コペルニクスが正しいと思ってしまう罠
なぜキリスト教会の天動説が間違えで、コペルニクスたちの地動説が正しいと思うようになってしまったのかというと、
第一に、スポットライトを太陽系(特に太陽と火星と金星)だけに当ててしまっていたこと、
第二に、矛盾をみつけた時に抽象度を一つ上げることで論理を再構成することで矛盾を解消できた場合に、前者が間違えで後者が正解であると判断してしまう大脳皮質のクセを優先する時代に入ったこと。
意識体はこのような大脳皮質の機能により判断基準を固定化してしまう思考パターンをしたがるクセがある。
この意識を軸に社会を構成している時空では、抽象度の高い方が正しく低い方が間違えとして判断する傾向が増大する。
社会人(単純化された規則を基準にして世界を見たがる人たち)が常に過剰一般化をすることを常識としている時空では、この正誤の判断が日常生活に染み込んでいる。
ありのままの姿とは抽象度によって表現できるものではなく、TPOの組み合わせ(原因、条件、法則、結果)によって常に変化し続けるので、パターン認識は通用しないので、それぞれに対応するしかない。
第三に、カミがこの世界を造り、そのシステムを理解している教会が民衆たちを指導しているという思考パターンを教育(洗脳)してきたことで、教会は優位性を築き上げて利権を維持し、これに反するものを排除してきた教会史があるので、民衆はこれに気づき、反発できる具体的事例を求めていた。
当時の教会であるカトリックに反発する必要性は、都市に居住する住民の割合が急激に増えたことに起因する。
しかし、16世紀における新興の都市住民の宇宙の創造神話の解釈はカトリックと変わることがなかったため、同じキリスト教内での新派カルト、すなわちプロテスタントの設立が必要となった。
都市住民の価値観を基準にする、宗教の再解釈が地動説が正しく、天動説が誤謬であるという、思考パターンになったのである。
コペルニクス的解釈の弊害
しかし、この思考パターンには2つの弊害がある。
1つ目は視点を自分の肉眼から、理性の眼に移行させて、理性を基準として固定化させてしまう傾向があること
2つ目は、矛盾を解決する法則を見つけると、以前を間違え、以後を正解とする判断基準を固定化させてしまう傾向があること、である。
1の結果により、理性を肉体よりも優先させ、理性が肉体を考慮に入れないで独り歩きする傾向が増えた。
コペルニクスの視点とは、観察者が地球上にいるのではなく、まるで太陽系の星を見渡すことができる静止人工衛星からの見渡しているかのようである。
しかし、事実をよく見てみると、そのような場所には生命体が生きることができない位置である。(宇宙船に乗船していないのであれば)
そこの視点に立てるのは機械だけであり、もしくは妄想の中にいる偽疑似化されたカミである。
この視点に立って、倫理観を唱えるようになってから、見た目はキレイだが対象の内情に寄り添うことのない冷徹な理性と論理と正義が威張り始め、体のつながりから形を優先する道徳に移行していった。
人々の認識は脳機能を中心にしたものに移行したことで、これまでの循環器系器官の感覚や消化器系器官の感覚を弱めることで、全体性に対する親和性が低下した。
つまりハート(紫式部の「やまとごころ」)で感じたり、肝に銘じたり、腹に響いたり、腑に落ちたり、する体感の割合が減ったということである。
一言でいうと、腸内微生物に対する愛着や感謝が薄くなり、理性の限界を理解していない人々が増加した。
2の結果により、人工衛星からの視点を固定化する時空が増えることで、複数の中心点を持つ動的解釈をする機会が減少した。
人工衛星の視点で一つの一時的な正しさを瞬間的に語るのはいいのだが、その視点を他の視点までにも適用しようとする過剰一般化の病いが蔓延しています。
各視点から見れば、どの視点にも、そこから見えるあるがままの姿がある、という事実があるのみです。
天動説を否定したからといって、地動説が正しいわけではありません。
たとえば、地球を中心軸にして太陽系は廻ってはいませんが、
地球の自転を基準にすれば、地球上にいる私の周りを太陽が廻っている、とは言うことはできます。
地球が自転している限りは、地球軸を中心に星々を観測するので、天動説とは「地球の自転を視点にしている観測」と同じことを別の表現を使って表しているにすぎません。
しかし天動説を否定し、地動説を主張する人々の中には、偽のカミ(人工衛星)の視点に身も心も依存してしまって、地動説という1つの正しさを他者に強要することでその他者を踏みにじっていることに気が付かない人もいます。
このように、どの視点にたって世界(対象)を観測することや、
スポットライトを当てる範囲を変えることや、
どこまで対象の構成要素を微細にすることによって、
以前の法則が、以後の法則によって矛盾が解消された場合には、以前を誤謬、以後を正解と単純に判断する思考パターンをもつ傾向が増加した。
以前の法則の中にある真理性までも否定するのは、正誤で二分することで物事を判断することを基盤にした世界の住人の特徴である。
たとえば天動説が間違っていて、地上説が正しいと判断してしまうように。