善悪の樹

 

 

 

はじめに

聖書

ゾハールの書

スウェデンボルグ

 

コラム

ぶどうの樹

バナナの実

ヒンドゥー教の裸の恥から離脱する逸話

現在の戦争

 

 

 

はじめに

 

知恵の樹とも呼ばれ、エデンの園の中央部にある生命の樹の横にある。

樹の実を食べると、神と同じように善悪を知るとされるが、食べると死ぬと神から言われる。

 

しかし人間を神に背かせようとする蛇に唆されて(創世記35節)、初めにイヴが、その次にアダムが樹の実を食べたことによって(6節)、善悪の知を得たアダムとイヴは、裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で体を隠した。(7節)

これを知った神は(13節)、アダムとイヴが生命の樹の実までも食べ永遠に生きるおそれがあることから(22節)、エデンの園から追放する(23節)。

実を食べたことで、人間は必ず塵に戻るようになり、男には労働の苦役(19節)が、女には出産の苦しみ(16節)が、もたらされるようになった。蛇は女の子孫に頭を砕かれると神に言われた(15節)。

 

この出来事をキリスト教では「失楽園」といい、神に対する不服従の罪であり原罪とされるが、ユダヤ教には「原罪」というものは存在しない。

 

 

実がリンゴだといわれたはイエスが死んだ後

一説には、リンゴとする解釈は2世紀に聖書をギリシャ語に翻訳したアクィラ・ポンティカスに由来するとされる。彼は「りんごの木の下で、わたしはあなたは呼び覚ました。あなたの母親は、かしこで、あなたのために産みの苦しみをなし」という雅歌の「産みの苦しみをなし」の部分を「堕落した」と誤訳した。この為、りんご→堕落→知恵の樹の実という連想が生まれ、知恵の樹の実はりんごであると解釈されるようになった、とされる。

別の説では、聖書をラテン語に翻訳した際に誤訳されたとする。禁断の果実を指すラテン語の「malus」には二つの意味があり、形容詞として使われる場合では、「邪悪な」を意味し、名詞では「リンゴ」である。禁断の木の実をリンゴとする説は、「邪悪な木の実」と「リンゴ」を混同している、とされる。

 

 

善悪の樹に関する疑問

1なぜ実を食べてもアダムとイヴは死んでいないのか?神のいった「死」とは何を意味するのか?

2実を食べたら、なぜ恥ずかしくなったのか?

 

. ヘブライ語の魂Neshamaには5段階の層があります。

 

 

 

 

 

S

1

Nefesh

 

tzelem,

tzelem Elokim.

 

Asiya,

物質エネルギー界

人間の肉体と魂をつなぐ霊的な型

人が生まれたとき、神の最大の隠蔽を表す最も低い世界

息吹、ギリシャ語のpsyche、ゴーレムの生命力

感覚のサンカーラ

10

2

Ruach

demut Elokim

 神のイメージ

 

 

Yetzira.

感覚エネルギー界

感情

心の労苦   

低いレベルで心を尽くして神を愛する

感情のサンカーラ

 

4

9

3

Neshama

 

Beriya

表層意識の思考

 

大いなる努力による啓示

理性    

思考のサンカーラ

3

4

Chaya 

 

Atzilut

大いなる浄化による可能性がある

2

5

yechida

 

Adam Kadmon

無限の存在であるアイン・ソフから発した魂

1

 

1 

神の魂は「神の民は神の一部である」(申命記32:9)という聖句にあるように、本来のアダムの魂は神と切り離すことのできない本質である。

「私の魂は、一つの炎のように、主と一体となり、主と結ばれている」。

 

しかし、無限の存在であるアイン・ソフから発した魂は、やがて肉体を纏うために、境界線が固定化されて、流動化している第4と第5が分離されて、意識することができなくなる。

神のいった死とは、世界に現れる現実の諸プレーン段階、すなわち神の啓示/隠蔽のレベルに対応している。

もし彼が大いに浄化すれば、Atzilutに匹敵するChayaのレベル、さらにはアダム・カドモン以上の神意識であるyechidaに到達することができるかもしれません。

(イェチダと呼ばれる魂のレベルは、神から決して切り離されないため、本質的にすべての世界を超越するものである。)

 

このように、善悪の実を食べることによる死は肉体の死ではなく、魂の死を意味している。

魂には5段階の層があり、善悪の実を食べたために、4番目と5番目の層の魂が死んでしまい、ヒトはこの2つの段階で暮らすことができなくなった。

この段階は神との一体性を意味する。

神のいう「実を食べることでヒトが死ぬ」とは、神と一体になる状態の魂はなくなったが、ヒトは第3段階までの魂はあるので肉体的死ではない。

 

 

 

. 善悪の判断と恥ずかしさの関連性

 

善悪には神とヒトでは基準が異なります。

神の善悪とは、より根源に至る体験をすることで、より微細な領域に向かうものです。

対して、ヒトの善悪は判断の対象を測定できる粗大な領域に限定して固定化することによって成り立つものです。

 

善悪

 

 

 

 

 

 

 

 

全体性

測定不可能

一体化

微細

優劣なし

恥なし

生命

智慧

ヒト

分別

測定可能

分離化

粗大

優劣

知性

知恵

 

換言すると、一体化した全体性を2つに分別して認識するようにしたので、そこには上下、左右、内外に分けることで2つの差異が生じました。

共通性ではなく差異にスポットライトを当てることで、優劣や選択という判断をすることができるようになり、各自が意図せずに劣をすでに選択していること気づいた場合は、それを恥ずかしいと想い、それに対処する行動を起こす。

したがって、恥は分別することによって起きる、心のありようである。

上座部仏教で「恥」とは心所と呼ばれる52に分類される心のありようの1つにあたる。

 

 

 

 

 

 

 

 

創世記第2

9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

waYatz'mach y'hwäh élohiym min-ádämäh Käl-ëtz nech'mäd l'mar'eh w'ţôv l'maákhäl w'ëtz hachaYiym B'tôkh' haGän w'ëtz haDaat ţôv 

And out y4480 of x4480 the ground 127 made y6779 z0 Yähwè יָהוֶה 3068 ´Élöhîm אֱלֹהִים 430 to grow 6779 z8686 every x3605 

tree 6086 that is pleasant 2530 z8737 to the sight, 4758 and good 2896 for food; 3978 the tree 6086 of life 2416 also in the midst 8432 of the garden, 1588 and the tree 6086 of knowledge 1847 of good 2896 and evil. 7451

 

וְעֵ֕ץ   wə-‘ê     and the tree

הַדַּ֖עַת  had-da-‘a   of the knowledge

ט֥וֹב   ō-w      of good

וָרָֽע׃   wā-rā‘.    and evil

 

 

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

ûëtz haDaat ţôv  lo tokhal miMeNû Kiy B'yôm ákhäl'khä miMeNû môt Tämût

But of the tree 6086 x4480 of the knowledge 1847 of good 2896 and evil, 7451 thou shalt not x3808 eat 398 z8799 of x4480 it: for x3588 in the day 3117 that thou eatest 398 z8800 thereof x4480 thou shalt surely y4191 z8800 die. 4191 z8799

 

3

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

Kiy yod몠élohiym Kiy B'yôm ákhäl'khem miMeNû w'nif'q'chû ëynëykhem wih'yiytem lohiym yod'ëy ţôv 

 

For x3588 ´Élöhîm אֱלֹהִים 430 doth know 3045 z8802 that x3588 in the day 3117 ye eat 398 z8800 thereof, x4480 then your eyes 5869 shall be opened, 6491 z8738 and ye shall be x1961 as ´élöhîm אֱלֹהִים, 430 knowing 3045 z8802 good 2896 and evil. 7451

 

22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。waYomer y'hwäh élohiym hën ädäm häyäh K'achad miMeNû daat ţôv  w'aTäh Pen-yish'lach yädô w'läqach Gam ëtz hachaYiym w'äkhal chay l'oläm And Yähwè יָהוֶה 3068 ´Élöhîm אֱלֹהִים 430 said, 559 z8799 Behold, 2005 the man 120 is become x1961 as one 259 of x4480 us, to know 3045 z8800 good 2896 and evil: 7451 and now, x6258 lest x6435 he put forth 7971 z8799 his hand, 3027 and take 3947 z8804 also x1571 of the tree 6086 x4480 of life, 2416 and eat, 398 z8804 and live 2425 z8804 for ever: 5769

 

 

 

 

 

 

ゾハールの書の第一章からの抜粋

 

善悪の樹とは鍵のかかった恐れの門

R. Hiyaが「最初の時」についての講義を始めました。「叡智の始まりは主への恐れです。 彼らが今後行うことはすべてよく理解されています。 彼の賛美は永遠に続きます (Ps. CXI, 10)。」 彼は言いました。

「叡智の始まり」というよりは、「叡智の終わりは主への恐れである」と言う方が適切でしょう。

なぜなら、主への恐れは叡智の最終的な対象だからです。

 

「義の門を私に開いてください....これは主の門です... (Ps. CXVIII, 19-20) 」に暗示されています。

最後の特別な門には施錠され、開けることが禁止されていると想像してみてください。

この最初の門が「主への恐れ」と呼ばれるのはなぜでしょうか?

それが善悪の木だからです。

人が十分に値するならそれは良いことであり、彼が病気に値するならそれは悪です。[8a]

したがって、すべての善への入り口であるその場所には恐怖がとどまります。 「善」と「理解」は2 つの門ですが、実際は1つです。

R. Jose は次のように述べています。「「良い理解」とは、悪のない善の知識である生命の木をほのめかしています。「今後行うすべて」とは「Davidの確かな慈悲」(Is.LV3)、つまりTorahの研究を支持する人々のことです。Torahの研究を支持する人々は、その研究に専念しているだけの人々は、当面何もしていません。しかし、この活動を通じて、「彼の賛美は永遠に続き」、玉座はその土台にしっかりととどまります。

 

 

 

善悪の樹の実を食べると具象化する

「第 14 の戒律は、安息日を守ることです。安息日は、すべての創造の働きから休む日でした。

その日が聖化された後、体が造られていない霊が残っていました。

なぜ、神はそれらの霊のために体を創造するまで、その日を聖化するのを待つことができなかったのでしょうか?

 

その理由は, 善悪の知識の木から世界を支配しようとする「邪悪な力」が出てきたので、多くの様々な霊が力ずくで肉体を手に入れようとしたからです。

祝福された聖なる方はこれを見るやいなや、命の木から立ち上がりました。風が吹き、命の木が他の木にぶつかり、「慈悲の力」が生じ、その日が聖化されました。

その夜の肉体の創造と霊の鼓動は、「悪の力」ではなく「善の力」の影響下で起こるからです。

 

あの夜、「悪の力」が「善の力」を先制していたら、悪霊のせいで世界は一瞬たりとも存在できませんでした。

しかし祝福された聖なる方は、前もって治療法を提供してくださいました。

彼は悪の力が支配する前日の聖化を早め、それによって世界が確立され、悪の力が思ったように世界の支配者になったのではなく、その夜勝利を得たのは「慈悲の力」でした。したがって、「慈悲の力」の影響下で神聖な体と精神は築かれています。

 

 

 

 

善悪の実を食べると、神ので善悪の判断をする機能と混じり合うことになるが、ヒトは神とは違い、判断の対象が6感覚器官を介した測定可能なごく部分的なものに限定されるので、その判断は誤謬に陥る。

 

シェキナは、他の種からの新芽が接ぎ木されることのないぶどうの木のようになり、イスラエルは「見るのが楽しいすべての木」になり、以前の美しさが回復するでしょう。

「彼はイスラエルの美を天から地に投げ入れた(Lam. II1)」と言われているように。「善悪の知識の木」はイスラエルから突き出されたり、彼らにくっついたり、彼らと混ざったりしてはならない。.

イスラエルには、「あなたがたは善悪の知識の木から食べてはならない」と言われた。 この木は「混じり合った群れ」であり、神は彼らに混じり合うことによって、第一神殿と第二神殿の二つの損失で苦しんだことを指摘しました。

「それを食べたその日に、あなたは必ず死ぬだろう」と言われているように、彼らは、天国のシェキーナー(カバラの第123等級の光)である最初の神殿を失ったことで、義人(ザディク)を干し上がらせて荒廃させ、そして、地上のシェキーナー(カバラの第4.5.6等級の光)である第二の神殿を失うことによって。

 

 

 

 

善悪の樹は分別を引き起こし、それが執着になる

R・ユダは言いました。「蛇が言ったのは、神はその善悪の木を食べて世界を築いた、ということでした。「だから、あなたがそれを食べれば、世界を創造できるでしょう。 神はこのことを知っているので、それを食べないようにと命じたのです。なぜなら、すべての職人は同じ技術を持った仲間を嫌うからです。」

 

R・ホセは言いました。「いま見たように、アダムがまだ世界に一人だったのを見て、なぜ神はこれが必要だと想って禁じたのでしょうか?

答えは、これらすべての禁止事項は善悪の木だけに適用できるということです。 なぜなら、それを手に入れる者は誰でも分別を引き起こし、それに執着する下界の群れと結びつくからです。

食べた者は偶像崇拝、殺人、姦淫の罪を引き起こします。偶像崇拝とは、より優れた長を認めることです。なぜなら、それはサマエルの指揮下にあるゲブラー(力)の側にあるこの(善悪の)木からインスピレーションを得ているからです。 この木は女性原理であり「女」と呼ばれており、姦通の疑いを恐れがあるので、夫のいない女性と約束をすることは禁じられています。 したがって、すべての禁止事項はこの木に関するものであり、彼がそれを食べたとき、彼はすべての禁止事項を破ることになります。」

 

 

 

 

善悪の樹が死の根源

R・シメオンは、「主は義なる方であり、義を愛し、正しくおられるので、人々は主の御顔を仰ぎ見るであろう(詩篇117)」という聖句を引用して、答えた。

「主は義なる方ですから」とは、つまり、主は義人であり、その名は正義(ザディク)であるため、義なる行いを愛されるのです。 また、「彼は正義であり、正しい者である」(申命記XXXII4)と書かれているように、彼は正しい人でもあります。

したがって、世界のすべての人たちは、自分たちの道を修正し、まっすぐな道を歩むことができるように、神の御顔を見つめます。 なぜなら、神が世界を裁くとき、神は多数派の行為に従って判決を下すからである。

さて、アダムが禁断の木を食べて罪を犯したとき、彼はその木を全世界の死の源にしました。

彼はまた、から引き離すことによって不完全さを引き起こしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天界の秘儀 Arcana Coelestina は1745年にスエデンボルグSwedenborg57歳の時に霊眼が開かれて書かれたものです。

善悪の樹に関わるところをグレーのマーカーにしました。

 

スウェデンボルグは天と霊を対比させ、天は聖なるもの、霊は形を優先させるものとして解釈しています。

 

天と霊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天使

意志

認識

行動

実践

叡智

全体

意識

深層意識

生命の樹

融解

霊体

理解

信仰

真理

思考

知識

理性

部分

感覚

科学・表層

善悪の樹

記憶・計画

良心

真よりも善、真理よりも認識のほうが神に近いことに注意する。

真理は善悪に分別されるが、善や深層意識の認識は分別される以前のもので、一体化したものである。

 

3段階の視点

 

視点

主の呼び名

人間

地の呼称

善悪

争闘

死の過程

生きる目的

天的人間

エホバ

内なる人

土地と畑

善のみ

静謐

復活

愛から行動

霊的人間

エロヒム

外なる人

地・大地

両方ある

勝利

再生中

愛を認める

永遠の生命

死者

エロヒム

身体のみ

気づかない

敗北

 

 

 

 

創世記2

9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

シンボル

見て美しい

食べるによい

生命の木

善悪を知る木

庭園の真ん中

意味

真理

認識

記憶知scientifica

内なる人の意志

 

この9節の文脈では、木が(深層意識を含めた)認識を意味するのは、天的な人について語っているからです。

霊的な人にとっては、木の意味は良心(表層意識)である。

死んだ者にとっての木の意味は知識である。

 

認識(のすべて)とは何か?

天使にとっては、主と自分の内から発せられる真と善の内的な感覚のこと。

 

人間の善と意志

人間は自分自身で善を行うことができない。

心と呼ばれる意志は、単にその人の欲心(という回路)があることによって発しているものである。

 

生命の木とは、すべての生命の源泉である主の慈悲が愛として発している。 

 

 

 

17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

 

人は主から発した認識によって知ることは許されているが、自己や世間から知ることは許されていない。

すなわち、感覚と記憶を使って秘儀を探求してはならない。

もし探求すれば、天的なものとつながるルートが破壊されるからである。

感覚と記憶を使って秘儀を探求する欲望は、子孫と教会の堕落の原因になる。

理由は不完全な秘儀から誤謬と生命の悪が発生するからである。

 

善悪の果実を食べると、自分の善悪の感覚を基準にしてしまい、

他からの知識や自分の記憶を基準にして、それらでは理解できない事柄は信じるに値しないと想って生きることになる。

こうなると、天的なモノを感覚するのはラクダが針の穴を通るように不可能である。

たとえば、見えないものは信じない、という座右の銘を持つ者がいる。

それは測れないものを信じることで争いになった経験があったためかも知れない。

見えないものを排除すると、霊的なモノや生命の存在さえも信じなくなる。

このような状態で善悪の実を食べると、見えない対象を試行錯誤して探求して、深層意識に至るまで認識するのではなく、善悪の判断を優先することを標準させると、表面にある相違点にとらわれて、その違いを分別して優劣をつけることを基準にして暮らすことになる。すなわち一体化することを働きとする「生命そのもの」から離れてしまうことになる。

つまり、死に向かってしまうのである。

善悪の回路を作ることで、その誤った回路からアウトプットが決定される。

それは自分で善悪を判断していると本人は想っているが、実際は回路によって、自分自身が支配されてしまうことになる。

 

科学を学ぶことや、学者のように考えることは禁じられていないが、それらの出発点は自分自身ではなく主であることが、死から離れて生命に向かう条件となる。

科学や学者の考え方を使って自分から認識を始めるのは分別、すなわち死にいたり、主から始めるのは一体化、すなわち生命である。

 

 

3

3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

 

庭園の中央とは、最も内なるものを意味している。

触ってはいけないとは、自分自身、すなわち感覚と科学知から善と真理を考えることを禁じることを意味する。

すなわち、触るとは、知識を感覚と科学知から学ぶことで、天から霊、霊から物へと沈むことを意味する。

死なないためであるとは、具象化することで理解・知恵・理智が虚しくなることを意味する。

 

 

 

天使たちは主から善と真を愛を通して認識するので、合理性や理屈ではなく、すぐに、そしてすでに知っている。

 

ただそうである、ただそうではない、とのみ言いなさい。そうでないものは凡て悪から来ている。

マタイ伝5.37

 

これが、知識の木の果実に触れることを許さなかった理由である。

 

 

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。

 

「目が開け、神のように善悪を知る者となる」とは、人間が自分自身の感覚と知識から真理を知り、それから善悪の判断をするようになることを意味する。

へびは神のように善悪を知る者といったが、実際には神ではなく人間としての善悪である。

 

このような誤謬をするのは、

自己愛が優勢になった結果、人間は自分自身を導いて、主のようになることができると考え始めた。

なぜなら自己を求める愛は主の導きに従うことを欲せず、自分自身から導かれることを好み、感覚と記憶知に原因を求める性質になったからである。

 

人間は自分の目は開いており、人間は神のように何が善と悪を知る、と考える者が最も盲目である。

永遠の生命や霊のことさえ知ることはない。

自分自身と自然とその原理のみを信じているからである。

主や良心は想像の産物である幻想であり、無知な者を支配するのに役立つものだと考える。

これが蛇の正体である。

 

主のみが天的な人である。

換言すると、天的な生命を体感していないものは天(深層意識の全体性)を認識できないので善悪の判断は誤謬である。

 

 

 

洪水の前後と善悪の樹

29節では生命の木、33節では善悪の知識の木について記述されている。

「善から真理を知り、すなわち、愛から信仰を知った」前世代が

「真理から善を知り、信仰から愛を知った」次世代に変わったからである。

 

洪水前は人間も生命の木を中心にしたが、洪水後は人間だけは知識の木を中心にした。

しかし、天使たちの中心は以前からの生命の木のままである。

対して、霊たちの中心は知識の木である。

その霊たちの信仰(知識・真理・理解)は天使たちにとっては聞くに堪えることはできないものである。

 

また、洪水後の人は洪水以前の人とは全く異なっている。

つまり現在の人間は天的な人、霊的な人、そこから生まれてくる人間の心と生命の特質、死後の状態が何であるかを知らない。

なぜならば、洪水以後から現在に至るまで人間は天的な種をもたず、霊的な種のみを持ち、愛がないので善の意志もないからである。

しかし、真理の理解は可能性があり、、それは真理に関わる善の知識を基準にした良心を主から徐々に注ぎ込まれることによって行われる、と考えた。

 

最古代教会の子孫

1番目 天的な人間   洪水前     善から真理を得る

2番目 霊的な人間   洪水後     真理から善を得る      意志よりも理解を優先させる

3番目 感覚と科学を基準にする人間   無垢を保持する

4番目 自己愛にたぶらかされる人間   善悪の木の実を食べる     恥辱を感じる

5番目 現代  恥辱感も失ってしまった人間

 

 

 

人間

基準

恥辱

 

洪水

天的

全体性

ない

善から真理を得る

天的

霊的

感じる

真理から善を得る

霊的

感覚的

感覚信号

感じる

感覚と測定できるものを基準にする

自然的

自己愛的

自己愛

感じる

善悪の木の実を食べ続けて暮らす

自己的

現代

 

失う

自然的善も失なう。

求めない

 

天的な人は、視覚を手段として外をみるが、そのシンボライズされている元である天界をも同時に見ている。

天的な人は、身体の感覚的なものは内なる人に従う性質があったので、それ以上に感覚的なものを顧慮しなかった。

しかし、感覚的な人は視覚を使って見たものを基準にすることで心は対象に愛着を持ち、次に天界を考えた。

そして自己愛的な人は感覚を内なる人よりも優先させ、感覚的イメージは分離して形となり、それを基準として生きることで罪に定められた。

 

 

 

 

 

 

コラム

葡萄の樹   第三バルク書

西暦200年頃にギリシア語で編纂された聖書外典である第三バルク書には、「アダムを惑わせた樹(=知恵の樹)は葡萄の樹である」と書かれている。これは天使サマエルが植えたものであり、人類の堕落と破滅と悪の原因である、サマエルと葡萄の樹は神に呪われたが、葡萄の蔓は大洪水を生き残り、神の許しを得て、ノアによって植えられた。

そこで神は天使サラサエル(サリエル)をおつかわしになり、彼(ノア)に云った。

「起て、ノアよ、その蔓を植えよ、主が次のように言われるゆえに。

『この苦さは甘さに変えられるであろう、これ(葡萄の樹、以下同)の呪いは祝福になるであろう、これから生じるものは神の血となるであろう、そしてこれによって人間どもの種族が罰を受けたごとく、今度はイエス・キリストのおかげで、これによって復活と、楽園への入場を授かることになろう』」。

 

 

バナナの実

ダン・コッペル著「バナナの世界史」によると、古代のインド以西の中東地域においてはバナナはイチジクと呼ばれ、マケドニア人のアレクサンドロス3世はインド遠征でバナナを見たとき、これをイチジクと記したとされる。また、アラビア語で書かれたコーランに出てくる楽園の禁断の果実「talh」はバナナと考えられており、ヘブライ語聖書では禁断の果実は「エバのイチジク」と書かれているとされる。このことから、実は創世記に出てくる知恵の樹の実は、通説のイチジクではなくバナナであったとする仮説がある。

 

 

 

 

 

 

 

ヒンドゥー教の裸の恥から離脱する逸話

アダムとイヴは裸で、想いに関しては純粋無垢でしたが、知恵の木の実を食べてしまい、良し悪しの価値判断などの「想い」が働き始めてしまいました。

そこで途端に自分たちの裸の姿が恥ずかしくなったわけですね。

 

そこで天界にいられなくなって、地上に落とされるわけです。

 

 

ヴァイクンタの話にも同じような話があります。

 

あるとき、4人の聖者が、幼児のような姿で、裸でヴィシュヌの住むヴァイクンタに向かっていました。

ヴァイクンタVaikuṇṭha は、Vishnulokaとも呼ばれ、 Vishnuの住居です。

二人の門番は、裸の姿で入ろうとした4人を、失礼千万、入門の資格無しとして、鉾で行く手を阻みました。

 

ところが、4人の聖者は言いました。

「この天界に住む人々は、ヴィシュヌ神と他のものとの差異を認めない。

たとえばそれは、小さな空き瓶の中の空気と、大空の空気が全く同じで差異がないようなものだ。

しかし、君ら門番二人は、我々の姿が裸だからといって、ヴィシュヌ神にふさわしくないものだと、(想いの価値判断を働かせて)差異をつけた。君らこそこの天界にふさわしくないものだ。」

 

そうしてこの二人の門番は、地上に追放されることになりました。

 

仏教でも、人間の究極の目指すところは、この良し悪しの価値判断を越えるところにあります。

想い(蛇に象徴されるエゴ)があるうちは、良し悪しの価値判断が働きます。

良し悪しの価値判断 想い(思考・エゴ)です。

想いをすべて預けきったら何にも依らない幸福感に満たされます。

もはや外面的な良し悪しの条件に、幸福が左右されなくなります。

そうするとそこで、輪廻も止んで、執着の想いの世界に戻らず、もはや生まれ変わることもなくなります。

 

ヴァイクンタVaikuṇṭha は、Vishnulokaとも呼ばれ、 Vishnuの住居です。

ヴァイクンタは、彼だけが主宰する住居であり、常に彼の女性的なパートナー、配偶者、女神ラクシュミが同行しています。ラマヌジャによれば、パラマ・パダムまたはニティア・ビブティは永遠の天国であり、神の住まいである神の不滅の世界です。それはすべての世界を超えた最高の州であり、それを超えたものは他にありません。それは双子の神、ジャヤとビジャヤ(ヴィシュヌの領域の守護者)によって守られています。

ヴァイクンタの惑星は、香りのよい甘い香りの果物や花を育てる黄金の宮殿やぶら下がっている庭園でいっぱいです。

宇宙論の1つのバージョンは、ヴィシュヌの目が彼が宇宙を見ている南天の極にあると述べています。

 

ヴァイクンタとその特徴は、ヴィシュヌ派の崇拝されたテキストであるバーガヴァタプラーナに記述されています。このテキストの構成日は、おそらく西暦8世紀から10世紀の間ですが、早ければ6世紀になる可能性があります。

 

 

 

現在の戦争

現在のことで例えると、各自の立場が明快になるとともに、そこに偏りができるので、また批判を含めていろいろと教えていただければ幸いです。

 

殺す方が悪、殺される方が善、と後からレッテルを貼って判断するのは容易です。

しかし、フィンランドやスウェーデンでさえも中立という智慧の中でバランスを80年間保っていた(過去形)のに、この地形学的・歴史的に周辺国に多くの被害を与えてきた状況の中で、NATOに受け入れる状況を故意に作った人たち、そしてそれを宣言することで、人々が死んでいる現実がこの朝も継続していることを、死者そして死にゆく者たちはどのように思うのでしょうか。

識者であれば、戦争が起こるのは明らかなのに、EUやブタペスト合意ではなくNATOに早急に加入する宣言する必要があったのでしょか?

宣言する人権の自由は個々にありますが、それほどまでに価値のある宣言なのでしょうか?

これまでにもいくつかの国が外側だけでも中立を装うという知恵の選択肢を取らせなかったのは誰、そしてなぜなのでしょうか?

ウクライナがこれまでに東ヨーロッパや中近東やアジアに対してやってきたことは回顧したりはしないのでしょうか?

そして、もっと時間をかけて、各民族が作り上げてしまっている自動反応回路を緩和させるために、どれほどの努力をしたのでしょうか?

また、戦場の外側で暮らしながら、固定化された善悪の基準を使って、戦費や戦具や戦闘意識や戦闘魂(回路)を現場に投げ込み、死者を増やしている本人たちはどのような責任をとるというのでしょうか?

駐ウクライナ元日本大使や慶應義塾教授のある専門家は早急にNATOに参加することを美しく激励していますが、理性的な意識の高い人たちにはどのような休戦の案があるのでしょうか?

戦争には独立、支配、自由、自主などいろいろな立場があるので、私の例えに違和感を抱く方々は多くいらっしゃいます。

しかし、ウクライナのEU参加、NATO中立という立場は現在では両国が受け入れない状況ですが、これが私の想う和平案の叩き台ですが、また他のアイディアがあればご教示ください。