アブラハム教の心と魂と霊

 

 

はじめに

心と霊と魂

5段階の魂

ゾハールの解釈

 

 

 

コラム

漢字の魂と霊の意味

世界宗教の体と心と魂

アブラハム教とギリシャ哲学  不滅の魂の由来

死後の霊魂 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教

復活に関するユダヤ人の見解

霊と魂

 

 

参考資料

エホバの証人

霊魂消滅説Annihilationism

肉体、心、霊魂  Tassos Kioulachoglou

 

 

 

はじめに

「聞け、イスラエル。主は私たちの神。主は唯一である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」  申命記6,4-5

 

とあるので、心と魂は別のものだということがわかります。

しかし、聖書には各語句の定義が詳細に規定されているわけではありません。

 

 

聖書の人間観は「肉と霊を持った統一体」です。

また、人間の内面は分割不可能な統一体であると考えるのが、ヘブライ文化の人間観でもあります。

 

 

2つのアプローチ

ここで相違点にスポットライトを当てる、そして共通点にスポットライトを当てるという2つのアプローチがあります。

このエッセイは、全ては統一体であるという前提に立ち、相違点を探求することで、ヒトの内面にある特質を知ることを目的とします。

 

言葉が持つ多層の意味

そのためには「語句の構造」と「日本語の特徴」に留意することでスムーズに探索ができます。

まず、このエッセイで使われている語句はある1つだけの対象とだけに対応しているので、複数の層の集合体に対応しているということです。

特に、心、魂、霊と測定できないものを対象にしているので、多層の特徴をまとめて、心・魂・霊と名称しているということです。

例えば、聖書では、人間の内面を指すために種々の言葉が用いられています。

@「生きもの(a living soul)」(創27)、A「霊(spirit)」、B「たましい(soul)」、C「心(heart)」、D「心(mind)」、E「良心(good conscience)」など。

これらの言葉は、ときには意味が重複していたり、各箇所で並列している語句によって意味が変わります。

たとえば、「心と体」と「心と魂」と「心と霊」では同じ心という語句でも意味が違ってきます。

はじめの心は精神性、次の心は表層意識、最後の心は表層と深層意識の両方を示します。

 

日本語の特徴

日本語の特徴は記述するときには漢字を使用することにあります。漢字は象形文字でその形がシンボルとなり意味がすでにあるので、無意識のうちにその影響に曝されているという事実です。

たとえば心が心臓の形を図案化したものであるように。

魂と霊についてコラムにて詳細を説明しているので参照してください。

また全ての語句にはその背後にある時代と地域の思想によって成り立っているので、心・魂・霊という語句を使うと、神道・老荘思想・儒教の思考パターンがセットになっているという事実です。

ですからヘブライ文化という他文化の心や魂や霊について考察するときには、使っている日本語は日本で日常的に使われている意味は持たず、他文化を理解するために仮設した記号である、毎回のように注意をしないと、ついつい日本語で使われている意味を基準にしてしまい、誤謬した理解に導かれてしまいます。

たとえば、現代の日本人が「霊」ということばを聞くと、幽霊、亡霊、御霊前などの死者と結びついた、冷たいイメージですが、ヘブライ語のルアハ(霊)は、「神の息吹、風、いのち、魂、霊なる神」と、生命を想起させるイメージがあります。

 

したがって、私たち一人ひとりが、聖書で与えれらた語句がどのようなTPOで使われているのかを推察して、それらの語句を使った人々の心情や状況を考察していくことが重要になり、推理パズルに挑む心構えが他文化を理解する第一歩となります。

 

 

体と心と魂と霊

人間の内面の活動の諸相を指すために、「霊」、「たましい」、「心」、「良心」などさまざまな用語があります。

そして、この肉体と内面のいのち統一体が分離することが、肉体の死です。

しかし、肉体が死んでも内面のいのちは生き続けているので、アブラハム教のいう肉体の復活が可能になります。

 

人間は、体、霊、たましいという3つの部分から成っていると主張する人がいます。

 

パウロの霊と魂  ローマ・キリスト教会の霊魂

「あなたの霊、たましい、体が完全に守られますように。」テサロニケの信徒への手紙一 5章23

 

からだとは

五感を介してインプットされる信号

 

たましいとは、違いを認識すること

1 知性    知識や思考を活用すること

2 感情    怒り、悲しみ、喜び

3 意志    判断  意欲や精神力

 

霊とは

神を認識する働き

永遠を求める心を活性化させる

しかし、聖書に「霊」と「たましい」という言葉が並んであるからといって、人間の内面が二分割可能だということにはなりません。

この定義の仕方は、ユダヤ教の魂をギリシャ哲学で解釈するという誤謬に結びつきました。

詳細はコラムを参照してください。

 

 

 

また、人間は、体と、目に見えない内面の2つの部分から成っていると主張する人もいます。

人間の内面は統一体であり、分割不可能だということになります。その説を支持していると思われる聖句の1つは創世記2章7節にある、外面の体は「土地のちり」から創造され、内面のいのちは「神の息」を吹き込まれて生き始めました、という箇所です。

さらに、使徒パウロは、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(2コリ416)と書いています。

「外なる人」とは体のことであり、「内なる人」とは内面のいのちのことです。

 

 

すべての人間は、物質と非物質との両方の性質を持っています。すべての人間が肉や骨、器官、細胞などを含む体を持っていることは明らかです。 しかしながら、よく議論になるのは、人間の非有形的な特質についてです。創世記2章7節には、人間は「生きもの」として造られたとあります。

民数紀16章22節では、「ふたりはひれ伏して行った。『神。すべての肉なる者のいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りに成るのですか?』とあります。

この聖句は、神をすべての人間の持っている霊(いのち)の神と呼んでいます。

箴言4章23節;「力の限り、見張って、あなたの心を守れ。いのちの泉はこれからわく。」

この聖句は、心が人間の意志と感情の中心であることを示しています。

使徒伝23章1節:パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ、私は今日まで、まったくきよい良心を持って神の前に生活して来ました。」

ローマ書12章1−2節:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなた方にお願いします。あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、こころの一新によって自分を変えなさい。」

以上、人間の非物質的な部分にはいろんな面があり、物質と非物質の両面の性質を人間が持っていることがわかります。

 

聖書はもっとその二面以上ことを述べています。以上述べた面(魂、霊、こころ、良心など)はそれぞれ、何らかの関係、相互関係があるようです。

このことを考えると、人間は二つ(肉体と魂/霊)の部分に分かれるとか、または三つ(からだと、魂、霊)の部分に分かれるとか言えるでしょうか?

 

独断するのは不可能です。両方の議論には良いことがあります。鍵となる聖句は、

へブル書4章12節「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」

この聖句は、この議論について少なくとも二つのことを教えています。

(1)たましいと霊は分けられる。

(2)たましいと霊の分かれ目はみことばだけが判別できることである。人間として、私たちが肉体、たましい、霊とその他もっと多くを持っていることは 確かです。

 

 

そこでこれらの語句が使われている聖書の箇所を並べてみて、何を意味しているのかを推察することが私たちにできることです。

すると、メンタル体の心、経験をデータ化した魂、宇宙創造の1日目からある霊についての概要はわかりますが、使われている語句が物質のレベル、心のレベル、魂のレベル、霊のレベルで扱われているのかを推測しないと、アナロジーや比喩や暗喩であるのかも理解することができません。そこで1つのレベルの解釈ではなく、どの語句も多層なものとして扱うことで、それぞれの内容を体感したり、心感したり、実感していきます。

 

これらの意識の内面を理解する時に、大きな弊害になるのは、これまで500年間の翻訳の誤謬、もしくはこれらの事柄を本人が認識したのではなく、ただ語句のみで分別し理解してきたことに起因します。

これはどの分野にでもあることですが、特にこの多層の意識の分別と訳語には注意を払うことが必要です。

なぜならば、漢字、大和言葉、英語、現代語、ギリシャ語、ヘブライ語、そして私たちが観照や熟慮や瞑想によって得られる認識との間では、示しているものが異なるからです。

すなわち同じ言葉を用いても宗教によって意味する内容が異なっているので混乱を起こしているのです。

 

この絡まった糸を解くには、死後の世界を想定して、その言葉がどのように死後や来世と関連しているのかを整理すると、これまでの伝統的翻訳語を修正することができるでしょう。

たとえば、ヘブライ語、すなわちユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、霊Ruachは魂よりも粗雑なものとして定義されています。怒りや悲しみなどの感情や心の苦しみも霊Ruachの領域なので、これは霊ではなく意識エネルギーや感情の自動反応回路と訳するのが適しています。

 

 

 

 

心 lib-bōw もしくは短縮形のレブ

心とは「知る」機能のこと、これによって理解することができるようになる。

心とは人間の存在の中心にあるもの。

心は思考、身体、感情、決断をつかさどるります。

つまり表層意識が活性化している時に心は機能しています。

対して魂も霊も表層意識が働いていない気絶の状況では活性化しています。

 

「あなたの心を見張れ。いのちの泉はこれから湧く」箴言4.27

「ヒトの心は何にもまして偽り、治ることもない。誰もそれを知り尽くせない」エレミヤ書17.9

「ヒトは心の割礼が必要である」申命記30,6

「私にきよい心を造ってください」詩篇51,10

「神が人々から石の心を取り除き、新しい柔らかい肉の心を与えてください」エゼキエル書36,26

「人々が心にトーラーを書き記すことを望む」エレミヤ書

「イスラエルの頑な心」申命記30

主は人の悪が地にはびこり、その心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見た。 創世記6,5

主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、創世記6,6

 

 

心は思考します。

「知恵は心に住む」箴言

「心を持って善悪を見分ける」ソロモン王

 

心は身体の心臓のことも指す

「体の中で心臓が死に石のようになった」第1サムエル記25.37

 

心の感情には、恐れ、悲嘆、溶ける、落ち込み、喜びなどがあります。

「心がよい」エレミヤ書15,16

broken heartはヘブライ語由来の表現。子供のいなかったハンナは心がさけた。

 

心は決断をします

「こころにあることを行いなさい」第2サムエル記7,3

 

 

 

 

 

neshamah     

neshamahは旧約聖書に700回以上でてくる語句

古代ギリシャ哲学の魂は、肉体とは違い、体の中に閉じ込められていますが、体の死によって解放され、亡くなることがない本質として理解しているが、

ヘブル語の魂は、息をし、肉体をもち、生きるもの、すなわち生きた肉体をもっている人間全体を指す語句です。

そしてこの魂を5層、そして認識しやすい3層のものとして解釈する伝統があります。

 

まずは聖書の中で使われている箇所を並べてみます。

 

「ネフェシュがからからだ」民数記11,6

ヨセフがエジプトで彼のネフェシュは鉄の枷に繋がれました。詩篇105,18

 

人や動物の全体を表す

ヤコブの家族には33のネフェシュがいた、創世記46,15  

殺人者とはネフェシュを殺す者  民数記31,19

誘拐犯はネフェシュを盗む者 申命記24,7

 

生きている者は生きたネフェシュと呼ばれ、人間や動物の息が去って死んでも、ネフェシュは残り、死んだネフェシュと呼ばれた。

ネフェシュは所有するものではなく、ネフェシュである、もの。

 

自己(私自身)を指すとき

「私のネフェシュが生き、あなたをほめたたえますように」詩篇119,175

「私のネフェシュが愛する人」雅歌3.1        

愛は思考だけではなく、体全体、すなわちネフェシュ全体を活性化すること

「鹿が水を慕いあえぐように、私のネフェシュもあなたを慕い求め、私のネフェシュは生ける神を求めて渇いています。」詩篇42,2,3

サンカーラのこと?

 

 

 

神から与えられるもの

人格を持たない

肉体を生きさせる効力を持つもの

 

 

 

語源

非物質的無形的存在である霊は,旧約ではrū-a「息をする」「吹く」に由来)で表されている。

ギリシヤ語ではpneumaで,息(Uテサ28),風(ヨハ38)の用法以外は,ほとんどが,神,人,他の被造物の霊として用いられている.

木の葉を動かす風もrū-aといい、エネルギーのこと

 

 

神の霊  聖霊  聖霊 創世記12節   神の臨在を表す語句

神の霊がヨセフに夢を解き明かす力を与えた

神の霊がヘツアレルに知恵と技術を与え、天幕に美しい装飾をした

神の霊は預言者に神の視点から世界を観る力を与えた

神の霊が鳩の形をして、ヨルダン川で洗礼するイエスの上に留まりました。

神の霊によってイエスは復活したとき、弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を受けなさいと語った。

息もrū-a、そのときに感じる生命力もrū-a 息吹はNefeshである、と説くラビがメジャーか?

神のrū-aがすべての生命を維持する。

 

意識(感情や意思)の源

霊は,人間の本質的生命原理として,感情や意思の源である。

「その霊[ルーアフ]が出て行くと,その者は自分の土に戻る。その日に彼の考えは滅び去る」― 146:4

人の霊は,心騒ぎ(創418),奮い立ち(エズ115),考え(イザ1424),喜び(ルカ147),憂え(イザ613),落胆する(出69)。

聖霊が人のうちに宿る時,御霊の実である力と愛の霊を豊かに持つことが約束されている(Uテモ17).

 

また,死より贖われたキリスト者の霊は,キリストの再臨の時に復活のからだによみがえることを待ち望むのである(Tコリ1523.参照黙204)。(「新聖書辞典」(いのちのことば社))

 

 

動物にも共通の霊

「命の力[ルーアフ]の息[ネシャマー]がその鼻に作用しているすべてのもの,すなわち,乾いた地面にいたすべてのものが死んだ」。(創世 7:22

「人の子らについて起きる事と獣について起きる事とがあり,両者には同じ事が起きるのである。これが死ぬように,彼も死ぬ。これらは皆ただ一つの霊[ルーアフ]を持つのであり,人が獣に勝ることはない」。伝道之書 319

「霊」とは,生きたすべての細胞に作用している見えない生命力です。

 

 

魂との関係

人間は,霊,魂,からだの3部分より成る(Tテサ523)という説もあるが,

neshamahpsycheと霊rū-apneumaは,旧新約共,同義語的に,また並列的に使われている(イザ269,ルカ14647).

 

生きる力

神はいのちの霊を人間に与え(創27,イザ425,ゼカ121),死と共に,その霊はそれを授けてくださった神の御手に帰る(伝127)。

これは,人間の命が霊に依存していることを示しています。

「あなた[エホバ]がその霊[ルーアフ]を取り去られると,彼らは息絶え,自分の塵に彼らは戻る」。(詩 104:29)「霊[プニューマ]のない体(は)死んだものである」。(ヤコブ 2:26

したがって,霊は体を生かしているものである,と言えます。

 

したがって,霊が神のもとに戻るというのは,意識のある存在が継続するという意味ではありえません。

霊は人間の思考作用を継続するのではありません。それは,生命のための力にすぎず,体を離れて意識ある存在を保つものではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心と魂と霊

 

旧約

新約

現代語

内容

leb 

לבו

heart

kardia

καρδια

意識

表層

深層

人間の最内部において人間の意志、思惟、感情などの、内的中心

本来は人間の胸のあたりを指す語

心臓

neshamah

ונפשׁ

soul

psyche

ψυχη

アプリ

経験のアプリ化、記憶データ化。

神から与えられるのではなく、各自が魂になる

人格を持つ 人間自体の存在  自動反応回路

 

rū-a

ורוח

spirit

pneuma

πνευμα

生命

肉体を生きさせる効力を持つもの 人格を持たない生命力

人間の本質的生命原理で、洞察と感情と意志の源

神によって与えられる命の息

 

 

 

ヘブル語

他言語

特徴

現代日本語

leb 

 

heart kardia

 

気絶、失神、全身麻酔のときには活動しない

「知る」機能がある

意志、思惟、感情などの、内的中心

本来は人間の胸のあたりを指す語

意識

neshamah

soul

Psyche

性格を持つ

与えられるのではなく、各自が魂になる

経験のアプリ化、データ化。

 

各自のアプリ

記憶データ

自動反応回路

rū-a

spirit pneuma

肉体を生きさせる効力を持つ

人格を持たない

神から与えられるもの

 

命、

生の息

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


魂の5段階

1つのものをいろいろな方向の切口をもつことで新たな理解をすることがあります。

たとえば、上の図のように霊を多層化して理解する方法もありますが、

次は魂を軸にして、ヒトの内面や神を理解しよとするアプローチです。

neshamahと霊rū-aの解釈が上図とは逆になっています。

 

 

 

 

 

 

S

1

Nefesh

 

tzelem,

tzelem Elokim.

 

Asiya,

物質エネルギー界

人間の肉体と魂をつなぐ霊的な型

人が生まれたとき、神の最大の隠蔽を表す最も低い世界

息吹、ギリシャ語のpsyche、ゴーレムの生命力

感覚のサンカーラ

10

2

Ruach

demut Elokim

 神のイメージ

 

 

Yetzira.

感覚エネルギー界

感情

心の労苦   

低いレベルで心を尽くして神を愛する

感情のサンカーラ

 

4

9

3

Neshama

 

Beriya

表層意識の思考

 

大いなる努力による啓示

理性    

思考のサンカーラ

3

4

Chaya 

 

Atzilut

大いなる浄化による可能性がある

2

5

yechida

 

Adam Kadmon

無限の存在であるアイン・ソフから発した魂

1

 

 

ネシャマ 魂の意識レベル

神の魂は、5段階の意識レベルに分かれています。モシェ・ミラー著

 

神の魂は、「神の民は神の一部である」(申命記32:9)という聖句にあるように、またラビ・シモン・バル・ヨチャイが自分自身について述べているように、神と切り離すことのできない本質である: 「私の魂は、一つの炎のように、主と一体となり、主と結ばれている」。

 

しかし、無限の存在であるアイン・ソフから発した魂は、やがて肉体を纏うために、前述の5つの世界を経て、それぞれの世界に根を張り、肉体を纏うまで下降する。

このように、魂には5つのレベル、すなわちGd-consciousnessのレベルがあり、それぞれの世界に現れる現実の諸プレーン段階、すなわち神の啓示/隠蔽のレベルに対応している。

 

肉体に包まれた魂は、ツェレム(ツェレム・エロキム)と呼ばれる神の形を反映したものである。このツェレム・エロキムは、人間の肉体と魂をつなぐ霊的な型と言えるかもしれません。

この型はセフィロトの構成に由来するもので、セフィロトは魂が肉体に降りる際に通過する世界を構成している...人間は自分の中にすべての創造物を含む...

 

魂の外側の次元がセフィロトの構成を反映すると同時に、魂の内側の次元は、セフィロトを照らす無限の光を反映します。この反射は、Demut Elokim(神のイメージ)と呼ばれています。このように、人間は、最も高い精神性から最も平凡な肉体まで、すべての創造物を自分の中に含んでいます。

 

これらの魂のレベルは、人間の神への奉仕という観点から見ると、神を意識し、神と交わるための5つの昇順のレベルとして表現することができます。

 

これらの魂のレベルについて、ゾハールは、人が生まれたとき、神の最大の隠蔽を表す最も低い世界であるアシヤの世界からネフェシュが与えられると述べている。さらに努力すれば、ベリヤの世界と同じように、ネシャマの啓示を得ることができる。

 

もし彼が大いに浄化すれば、Atzilutに匹敵するChayaのレベル、さらにはアダム・カドモン以上の神意識であるyechidaに到達することができるかもしれません。

 

(イェチダと呼ばれる魂のレベルは、神から決して切り離されないため、本質的にすべての世界を超越するものである。)

 

 

ネフェシュNefesh,   肉体や物理的な世界を意識すること。

意識の最下層であるネフェシュは、肉体と物理的な世界、つまりAsiyaの世界(行動の世界)を意識することです。しかし、この肉体への意識は、受動的な意味での意識ではなく、単に事実を観察しているに過ぎません。

また、ネフェシュは実は肉体の生命力であり、肉体の生命力であるからこそ、ネフェシュは肉体に対する意識を持つことができます。この肉体的な意識は、ネフェシュが肉体と一体化した結果だからです。

たしかにネフェシュは肉体の生命力ですが、ネフェシュが肉体を創造しているわけではありません。

身体は、他のすべてのものと同じように、カミ(神)によって創造されたものです。

神は「地の塵から」アダムの体を創造した後、アダムに生命の息を吹き込まれた(ベレシテ2:7参照)。

この吹き込まれ息が「ネフェシュ」(生命力)です。

Tanya」には、ネフェシュは血の中にある、とあります。

このネフェシュは、死後、肉体とともに墓に入ります。

Asiyaの世界ではマルクート(王国)が支配的なセフィロトであるように、Asiyaの世界に対応するネフェシュでも、マルクートの属性である「行動」が魂の支配的な特徴です。

ネフェシュのレベルに関連する神の奉仕は、特に戒律の履行に関して、神の最高権威を認め、それに服従することです。そのため、「天の軛を受け入れる」(kabbalat ol malchut shamayim)と呼ばれています。

 

 

ルアック(Ruach)の主な発現は感情

RuachNefeshレベルよりも高い意識の領域のことです。Ruachに対応する世界(すなわち、カミの啓示レベル)は、Yetziraの世界です。ルアックの主要な顕現は感情であり、Zeir Anpin(小さい顔)の6つのセフィロトの主要な活動(chesed慈悲からyesod基礎まで)がYetziraの世界であるのと同じです。

神への奉仕という点では、神への愛と畏敬という相補的な感情を呼び起こすことが必要です。

Yetziraの世界を形成し維持する神のエネルギーに思いを馳せ、そこに住む天使たちの途方もない自己否定を観察することで、神への愛と畏敬が喚起されます。

この魂のレベルでは知性も広く使われるかもしれないが、しかし、ここでの知性の主な焦点は、感情を呼び起こすための観想である。そのため、タルムードの賢人たちは、このレベルを「心の労苦」と呼び、それによって人は心を尽くして神を愛するようになる。しかし、これは、神の創造的エネルギーの低レベルを熟考することによって生じるものであるため、愛のレベルは低い。

 

 

ネシャマNeshama

ネシャマは儚いものではなく、本質的なものだと理解されています。

ネシャマの主な活動は、「全能者からの魂(Neshama)が彼らに理解を与える」(ヨブ記328節)とあるように、知性の概念的把握です。 Beriyaの世界における神のエネルギーの顕現で、主要なセフィロトはビナ(理解)です。形と関係の世界であるYetziraの世界とは異なり、Beriyaの世界は構造化や数量化できるものではなく、無の状態から生まれた神のエネルギーの領域です。こう書くとなんだか特別のようですが、日常会話でいえばどの知性と関連する意識エネルギーの領域で、その特出したカタチは仏教でいうと第1禅定の状態だと推測されます。

知性と関連があり、脳の周辺にある、と考えられています。

このように、ネシャマの働きは、生命と存在の継続的な創造と維持です。

ネシャマは経験による刹那的な思考を抽象化された本質的な根本原理に分析します。

この意識レベルにある兆候の1つは、心が集中して5感覚器官からの信号が一時的に無効化されていることです。

その後、このレベルで経験する豊かな霊的な光のために、愛と畏怖の感情が自動的に喚起されます。

これは、カバラの中で「心の歓喜」(re'uta d'liba、ゾハール293b参照)と呼ばれています。

ここで、愛は心の中でその完全な姿を現わし、聖書の中で「あなたの魂のすべてで」神を愛する、とあります。これは、世界の創造主である神との交わりと言えるかもしれません。

 

チャヤChaya

魂がエゴを完全に排除した状態になり、物事の絶対的な真理を知る状態です。

Chayaと呼ばれる魂の段階は、Atzilutの世界の神聖なエネルギーを見つめます。

オーラやメンタル体のように体の中にあるのではなく、体の周囲に位置します。

ネシャマのレベルでは、世界の創造主である神と交わるために知的理解を用いましたが、Chayaのレベルは、世界を超越した神と交わりになります。

この段階の魂の知識は、創造に現れた神聖なエネルギーの性質を特定するのではなく、むしろ神が何々ではない、、すなわち、神がいかに有限の宇宙によって制限または定義されないかを知ることにあります。

この段階の魂は、エゴを完全に無化した状態に融合しています。

神の外に、自己を求めることも、自己同一性を持つこともありません。

chayaは神を「全部の存在(体、心、魂)で」愛します。(申命記6:5

そして物事の絶対的な真理を知ることになります。

 

イェチダyechida

イェチダは、Adam Kadmonと呼ばれる魂のレベルに対応しています。

アダム・カドモンの崇高で純粋な超越的世界が、本来の無限の光(Ohr Ein Sof)に結合して反射するように、イェチダのレベルもまた、そうです。

これこそが聖なるものと自然かつ不変的に結合している魂の本質で、体に具体化することはありません。

Rabbi Shimon bar Yochaiは、「この世とつながっている間は、私は一本の結び目で、祝福された聖なる方と結ばれていた、彼と一体になっている」と宣言しました。

これは、神、トーラー、人々のために、自己犠牲や殉教の瞬間に明らかになる魂のレベルです。

 

 

 

カバラ神学では、魂は個体の記憶の集合体であり、唯一神はすべての生命に内在し、ただ唯一神は永遠の魂(命の木)である。

個体が善悪を分かち、各自の記憶は神へ帰る。神はただ記憶を収集し、善悪を分かたない。

神では、善の記憶が再創造の素材になり、悪の記憶がなくなる。

 

カバラでの寓話では、毎年贖罪の日ではすべての生命は死んで、生き返り、悪もなくなる。(あるいは、毎年角笛吹きの祭から贖罪の日までの間にすべての生命は死んで、記憶が神へ帰った。贖罪の日から光の祭りまでの間に神は再創造し、善の記憶がすべての生命へ帰った。)死亡はただ贖罪の日と同じである。

シェオールやハデスなどと呼ばれる死後の世界が存在するとされる。ハデスの中には「アブラハムのふところ」と呼ばれる憩いの場と、裁きの場があるとされる。

また,三つの天という概念があり,第一の天が地球の空,第二の天が星の空間(宇宙),第三の天が神の住まいとされる。

最後の審判の時にすべての魂が復活し、律法(特に後述の安息日の規定が重要であるとされる)を守っていたものが救われる。

子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられている。

 

 

「ゾハールの書」の解釈

Ze`ir Anpin(アラム語:זֵנפִּיראן  意味:「より少ない表情/小さな顔」、Kabbala Denudata では Microprosopus)と呼ばれ、感情セフィロト属性からなるカバラの神の顕在的側面である:ChesedGevurahTipherethNetzachHodYesodの6つ。

 

ゾハールのイメージは、天地創造におけるその役割を説明しており、生命のセフィロトの木におけるArich Anpin(大きい顔=第1等級のケテル)(Macroprosopus)と同等の微小な存在であることを示しています。

Siphra Dtzeniouthaでは、神の顕現した顔として描かれ、『Idra Rabba』では、そのいくつかの属性のカバラ的意義が詳しく説明されています。テトラグラマトンはYHVHיהוה)であり、ユダヤ教における神の名である。16世紀のLurianismの教義では、Tikkun修正という宇宙のプロセスの一部として、6つの主要なPartzufimの神聖なペルソナの1つとして体系化されています。

 

Zeir Anpin-Short FaceNukvah-Femaleの統合

ティファレト(美)を中心とする感情のセフィロトであるZeir Anpinは、被造物に対する神の超越的な啓示(「聖なる者、祝福あれ」)であり、本質的な神の無限性(神のテトラグラマトン名)の知覚できる顕現である。NukvahZeir Anpinの「女性」)は、被造物の中に内在するシェキナ(女性的な神の存在(第1,2,3等級))であり、隠された神の有限性(Elokimという名前)である。

中世カバラでは、アダムの罪とその後の罪によって、両者の間に(創造から知覚される)明白な分離がもたらされ、高みへの追放と窮屈さがもたらされる。人間の任務は、男性と女性の神の顕現に結合(Yichud)を回復することです。これが、ユダヤ教の儀式を行う前に唱えられるカバラの祈りの式の起源である。テトラグラマトンのうち、最初の2文字は「隠蔽された世界/神との上位の統一」を意味し、後の2文字は「創造された世界/下位の統一」を意味する:

 

"祝福された聖なる方とそのシェキナーの結合のために、Y-HV-Hという名前を完全な結合にするために、全イスラエルの名において、"

 

ルリアニック・カバラでは、セフィロトの不調和の起源は、人間が創造される前の原初の領域であるTohuにあるが、後に罪によってさらに追放される。人間の任務は、高次の男女の結合に影響を及ぼすと同時に、物理的存在に散在するTohuの「聖性の火花」(Birur)をメシア的に救済することにある。

BirurYichudの内的次元となる。内在するそれぞれの火花は、それを捕縛から贖い出す人物との関係において、相対的に女性である。すべての火花の集合体は、イスラエルの民の集合体と同様に、神のもとに引き上げられるのを待っている追放されたシェキナーとして構成されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラム

 

漢字の字源   霊と魂

 

「霊」    正字(旧字体)は「靈」である。

白川静『常用字解』

「会意。霝れいと巫ふとを組み合わせた形。霝は雨乞いのために、(祝詞を入れる器の形)を三つ並べて祈ることをいう。

巫はその雨乞いをする巫女。靈はもと雨乞いの儀礼をいう。雨乞いのみでなく、神霊の降下を求めるときにもを並べて同じように祈ったので、のちその神霊をいい、およそ神霊にかかわることをみな霊という。“みこ、かみ、たましい、たま、すぐれる”の意味に用いる」

 

[考察]

霝は明らかに靈の音と関わりがあるから形声のはず。白川漢字学説には形声の説明原理がなく会意的に説くのが特徴である。

本項ではあえて会意とし、形声としない。これは字源説からは外れている。やはり形声とする必要がある。

会意とするからには、「霝(雨乞いのために祝詞を入れた器を三つ並べて祈る)+巫(巫女)」から、雨乞いをする巫女の意味になりそうなものだが、「雨乞いの儀礼」の意味としている。しかしこんな意味が靈にあるだろうか。また「雨乞いの儀礼」の意味から「神霊」の意味の意味が出たというが、その神霊の霊とはどういう意味か。この霊の説明こそ求められているのではないのか。霊は「雨乞いで降下する神霊」なのか。これでは同語反復で、霊の根本的な意味は分からない。

意味とは「言葉の意味」であって、「字形の意味」ではなく、具体的に使われる文脈からしか出てこない。古典における霊の用例を見るのが先決である。

@原文:靈之來兮如雲

 訓読:霊の来ること雲の如し

 翻訳:神巫が雲のように群がりやって来る――『楚辞』九歌・湘夫人

A原文:以赫厥靈

 訓読:以て厥(そ)の霊を赫(あらわ)す

 翻訳:不思議なことを現した――『詩経』大雅・生民

 

@は神がかりになるシャーマン(みこ)の意味、

Aは人知で図り知れない神秘的なことや、そのような存在、現象の意味で使われている。

神、万物に宿る精気、死者のたましい、不思議な力などもこれに含まれる。これを古典漢語ではleng(呉音でリヤウ、漢音でレイ)という。これを代替する視覚記号として靈が考案された。

 

靈は「霝レイ(音・イメージ記号)+巫(限定符号)」と解析する。

霝については『説文解字』に「雨零つるなり。A[口+口+口]は落つる形に象る」とあり、零と同音同義の字である。

Aは口を三つ並べて、雨粒が点々と連なる様子を示す。

霝は「---の形に点々と連なる」というイメージを示す記号である。「---の形に連なる」というイメージは「形がきちんとしている」「整って美しい」というイメージ、さらに「澄み切って清らか」というイメージに転化する。

これと同じイメージ転化のパターンは「令」にも見られる。霝のグループと令のグループ(令・冷・玲・伶・零・齢など)は同源である。姿の美しい動物であるアンテロープは羚ともとも書かれる。

 

このように霝は「---の形(数珠つなぎ)に点々と連なる」というイメージと「清らかに澄む」というイメージがある。

巫は「みこ」と関係があることを示す限定符号。したがって靈は清らかな神の言葉を次々に連ねて告げるシャーマンを暗示させる図形である。これは神がかりになった姿でもある。

このような図形的意匠によって、上記の古典にある@Aの意味をもつlengという語を表記した。

靈は雨乞いとは何の関係もない。白川は靈に雨が含まれているから雨に囚われすぎた。形声を会意とする字形の解剖の誤りが間違った意味を引き出させた。

 

 

「魂」

古代には「たましい」に二種類あるという考え(信仰、宗教的観念)があった。

一つは人の死後地中に帰って白骨に宿るという「たましい」、もう一つは死後天に上っていくという「たましい」である。前者をp'ăkといい、魄と書く。後者をɦuənといい、魂と書く。

鬼は亡霊と関係があることを示す限定符号である。

 

白川静『常用字解』

「会意。云ウンは雲のもとの字で、雲気(雲)の形。鬼は死んだ人の人鬼で、霊となって霊界にあるものをいう。“たましい” をいう。人のたましいは、死後に雲気となり、霊界に入るものとされた」

 

[考察]

形声の説明原理がなくすべて会意的に説くのが白川漢字学説の特徴である。

云(雲気)+鬼(人鬼)→死後に雲気となって霊界にあるもの(たましい)という意味を導く。

雲気(雲)は目に見える実体であろう。霊魂が雲となるというのが解せない。会意的に説くと実体がそのまま意味に加わり、意味を不自然にする。

 

魂は云を音符とする形声文字というのが古来の通説である。

形声の説明原理は言葉という視点に立ち、言葉の深層構造に掘り下げて意味を解明する方法である。

 

魂は「云(音・イメージ記号)+鬼(限定符号)」と解析する。云は何かの気体(雲気や蒸気のようなガス状のもの)が巻いて空中に漂う状況を図にしたものである。

これによって「(気のようなものが)もやもやと空中に漂う」というイメージを表すことができる。

実体ではなく形態や機能に重点を置くのが漢字の造形法である。

云は雲の原字とされているが実体を表すのではなく、「もやもやと空中に漂う」というイメージを表すのである。

 

 

 

 

 

世界の肉体と魂と霊魂

魂  生まれながらあるが、生きている間に培っていくもの  

霊  生まれながらのもの         

 

ゆえに私たちはエロヒムなのです。 ヨハネ1034-35

 

 

 

意識の具体例

心理学

論蔵9段階心

サーンキヤ学派

ゾハル

神道  徳性

肉体

 

 

10

 

顕在   日常会話

表層

viññākkhandō

tanmātrā微細元素

9

 

潜在   条件反射

潜在

viññāna

 

jīva  個我

8

 

無意識  トラウマ

中層

mānaindriyam

 

karmendriya

微細運動器官

7

 

集合意識 神話、社会

深層

manōmanāyatanam

 

manas  共通意思

6

 

超意識

超自我

トランスパーソナル

paṇḍara

 

jñānendriya  

微細知覚器官

5

荒アラ  勇気

 

 

hadaya

 

ahamkāra 我執

4

和ニギ  親和

 

 

mānasam

buddhi 理智

3

幸サチ  愛

 

 

manō

chitta心素  

2

奇クシ  智慧

 

 

citta

 

prakriti

sattwajajastamas

1

 

 

 

 

prakrit根本

 

 

 

 

 

purua真我

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上座部仏教

 内容

 説明

サーンキヤ派

意識

 

 

 

 

 

citta

知る機能

機能だけを持つ白いキャンバス

prakrit

根本空

根本意識

真空意識

manō

全体像を把握

全体性機能 智慧paññā

chitta心素

全体性意識

mānasam

 

分割して「知る」根源状態

阿羅漢はこの段階までしか認識せず後のプロセスを続けない

buddhi

理智

分別意識

hadaya

我との関係性認識

私の・・・

私という枠組みの内と外

saññāの生成と執着が始まる

ahakāra

我執

枠組意識

paṇḍara

エネルギー増大

bhūtaレベルの微細要素を認識

執着に多くのエネルギーを割当てる

jñānendriya

微細知覚器官

直観意識

manōmanāyatanam

±のタグが付加

対象に受容的or反発的or中立な心

manas意思

近遠意識

 mānaindriyam

 意識エネルギー

対象に対する執着の力を強化する

迷わぬために作られた動機

karmendriya

微細運動器官

運動意識

viññāna

分割された智慧

日常の認識

智慧が除去された部分的認識と統合

世俗的な欲求・渇望

jīva

個我

統合意識

viññākkhandō

思考、記憶、空想

愛着を強め、現状を評価し、将来への新しい希望と計画のパターン認識

tanmātrā

微細元素

回路意識

 

 

 

サーンキヤ派

段階別意識

内容

 

真我puruaātman)              

 

真我意識

観照するだけだが、唯一の実体

 

根本prakrit

prakriti

sattwajajastamas

根本意識

真空意識

定まったカタチはなく普遍エネルギーの塊

3つの徳性のバランスが崩れるとカタチが創出する

善性、動性、暗性

 

心素chitta                   

全体性意識

善性 より微細なモノに抽象度を上げる機能をもつ

 

理智buddhi                    

 

分別意識

動性  知を使って1を2にする機能

 

我執ahamkāra                  

 

枠組意識

暗性   具象化することで抽象度を下げる

普遍エネルギーの塊であるgati回路が構成される

 

微細知覚器官

jñānendriya                   

直観意識

微細エネルギーのレベルでの差異を知覚する   

視覚と聴覚のみで、嗅覚、味覚、触覚はない

 

意思manas                                 

近遠意識

共通意識

対象に対する感覚に±or中立のタグを貼る

2つをつなげるために共通点にスポットライトを当てる

 

微細運動器官

karmendriya                   

運動意識

微細エネルギーと身体との連動を体感

アーナパーナによる鋭く微細な感覚

 

個我jīva                     

統合意識

アイデンティ(同一性)を仮設して基準にする

分類したものをまとめてあげて統合する

 

微細元素tanmātrā                          

仏教でいうbhūtaのレベル 

回路意識

パターン認識するアプリを作成する

 

粗雑元素                           

rūpaの中の細かいdhātu 

概念意識

一般化、概念化、シンボル化する

 

物質rūpaの中の粗いdhātu 

五感覚器官の信号が基盤                   

自我意識

差異にスポットライトを当てる5感覚器官と心による認識手段

 

他者の意識をも信号に含有

自己意識

他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識

 

 

 

神道の霊と魂

超意識 1霊4魂  霊は4つの魂で構成されている  荒 和  幸 奇

直霊なおひは、根源の宇宙(す神)と繋がっている

 

伝道者の書127

「ちりはもとにあった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る」

 

 

 

 

 

 

 

アブラハム教とギリシャ思想   魂は不滅なのか?

不滅の魂というギリシャ思想がアブラハム教に入り込んだプロセス。

「宗教とはなかんずく,墓の向こうのより良い生活や生まれ変わり,あるいはその両方を約束することによって,人間はいつの日か死すべきものであるという現実に甘んじられるようにするための方法である」

―ドイツの著述家,ゲルハルト・ハーム。

 

死後の命を約束するに当たってほとんどの宗教が基盤とするのは,人間には不滅の魂があり,人が死ぬと魂は別の世界に旅立つ,あるいは別の生き物に生まれ変わるという信条です。

 

東洋の宗教ではその始まりから,人間は不滅であるという信条が要となってきました。しかし,ユダヤ教,キリスト教世界,イスラム教の場合はどのような過程を経て,これらの宗教の重要な柱となったのでしょうか?

 

ユダヤ教はギリシャ思想を吸収する

ユダヤ教の起源は今から4,000年ほど前のアブラハムにまでさかのぼります。ヘブライ語による聖なる書物は西暦前16世紀に書き始められ,ソクラテスとプラトンが魂は不滅であるとの理論を打ち立てた時には完成していました。

 

ユダヤ大百科事典(英語版)には「魂は不滅であるとの信条が明快かつ揺るがぬものとして確立され……ユダヤ教およびキリスト教信仰の礎石の一つとなったのは,聖書時代以後のことである」、とあります。

さらに,「聖書時代,人は全体が一つのものとみなされた。それゆえ,魂が体と明確に区別されることはなかった」とあり、初期のユダヤ人は死者の復活を信じており,この点は「魂の不滅性……に対する信仰と区別されるべきである」と指摘しています。

 

では,この教理はどのようにしてユダヤ教の「礎石の一つ」になったのでしょうか。

西暦前332年,アレクサンドロス大王は電光石火の早業で中東の大半を征服しました。ユダヤ人はエルサレムに到着したアレクサンドロスを諸手を挙げて歓迎します。

1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスによると,ユダヤ人は200年余り前に書かれたダニエル書の預言で,「ギリシャの王」の役割を担うアレクサンドロスによる征服を明示する箇所を本人に指し示すことまでしています。(ダニエル 8:5‐821

アレクサンドロス大王の後継者たちもギリシャ化計画をその後も推し進め,帝国の隅々にまでギリシャの言語や文化や哲学を浸透させました。二つの文化,すなわちギリシャ人の文化とユダヤ人の文化が混ざり合うのは避け難いことでした。

 

 

「不滅に関する概念はギリシャ思想の産物であり,一方,復活という希望はユダヤ人の思想に属している。……アレクサンドロスによる征服の後,ユダヤ教は徐々にギリシャ人の種々の概念を吸収していった」「聖書百科事典」(フランス,バランス,1935年版)アレクサンドル・ウェストファル編,第2巻,557ページ。

 

「魂の不滅ということは,ギリシャ人の観念として古代の秘教の中で形成され,哲学者のプラトンによって大成されたものである」―「プレスビテリアン・ライフ」,197051日号,35ページ,英文。

 

「我々は死などというものがあると信じているのだろうか。……それは魂と肉体の分離なのではないか。死ぬということは,それが完成することである。魂が独自で存在して肉体から解き放され,肉体が魂から解き放されているなら,それは死以外の何であろう。……魂には死の余地があるのだろうか。否。では,魂は不滅なのだろうか。しかり」― プラトンの「ファイドン」,64105節,RM・ハッチンズ編集の「西欧世界の偉大な本」(1952年)の中に収録されたもの,第7巻,223245246ページ,英文。

 

「不滅に関する問題がバビロニアの神学者たちの真剣な注意を引き付けたのを,我々は見てきた。……一般人も宗教思想の指導者も,ひとたび存在するようになったものが全く消滅してしまう可能性など,あえて考えようとはしなかった。死は別の種類の生命への移行であった」―「バビロニアとアッシリアの宗教」(ボストン,1898年),M・ジャストロー2世,556ページ,英文。

 

 

西暦前3世紀の初頭に,ヘブライ語聖書をギリシャ語に初めて翻訳する作業が開始されました。セプトゥアギンタ訳、すなわち70人訳のことです。この訳本を通してユダヤ人の宗教に敬意を抱くようになった異邦人も少なくありません。中には改宗した人たちもいました。一方,ユダヤ人はギリシャ思想に精通するようになって,ユダヤ人にとっては全く新しい職種である哲学者になる人たちも出てきました。西暦1世紀のアレクサンドリアのフィロンはそのようなユダヤ人哲学者の一人でした。

 

フィロンはプラトンに傾倒し,ギリシャ哲学の観点からユダヤ教を解説することに努めました。

「天その歴史」という本では、「プラトンの哲学と聖書的な伝統の独特な統合を生み出すことによって,フィロンは,後のクリスチャン、およびユダヤ人の思索家に道を開いた」と評価されています。

では,フィロンは魂についてどんなことを信じていたのでしょうか。

「彼にとって死とは,魂を元の状態,誕生前の状態に戻すことだった。魂は霊界に属しているので,肉体における生命は短期間で,たいていは不幸な挿話にすぎない」。

魂の不滅性を信じた他のユダヤ人思想家としては,10世紀の有名なユダヤ人医師アイザック・イズレイリー,18世紀のドイツ系ユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンなどがいます。

 

さらに,ユダヤ人の思想と生活に大きな影響を与えた書物があります。それはタルムードです。これは,いわゆる口伝律法を要約した書物で,この律法に関する後代の注解と解説を含み,西暦2世紀から中世にかけて,ラビたちによって編纂されました。ユダヤ大百科事典には「タルムードのラビたちは,死後も魂が存在し続けることを信じていた」とあります。

タルムードは生きている人たちと接触する死者にさえ言及しています。「[ラビたちは,]恐らくプラトン主義の影響であろうが,魂の先在を信じていた」と「宗教・倫理百科事典」には記されています。

 

その後のユダヤ人による神秘主義的文献カバラは,さらに進んで,輪廻を説くようになります。

「ユダヤ教新標準百科事典」(英語版)はこの信条について「この考えはインドに源を発しているように思える。……それは,カバラの中ではバヒルの書に最初に出てくるが,その後ゾハル以降は神秘主義者により一般に受け入れられ,ハシディーム信奉者の信条と文献において重要な役割を果たした」、とあります。

今日のイスラエルでは,輪廻がユダヤ教の教えとして広く受け入れられています。

このように、魂は不滅であるという考えは,ギリシャ哲学の影響を通してユダヤ教に入り込みました。この概念は今日,ユダヤ教のほとんどすべての教派に受け入れられています。

 

 

 

 

キリスト教と魂の不滅

真のキリスト教はキリスト・イエスをもって始まりました。イエスについて,20世紀の著名なスペインの学者ミゲル・デ・ウナムノは,「彼は[ギリシャの]プラトンの流儀に従って魂の不滅性を信じるよりも,ユダヤ人の流儀に従って肉体の復活を信じた。……その点を裏付ける証拠は,誠実な解説書を探せば必ず見つかる」と書き,「魂の不滅性は……異教の哲学的教義である」と結論しています。

 

人間は不滅の魂を持っているのではなく,人間そのものが魂です。

ダグラス・T・ホルデン教授は,「死に所領はない」という本の中で,こう書いています。

「キリスト教神学は,ギリシャ哲学とあまりにも混ざり合ったため, 九割までギリシャ思想を持ち,ほんの一割だけのクリスチャン思想を持つ人々を育て上げた」。

 

カトリックの雑誌「コモンウイール」は,その1971115日号の中で,魂の不滅という概念は,「後期のユダヤ人および初期のクリスチャンがアテネ人から受け継いだ」ものであることを認めています。

 

ギリシャ人および他の多くの民族の宗教思想はバビロニア人の影響を受けています。「国際スタンダード聖書百科事典」によると、魂に関するバビロニア人の信条は、

「人の死後にも魂は存在を続けるものとみなされた。……バビロニア人は……死後の生活で使用すると思われるものを死体のかたわらに置く場合が多かった。……その死後の世界においては,死者の間にいろいろな区別が設けられていたように思われる。戦いで死んだ者たちには特別の好意が示されたらしい。そうした者たちには新鮮な飲み水が与えられ,一方,その墓に供え物をする子孫のいない者たちは多くの悲しい喪失を味わった」。

 

それゆえ,ギリシャ人は魂の不滅に関するその基本的な概念をバビロンから容易に得ることができた,と考えられます。そして,その概念はギリシャの哲学者たちによって拡張されたのでしょう。

 

では、この「異教の哲学的教義」は,いつ,どのようにキリスト教世界に入り込んだのでしょうか。

新ブリタニカ百科事典(英語版)は「西暦2世紀の半ば以降,多少ともギリシャ哲学を学んだクリスチャンたちは,その哲学の用語で自分たちの信仰を言い表わす必要を感じるようになった。それは,自分自身の知性を満足させるためであり,教育のある異教徒を改宗させるためでもあった。彼らに最もよく合った哲学はプラトン主義だった」。と指摘しています。

 

キリスト教世界の教理に多大の影響を与えたそうした初期の哲学者は二人います。一人はアレクサンドリアのオリゲネス(西暦およそ185‐254年),もう一人はヒッポのアウグスティヌス(西暦354‐430年)です。この二人について,新カトリック百科事典(英語版)には「東のオリゲネス,西の聖アウグスティヌスをもってして,初めて魂が霊的な実体として確立され,魂の本質に関する哲学的概念が形成された」とあります。

オリゲネスとアウグスティヌスは何を基盤として,魂に関する概念を作り上げたのでしょうか。

 

オリゲネスはアレクサンドリアのクレメンスの弟子でした。新カトリック百科事典によれば,クレメンスは「魂に関するギリシャの伝統的思想を公に借用した最初の教父」です。魂に関するプラトンの思想はオリゲネスに並々ならぬ影響を及ぼしたに違いありません。「[オリゲネス]は,プラトンから取り入れた,魂の壮大なドラマをそっくりキリスト教の教理の中に組み込んだ」と,ヴェルナー・イエガーは「ハーバード大学神学レビュー」誌の中で強調しています。

 

 

非物質的な不滅の魂に関するキリスト教世界の信仰はどこに由来していますか

「霊的な魂が神によって創造され,受胎の際に肉体の中に吹き込まれて人が生きた統一体になるというクリスチャンの概念は,長年にわたるキリスト教哲学の発展の結実である。東方のオリゲネス[西暦254年ごろ没],および西方の聖アウグスティヌス[西暦430年没]において初めて,魂は霊的な実体として確立され,その種の哲学的概念が形成された。……[アウグスティヌス]の教理は……多くを(幾つかの不十分な点も含めて)新プラトン主義に負っている」新カトリック百科事典(1967年版),第13巻,452454ページ,英文。

 

キリスト教世界の中には,アウグスティヌスを,古代における最も偉大な思想家と見る向きもあります。アウグスティヌスは33歳でキリスト教に改宗する前は哲学に強い関心を抱き,新プラトン主義者になっていました。改宗の際も考え方は依然として新プラトン主義でした。新ブリタニカ百科事典は「彼の頭脳は,新約聖書の宗教がギリシャ哲学のプラトン的伝統とほぼ完全に融合するるつぼであった」と述べています。

新カトリック百科事典は,アウグスティヌスが唱えた「[魂に関する]教理は12世紀の末までは西欧世界の標準とされていたが,……新プラトン主義に多くを負っていた」ことを認めています。

 

13世紀になると,ヨーロッパではアリストテレスの教えが人気を博するようになりました。それはおもに,アリストテレスの著作にアラブ人の学者たちが広範な注解を付した文献を,ラテン語で入手できるようになったからです。

カトリック教会の学者であるトマス・アクィナスはアリストテレスの思想に深い感銘を受けました。アクィナスの著作ゆえに,アリストテレスの見解はプラトンの見解以上に教会の教えに影響を与え、魂は不滅であるという教えに影響を与えることはありませんでした。

 

アリストテレスは,魂と体の結び付きは切り離せないもので,死後に魂が別個に存在し続けることはなく,人間の何か永遠なるものが存在するとしたら,それは抽象的で人格を持たない知性である,と説きました。魂に関するこのような見方は,死後も生き残る人格的な魂に関する教会の信条と調和しませんでした。そのためアクィナスは,魂に関するアリストテレスの見方に変更を加え,魂の不滅性は理性によって証明できる,と主張しました。そのため,魂は不滅であるという教会の信条はそのまま残りました。

 

ルネッサンス初期に当たる1415世紀には,プラトンに対する関心が復活し,イタリアの有名なメディチ家などは,フィレンツェにプラトン哲学の研究を奨励するための専門学校が設立されるのを助けました。1617世紀に入ると,アリストテレスに対する関心は下火になり,16世紀の宗教改革でも,魂に関する教えの刷新は行なわれませんでした。プロテスタントの宗教改革者たちも,煉獄の教えについて論議はしたものの,とこしえの処罰や報いという考えは受け入れました。

そのようなわけで,魂は不滅であるという教えはキリスト教世界のほとんどの宗派に広く浸透しています。

この点に注目した米国の一学者は,「実際,西欧世界の人々の大半にとって,宗教とはすなわち不滅性であって,それ以外の何ものでもない。神は不滅性を生み出す方なのである」と書きました。

 

 

不滅性とイスラム教

イスラム教はマホメットがおよそ40歳で預言者として召された時に始まりました。西暦610年ごろからマホメットが死んだ西暦632年までの約20ないし23年間,マホメットには様々な啓示が与えられたというのが,イスラム教徒の一般的な信条です。

それらの啓示はイスラム教の聖典であるコーランに記されています。イスラム教が誕生するまで,ユダヤ教とキリスト教世界には,魂に関するプラトン的な見方が浸透していました。

 

イスラム教徒は,自分たちの信じているものは古代の忠実なヘブライ人とクリスチャンに与えられた様々な啓示の頂点に立つものである,と考えます。

コーランはヘブライ語聖書とギリシャ語聖書の両方から引用していますが,魂は不滅であるという教えに関して,コーランとそれらの聖書の述べることは異なります。

人には死後も生き続ける魂がある,というのがコーランの教えであり,死者の復活,審判の日,魂の最終的な運命天的なパラダイスでの命,もしくは火の燃える地獄での処罰についてもコーランは言及しています。

 

イスラム教徒の信条によれば,死んだ人の魂はバルザフすなわち「障壁」へ,つまり「人の死後,審判に至るまでの状態」へと向かいます。(スーラ 23:99100。聖クルアーン,脚注[日本ムスリム協会訳]

魂は意識ある存在であり,過去が邪悪であれば,バルザフで「墓の懲罰」なるものを経験し,過去が忠実であれば幸福を享受します。しかし忠実な人たちであっても,生きているときに犯したわずかな罪のために,ある程度の責め苦を味わわなければなりません。審判の日に各人はとこしえの運命と向き合います。その時,この中間的な状態には終止符が打たれます。

 

ユダヤ教とキリスト教世界の場合,魂は不滅であるという考えはプラトンの影響があって表面に出てきたものですが,イスラム教には元来その概念が組み込まれていました。アラブ人の学者たちがイスラムの教えとギリシャ哲学の合体を試みなかったというわけではありません。実際,アラブ世界はアリストテレスの著作から大きな影響を受けました。さらに,アビセンナやアベロエスのような著名なアラブ人学者たちは,アリストテレス思想を解説し,詳述しました。ところが,魂に関するギリシャ思想とイスラム教の教えを調和させようとして,彼らは異なる理論を持ち出しました。例えば,アビセンナが人間の魂は不滅であると主張したのに対して,アベロエスはその説に反論を加えました。こうした異なった見解があったにもかかわらず,魂が不滅であるという考えは今もイスラム教の信条の一部です。

ですから明らかに,ユダヤ教もキリスト教世界もイスラム教も,魂は不滅であるという教理を教えているのです。

 

[脚注]

西暦3世紀のローマでプロティノスが展開した新たなプラトン哲学,つまり新プラトン主義の信奉者のこと。

[研究用の質問]

 1 ほとんどの宗教は死後の命を約束するに当たって,どんな基本的な信条を基盤としていますか。

 23 ユダヤ大百科事典によれば,ヘブライ語による聖なる書物は,魂が不滅であることを教えていますか。

 4‐6 魂は不滅であるという教理は,どのようにしてユダヤ教の「礎石の一つ」になりましたか。

 78 (イ)タルムードは魂をどのように描いていますか。(ロ)その後のユダヤ人による神秘主義的文献は,魂について何と述べていますか。

 9 今日のユダヤ教のほとんどの教派は,魂の不滅性に対してどんな立場を保っていますか。

10 ある著名なスペインの学者は,イエスが魂の不滅性を信じていたかどうかについて,どんな結論を述べましたか。

11 ギリシャ哲学はいつキリスト教世界に入り込み始めましたか。

12‐14 プラトン哲学をキリスト教と融合させる点で,オリゲネスとアウグスティヌスはどんな役割を果たしましたか。

1516 魂は不滅であるという教えに対する教会の立場は,13世紀にアリストテレスの教えに対する関心が高まったために変化しましたか。

1718 (イ)16世紀の宗教改革は,魂に関する教えの刷新をもたらしましたか。(ロ)キリスト教世界のほとんどの宗派は,魂の不滅性について,どんな立場を取っていますか。

19 イスラム教はいつ,だれによって創始されましたか。

2021 イスラム教徒は死後の世界について何を信じていますか。

22 一部のアラブ人哲学者たちは,魂の運命についてどんな異なった説を唱えましたか。

23 ユダヤ教,キリスト教世界,イスラム教は,魂の不滅性の問題について,どんな立場を取っていますか。

 

 

 

 

死後の霊魂 キリスト教、ユダヤ教

 

キリスト教 

カトリック二審制

プロテスタント 一審制   

個人の解釈   信仰があれば現世が天国 ルカ2343節「今日私と一緒に天国にいる」

 

ユダヤ教

サドカイ派  霊魂不滅はない 肉体復活はない  上流階級

パリサイ派  霊魂不滅    肉体復活     庶民階級     別名ファリサイ派

熱心党    霊魂不滅    肉体復活  ユダヤ国家の樹立、ローは帝国への反逆 ファリサイ派の一部

エッセネ派  霊魂不滅    肉体復活

復活の根拠  ダニエル書121-4節   天使長ミカエルの預言

世界の終末の日に塵から目覚めて、永遠の命、もしくは永遠の咎めが決まる。

 

 

 

 

復活に関するユダヤ人の見解

ダニエル・ベセッラ   ブリガム・ヤング大学古代聖典学准教授

 

復活の教義は,将来に対する希望と,現在において義にかなった生活を送る動機を与えてくれます。

 

復活とは,神が死人をよみがえらせ,「骨肉の体を持って不死不滅になること」を指しています。

復活に関する古代の様々な信条を理解することは,このテーマに関する古代のキリスト教の教えの力と,それが独特であり,当時受け入れられていた概念の上に築かれたものであることを理解する助けとなります。

 

死後の世界に関する様々な考え

イエスの時代の多くの人々は,死後の世という概念を受け入れませんでしたが,死者はただ存在がなくなるだけだと信じていました。死後の生活を信じる人々の中には,霊だけが生き残り,死後の世界を,現世の行いに関係なくすべての人が行く影の領域と見なしていると考える人もいました。この領域はシェオル,ゲヘンナ,ハデスなど,様々な名前で呼ばれていました。____ 2

 

ユダヤ人の記録における復活

古代の資料によると,イエスの時代のユダヤ人は,死後の肉体の行く末について様々な推測をしていました。ユダヤ人歴史家ヨセフが記録しているように,パリサイ人は義人は「生き返って再び生きる力を持つ」と教えましたが,サドカイ人は「魂は肉体とともに滅びる」と信じていました

イエスと最初の弟子たちはそのような信条に遭遇しました。実際,パウロは自分自身をパリサイ人の子のパリサイ人と表現し,使徒236-7には,復活に対する共通の信仰が,パリサイ人に対するパウロのキリストについての説教をより説得力のあるものにした様子が記録されています。

 

復活に関するユダヤ人の見解は,現在の旧約聖書を含め,ユダヤ人が価値があると見なした書物によって形成されました。例えば,ダニエル書には,「ちりの中に眠っている者のうち,多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり,また恥と,限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」と書かれています(ダニエル122)。復活に関するこのような明確な言及は,旧約聖書ではまれですが,苦悩や追放,迫害の時代にしばしば書かれ,復活の教義が苦難に苦しむ人々に希望と慰めを与える可能性を示しています。

 

別のよく知られているユダヤ人の文書には,信仰のために殉教した7人のユダヤ人の兄弟の話が記されています。兄弟の最後が処刑される前,母親は「神の憐れみによってわたしがあなたを再び兄弟たちとともにおらせられるように」忠実であり続けるよう彼を励ましました。(2マカバイ729, 新改訂標準訳聖書)この節では,復活を信じる信仰によって,母親と息子は試練に向き合う中でも忠実でいることができました。またその信仰によって,彼らは肉体の損傷や障がいが来世まで継続しないという確信を得ることができました。

 

キリスト教と後のユダヤ人の記録における復活

復活に関する新約聖書の教えは,同様に希望について言及し,慰めを与えます。パウロは,復活を通してわたしたちは死,苦痛,喪失感を克服することができると強調しました。パウロはコリントの聖徒たちにこう書いています。「死は勝利にのまれてしまった。死よ,おまえの勝利は,どこにあるのか。死よ,おまえのとげは,どこにあるのか。」(1 コリント 1554-55)

 

復活についてクリスチャンの教えを他の教えと違うものにしたのは,イエス・キリストを通して復活が可能になり,イエスが復活する多くの人々の中で最初の御方であり,眠っている者の初穂(1コリント1520)であられるという信条でした。

 

イエスの後に書かれたユダヤ人文学では,復活への信仰は信仰の基本と見なされていましたが,復活した人がどこに住むか,人が死んでから復活するまでの期間,死後の生涯が現世にどれほど似ているか,つまり食べ,飲むことなどについて意見の相違が生じました。キリスト教徒とユダヤ人を除いて,肉体の復活を信じる唯一の古代の民は,ペルシャのゾロアスター教の人々でした。

 

古代と同様に,復活の教義は,現代のイエス・キリストに従う人びとに,将来への希望を与えるとともに,慰めと勇気,現在において義にかなった生活を送る動機を与えてくれます。それは,救い主が生きておられ,御自分の民を愛しておられることの証です

 

 

 

rū-aと魂neshamah

 

Gen.6:17      ruach chayim        breath of life

Gen.2:7       nishmat chayim      breath of life

Gen. 7:22      נִשְׁמַת־  niš-ma- the breath       ר֨וּחַ   rū-a   of the spirit

2Sam.22:16   neshama  blast      ruach     breath

Job4:9         neshama  blast      ruach     breath

Job.27:3       neshama breath    ruach    spirit

Job.32:8      ruach  spirit、行動      neshama inspiration, 理解、意識    

Job.33:4       ruach 神のspirit が私を造った     neshama 全能のbreathが私に生命を与えた   

Is.42::5       who gives breath neshama to its people, and life ruach to those who walk on it:

               住む人々に息を与え,そこを歩くモノに霊を与える

Is.57:16        ruachはわたしから出、いのちの息neshamaはわたしがつくったからだ

 

 Genesis 7:22 

 

Text Analysis

Go to Parallel Hebrew

Strong's

Hebrew

English

Morpho

ogy

3605 [e]

כֹּ֡ל
kōl

Everything

N-ms

834 [e]

אֲשֶׁר֩
’ă-šer

that [had]

Pro-r

5397 [e]

נִשְׁמַת־
niš-ma-

the breath

N-fsc

7307 [e]

ר֨וּחַ
rū-a

of the spirit

N-cs

2416 [e]

חַיִּ֜ים
ay-yîm

of life

N-mp

639 [e]

בְּאַפָּ֗יו
bə-’ap-pāw,

in its nostrils

Prep-b | N-mdc | 3ms

3605 [e]

מִכֹּ֛ל
mik-kōl

all

Prep-m | N-ms

834 [e]

אֲשֶׁ֥ר
’ă-šer

that [was]

Pro-r

2724 [e]

בֶּחָֽרָבָ֖ה
be-ā-rā-āh

on the dry [land]

Prep-b, Art | N-fs

4191 [e]

מֵֽתוּ׃
mê-ū.

died

V-Qal-Perf-3cp

 

 

 

 

 

参考資料

 

エホバの証人における魂

多くの人にとって、「魂」という語は、肉体の死後にも生き残る、人間の非物質的もしくは霊的な部分を意味しています。それは生命の原理である,と理解する人々もいます。しかし,これら後に挙げた見解は,聖書の教えではありません。

 

聖書の中の「魂soul」という言葉は,ヘブライ語ネフェシュ,およびギリシャ語プシュケーの訳です。

聖書の用法による魂とは,人や動物そのもの,または、人や動物が持つ命のことです。

 

 

魂とは何かを理解する助けとして聖書はどんなことを述べていますか

創世 2:7: 「それからエホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった」。(人間は魂を与えられたのではなく,魂につまり生きた人になったと述べられていることに注意してください。)(ここで「魂」と訳されているヘブライ語はネフェシュです。欽定,ア標,ドウェーもそれと同じ訳し方をしています。改標,エルサレム,新アは,「[生きた]者」という意味に,ノックスは「[生きた]人」と訳しています。)

 

コリント第一 15:45: 「まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダムは命を与える霊になったのです」。

(ですから,クリスチャン・ギリシャ語聖書は,魂とは何かという点で,ヘブライ語聖書と一致しています。)

(ここで「魂」と訳されているギリシャ語はプシュケーの対格です。欽定,ア標,ドウェー,エルサレム,新ア,ノックス,およびバルバロも「魂」[soul]と訳しています。改標,新英,今英は「[生きた]者」としています。)

 

ペテロ第一 3:20: 「ノアの日に……少数の人々,つまり八つの魂が無事に水を切り抜けました」。

(ここで「魂」と訳されているギリシャ語はプシュカイで,プシュケーの複数形です。欽定,ア標,ドウェー,ノックスも「魂」と訳しています。エルサレム,今英は「八人の人」,改標,新英,新アは「八人」としています。)

 

創世 9:5: 「さらにわたしは,あなた方の魂[または,「命」; ヘブライ語ネフェシュの変化形]の血の返済を求める」。

(ここで,魂は血を持つものであることが述べられています。)

 

ヨシュア 11:11: 「彼らはそこにいたすべての魂[ヘブライ語,ネフェシュ] を剣の刃で討(った)」。

(ここで,魂は剣で触れることのできるものであることが示されています。ですから,これら魂が霊であったはずはありません。)

 

 

聖書はどの箇所で,動物も魂であることを記述していますか

創世 1:20212425: 「次いで神は言われた,『水は生きた魂*の群れを群がり出させ(る)ように』。そうして神は大きな海の巨獣と動き回るあらゆる生きた魂,すなわち水がその種類にしたがって群がり出させるもの,また翼のあるあらゆる飛ぶ生き物をその種類にしたがって創造してゆかれた。……次いで神は言われた,『地は生きた魂を……その種類にしたがって出すように』。……そして神は,地の野獣をその種類にしたがい,家畜をその種類にしたがい,地面のあらゆる動く生き物をその種類にしたがって造ってゆかれた」。

*ヘブライ語でこの語はネフェシュです。ロザハムも「魂」と訳しています。ある翻訳は「生き物」という訳語を用いています。)

 

レビ 24:1718: 「また,人がだれかの魂[ヘブライ語,ネフェシュ]を打って死に至らせた場合,その者は必ず死に処せられるべきである。また,家畜の魂[ヘブライ語,ネフェシュ]を打って死に至らせた者は,その償いをすべきである。魂には魂である」。

(人間にも動物にも,魂を表わす同じヘブライ語の言葉が用いられていることに注目してください。)

 

啓示 16:3: 「それは死人の血のようになり,すべての生きた魂*が,しかり,海にあるものが死んだ」。(こうしてクリスチャン・ギリシャ語聖書も,動物が魂であることを示しています。)

*ギリシャ語でこの語はプシュケーです。欽定,ア標,ドウェーもその語を「魂」と訳しています。ある翻訳者たちは「生き物」という語を用いています。)

 

エホバの証人ではない学者たちも,これが聖書の述べる魂の意味であることを認めていますか

 

「旧約[聖書]の中に体と魂の二分的な[分け方]はない。イスラエル人は事物を具体的に,つまり全体的に見た。こうして人間を,複合体としてではなく,ただ人として見たのである。ネフェシュという語は,我々の言葉で魂と訳されてはいるが,体もしくは個人とは別個のものとしての魂を意味することは決してない。……この語[プシュケー]は,ネフェシュに相当する新約[聖書]の言葉である。それは,命の原理,命そのもの,または生きて存在するものを意味しうる」新カトリック百科事典(1967年版),第13巻,449450ページ,英文。

 

 「『魂』に相当するヘブライ語(ネフェシュ,呼吸するもの)がモーセによって用いられたが,……『生気のあるもの』を表わし,人間以外の生き物にも等しく当てはまる。……新約聖書におけるプシュケー(『魂』)の用法はネフェシュと類似している」新ブリタニカ百科事典(1976年版),大項目,第15巻,152ページ,英文。

 

「魂が体の分解した後にもその存在を続けるという信念は,純然たる信仰の問題というより,哲学的ないしは神学的な思弁であり,それゆえに聖書のどこにもはっきりとは教えられていない」― ユダヤ百科事典(1910年版),第6巻,564ページ,英文。

 

 

人間の魂は死にますか

エゼキエル 18:4: 「見よ,すべての魂それはわたしのものである。父の魂がそうであるように,子の魂も同様にそれらはわたしのものである。罪を犯している魂* ― それが死ぬのである」。

*ヘブライ語は「ネフェシュ」。欽定,ア標,改標,新英,ドウェー,および口語はそれを「魂」と訳しています。幾つかの翻訳は「人間」ないしは「人」としています。)

 

マタイ 10:28: 「体を殺しても魂[または,「命」]を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂*も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。

*ギリシャ語ではプシュケーの対格。欽定,ア標,改標,新英,今英,ドウェー,エルサレム,新ア,および口語,共同,フランシスコなどもすべてそれを「魂」と訳しています。)

 

使徒 3:23: 「まさに,その預言者に聴き従わない魂[ギリシャ語,プシュケー]は民の中から完全に滅ぼされるであろう」。

 

 

人間の魂(人)が永久に生きることは可能ですか

魂​は​死な​ず​に​生き​続ける​の​です​か

一般​的​な​考え

多く​の​人​は,魂​は​不滅​だ​と​信じ​て​い​ます。魂​は​生まれ変わり​を​繰り返し,それ​まで​の​肉体​が​死ぬ​と​別​の​肉体​に​なっ​て​現われる,と​考える​人​も​いれ​ば,魂​は​やがて​天国​や​地獄​の​よう​な​別​の​世界​に​行く,と​考える​人​も​い​ます。

 

聖書​の​教え

聖書​に​よれ​ば,魂​は​不滅​で​は​あり​ませ​ん。実際,聖書​は​幾​度​も,魂​を​死ぬ​もの​と​し​て​描写​し​て​い​ます。聖書​の​一部​を​筆記​する​の​に​神​に​用い​られ​た​預言​者​エゼキエル​は,罰​と​し​て​魂​に​死​が​臨む​こと​が​ある,と​述べ​て​い​ます。聖書​の​別​の​箇所​で​は,遺体​を​指し​て,「死ん​だ​魂」と​いう​言葉​が​使わ​れ​て​い​ます。(レビ​記 21:11)明らか​に,魂​は​不滅​で​ある​と​いう​考え​は​聖書​の​教え​で​は​あり​ませ​ん。

「罪​を​犯し​て​いる​魂それ​が​死ぬ」。―エゼキエル 18:20

 

 

魂​は​肉体​と​は​別個​の​もの​です​か

一般​的​な​考え

魂​は​人​が​生き​て​いる​間​は​肉体​に​力​を​与え,人​が​死ぬ​と​肉体​から​出​て​行く,と​信じ​られ​て​い​ます。

聖書​の​教え

聖書​に​は,ある​母親​が「魂」,つまり,呼吸​する​生き​た​人​を​産ん​だ,と​いう​記述​が​あり​ます。(創世記 46:18)事実,「魂」を​表わす​聖書​中​の​ヘブライ​語​は,「呼吸​する​もの」と​も​訳せ​ます。動物​を​指し​て​用い​られ​て​いる​箇所​も​あり​ます。また,食べ物​を​必要​と​する​もの​と​し​て​も​描写​さ​れ​て​い​ます。(申命記 12:20)もし​魂​が​肉体​と​は​別個​の​存在​で​ある​なら,魂​に​は​呼吸​し​たり​食べ​たり​する​必要​が​ある​でしょ​う​か。聖書​中​の「魂」と​いう​語​は​ほとんど​の​場合,体​や​感情​や​個性​を​含む,生き​た​人​全体​を​指し​て​い​ます。

 

「彼女​は……魂​十六​人[を​産ん​だ]」。―創世記 46:18

 

 

人​が​死ん​だら​魂​は​どう​なり​ます​か

聖書​の​教え

人​が​死ぬ​と​肉体​が​朽ちる​の​と​同様,「シェオル[つまり​墓]に​は,業​も​企て​も​知識​も​知恵​も」あり​ませ​ん。(伝道​の​書 9:10

人​は​死ぬ​と「地に​帰[り,]その​日​に​彼​の​考え​は​滅びうせる」と,聖書​は​はっきり​述べ​て​い​ます。(詩編 146:4)死ん​だ​魂​は​無​活動​の​状態​に​ある​の​で,聖書​は​しばしば,死者​は「眠っ​て​いる」と​比喩​的​に​表現​し​て​い​ます。マタイ 9:24

 

家族​や​友人​が​亡くなる​と,次​の​よう​な​疑問​が​頭​を​よぎる​でしょ​う。「あの​人​は​どこ​に​いる​の​だろ​う。どんな​状態​に​ある​の​だろ​う​か。苦しん​で​いる​の​だろ​う​か」。聖書​は​はっきり​と,死ん​だ​人​は​無​意識​で​ある​と​述べ​て​い​ます​から,亡くなっ​た​家族​や​友人​は​もう​苦しん​で​は​い​ませ​ん。その​こと​を​知る​と​安心​でき​ます。さらに​うれしい​こと​に,エホバ​は,無​意識​の​死ん​だ​魂​を​将来​生き返ら​せる,と​約束​し​て​くださっ​て​いる​の​です。―イザヤ 26:19

「死ん​だ​者​に​は​何​の​意識​も​な[]」。―伝道​の​書 9:5

 

 

魂は霊と同じものですか

伝道 12:7: 「そのとき,塵はかつてそうであったように地に帰り,霊[または,「生命力」; ヘブライ語,ルーアハ]もこれをお与えになったまことの神のもとに帰る」。

(霊に相当するヘブライ語はルーアハであることに注意してください。「魂」と訳されているのはネフェシュです。この聖句は,死の際に霊がはるばる神のみ前にまで行くことを意味しているのではありません。そうではなく,その人が再び生きる見込みはすべて神にかかっているという意味です。同じような用法として,わたしたちも,ある資産の売却がなされた場合,買い手が要求された支払いを行なわないなら,その資産は元の所有者に「帰属する」,というような表現法をすることがあります。)

(欽定,ア標,改標,新英,ドウェー,および口語,新改は,このルーアハを「霊」(spirit)と訳しています。新アは「命の息」としています。)

 

伝道 3:19: 「人間の子らに関しても終局があり,獣に関しても終局があり,これらは同じ終局を迎えるからである。一方が死ぬように,他方も死ぬ。皆ただ一つの霊[ヘブライ語,ルーアハ]を持って(いる)」。

(こうして人も獣も同じルーアハ,つまり霊を持っていることが示されています。)

 

ヘブライ 4:12: 「神の言葉は生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,[ギリシャ語,プシュケーΨυχή、Psyche; 「命」,新英]と霊[ギリシャ語,プネウマトスπνεμα, pneuma],また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるのです」。

(「霊」に相当するギリシャ語は「魂」と訳されるギリシャ語とは異なっていることに注目してください。)

 

 

ヘブル語

ギリシャ語

英語

内容

現代日本語

neshamah

Psyche

soul

 

 

経験のアプリ化、データ化。

神から与えられるのではなく、各自が魂になる

人格を持つ

各自のアプリ

記憶データ

自動反応回路

 rū-a

pneuma

spirit

 

 

肉体を生きさせる効力を持つもの

神から与えられるもの

人格を持たない生命力

 

命、

生の息

 

 

 

 

霊が体を離れた後にも人の意識ある存在は継続するのですか

詩編 146:4: 「その霊[ヘブライ語,ルーアハの変化形]は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」。(新ア,ロザハム,ヤング,ドウェー[145:4]もこのルーアハを「霊」と訳しています。ある翻訳は「息」としています。)(詩編 104:29も参照。)

 

 

非物質的な不滅の魂に関するキリスト教世界の信仰はどこに由来していますか

「霊的な魂が神によって創造され,受胎の際に肉体の中に吹き込まれて人が生きた統一体になるというクリスチャンの概念は,長年にわたるキリスト教哲学の発展の結実である。東方のオリゲネス[西暦254年ごろ没],および西方の聖アウグスティヌス[西暦430年没]において初めて,魂は霊的な実体として確立され,その種の哲学的概念が形成された。……[アウグスティヌス]の教理は……多くを(幾つかの不十分な点も含めて)新プラトン主義に負っている」新カトリック百科事典(1967年版),第13巻,452454ページ,英文。

 

 「不滅に関する概念はギリシャ思想の産物であり,一方,復活という希望はユダヤ人の思想に属している。……アレクサンドロスによる征服の後,ユダヤ教は徐々にギリシャ人の種々の概念を吸収していった」「聖書百科事典」(フランス,バランス,1935年版)アレクサンドル・ウェストファル編,第2巻,557ページ。

 

「魂の不滅ということは,ギリシャ人の観念として古代の秘教の中で形成され,哲学者のプラトンによって大成されたものである」―「プレスビテリアン・ライフ」,197051日号,35ページ,英文。

 

「我々は死などというものがあると信じているのだろうか。……それは魂と肉体の分離なのではないか。死ぬということは,それが完成することである。魂が独自で存在して肉体から解き放され,肉体が魂から解き放されているなら,それは死以外の何であろう。……魂には死の余地があるのだろうか。否。では,魂は不滅なのだろうか。しかり」― プラトンの「ファイドン」,64105節,RM・ハッチンズ編集の「西欧世界の偉大な本」(1952年)の中に収録されたもの,第7巻,223245246ページ,英文。

 

「不滅に関する問題がバビロニアの神学者たちの真剣な注意を引き付けたのを,我々は見てきた。……一般人も宗教思想の指導者も,ひとたび存在するようになったものが全く消滅してしまう可能性など,あえて考えようとはしなかった。死は別の種類の生命への移行であった」―「バビロニアとアッシリアの宗教」(ボストン,1898年),M・ジャストロー2世,556ページ,英文。

 

 

エホバの証人による返答

「魂」とはいったいなんですか

あなたは何から出来ていますか。あなたは事実上,二つの人格的存在が一体になったものですか。つまり,脳・心臓・目・耳・舌などを備えた人間の肉体であり,同時にまた,有機体としてのその肉体とは全く別個の見えない霊的人格で「魂」と呼ばれるものを,内面に持っているのですか。もしそうであるとすれば,あなたが死ぬ時にはどんな事が起きるのです か。肉体だけが死んで,魂のほうは生き続けるのですか。この点で確かなことをどうしたら知ることができますか。

 

特に人間の場合,死がいっさいの存在の終わりではない,というのがたいていの宗教の教えです。

南北アメリカ,ヨーロッパ,オーストラリアなどのいわゆるキリスト教国ではそのように教えられていますが,それだけでなく,アジアやアフリカのキリスト教以外の国でも同様の教えがなされています。「世界の埋葬習慣」という本はこう述べています。「いずれの文化について見ても,世界のほとんどすべての民は,死のさいに肉体を離れ出るものがその後も生き続ける,と信じている」。

 

魂の不滅に対する信仰は,キリスト教以外の宗教においても重要な地位を占めています。例えば,ヒンズー教の聖典の中で特に重要視される「バガヴァッド・ギーター」は,魂は不死であるとはっきり述べています。そして,それを理由として戦争における殺りくを正当化し,こう述べています。

 

「これらの肉体は迎える,宣せられたごとく,肉体化した永遠なる(魂)の終わりを。

その(魂)は不滅であり,深遠である。

それゆえ,バーラタの子よ,戦え!

 

それを殺人者と信じる者,それを殺されたとみなす者,これらは共に悟りがない。

それは殺さず,殺されない。

それは誕生することも,死ぬこともない。

存在に至ったことも,存在を絶つこともない。

この古来のものは誕生せず,永久,永遠であり,

肉体の殺される時にも殺されない」

― バガヴァッド・ギーター,II18-20

 

 

しかし,ここで述べられている魂とはなんでしょうか。

スワミ・ビブカナンダという人の「ヒンズー教」という本はこう述べています。

「ヒンズー教徒はこう信ずる。すなわち,魂はすべて円を成しているが,その円周はどこにも存在しない。しかし,その中心は肉体の中に宿っている。そして,死は,この中心が一つの肉体から別の肉体に移ることにすぎない。魂は物質の状態に拘束されることもない。その本質において,魂は自由,無限,神聖,純粋,完全である。しかし,なんらかのことでそれは物質による拘束を意識し,また自らを物質とみなしもする」。

 

では,キリスト教世界の諸教会の人々は,一般に言ってどのようなことを信じていますか。

キュルマン教授(バーゼル大学,およびパリ,ソルボンヌ大学の神学部)はこう述べています。

「今日の普通のクリスチャン(カトリックでも新教徒でも,博識の人でもそうでない人でも)に,死後の人間の運命に関する新約聖書の教えをどう理解しているか尋ねるとすれば,ほとんど例外なく,『魂の不滅』という答えを聞くであろう」。

 

その「魂」とはどのようなものかと問われると,キリスト教世界の諸教会の成員も,きわめてぼんやりした,あいまいな言葉でしか答えられません。不滅の魂についてのその人々の概念は,キリスト教以外の宗教の人々の場合と同じく不明瞭なものです。これは一つの疑問を感じさせます。魂とは人間の不滅の部分であると,ほんとうに聖書は教えているのですか。

 

 

魂は不滅か

聖書の多くの翻訳の中で,「魂」(soul)という言葉は,ヘブライ語ネフェシュ,およびギリシャ語プシュケーの訳として現われています。(その例として,エゼキエル書 184節とマタイ 1028節をご覧ください。欽定訳,新英語聖書,改定標準訳,ドウェー訳)この同じヘブライ語およびギリシャ語は,「生命」,「生き物」,「人」とも訳されています。お持ちの聖書が元の言葉を一貫して「魂」と訳していても(新世界訳聖書は そうしている)いなくても,ネフェシュやプシュケーという語の出て来る句を調べてみれば,これらの語が古代の神の民の間でどのような意味を有していたかを理解する助けが得られます。それによってあなたは,魂が実際にどのようなものであるかをご自身で判断できます。

 

聖書の巻頭の本は,最初の人間アダムの創造の模様を描写してこう記しています。「エホバ神は地の塵で人を形造り,その鼻に命の息を吹き入れられた。すると,人は生きた魂[ネフェシュ]になった」。(創世 2:7)聖書は,『人は魂を与えられた』とは述べていません。ただ,「人は生きた魂になった」と述べています。この点に注目できるでしょう。

 

第一世紀のクリスチャンたちの教えは,「魂」に関するこの概念と異なっていましたか。いいえ,異なっていません。一般に新約聖書と呼ばれるものの中に,アダムの創造に関する記録が真実なものとして次のように引用されています。「まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』」。(コリント第一 15:45)この句の原文では,「魂」に当たる語としてプシュケーが用いられています。ゆえに,この聖句の中で,ギリシャ語プシュケーは,ヘブライ語ネフェシュと同じように,人間の内に宿る見えない霊のようなものではなく,人間そのものを意味しています。したがって,ある聖書翻訳者たちが,創世記 27節やコリント第一 1545節の翻訳に当たって,「生き物」,「生きたもの」,「人」などの表現を使用しているのは理由のあることです。―新英語聖書,ヤングの字義訳,改訂標準訳。バイイングトンの現代英語聖書も参照,その中では,創世記 27節で「人」,コリント第一 1545節で「魂」という語が使用されています。

 

ネフェシュおよびプシュケーという語は動物についても用いられています。これも注目すべき点です。海と陸上の生物の創造に関して,聖書はこう述べています。「神はさらに言われ た,『水は生きた魂[「生き物」,新英語聖書]の群れを群がらせ,飛ぶ生き物は地の上……を飛ぶように』。そうして神は巨大な海の生物と動き回るあらゆる生きた魂とを創造された。……『地は生きた魂をその類にしたがって,家畜と動く動物と地の野獣をその類にしたがって出すように』」― 創世 1:20-24

 

動物類を指して魂と呼んでいるのは,聖書の巻頭の本だけではありません。聖書の最初の本からその最後の本の中に至るまで,動物は終始魂と呼ばれています。

「遠征に出かけた戦人から,人,牛,ろば,羊について,五百ごとに一つの魂[ネフェシュ]を取らねばならない」。(民数 31:28

「義なる者は自分の家畜の魂[ネフェシュ]を顧み(る)」。(箴言 12:10

「すべての生きた魂[プシュケー]が,しかり,海にあるものが死んだ」― 啓示 16:3

「魂」という語を動物について用いるのは極めて適切です。そのことは,ヘブライ語ネフェシュの元の意味として理解されているものと一致しています。この語は,「呼吸する」という意味の語根から来ている,と考えられています。したがって,字義的に言うと,魂とは,「呼吸をするもの」という意味であり,動物は確かに呼吸をします。動物は,生きた,呼吸する被造物です。

 

魂(ネフェシュやプシュケー)が人を指して用いられている場合について見ると,これらはその人の全体という意味で繰り返し用いられています。聖書は,人間の魂の産まれることについて述べています。(創世 46:18)それは物を食べたり,断食したりすることができます。(レビ 7:20,詩 35:13)それは泣いたり,気を失ったりすることがあります。(エレミヤ 13:17。ヨナ 2:7)魂は誓いを立てることができ,何かを慕い求めたり,恐れに閉されたりすることもあります。(レビ 5:4。申命 12:20。使徒 2:43)魂は誘かいされることもあります。(申命 24:7)魂は追跡され,足かせをかけられることもあります。(詩 7: 5; 105:18)これらは皆,肉体を持つ人間が行ない,またそうした人間に対してなされる事柄ではありませんか。ここに挙げた聖句は,人の魂とはその人の全体を指していることを明瞭にしていませんか。

 

カトリック,プロテスタント,ユダヤ教徒を含め,多くの20世紀の聖書学者はこの同じ結論に達しています。その述べるところに注意してください。

 

「創世記[27]の有名な聖句は,一般に考えられているように。人間が肉体と魂とから成っている,とは述べていない。それは,ヤハウェが地面から取った土で人を形造り,次いで,生命のための呼吸をその鼻に吹き入れて自働力のないその人形を生きたものとし,こうして人は生きた存在者になった,と述べているのである。それが,ここで言うネフェシュ[]の意味である」― ロンドン,リージェンツ・パーク大学のH・ウィラー・ロビンソン,Zeitschrift für die alttestamentliche Wissenschaft(旧約学のための雑誌),第41巻(1923年)。

 

「人間は魂を持っているとみなしてはならない。人間すなわち魂なのである」― ロンドン聖書大学学長E.F.ケバン,「新聖書注解」(1965年),第二版,78ページ。

 

「旧約[聖書]における魂とは,人間のある部分のことではなく,一個の人間全体,生きた存在者としての人間そのものを指している。同様に新約[聖書]においても,魂が表わしているのは,人間の命,意識ある主体としての各個人の命である」― 新カトリック百科事典(1967年),第13巻,467ページ。

 

「聖書は,我々が魂を持っている,とは述べていない。ネフェシュとは人そのもの,食物を必要とするその状態,その血管を流れる血そのもの,人としてのその存在を指している」― ヘブライ・ユニオン大学のH.M.オーリンスキー教授,19621012日付ニューヨーク・タイムズ紙に引用されたもの。

 

さまざまな宗派の学者たちは今,魂とは人間そのもののことであると述べていますが,これはあなたにとって不可解な事に思えますか。あなたはこのとおりに教えられてきましたか。それとも, 魂とは人間の不滅の部分であると教えられてきましたか。もしそうであるとすれば,その教えはあなたにどんな影響を与えてきましたか。そうした教えのために,本来なら生活の必要物のために用いるべき資金を宗教的な事柄のために投じてきましたか。あなたの教会はその教えの面で正直でなかったのではないでしょうか。教会とその学者と,どちらが正しいのですか。

 

人間の魂とは肉の体を含むその人の全体であるとする学者たちが正しいとすれば,当然聖書は,魂を死ぬべきものとして述べているはずです。実際にそう述べていますか。聖書は,ネフェシュすなわち魂を死から『引き止め』,『救出し』,『救う』ことについて述べています。(詩 78:50; 116:8。ヤコブ 5:20)またこう記されています。「彼の魂を撃って死に至らせるのはよそう」。(創世 37:21)「意図せずして魂を撃って死に至らせた殺人者はそこに逃げなければならない」。(民数 35:11)「彼らの魂は若くして死に」。(ヨブ 36:14)「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」― エゼキエル 18:420

 

しかし,少なくとも幾つかの聖句の中で,「魂」と訳されている言葉は,死のさいに肉体を離れる不滅性の何かを指しているのではないでしょうか。次のような聖句についてはどうですか。「彼女の魂が(彼女が死んだために)去ろうとする時,彼女はその名をベンオニと呼んだ」。(創世 35:18)「わたしの神エホバよ,どうかこの子供の魂をその内に戻らせてください」。(列王上 17:21)「騒ぎたててはいけない。彼の魂は彼の内にある」。(使徒 20:10)これらの句は,魂が肉体とは独立して存在するものであることを示しているのではありませんか。

 

詩の形で書かれたヨブ記 3322節が,これらの句を理解するためのかぎを与えています。その聖句の中では,「魂」という言葉と「命」という言葉が並行的に置かれ,その両語を置き換えても句の意味が変わらないようになっています。こう記され ています。「その魂は穴に近づき,その命は死を来たらせる者たちに近づく」。この並行表現から,「魂」という言葉が人間の持つ命を指す場合のあること,それゆえに,魂が去るとは人の命が終わることであることが分かります。

 

例を挙げて考えましょう。犬が車にはねられて死んだ場合,人は,犬が『命を失った』とも言います。それは,この動物の命が体を離れて生き続けている,という意味ですか。そうではありません。これは,その動物が死んだという意味の,言葉のあやにすぎません。人が『命を失う』,という言い方についても同じことです。これは,その人の命が体から離れて存在するようになる,という意味ではありません。同様に,『魂を失う』というのは,『魂としての命を失う』という意味であり,死後にそれが引き続き存在するというような意味は含んでいません。この点を認めて,「解説者のための聖書辞典」はこう述べています。

 

「ネフェシュ[]が『去る』というのは言葉のあやとみなさねばならない。ネフェシュは肉体を離れて別個に存在し続けるものではなく,肉体とともに死ぬものだからである。(民数 31:19。士師 16:30。エゼキエル 13:19)死の瞬間に『魂』が肉体から分離するというようなことを裏付ける聖書の言葉はない」。

 

 

魂の教えの起源

人間は不滅の魂を持っているのではなく,人間そのものが魂です。聖書的な証拠はこの点で全く明瞭です。では,不滅の魂に関するこの教えは,どのようにしてキリスト教世界の諸教会の教えの中に入って来たのですか。

異教ギリシャ哲学の影響としてもたらされたのです。そのことは今日率直に認められています。ダグラス・T・ホルデン教授は,「死に所領はない」という本の中で,こう書いています。

 

「キリスト教神学は,ギリシャ哲学とあまりにも混ざり合ったため, 九割までギリシャ思想を持ち,ほんの一割だけのクリスチャン思想を持つ人々を育て上げた」。

 

カトリックの雑誌「コモンウイール」は,その1971115日号の中で,魂の不滅という概念は,「後期のユダヤ人および初期のクリスチャンがアテネ人から受け継いだ」ものであることを認めています。

 

こうして異教のギリシャ思想とクリスチャン思想が混ぜ合わさったことにはだれに責任がありますか。それは牧師たちの責任ではありませんか。教会員自体は,今日の聖書学者たちが聖書に反するものとはっきり認めるこの教えを,自分からは唱えなかったはずです。

 

しかし,古代のギリシャ人はその宗教思想の根底をどこから得たのですか。すでに述べたとおり,強力な証拠によって裏付けられる点として,ギリシャ人および他の多くの民族の宗教思想はバビロニア人の影響を受けています。そして,魂に関するバビロニア人の信条として,「国際スタンダード聖書百科事典」が述べる事柄に注意してください。

 

「人の死後にも魂は存在を続けるものとみなされた。……バビロニア人は……死後の生活で使用すると思われるものを死体のかたわらに置く場合が多かった。……その死後の世界においては,死者の間にいろいろな区別が設けられていたように思われる。戦いで死んだ者たちには特別の好意が示されたらしい。そうした者たちには新鮮な飲み水が与えられ,一方,その墓に供え物をする子孫のいない者たちは多くの悲しい喪失を味わった」。

 

それゆえ,ギリシャ人は魂の不滅に関するその基本的な概念をバビロンから容易に得ることができた,と考えられます。そして,その概念はギリシャの哲学者たちによって拡張されたのでしょう。

 

今日存続している,キリスト教以外の宗教についても同様の事が起きたと思われます。一例として,今日ヒンズー教が主流 をなしているインダス河流域地方の古代文明とメソポタミアの古代文明とを比較してみると,はっきりした類似性が認められます。メソポタミアの宗教的なジッグラトに似た構造物や,メソポタミアの初期のものと非常に類似した象形記号などはその例です。著名なアッシリア学者サミュエル・N・クレイマーは,自分の研究の結果として,シュメール人がメソポタミアを支配するようになったさいその地方から逃げた人々がインダス河流域に定住した,という説を提出しています。こうして,ヒンズー教が不死の魂に関するその教えをどこから得たかは理解し難いことではありません。

 

このように,さまざまな証拠は,バビロンが,人間の魂の不滅に関する教えが地の果てに広がったその最古の出所であることを示しています。そして,聖書によると,このバビロンにおいて,神に対する反逆が起きました。それだけでも,不滅の魂に関する教理にためらいを感じさせるものとなるでしょう。しかし,すでに見たとおり,この教えは聖書と全く相入れないのです。この点を忘れないでください。

 

さらに,魂は不滅であるという考えは,あなた自身がこれまで観察してきた事柄とも一致しないのではありませんか。例えば,人が失神し,無意識になって倒れる場合,また,病院で麻酔をかけられる場合,どのような事が生じますか。その人の「魂」がほんとうに肉体とは別個のものであり,肉体から離れて知的な機能を果たし,死でさえその存在と機能に影響しえないものであるなら,そうした無意識の時間に,その人が周囲の物事について全く自覚がないのはどうしてですか。その間に何があったかを後から話してもらわなければならないのはなぜですか。いろいろな宗教が一般に教えるとおり,死後にもその人の「魂」が見たり聞いたり感じたり考えたりすることができるのであれば,無意識状態など,死よりずっと小さな変化のために,こうした機能がすべて止まってしまうのはなぜですか。

 

 また,人間の場合でも動物の場合でも,死んだ体はやがて分解して大地の要素になります。その死後にも生き続ける不滅の魂の存在については,それを暗示するものさえ何もないのです。

 

 

魂不滅の教理が人に与える影響

1950911日付ニューヨーク・タイムズ紙「軍務のために懲兵もしくは再召集された息子を持つ悲しむ親たちは,昨日,セント・パトリック寺院において,戦いにおける死は,『天国』に人を住ませるための神の計画の一部である,という話を聞いた」。

魂について聖書の述べる事柄を誤り伝えることによって,こうして人間の命が軽く扱われてきました。またこれは,魂の世話をするとの不真実な主張をする宗教組織に人々を頼らせてきました。

 

 

神のもとに帰る霊

聖書が「魂」と呼んでいるものは,死後に意識ある存在を続ける,人間の不滅の部分ではありません。聖書を誠実に調べる人にとって,この点に疑問の余地はないはずです。しかし,魂が実際にはどのようなものであるかについて圧倒的な証拠を前にしても,ある人々は,人間の内にある何かが死後にも存在を続けるという自分の信条を裏付けようとして他の論議を提出します。

 

そうした論議のためにしばしば用いられる聖句は,伝道之書 127節です。「塵は元どおり地に帰り,霊そのものはこれを与えた真の神に帰る」。ウェスレー系メソジスト派の神学者アダム・クラークは,その著「注解」の中で,この句に関して次のように書いています。「賢人はここで,肉体と魂とをきわめて明瞭に区別している。これらは同じものではない。物質である肉体は,元のものすなわち塵に帰る。一方,非物質的なものである霊は神に帰る」。同じように,「カトリック聖書注解」も,「魂は神に帰る」と述べています。こうして,これら二つの注釈書は共に,魂と霊を同一のものとして述べています。

 

しかし,興味深いことに,ローマ・カトリックおよびプロテスタントの他の学者たちは,全く異なった見方を提出しています。カトリックの「新アメリカ聖書」(ニューヨークのPJ・ケネディー社刊,1970年)に載せられている,「聖書神学用語小辞典」の中にはこう記されています。「『霊』が『肉』と対照的な意味で用いられる場合……人間の物質的な部分と非物質的な部分を区別することがその目的ではない。……『霊』と は『魂』のことではない」。伝道之書 127節で,上記の聖書翻訳は,「霊」という言葉ではなく,「命の息」という表現を用いています。プロテスタント系の「解説者のための聖書」は,伝道之書の筆者について述べ,「コヘレスは,人の人格が存在し続けることを意味しているのではない」としています。こうした異なった見解が提出されていますが,わたしたちは,霊とは何か,またどういう意味でそれは神に帰るのかを確かめることができますか。

 

伝道之書 121-7節では,老化と死の与える影響が詩的な言葉で表現されています。人の死後,その体はやがて分解し,再び地の塵になります。一方,「霊」は『真の神に帰り』ます。それで,人間の死は霊が神に帰ることと結び付けられており,これは,人間の命がなんらかの意味でその霊に依存していることを示しています。

 

伝道之書 127節の原典を見ると,「霊」もしくは「命の息」と訳されているヘブライ語はルーアフです。これに対応するギリシャ語の言葉はプニューマです。わたしたちの命が呼吸作用に依存していることは確かですが,「息」という語(ルーアフやプニューマをしばしばこのように訳す翻訳者は多い)は,必ずしも常に「霊」に置き替えうる訳語とはなりません。さらに,ヘブライ語とギリシャ語の別の言葉,つまりネシャマー(ヘブライ語)とプノエー(ギリシャ語)もまた「息」と訳されます。(創世 2:7と使徒 17:25参照)しかし,そうではあっても,多くの翻訳者たちが,「霊」に替わりうる訳語として「息」という語を使い,その部分の原語が,人格を持たないながら生命の存続に必須なものを指すことを示している点は注目に値します。

 

 

霊とは何か

人の命が霊(ルーアフまたはプニューマ)に依存していること は,聖書の中にはっきりと述べられています。こう記されています。「あなた[エホバ]がその霊[ルーアフ]を取り去られると,彼らは息絶え,自分の塵に彼らは戻る」。(詩 104:29)「霊[プニューマ]のない体(は)死んだものである」。(ヤコブ 2:26)したがって,霊は体を生かしているものである,と言えます。

 

しかし,体を生かしているこの力は単に呼吸のことではありません。なぜ? なぜなら,呼吸が止まった後にも,しばらくの間,生命は体の細胞の中に残っているからです。そのために蘇生の努力がときに成功するのであり,また別の人への臓器の移植が可能なのです。しかし,これらの事は速やかになされねばなりません。体の細胞の生命力がひとたび失われると,命を延ばそうとする努力はむだに終わります。世界のすべての息をもってしても一個の細胞をよみがえらせることさえできなくなります。こうした点から考えると,「霊」とは,人間の体の生きたすべての細胞に作用している見えない生命力であることがはっきりしてきます。

 

この生命力はただ人間にだけ作用しているのですか。聖書に述べられている事柄は,この点で確かな結論を得るのに役だちます。全地球的な洪水で人間と動物の生命が断たれたことについて,聖書はこう記しています。「命の力[ルーアフ,霊]の息[ネシャマー]がその鼻に作用しているすべてのもの,すなわち,乾いた地面にいたすべてのものが死んだ」。(創世 7:22)伝道之書 319節でも,死に関して同じ基本的な点が示されています。「人の子らについて起きる事と獣について起きる事とがあり,両者には同じ事が起きるのである。これが死ぬように,彼も死ぬ。これらは皆ただ一つの霊[ルーアフ]を持つのであり,人が獣に勝ることはない」。したがって,その体を生かしている霊という面になると,人間は動物に勝りません。同一の見えない霊すなわち生命力を,両者が共通に持っているのです。

 

 この霊,すなわち動物と人間の双方に働いているこの生命力は,ある意味で,機械その他の装置における電子の流れつまり電流になぞらえることができます。

同じように,人間も動物も,「ただ一つの霊」,同一の活動力を有しています。

人間に生存上の機能を果たさせる生命力つまり霊は,動物に同様の事を行なわせる霊と少しも異なりません。その霊が死んだ体の細胞にあった特性を保持することはありません。例えば,脳細胞の場合,霊がそこに蓄えられた情報を保持したり,そうした細胞を離れて思考作用を継続したりすることはありません。聖書はこう述べます。「その霊[ルーアフ]が出て行くと,その者は自分の土に戻る。その日に彼の考えは滅び去る」― 詩 146:4

 

したがって,ルーアフつまり霊が神のもとに戻るというのは,意識のある存在が継続するという意味ではありえません。霊は人間の思考作用を継続するのではありません。それは,生命のための力にすぎず,体を離れて意識ある存在を保つものではありません。

 

生まれ変わりや再生について

キリスト教もキリスト教以外の宗教も含め,さまざまな宗派では,人間には現在の命を得る以前の存在があった,そして人は死んだ後にも生き続ける,と信じています。そうした概念も人によって大いに異なってはいますが,それでも,そうした人々は,人間のある部分が別の体で生まれ変わるもしくは再生する,という信条を共通に抱いています。

 

生まれ変わりに対する信仰を言い表わす一つの論議として,「仏教便覧」と題する本はこう述べています。

「わたしたちは時おり,生まれ変わりということによってしか説明できない奇妙な経験をする。以前に一度も会ったことがないのに,わたしたちの内面の意識では非常になじみ深く感じられるような人に出会うことが何度あることだろう。どこかの土地を訪ね,自分がその周囲の環境に十分に通じているような印象を受けることが何度あることだろう」。

 

『以前の存在について細かな点を知っていたら人生は重苦しくなる』と説明する人もいるでしょう。モハンダス・K・ガンジーもそのような見方をしてこう語りました。「我々が過去の幾度もの出生について覚えていないのは自然の慈しみである。自分がこれまでに経た数えきれない出生について細かな事を知っているからと言ってなんの益があろう。そうした膨大量の記憶を携えているとしたら,我々の人生は重苦しいものとなるであろう。賢い人は多くの事をあえて忘れようとする。弁護士が,決着した事件についてすぐにその詳細事項を忘れてしまうのと同じである」。これは興味深い説明です。しかし,確かな根拠に基づいていますか。

 

自分が経験した事柄について思い出すわたしたちの能力は確かに限られたものですが,そうした事柄に関するわたしたちの記憶は全く空白ではありません。弁護士は自分の担当した事件のごく詳細な事柄は忘れてしまうかもしれませんが,それを扱うことによって得た経験はその人の知識の蓄えの中に入ります。実際すべての事を全く忘れてしまったとすれば,それはその 人にとって大きな損失となるでしょう。また,人にとって大きな障害となるのは,記憶力の貧弱さですか,それとも記憶力の良さですか。自分の知識や経験の蓄えをよく活用できる老人のほうが,ほとんどすべての事を忘れてしまった老人よりずっと良いのではありませんか。

 

実際のところ,以前の存在のさいにすでに学んだ事柄をもう一度始めから学び直さねばならないということにどんな「慈しみ」があるでしょうか。十年ごとに,それまでの人生で知ったほとんどすべての事を忘れ,新たに言語を学んで知識と経験の蓄えを築き直し,次いでまたそれを全く失わねばならないとしたら,あなたはそれを「自然の慈しみ」と呼びますか。それは全くむだなことではありませんか。それは進歩のための妨げではありませんか。では,なぜそうした事が70年か80年ごとに起きると想像するのでしょうか。愛の神がそうした生まれ変わりを,人類に対するご自分の目的の一部にされた,と特に言うことができますか。

 

生まれ変わりの教理を受け入れる人々の中には,悪い生活をしている者たちは今より低い階級の者あるいは昆虫や鳥や獣として生まれ変わる,と信じている人が多くいます。では,暴力や犯罪がかつてない規模で増大しているこの時代に人間の人口爆発が大々的に生じているのはなぜですか。また,最下層の階級とされる人々さえ教育の機会を与えられれば他より秀でるようになるのはどうしてですか。

 

 

聖書は生まれ変わりを教えているか

論理的に推論を進めてゆくと生まれ変わりの可能性は必ずしも否定されない,と論ずる人もいます。そうした人々は,前述の論議に対して次のように答えるでしょう。『聖書でさえ生まれ変わりを教えている。人間が十分に説明できない事柄はいろいろあり,これはその一つである』。

 

生まれ変わりを信ずる人々は聖書を引き合いに出していますから,わたしたちは聖書が実際になんと述べているかを考えてみるべきでしょう。聖書の中に,生まれ変わりを信ずるどんな根拠があるのでしょうか。「仏教とは何か」という本はこう答えます。「クリスチャンの読者に特に指摘したいのは,[生まれ変わりの教理]が,今日残存しているキリストの教えの断片の中に明瞭に示されている点である。その例として,バプテストのヨハネがエレミヤ,もしくはエリヤであったという一般のうわさについて考えるとよい。(マタイ 16:13-16

 

イエス・キリストの明確な言葉で,生まれ変わりや再生の教えを裏付けるとみなされるものがあるのではないでしょうか。はい,そうしたものが一つあります。ある時,イエス・キリストは,バプテストのヨハネと古代のヘブライ人預言者エリヤとを結び付けて,こう語りました。「エリヤはすでに来たのですが,人びとは彼を見分けず,自分たちの望むことを彼に対して行な(いました)」。そして,「このとき弟子たちは,彼がバプテストのヨハネについて語られたのだということに気づいた」と記されています。(マタイ 17:1213)「エリヤはすでに来た」と述べたイエスは,バプテストのヨハネはエリヤの生まれ変わりである,という意味で言われたのですか。

 

イエスの地上宣教当時,多くのユダヤ人は,確かにエリヤが文字どおりの意味でもう一度やって来ると考えていました。そして,マラキの預言は,エホバ神が預言者エリヤを遣わす時のことについて述べていました。(マラキ 4:5)しかし,バプテストのヨハネ自身は,自分をエリヤそのもの,もしくはこのヘブライ人預言者の再生とはみなしていませんでした。ある時,幾人かのユダヤ人は,「あなたはエリヤですか」と彼に尋ねました。それに対して,ヨハネは,「そうではありません」と答えました。(ヨハネ 1:21)しかし,ヨハネについては,「エリヤの霊と力とをもって」メシアの前に道を備えるであろう,ということが予告されていました。(ルカ 1:17

したがって,バプテストのヨハネとエリヤを結び付けたイエスは,昔のエリヤと同じような仕事をしたヨハネに預言がいかに成就したかを示したのです。

 

再生を信ずる人々が持ち出すもう一つの聖句は,ローマ 911-13節です。「[エサウとヤコブ]がまだ生まれておらず, 良いこともいとうべきことも行なっていなかった時に,選びに関する神の志が,業にではなく,召されるかたに引き続き依存するため,[リベカ]に,『年上のほうは年下のほうの奴隷になる』と言われたのです。『わたしはヤコブを愛し,エサウを憎んだ』と[マラキ 123節に]書かれているとおりです」。この句は,神の選びが,リベカから生まれる以前のヤコブとエサウの行状に基づいていたことを示しているのではありませんか。

 

神の選びが,どちらの者も善も悪も行なわないうちになされたという点が特にはっきり述べられていることに注意してください。ゆえに,神の選びは,何か以前の生命における過去の業に依存していたのではありません。

 

では,神は,何に基づいてそれら男の子の誕生以前に選びをなし得たのですか。聖書は,神が胎児を見ておられること,それゆえに,人間の遺伝的な組立てをその誕生以前から知っておられることを示しています。(詩 139:16

その予知力を行使することによって,神は,それら二人の男の子の基本的な気質や個性をあらかじめ見きわめ,それによって,どちらの者がより大きな祝福に値するかを判別することができました。それら二人の男の子が実際に示した歩みは,神の選びの賢さを確証するものとなりました。ヤコブは神の約束に対する霊的な関心と信仰を示しましたが,エサウは物質中心的な性向と,神聖な物事に対する認識の不足をはっきり示しました。―ヘブライ 11:21; 12:1617

 

神が「ヤコブを愛し,エサウを憎んだ」というマラキの言葉を使徒パウロは引用していますが,この言葉も,二人の遺伝的な組立てに基づくエホバの見方について述べるものです。この言葉は,マラキにより,二人の生涯が終わった幾世紀も後に記録 されましたが,これら二人の男の子について神がその誕生以前に示した事柄の正しさを確認するものとなりました。

 

イエスの弟子たちが提出した問いも,再生の裏付けとしてときに持ち出されます。ある生まれつきの盲人について,弟子たちはこう尋ねました。「この人がめくらに生まれついたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」。(ヨハネ 9:2)この問いの言葉は,この人に以前の存在があったことを示しているのではありませんか。

イエスはこう語りました。「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかに示されるためだったのです」。(ヨハネ 9:3)つまり,この人の盲目など,人間の不完全さと欠陥は,奇跡的ないやしという形で神のみ業が表明される機会になった,という意味でした。

 

聖書のどこにも,体が死んだ後になお残る魂,霊,その他の生まれ変わりや再生について述べているところはありません。ただ,生まれ変わりや再生の教えを聖書の中に『読み込もう』とした人たちがいるのです。それは聖書の教理ではありません。

 

最初の人間に対し,その不従順のゆえに死の宣告をした時,神はその 前に生まれ変わりや再生の見込みは置きませんでした。アダムはこう告げられたのです。「あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る。あなたはそれから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」。(創世 3:19)そうです,人間は生命のない土の塵に戻るように定められたのです。

 

 

 

 

 

霊魂消滅説Annihilationism

死後直ちに意識のある霊魂が天国、地獄、煉獄などの霊界に入るのではなく、人の霊魂は元来神の命無くしては不滅性を有しないとして、死によって全ての人の霊魂は消滅ないしは無意識の睡眠状態に陥り、義人は復活して永遠の命を与えられるが罪人は絶滅、消滅するとし、火の池での永遠の刑罰を否定する。

それは条件的絶滅説、永遠のいのちを与えられていない人間の魂は、不滅性を持っていないという考えと関わりがある。

 

絶滅説は最終的に神が悪人や救われなかった人々を絶滅、消滅させ、救われた義人だけに不滅性が与えられると断言する。多くの消滅論者は、邪悪な人々は彼らの罪のため、火による刑罰の後に消滅するという。

永遠の地獄は聖書から支持されず、ローマの異教やプラトン哲学起源の間違った教義だとする。

死後の審判に関するキリスト教会内の教理の一つ。霊魂と地獄の永遠性を主張する多数のキリスト教会からは受け入れられない。

 

霊魂消滅説をとる主な宗派は、一般的に正統派プロテスタントとされる、セブンスデー・アドベンチスト教会、聖公会 (一部)、一般的に異端ないしはキリスト教系の新宗教とされるエホバの証人、キリスト・アデルフィアン派(キリストの兄弟)などである。

 

歴史

キリスト教弁証家のアルノビウスが4世紀にこの説を説いたが、一般には受け入れられず、第5ラテラノ総会議(1513)にて異端とされた。宗教改革時、カトリック教会が煉獄の教理を正当化するために霊魂の不滅を主張し始めたという疑問が、ルターはじめ一部の聖書学者や改革者、再洗礼派などによって提示されたが、大きな議論に発展することはなく、カルヴァンがこの説を否定することで多くのプロテスタント諸教派からも受け入れられなかった。しかし19世紀になって、霊魂不滅を信じる一般的風潮にもかかわらず一部の神学者の間でこの説は受け入れられ、エドワード・ホワイト、ジョン・ストットなどの正統派の牧師らもは著書にてこの説を強調した。

 

 

霊魂消滅説で根拠とする聖書中の記述

アダムが罪を犯した際、「あなたは塵だから塵に帰る」と神に言われた[3]。さらに死者は基本的には何も出来ない状態とされている[4]。死人には復活の可能性がある事をイエス・キリストは教えた[5][6][7]。復活の奇跡を何件か行なっているが、人が死んでいた際の記憶などは記述されていない[8][9][10]

エゼキエル書184(口語訳)には「罪を犯した魂は必ず死ぬ。」と書いてある。1820(口語訳)でも「罪を犯す魂は死ぬ。」と書いてある。イエスのたとえ話や黙示録などに出てくる永遠という言葉の原語には、「一世代存続する」という意味があり、「死」や「滅び」という刑罰の状態そのものが永遠なのではなく、刑罰は「一世代」、つまり一定期間ののち終了し、悪人の霊魂が滅びる(消滅する)という結果が永続すると主張する。

 

セブンスデー・アドベンチスト教会の見解

死後の状態について、人間は魂と肉体を分けることのできない存在であり、肉体の活動が停止すると同時にすべての精神活動も停止し、よみがえりの時まで無意識の眠りの状態にあるとする(伝道の書95、ヨハネによる福音書528-29[11]。死んだら魂が天国か地獄に行くということを信じない[12]。同教会にて「主の使者」であり、「つねに信頼のおける真理のみなもと」とされるエレン・G・ホワイトの著書『大論争』[13]535ページ[14]、『初代文集』[15]221ページに記されている[16]

 

エホバの証人の見解

チャールズ・テイズ・ラッセルはキリスト教系の新宗教であるエホバの証人を設立する前に、セブンスデー・アドベンチスト教会についたり離れたりしていた[17]。その中で後に彼の教義体系の中核になるものをつかんでいき、セブンスデー・アドベンチスト教会の本の中の「地獄というのは墓にすぎない」という教義を借用して、永遠の刑罰の教えに反対し「地獄」(マルコによる福音書9:43〜48)の存在を否定した[18]。エホバの証人は見解として以下を述べている。

 

コリントの信徒への手紙一1526(口語訳)では「最後の敵として滅ぼされるのが、死である。」と書いてあり、ヨハネの黙示録2014(口語訳)では「それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」と書いてある。「死」という概念が地獄で「世々限りなく日夜、苦しめられる」[19]というのは考えにくいため、「第二の死」はテサロニケの信徒への手紙二19(口語訳)に書いてある通り「永遠の滅びに至る刑罰」を意味しているとされている[20]

 

伝統的キリスト教会の見解

ゲヘナは罪人の永遠の滅びの場所であり、地獄 (キリスト教)をさす場所として用いられる[21][22][23]

永遠の滅びの場所の根拠とされる聖書箇所は以下の通りである。すべてゲヘナ、および永遠の滅びの場所を意味する「火の池」について記されている。

 

マタイ 5:22 「また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(新改訳聖書)

マルコ 9:48 「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(新共同訳聖書)

パウロは、イエス・キリストが再臨したとき、神を信じない者、イエスの教えに従わない者が、かぎりなき永遠の刑罰を受けると記している。

 

第二テサロニケ1:7-1:9 「それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。」(口語訳聖書)

黙示録には以下の記述がある。

 

黙示録 20:10 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(新改訳聖書)

黙示録 20:15 「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(新改訳聖書)

黙示録 21:8 「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である』。」(新改訳聖書)

 

伝統的キリスト教会の見解

エル・ベルコフ著『改革派神学通論』[24] p374では、絶滅説(霊魂消滅説)について、"" "壊滅" "死滅"などの名称が絶滅を指示すると推定することは恣意である、とし、反証聖句として伝道127、マタイ2546、ローマ28-10、黙示14112010を挙げている。

ハロルド・リンゼル、チャールズ・ウッドブリッジ共著『聖書教理ハンドブック』[25]51ページでは、地獄を否定することは非常に危険である、として以下の4点が明記されている。

聖書の明白な教えを否定し、聖書の真実性と権威に異議を唱える

主イエスの教えを偽りであるとして拒否する

天国、キリスト教信仰の主要な教理に関しての聖書の教えを損なう

キリスト教会は2千年間偽りを宣べ伝えてきたことになる

また同書p384では、絶滅説(霊魂消滅説)は地獄に関する誤った見解であり、地獄に関する真理を否定することは、聖書のその他の教えに対しても疑問をいだくことであると述べている。

マイヤー・パールマン著『聖書教理の研究』[26] 629では霊魂必滅論(霊魂消滅説)について「まちがった考え方」としている。霊的な死は神から離れることである、と解説している。

日本ルーテル教団伝道委員会の要請により執筆された轟勇一著『100の質問』[27]222ページでは、死後の魂の状態について具体的に教団名を挙げて「決して再臨主義者たち(「エホバの証人」や「セブンスデー・アドベンチスト教会」など)の言うように、無意識の昏睡状態におちたりということはない」と記されている。

 

参考文献

William Crockett, ed., Four Views on Hell

Edward Fudge and Robert Peterson, Two Views of Hell: A Biblical & Theological Dialogue. Downers Grove, Illinois: InterVarsity Press, 2000

批判

 

Christopher W. Morgan and Robert A. Peterson, eds., Hell Under Fire: Modern Scholarship Reinvents Eternal Punishment. Zondervan, 2004; ISBN 0310240417, ISBN 9780310240419

Robert A. Peterson, Hell on Trial: The Case for Eternal Punishment. P&R Publishing, 1995; ISBN 0875523722, ISBN 9780875523729

 

 

 

 

 

 

 

肉体、心、霊魂

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou

https://www.jba.gr/jp/%E8%82%89%E4%BD%93%E3%80%81%E5%BF%83%E3%80%81%E9%9C%8A%E9%AD%82.htm

 

肉体、心、霊魂: アダムとイブが原罪を犯したとき、そこで死んだものは何だったでしょうか?

体、心、そして霊魂という話題を取り上げるとき、私たちは聖書の最初の本、創世記を見る必要があります。そこでは、神が人を造られた後、それに対して制約を課し、それを破るとどのようなことになるかをはっきり申し渡されています。

 

創世記第 216節から17

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」

 

神がアダムに課した制約とは、彼はこの善悪を知る木からは、取って食べてはならないというものでした。この制約を破ったことに対する罰は次の通りです。「その日(ここに注意してください。まさにその日、と言っています)、それを食べた日、あなたはきっと死ぬでしょう。」この罰に関して、ふたつの重大なことがらを強調しなければなりません。第一は、もしアダムがその木から取って食べたならば、死は即座に、まさにその日にやってくるという点です。第二は、それは確実に起こる、という点です。この「あなたはきっと死ぬでしょう」という語句は、死はその日、100%確実に起こるということを強調しています。

 

ですが私たちはみな、創世記第31節から6節によって悪魔がアダムとイブをだまし、どのように神が彼らに課した制約を犯させ、善悪の木から食べるようにしたかを知っています。その木から取って食べたあと、神が創世記第217節でふたりに語ったところによれば、彼らはその瞬間に死ぬはずでした。ですが創世記第54節から5節はアダムについて、つぎのように述べており、ここに問題があります。

 

「アダムは、セトが生まれた後八百年生きて、息子や娘をもうけた。アダムは九百三十年生き、そして死んだ」

 

したがって聖書によれば、アダムは肉体の命を保ち、善悪の木から取って食べて以来、多くの年月を生き続けたというのです。ですが神は、アダムはその木から取って食べれば、その日のうちに死ぬことは100 確実だと言われたのです。ではアダムとイブがそれを食べた日、実際にはなにが起きたのでしょうか。彼らは神の言葉通り、そこで死んだのか、それとも死ななかったのでしょうか? 

 

私たちの場合、神は嘘をおつきになれない(民数記239節)のですから、アダムとイブは、木から取って食べた日、事実死んだのです。実際には、イブをだましたとき、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう」と言ったのは悪魔だったのです。ですから、神が仰せになったとおり、その日ふたりが死ななかったのであれば、悪魔は正しく、神は間違っていたことになります。

ですが今日多くのひとびとが「実際には神が、ふたりは必ず死ぬであろうと言われたとき、それは死という精子が体に埋め込まれたということだった」と教えているのはそのためです。ですが神の御言葉には、そのような弁護は必要ではありません。事実、御言葉は真実であり、それ自体独立のものであるため、なんの弁護も必要ではないのです。

神は、ふたりはまさにその日のうちに死ぬ、とおっしゃったのですから、ふたりはその日、本当に死んだのです。ですが彼らは、善悪の木から取って食べた後も肉体の命は続いたのですから、彼らは肉体のほかに、ほかの形の命を持っていたことは明らかで、食べたために死んだのはその命であり、それが死の理由だったのです(ある命の形の欠如)。ですから私たちは聖書の中に、ひとはどのようにして造られ、それは何によって構成されていたのかを捜し求めなければなりません。最初の人間の命を構成していたのは何だったかを知れば、あの日、なにが失われたのかを知ることができるでしょう。

 

2. 肉体、心、霊魂: 肉体と心の部分

最初の人間がどのように造られたかを調べるために、創世記第27節を見てみましょう。そこにつぎの言葉があります。

 

「主なる神は土のちりで人を造り…」

 

では神は人のどの部分を土のちりで造ったのでしょうか? それは肉体でした。人体を構成している要素が土のなかに見られるのはそのためです。ですから、最初の人のひとつの部分は肉体でした。ですが、さらに見てゆきましょう。

 

創世記第27

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」

 

私たちはこれで、神は人の体を土のちりからお造りになったことを知ります。

 

ですがこの体には命がありませんでした。それは命を持たないままに形づくられたわけです。ですが神の御言葉は、神は「その鼻に命の息を吹きいれられ、人は生きた心となった」と続きます。では心とは何なのでしょうか? 

הָֽאָדָ֖ם   hā-’ā-ām   the man

לְנֶ֥פֶשׁ   lə-ne-p̄eš ネフェシュ   a being

חַיָּֽה׃    ay-yāh.   living

 

 

心は体に命を与えるものです。ですがひとびとがここに述べられている神の、このような簡単な御言葉を理解しないことによって、終わりのない混乱が生じているのです。ここで、人の体に命をもたらしているのは、心であると神は述べていらっしゃるのです。心がなければ、体は死ぬのです。では体の命、肉体の命である心はいったいどこにあるのでしょうか? 神の御言葉は非常に的確です。

 

 

レビ記第1711節、13節から14

「生き物の命〔ヘブライ語ではネフェシュ〕は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。それらは汚らわしいものである。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類」

 

私たちは 創世記第27 で心 (ヘブライ語でネフェシュ)が体に命を与えるものであることを学びました。ここレビ記には「肉体の命は血のなかにある」とあります。上で引用した文章では、「命」という言葉はヘブライ語の「ネフェシュ」を翻訳したものであり、それは創世記の第27節、その他753の同様な箇所のうち471までが「心」と訳されているのです。では「ネフェシュ」あるいは心とはなんなのでしょうか? 創世記の第27節によれば、心とは体に命を与えるものだとあります。「ネフェシュ」、体の命、心はどこにあるのでしょうか? レビ記第1711節から14節によれば、それは血の中にあります。「肉体の命(ネフェシュ、心)は、その血の中にある。」この心の命は、ひとつの世代から次の世代へ、どのように引き継がれるのでしょうか? 血によってです。使徒言行伝第1726節につぎのようにあるのはそのためです。

 

「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」

 

このなかでいう「ひとつの血」とはアダムの血のことで、ひとつの世代からつぎの世代に引き継がれる、私たちすべてが持っている血なのです。

 

事実、心は人間だけが持っているものではありません。動物にも心はあり、それもまた、血の中にあります。このことは上のレビ記の、肉を持つすべての命は血の中にあるという文章からすぐにわかりますが、創世記第120節から21節、29節から30 にもそれがあるか、見てみましょう。

 

創世記第 120節から21

「神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた」

 

創世記第 129節から30

「神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。神はまた地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるもの〔ヘブライ語のネフェシュ〕にはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった」

 

したがって人間ばかりでなく、動物も「ネフェシュ」つまり、「心」を持っているのです。これは私たちが、心は体に命を与えるものだと知っていれば、不思議なことでも何でもありません。あなたが死ねば、もう命はなくなり、心もなくなります。動物にも同じことが起きます。心は動物にとっても人間にとってと同様に、体に命を与えるものなのです。ところで聖書の中で定義されている心については何の問題はないにしても、問題は私たちが、心は不滅なのだという先入観を持って聖書に接したときに起きます。もし心が不滅なのであれば、人間が「ネフェシュ」をもっているように動物も「ネフェシュ」をもっているので、さまざまな動物の心も不滅だということになります。心は不滅のものではありません。それは体に命を与えるものです。ですからあなたがその体に命を持たなくなれば、心はなくなります。

 

ここまでに私たちは、聖書は神が人間の体を土のちりから形作り、その体に命、つまり心を与えたといっていることを学びました。これは動物についても同じであることがわかります。彼らにも体と心があるのです。世界中の人間は、信者もそうでないものも、体と心を持っています。そこでアダムが930歳で死んだので、善悪の木から取ったものを食べたとき、彼は自分の体も心も失いはしなかった、と結論してよいでしょう。ですから、その日、アダムからなにかが死ななければならなかったのですから、彼には少なくとも別の部分があって、それが木の実を食べたときに失われ、死んだに違いありません。では聖書の中でそのことについてどう述べられているか、続けて捜し求めてゆきましょう。

 

3. 肉体、心、霊魂: 霊魂の部分

創世記の第126節から27節に答えを求めましょう。そこにはこうあります。

 

創世記第 126節から27

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」

 

この文章によれば、神は人を「ご自分にかたどって」造られたのです。これは、もし私たちがアダムとイブが善悪の知識の木から食べたとき、実際になにが起きたのか、そして他の聖書の中の、ここで述べられていることがらから影響を受けている文章がなにかを知りたいと望むならば、非常に重要なポイントなのです。上の文章を読みますと、では神はどのようなかたちなのか、という疑問がわいてきます。神はどのようなかたちをしているのでしょうか? ヨハネによる福音書第424節にはこうあります。

 

「神は霊である」

 

神は肉体ではなく、霊魂です。それが神のかたちなのです。したがって神の御言葉が私たちに、神は人間を自分のかたちによって造られたと語るとき、それは人間は体と心のほかに、神そのもののかたち、つまり霊魂をも持っているという意味になります。そこで上記の重要な文章にある「ご自分に似せて」という言葉をよりよく理解するために、この言葉が記されている別の部分を見てみましょう。

 

創世記第51節から3

「これはアダムの系図の書である。神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名付けられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた」

 

ここではアダムは息子を「自分に似せ、自分にかたどって」生んだ、といっています。これはなにを意味するでしょうか? それはアダムがそうであったように、彼の息子もアダム同様に手を持ち、セツも手を持っていたという意味なのです。そしてアダムと同様、セツも足、その他を持っていた、アダムと同様、セツも体と心を持っていました。同様に神の御言葉が人間を「自分のかたちに」「神にかたどって」造ったとあるとき、それは神のようにアダムはあった、ということになります。神は肉体ではないのです。彼は手足や頭は持っていないのです。神は霊魂なのです。ですから神が霊魂であるように、アダムも霊魂でした。そこで、なぜ神はアダムを体、心、霊魂とは別にお造りにならなかったのか、という疑問が湧くことでしょう。答えは簡単です。霊魂がなければ、アダムは霊魂である神と意志を交わすことはできなかったのです。神は霊魂であるために、体や心と意志を交わすことはできないのです。これらは別物です。無線のメッセージを受信するためには、無線の受信機がなくてはなりません。あなたは洗濯機を持っているでしょう。ですがあなたが洗濯機を持っているからといって、それで無線を受信できるわけではないですね。あなたは無線の受信機が必要なのです。同様に、神は霊魂であるために、神と意志を疎通するためには、あなたは霊魂を持たねばならないのです。体と心は五感を受け取るためには十分な感覚です。ですがことが神に関するときには、あなたは霊魂が必要になります。この真実は、コリントの信徒への手紙一第214節によってつぎのように説明されています。

 

「自然の人は〔ギリシャ語ではスチコス〕神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」

 

この文章の中で「自然の人」と訳されている言葉は、もとはギリシャ語の形容詞「スチコス」で、これは心を意味する名詞「スチ」から来ています。ですからスチコスとは「心の人間」つまり体と心のみという意味になります。

脚注)おなじ言葉、スチコス(魂の人間、体と魂の人間)は、コリントの信徒への手紙一第1544節と46節、ヤコブへの手紙第315節、およびユダの手紙にもあります。

 

この文章によれば、体と心だけしかない人間は「神の霊魂を受け止めることはできない」のです。「神の霊魂に関したことがら」を受け取る、神と意志を交わすためには、上記のように適切な受信機、つまり霊魂を持たねばなりません。この語句がつぎのようにいっているのはそのためです。「また御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」体と心の人間にとって、神のことがらを知るのは、それが霊魂のことがらであるという単純な理由によって、不可能なことであり、「霊魂を理解することができず」、霊魂を持たないために彼らはそれを知ることがないのです。ここまで述べたことがらを要約しますと、アダムは土のほこりから造られた体を持ち、その体に命を与えた心を持ち、そして神と意志を交わすことのできる霊魂を持っていました。彼は体、心、そして霊魂だったのです。この点を明らかにしたので、アダムとイブが善悪の知識の木から取って食べたとき、なにが起きたかについては、もう疑問の余地はないでしょう。神はそのようにして食べたならば、ふたりはその日、確実に死ぬと仰せられたのです。死とは命の形の不在だと知っていれば、私たちにはその日なにが死んだかがわかるでしょう。アダムは体、心、そして霊魂であり、そして彼の体はそれを食べてから何年も経ってから死にました。さて、心がなければ体に命はないのですから、アダムにはその木から食べたあとでも、体と心はありました。一方、神の御言葉に間違いはないのですから、その日、なにかが死ななければならなかったはずです。アダムは木から食べる前は体、心、そして霊魂だった、そして食べた後も体と心は持っていたのですから、あの日失われたものは神がお与えになった霊魂だったはずです。彼は体と心は持ち続けたが、霊魂は失いました。彼の霊魂は彼を去り、食べる前に彼が持っていた命の形である霊魂は、こうして死んだのでした。

 

聖書は、あなたがそれ自体に解釈をゆだねるとき、ものごとはこのように明瞭になることがわかるでしょう。ペンテコステで霊魂が回復し、聖霊が得られるようになるのはこの霊魂の喪失のためですので、こんにちの私たちは、イエス・キリストを信ずることによって、ふたたび体と心、そして霊魂となることができるのです。テサロニケの信徒への手紙一第523節のなかでパウロがつぎのように言っているのはそのためです。

 

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」

 

いま、主イエス・キリストとその復活を信じ、聖霊の賜物を受け取れば、私たちはもう体と心だけでなく、体、心、そして霊魂となれるのです。

 

 

日本語: Tsukasa Ugaeri / Tomoko Crawford /

Bible Copyright: ©共同訳聖書実行委員会Executive Committee of The Common Bible Translation

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