8)エピローグ:108章

 エノクが、終わりの時に掟を守る者たちのために著わした別の書。悪をなす者どもが消される日を待ち望むあなたがたに告げる。悪をなす者の名前は、聖者たちの書から削られる。彼らの霊魂は、赤々と燃える炎の中で叫び、泣き、激しく苦悩する。しかし、天にその名前が記されている者たちは、悪人に辱められた霊魂で、彼らは神を愛して、この世のよいものを愛さず、その体を拷問に委ね、自分を過ぎ去る風と見なした。主は彼らを様々な試練に逢わせたが、その霊魂の浄さは証明された。現世での命よりも天を愛する者であることが分かった。主は彼らを輝く光の中へ導き出し、一人一人を栄誉の座に坐らせる。彼らはいつまでも燦然と輝くであろう。義人たちが輝く一方で、闇の中に生まれた者が闇の中に投げ込まれるのを見るであろう。彼らは、その処罰の日と時とが書き記されている場所へ立ち去る(108章)。

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部分訳

エノク書

第六章

1. 人の子等繁衍(ふえ)はじまりて美しく見目佳き女子(おんなのこ)之に生るるに及べる時、2. 天の子なる天使等女子(むすめ)等を見て之を欲し、互いに言ひて曰く、「皆来たれ、人の子らの中より妻を娶り子を成さん」と。3. 此処に指導者なるセミアザ彼等に言ひて曰く、「汝等この事を為すに、誠に裏切りはしまいか、我一人大いなる罪の責めを負はねばなりはしまゐかと恐るるなり」4. 天の子等答へて曰く、「されば皆共に誓ひを立てん。この計画を必ず実行し、放棄することのなきやう、互ひに呪いをかけん。」5. かく天の子等互ひに誓ひて、計画に対する呪ひを互いにかけ合へり。6. その数総勢200に及び、ヘルモン山の頂上なるヤレドの地に降(くだ)りき。この山をヘルモン、即ち「聖なる地」と呼べるは互ひに呪ひをかけ合へるによるなり。7. この者等の指導者等、セミアザを首(はじめ)とし、アラキバ、ロメエル、コカビエル、トミエル、ロミエル、ドネル、エゼケエル、バラキヤル、アザエル、アルモロス、ボトレル、アノネル、ゾキエル、サムソペエル、サタレル、トゥレル、ヨミアエル、サリエルなり。此等は十人隊長なり。

 

第七章

1. 斯(かく)て此(この)者等と共にありし他の者等も皆妻を娶り、即ちその好む所の者を取りて女の所に入り、之(これ)によりて身をを汚し、呪いや魔法を教へ、木の根を切りて女に植物を教ふ。 2. かの女子達子を孕み、巨人を生めり。この巨人等は身の丈三千米もある者達なり。 3. 巨人、人が得たもの皆食ひ尽くし、人最早これを養ふこと能はずなりぬれば、 4. 巨人、人に向かひて之を食らふ。5. 更に鳥に対し、獣に対し、爬虫類に対し、魚に対して罪を犯し、遂には互ひの肉を食み、その血を飲めり。 6. 是(ここ)に於(おい)て大地は無法の輩を天に訴ふるなり。

 

第八章

1. アザゼル人に剣、小刀、盾、胸当ての作り方を教へ、又地に金属なるものあるを教へ、その鍛へ方や腕輪、装飾品等を教へたり。顔料の使ひ方、瞼を彩る方法を教へ、あらゆる種類の高価な石や染料を教へたり。 2. 地には不道徳が蔓延(はびこ)り、姦淫を犯す者現れ、此者等皆堕落し、自ら破滅せり。 3. セミアザは呪術と木の根を切ることを教へ、アルモロスは呪文の解き方を、バラキヤルは占星術を、コカビエルは星座を、エゼケエルは雲の知識を、(アラキエルは大地の兆を、シャムシエルは日輪の兆を、)サリエルは月の運びを教ふ。人滅ぶに当たりて大いに嘆き、その嘆きは天に達せり……。(以下不明)

 

第九章

1. 是(ここ)にミカエル、ウリエル、ラファエル、ガブリエルは天より見下ろして地上に血が流されしこと大いなること、無法が地上に溢れしことを見き。 2. 即ち互ひに言ひけるは、「人の居なくなりし大地が嘆きの声を上げ、彼の嘆きは天の門にまで達するなり。 3. (今、諸君等天に坐(ましま)す聖なる者に対し)人の魂が裁きを求めて曰く、『我らの訴へを至高の者に届け給へ。』と。」 4. 四人は永遠の時の主に対して曰く、「主の中の主、神々の中の神、王の中の王(、永遠の時の神)よ、その栄光の座があらゆる時代の全ての世代にわたりて揺るぎなく、その御名があらゆる時代にわたりて聖にして栄光に満ち、祝福され給はんことを!  5. 主はあらゆる物を創り、それら全ての物に対する力を持つ者なり。主の御目(みめ)にはあらゆる物が晒され、一切が明らかなれば、主はあらゆる事を見給ひ、御目より隠せる物などなきものなり。 6. アザゼルが行ひし事、主も又見給へり。彼者(かのもの)地上にあらゆる類(たぐひ)の不正を教へ、人が求めて病まぬ天なる永遠の秘密を暴きしなり。 7. 又セミアザ、主は彼に其輩(ともがら)を統率する権限を与へ給ひしが、 8. 彼其輩と共に地上なる人の女子(むすめ)の所に往(ゆき)て彼女等と交わり身を汚し、あらゆる類の罪を教ふるなり。 9. 女は巨人を産み、全地は血と不正で溢れしなり。 10. 斯(かく)て、見よ、死に絶へし者の魂が泣き叫び、天の門に訴へを起こし、その嘆きが此処(ここ)に届き止むことなきなり。何となれば、地上に於て無法の所業が今も行われてゐる所以(ゆゑん)なり。 11. 事是に至るまでの事、主も又聞こし召され、此等のことを見、不快に思ふておられるはず。件(くだん)の事、如何(いか)にすべきか我等に命じ給はざるや。」と。

 

 

 

 

 

 

『ゴエティア』Goetia  ソロモンの72悪霊

17世紀から伝わる作者不明のグリモワール『レメゲトン』(別名はソロモンの小さな鍵)の第一書の表題である。

 

 

ソロモン王が使役したという72人の悪魔を呼び出して様々な願望をかなえる手順を記したもので、そのために必要な魔法円、印章のデザインと制作法、必要な呪文などを収録している。

本書には、この72人の悪魔の性格や姿、特技などが詳述されており、72人の悪魔各々の印章も収録されている。そのため悪魔名鑑としても参照される。

コラン・ド・プランシーの著書『地獄の辞典』第6(1863年)からルイ・ル・ブルトンの挿絵が追加され、現在の多くの人々の悪魔のイメージに影響を与えている。

 

ゴエティアの悪魔

「ゴエティア」では、記載されている72の悪魔のそれぞれが地獄における爵位(悪魔の階級)を持ち、大規模な軍団を率いていることが個別に記されている[ 1]

「悪魔の偽王国」においても、悪魔たちには神聖ローマ帝国のような階級制度があり、それぞれが爵位を有し、悪霊の軍勢を指揮する悪魔の頭目として描かれている[8]。こうした文献にあらわれる悪魔たちの背景には、中世カトリシズムにおける悪霊の軍勢の観念がある [9]。偽ディオニシウス・アレオパギタの『天上位階論』に由来する、天使たちが位階秩序をもった霊的存在であるという考えはカトリックの重要な理論として確立していたが、これに相応して堕天使すなわち悪霊もまた、天使の軍勢と同様に階層秩序をもって組織されていると考えられた [10]

 

構成するそれぞれの悪魔の名称は文献によって異綴などの差異が見られる。諸版の差異も含めて名前をリスト化すると、総数は72より多くなる[11]

フレッド・ゲティングズは著書『悪魔の事典』(ライダー社、1988年)において、これらの悪霊に「ソロモンの霊」という総称を与えた[12]

 

「ゴエティア」に語られるこれらの魔神の縁起は次のようなものである。

「これらは72人の強大な王侯たちであり、ソロモン王はかれらに、ベリアル、ビレト、アスモダイ、ガープが首領であるところの軍勢とともに一つの真鍮器に入るよう命じたのである。

これはかれらの高慢のゆえであろうと思われる。というのもソロモンはかれらを拘束した理由を明かさなかったからである。かくてソロモンはかれらを縛して容器に密閉し、神聖な力によってバビロンの深い湖か穴に逐いやったのであるが、バビロニアのひとびとがこれを見て訝しみ、大きな財宝が入っているやもしれぬ、と容器をこじ開けようとして湖に入り込んだ。しかし彼らが器を開封した途端、霊の頭目たちは自分たちに服属する軍団とともに挙って奔出したのであった。そしてベリアルの他はみな元の位置に復帰してしまった。一方、ベリアルは或る偶像に入り込み、バビロニア人がしたように生贄を捧げてその偶像を神として祀るひとびとに応答するようになったのである。」

 

ソロモンと悪霊

旧約聖書には書かれていないが、第三代イスラエル王であったソロモンがその英知をもって悪霊を支配していたという話はヘレニズム期のユダヤ人の間に流布していた。

1世紀から3世紀に成立したと言われるギリシア語の旧約偽典『ソロモンの遺訓』には、エルサレム神殿を建設していた頃のソロモンが、大天使ミカエルより悪霊を支配する指輪(ソロモンの指輪)を授かり、悪霊たちを神殿建設に駆り出したことが記されている。同書にもベルゼブル、アスモデウスなどさまざまな悪霊が登場し、36名の悪霊とその撃退法を列挙した箇所もある

 

このような偉大な知恵者とされたソロモンにまつわる伝説から、その後千年に亘って、ソロモンに由来すると偽った文献群(ノーマン・コーンは偽ソロモン文書 pseudo-Solomonic books と呼んだ[17])がヘブライ語やギリシア語、アラビア語で書かれることになったが、中世盛期後半頃から、魔術師が悪霊を呼び出す術(ニグロマンシー)について記した、それまでとは趣を異にする偽ソロモン文書がヨーロッパで作られるようになった[18]。『レメゲトン』はこうした文献の流れを汲んでいる。

 

関連文献

「ゴエティア」に列挙される72人の悪魔のうち、68人はヨーハン・ヴァイヤーの「悪魔の偽王国」(1577年)に記述されているものと共通する(ただし記載される順番は異なる)。同じ68人の悪魔がレジナルド・スコット(英語版)の『魔女術の発見』(1584年)第15巻第2章にも記されており、この部分は事実上「悪魔の偽王国」の英訳である。ただし「悪魔の偽王国」で列挙された悪魔は総勢69人であり、そのうちプルフラスだけは『魔女術の発見』には記載されておらず、ゴエティアの72人の悪魔のリストにも入っていない。

 

「悪魔の偽王国」の悪魔は、フランスのジャーナリストであったジャック・アルバン・シモン・コラン(1794-1881年)がコラン・ド・プランシーというペンネームで出版した『地獄の辞典』にも多数登場する[19]。『地獄の辞典』において脚色が施された悪魔の描写は、その第6版(1863年)に加えられたルイ・ル・ブルトンの挿絵とともに、現代の通俗的な悪魔のイメージに影響を与えた[20]

 

解釈

構成する悪魔の中には、フェニックス、バアル、アスタロトのように、他の宗教・神話の神や霊鳥に淵源を見出すことのできるものも含まれる。

西洋の悪魔についての一般論としては、モロク神やバアル・ゼブブのように、イスラエル民族周辺の諸国民の神々が嫌悪すべき異教神として悪しきデーモンに貶められた例があり[21]、偶像崇拝を禁じる古代ユダヤ人や後世のキリスト教徒によって、異教の神々が悪魔の地位へ落とされていったとされる[22]

 

72」という数字は、十二宮の1つの宮をさらに6区画に分割して得られる数字で、象徴的な全方角の支配者を定めるための図から得られたものらしい。そのためウァサゴのように名前以外の正確な姿や性格、特徴の伝えられていない悪魔もいる。アメリカのオカルティスト、ロン・マイロ・デュケット(英語版)は、ゴエティアの72人の悪霊はシェム・ハ=メフォラシュ(Shem-ha-mephorash)の72の神名と72の天使に対応するとしている[23]

 

 

刊行

生涯の大半を大英博物館の図書室やパリの図書館での魔術書渉猟に没頭したイギリスのオカルティスト、マグレガー・マサース(1854-1918年)は、大英博物館で『レメゲトン』の古写本を発見し、これを筆写して1898年頃、決定稿に仕上げた[32]。同じ頃AE・ウェイトによって私家出版された『黒魔術と契約の書』(1898年)には、『レメゲトン』の第1部「ゴエティア」の抄録が他のさまざまなグリモワールとともに収められていた[25]1910年『儀式魔術の書』として再刊)。一方、黄金の夜明け団の指導者であった前述のマグレガー・マサースの作成した『レメゲトン』の写本は、同団のメンバーに貸し出されていた。その1部が団員のアラン・ベネットを経てアレイスター・クロウリーの所持するところとなり[32]1904年、クロウリーによって『ソロモン王のゴエティアの書』として出版された(ただし『レメゲトン』のうち第2部以降は収録されていない)。その後アメリカでその海賊版が出版された[32]

 

1995年にはハイメニーアス・ベータ(英語版)の編集による、クロウリー版『ゴエティア』のイラスト入り新版[33]がアメリカで出版された。これは元の版と異なり、アレイスター・クロウリーによる悪魔のスケッチとともに『地獄の辞典』のルイ・ル・ブルトンのイラストが使用されている[34]2001年には、魔法書研究家ジェゼフ・ピーターソンの編集により、「レメゲトン」の第5部までを収録したのみならず「悪魔の偽王国」まで併載した『ソロモンの小さな鍵』が出版された。その他、20世紀後半から21世紀に数種類の編集版が英米で出版されている。

 

表題の意味

ゴエティア(ラテン語:Goetia)はギリシア語の γοητεία (ゴエーテイア)がラテン語化したもので、呪術・妖術などを意味する語である。

 

ギリシア語には魔術に類する言葉は何種類か存在するが、ゴエーテイアは古代ギリシアで γόης (ゴエース)と呼ばれた呪術師の業(わざ)を指し、呪術・妖術・奇術・いかさまを意味する[35]。その呼称は古代ギリシアのシャーマン的呪術師が霊を呼ぶために発する喚(おめ)き声に由来するといわれており[36]、「嘆き悲しむ、泣き叫ぶ、呻吟する」を意味する動詞の γοάω (ゴアオー)に関連する。

 

ルネサンス期の人文主義者ピコ・デラ・ミランドラは、魔術には悪霊の業である神霊魔術と自然哲学の完成形である自然魔術の2種類があると論じ、前者はギリシア人のいう「ゴエーテイア」、後者は「マゲイア」に相当するとした[37]。ネッテスハイムのコルネリウス・アグリッパは『学問の空しさと不確かさについて』の中で、ゴエティアを「不浄な霊による業」と定義している。

 

 

 

ゴブリン goblin

ヨーロッパの民間伝承に登場する伝説の生物で、アト・ド=ヴリースによれば、洞穴、木立に住み、幼い子を食べる、概して邪悪なもので、万聖節を象徴するものである。

ハロウィンでは「死者とともに現れ、人間へ妖精の食物を食べるよう誘惑する」と説明するアンナ・フランクリンによれば、この呼称で

 

醜く不愉快な妖精

悪戯好きな家付きの妖精

教会の墓地の地下や岩の裂け目、古い木の根元に住む妖精

を指し、彼らはピレネー山脈の割れ目から発生し、ヨーロッパ全土へ広まった[2]という。

 

キャロル・ローズによるとGobblin,Gobelin,Gobeline,Gobling,またGoblynとも綴られる、この妖精は、人の膝ほどの身の丈と、灰色の髪の毛とあごひげを持つ。子供が好きで、行儀のよい子にはプレゼントをくれるが、同時に台所、家具を引っ掻き回す、馬に乗って興奮させるなどの悪戯をするので、大人は閉口するという。彼らは床に撒かれた亜麻の種を数え、ある程度繰り返されると出ていくという性質があるので、彼らを追い出すためには亜麻の種を床へ撒くとよいという。 [3]

従って、伝承や作品によってその描写は大きく異なるが、一般に共通して醜く邪悪な小人として描かれる。

 

語源

ゴブリンの由来は、語源辞典『オンライン・エティモロジー・ディクショナリー(Online Etymology Dictionary)』によれば次の通り[15]

 

goblin (n.)

early 14c., "a devil, incubus, mischievous and ugly fairy," from Norman French gobelin (12c., as Medieval Latin Gobelinus, the name of a spirit haunting the region of Evreux, in chronicle of Ordericus Vitalis), of uncertain origin;

 

said to be unrelated to German kobold (see cobalt), or from Medieval Latin cabalus, from Greek kobalos "impudent rogue, knave," kobaloi "wicked spirits invoked by rogues," of unknown origin. Another suggestion is that it is a diminutive of the proper name Gobel.

 

 

〔日本語訳〕

ゴブリン(名詞)

14世紀初頭。「悪魔・夢魔・いたずら好きで醜いフェアリー〔妖精〕」。由来はノルマン=フランス語 gobelin 12世紀。中世ラテン語の形では Gobelinus 、すなわちエヴルー地域に憑いている霊魂の名前であり、オルデリック=ビターリスの年代記内にある)。その起源は不明。

 

というのも、 gobelin はドイツ語のコボルトとは無関係だとも言われる(コバルトを参照せよ)。または、 gobelin の由来は中世ラテン語 cabalus であり、さらにその由来はギリシャ語 kobalos 「恥知らずなゴロツキ・ならず者」および kobaloi 「ゴロツキたちによって喚び起こされるあくどい霊魂たち」であり、その起源は不明だとも言われる。gobelin は固有名詞 Gobel の愛称だという他の示唆もある。[15]

 

 

 

闇と悪と蛇

「悪」は各自の意識から生じるものなのか、それとも悪の根源というものから生じるのか、と考えるかによって、

聖書の解釈の仕方も違います。

聖書における悪の象徴は創世記3章の蛇ですが、その蛇を構成するものは創世記1章の闇です。

したがって善悪の2極性で対象を判断する場合は、闇が悪の根源だと考えることも可能です。

 

しかし、闇とは光と相反するものではなく光の一種なのですが、明るい光の横に並べることで仄かな光でダークネス、暗い光となり「闇」と呼ばれます。

このように考えると、蛇も善と相反する悪そのものではなく、この宇宙の善の一部(極小の部分)として把えることが可能になります。

 

すると善悪の問題は対象をどのように各自が捉えて判断して、それを行動に移すかによって生じることになります。

蛇やその構成物質の闇に悪の根源を求めるのか?、もしくは、それらの対象をどのように解釈をするかという各自の意識のあり方に悪の根源を見つけるのか?によって、悪との付き合い方が異なることになります。

 

 

 

 

マイモニデスの善悪

肉体的善悪と道徳的善悪

創造行為そのものは善であり、形成それ自身も善いことであるが、この創造はこの世界において、不完全である物質において生じたのであるから、不完全さをもつ。

 

 

わたしは光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者     イザヤ書457

 

 

光の形成にともない、闇の可能性もまた発生するのが物事の本質である。

善の創造にともなって、その欠如、悪の可能性もまた現われるのである。

太陽の下に立てば影もあるというように。

 

悪とは創造にともなう必然的な結果であるので、神的な源をもつが、悪は本質ではない。

事物の不在がその存在と共に現れるように、悪は現れる。

つまり、悪はそれぞれ欠如以外の何ものでもない。

一切の苦しみと一切の悪の原因は欠如と不在以外の何ものでもない。

 

悪の3つの領域

領域

例え

 

 

 

宇宙

疾病

 

 

社会

戦争

闘い

 

 

人格

自分自身

 

 

 

悪は妥協である

 

形而上学的善悪

存在自身は善である。

 

 

マイモニデスによる信仰の原理13か条

1. 神は万物の創造者であり,支配者である。神のみが万物を造った方,まさしく造る方,また造るであろう方である。

2. 神は唯一である。神の場合のような統一性は存在しない。

3. 神には体がない。身体の概念は神には当てはまらない。

4. 神は初めであり,終わりである。

5. 神のみに祈るのは正しい。人は神以外のだれにも,あるいは何にも祈るべきではない。

6. 預言者たちの言葉はすべて真実である。

7. モーセの預言は絶対に真実である。モーセは彼以前および以後の預言者の長である。

8. 我々が今持っているトーラー全体は,モーセに与えられたものである。

9. トーラーは変えられることがない。神が別のトーラーを与えることは決してない。

10. 神は人間の行ないや考えをすべて知っている。

11. 神は自分のおきてを守る者に報いを与えるが,自分に対して罪を犯す者は罰する。

12. メシアは到来する。

13. 死者は生き返らされる。

 

[脚注]

マイモニデスは自著「ミシュナ注解」(サンヘドリン 10:1)の中で,これらの原理の意味を明確にしました。それらの原理は後にユダヤ教の正式な信条として取り入れられました。上記のテキストはユダヤ教の祈とう書にある条文を要約したものです。

 

マイモニデスは1135年にスペインのコルドバで生まれました。マイモニデスに早くから宗教教育を施した父親のマイモンは,ラビの名家の出の有名な学者でした。1148年にムワヒッド王朝がコルドバを征服すると,ユダヤ人はイスラム教に改宗するか,それとも逃亡するかの二者択一を迫られました。こうして,マイモニデス家の長年にわたる放浪の旅が始まりました。1160年に一家はモロッコのフェズに落ち着き,マイモニデスはその地で医師になる教育を受けました。しかし,1165年に一家はパレスチナに逃亡しなければならなくなりました。

 

しかし,イスラエルの情勢は不安定でした。小さなユダヤ人社会は,キリスト教世界の十字軍とイスラム教勢力双方の脅威に直面していました。“聖地”に来て6か月もたたないうちに,マイモニデスとその家族はエジプトのカイロ旧市街のフォスタットに逃れました。マイモニデスの才能が余すところなく認められたのはその地でのことでした。1177年に彼はユダヤ人社会の指導者となり,1185年にはイスラム教徒の有名な指導者サラディンの宮廷の侍医に任命されました。マイモニデスは1204年に89歳で亡くなりました。

 

 

グノーシス主義者の悪

創造行為そのものが悪であり、デミウルゴスが物質世界を創造した時に罪を犯した。

 

 

 

ヨブ記のサタン

 

1章6

6 ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。

7 主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。

9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。

10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。

11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

12 主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。

 

21

ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。

2 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。

3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

4 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。

5 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」

7 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。

 

マイモニデスの解釈

2回にわたって神の許にやってきたのではなく、2つの違った姿images(化身)である。

ヨブの出身地Uzは知恵のシンボリズムを意味する。

サタンは物質世界の一部であり、天界の欠如である下界に属する。

1回目のサタンは、欠如、影、ゼロに源がある。

 

2回目のサタンは、人間の内側にあり、一見には善であるが、天使でないときには悪の力に変化する力。

理性(合理的能力)と想像imagination(不合理的能力)の間の闘争

想像が優勢なときには、不合理が自由になり、理性は人の中で君臨しなくなる。

 

著作「迷える人々への導き」3.10には

「これらは人々の間に下ってきたもろもろの悪(すなわち1人の人間が他の人間に行う悪)であり、それらの中には故意と欲望によって行われるものがある。」とある。

 

これらの時の愚かしい悪の源は@欲望とA誤謬による信仰である。どちらも欠如の結果である。

つまり、欠如という思考が悪に導くのである。

 

 

 

悪は盲人のように、自ら、そして他人に大いなる影響を及ぼす。

人間社会の悪も、愚かさと無知、不合理性の支配の結果である、とマイモニデスは指摘している。

そして、もし知恵があるならば、自他に対する損害は無くなるはずであると、真理の知識をもってすれば、「憎悪と反目は消滅し、狼と羊は共存する」と考えているので、理性の視力を獲得することをマイモニデスは期待し、これが彼における最終的な救済である。

この救済が実現するときは、「地は知識で一杯になるだろう」。これが現在欠けている光明である、と彼は信じていた。

この望みは数世紀後のゴヤの「怪物を創造する眠れる理性」につながる。

 

 

 

シャローム・ローゼンベルグ「ユダヤ教思想における善と悪」

植村卍編著 「ユダヤ教思想における悪」

 

 

 

迷える者たちの導き(Arabic: دلالة الحائرين, dalālat al-ā'irīn, Hebrew: מורה נבוכים, Moreh Nevukhim)はマイモニデスによる三つの主著の一つである。この著作は多くの事例について合理的な説明を見出すことによって、ヘブライの聖書学とアリストテレス哲学の調和を探求している。ヘブライ文字で表記された古典アラビア語(ユダヤ・アラビア語)で書かれ、彼の弟子であるセウタのヨセフ・ベン・ユダに送った、三つの部分からなる書簡からなり、マイモニデスのユダヤ法に関する意見とは異なる、哲学的見解の主な情報源となっている。ごく少数の人によってこの著はマイモニデスの作品ではなく、匿名の異端者によって書かれたと信じられている。その中で注目されるのは18世紀の学者レブ・ヤアコブ・エムデンである。

 

彼の神学的見解や宗教と哲学の関係などの哲学的概念の多くは厳密なユダヤ教神学を超えて関連しているため、非ユダヤ世界において最もマイモニデスに関連づけられている著作であり、幾人かの主要な非ユダヤ人の学者たちにも影響を与えた。その公刊に続いて「中世の残りの時代のほぼ全ての哲学的作品はマイモニデスの見解を引用、注釈または批判した」。ユダヤ教内部においても『導き』は広く普及し、多くのコミュニティが写本を求めたが、同時に一部のコミュニティではその研究を制限したり禁止したりなどの論争を引き起こした。

 

構成

1190年頃書かれ、1204年に同時代人のサムエル・ベン・ユダ・イブン・ティッボンによってヘブライ語に翻訳された。マイモニデスは『導き』を以下のものとして書いた。

 

「吾々の聖なる律法の真理を信じるように訓練され、道徳と宗教的義務を誠実に果たし、同時に哲学的研究に熟達した宗教的な人を啓発するため」 「この書には第二の目的がある。預言者達に現れるある曖昧な異象を説明しようとするものであり、それらは異象として厳密に特徴づけられていない。無知で皮相的な読者はそれらを象徴的ではなく文字通りに解釈する。知識ある人であっても文字通りに理解する時は困惑してしまうが、我々がその象徴を説明したり、その語が単なる比喩であることを示唆すれば困惑から完全に解放される。故に私がこの書をして『迷える者たちのための導き』と題した所以である」

 

また彼は、ユダヤ神秘主義において聖書の主要な二つの神秘的テキストである創世記(ベレーシート)における創造の神学と、エゼキエル書から神の戦車(メルカバー)の神学に関する部分に体系的な注釈をした。これらの分析は第三巻で行われ、この観点から、最初の二巻で提起された諸問題は、前提・背景と、この深奥を考察するために要求される神秘的・哲学的知識における進歩を提供する。

 

 

 

vs

 

シュメール神話

エンキ神 娘、孫、ひ孫と子を作る

妻のニンフルサグ女神(大地や植物の神)が怒る

ニンフルサグ女神がディルムンの中に造ったのがエディヌの庭園

 

 

エンキ神の肋骨からニンティ女神が生み出される

ニン=女性、ティ=生命

 

アヌンナキ

最高神エンリル

 

蛇  黙示録ではサタンの化身

 

 

Description: ダウンロード (2)

 

 

vs

 

 

シュメール

バビロニア

古事記

神社

 

サマエル蛇

ナンム母

エンキ息子

ティアマト龍

大物主命

瀬織津姫

諏訪大社

出雲大社

採集

ヤハウェ

エンリル

マルドゥク

スサノオ

牛頭天王

天満宮

農耕

 

宇賀神、ナーガ、アフリカのマミワタ、マヤ文明のケツァルカトル、稲荷明神、アンコールワット

 

メソポタミア神話の系図

名前

象徴

名前

称号

/独身

/独身

アン

ナンム

母神

*ウトゥ

アヤ

ウラシェ and

エンキ

創造者

*ナンナ

ニンガル

イシュクル

エレシュキガル

地下世界の女王

*イシュクル

シャラ

マルトゥ

遊牧、破壊

ガトゥムドゥグ

ラガシュの女神

*マルトゥ

ベレト・ツェリ

ヌスク

火、光

ベレト・ツェリ

砂漠の女主人

*ヌスク

アルル

出産

フッドゥ

シェルッバクの都市神

*エンリル

ニンリル

ツァルバニトゥ

豊穣

*ガトゥムドゥグ

ニサバ

穀物

ナブー

書記、文字、知恵、

ナムタル

伝令

 

 

 

 

ギリシャ哲学

ソクラテスを初めとするギリシャの哲学者たちは、事を単純化して、悪の起源は、人間の無知にあると考えた。

 

ゾロアスター教により代表されるペルシアの二元論では、「善」と「悪」は、永遠に対峙する2つのものであって、しばしば、「善」は霊の世界、「悪」は物質の世界と結びつけられている。この二元論はグノーシス主義を介して、広くギリシャ・ローマ世界に影響を与えた。

 

肉体そのものを悪と考え、禁欲主義を主張したストア派の哲学、この世を悪として隠遁生活を唱導したキリスト教の修道院主義などにその感化をみる。

 

キリスト教の立場からは、人間社会における「悪の起源」は、『創世記』3章に記されているような、アダムとイヴの創造主である神に対する不服従の結果として、人間生活に闖入してきた原理であると説く。

犯罪あるいは不道徳を含めて、それは神に対する罪とされる。

このように悪は神との関係において定義され、その起源は、聖と義である神との交流を見失い、疎遠・断絶という関係が始まったという関係の変化に存するとする。

 

ラインホルド・ニーバーは、人間の不安が悪を生み出すと説明している。パウル・ティリッヒは、人間の有限性に罪の起源があるとの説を支持した。

 

近代に入ってからは、「悪の起源」を、文明の発達と結びつける説が現れた。すなわち、文明の初期には、素朴で悪とは無関係な生活をしていた人類は、文明の発展に伴って、経済機構の複雑化などの影響を受け、そこに悪が始まったとする。この説によると、貨幣経済は貪欲を生み出したのである。ある学者は、チャールズ・ダーウィンによる生物進化論の立場から、未進化のままで人のうちに残っている動物的な性質に「悪の起源」を求める。彼らによれば、人はなお進化の途上にあって、未だ克服できない課題として「悪」の問題を抱えているのである。これは、ウォルター・ローゼンブッシュ(Walter Rosenbusch、プロテスタント神学者)によって道徳的に適用され、唱導された。

生長の家では、この世のことは実相ではないと言う理由から、「悪」は人の幻想に過ぎず「悪」そのものがないものとしている。

フリードリヒ・シェリングは観念論哲学の手法により、悪は神により形成された完全な世界において、人間のみがなしうる行為であり、過去や現在・未来を貫く自由な決断のなかで「被造物のなかで最高度の完全性」と呼ぶべきものに由来すると解説した。

 

参考文献

PurkiserW.T.他著、「GOD,MAN, & SALVATION」、Beacon Hill Press,1977P.79

Grider, J. Kenneth、「A Wesleyan Holiness Theology」、Beacon Hill Press1994,P.259

 

 

 

 

悪の反意語 トーヴ、ツァディーク、ヤシャル

 

ţôv   善悪の善、良悪の良、

創世記444 5020  322 2450   エレミア書242 出エジプト記22  士師記1625

 

ZADDIK  צַדִּ֛יק  ad-dîq  righteous   原初の神に意識を向ける   ラシャ−の反義語

創世記69  1823  エゼキル書185  申命記251  サムエル記下233 詩篇16 458

 

ヤシャル  יְשָׁרָ֑ה yə-šā-rāh         まっすぐ  物理的、心理的     誠実

エゼキル書17  列王記下1015  ヨシュア記925  申命記1225 箴言1111 1411

 

 

 

 

 

 

 

 

七福神 

福徳をもたらす神として信仰される7神。えびす(夷,恵比須),大黒天,毘沙門天(びしやもんてん),布袋(ほてい),福禄寿,寿老人,弁才天の7神をいうが,近世には福禄寿と寿老人が同一神とされ,吉祥天もしくは猩々(しようじよう)が加えられていたこともある。福徳授与の信仰は,狂言の《夷大黒》《夷毘沙門》などにもみられ,室町時代にはすでに都市や商業の発展にともなって広まっていたものと思われる。また,複数の神仏への巡拝も古くから行われていたが,〈竹林の七賢人〉などになぞらえて,七福神として描かれ,信仰されるようになった。福禄寿,寿老人は南極星の精であるとされ,中国の道教に由来する。また,弁才天はインドの水の女神で,音楽と弁舌の神であり,吉祥天女とも混同された。同じくインドの神に由来するのが,毘沙門天と大黒天で,ともに仏法守護の神である。大黒天は厨(くりや)の神として大きな袋を持つ姿から,大国主神とも習合し,農業神として広く民間に受容された。布袋は後梁の実在の禅僧契此(かいし)であるが,福徳円満の姿から福神に加えられたのであろう。えびす神は西宮の主神で事代主(ことしろぬし)神ともされ,あるいは蛭子(ひるこ)が海から漂着してまつられたものともされる。海辺漁民の信仰から,海運守護もしくは商業神としてまつられるようになった。この中で,えびす・大黒の2神併祀の風が広まり,さらに他の神々を加えて,七福神信仰が起こったものである。また,それにともない荒々しい姿のえびす,大黒,毘沙門なども柔和で円満な姿で描かれるようになった。江戸では,正月に七福神詣をしたり,宝船に乗った七福神の絵が初夢を吉夢にするために枕の下に敷かれたりした。また,各地に七福神を歌いこんだ民謡が残され,あるいは芸能にも残されている。福島県安達郡白沢村では,正月7日に稲荷神に導かれた七福神が家々を訪れ,養蚕の守護を祈願する行事などもある。    紙谷 威広

 

 

 

 

 

 

えびす(恵比須)

スクナビコナ

西宮の主神で事代主(ことしろぬし)神   蛭子

 

 

大黒天

大国主神

インド由来  厨(くりや)の神 農業神

 

 

毘沙門天

 

インド由来

 

 

布袋(ほてい)

 

後梁の実在の禅僧契此(かいし)

 

 

福禄寿,,

 

南極星の精

 

 

寿老人

 

南極星の精

 

 

弁才天

市杵島姫

インドの水の女神 音楽と弁舌の神  龍神