城の中のプリンセスへ 副題 後からやってきた野蛮人の末裔たち ―大丈夫、これでいいのだ

 

はじめに

線と音     無地の空間に線を引くこと 時間に音を刻むこと パワーと権力 詩での表現

書きことば   母語、母国語、書き言葉、法律用語 教祖は書き言葉を残さない

場の力     「愛」も場によって意味が変化する

伝える     映像の限界、書の限界、講演会の限界、  ダイアローグ  一子相伝

 

第一章  城の中の論理

塀を作る   怖い外界とユートピアの内界   

        安全、平和、正義

        自由、平等、博愛  

        デモクラシーの誕生 国民の誕生 幻想の誕生

幻想の力  大義名分、スローガン、遅れてきた者 征服の仕方 善の立場

管理できると思う人たち  塀の中の論理  地球史における想定

        人智を超えた世界 論理が通じない世界

        リスクと利益と責任

城中だけだと 無菌化 自分の首を絞める コントロールできないもの

         無菌を目指す文明、雑菌と暮らす文化

            カプセルの暮らし方

第二章  空間と時間と美学

図表

関係性と箴言

人類史と同化

第三章  今の場所  解決法のキーワードは融通無碍、万事流転 

人間の原罪 地球生命体からみた価値観

場所が変われば正義も善悪も変わる

塀を作っては壊して作る、もしくは外に出ては戻る

単層から多層へ 矛盾を友とする

地球からの視点 宇宙でもなく、人間でもなく。

4から5へ

都市の外で暮らす技を学ぶ  

 

目指すところ    共同体と個と都市

空気と水を創る

無料と共有

共有地 小さな共同体 

地産地消

共給共足

家の味 生きてる食事

 

 

はじめに

 

線と音     無地の空間に線を引くこと 音は時間に楔を打ち込む パワーと権力 詩での表現

 

わっちは線を引くのが苦手だ。

白い紙に線を引くのは、実はとんでもない怖いことだから。

今までの全てであり、ゼロでもあった空間に意味を持たせてしまうんだから。

中心を作り出したり、二つに物を分けたり、全体の中での位置を示したりする。

そしてそれは、無限が有限に変わる瞬間であり、この世にロゴスが生まれることであり、泥に息を吹きかける行為であり、その線に命を吹き込むことだから。

 

また、点を打った瞬間に、点とそうでないものを作りあげてしまう。

例えば音もじつはとんでもない瞬間を作っている。 時間に楔を打ち込み、全てでありゼロでもあった沈黙に命を吹き込んでしまうのである。

 

この世の形あるものは素粒子から星雲に至るまでどれもが回り、渦巻き、変化し続けている。 そして形になる前のものは霧のように一時は濃く一体となり、一時は淡く広がり蠢いている。そしてヒトはこの世を理解し他とつながるために、このを分断化し、整理して、言葉として使う。言葉は形なきものを形に収める。しかし、これは形の中に固定化させるためではない、そこから広がり、戯れ、舞踊り、溶け、生きるためだ。形あるものをまた形なきものに解き放ち戻す行為だ。収斂させてまた拡散する、この二つが一つになってはじめて言葉となる。

「わっち」「あなた」「昨日」「今」「ここ」「みんな」と、これらの間をつなぐ動きの流れを「梵」(ブラフマン)に向かって融かし放ってみる。

 

形を持つ瞬間は、無と有が接したところで、力が宿り、無は二元化され、逢魔が刻と呼ばれる黄昏に天使と悪魔を産む、特異点だ。 ここでいう無とは対象性も非対称性もすべての矛盾とエネルギーが溢れているやつで、うすっぺらく綺麗な無ではない。量子力学では電子と陽子が次々と泡のように表れ、二つが結びついては消えてゆく真空の世界だ。

そこは論理でも、理性でも、正義でも、悪でも、光でも、闇でも、表現ができない。形ある世界からは矛盾と呼ばれ、二つの世界を行き来する「詩」によってしか表すことができない。

詩と音がはじめて「今」の「リアリティー」のエッセンスを光り輝かせる、そしてわっちの好きな味や憧れの舞や時間をトリップできる香りや溶けるような感触と共に。

                                                                                                                                                        

 

書きことば   母語、母国語、書き言葉、法律用語 教祖は言葉を残さない

 

言葉は音としてはじまった。新生児の泣き声のように、母親のうめきのように、狼の遠吠えのように、木の軋みのように、雲を貫く雷のように、空気を振るわせ、無から有を生み、そして、また、次の瞬間に沈黙の闇の中に消えていく。

すべてものは瞬間瞬間に変化し続け、何一つ、同じ形にとどまるものはない、何も変わらないのはこの世の前と後にある、まだ形のない世界だけである。

 

ところが、その変化するものを形の中に閉じ込めようとしたものがいる。まるで、固定することによって、全てのものは再現ができ、一つの原因が同じ結果に導かれると妄想される科学のように。

生きているものの力を檻に閉じ込め、封じ込めるものである。

力を失ったものは、檻に封じ込まれたものに、利用される。言葉を書き、石や紙の上に釘で打ち留めることによって、解き放つ力を閉じ込め、それを自分の意思のままに利用する者がいるのである。

書き言葉に中立や公正はない、使う人間、読む人間によって、TPO 時間・空間・状況によって変化し、多くの場合、使う人間が隠れた強い意図を持って操るのである。人の計らいごとだ。

 

だから書かれた言葉を信じたりして、利用されてはいけない。たまにはだまされてあげるが、時に利用し、その日の気分の距離感を持って付き合っていこう。

そう、書き言葉に囚われていけない、その瞬間に言葉が死んでしまうから。

 

わっちは遠く離れ愛するもののために書くことを始めた。しかし動機はその人の勝手な都合だ。書かれたものはどれもが宿命を持つ。書くということは心の満ち欠けに誘われ、舞台に立ち、傾(かぶ)くということだ。できれば舞台ではなく、同じ卓を囲みたいものだ。よかったら一緒に呑もう、どぶろくや焼酎を作りながら。

 

書き言葉は教育によって学ぶもので、この人類史の中で書き言葉を使わなかった人々も多い。

アンデスのケチュア、ジャングルに住む森の民、海で生きる舟の民。いや正確に言うと、英語を含めてほとんどの言葉は、苦労して話し言葉を書き言葉に置き直したのものだ。これは後で話をする塀を作る行為というメタファーと同じものだ。

この苦労というものを知らないものに、このエッセイは、そしてわっちは、塀の中に喧嘩を吹っかけ、塀を壊しまた作り上げるか、もしくは塀の外に出て、光影のある世界を歩き、謳い、また塀の中に戻るのもよし、と提案しているのである。

                                                                                                                      

話し言葉は方言と呼ばれ、書き言葉は公的でオフィシャルで規範的で支配構造的だ。世界史の中で話し言葉は、書き言葉を持たない文明の発展途中化の可哀そうな文化と決めつけられ、書き言葉は、話し言葉を叩きのめす快感を隠し、救い助けるなどと戯れごとを並べ、書き言葉の世界の中でしか通用しない博愛精神を旗に掲げ、実利と侵略を正当化していった。

 

書き言葉に魔力を与えた民族がある、中国とヘブライである。

中国は象形文字によって、力を持たせる努力をし、同時にその数を無限に増やすことで力を持たした。そして部屋に閉じこもることでしか、その使い手のマスターになることはできない。書き言葉の表現を増やし、限定することで、権威を保ち、人を支配しようとするのである、まるで法律用語のように。そして言葉を理解する分だけ、思想が拡がると魔法をかける。

ヘブライ語は母音を持たせないことで、形を自由に変えることのできる魔法を与え、言葉を殺さないという建前を取った。

象形文字や他の面白い文字については熟慮したことがない。詳しい人に話を聞きたい。

 

丸太を担ぎながら汗水流している話し言葉は、なぜ、部屋の中で暮らしているだけの書き言葉の価値観を聞かなければならないのか?法国家という妄想を持ち出し、まるでそれが正しい基準のように、人に強制し、裁き、利権を得る。厚顔無恥な訪問販売の押し売り商法である。

たしかに法律の世界も一つの基準としてあるのはいいだろう、部屋の中では。しかしそれは世界の一部でしかない。農民や漁師や自然の中で暮らすものや職人や商人らの毎日を闘う人々にはまた別の価値観がある。彼らの言葉を使っての裁きでなければ、筋力のない書き言葉の生き方は拒否するに限る。もし拒否できないのであれば、改正を求め、それでも無理ならば、無視し、相手が軍隊や警察力などの力を利用してくるのならば、逃避を利用しながら闘うしかない。価値観のごり押しを部屋の中だけに留めるために。

 

これほど書き言葉というのは怖いものである。時に故意にミスリードを導き、読む人間に誤解を与え続け、優位な位置に立ち続けようとする。

それが善意であればなお気をつけたほうが良い。

書くということは自分の知らない人にメッセージを伝える可能性も含んでしまい、それは無意識の内にも、客観的にわかりやすく万人向けで丁寧な方向へ、メッセージを導く。 それは生きている言葉から見ると、無駄に、計算高く、言い訳がましく、慇懃無礼で、保身に長け、相手のそれぞれの事情を考慮しない、表現となる。 わっちらは、その危険性にいつも晒されていることを意識しながら書き読む必要がある。

 

これを熟知する各世界の教祖たちは、言葉の力を「書く」という行動に移すことをよしとしなかった。

ソクラテス、釈迦、イエス、ムハンマドのだれもが書き言葉を残すことはしなかった。正しい言葉こそ、書き言葉にすれば、後の者に、意図したものと反対に利用されてしまうことを熟知していたからである。

 

場の力     「愛」も場によって意味が変化する

 

話し言葉であっても、TPOによって言葉の意味も変わってしまうし、出てくる言葉もまた変化してしまう。

ちょっと想像してほしい。クラブで初めて会った人から「愛しているよ」と言われるのと、彼氏からベッドの中で「愛しているよ」と言われるのと、森の中で生活している時に、木漏れ日の下で「愛している」と言われるのと、山頂や砂漠で瞳を見つめ合いながら沈黙でいることの違いを。

 

場には力があり、この空間は時間とお互いに作用しあい、人間を中心に置くことにより、かっこよさや美しさや家族や元素や宗教観や自然観や思想までも変化してしまう。 同じ行動をしてもところが変われば、正しいことが間違ったことに、良いことが悪いことに変わってしまうのである、君はどんな経験を持つのだろうか。

 

伝える     映像の限界、書の限界、講演会の限界、  ダイアローグ  一子相伝

 

伝えることは情報量が多ければいいのであろうか?

映像の世界は受け手の視覚と聴覚からダイレクトに伝える。ただ大きな弱点は、具体物の連続のために、受け手に考えたり、想像したり、反問したり、変化させたりする隙を与えず、まずは受け入れることから始まることだ。

 

では書物はどうだろう?

読み手の都合で時間と場所を決め、読み手の解釈で理解することができる。しかし、相手の現状と段階を理解して、理解を進めることができない。 これが書き言葉の限界である。いや逆に危険である。鳥のように、神のように、人工衛星のように俯瞰的にモノをみることから、私たち人類の虫からの視点の面倒さを察して、わかった気になってしまうのである。本を読む人間が陥る世界である。俯瞰図だけで理解したと思ってしまうことだ。大切なのは自分の足で歩き、失敗し、修正し、また歩くことである。先に失敗することの方がわかるよりも大切な時がある。

 

では講演会はどうだろう?

話し言葉の登場だ。相手が目の前にいて、彼らの反応や質問などのフィードバックがあり、そして時には、話し手が聞き手に技を伝えるために、計画的に、戦略的に、意図的に、順列的に、ものを伝えていく。

しかし所詮、聞き手の平均値で話を進めるしかない。意識無意識にかかわらず、聞き手のマジョリティーの理解に合わせて無難に話を進めていくしかない。各自の状態まで気を配らなければならないような話しはすることができない。

 

では数人の集団、とくにダイアローグはどうだろう?

聞き手の理解の有無を把握しながら、反対意見や別案もあり、また時に、話し手と聞き手が入れ替わり、個々の気持ちや流れで、会話が続く。 立ち位置や目線や沈黙までもが言葉以上に意味を語る。

これによってしか、伝えられないものがある。まるで一子相伝の秘術のように。

うなぎ屋の親父が教えるなんてことのないタレも、それまでの時間に知らず識らずに教わった商売道も、

科学の元となった中世の錬金術師たちの秘法も、多くの密教の教えもこの空間の中で伝えられてきた。

 

第一章  城の中の論理

塀を作る    怖い外界とユートピアの内界   ブルグの語源

        自由、平等、博愛、  デモクラシーの誕生 国民の誕生 幻想の誕生

 

多くの動物は巣を作る。アリも鳥も魚も。

しかし、複数の巣の周りに、塀を築き上げるものはどうだろう。人類以外にいたら教えてほしい、調べてみたいから。

なぜ塀を作るのだろうか?塀を作らない人の集団はあるのだろうか?

 

外界から身を守るために、外にはトラや狼やイノシシが棲み、畑を荒らし家畜や人を襲うからか。

いやそれよりも、人がいるからだろうか。後からやってきたために元にいた人から身を守るため。元にいた人も後から来た人に攻められたら塀を作るだろう。

そして自然が怖いから。 風も弱ければ心地よいが強ければなぎ倒される。雨も適度ならば必要だが、濁流は家を破壊する。

 

遊牧民は移動が多いから、塀を作り続けることができない。家畜用の塀は作るけれど。

昔、この地球で生まれたものは、生きている間だけ、この大地を使わせてもらい、死んで去っていった。

今も人間以外の昆虫、動物、植物はそうしている。こう考えると塀を必要とするのは所有者がいる土地なのか。

 

塀の外で暮らすものは、毎日のそして先祖の経験から、自然に対して、恐怖と畏敬と克服と共生のすべを日々学ぶ。映画に出てくる、ガンマンや開拓者や戦士や右肩上がりのヒーローは、いつもは塀の中に住みながら、都合の良い時だけ、外に出て、塀の中の論理を振りかざして、陣地ゲームを拡大するがごとく植民地を増やしていく。 塀の外の智慧やルールや暮らし方を学ぼうとはせず、未開の自然を克服して、支配できる土地を広げ、環境を破壊していくだけである。

 

しかし塀の外は広く深いため、ヒトの力で完全に制御できないことに気が付き、次に内側だけでもヒトの力で全力を要して制御できるものにしたいと思いたくなるのだろうか? 

ユートピアの始まりである。エデンの園の塀から追い出されたアダムが今度はこの世で楽園をつくりはじめたのである。園から出て、「形」を持ったことを忘れたかのように。

 

ちなみに塀の外も人間の力ですべて制御できると思うのがアメリカ人のような人間のことがまだ良く分からない若い人たちである。だから台風や原油漏れや寒波などの自然現象が起きた時に、大きく取り上げ、これらを克服しようとする。チャレンジがかっこいいと思い、地球視点からみればこの環境を破壊していることが多々あるのがまだわからない赤ちゃんのように可愛い存在だ。

 

塀はローマ時代以前からオリエントにも中国でもインドでも南米にもあるが、中世のヨーロッパでは塀の中に住む人たちのことはなんと呼んだのか?

城壁内に居住する民衆を”Buerger"と呼んだ。教会や領主に忠誠心を誓い、献金や納税を払うことで市民権を有し壁の中に住むことができた。

それに対して、Bauer(農民や漁師など)は城壁の外に追い出され、そのうえ納税を強制され、市民権がないことが多かった。 城壁の外は野生の熊や猪や大鹿、狼等も棲み、また、他民族〈オスマントルコ等)に対する恐怖もあり、壁の中に住むことと、その外に住むことは天と地ほど違うことだった。この辺りはグリム童話を思い出す。タイトルを確認。具体例や反例をもっとあたる必要あり。

語源辞典によるとBurgはドイツ語(ゲルマンの言葉)でラテン語ではcastellumBurg, Kastell,英語のCastle

ドイツ語で Burg は城砦(要塞としての機能を備えた中世の城)、避難所(保護者)を意味し、英語の -burgh ・フランス語の -bourg にあたる。

 

市壁は普通要塞にもなる頑丈なもので、何箇所かに見張り台や門があり、門は朝に開かれ夕方には閉じさせた。農民や漁師や樵や木地師や馬飼や猟師や炭焼師や製鉄集団や鉱石集団や工芸師や養蜂師や家具師や芸能を生業にする集団や強盗集団や運送業や他の町に住む商人やジプシーなど以外の一般市民が壁の中に住むことができた。人口や割合比などの調査が必要。朝に門が開くと農民や漁師やいろいろな商売人が教会前の広場で市を開いた。フランスを始め多くのヨーロッパ諸国では今日でも見られる風景だ。

この塀の中と外の構図は中世以前にも世界各地で見られる。

塀の中で、みんなをまとめるために必要とした言葉は、安全、安定、平和、神の意思、恩寵、繁栄、正義だ。 これらは塀を必要としていくために生み出された思想なのかそれとも誰もが求めるものか。人権、民主主義、平等、博愛、利益が大衆の中で語られるようになるまでにはまだもう少し時間がかかる。

 

たしかにこれらのことは紀元前のギリシャで議論があった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスを始め多くの哲学者たちの楽しい議論があり、そのひとつがDemocracyデモクラシーだった。日本語で訳すと民主主義と訳されるが、これは象形文字が生み出す魔力と中国の政治的実情と漢字一文字ずつのもつ意味の力で大きく定義が異なってしまうので、ここではDemocracyデモクラシーとする。

ではデモクラシーとはなんぞよ?!

アジア人口が地球人口の半分になってしまったので、欧米ではいまさらデモクラシーや多数決ははやらず、自由主義という自分だけのご都合主義についてもったいぶって語る時代だが、その前に少しお付き合いを。

 

聞いておきながらなんですが、先に答えを言っちゃいます。多くの学者や政治家がいままでずっと語って本を書いてきたが、今日でもなお確立したDemocracy民主主義概念は存在していない。そして、研究者もこれからも存在しないと認めざるを得ない、なぜならこれからも各自がそれぞれの定義やアイディアを生み出していくので。

 

ここでは意味も考えてみるが、注目するのはこの考え方が話されている場所だ。そう塀の中、それも不労所得階級の中での話である。

 

Democracyデモクラシーは古代ギリシア語 demokratia「人民の権力」を語源とし、集団を統治する時に、政治を行うのは、一人か、賢者の集団か、もしくは人民が良いか?という考えの中で、出てきた考え方だ。

 

古代ギリシャのDemocracyの状況は、参政権をもった市民全員が参加すること,公務は抽選で全員が負担すること,および共同体防衛の義務を全員が負うことであった。常設の官僚組織は存在しなかった。武装人民の都市国家であった。

しかし、この民主制への評価は、平等でもっとも正義にかなうものとする肯定的立場と、反対に、民衆の欲望の解放、個の欲望を実行するための大義名分、利権者に成り代わるための錦の御旗、さらにその民衆の扇動者、すなわち僭主の支配をもたらすとする否定的立場とが最初から対立していた。古代から18世紀まではそれほど評価されない考え方であったので、19世紀になっても、デモクラシーは大地主、貴族、後の資本家に対して民衆の戦いのシンボルとして使われ、共同体ではまだ否定的な意味で使われてた。あそこの息子はデモクラちゃって、仕事もちゃんとできないし、親御さんがかわいそうだわ、なんて感じで。

民主主義は、あらゆる政治権力者が自己の地位と政策の正当化を訴えるシンボルへと大転換し、今や幻想対象となった。しかし、これは皆に選挙権が与えられたつい最近のできこと。 世界の多くの国では第一次大戦後のことです。

ヨーロッパでも成年女子が普通選挙権を得たのは20世紀に入ってからだ。 スイスの全女性に選挙権が認められたのは1993年です。

 

そしていまでは、民衆に強制的(選挙に行かないと法律違反というところも多い)に投票させて、「お前たちが選んだから、お前たちの意思にのっとって、お前たちから金や権利を奪ってやるんだから感謝しろ」、という輩も出る始末になってしまった。

唐突だが、わっちが思うに、指導者になりたいものどうしで投票して上位10名がジャンケンをして勝った者が政権を担い、お試し期間を経て、その後に問題を起こしたら、民衆が腐った卵をぶつけて、次の希望者にやってもらう、というのがよろしい。

 

15世紀からヨーロッパは世界からの略奪と作業の効率化により、ヨーロッパの塀の中の生活は驚くほど豊かになり、パンのために生きなくてもよい人々が急激に増えた。アートや音楽やダンスや文学や収集やゴシップや内省化や快楽セックスやファッションや知識などなどです。

 

そう塀の中に住む人々が動き始めした。

この流れを読み取った略奪者のボスたちは、彼らを満足させる、形を、理論を、衣を着せるのが、強制的に奴隷たちに首枷をするよりも良い方法だと気がつきました。頭いいです。

 

この時に民衆の勢いが怖くなって作ったのが、三権分立です。民衆がいくら立法しても、勝手に解釈して行政すればいいし、そこで文句を言ってくれば、書き言葉である権力執行側の洗練させた法律用語を使うことによって、裁判所が押さえられるからです。書き言葉や教育を信じている人をだます手としては頭いいです。

 

そして共和主義なんて、単語を使って、寡頭政治をよくいえば賢人たちの政治をすすめました。

タウンシップと呼ばれる小行政単位で,直接民主制的色彩の濃い自治(タウン・ミーティング)が行われたようだけど、もちろん利権を持つ者や地主が中心です。考えてください、使われている人はそんなミーティングにしょっちゅう顔を出せません。

T.ペインが、『人間の権利』(1791)の中で,アメリカの代表制こそ、アテナイの民主主義を大規模社会で、しかもより完全に実現させた、まさに共和主義の真髄である、と手放しに賞賛していましたが、そりゃあ、実際の社会状況は先住民を殺し追い払い土地を奪い、後から移民をこき使い、アフリカから人を奴隷として輸入しているのだから、どんな理想社会でもできるでしょう。塀の中で暮らす人のとってのデモクラです。

 

1830年代以後アメリカでは,Democracyをアメリカ国民文化を象徴する理念にまで高めようと試みた。

Democracyが持つ幻想力で民衆をまとめちゃおうとしたんです。さすが力技が好きで、何か理念に頼っていなければ不安に怯えてしまう国民性です。

 

1次大戦への参戦にあたって大統領ウィルソンが、19174月、参戦要請の教書の中で、世界に先駆けてこの戦争を〈民主主義のための戦い〉と規定しちゃっています。ちなみに黒人の参政権は1967年(完全実施は1971年)なので参戦時から50年間は選挙権なし、相変わらずの塀の外があっての民主主義です。

Rf.  フランス革命を1789年とすると成年男子普通選挙制が実現したのは,1848なので50余年かかっている。先に理念というかスローガンというかはったりの錦の御旗を掲げ、領主や王などから利権を奪い取った後に、50年かけて洗脳させた民衆と民主主義の形を作る、輩がいます、さて誰でしょう?頭いいですが小賢しく卑小な奴らです。

 

こんな塀があっての民主主義なのに、どうやってこれを民衆みんなの理念にまでに思わせてしまう詐欺手法を使ったのか?素晴らしい技です、アートです。

 

南北戦争によって社会原理としては破綻したピューリタニズムの超越主義者(トランセンデンタリズム)をうまく利用して、自由,平等,自治などに加えて,真の人格の発展,絶対的良心,愛のある同僚精神などの人工調味料を加えた「理想主義的民主主義概念」を、新しい統一アメリカの理念にしようとした。マーケティングは彼らの得意技法です。この理念の担い手は、中産階級,勤労階級、新しい移民集団、および参政権のなかった女性や黒人です。

 

グローバリゼーションを国際協力や愛や公正や人権や正義でごまかしちゃおうみたいなもんですかね。ターゲットは未来を目指す、右肩上がりを希望する、罪がいまだ少なき人を、個の欲の力と牧歌的楽観主義を利用して、問題から目をそむけるために、新たな夢を見せ、罪の意識をなくさせることでした。

プロテスタントの一部は、神に仕えれば、神に愛され、それによって精神が魂が心が豊かになる、そうすれば、もちろん経済的にもモノや金が増えるのは当たり前、なんたって、神から愛されてるんですから、みたいな。

 

もう一度、ちらっと歴史を見直します。

革命家たちが師匠としたルソー自身は、民主主義を、ただ主権の執行機関としての政府の一形態としてのみ考えたばかりでなく、主権は代表されえないとして代議制を信じず、しかも伝統的想像力の中にとどまって、住民の自治を中核とした平等な理想共同体は農民的小国家以外には不可能と考えていた。まさに幻想の力をadvertiseとして利用した。[語源] ad-(…に、の方に)L.vertere(回る、向く) =に人々の注意を向ける。

 

民主主義概念の歴史にとっても1848年は重要な年であった。それまで民主主義は地主支配層に対するブルジョアジーまたは中産階級の戦いの言葉であり、しかも必ずしも多用された言葉ではなかった。 すでに1830年から、新しい支配層としての中産階級の合言葉は自由または自由主義であった。そしてこの変化に対応して、以後民主主義という言葉は、中産階級に対する,より下層の職人や労働者の戦闘性のシンボルとなっていった。

 

この変化は,早くも1830年代末に,イギリス労働者の最初の自己解放運動であるチャーチスト運動の中に民主主義を名のる団体が現れたこと,二月革命の最中にフランスで,より人民的な民主主義という意味で〈社会民主主義〉という言葉が用いられはじめたこと,同じ1848年のドイツ革命でも各地に民主主義を称する団体が生まれたことなどの中に現れている。マルクスが《共産党宣言》(1848)の中で,〈労働者革命の第一歩は民主主義を戦いとることである〉と述べたのもその一つであった。

 

16世紀以降(実感としては18世紀以降)の塀の外に住むヨーロッパの農民が果たしてここでいう塀の外の実状を生きているのかといえば、そうとは言えません。

ヨーロッパの外部から奪ってきた金銀宝物を奪ってきた城内の市民たちの過剰金が城外でもまわっていたからで、一言で言うと楽な生活ができたからです。

武器と船と宗教を利用して、欧州の外部から搾取することでヨーロッパ全体を覆う、大きいのに見えない塀を持ったのです。ヨーロッパの外と中をはっきりと分けました。そして今度は中に見える市壁をつくり、市民という生産階級をメイドとしておき、次にその中にさらに城壁をつくり、芸術家や音楽家や劇団や女や男を囲いました。

 

こんな時代を生きた者が、こりゃあ、あかん、市壁を壊せ、農民と市民と貴族に差が在ってたまるか、と革命をおこし、自由、博愛、平等を旗印にしました。ですが、もちろん自分たちの利害が及ぶ、欧州幻想共同体の壁は壊すことなく、見えない壁の外のイスラムやアフリカやアジアはしっかりと区分して、今でもまだ金を奪って生きています。

自由も平等も壁の中での話です、彼らにとっては当たり前なのです。だって壁の向こう側は認めない人間の集団だから。優しいふりはしますが、自分たちの壁は決して壊さず、そしてエンクロージャーで自然の領域に塀を作ったように、外国に行っては、「可哀そうに壁を作ってあげる」とまた搾取を始める始末です。

 

現在でも外部の人間が中に遊びに来てお金を消費したり、塀の中の人がしたくない仕事の労働力としては認めるが、彼らが長期に暮らすことは拒否します。現代のヨーロッパの都会人はヨーロッパ共同体という塀の中の都会という塀で暮らし、その中のセレブという塀で暮らしている成功者と呼ばれる者と自分自身を比較して卑下したり不平を言ったりゴシップを喜んだりして、憧れているのです。

 

領主や農民たちの利権を横取りしたのに、既存の壁を壊した正しい行為をした評価される人たちが18世紀にヨーロッパには大勢いました、例えば今のロシアやチベットや新疆やアルジェリアを始め中近東の国々のように。彼らがまだ今世紀でも卑劣な悪人ではなく、偉大なる人物として教科書に出てくるのは不思議です。 きっとこんな教育を続けるのは、「無知は幸福である」と自認するお人よしか、これらを表面に出したくない臭い金持ちの集団だと信じたいものです。

そんな中でいろいろとインチキな制度が生み出されました。壁を壊したから私たちは正しいと信じている、青年期の人たちです。その中にStateNationというのがあります。国と国民の誕生です。

まずは国民がいてそして彼らのために国ができた、という詐欺です。

また私有地の制度が確立され、自分が宣言して紙に書いて、それを裏で手を打って結びついている国に提出したら個人のものになるというとんでもない泥棒技です。これで多くの共有地や領主地が私有地になっていきました。

 

これらはまだまだ序曲の始まりです。ついに幻想の世が誕生して、この人類史に嵐を吹かせるのです。

 

幻想の力    大義名分、スローガン、遅れてきた者、ユダヤ人との共通性、他の世界に輸出、強制

          征服、植民地、自分が善の立場にいると思うことの欺瞞と力 文明の宣教師

 

このあたりから、光に当たることに固執するものが増えてきました。闇の世界の陰影礼賛は影を潜め、明るければよい、正しいのが良いなんて、大声で叫んじゃうのです。 学歴はあるのに、教養がなく、恥知らずな、野蛮人たちです。

 

だれが幻想の力を必要としているのか?

後ろめたい者、力を得たいもの。そして後から遅れてきた者が多いんです。声が大きいものもいいですね。都会に憧れているものもいいですね。

 

正義のスローガンを大きく唱えて、国をまとめようとする者にイスラエルやアメリカなどがいますが、どちらも先にいた人をけち散らし、殺戮して、自分の立場を作り上げたので、彼らはなんとか綺麗事を言って、後出しじゃんけんをしながら、自分の正当性を声高に言うようになります。

後から来た者が良くやるやつである。だけどそれほど責められる事を心配しなくていいです、実はそこで暮らしていた者も、数代前から数十代前には後から来た者であったのだから。

ここまでは人類史で良く行われてきた行いです。 で問題はこの次。

こんどはこの光の正義の力を使って、停まると倒れる自転車操業を始めたんです。闇を怖がる子供のように懸命にペダルをこいて、塀の外の世界に塀の中の素晴らしさを説いて廻り始めました。そうしないと塀の中で創りあげた自分の自我が崩れてしまうかのように。

だから嬉しかった、塀の外の世界に出会った時は、自分の生きがいが見つかったようで。ちょっとでも不幸なことや文明的ではないことがあれば、ほれみたことかと、救わなければと、塀の中の神託を、捧げたのです。従わないものは悪魔の化身として殺戮し、気に入ったものがあれば、わが城主へと、市民のためにと、開かれた博物館にと、高度な教育のためにと、略奪しました。

 

未開を幸せに導かねばならぬと、塀の中の教えを伝え、熱く血を滾らせ、汗をかき、体を喜ばせ、救済は勝手に神に任せました。隣の商人はいそいそと金銀財宝を奪い取り、言うことを聞かぬ者はその隣の軍人が首を刎ね、ひたむきに理想の国になるようにと精進しました。

 

善の側にいることでの生き方を海の外でも覚えたのです。自分の中の闇や悪は見ずに、自分の外に闇や悪を見つけ、慈愛の精神で、それらに光を当てる。そして、このメソッドを海の外の国の住民たちにも覚えさせ、これを始めた塀の中にすべてのものが集まるようにしました、そうネズミ講のようなものです。 政府はネズミ講を嫌がります、自分たちだけの特権だと思っていますから。

 

ところで、ここで提案があります、 もっと軽やかに、そして真摯に生きるために、まず本は信じるな、ということからはじめませんか?何故かというと、多くの本は塀の中で書かれたものだからです。 そこにいつも普遍性があるとは限らず、城の中の人だから書ける物の可能性も高いからです。書き言葉で言葉を閉じ込め、時にその命を殺し、次に法律用語などで都合の良いように解釈し、己の利益と保身を図る、そんな学問が多すぎます。上部3%の経済的エリートのための思考や、それに憧れを抱かせる思考や、そうしないと暮らしていけないと恐怖心をあおる思考に導く学問が多いのはなぜでしょう。

 

また教育や学問というのも気をつけなきゃなりません。

教育は未開発な者を自分の都合の良いようにしつける洗脳機関だし、学問も塀があってこそ成り立つものが多いからです。反対の立場から言うと、自分たちにとって都合の良い洗脳を教育と呼ぶということでしょう。

 

では教育を受けなければ、仕事をもらえないじゃないかと言われます。確かに切実な問題です、良い教育機関を出ていないと条件の良い仕事を得るのが難しいからです。でも大きな組織の条件の良いと言われる仕事は人口の数パーセントしかありません。だから上から3パーセント?に入らないとわかったら、さっさと方向転換したほうがよろしいかと思います。家を建てるにも、監督は一人、あとはみんな専門職の職人たちです。

 

またよくできた塀の中の文化を自分の塀の文化と比べて、改良しようと自ら言っている人がいますが、これは意味がないです。 例えば、いかにヨーロッパがマネーを集めて、その塀を強固なものにしているか知っていますか?

では、まずはお金の話から。

お金には魔力があるんですよ、なんたって、他のものと交換できるという、多くのものに変われるという特技を持っているからです。この無限の可能性という潜在性が武器です。もっと多くの可能性が欲しいとがんばる人には魅力的です。実際は変身できないものばかりなんですが、モノには変身できちゃうことが多いので。 そしてもう一つのすごい特性は保存性です。来年になれば味が落ちる穀物とは違って、腐らないんです。こりゃあ、モノを交換するのが得意な村のおばさんは井戸端で生きていけますが、部屋や心の壁から出ることのできない青二才にとっては必要不可欠なアイテムです。

 

実は、ある人たちは紙幣を刷るごとに、お金が入ってくる仕組みを作り上げていたんです。世界の金がヨーロッパに入るシステムです、頭いい。

まずは銀行のシステムから。貴重品を預かるといって、代わりに預かり書を発行します、そしてこれを預けた人たちがお互いに交換し始めるように仕向けました。貴重品の金などを持ち運ばなくてもいいから、便利で安全ですからね。そうすると銀行には貴重品がそのまま残るでしょう、だから今度はそれを勝手に他の人に利子をとって貸しちゃうんです。困った時に相互幇助するのが決まりだったのに、商売だからといって、人の貴重品で勝手に貸して、昔は禁じられていた利息まで取って儲けているんです。だってビジネスの世界ではこんなことをしてもOKだと勝手に決めちゃったんです。イスラム圏でもヒヤルという実質的に利子をとる手法がうみだされました。

 

昔の通貨は金属だったので、それの価値がありましたが、今はただ刷ればいいんです。昔は金本位制だったんですけれどね。

米ドルの正体は債権証書です。ニューヨーク連邦準備銀行が米国政府に貸し付けた手形です。代わりに米国政府は発行した国債を渡さなければなりません。

連邦準備銀行は必要な手形を渡すだけで、その額面どおりの国債をもらえるのです。嘘みたいだけど本当なんです、だからお金を刷るたびに、アメリカ国民はそれを返さなきゃならないわけです。だから働いている人が多いでしょ、アメリカは。

ちなみにニューヨーク連邦準備銀行の株主は100パーセントが欧米の銀行ですよ。ロスチャイルド銀行・イギリスやラザール・フレール・パリイスラエル・モーゼス・シフ銀行・イタリアやウォーバーグ銀行・アムステルダムゴールドマン・サックス・ニューヨークやチェース・マンハッタン銀行・ニューヨークなどのね。

銀行は誰もが疑わないという信仰をベースとして紙幣を刷り、アメリカ国民はそれに対して利息を支払う義務を負われているんですね。そして政府はまた国債を発行して、銀行に金を貢ぐ。世界の基準金にすることで、いくらでもこれを続けることができる、後、数年はね。 昔は経済力と正義と夢と美学という宣伝力で、今は軍事力と慣習で世界からアメリカは富を集めている。 そして、その利益は最終的に欧米の国際金融資本家の懐に収まる、というシステムを作り上げられてしまった。また、金やプラチナやダイアモンドをはじめとする原料や美意識のモードの基準を決めるのも彼らだし。イギリスの紅茶産業のように自分では何も生産せず、他の国の人を奴隷のような時給で働かせ、ブレンドだけを担当して、いかにも自分たちが生産しているようにみせかけるのが彼らのやり方です。だからデザインや宣伝に特化した。本当にいいものならばなにも何億円もかけて宣伝しなくもいいでしょう。テレビのCMと一緒で、駄目なものだからあんなことをしなくちゃならないんですよ。まあたまにはどんなひどいものを売っているんだろうって、買ってみるもの楽しいですが。

専門家や学者や作家や政治家や官僚がよく日本を北欧やECやフランスやドイツやイギリスを比べる人がいますが、欧米のような経済基盤を作ってから、自国のシステムが遅れていると嘆いてください、じゃないと頭が悪すぎです。

この塀の外と中という視点から見ると、宗教もさっぱりします。

今日ではユダヤ教徒もキリスト教徒もこの世にはいないと言っていいと思います。旧約聖書と新約聖書から抜粋

 

旧約聖書 創世記17-8 

「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、貴方とその子孫に永久の所有地として与える。私は彼らの神となる。」

神の条件は十戒を守ること、神と契約を守れば、カナンの地を与える、しかし契約を破ったら、イスラエル人は皆殺しにする、と言っています。

十戒の内容は

1.    あなたには、私をおいて他に神があってはならない。

2.    あなたはいかなる像も造ってはならない。

3.    あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

4.    安息日を心に留め、これを聖別せよ。

5.    あなたの父母を敬え。

6.    殺してはならない。

7.    姦淫してはならない。

8.    盗んではならない。

9.    偽証してはならない。

10. 隣人の家を欲してはならない。

 

これ以外にも脱エジプトには、服装から儀式から食事などあらゆることをこまごまと規定しています。そして契約を守らなければ、・・・。

もう明らかでしょう、 この世にユダヤ人はいないって言っていいでしょう?いると言うのなら宣言してみてください。 特に頭に帽子をつけている人はこれでも自分がユダヤ教を実践しているユダヤ人であるか、宣言して欲しいですね。

あ、それとユダヤ教は一神教ではありませんよ、創世記で出てくる神はヘブライ語では複数になっており、アブラハムの守護神として扱われているのに、急にこの宇宙を造った唯一の創造神である、と変えるのはよしてほしい。ヤウェは彼らだけの守護神みたいな神であって、宇宙の創造神と同じではありません。すべてのものが宇宙神とつながっているからといって、歴史の途中からこの二つを一緒にしちゃって誤魔化すのはもういいんじゃないですか? そんなことしたら今度は隣のねえちゃんが自分の守護霊がこの宇宙の創造神だと叫び始めちゃいますよ。

 

お釈迦さんもイエスさんもムハンマドさんも言っていることは一つ。街を出て荒野で暮らせと。そのために準備せよ、と。

そんなことない、と言う奴がいれば、それは後から書かれた他人の文章で誤魔化しているだけです。聖書や経典をちょっと読んでみてもらえればと思います。

 

 

管理できると思いたい人たち  

 

塀の中には、狂犬病の狼もペストの嵐も吹かないので、多くのことが人間の思いのままにできると信じたがっている。

小さい頃から自分の感情や理性や思索をコントロールすることが、唯一の仕事のように教育されてきた人たちは、自制しコントロールし冷静であることが、この枠の中で暮らす、第一のルールのように育ってきた。もしこれに気がついていないようならば、見事にコントロールされていると言えよう。 しかしそれもいたしかたあるまい。 エネルギーが集まり、効率が求められ、時とスピードが金と思われ、人口密度の高い場所では、一つのエラーが周りに多大な影響を与えてしまう。 田舎の畑で酔っ払って自転車に乗っていても、本人が畦道から畑に落ちるぐらいだが、都会の線路の踏み切りでラッシュ時に倒れたら、それだけで何万人もの迷惑になってしまうかもしれない。 ここでは失敗は許されず、想定内の中で、マニュアルの範囲内で、エネルギーと機械を使いこなし、正確に行動することが、この塀の中で多数の人たちと暮らす方法だからだ。管理できないものは、すべて抹消することでしか存在できない、わかりやすい世界である。そんなわけでわっちももみんなもがんばっているわけです。

 

ただこの管理癖がどこでもいつでも常時ついた人たちは格好も頭も悪いし命も危ない。 なぜって、この世には人間が管理できないことがわんさかあるのだから。だから当然、管理しやすい時の対処法と管理できない時の対処法は変わってくる。

ではどんな時が、管理できないことだろう。天災の地震、雷、トーネード、台風、津波、寒波、熱波、隕石、軸のずれと地球史の中でも人智の管理を超えたイベントが次々と繰り返されてきた。そして本当にすごいのはウイルスや植物や動物や人間の中に潜む闇と光、これがコントロールできない、人の感情、そして命の源泉。

 

それなのに、管理したがる人たちは次々と安心で安全な世界を作り上げようとする。

しかし塀の中では安全であればあるほどリスクは増えるんです。何故かというと、安全であれば、その中のエネルギーはその分だけ増えていく。そして、ますます壁を高く、厚くする、そしてまたエネルギーが、効率が、利便が、密度が、増える。そしてまた・・・。事態はエネルギー量が増すばかり。 そしてある日、突然に・・・。

 

しかし、この世にはいろいろと簡単な法則があります。

例えば第一原則の、「この世に存在したものはすべて変化する」ということです。この世は常に変化しつづけています。ですから、当然、作った物はいつか壊れる。壊れたことのないモノはこの世にはありません。

 

たしかに新たなモノを作るのは人間のサガである。だめだといわれても創ってしまう。だが、ここで問題なのはリスクだ。前例のない危険度やエネルギー度が高いものができた時に、誰が責任を取るのか。それを運営する機関と利用者は、利便性を得たことによるリスクをしっかりと自覚する必要とその時の被害を弁償するのがこの世のルールだ。時速30キロを超える物体は人を殺害できるし、プルトニウム239の半減期は24100年だ。

そして、管理できる時の対処はもちろんだが、管理できない想定外の時の対処をすることが、人間社会が存続するに必要な、始めに決められるべきルールである。まずは生存の問題、だから空気、水、命が最優先される。

放射能物質で危ないことをしたいのならば最低30キロ四方の土地を買い占めて、それから、その30キロ内の地元住民と、そして話せない動物や植物と沈黙の論議をするのが最低のルールである。こんなことを企画し、少しでも利益を得た者は、管理できない事態が起きた場合は全財産を使ってでも責任を負わなければならない。だが心配することはない、国やわっちらは優しく、思いやりがある。当事者がこんなに多くの人や生物や大地に迷惑をかけ被害をもたらす大罪を犯しても、これからもちゃんと生活ができるように死ぬまで生活保護を支払い続けるし、子供の教育費を面倒見て、生存権は保障する。

 

塀の中に住むものたちは、自分をコントロールすることに異常な価値を置かなくてならないために、酔っ払って路上で前後不覚になっている者たちを常時管理派は軽蔑する。しかし彼らこそが、人間が自分自身でさえもコントロールできないことを証明してくれる、希望の星である。そんな人間を管理できることを前提に積み上げられたシステムの中では大きなエネルギーを扱うのは常に大きな危険を伴う。 いつも管理ができていても管理できない一瞬があったらすべてが破綻する。

それを気がつかせてくれる酔っ払いや突発性ヒステリーや衝動型欲望やメランコリアや狂気が実は人間や地球を救っている評価されない悲しいヒーローたちだ。

 

それなのに、いやだからこそ、完全にコントロールできていない他人を見つけては、精神が病んでいるとすぐに精神分析や心理学を持ち出してくる。

そう、塀の中の世界を基準にしがちなフロイトやユングやフロムやなんやらの精神分析なんかを信じちゃいけないって。彼ら自身の体験を一般化したり、生い立ちの違う他の人へ移行できない、という大原則を軽視し、形から入ってしまう人が多いんだから。そして無意識をコントロールしなきゃあんたは未熟だっていうのはズルイよ。自分が得意なところに穴掘って弱っている奴を待っているアリ地獄みたいな戦法よ。あんたたちは強靭でいけずな根性と金と環境と肩書きなんかで、世間の中の居場所をキープできるけれど、わっちらは関心ないんだから、そんな生き方。 そっちで勝手に仲間内だけで遊んでいなよ。

ヒステリーも神経症も分裂症も人間には必要なのよ。 これらは山では、沙漠では、森では、村では、自然との交流の大切なメソッドの一つなんだから。都市に必要ないからって病院にぶち込むのは止めてください。 入れるならば農園や森小屋にして下さい。 本人が都市に戻ることを望むならば、自分をコントロールする訓練を徐々にし、それが難しい時は薬漬けにするのではなく、本人を説得しながら、都会に戻すのではなく、塀の外で暮らす生き方を勧めてください。

都会の生活の基準しかない医師や看護士の哀れみの表情や優しい態度や悲しみのため息がわっちの心に刺さって痛くて、本当に今度はこちらの気が狂っちゃうよ、病院を爆破したくなっちゃう、だから止めて下さい、お願いします。 

 

外に向かって正義をいうのをやめ、善人面して行動することを止めればよいだけのことです。まずは自分の中の悪を良く見つめ、静かに洞窟に閉じこもり、神に懺悔し、祈り続ければよいのです。分裂症でもリビドーでも情動でも健全なる主体性でも何でもいいのが、どれも塀の中で苦しんでいる事例です。

 

今の平和、平等、安定、安心、美学、学歴、衛生、民主、自由、博愛、資本主義だって塀の中でのルールでしかない。中にいることだけを前提に正常と異常を決められたらたまったものではない。

もし都会のルールで異常と判断されるのならば、田舎のルールを、それが合わないのならば森のルールを、それでも合わないのならば山や沙漠のルールを適用すればいい。 ただし自然の中に立ち入るには、体と心と技を同時に鍛えなければならないんだれど。

 

 

城中で暮らし続けると    

ここまでくると理解してもらえると思うけれど、塀の中に住むものは塀の外を汚染し、その後は、手間隙と金と莫大なエネルギーをかけて水と空気を浄化して、暮らしている。都会の中での例をとれば、夏に自分の部屋を涼しくするために、大きなエネルギー消費するクーラーを使い、熱気は外に排出する。 電気を作るためにいろいろな無茶をし、今度は外に熱気を出すことによって、ますますその辺りの温度を上げているといった具合です。

塀を存続させるためには多くのエネルギーが必要です。ほおって措くと崩れてくるので、次々と新たなブロックを積み上げなきゃならないんです。

 

塀は何でできているのだろうか? すぐにはよくわからないですよね。

では違うところからこのことを考えてみるとヒントがあるかもしれない。 塀の中では作れないものは何か?塀の中でしか作れないものは何か?を考えてみると、いろいろ掴めてくるのではないか。

中では作れないものは、空気、水、、ガス、石油、食料、金属、原材料、野性の生産物

中でしか作れないものは、最高裁判所、最高学府、国会、王もしくは象徴などの権威、法律基準、調整機関

 

塀はいろいろな幻想を生み出してきた。それらが塀には必要だった。そして、いつからか生み出したものが、逆に塀を造り上げる作用も働かせている。そして塀を維持するためのテクニックを利用する輩も次々と出てきた。

しかしどれもが、塀を存続させるための力であって、別にそれがなくても、生命体は存続できます、というか、ないほうが地球生命体にとっては、環境を維持させやすく、個々の生命体にとっても、生命の源泉に近づきやすく、安定した暮らしができるんだけどね。

 

それなのに今度は自分で作った塀に逆に縛られてしまう。なんとも滑稽な話です。 時計に、利便性に、規則に、法律に、安全に、安心に、安定に、清潔さに、資本に、スピードに、秩序に、名誉に、立場に、意地に、センスに、モードに、ファッションに、ブランドに、機械に、デジタルに、コンピューターに、携帯電話に、香水に、アルコールに、グルメに、ジャズに、羽毛布団に、空調機に、踊りに、化粧品に、シャンプーに、洗剤に、薬に、可能性に。

 

この世にはヒトが常に管理できるものはありません。困るのはいつも管理できているのに、急にできなくなってしまう時です。

そんな時は、管理できない世界を想像できないと、自分で自分の首を絞めることになってしまいます。

例えば細菌やアレルギーや人間の狂気や惑星の衝突や地震や嵐に。

 

では管理できない細菌の話を一つ。

実は人間には数えきれないほどの菌が住んでいる。

人体でくらす微生物は皮膚や口内で暮らしているのは1700種以上、全部で3000種ぐらい、総数は1000兆以上、総量では成人で約2キロから3キロ、大腸だけでも1キロほどです。便の1/3は細菌の死骸です。

 

微生物は消化を助けるもの、外部のウイルスとたたかうもの、免疫作用のスイッチになるものといろいろあります。

S.エピデルミディスなどの表皮常在菌は皮膚1cm平方だけで3000万から1億も住んでいます。

実は彼らが外の菌から皮膚を守っているのですが、ヒトが清潔感を求めるためにいろいろな洗剤で何度も菌を流れ落とすと守ってくれている常在菌がいなくなり、そこに水虫菌やワキガ菌が住み着いてしまう可能性が増えます。

細菌の大きさは1ミクロンほど、赤道直径が12756キロなので、人間も地球から見ればちょうど菌ほどの大きさです。

 

細菌がヒトの生命維持に必要というよりも、数から言えば、向こうのほうがマジョリティーなのだから、細菌を生かすために人間も必要だとも言えます。

近頃では抗菌グッズでがんばって除菌がはやっていますが、全部取り除くことは不可能だし、もしとれば間違いなく、ヒトも死にます。

ですから排除することではなく、共存や、共生や、同化や、馴化や、寄生や、消化や、反発や喧嘩が大切なんです。

 

塀の中には食品工場や実験室や半導体工場などは細菌を排除する方法でしか維持していけないところがありますが、塀の外では細菌と共生することで生命を維持していくところです。

ですから、塀の中だけにいて、塀の特殊なルールを妄信して、それをあちこちに適応していると、いつしか自分自身のことを抹殺しなければならなくなってしまうかもしれませんよ。

 

菌の話しついでに、善悪、そして、全体と個について私たちの体の中の宇宙について見てみましょう。

小腸と大腸だけで1000種類以上の細菌がいることがわかっています。そしてマウス実験などの結果、腸内細菌がいなければ「免疫機能」も働かないことがわかってきました。

普段「悪玉菌」として嫌われている大腸菌や、クロストリジウム菌も、腸内に加えていくと新しい免疫遺伝子が現れてきます。

これは、普段は悪玉菌と言われている菌も、実は「免疫機能が働くスイッチ」になっていたんですね。文献・データ出展

一時、ロシアのメチニコフが自家中毒説をとなえ、それから悪玉菌と善玉菌という考えが広がり、善玉菌を増やすためにビフィジス菌やそのためのオリゴ糖をとることがはやっていましたが、今では善玉菌だからといって、一種類の菌を過多に摂取するとバランスがくずれるので、今では1000種以上の菌の役割や関係性を理解しバランスを考えることの必要性がわかってきました。しかしまだまだ、新たな菌が発見されるでしょう。ある測定法にはその方法の環境下でしか発見できず、まだまだ新たな観測法が試されていないからです。(真空状態の測定法以前では、嫌気菌は観測中に死滅してしまうので、腸内菌は100種類ぐらいだといわれていた)

管理したがる人はいろいろと新しい発見で、新たな健康法など生み出しますが、実際は1000種類の微生物の役割、関係性、因果関係はわからず、我々がコントロールできない、まさに神秘の中にあり、把握したり、管理したりすることができないのが今のところの現実です。トライは素晴らしいんだけどね。 この全体を把握しようとする視点は、人工衛星から見た地球の視点、月の地平線から昇ってくる地球を見つめる視点、顕微鏡の中の細菌を見る視点と同じく、決して、神の視点ではなく、管理する人の視点であることを再度、言っておきたいと思います。

 

文明と文化の違いが話題になることがありますが、必要な菌以外は無菌化を目指すのが文明、雑菌と暮らすのが文化としましょうか。わっちは酒造りが日常なんですが、産地から糖度、作り方、種類、格、規則、スタイルの酒造りへと大きな流れがありました。人・菌・風土から機械、酵母・工場への近代化です。そしてこれにも飽きてきてテロワールの再認識があるわけですが、結局は塀の中で植物と太陽の恩寵を勝手に持ってきて呑むだけという程度のものが多いようです。

 

ところで塀の中の人を説得するのは簡単です。

文明史的視点に弱いんです、一直線につながっている歴史観です。はじめがあって、終わりがないと落ち着かなくて、眠れないんです。これにそって物事を説明するか、もしくはこの歴史観の限界を指摘すればいい。

しかし考えを変えることはできても、行動を変えるのは難しいです、なぜなら、頭が指示を出しても、体が生理的に拒否するからです。まるで文明カプセルの中で純粋培養されて暮らしているようなものですから。

イメージで言うと、円形のプラスティックのカプセルの中で心地よい真綿に包まれ快適に暮らしているようなものです。気がつけば快適なのは外からのおいしい水と、新鮮な空気と、ビタミンのバランスの取れた料理がいつも供給されているからでした。ところが、時に空気の出が悪くなるときがあるので、カプセルの外に出て、修理しようと思ったのですが、これがいけません。気がつけば、真綿の中で生活していたために筋力はやせ細り、カプセルを開けたので、虫刺されに体は腫れ上がり、知らない菌に冒されてしまいました。これからできるのはもう外に出るようなことはせず、ただただ保身です。抗生物質を摂取し続けて菌を退治してするので、ついでに自分の体の中の食物を消化するための菌まで殺してしまい、点滴を打つ暮らしです。いかに自分が生き延びることしかもう考えることができなくなってしまいました。

これが塀の中に暮らす人間の未来像です。体力のない者には生活変えるのは簡単ではありません。一つずつ訓練をしながら、ゆっくりと進んでいくしかないのです。山を登るのに酸素ボンベや薬やヘリコプターを使うと簡単に登れるようなこともありますが、これらはカプセルの延長でしかありません。急に山の頂上や沙漠で暮せるはずがありません。それができると言う者があれば詐欺師です。今はそのよう輩たちが溢れています、お気をつけください。

では次に長い旅路に役立つ秘密兵器を渡しておきます。

 

前に書き物は怖いと話しましたが、ここであえて俯瞰図を出すことにした。どうか言葉を固定化しないでください。シンボルとして信じないでください、強いイメージ力で瞬間移動装置つきタイムマシーンに乗ったつもりで、文字になる前のまだ生きている力を感じ取ってもらえれば、これは羅針盤となり、これからの旅の三里塚を探し当て、恐れを取り除き、道を間違えた時は、また戻り、小さな失敗を繰り返し、その都度に修整して、静かに熟慮する時を与えてくれることを切に祈ります。

 

第二章  空間と時間と美学

 

時間と空間のシンボル

 

 

 

 

  空間

  時間

  自然

  

  

  

  美学

   周期

  

  /沙漠

  前史

  厳格

  

  

  精神

  叡知

 10億年

  

  

 縄文

 力強

  

  青年

  

  闘争

  50年

  

  郊外

  江戸

  恩恵

  

  

  

  豊饒

   1年

  

  都市

  近代

  去勢

  水

  乙女

  身体

  /

  1時間

  

中心・周縁

   今

  存在

  

  

   

  生命

   瞬間

 

 

  テーマと建築物

 

 

 

テーマ

特徴

 

建築

 

 

Meditaion

心と精神をオープンな状態に保つ

瞑想院

あずまや

 

Initiation

森の思想を身につける

森の整備 クラフト サバイバル教室  治癒   

竪穴式住居

 

 

Cultivation

大地と暮らし周期性を体感する

自然農法による農業体験、医食同源 食堂

江戸時代の農家

 

 

Economy

自然のシステムと力の利用法を学ぶ

ソフトエネルギー 旅行代理店

エコハウス

 

 

 

突然の表でびっくりしたかもしれないが、これが自分の体の中に「タイムマシーン」を作り出す、秘密の呪文だ。

 

空間と時間と美学と元素と精神がお互いに強く影響を与え、与えられることでこの世が成り立っているということをあらわしたシンボルだ。

 

急にはわからないけれど、家の外に出て、キャンプをしたり、森の中を散策したり、みんなで料理などを作ったりしているとだんだんとわかってくるので、のんびり行きましょう。

これは事実に近く表現したので、ここで話すことは矛盾し、お互いに背反しているように見えてしまう、文字や論理を使う限りは。そこで詩と貴方の体験と感性と実感で伝えていくしかないのをわかって欲しい。

 

いくつかの事柄を詩的に表現すると、

 

時間は前史から縄文、弥生、現代と流れるのに対して、

人の精神は、反対にこの時間の逆方向に向かっていく、この世から消え去るために。

 

都市と山の間にはレテという名の川が流れ、何人もこの川を飛び越すことはできず、試みたものは忘却の彼方に流されてしまう。ここに梯子があるように思わせて生き血を吸う者が多くいのるで注意されたし。

 

道はゆったりと長く、時には天地が返るような変化の劇場に出会うこともあろう、毎日歩いていれば。

今を生きることだけに集中すると良い、すると過去も未来もついてくるから。早急な結果を求めても、ただ暗闇の中で不安になるのみである。時を友達にせよ。

 

境界線がおもしろい。そこはイニシエーションの場所、今までの常識や法則が通じない。死と再生の場所。

でも恐れることはない、子供のような好奇心で、目の前に現れる事柄にゆっくりと丁寧に対応していけばいい。失敗すれば、次には、訂正すればよい。だんだんと世界が広がり、そして急に視界が変わる時を迎える。後は自由に荒野を駆け巡れるようになるだろう。

 

この宇宙の生命体は暗闇の深遠なる泉から生まれ、星星で魂を身に付け、月で心を覆い、この惑星地球で形を成す。この世を去る時には骨は土に返り、心は月に、魂は星に、精神は虚空に戻る。

 

ここは命あるものが在る場所、闇の虚空は垣間見ることしかできない。生まれる前とこの世を去った後の大いなる闇に抱かれたいものはただ座って静かに呼吸を整えるが良い。

                                           

光だけを見つめるものは、影に何も見ることができぬものである。人類は他の生命体を殺して命を存続させているにすぎない。真の光も輝く天使も要らない、夜から浮かび上がる昼をみて、影の向こうにある光に佇む。

 

この世をこの世から見るのは荒すぎる、しかしあの世から見るにはこの世はあまりに精緻に凝っている。昔の賢人は七代先の祖先と後の子孫を毎日の判断の基準とした。現代が視覚の時代だとしたら、普段は目に見える曾祖父から曾孫までの三代ずつが適当であろうか。あまりに長くするとヒトをこの世から抹消しなくてはならなくなるから。

 

沙漠の思想を起源にしながら、都会の中で暮らしそれを利用し続けることは、神の意思を蔑ろにする行為である。神の力を利用するのみで、諦念の行いを実行しない、神の前では恥ずかしく罪深いことだ。

 

未来に希望がないように感じているあなた、大丈夫です、前史の昔から未来に希望なんかなく、毎日、「今」だけを生きてきたのですから。

明日、核がこの頭上に落ちるとわかっていても、大豆の種を植えるだろう、なぜなら今は味噌作りにトライしたい気分だから。いつか死ぬことがわかっているからといって、今日、すべてを諦らめられる賢人は少ない。

死が在るからこそ今を生きる。悲しいのは諦めもせず、生きようともしないことだ。

 

人類史と同化     同化よりも的確な用語を調査

 

フィリピンの太平洋の海に潜った時の事。 そこにアジの大群がいた。幅20メートル、高さ30メートルの魚群が、揺れる水面からのスポットライトの下でゆったりと形を常に変える大きな渦となっていた。 数はわからない。千の単位ではない万だ。とにかく一杯だ。

初めは見蕩れていたが、次に無意識に彼らと同じ動きをしようとしたが、そんなことができるわけもなく、そのうちに、自分の居場所がわからずなり、急に体がこわばり、呼吸が乱れ、しまいには水を飲んでしまった。

でも感じるものがあった。 それは「一群で一つの生き物」だという実感。一が多で、多が一である瞬間。

そして海から上がり、椰子酒を呑みながら月の下でゆったりと確信がおちてきた。

「人類も全部で一つの大きな生き物ではないか、まるで大群の魚たちが大きな一つの繋がりの生命体であるかのように。」

 

そう考えればいろいろなことが腑に落ちる。川の中のメダカの一群、ミツバチの死んだ女王と働き蜂の変化、異常な事件に対するヒトの関心、マツリでのヒトの動き、もっと的確な比喩を探す

生命体は他と同化することによって自分の位置を確認する習性があるのではないか?それは視野に入る限りの集団とは限らない、もっと大きな共同体であっても、その一員であると感じる瞬間から、その共同体から世界を見る視点を手に入れる。これが面白い。自分の目から見る世界だけではなく、サッカーのサポーターだったり、村おこしだったり、オリンピックだったり、企業だったり、他の集団と一体となり、そこからこの世を見るということをしたくなることはないだろうか?

そしてもしかしたら生物は、欲やサバイバルや進化や慣習やモードや真理や科学や神ではなく、同化のために存在するのではないかと乱暴に言い切るとなにかが体の中で閃いた。

 

この宇宙は137億年前にエネルギーの塊が爆発して出来上がったといわれている、ロシア生まれのG.ガモフが提唱したビッグバン理論である。 それ以前に、収縮と爆発と拡張が無限に繰り返されてきたという学説はまだ確立されていない。

そして地球は45.5億年前に形となり、海の誕生が40億年前、それから2億年ほど後に、生命が誕生したといわれています。 最初の生命はRNAとリン酸と分子とででき、光の届かない海底火山の噴出孔から出される硫化水素を(食べて)分解することによりエネルギーを得ていたようです。 現在でもその末裔と思われる細菌類が大昔と変わらぬ暮らしをしている。 今、この地球上にいるすべての生命体は、もちろん私たちヒト科の全員のすべての命も一つ残らずみんな、途切れることもなくこの38億年前に誕生した命につながっている。 すごい!

 

そして、約600万〜500万年前 - この頃にヒトとチンパンジーが分化したとされています。

 

その後の約25万年前 - ホモ・サピエンス(現在のヒト)がアフリカについに出現。

ヒトは胎内から出生するまでに受精卵が魚、鳥、両生類、爬虫類、哺乳類と変化してヒトとして生まれてきます。一人一人が母の胎内で、この地球史38億年の生命の発展をたった10ヶ月で再現して、この世に生まれ出てきた。これもすごいことだ。

 

その後、10万年前頃にヒトはユーラシア大陸にも拡大していった。

 

ここから考えていきたいのは、私たちヒトは何を基準として生きているのか、言い方を変えれば、どこからの視点でモノを判断しているのか?ということです。倫理の問題もかかわってきます。

何と同化してきたのか、そしてしようとするのかということです。同化より相応しい語句や考え方があればご提案ください。

 

古代の倫理学説においては,人はいかにして幸福を達成しうるか最も善い生き方と行為の仕方は何かというのが,中心問題であった。その後、近代以降は実践的判断の問題、つまり,いかに行動すべきか,そしてその根拠は何によって正当化されるのか,ということでした。すなわち、何が善であるか,またその根拠と原理は何かということです。その時の根源の問題は自己とは何か、ということでした。

これがソクラテスの問いである、〈汝自身を知れ〉ということです。

 

そこでまた「同化」です。あっちは、汝は、そして、ヒトは何と同化して、判断の基準としてきたのか?ということに焦点を当てて人類史をもう一度みてみたいと思います。

 

まずはホモサピエンスと地球生命体との関係からです。

我らの祖先は、「採集」生活をして暮らしていました。そして時々、簡単にできる「狩猟」もしたのでしょう。

この頃は地球生命体の法則の中で私たちヒトは暮らしていました。その法則の前で、振り回され、餌と水を探し続け、我慢し、諦観する、他の動植物と同じ世界の一員でした。

キツネやタヌキやシカやクマやライオンやサケやクジラや雑草や大木と交感して暮らす世界です。今では神話的世界とよばれ、童話や伝説や神話の世界です。

(神話は山や森や沙漠の中で伝え、聞きするものです。伝説は森で、民話は大地で、小説は都会で読むのが相応しい。場所によって言葉の意味の深さが変わっちゃうのだから)

 

ヒトは地球と同化することで、善悪や倫理や行動や共同体のルールなどをその視点で見つめなおし、自分の判断の基準としました。

地球生命体とヒトは絶えず結びつき、ヒトは自己や家族や共同体からの視点だけではなく、地球の視点からこの世を見ることをしたと、わっちは思っています。

 

それから、人類史の中で最も大きな事件が起こります。

身体、コミュニケーション、知能、知恵、道具、効率化好き、時間を使う計画性、そして利便性を求める欲を一つの鍋に入れることで、画期的な新たな世界を拓きました。

 

カミであり、父であり、母であり、仲間である地球を利用し、コントロールすることに着手したのです。

農業と牧畜の発見です。

採集と神話がヒト科のベースの価値観ですが、この枠の中に、自然を自分たちのために計画的に利用することを発見したのです。大地を、他の動植物を、時間をヒト科のために、再生産する技を使い始めました。

 

祭儀や神話や生活の中で、地球を自分の一部と考えていた者たちにとって、これは後ろめたいことでもありました。

母なる大地に穴を開けヒトにだけ必要なものを掘り起こしたり、引っかき傷を作って穀物を植えたり、地球の子である木々をなぎ倒し、神聖な牛の乳を横取りしたり、仲間である鶏が大切にしている卵を奪い取るのですから。

ヒトにとって価値のないものを、他の生命体の事情を考えず、価値あるものに変え、今までとは違う生態系を作り上げていく作業です。

 

地球との同化ではなく、新しく同化するものを求めた。それが人間共同体です。Humanismのはじまりです。

今までの地球からの視点が弱まってきたために、必然的に仲間との共同体からの視点が占める割合が増え、判断基準の重要度が増しました。

 

そうして、いままでの地球生態圏にヒト科生態圏を作り上げていきました。

ただヒト科の総数は旧石器時代後期には300万人ほどで、地球はまだまだ大きく、地球生態圏に与える影響は微々たるものでした。

 

しかし、この農業・牧畜の実践により、もう一つの大きな変化がありました。

食物の保存です。米、コーン、小麦、チーズなど毎日の収穫や短期間で食べきらなくても、保存の利くものを貯蔵することをはじめました。その年の天候や、地域差や、技法や、各共同体で貯蔵の大小の差ができました。

そして、この保存性によって、人口の集約が可能となり、ついに文明が起こりました。

ここから人類史の速度は加速します。

過剰の食料が生まれ、それによる不労の時間ができ、専門家が生まれ、階級が特化されました。

良く言えば、芸術やスポーツや知識や科学や哲学や娯楽の時間が爆発的に増えたのです。そして同様に負の時間も。

 

 次の画期的事件は欧州で起きた宗教革命です。ここで人類史の中で実は画期的なことが起こったのです。

宗教や革命なんかという文字に惑わされてはいけません。これは地球との交感や体感を捨て、ヒトによって書かれた文字や合理性を優先するというとんでもないことが肯定された出来事でした。 ものの善悪や行動の判断を地球生命体としての視点や共同体の視点から、ヒトの論理の視点に移行することを意味するからです。 地球のことを考えず、ヒトのことだけを考えてよいという免罪符を得たのです。 カトリックの免罪符を否定して、プロテスタントは新たな免罪符を発行したのでした。

人間共同体からではなく、ヒトの合理性に同化して、そこから、人間を見つめ直すという試みでした。

 

地球に対しての思いやりの心で暮らし、地球に悪いと思いながら、肌を引っ掻いたり、地球の子であり仲間である木々を祈りながら一本ずつ切っていた者たちから、人間の合理的な立場から、平気で母なる大地に穴を開け、ヒトにだけ必要なものを掘り出したり、森をなぎ倒す者たちに変わっていきました。

祈りも、地球と交感をする瞑想から、自分の願いを神に伝えることへ変わっていきました。

 

地球を傷つけるということと人間共同体の利益のためという葛藤の中で暮らしていた者が、聖書から恣意を持って編集された言葉を盾とし、合理性という槍を持つ破壊者となったのです。 文字のように見えるもの以外は信じないといって、地球感覚を持つものをアニミズムと蔑み、共同体感覚を持つものを伝統主義と笑う教育がはじまりました。

 

この考えを支えたのが、急速に増えてきていた塀の中で生活する人たちでした。 塀の外に出なくても暮らしていける人たちです。大学の教師、税金で暮らす公務員、オーナーや権力者たちです。当然、中には地球感覚を持つ優秀な教師や公務員やオーナーたちもいましたが。

 

塀の中では、ヒトは地球生命体(母なる地球)の一部であることを再認識する交感の場が減り、これまで自然崇拝と共存しながら成り立っていた(シンクレティズムとしてのカトリック教会など)が交感ではなく形を優先してしまったことから、形骸化してしまい、必然的に内部崩壊が起こってしまいました。

 

宗教革命者はカトリック教会に対する不信感がアンチ・母なる地球ともつながってしまい、同化するものを、地球生命体から書かれた文字に焦点をずらしてしまいました。

 

(本来はカトリックの腐敗した政策や儀式を否定する時は、実践の場所を塀の中の都市から外の森へという場の転換に求めるべきであったが、同じ塀の中に留まり、カトリックを否定したため、後に、私たちの現在につながる、文字や論理を他のものより優先する法令主義や合理主義に囚われ、自分の首を自分で絞めることになっていく。)

カルヴィンも平地から森に近い湖畔に場を変えたが、結局は環境の良い街での出来事だった。

当時のジュネーブの地図をさがす。

 

この同化の対象の変化が、ルネッサンスよりもデカルトよりも、中世から近代になった、起点だと思っていますがどうでしょうか?   

時代はメディシンマンから医者へ、そして魔女から科学者への流れです。

やっている方向(ベクトル)は今も昔も同じなのですが、地球とのコンタクトがあるかどうかに違いがあります。

これまでの地球生命体の一部である感性からの視点が簡単に否定されて、顕微鏡や望遠鏡を使った可視の視点を持つことが、客観的で懐疑的で次の世界を拓くカッコよくて正しい視点として受け入れられました。 ここでも、地球生命体のすべての命が繋がっていることが「見える」カミの視点は嫌われ、現在のように、月から見た地球のように、人工衛星からの視点が人気になっていったのです。(今でも人工衛星の視点をカミの視点だと勘違いしているヒトが多いのですが、あれは機械ですから生きていませんし、俯瞰から見るだけなので、足元にお気をつけください。)

 

宗教革命の転換は画期的ではありましたが、新しく提示された文字と合理性に同化できるのは一部の妄信者か書斎の中に住むインテリたちです。それを信条にすることはできますが、同化することはできません。

なぜなら生命体は合理的ではないからです。正確に言うと、合理性で説明しきれない部分を持つからです。

カトリック教会を否定することによって、彼らの信仰や生活の基準の一部である、地球生命体感覚や地球リズム体感共同体までも否定してしまった人が多く輩出したのが残念なことでした。

 

中世共同体が崩れる中、ヒトは、新たに同化できるものを探した。

それが「国民国家」である。 古代国家やPolisではなく、英語でStateの近代国家のことだ。

 

地球生命体の心地よい交感を失い、大地の共同体に移行し、その後、文字をはじめとするヒトの合理性に、判断や倫理の基準を移そうとしたが、ヒトは理性以外にも、感情や魂や体があるので、一部のインテリにしか人気はなく、古代からあるギルドやカンパニーや軍隊などの職業共同体や都市Polisや中世都市に同化の対象を置くものもいたが、規模がどうも小さく、ヒトは新たな自己投影ができるものを捜し求めていた。 この時期に自由に移動し、「ムラ」を出ることによって、外部とであい、客観的に自分を見つめる視点を手に入れ、外との大きな違いも経験していた。すると言語、風習、神話、民族、儀礼、歴史、地形など共通要素を持つ大きな共同体がうかびあがり、領主らの利権を奪うことを試みたものによって、国家と国民が発明された。

 

革命の結果として、「国家」は、「国民」だけではなく、土地も「領土」として「所有」した。

そして所有権は1789年のフランス人権宣言で、自由,安全および圧制への抵抗と並んで自然権として位置づけ(2条)

られたが、領主制の時代には、土地を持っていない貧乏人のためには都合の良い正しい権利だと思われたが、もう次の年には、この貧乏人たちが他の国へ行って、自分たちが大地主になるために、そこにいた居住者に安値で手放すように画策する時の道具としてしまった。

良策であればあるほど、時間が経過することや、分化線の外では恐ろしい凶器となる。

策も生き物であり、良いものであればあるほど、時間がたつと、腐敗が深くなる。

「最善のものが腐敗すれば、それは最悪のものになる

 

そして次の事件は産業革命です。

これもインダストリアルや革命の文字に踊らされていけません。

大地のリズムから離れて暮らす人々が大集団となり階級が誕生したというのが地球生命体からの視点です。

そして塀を作る場所に画期的な事件が起こりました。今まではヒトの文明社会の街の周りに自然界とを分ける塀を作りましたが、ついにコントロールできない自然の周りに塀を張り巡らせはじめた。自然と人間の立場の逆転が起きました。

例えばイギリスの第一次と第二次エンクロージャー事件です。 森の周囲に住んでいた村民を追い払い、森を切り払い、塀を作り、そこに羊を飼うこと地主が始めした。Gentlemanの誕生です。トマス・モアが「羊が人間を食う」というように、村は廃村になり、村人は都市の不便なスラムなどに追いやられた。

法律と議会での決定という大義名分で推し進められたが、実際は人数の多数決ではなく所有面積をもって決定され,法律で決定され、軍事力で強制され,18世紀後半~19世紀前半のわずかの期間に,面積にして255万haの土地が囲い込まれた。東京都の面積は2000Km平方 比較の計算      山手線の内側 63km平方

そしてまた都市の中に塀で囲った自然として、ウィーンのシェーンブルン動物園が一般民衆に1765年に公開された。

 

なぜ、18世紀に起こったのか?

わかりません。調査必要  人口の集中度が増し、大都市生活が可能になったというのが一つの理由だと思います。

でも1760年のイギリスでは以下のような基盤があった。

 

地球との交感や母なる大地の恵みで暮らす生き方から、母なる大地の気持ちなんかかまわず、まずは生産性だろうということで、ヒトの得意な効率化を高めていった結果、食料をはじめとする生産物の余剰が生まれてきた。 

 

ところで、ここでよく考えてみれば、食べるために人は働く、といいますが、実際、どれぐらいのカロリーの食事を取れば人は生きていけるのでしょうか? 一日あたり1400カロリーだと牛乳2杯と食パン7枚ほどですが、これぐらいあればヒトは活動できるのではないでしょうか? 再調査

ヒトを生きさせる遺伝子であるサーチュイン遺伝子(Sir2)を活性化させるには一日の摂取カロリーを1200カロリー程に押さえるのが良いという実験結果も出てきました。

 

そうすると、ヒトは思ったよりも簡単に、モノを交換することで、農地や家畜にとらわれることなく生きていけるのではないでしょうか?

生活といえば大変ですが、食べるだけならば、食料を得るためだけではない余剰の時間を作ることは難しいことではありません。

 

以前は一部の特権階級だけだった余剰の資金と余裕の生活と時間が、少しずつ一般の人が手に入れ始めた。

以前にも時間を自由に使える人たちはいたが、時間とモノと技術とエネルギーと新たな地平線を持つ人たちの大集団が人類史の中で誕生したのです。

 

もう、今までのように人のことを土地や家畜や教皇や国王や慣習で縛り付けることができなくなったのが、この時期からの特徴です。

 

ここでもう一つのキーワードが「移動」です。

 

この時代は移動には多くの危険が隣り合わせでした。村から出ると、狼と風雨とも出会い、新たな街では、怪訝そうな目を向ける人々と出会いました。 そんな苦役の中、なぜ人は移動したのか。それははっきりとした目的があったからです。逃避する者、商売する者、冒険する者、闘う者、言いたいことがあった者もいました。

 

自由な移動にはその区間が戦争していないことが必要です。ですから歴史上、 ヘレニズムPax ローマPax シルクロードPax アメリカPaxと呼ばれる時期とヒトやモノの移動の量は比例します。

「移動」は今までにない文化圏でのコミュニケーションを強要するためにヒトに多くの刺激を与えます。

共通ルールが求められ、外から認識できるように、肩書きや服装などレッテルで表現する必要性にせまられ、挨拶をはじめ社交性も問われ、文字、絵、図、音楽、映像を意思伝達の手段としました。移動者の新地での表向きのペルソナが加わりました。

 

まずは自分の暮らしている所を離れたことによる、個の力のなさの自覚からはじまり、そこから始めなければならないゼロからの構築、そしてもしかしたら、その時に必要な新たな場所での見えない力の流れを読む能力を自分が使っていることに気がつくこともあるかもしれません。他の中で暮らすために自己を見つめなおす機会が増えるため、個々の特徴や源に関心を持ち、無意識を意識化したり、自分が正しいと思っていたことが外部から見れば悪いことだったりする驚き、それから生じる悔悛、転向、もあるかもしれません。 またどちらの立場も理解する確信犯として生きる必然性を背負うかもしれません。

しかし、ルールが違う世界の比較を体感することにより、その時その時に自分に都合の良いルールを適用してしまい、多層で見る視点を忘れてしまうこともしばしばおこります。

そして、新たな場所では長期ではなく短期での結果を求められることが多いです。特に農地など郊外でなく、都市部ではこれが顕著です。明日の宿代や食事代が必要ですから。短期でものを考える輩が急増しました。

 

福音主義教会や、時代は違いますが、プロテリア思想啓蒙のトランク劇場や毛沢東の紅軍長征と共通するものは、移動集団の共有性、運命共同体、戦い、布教、宗教的精神性、サバイバル感覚、使命です。 移動の特徴をはっきりと文章化するほど固まってきていないが大切なキーワード。

 

また移動を容易にするため、穀物などのモノでの交換よりも軽くて、どこでも、なんにでも交換できる貨幣は重宝されました。新たな土地で密接な関係を持たない移動者にとって貨幣は必需品です。

 

この頃から、食料を得ることに精一杯であった者が、「自分がしたいこと」を考え始めた。「しなければならないこと」から「したいこと」への世界が急に大きく拡がった。

 

そして第二次産業革命とも呼ばれる重化学工業化が19世紀後半からはじまった。この時期には、今までのエネルギーは人力と動物と火と風の力だったが、燃える石と水を使うことに気がついた。地球に住んでいた動植物の死骸である眠っていたエネルギーを効率的に使う方法を見出した。そしてこの地球の共同財産を独り占めする方法も。

使えるエネルギーがあるのならばと、一人当たりのエネルギーの使用量も急激に増えた。 エネルギー会社はヒトの欲を上手に誘導していった。産業革命以前の家庭や仲間規模の生産から、大量生産とそれらを販売するコマーシャリズムをベースとした機械化と効率化と洗脳が進んだ。

 

産業革命以降、都市は爆発的に拡大し、大地は石畳やコンクリートに覆いかぶさられた。見えない塀は拡大を続け、そこの内部で生まれ育ったものは、塀を意識することなく、塀の中のルールを外の世界まで適用することに一つの疑問も持たない者まで増大していった。

水源も空気を作る森も農地や牧場もない都市は、自分たちだけでサバイバルすることはできない。これらは外の世界から持ってくるしか生きることができなくなった。 

 

そしてコンパクトで姿かたちを変えられ保存できるマネーは都市生活者にとって絶対に必要なものになった。

そして中には「お金は万能である。何でも買える。幸せも買える」という人たちも出現し、「マネーがマネーを生む」という資本主義のシステムが一挙に巨大化した。

大都市を象徴とする国際資本主義派、大地を象徴とする共同体主義派、そして国家を象徴とする税金市民派が闘う世界になったことが鮮明化された。 

そして各自がモノや経験や安心や地位や華を持ちたいという欲に拍車がかかった。

 

約70年前の第二次世界大戦後の独立国は100を超える。イタリアにローマが編成されたのが、1870年なので、紀元後の歴史の2000年という単位で見れば今のヨーロッパ諸国もあまり変わりない、新しい国である。

世界各国の憲法は、「福祉国家」であることを明文化し、国家の視点を持った、国民(国家を同化した人民)は、必然的に何かあった時は国民の生活は国家がきちんと面倒をみるものと思うようになった。 「なにかあれば国や行政がなんとかしてくれる」という幻想を抱くようになった。19世紀から続く欧米日の官僚システム、隠れ植民地政策は優秀であったので、このやり方がずっと機能していくかのように歴史は進んでいた。今までに国家を作る必然性が人民・民衆・庶民・大衆 違いは何?になかった地域でも、「開国」させられ、形だけは整わせられ、多くの独裁者と利権階級と生み、またこれらを搾取する外国人を増やした。

 

日本では、江戸時代後期に欧米を再発見し、侵略される前に、経済的・軍事的・政治的・エネルギー的・思想的・文明的・物質的豊かさの必要性を感じ、全力で、「右肩上がりの成長神話」を共有し、一体となって働いた。 そして100年後にGDPでは世界第二位の数字の上では経済大国となったのである。

成長を続ければ、豊かになり、望む生活ができると思っていた。経済成長していれば、より良い明日があると、多くの者が信じようとしていた。

 

人間界の経済曲線は谷と山を繰り返しながら、緩やかに、時に速く成長し続けていた。

そんな中で、この曲線のパターンの急激な変化が起こり、対応できない企業や公共団体等の「職業共同体」が崩壊を始めた。 そして救済を国家に求めることになる。

しかし税金による相互自助共同体の国家に金も策はない。 あるのは借金だけ。

 

そして、もともと国家は創作された同化対象であったので、疑い始めたら、一度に信用をなくしていく。

国家を信用しない国民が増えてきた。こうなるともう国民とは呼べない。

その時に頼りになるのが国家からも共同体からも大地からもとらわれないもの、またもやマネーだった。

 

こうして一部の人たちの中で、金融を国家統制から国際金融市場へと委ねる流れが決定的となった。

これによって、国家は、グローバル経済の中の一組員に格下げされたことを深く再認識したのだ。

ヒーロー気取りしていたファンドによるアジア危機やEC危機などの例を挙げておけばよかろう。

 

実はこの国際金融市場はロスチャイルド一家の例を見るように、昔からあるもので新しいものではない。 やっと一般の人にも視野に入ってきたのだ。そして次にこの機構を支え利用した、エネルギー会社や武器会社があり、それらを国家が購入することで、国際金融の言うことを聞かなければならない立場ということを自覚しなければならなくなった。

そして同化する対象を、国家から世界マネー金融が新しく加えるヒトが急速に増えてきたのだ。この頃から世界主要マネーや金融マーケットの数字がテレビの片隅にいつも現れるようになった。

 

現在はまだ人は「国家が何とかしてくれる」幻想に頼っている。 というよりも、国とその決定機関である行政にしか、すがるものを思いつかないということなのかもしれない。

それまで企業やムラなどの共同体にいた個人たちが、個人が裸一貫で世間の荒波に直接放り込まれるようになった。 つまり、個人が全てのリスクを背負わされる社会が到来したのである。そして「格差社会」がクローズアップされるのである。

 

中には、「カネで何でも買える」というヒトまでも出てきて、マネーは道具から、共同幻想へ、そして幻想を超えて、いま正に制度として確立したのである。

 

ところが、である。バブルやローン制度や証券化システムなどの経済崩壊、安全や正義や民主主義などの大義名分などで他の国々を隠れ植民地化するビジネスや政治や信条に対する信用崩壊がおきることによって、各自の心の内部から、この世界金融マーケットに対しても疑いを持つようになってきた。 マネーは大丈夫なのか?と。 一枚一セントで造られる印刷物そして液晶の画面に映る数字の羅列なのだと。 1944年10月ギリシャ13800パーセント、 1923年10月ドイツ29300パーセント、1994年1月ユーゴスラビア3億1300万パーセント、2008年11月ジンバブエ790億パーセント、その他にもタンザニア、ブラジル、ボリビア、ニカラグアなど各国でインフレは起こり、そして価値がなくなったブラック・サーズディ、サブプライム、ライブドア、リーマンの証券で痛い目にあった者は脳裏をよぎる。

ちなみに史上最悪インフレは13,600兆パーセントの1946年のハンガリーで、ゴミよりも価値がなくなった紙幣を捨てている写真もある。ゴミの紙幣の額面は、 100,000,000,000,000,000,000 (1万京)。

 

そして、この綻びをますます大きくすることが、マクロの視点(地球生命体)からも、具体化してきた。人間圏が膨張する中、地球温暖化問題やエネルギー問題や環境汚染の問題や食糧問題や遺伝子問題、免疫と細菌問題、南北軸のズレ問題などである。全地球の人口の半分を占めるアジアの勢いを鎮める策を持たぬ肩書きばかりが大きくなった賢人ばかりである。

 

生物としてのヒトはモノだけで生きているのではない。害のない水、空気、食料を必要とし、社会的な生物の人間としては先祖や子孫などの家族や仲間との生活、同化できる共同体、安定した生活のためのプランも必要だ。 サバイバルするためには、生きていける環境を保持し、継続しなければならない。持続可能な暮らし方である。

 

そして生命体が地球で生きて行く一番初めの基礎は空気と水だ。

まだ命と同化する経験がないのならば一度は地球生命体感覚を試すことをお勧めする。

そして他のものにも。複数、そして多層に対応するのが大切だ。今の「いじめ」や平等主義の成績をつけなかったり、全員が手を繋いでゴールしたり文字狩りや格差社会の根は同じところにある。 同化する、他の言葉で言えば、属したり、参加している世界が少ないことから起こる堅い動きのない価値観が出来上がる。多層の世界に同化することで、区別されることや区別することに大きな抵抗はなくなるだろう。機会の平等は必要だが、結果の平等はこの世にはない。皆が違うことから始まる。みんな得意な世界や好きなことは違うのだから。

 

君はこれから何と同化する?

まずは見えない塀の外に出て、筋力と心を鍛えるのはどうだろう、ただこれから先、塀の中でサバイバルするだけのためにも。

 

 

第三章 今の場所

人間の罪 急激な数の量大 場の善悪 多層 弱点 山と谷 4から5へ

 

人間の原罪

はじめに、人間のやっていることを考えて欲しい。

生命体はは他の生命体を、植物を、動物を、菌を殺して、食することによって生きている。すべての生命体は、他の命とつながり、殺して殺されて生きている。連鎖の中で成り立っていた時はよかったが、近代以降、一人一人があまりに多くのエネルギーに頼ることによって暮らすことが当たり前となって、そしてそれ以外の生き方ができないかのように思っている者が多くなった。

この過剰なエネルギーを消費することであちらこちらから悲鳴が聞こえてくる。水、空気、熱、金属汚染、雨、土、細菌、生命体。

そしてヒトの人口爆発。個々の欲が地球を搾取しているが、誰も自分が消費した空気と水の同等の空気と水を生産するものはいない。この自然からの一方的な搾取は新たな人間の原罪であり、森に住む先住民も含め、現代人の何人もこの罪から逃げることはできない。

古代や中世のように自然に抱かれて暮らすにはあまりに多くの破壊を毎分毎秒し続けている私たちである。

 

ただ現代都市のライフスタイルを持続することは、森に住む民の何十倍の水、空気、油、金属、物質を使い続けるのだろうか? この日常を送る私たちは、この全ての命を産み出してきた地球に対して、どのような返礼をしているのだろうか?

ただ資源を使いっぱなしで暮らすのではなく、各自が生きている間に、謝辞と喜びを共有するのが義であり、私たちと子孫にとって一番大切なサバイバル方法で、この世界で生き続ける、生存方法ではないのか。生命体に必要なものは空気と水と炭素の化合物である。これを維持するのがこの地球に存在するものの一番大切なことではないのか。

 

国民である前に、親のいる子供であり、その前にまず、地球に住む生命体なのである。

納税や教育や労働の義務の前に、家族の中で暮らす一員であり、その前に空気を水を大地を生産し維持することが、人間の義務なのではないか、もしこれからもこの地球で生きようとするならば。

 

地球生命体からみた価値観と人間の個の欲とは同時に存在する。

相反するものがどちらもがここにある。

そんな中で、はじめにすべきことは、地球から都合よく、必要なものを一方的に取っていることを認めることが必要なのではないか? 他の生き物を殺すことによって生きていける生命体の性(サガ)をはっきりと意識することだ。

もし貴方が善人でいたいのならば、悪を自分の中に認めて暮らすことがはじめの一歩である。

 

場所が変われば正義も善悪も変わる

一つの正しさ、義、善、公正、根源、真理、スタイルがあると思いたい気持ちはわかる。

しかし、万事流転のごとしすべてが瞬時に変化し続けることがこの世の唯一神の存在だ。

法則も規則も場所によって、時間によって、変わっていく。

あなたはまったく同じことをしているのに、意味がまったく変わってしまった経験はありませんか?

一度試しに街を出て、郊外に、田畑に、林に、森に、湿原に、山に、沙漠に行って、遊んで見ませんか?

 

 まずは塀の外に出てみることだ、塀の外では正しいことが塀の内では間違ったことになったり、塀の内の善が塀の外では悪となったりすることに気がついただろうか。

体を移動させるだけで、一瞬で一つの行いが善から悪へ、悪から善へ変わる。リングの囲いとどちらから見るかによって瞬時に変わってしまう。

 

塀から出て来い、そんな固まった言葉しか使えない世界から出て来て、言葉を解放させてやれ、

固い形のあるものは、こちらから殻を破ってあげて、元の本来の形なき世界に融通無碍に戻さなければならない。

言葉は泣き笑い、怒り悲しみ、そして、とけていくぞ、

 

塀を作っては壊しまた作ること、もしくは外に出ては戻る

楽しいのは、曼荼羅を描いては消す仏教徒のように、作って壊すことだけど、作る技がないものは、まず塀の外に出ることからはじめよう。 ただ一人、体ひとつで風を感じながら野原を歩くのも楽しいし、先達と一緒に行くのも素晴らしいし、書を持って山へ行くのも、書が支えになる時があるだろう。

 

塀を壊すのは革命のシンボルだ。

壊すだけの革命はただの人事転換にしかならず、同じ匂いをした若造がしばらくしてまた同じことを繰り返すことになる。変えるのは社会のシステムではない。中の人間が同じ考えで行動するならば、いくらシステムを変えても勝手な解釈でまた元の利権を貪るだけだ。 革命とは私たちの考え方とそれらを実践した毎日の生活であり暮らしだ。革命したがるものほど、味噌を作ることもなく、インスタントな生活の中で、お取り寄せの有機野菜と資格の中で暮らしている。

革命の気持ちが在るのあらば、所有権の記載されている全登記簿と世界金融のHDが消滅させることがいつでもできる覚悟を持ちながら実行はせず、ちゃんと社会にプレッシャーを与える力をため、その意志を次の世代に伝えろ。

 

単層から多層へ 矛盾を受け入れろ、すべては二律背反でしかない。相反するものが一致するcoincidentia oppositorumがこの世の初めの事実だ。 一人の女性であるということは 娘、妻、母、社会人、人間であることを同時に受け入れることで、誠実に生きるならば、お互いの立場によって言うことは矛盾する。言葉を使って説明しなければならないのならば、この矛盾を受け入れたところでしか事実を語ることはできない。

 塀を作った者は、塀の外の世界を知り、その塀を維持するためにも内側の世界を自慢する。問題は塀の中で生まれ育ってしまった子供たちだ。塀の中の世界を当たり前として育った、優しくて賢くてジョーク好きで善人で純粋な子供たちだ。いくらツッパッていても、スネテいても、ネジマガッテいても、病的でいても、ギャルでも、オタクでも、パンクでも、ヒッキーでも。ただ塀の外の普通の自然の世界で、工夫をしながらサバイバルしながら生きたことがない。

 

今度は場所から家族の話に変えよう、貴方が女性であれば、両親から見れば「娘」であり、彼から見れば「嫁」か「彼女」であり、子供がいれば「母」であり、もしかすれば「孫」や「祖母」であり、家を出れば「民」である。立場によって言うこともすることも変わる。どの立場も貴方である。一見すると其々の立場は矛盾しているが、その集合体が貴方である。それを一つの価値基準にまとめるのは場に対して怠惰で、あまりにも人間の現実に遠すぎる。

 例えば夏の祭りでアル中の親父を見つけた時に、社会人としては彼に酒は飲むなといい、先が長くないことを知っている娘としては、呑ませてあげたいと思うか、少しでも長く生きて欲しいのですぐに止めて欲しいと思い、母としては、自分の子供の手前では、ちゃんと父が自分自身をコントロールする姿を子供に見せて欲しいと思うか、アル中の馬鹿な父(子供の祖父)の心意気と死に様を子供(父の孫)に見せてみろと思うかもしれない。 立場によって思うことも感じることも行うことも変わってきてしまう。 このぶれが大切なのだ。 

 

矛盾、反対の一致、弱点、葛藤

世の中には、ダブルバインドでは価値観や方向性が矛盾して、パニックを起こすから、統一の見解を出してその目的に向かってひた走れという者がいる。

この世はたった二重の矛盾しかないほどシンプルなものは珍しい。ダブルバインドで悩むことはない、トリプルバインド、そしてカルテットバインドの中で、その時の好き嫌い、流れ、世情、気分、TPOに合わせて自分の気持ちを決めればいいのだ。

 

怖がることはない、矛盾を見つけたら、進んで受け入れ、自分の体の一部とせよ。

一つの目安は、Ambivalence[反対の一致]の世界 。 ここには本当の面白いことがある宝の山だ。

 

山と谷

この現実世界にはユークリッド的な直線は、重力や電磁波や質量やスピードによる時空の歪みの影響で存在しない。

どの直線も微細なリズムを持って、震え、揺らいでいる。

だから、この世を直線よりも「流れ」として見ると面白い。いつもと違うものが見えてくる。よく見ると光、音、電磁、どれも流れるものは波動だ。

また喩えで、人生に山あり谷あり、という。

良いことの後には悪いことがやってきて、調子の良い時に戒める時や、調子が悪い時に励ますことによく使われる。

 

またこの宇宙の法則をよく体感していないものが、山頂を過ぎたのに、我武者羅に右肩上がりにがんばってますます苦しい立場に人を導いたり、右肩下がりの意味を理解せず、その時期の状況や環境を批判するだけで右肩下がりの歩き方を知らないものも多い。

 

大切なのは山と谷の頂点である転移点をちゃんと見極め、体で感じ、いままでと反対に向かうものが何かしっかりと把握して、山頂からは靴紐をしっかり縛り、足裏を全部地面につけてゆっくりと下がることだし、谷から上る時は逆に靴紐を緩め、前傾姿勢で歩くことだ。下る時にあまり腰を引いていたら、重心が後ろにきて尻餅をついてしまう、膝や足首の柔らかさを利用して、重心を土踏まずの上に持ってくるのがコツだ。

 

苦あれば楽あり、楽あれば苦あり、有為転変は世の習い、物盛んなれば則ち衰う万物流転、盛者必衰

All worldly things are transitoryLife is full of ups and down.All that's fair must fade

 

綺麗な曲線は人を酔わす。

吸う息と吐く息の阿吽、潮の満ち干、日照時間、月の満ち欠け

 

 

でも、調子に乗っていちゃあ、ふざけんじゃないよ、人生に対して山あり谷あり、なんていうのは、余裕があるものが言うセリフだから。

 

波動には山も谷もある、しかし人生はずっと谷ばっかりというのが山ほどある。いや人類史的には、現在の全地球人口比的にはこちらのほうがマジョリティーだ。

 

そんな時は、自分が立っている唯一である場所の谷を見つめろ、そこから逃げるな、今はここにしかないのだから、そしてこの谷で暮らして、これらを自分の血と骨にしろ、

プラスから見ればマイナスと呼ばれ、利点から見れば弱点と呼ばれ、正から見れば負と呼ばれ、光から見れば影と呼ばれる。

だがここが今、立っている場所が影ならば、光の視点なんてまやかしだ。足元を見て、そこからできることだけをすればよい。

ここがただ一つの出発点だ。

 

弱点を磨け、

泥炭を使ったウイスキー、目亡の按摩、山の自然農法、火事の後のタラの芽、沼地のセリ、馬鹿のイワン、足の遅いボランチ、金のない旅行者、飛行機に乗れない密航者、身軽な路上商売者、資金のない移動屋台、斜面地に作る洞窟家屋、水がないところにできたワイナリー、冷寒高地のアルパカ放牧と干しジャガイモ、鍋一つで作るどぶろくやビール、捨ててあるアミで作ったカッパえび煎、川原のテント生活者、商売にしない違法コピーで著作権廃止、森サバイバル生活可能で軍事費大幅減額、外国人の漫談、中卒の実業家、震災の後のコミュニティー、

これこそ庶民の生き方だ。

それでも、どうしようもない時は夢を見ろ、この世の儚さを笑い、叶えぬ大きな夢と夜までに叶う夢を見て生きよ。希望はなくても夢を見ているうちは生きていける。

 

同化するものからの視点

地球生命体

共同体

企業

世界金融

ヒトの合理性

宇宙

 

月から地球を見た視点は神の視点ではない。

あれは俯瞰して、全体を見えていると勘違いしてしまう危ない罠だ。生身の人間が見ることのできる視点ではない。莫大な金をかけて生命維持装置がなければ見ることができないものだ。

神の視点とは何か?この世界のすべての命が一つ一つ全部が一つでつながっているのが見える熱い視線だ。

 

4から5へ

 立っている場所で同じものが違うように見えることがある。

森の中を歩いた時に、見える木々は大地から突き出た幹と枝と樹皮と葉脈だ、しかし上から見た森の樹冠は淡い新芽と濃い葉々が連なる。そうGoogle Earthから見たあの視点だ。森の中での生活をしない者は、迷子になることを嫌い、いかにそこから出られるかを調べるかのように、この視点で世界を見ようとする。

でも考えてみてくれ、この視点は私たちのものではない、人工衛星からの視点だ。そしてまるで神かであるかのようにこの世を語っているものの視点でもある。

 

この視点でものを語るものは時に自分を全能の神に見立て、この世界を支配しようとする。

上から見ることで分かった気になってしまうのである。

 

権力者もこの視点で世界を見る、神のふりをする偽善を隠しながら、今日も悩み苦しみ祈る。

 

統治者は上から見た平面を全世界にたとえ東西南北の4つに分け、この世界を知った気持ちで、自分がこの世を支配しようとする。 4の倍数である扱いやすい4、8、12を好むのに対して、 怖がり嫌うのはこの数に1を足した数の5,9,13だ。自ずからの視点を入れたプラス1を加えることで完全が表現され、統治者が必要とされなくなってしまうからだ。

この「1」が大切だ。

 

94×2+1、 13 4×3+1、 174×4133 4×4×2+1(観音三十三応身図

 

西洋で5を語るときは、フランスの映画監督のように、超人として扱い、人間を越えたものとして捉えてしまう。5はただ普通の私たち人間だ。なにも特別な存在ではない。ただ全体と繋がっている人間だ。

そして5は、整理された地図のような4ではなく、森の中の世界だ。

森の中でよく道を間違い、その度に来た道を戻り、また新しい道にトライする。失敗と修正を楽しく繰り返す場所である。 

失敗が貴方に道を教えてくれる道標だ。だから俯瞰図で把握して、物が分かったかのような気になっちゃあお終いだ。そんな地図はそこにおいて、いざ森に突入だ。

この世はシンプルだ。自分の立ち位置を見るだけでいい。 もし好きであれば、そこからただ一歩、足を前に出すだけだ。 

 

まずは都市の外で暮らす技を学びましょう。怖がらなくて大丈夫、この400万年もの間、私たちの先祖ずっと何万年世代にわたって、やってきたことだから。よき先達が多くの叡智を残してくれているから。

 

目指すところ  塀の外に出て、サバイバルして、また塀の中に戻ってくること

いっぱい眠り、一日一回は汗をかき、あまりたくさん食べないこと

みんなの共有地 

空気と水を創る

共給共足と地産地消

小さな共同体を持つ 

金の要らない人間関係

命と気がある ヴァイタルな食事

塀の中に戻ること

塀と中と外、そして田畑や森や山に自由に行き来できるルートを創ること

 

塀の中で生まれ暮らすことによって、私たちはとんでもないものを失ってしまった。

宇宙や神との交信や正しいことからはじめるのではなく、自分のやっている生活を省みること、そしてその悪行を自覚して、塀の外に出て、矛盾を友達とすること、そして、まずは地球の生命体と暮らすこと。

平和のための闘争、地球生命体との合一、仲間の中での役割、命の最重要の要素・空気と水を創る作業、雑菌との共生。

幸いあれ!

都会に塀の中に生まれてしまったことこそが現代の我々のスティグマであり原罪である。そして自慢の原動力だ。

 

なにも悲観することない。

これ が いい のではなく

これ は いい のではなく

これ も いい のではなく

これ で いいのだ。

 

都会に生まれた都会人に告ぐ。

心に体力をつけ、塀の外に出てみない?

そしてたまには暮らすのもいいよ!嫌になれば元の部屋に戻ればいいのだから。

そこで出会う世界は面白いぞ。

一杯失敗できて、自分の道を歩いていけるぞ。  

そこでの時間が、仲間が、出会いが、感動が、これからのあなた自身の神話を光り輝かすから!

 

壁を作る実践

1全身の全ての細胞がお互いの間を空け、圧力を溜めて霧のような気体になる。きは極・限・端である身の置き手(掟)を厳密正確に見定めて間をまつ。

2間を待った次の瞬間に、各々の細胞が同時に出発し、最短距離を一気に吹き抜けて、新しい身の置き所に同時に到着する。

3前からそこにいたように何事もなく落ち着いて静かである。

 

外から決めつけられた固定的で閉鎖的で息苦しい厚い壁ではなく、自分の裏(うち)側から自然に(主体的に)感じとった、自分の生き方のギリギリの「さかひめ」であり、外界と自由に通い合い、関係によって変化する柔軟な適応力を持ち、その内側の中身は、生き生きのびのびと自由で、安らかで静かな境地である。