大脳から見た相反する2つの立場と解釈
新しいことを理解する時に2つのアプローチがあります。
大脳皮質をメインに使うアプローチと、サブに、もしくは使わないアプローチです。
大脳皮質をメインに使うアプローチとは対象を分析してそこに一般性(法則性)を見つけて整理しては納得するのに対して、サブで使うアプローチは、初めて自転車に乗る時のことが例になります。
「頭で考えるよりも体で覚えろ」と言われるように、実際には大脳皮質よりも五感器官からの信号を小脳でパターン化して記憶し、それを試行錯誤することでいろいろなケースでの限界を探り、変化し続ける状況に合わせて適応し応用することで、自転車が乗れるるようになります。
また、大脳皮質を使わないアプローチとは、たとえば植物のように神経管を持たない生物が外部の変化を大脳以外の器官で察知して反応するものです。
植物や微生物は性能の良い神経管(二進法をエンジンとするコンピューター)がないので、全体を2つに分けてもそれで分析してアウトプットを計算する方法は使えませんが立派にサバイバルしています。
例えば、視覚を持たないヒマワリが太陽に花を向けているように。
ヒトを含めて生物は五感器官では感知できない磁気、電波、重力などその他のエネルギーを循環器系器官の血液の流れや呼吸や、消化器系器官の消火や嘔吐や下痢や、細胞の波動や他の手段で受信して、それに対応することで生きています。
瞬間瞬間の変化に対して、休みなく忠実に反応しているだけです。
このような対応を体感と呼ぶとしたら、大脳皮質をメインに使うアプローチのことは認識プロセスと呼ぶのがいいのでしょうか?
新しいことや新しい概念を経験する時に必要なことは、まずはどのような刺激(信号)があって、それにこの自分の体の枠組はどのような対応をしているのかをありのままに忠実に感じていることです。
五感覚器官や他の器官や細胞からのデータが基礎になり、それが何を意味するものなのかを把握します。
また、五感覚器官と頭に浮かんでくる想いの信号を制御することで、より微細な信号があることに気付くことができる人もいます。
微細な信号とは何か?と問われることがあるのですが、経典ではbhūtaと呼ばれる素粒子よりも小さいものです。
たとえば蝉しぐれの音に対して、沈黙のしぐれの音がありますが、これはまだ微細な信号ではありません。
bhūtaが集まると4元素になりますが、これを感じることもできるようになる人もいます。
たとえば、体の触感を介して、「地の元素」はチクチクしている、というように。
ところがこれらの信号の変化を体感をしないで大脳皮質だけを使うアプローチがしていることは、神経管(脳)による分析と統合による「理解」であって、過去の体験を素材にして、それらに微調整(他の要因と条件)を加えて焼き直しをしたものでしかなく、それは一つも新しい体験ではなく、既知のイメージのハリボテでしかありません。
このように大脳皮質をメインに使うアプローチと他の細胞の波動によるアプローチでは「思考と行動」、「理論と実践」、「学問と実用」、「一般化と非一般化」とお互いに方向性や対象の構成要素が違うアプローチとなります。