導師と学者のアプローチ 「ありのまま」と統合
人のタイプで喩えると、導師と学者とでは世界に接し方(アプローチ)に違いがあります。
この二人は持っているアプローチの仕方が違うので、これを混同しないで特徴や特有の機能を見ることで、ヒトの脳機能のメカニズムを具体化してみます。
「導師」という機能 事実に則する 社会(大脳皮質)の法則と宇宙の法則という二重層の事実に対応する
「学者」という機能 わかりやすくまとめる 分析して統合して一般性(法則)を提示する
導師のシンボルである釈尊の教えは「事実に則する」アプローチなので、徹底的に分析して、それをそのまま受け取りますが、
学者のアプローチとはちょうど対照的なもので、「分析を徹底化せずに、すぐに統合する」というものです。
この2つのアプローチは相反するからといって、敵対の関係ではありません。
例えば、人体において神経管系器官は神経管の役割を果たし、循環器系器官はその役割を果たすものでしかないように。
いきなり生物の器官が比喩に使われて戸惑うかもしれませんが、この世には脳や心臓がない生命体も数多くいて、それぞれの器官の働きによって、その生命体の思考や志向や試行や嗜好や指向や指向や至高や施行が決まります。
両者では出来る事と出来ない事とが違うので、TPOによって活躍する場が異なるだけです。
図にすれば、学者の扱う領域の外側に導師が伝える「道」の世界があるので、本来はこの2つはぶつかり合わないはずでした。
というのも学者は自分の範疇の外側には「道」の世界があることを体験で自覚していたので、語れる学問の範疇と語れない範疇を区別していました。
たとえば、論語の「子は怪力乱神を語らず」のように。
ところが、後代には「怪力乱神」の世界を体験していない学者も中にはいて、2つの世界を対立するものとして捉えるようになりました。
「分かりやすい」世界ではテストを行い、結果を数値化してパスすれば次の教えを伝えるという方法をとっています。ある段階までは効率よく安定したシステムのプログラムをAIは組めるが、しかしこのAIの方法には限界があります。
学者の機能は学校や会社でよく学んでいることなので、理解はしやすいですが、導師から何かを学ぶ経験を持つ人は少ないと思うので、いくつかの「道」の特徴を見てみます。
「道」に至る世界には、知識ではなく、体の訓練をする修行による体感が必要になります。
ですから師弟という関係も生まれてきたりします。
なぜならば、ある段階に来ると、求道者(弟子)は彼自身(脳、認識作用、意識、性向、習慣、文化、因縁、因果、トラウマ、族、環境)の事実を見つめ、その限界をちゃんと認識し、意識的行動をやめ、「待つ」ことでしか、進めない領域に突入するからである。
その領域では、「待つ」ことで想定外のことに関わり、そこで行動し、結果からフィードバックした修正を加え、また「待つ」ことを繰り返します。
そのためには個性の違う求道者の必要なことを察して、それを伝える役目の人も必要になります。
推定で話をすると、「待つ」とは、自分の細胞(遺伝子ではなく)の変化を宇宙の法則に委ねている時空なのかもしれません。
道に至る世界には表層と深層があります。
どちらも言葉で表すことができませんが、表層は言葉で表すことにチャレンジはできるが、深層は言葉とはかけ離れた世界のものなので、言語と体感の間を媒介するものがありません。
その深層を優先させると表層の状況を考慮しない勘違いが増えてしまい、表層を優先させるとカタチに固執して深層にたどり着けないこともあるので、各自の自動反応回路アプリケーションと「カルマの種」とgatiと呼ばれる「偏り」に適応したプログラムと順序が必要となります。
大袈裟に言えば、各自が生まれた理由や意義や目的や宿命を数値化して、大脳をベースにした価値観から、循環器や消化器の内臓をベースにした価値観に移行するプロセスを、各自の適性に合わせてたプログラムを組み、なおかつプロセスの道程で、各自の個性やTPOにより現れる特有の問題点に対処する必要があります。
AIがこれをプログラムしようとすると、「混乱の修正」(アプリの上書き)という新しい存在意義の目的がみつかるでしょう。
神経管系器官を利用するとメリットもあるが、同時に弊害が起こるので、その機能を百分の一もしくは千分の一と段々と減少させることで初めて至る体感を提案しているのが釈尊のアプローチです。
日常の大脳の機能では分からない世界なので、本人がその気になるのであれば、まずは提案されたメソッドをそのままやってみて、自分で実感できるものなのかどうか確認するしかありません。
関心がないのであれば近づく必要もないし、試しても実感できないのであれば止めるのがよいでしょう。
何故ならば導師と学者の領域の関係は、導師∋学者の包含となるので、導師の領域は学者の領域を包むように外側にあるので、その領域まで行く必然性がない限りは、学者のアプローチで日常生活は事足りるからです。