デモクラシー 塀の中の正義
民主主義の語源はギリシャ語のdImokratLa (dImo-人々+-kratia政治=民衆の政治)です。
この民衆とは塀で囲まれた都市国家に暮らす人々のことで、塀の外に住む人々はこの民衆には入っていません。
民主主義における自由や平等や公平といっても、それは塀の外から原料や奴隷や収穫物を収奪して、それを塀の中で話し合って分配しようというのがコンセプトです。
ですから、常に塀の外から補給することを前提にした思想なので、塀の範囲が広がって奴隷や略奪物やエネルギー源がいなくなれば、いかに分配するかではなく、デモクラシーとは自分たちの分け前をいかに手に入れるかという言い訳の道具に成り果ててしまう歴史を人は繰り返しています。
古代ギリシャ
デモクラティア 人民の権力
壁の外の奴隷や収奪品を壁の内側の人間で分ける
政治 壁の内の人たちで方針を決める 評議会のメンバーは抽選で選ぶ
アテネ市民の義務は戦争が起こったときは武装して戦士になること
アンチ・デモクラシー プラトン アリストテレス
デモクラシーとは衆愚政治のこと
民主政治とは貧乏人の政治だ
庶民とは貧乏人 貧乏人は目先の損得に基づいて価値判断をするため、長期での価値観がない
ソクラテスの裁判の陪審を務めたのも庶民
貧しい平民の圧倒的な支持によってカエサルが独裁権力を握り、共和制が終わってしまった古代ローマ
ロック
国家権力は必ず肥大化して暴走するので、それをくい止めるのが民主主義。
ヨーロッパは始めて、民主主義の哲学を持った。
綺麗事の法則を内側に作った。 人民に奉仕する政府 自然人、 自然状態
具体的には「抵抗権」と「革命権」 国家の暴走にはひとりひとりは抵抗できる。
国家を作ったのは人民なのだから、人民にはそれをひっくり返す権利がある。 革命の理論的根拠
イギリスではマグナ・カルタ以来、国王が法を無視した場合は反乱を起こしても良いとされているが、この抵抗権が行使されたのはピューリタン革命と名誉革命だけ。後は慣習を重んじることが集団の中で不文律で成り立っていた。
働きつづけることが自然状態 その調和を乱すのが怠け者である貧乏人。彼らが嫉妬、泥棒、殺人を犯す。
トラブルを解決するためには、争いを仲裁する権威が必要。そこでみんなが集まって契約を結び、国家をつくることになった。 政治システムとはトラブルの調整役で、目的は契約者の生命と私有財産を守ること。
だから国家は作られた。
ホッブスのように「権力は強くなくてはならない」とは考えない。権力が強くなると人民を無視するようになる。
国家とは人民にサービスするもの。
人民の、人民による、人民のための政治 ロックの民主主義の思想をリンカーンが表現
ホッブス
自然状態は原始時代に生きる原始人 自分の身を守るのが最優先。 生存競争。弱肉強食。
最大の関心事は食べ物の確保。
理性 事実関係をみて、未来を予測する予見能力 未来の利益まで考えるので、欲望は無限に膨らむ
絶え間無い競争 homo homni lupus 人間は人間に対して狼である
勝者が決まらないので、たたかいがつづき、孤独、貧困、不快、殺伐そして短命という人生を送ることになる
闘争を辞めるのはルールを決めて仲良く暮らすこと。そのためにはルール破りを取り締まる「力」が必要。
国家権力の方が自然状態よりはまし。 国家権力は必要悪。
富は有限 ロックは労働により無限に増やすことができる
社会契約を交わして、国家を作るという点では両者一緒
ホッブスは社会契約は役に立たない、守らず無視するに違いないから。だから無理やりにでも秩序を押し付ける「力」がなければならない。
ロックは契約は守られると考える。人間は動物と違って分別を持っていると考えるのがロック。
近代民主主義
契約を守る 約束を守る 契約を破る恐怖
ディズレーリ 1選挙公約を守る 2他人の公約を盗まない 3議会における論争によってすべてを決する
契約と約束の違い
契約は言葉でありマニフェスト 言葉によって明確に定義されるもの 考えられる限りの特例に対する処置
約束は義理堅さ 悪いようにはしない 黙って俺を信じてくれ
18、19世紀のデモクラシー
悪い政治や最悪の政治の代名詞 拒否反応があった
例
テロの言葉を浸透させたロベスピエールは3万人を粛清したが、その理由は「民主主義の敵」を抹殺すること。
金持ちの土地を没収して、持たざる人たちに無償分配しなければならない。 18世紀後半 1780年代
マルクスは「共産党宣言(1848年)」の中に「労働者の革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級まで高めることと、民主主義を闘いとることである。
アメリカ独立の時もデモクラットとはイメージが悪いので誰も呼ばず自らのことをリパブリカンと呼んでいた。
Cf.北軍の「リパブリック賛歌」
Latin rêspública : rês, thing + pública, feminine of públicus, of the people あらゆる階級の人の集合体のグループ
20世紀のデモクラシー
良い(怖くないイメージ)意味を持ち市民権を得たのはこの100年ぐらいのこと
1917年2月ウイルソン大統領「世界を民主主義のために安全にする」
Cf.歴史的に一番初めの良いイメージは、ジェファーソン大統領が自分のことを「デモクラティック・リパブリカン」と呼んだのがはじめだとされる
1828年に「デモクラット・パーティー」がアメリカで生まれた。
平等
機会の平等 神から見た平等 財産、権力、知能、資質、家柄の違いはあるが、法の前では平等
結果の平等 人間から見た平等 経済的な平等 共産主義 理性中心主義者
主権
一人 豪族 庶民
僭主 貴族 平民
独裁 軍閥 市民
大統領 多国籍 ・・・
民主主義の弱点は独裁者の温床 大衆が英雄を求めるときに起こる悲劇 大衆の熱狂的な一時的な支持
ソクラテスの毒杯
カエサルの誕生
ナポレオンの誕生
ナポレオン3世の誕生
ブーランジェ将軍事件
ヒットラーの誕生
ムッソリーニの誕生
政治がうまくいかない時に選ばれて、決断と修正が早いので、好景気になる
議員の8分の一を掴めばトップになれる 田中角栄
2 与党と野党
4 与党の中の第一政党
8 第一政党の主流派
民主主義の弱点を学ぶにはカエサルとナポレオンとヒットラー語録を研究すること。
なぜならば彼らはそれによって政権をとったから。
言語の統一と弾圧
国家間の紛争をなくすために言語を統一するのが有効 竹田青嗣 分かりやすのが良い 架け橋
世界の多様性を確保するためには価値観の異なる者同士の軋轢はやむを得ず生じる。この互いに価値観の違いを認めるのが多元主義である。理想社会を追求する時に、理想に沿わないものを弾圧・排除する。
塀の中の正義
塀の中で、みんなをまとめるために必要とした言葉は、安全、安定、平和、神の意思、恩寵、繁栄、正義だ。 これらは塀を必要としていくために生み出された思想なのかそれとも誰もが求めるものか。人権、民主主義、平等、博愛、利益が大衆の中で語られるようになるまでにはまだもう少し時間がかかる。
たしかにこれらのことは紀元前のギリシャで議論があった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスを始め多くの哲学者たちの楽しい議論があり、そのひとつがDemocracyデモクラシーだった。日本語で訳すと民主主義と訳されるが、これは象形文字が生み出す魔力と中国の政治的実情と漢字一文字ずつのもつ意味の力で大きく定義が異なってしまうので、ここではDemocracyデモクラシーとする。
ではデモクラシーとはなんぞよ?!
アジア人口が地球人口の半分になってしまったので、欧米ではいまさらデモクラシーや多数決ははやらず、自由主義という自分だけのご都合主義についてもったいぶって語る時代だが、その前に少しお付き合いを。
聞いておきながらなんですが、先に答えを言っちゃいます。多くの学者や政治家がいままでずっと語って本を書いてきたが、今日でもなお確立したDemocracy民主主義概念は存在していない。そして、研究者もこれからも存在しないと認めざるを得ない、なぜならこれからも各自がそれぞれの定義やアイディアを生み出していくので。
ここでは意味も考えてみるが、注目するのはこの考え方が話されている場所だ。そう塀の中、それも不労所得階級の中での話である。
Democracyデモクラシーは古代ギリシア語 demokratia「人民の権力」を語源とし、集団を統治する時に、政治を行うのは、一人か、賢者の集団か、もしくは人民が良いか?という考えの中で、出てきた考え方だ。
古代ギリシャのDemocracyの状況は、参政権をもった市民全員が参加すること,公務は抽選で全員が負担すること,および共同体防衛の義務を全員が負うことであった。常設の官僚組織は存在しなかった。武装人民の都市国家であった。
しかし、この民主制への評価は、平等でもっとも正義にかなうものとする肯定的立場と、反対に、民衆の欲望の解放、個の欲望を実行するための大義名分、利権者に成り代わるための錦の御旗、さらにその民衆の扇動者、すなわち僭主の支配をもたらすとする否定的立場とが最初から対立していた。古代から18世紀まではそれほど評価されない考え方であったので、19世紀になっても、デモクラシーは大地主、貴族、後の資本家に対して民衆の戦いのシンボルとして使われ、共同体ではまだ否定的な意味で使われてた。あそこの息子はデモクラちゃって、仕事もちゃんとできないし、親御さんがかわいそうだわ、なんて感じで。
民主主義は、あらゆる政治権力者が自己の地位と政策の正当化を訴えるシンボルへと大転換し、今や幻想対象となった。しかし、これは皆に選挙権が与えられたつい最近のできこと。 世界の多くの国では第一次大戦後のことです。
ヨーロッパでも成年女子が普通選挙権を得たのは20世紀に入ってからだ。 スイスの全女性に選挙権が認められたのは1993年です。
そしていまでは、民衆に強制的(選挙に行かないと法律違反というところも多い)に投票させて、「お前たちが選んだから、お前たちの意思にのっとって、お前たちから金や権利を奪ってやるんだから感謝しろ」、という輩も出る始末になってしまった。
唐突だが、わっちが思うに、指導者になりたいものどうしで投票して上位10名がジャンケンをして勝った者が政権を担い、お試し期間を経て、その後に問題を起こしたら、民衆が腐った卵をぶつけて、次の希望者にやってもらう、というのがよろしい。
15世紀からヨーロッパは世界からの略奪と作業の効率化により、ヨーロッパの塀の中の生活は驚くほど豊かになり、パンのために生きなくてもよい人々が急激に増えた。アートや音楽やダンスや文学や収集やゴシップや内省化や快楽セックスやファッションや知識などなどです。
そう塀の中に住む人々が動き始めした。
この流れを読み取った略奪者のボスたちは、彼らを満足させる、形を、理論を、衣を着せるのが、強制的に奴隷たちに首枷をするよりも良い方法だと気がつきました。頭いいです。
この時に民衆の勢いが怖くなって作ったのが、三権分立です。民衆がいくら立法しても、勝手に解釈して行政すればいいし、そこで文句を言ってくれば、書き言葉である権力執行側の洗練させた法律用語を使うことによって、裁判所が押さえられるからです。書き言葉や教育を信じている人をだます手としては頭いいです。
そして共和主義なんて、単語を使って、寡頭政治をよくいえば賢人たちの政治をすすめました。
タウンシップと呼ばれる小行政単位で,直接民主制的色彩の濃い自治(タウン・ミーティング)が行われたようだけど、もちろん利権を持つ者や地主が中心です。考えてください、使われている人はそんなミーティングにしょっちゅう顔を出せません。
T.ペインが、『人間の権利』(1791)の中で,アメリカの代表制こそ、アテナイの民主主義を大規模社会で、しかもより完全に実現させた、まさに共和主義の真髄である、と手放しに賞賛していましたが、そりゃあ、実際の社会状況は先住民を殺し追い払い土地を奪い、後から移民をこき使い、アフリカから人を奴隷として輸入しているのだから、どんな理想社会でもできるでしょう。塀の中で暮らす人のとってのデモクラです。
1830年代以後アメリカでは,Democracyをアメリカ国民文化を象徴する理念にまで高めようと試みた。
Democracyが持つ幻想力で民衆をまとめちゃおうとしたんです。さすが力技が好きで、何か理念に頼っていなければ不安に怯えてしまう国民性です。
第1次大戦への参戦にあたって大統領ウィルソンが、1917年4月、参戦要請の教書の中で、世界に先駆けてこの戦争を〈民主主義のための戦い〉と規定しちゃっています。ちなみに黒人の参政権は1967年(完全実施は1971年)なので参戦時から50年間は選挙権なし、相変わらずの塀の外があっての民主主義です。
Rf. フランス革命を1789年とすると成年男子普通選挙制が実現したのは,1848なので50余年かかっている。先に理念というかスローガンというかはったりの錦の御旗を掲げ、領主や王などから利権を奪い取った後に、50年かけて洗脳させた民衆と民主主義の形を作る、輩がいます、さて誰でしょう?頭いいですが小賢しく卑小な奴らです。
こんな塀があっての民主主義なのに、どうやってこれを民衆みんなの理念にまでに思わせてしまう詐欺手法を使ったのか?素晴らしい技です、アートです。
南北戦争によって社会原理としては破綻したピューリタニズムの超越主義者(トランセンデンタリズム)をうまく利用して、自由,平等,自治などに加えて,真の人格の発展,絶対的良心,愛のある同僚精神などの人工調味料を加えた「理想主義的民主主義概念」を、新しい統一アメリカの理念にしようとした。マーケティングは彼らの得意技法です。この理念の担い手は、中産階級,勤労階級、新しい移民集団、および参政権のなかった女性や黒人です。
グローバリゼーションを国際協力や愛や公正や人権や正義でごまかしちゃおうみたいなもんですかね。ターゲットは未来を目指す、右肩上がりを希望する、罪がいまだ少なき人を、個の欲の力と牧歌的楽観主義を利用して、問題から目をそむけるために、新たな夢を見せ、罪の意識をなくさせることでした。
プロテスタントの一部は、神に仕えれば、神に愛され、それによって精神が魂が心が豊かになる、そうすれば、もちろん経済的にもモノや金が増えるのは当たり前、なんたって、神から愛されてるんですから、みたいな。
もう一度、ちらっと歴史を見直します。
革命家たちが師匠としたルソー自身は、民主主義を、ただ主権の執行機関としての政府の一形態としてのみ考えたばかりでなく、主権は代表されえないとして代議制を信じず、しかも伝統的想像力の中にとどまって、住民の自治を中核とした平等な理想共同体は農民的小国家以外には不可能と考えていた。まさに幻想の力をadvertiseとして利用した。[語源]
ad-(…に、の方に)+L.vertere(回る、向く)
= …に人々の注意を向ける。
民主主義概念の歴史にとっても1848年は重要な年であった。それまで民主主義は地主支配層に対するブルジョアジーまたは中産階級の戦いの言葉であり、しかも必ずしも多用された言葉ではなかった。 すでに1830年から、新しい支配層としての中産階級の合言葉は自由または自由主義であった。そしてこの変化に対応して、以後民主主義という言葉は、中産階級に対する,より下層の職人や労働者の戦闘性のシンボルとなっていった。
この変化は,早くも1830年代末に,イギリス労働者の最初の自己解放運動であるチャーチスト運動の中に民主主義を名のる団体が現れたこと,二月革命の最中にフランスで,より人民的な民主主義という意味で〈社会民主主義〉という言葉が用いられはじめたこと,同じ1848年のドイツ革命でも各地に民主主義を称する団体が生まれたことなどの中に現れている。マルクスが《共産党宣言》(1848)の中で,〈労働者革命の第一歩は民主主義を戦いとることである〉と述べたのもその一つであった。
16世紀以降(実感としては18世紀以降)の塀の外に住むヨーロッパの農民が果たしてここでいう塀の外の実状を生きているのかといえば、そうとは言えません。
ヨーロッパの外部から奪ってきた金銀宝物を奪ってきた城内の市民たちの過剰金が城外でもまわっていたからで、一言で言うと楽な生活ができたからです。
武器と船と宗教を利用して、欧州の外部から搾取することでヨーロッパ全体を覆う、大きいのに見えない塀を持ったのです。ヨーロッパの外と中をはっきりと分けました。そして今度は中に見える市壁をつくり、市民という生産階級をメイドとしておき、次にその中にさらに城壁をつくり、芸術家や音楽家や劇団や女や男を囲いました。
こんな時代を生きた者が、こりゃあ、あかん、市壁を壊せ、農民と市民と貴族に差が在ってたまるか、と革命をおこし、自由、博愛、平等を旗印にしました。ですが、もちろん自分たちの利害が及ぶ、欧州幻想共同体の壁は壊すことなく、見えない壁の外のイスラムやアフリカやアジアはしっかりと区分して、今でもまだ金を奪って生きています。
自由も平等も壁の中での話です、彼らにとっては当たり前なのです。だって壁の向こう側は認めない人間の集団だから。優しいふりはしますが、自分たちの壁は決して壊さず、そしてエンクロージャーで自然の領域に塀を作ったように、外国に行っては、「可哀そうに壁を作ってあげる」とまた搾取を始める始末です。
現在でも外部の人間が中に遊びに来てお金を消費したり、塀の中の人がしたくない仕事の労働力としては認めるが、彼らが長期に暮らすことは拒否します。現代のヨーロッパの都会人はヨーロッパ共同体という塀の中の都会という塀で暮らし、その中のセレブという塀で暮らしている成功者と呼ばれる者と自分自身を比較して卑下したり不平を言ったりゴシップを喜んだりして、憧れているのです。
領主や農民たちの利権を横取りしたのに、既存の壁を壊した正しい行為をした評価される人たちが18世紀にヨーロッパには大勢いました、例えば今のロシアやチベットや新疆やアルジェリアを始め中近東の国々のように。彼らがまだ今世紀でも卑劣な悪人ではなく、偉大なる人物として教科書に出てくるのは不思議です。 きっとこんな教育を続けるのは、「無知は幸福である」と自認するお人よしか、これらを表面に出したくない臭い金持ちの集団だと信じたいものです。
そんな中でいろいろとインチキな制度が生み出されました。壁を壊したから私たちは正しいと信じている、青年期の人たちです。その中にStateとNationというのがあります。国と国民の誕生です。
まずは国民がいてそして彼らのために国ができた、という詐欺です。
また私有地の制度が確立され、自分が宣言して紙に書いて、それを裏で手を打って結びついている国に提出したら個人のものになるというとんでもない泥棒技です。これで多くの共有地や領主地が私有地になっていきました。