新興宗教の誕生 「人工衛星」教
驚いた、なんでも見える。
数の最大公約数と最小公倍数がわかる。
金持ちがこの世界で生きる意味と方法がわかる。
政府がどのように税金を払わせて、何に使おうとするのかわかる。
してはいけないこと、しなくてはならないことがわかる。
でも、上から見るだけでは、クローゼットの扉を開けることも、引き出しを開けて中を見ることもできやしない。
高い木に登って街を見ているようだ。
だから気をつけろ、ここに安泰するな
だんだんと浮世離れしちゃうぞ
あちこちに移動しないとつまんなくなっちゃうぞ。
どこから視るかで価値観は決定される
視点 自己意識+鳥+カミ+宙+機械が重なってできた死生観と宗教
グーグルアースの視点
人工衛星からの視点
サッカー選手がグラウンドの上空から下を見ている視点
平等 神からの視点
ヘーゲルの弁証法で使う視点
客観的視点
コギトの視点
瞑想の視点
幽体離脱の時の体が浮き上がった場所からの視点
観ている者
観ている者にもいろいろな種類がある。一つをマスターしているからといって、他の世界の観察者になれるのではない。新たな世界ではまた一からの経験と学習と統合の修行が必要だ。でも共通点もあるので、一つでもその視点を自由に使いこなせるようになると他の世界での習練もわかっていて、取得するのを助けてくれる。ただ調子になるとこのパターンによって次の世界にいけなくなるので、基本は、あらゆる経験を捨てて、初心で向き合い、そのまま感じて教えを乞うのが透き通っている。
観る力
観ることで、見えるものが変化してしまう。
カメラを向けると人の表情が変わる
綺麗になっていくモデル
量子力学での視線と粒子
温度計では正確な温度が測れない
また観る場所で、見えるものが違ってくる。
上から見た地図
横から見たら表情
下から見た根拠
中から見たら偏見に満ちた自分
これはすごいことだ。
自分が観るだけで世界を変えてしまっているんだから。
この観察する者と視点が、見たものから概念を取り出す。
観ただけで、目の前にある世界を抽象化してしまうんだ。
この力を法則にしたり数式にする楽しみは雨の降っている午後がいい。
観る者は自分が見たいようにしかこの世界を見ようとしない。
この見たい、というのも必ずしも自分の意思とは限らない。
意識していなくても、大脳辺縁系の中核神経では無意識のうちに情報の処理がおこなわている。
我おもう、我が単なるコギトだったとしたら、無意識をちゃんと意識化する訓練はされてない。
おもうといっても大抵のことは思わされているんだ。
でも観察者であることには変わらない。
いるだけでこの世を変化させ続けている。
このあるだけで変え続けているモノって何だろう?
自分、人間、生命体、地球、宇宙のはじまり、全部ということ。
どれも二つに切って分けてしまったら存在できないものばかり。
人工衛星からこの地球を見つめても、表面の形しか見えない。
どれも命も住めない場所から自分を見つめようとしてもダメなんだ。
客観なんて主観の一部でしかないんだよ。
君が生きている間はね。
対立しているんじゃない、主観の中に客観が含まれているんだ。
どんな客観を選ぶかは主観しだいなんだから。
そしてその客観的なことだって実は間違いの積み重ねなんだ。
錯覚、思い込み、時代、理性、偏った客観、一面性の客観、表層だけの客観、来年には誰にも振り向かれない客観。
命と全体と時空間を超えたものは、科学も言葉も理性も届かない世界だ。
客観とは分けて分断して理解することでしかない。
五感はあるがままに感じること 主観の世界
智性はあるものの深層まで理解しようとする力 主観の世界
あの世からのまなざしとは、みんなを一つにつなげること 主観の世界
科学とは誰がどこでやっても同じ結果が出ることだけではない。
科学が迷信や魔術から離れた時に大義名分を勝ち得て、この世を我が物顔で歩きはじめた。
だけどもういいでしょう、そんな理知科学は、こんな世になっちゃったんだから。
これまでの時代はそんな理知科学ががんばって、しっかりやったよ、しなくちゃいけないことを。
近代から続いてきた幻想自我にアンチしての客観や科学なんて、自分自身が苦しくなっちゃうのはわかっていたじゃない、そりゃあ正義感や乙女の純粋さがでがんばってきたのはよくわかっちゃうけどさ。
でもこれからは、ちゃんとした眼差しの科学や主観が、迷信の合理的根拠や魔術の論理的知性に付き合えるほど大人になった。
オカルトや啓蒙主義やロマン主義をおそれなくていい、柔らかくいこうよ。大丈夫だから。
アンチではなくて自我を含んだ他、言い換えれば、自我意識も含まれる全体、すべての生命体、全体からとの関わりでしかない部分、宇宙の誕生からみた星や元素やエネルギーを命としてとらえる科学がもうはじまっている。
この世を偶数で分けて分析してまたくっつけて一つにして見るのではなく、この偶数分裂にプラス1で奇数にして、あの世からこの世を見る眼差しだ。
生まれる前の世界、自分がいない世界、死んだ後にもある世界、ビッグバンの前の世界、生命が誕生する前の世界、星から見た太陽系、石から見た生き物、川から見た社会、雲から見た人間界、成層圏から見た生命体。
人工衛星から見た地球ではなく、月になっちゃったあなたが見た地球。
これは一つの悟り、でもそんなにすごいものじゃない。 だれだってこの眼差しには簡単に経験できるから。
大切なのは悟りの視点を得たことではなく、難しいけど毎日を生きることを積み重ねることだから。
確かに中には惑星が地球の周りを回っていると人もいたが、優秀な科学者は回転軸が地球だとはしなかった。
天が動いているのか、それとも地が動いているのかという視点(基準)をどちらにするのかだけの問題でもある。コペルニクスの業績はすばらしいけれど、別に回転軸を太陽においた天動説もありえるので、視点を自分に置くのか、宇宙に置くのか、どちらも同じことだと思う。問題は地動説に賛同した人が軽はずみに勘違いして、視点を現実にはヒトが実在しない宇宙に置くことだけを基準にした人が増えてきたことだ。当時のカミの視点で世界を見つめることだ。現代の人工衛星の視点だ。どちらもヒトのものではないのに。
これで客観性の勘違いと「自己意識」を基準にしてこの世で生きる時代の幕開けである。
カミの視点から客観、科学、人工衛星の視点へ
現代の話をする前に、16世紀から急速に市民権を得た客観的な視点について考えてみます。
実はこの視点が現代に最も影響を与えている考え方の一つだからです。
この時代は戦争と魔女狩りの時代でした。誰もが自分の正義を主張して、他を潰し叩こうとしていました。
1486年に魔女論の古典といわれる 《魔女の故》が魔女を定義し,逮捕,尋問,証人,判決にいたる諸手続について書かれ、ドイツで出版されいています。共同体の中で嫌いな人を魔女と呼ぶだけで、尋問されるまでになってしまいました。
各々が自分の正しさを主張し、他者を貶め、街でも村でも共同体のメンバーに対しても人間不信に陥ってしまった地域が多発しました。魔女として殺された人数は10万人ぐらいだといわれています(諸説あり4万人から900万人までとあまりに幅が広すぎるので研究がまたれる)
不安、疑心暗鬼、恐怖、妬み、恨み、ルサンチマン、怒りが駆け巡る時空が出来上がってしまいました。
戦争と魔女狩りで人は急に大脳皮質と意識を使わざるを得ない時間が増えて血が頭に上り、脳はフル回転するが、心は疲れ、腸はゆったり活動できず、ヒトと腸内微生物、微生物と生命体、生命体と地球、地球と宇宙、宇宙と神、と順につながることを体感できる腸感覚が使えなくなってしまったんでしょうね。 この時代は。
そんな状況の中、ヨーロッパの人々が喉から手が出るほど真剣に求めていたのが、各自の思いや経験や感情の視点ではなく、各自を超えたところからモノを見る方法でした。
30年宗教戦争も魔女のどちらもカミになりかわった教会がつくりだした問題でした。教会の唱える解釈によって人々は安心して寝ることができなくなったので、これに換わるものを人々は切実に求めていたのです。
いろいろな試みがありました。その中で、客観的、科学的な手法に人々は救いを見つけました。どれも視点を人間の中ではなく、人間の外においてしまいます。外から人間自身を見つめようとする視点です。この時代の欧州人は他人ばかりではなく自分のことも信用できなかったからです。果因(結果から原因を探す)の考え方同様、まず人間の外に一つの場所を想定して、そこから世界を見つめ直すという方法です。
疑心暗鬼な世界から抜け出すために希望の光として飛びつくグループもありましたし、緊急避難的に現状から逃れる方法として選択したグループもありました。深く息をして、血流を頭から心臓・小腸に落として暮らすグループは残念ながら殆どいませんでした。
カルヴァンが『キリスト教綱要』( Christianae Religionis Institutio)をバーゼルにおいてラテン語で出版したのは1536年3月です。そしてコペルニクスはその7年後の1543年に《天球の回転について》を出版しました。
この二つの思考の共通点は、自己意識をヒトの基準にして、そこに「視点」を作り上げて世界を見つめるということでした。
そしてこの自己意識が作り上げる法則は、人工衛星から地球を見つめる視点とシンクロナイズしています。
この思考法が人類史の中で新しい試みとして、社会のメジャーになっていきました。
この地球に立って星を見つめるのではなく、「視点」は地球の成層圏を離れ、太陽を中心とした太陽系惑星の動きを宙からまるで神になったかのように見つめているのです。大地(地球)派ではなく太陽系派です。でも天の川銀河系派の視点ではないんです。太陽系派の位置はそんな絶対の視点じゃないんです。銀河系から見たら太陽系の視点も狭い領域でしか通用しないものです。どちらにしても、こんな生命体が生きていけない位置からこの世を見る視点が当たり前になる萌しでした。
コペルニクス的転回 カントの策略
「天動説は間違っていて、地動説が正しい」と思うのは、なんだか変だとは思いませんか?だって私の視点から見れば、この自分は止まっていて動いているのは星や月のある天空なんですから。もし大地が動いているというのならば、その時のあなたの場所はどこにいますか? そう、神かもしくは人工衛星の視点でこの地球を眺めている時ですよね。あなたは神でもないし、人工衛星でもありません。ただのあなたです。ですから、視点を変えることは楽しいことですが、それが終わったらまた元の自分の視点に戻るのが良いとは思いませんか?
コペルニクス的転回とは、ドイツ語のKopernikanische Wendungの訳語です。この語句はカントが自分の新たな立場をアピールして特徴づける時に利用した言葉です。悪く言うと他者を騙す時に使うテクニックです。
彼は、「私たちが空を見上げる時、自分の視点で天空を観ているのではなく、自分が無意識に天空を見たいと思っているから見ているのであって、天空は自分のとらえたイメージであって、天空そのものではない」ということを認識論として主張しました。従来の考え方と、見方を反対にして、画期的な局面を展開する「過程」としては、良い転回なのだけど、もしこれを固定化させてしまうのならば、悪い転回になってしまいます。生命体は人工衛星でもサイボーグでもないので、そんな視点は彼らに任せておけばいいのです。
ところがカントは「地上からヒトが見るものはイメージであって、天空そのものではない」と言っています。これは何を意味するのでしょか?
カントの一番の浅はかさは、なんでも人工衛星から視ることに一貫してしまい、これまでの人類が磨いてきた智性や魂性からの視点を消去してしまったことです。循環器系器官や消化器系器官で外界と交流する手段を捨て去り、ただ神経官系器官のみでこの世を認識することに徹してしまったことです。
脳だけでこの世と関わろうとし、脳が作り出した意識、そのエッセンスともいえる自己意識、そこから生まれた理性だけで、それ以外のものは排除しました。そして社会がこれを支持したのです。これが18世紀の欧州でした。
人間の外に理想や理念が作られ、この視点から自分自身までも見つめてしまう輩が出てきました。
人間の中の全体性を体感しないで、局地的な部分の違いにいつもスポットライトを当ててしまう習癖を持つ新しい人類たちでした。
彼らはいいます。「地球の周りを他の天体が回っているのではなく、ガリレオやコペルニクスは中心にあるのは地球ではなく太陽であることが明らかにしてくれました。」と。
人工衛星「対立の視点」の誕生
視る位置によって、見える内容や価値観までもが変わってくるって感じたことはありますか?
たとえば水平と垂直という角度の違う視点があります。虫の視点と鳥の視点とも言われています。
虫は水平からモノを見てなんでも大きく立体的に三次元でとらえるし、鳥は真上からモノを見てなんでも小さく俯瞰的に二次元でとらえます。
ヒトは想像力を使って、ヒトの視点から鳥の視点、そしてカミの視点、次に人工衛星の視点を手中にしました。これらの視点により生死に対するとらえかたも変化していきました。
一般的にはこの世にいることを「生」、いなくなることを「死」と呼びます。ところでこの生死を語る時に、私たちはどの視点に立ってこの問題について語ろうとしているのか考えたことはありますか?
例えば、虫の視点で死を見つめると、だんだんと蛆がわいたり腐って死臭が漂う様子を見ることができます。それに比べて鳥の視点は鳥瞰図の視点で、遠距離から動くものを「生」動かないものを「死」と判別します。
生死というのは生き物にとっては情感の伴う対象です。というのも生命体にとっては、生は既知のものですが、死はまだ体験することはできないので、未知のものです。そこで、できることは他人の死を見たり、メタファーで死を理解することぐらいです。
では、生死といった場合に、この両方を体験することができるのはどんな視点なんでしょうか?
生死を両方一度に体験して、生と死を同時扱う立場です。そうなるとそんなところにいるのはカミさまと機械ぐらいのものです、こんな立場で話ができそうなのは。
生と死を超えているのが居場所であるカミ。そして生と死のどちらも体験しない機械は生も死も同列に並べることができます。
もしくはカラダの中に「死」を見つけることができた瞑想者か。
機械の視点を一般のヒトが利用するようになるのは科学技術が発達した18世紀以降(ここは諸説あります)ですので、それまでは、ヒトは想像力で自分の視点を屋根の上の鳥に拡張して、樹の上から下を見る視点を設定することにしました。次に自己意識が産み出した「超越」という概念を加えてできたのが、カミの視点です。天の上から下界を眺める視点です。これは自己意識を持ったヒト科の動物が古代から持ったもので、天上から見える景色で物語や世界観を築き上げていきました。
同時に、カミさまのことはよくわからないという人たちが、カミの代りになる視点も作ろうとしました。天の上から地球を眺めている視点です。宙から地球を眺めている視点です。この視点を使って天動説や太陽系の惑星運動を説明するようになりました。「宙の視点」といってもいろいろあって、地球軸を基準にした地球派(地動説派)、太陽を基準にした太陽派(天動説派)、そして未来には私たちの銀河系を基準にした(天の川銀河系派)といったように、視点の軸をどこにするかによって、見えてくる景色が違うので、当然のごとく物語も世界観(哲学、価値観、使う法則)も違います。
はじめは「いのち」を五感でもって体感していた虫の視点は、鳥の視点に、そしてカミの視点や「宙」の視点に変わりました。
次には、この「宙」の視点はイメージである想像物でしかなかったのに、科学の発達によって「かたち」を持つようになりました。
今の私たちの日常生活でいうとグーグル・アースの視点です。この視点はもうヒトの体を離れて、人工衛星という機械とこれらに指示を出している自己意識によって成り立っています。ここで科学技術によって機械と意識の想像力が結ばれでできた新たな視点の誕生です。
機械と自己意識の共通点は生命体の生死を生命体の外から観察する視点です。内省ではなく外省です。
生きているものと死んでいるモノを「客観的」に捉える視点です。
機械と見たものを理解するヒトの二つの視点が重なり合いました。
一つは機械のように外から生死を冷静に区別し、もう一つは感情や条件反射を持つヒトの特徴です。
大脳皮質と大脳辺縁系の視点の違いです。
大脳皮質が活動している時に発動する自己意識はシンプルに客観的に判断します。この客観性から見た生死は、カミの視点でもなく、死をメタファーとして捉える条件反射の視点でもなく、機械の視点です。
もう一つの大脳辺縁系では、生にとって死は未知であるがゆえに情感からの不安(恐怖)が混入してしまい、無意識のうちに死を忌み嫌って距離をとろうとします。
この二つのことが重なっている時にヒトには無意識なことが起こりました。
それは、グーグルアースを通して地球をそして自分自身を見つめることが、新たな自己意識の視点になっていることです。知らないうちに考えもせずに自動的に当然と常識としてです。
自分のカラダに問うこともなく、判断を機械と自意識に委ねてしまっていることです。
人工衛星から世界を観ると境界線に注目していしまいます。
なんでも二つに分けて境界線で表現することで安心して納得する視点です。
これは同時に対立項を生み出す視点でもあります。こんな視点が加わるだけで、今までの言葉の解釈も変わってきます。
例えば
Ambiguous ambi両方 ig行う ous形容詞語尾 両方とも行う→あいまいな
Dilemma di2つのlemma主題 という両義性の意味→二者択一の板挟みの状態
私はこれを「人工衛星の視点」と呼びました。自己意識と機械と鳥とカミの視点が重なり合った視点です。
21世紀中期から基準となるAI人工知能の視点のことです。
人工衛星の視点の限界
人工衛星の視点は、以前の地球生命体の五感(感性)の視点を簡単に凌駕しました。自分自身の裸眼ではなく、顕微鏡や望遠鏡などの機械を使わせてもらったことで、視野の可能性が爆発的に拡がったと早合点したのです。
またこの視点こそが客観的で中立的で懐疑的で、次の世界を拓くカッコよくて正しい視点として受け入れました。
中世から近代に移行する時には、メディシンマンから医者へ、そして錬金術師から科学者へと流れました。
中世から近代に移った理由は、デカルトの「アタマ(自己)とカラダ(機械)」や、ルネサンスと呼ばれるイスラム文化の再興や、カントたちによって書き換えられた主観と客観の逆転といったイベントのためだったのでしょうか?
次に、近代から現代への移行は、感性から理性へ、カラダからアタマへ、肉眼から機械へ、無意識から意識へ、と流れました。五感とつながっていたり、内臓とつながっていたり、微生物とつながっている、生命体の長年の智慧の結集は、ひとまとめに迷信とされて、バカにされたりもしました。
哲学や事件によって時代が変わったというよりも、視点の変化が時代を変えたと理解することもできると思います。
|
視点 |
主客観 |
情報の修正 |
自然・宇宙 |
カミ |
人の中の自分 |
中世 |
裸眼 肉眼 |
主観 |
自由 |
驚異・脅威 |
内なるカミ |
循環器系器官 |
近代 |
遠近法 自己意識 |
客観 中立的 |
計算・法則 |
解読・解釈 |
外なるカミ |
意識 |
現代 |
人工衛星 機械 |
主観と客観の複合 |
依頼・依存 |
管理 |
カミの消失 |
自己意識 |
機械と自意識の共通点は対象物を外から眺めることです。この視点を客観的と呼んで、これがないと信用に足らないとして客観性がないと受け付けない人が増えました。
そして、これまでの「内とつながる感性」は軽視されるようになります。例えば、ハラ時計や、胸騒ぎや、腑に落ちる感覚などは。
地球生命体のすべての命が繋がっていることが感じられる「内なるカミ」の視点は異物として嫌われます。科学、その象徴である西洋医学でも、月から見た地球や人工衛星からの「外なるカミ」の視点が人気になっていきました。
ちょうど、聴診器よりもMRIに人気が移るように。
人工衛星の視点(機械+自己意識)とカラダとの視点の違いは、「いのち」とのコンタクトがあるかどうかです。
これは外と内、客観と主観のメタファーでもあります。
一般社会の中で「死をどのように扱うのか」という解釈が変わると時代が変わります。
生と死をどのように体感しているのかによって、世界観は変わります。
この人工衛星からの視点が独占的になることで、生死の捉え方も変化しました。法律も変わりました、例えば、
平成9年7月16日法律第104号の臓器移植法のように。
これでなんでも客観という物差しでモノを判断する時代が到来するかに見えました。ところが、物事はそうは簡単に進みません。この新たな視点がメジャーになったとしても、これを使って物語りや世界観を作成して理解するのは最終的にはヒトですから。
いくら理性的で合理的な視点や内容であっても、腑に落ちないことや納得のできないことは多々あります。何故ならば、ヒトは自己意識だけではなく、カラダと共にあるのですから、仕方がありません。
新たな視点の片方の主である自己意識の「家」である大脳皮質とは、あきらかに自然の一部であるからです。
脳は、生命体の表皮を元に発達した神経管が大きくなってできました。その一部である大脳皮質の認知方法がいくら機械的な電気信号であっても、錯視などの自動修正や、脳自身が作り上げた無意識の条件反射や感情に強い影響を受けるものであり、脳自体が生命体の一部です。そして、もっといえば大脳皮質には「判断機能」がありませんから。皮質にはデータはありますが、判断するのは大脳辺縁系です。
人工衛星の視点にはいろいろな弱点があります。
特徴的なのは、時間のズレや、分からない時の対処法や、情報の修正の仕方や、信仰です。
時間のズレとは、客観性とは新しい情報の更新を常に必要とするのですが、実際にはそんなことがヒトの脳の能力ではできないことに由来しています。わかりやすい例はグーグルアースのストリートビューです。ニューヨークのセントラルパークの106丁目あたりに私のランニング姿があるのですが、これはもう7年前の映像です。常に変化し続けているのが「この世」のなりわい。しかし更新を常にデータ化することができない人工衛星の視点(機械と自己意識)では、リアルとの間には常にギャップができてしまいます。常に遅れて来るモノは、コンプレックスを持った幼子のように過度に行動してしまうのも自然の摂理です。
また、人工衛星の視点は分かないことに対しては、おかしいほどの脆弱性をみせます。そしてそれを隠すかのように、付け焼き刃のような因果関係を持ち出して、煙に巻こうと画策するのは、可愛らしいほどです。
たとえば、健康法。次々と新しい学説を生み出しますが、ヒトの腸内だけでも1000種類以上の腸内微生物がおり、役割、関係性、因果関係さえも全てはわからず、実際は我々が未だコントロールできていない、まさに神秘の中にあります。把握したり、管理したりすることができないのが今のところの現状です。まあ、管理しようとするトライは素晴らしく面白いんですが。
人工衛星から見た地球の視点とは、顕微鏡でセットアップされた細菌を見る視点と同じく、全体を自己意識で把握しようとしてしまいますが、この視点は、決して、全能者の視点ではなく、管理することにこだわり続ける人(無理な欲望を持つ自己意識)の視点であることを再度、注目してください。
3つ目には、情報の修正を自分ではできないことです。これは裸眼から離れたことで決定的なりました。自分の目を使っていれば、変化に対しても自分の体験を通じて、因果関係を修正することができます。しかし電子顕微鏡や天文台望遠鏡を使わなければならないような視点は、もう自分ではどうすることもできません。客観性で大事な情報の常時更新を自由にすることはできません。予算と機器を持つものが主導権を握っています。そして、次には専門家に言われるままの情報を取り入れるか、取り入れないかの二者択一で決めることしかできません。こちらで視点の基本条件を変えたり、実験を試すことができないのです。
これが最後の問題点である、「信仰」です。人工衛星の視点が宗教になるのです。裸眼の視点では別に信じなくても、受け入れても試してみて合わなければ捨て去ればよいだけですし、自分の感性で体験をすることで修正をすることが自由にできます。しかし、人工衛星の視点は、試すことも自分で修正することもできず、ただ受け入れるか入れないかを問われるだけなので、まさしく信じるかどうかを問う信仰の問題になってしまいました。
自己意識をベースにして、鳥とカミと機械が複合した視点は新たな宗教を産み出しました。
死をカラダの中に受け入れる「相反一致の視点」
カント以前、デカルト以前、遠近法以前、大都市文明以前は、この世にいるには「産まれることと殺すことが同時にある」ことを大切にしていました。体内の細胞は一秒間に500万個消滅することで、新たに500万個が再生されるという事実です。この視点は私たちがこの世に居続けるための「カラダ」の視点です。本能や自然や走性や無条件反射と言い換えてもいいです。脳内でいうと脳幹です、大脳皮質でも大脳辺縁系でもなく。
では次にこの人工衛星の視点では、できないことは何かについて考えてみたい思います。
この視点の決定的に欠けていること、致命的な欠落です。
話を「生と死」の話に戻してみます。
体のレベルでは死を体内に取り入れることが新たな細胞を生み出す鍵であるとわかっています。例えばオートファジーのように。
この生と死の両方を必要とする新陳代謝とは、一秒間に500万の細胞が死に、同時に500万の細胞が生まれ、この両方があって初めてこの世に存在し続けることができるということです。「生と死」という相反するものが一対になっている現象です。
ところが、人工衛星の視点を導入すると、これまではカラダがしていた生死一致の判断を機械と自意識の判断に明け渡してしまい、死を遠ざけることが、生きることだと勘違いしてしまっているらしいのです。
なぜそのような死生観に変化してしまうのでしょうか?
それは人工衛星の視点とは自己意識と機械が重なることで誕生したからです。
生命体は死を体験できないので無意識の内に恐れてしまう意識と、二項対立によって世界を認知する機械のシステムが結びついた死生観だからです。
これによって死と生が相反するものだと理解してしまい、カラダにとっては「いのち」の源である「死を内に持つこと」を否定し、生きたいと言いながら自分で自分の首を絞めようとするのです。残念な皮肉です。
この人工衛星の視点から生まれる価値観は体内だけではなく、体外にある社会でも活発に働きます。死に蓋をして、遠ざけ、忌み嫌い、死から逃げ続けようとすることです。
自意識が形になったのが人工の世界。この一番の象徴ともいえるメトロポリスでは死には居場所がありません。都会人が死に振り回されるのは以上のことから必然の結果です。
この世界に「いる」ということは、「生まれることと死滅することが同時にあること」です。
これができなくなると、死が訪れます。この世からあの世への移動です。
死を外(人工衛星、機械、自己意識、外なるカミ)から見るのか、それとも、死を内によびこみ生の相棒として新たな細胞を産み出す主人公(内なるカミ)として見るのか?
どの視点を使うのかとよって見えるものが違ってきます。そして価値観が変わります。
死を人工衛星の視点からだけで理解するのではなく、カラダを理解しようとする智性の視点からも見つめてみます。これは分断するだけではなく、生命的な繋がりの視点でこの世を見ると、死にも肯定的な見方が加わり、好ましいものだと思うことができることもあります。
例えば倒れた老木の下のドングリから息吹いた新芽が森の活性化の象徴であるかのように。
体はそのまま自然につながっており、死を自然の中で感じると、また違う喜びが湧いてくるかと思います。いかがでしょうか?
今でも人工衛星の視点を全能者の視点だと勘違いしているヒトが多いのですが、あれは機械と自己意識に身を委ねてしまった視点です。ですからもちろん生きている「いのち」の視点ではありません。
そして、それは俯瞰から見えるだけですので、自分の足元にはくれぐれも各自でお気をつけください。
現代の預定説 人工衛星の視点を使えばテキストを書き換えられる
そしてこの人工衛星の視点が現在に強くつながっています。
キリスト教プロテスタントの預定説がないと現代の解釈でいう平等や人権も生まれてきませんでした。
そんなことはない、と思いますよね、ふつう。
この世には、左右、大小、優劣、高低、上下があります。 認識は二つに分けることから始めるので、当然です。
平等は人からの視点を超えないと成立しません。そこで守護神やエンジェルたち程度の視点ならば優劣の差が出てしまうので、これらの全て超えたものを想定しなければなりません。これがカミさまです、宇宙の創造神です。あの、救われているかどうかは神さましかわからないという、あの預定説の神です。 こちらの人間からは伺い知ることもできない人智を超えた存在です。
平等なんか大それたことを言う時には、実はヒトから離れた視点がどうしても必要になっちゃうんです。これが人を超えた場所から見つめる視点で、現代人が無意識にいつも価値判断の一つとしているのです。そうです、あの人工衛生からこの地球を見つめている視点です。
この視点が学問や医学にも影響して、現代西洋医学を作り上げていきました。
救済に与(あずか)れるかどうかが全く不明であり、現世での善行をつみあげたとしてもそれはヒトの価値基準なので意味を持たないとすると、人々は虚無的な思想に陥るのではないか、と思う人もいるでしょう。現世でどう生きようとも救済される者は予め決まっているというのであるなら、快楽にふけるという対応をする者も多いのではないか?
しかし実際には、欧州の人々は「全能の神に救われるように預め定められた人間は、禁欲的に天命(ドイツ語で「Beruf」、この単語には「職業」という意味もある)を務めて成功する(救済される)人間のはずである」という思考を持ちました。
特に現在の欧州のプロテスタント地域で暮らす人々の救われる人間のイメージが同じであったのです。これは集団幻想といっていいでしょう。その地域が持つ歴史・習慣・気候・風土・民族・特異性がもつ共通認識でもあります。フィリピンのマラパスクワ島やペルー・アマゾンのマルドナドではこんか思考法にはなりません。
これには悲惨な宗教戦争、村の解体、都市の生成、人口密度の変動率、魔女裁判、自意識が軸の基準化、などが、新たな救済である「預定説」の要因です。その時空には、土に還ったり、元(意識以前のココロやカラダ)に戻る安心感は存在していなかったのでしょう。意識が基準となり、循環器系器官や消化器系器官に任せれば「いのち」は意識が何もしなくても大丈夫だという実感がなかったのではないかと推察します。
また人口の急増により都市化が進み、都市では食物採集の時間と空間は少なくなり、代わりに交換可能物(金銭)を持つことが安心と安定になります。
だからこそ、自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的に職業に励もうとした。すなわち、暇を惜しんで少しでも多くの仕事をしようとし、その結果増えた収入も享楽目的には使わず更なる仕事のために使おうとした。そしてそのことが結果的に資本主義を発達させた、という論理をマックス・ヴェーバーは語っています。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
こうやって恐怖から逃れることを優先させなければならない必然性が、聖書の解釈を替える必要が出てきてプロテスタントを設立し、カトリックの周期的時空間や思考パターンを拒否して新たなものを作り続けなければ安心できない人が大量に現われました。
時間軸も円周から直線へ、波形から螺旋へと変化しました。
彼らにとっては、自然の恵みに囲まれてあまり働かずに楽しく仲良くやることでは安心を得ることができず、カミから救済されず許されないことだと実感していたのでした。それほどまでにも救済されなければならないと感じた心境を皆さんはどのように思いますか?
次に必要だったのは、資本主義社会の原理である「労働は尊く善なるもである」という価値観を確立することです。
現代の欧米ではキリスト教徒であることは必ずしも必要ではなくなりました。それどころか、ついに宗教そのものを否定しちゃったり、カミを感じなくなってしまったのだから、教会も困ってしまっています。
キリスト教に対して信仰が薄れたのに、プロテスタントの利潤追求の強迫観念だけが残り、いつの間にか救済の確証が貯蓄と生命保険であるかのようになり、貯蓄そのものが自己目的になってしまった人も現れてきました。これが昔の預定説は廃れたけれど、形骸として残った現代の預定説です。
解釈次第でどうにでもなるとばかり、預定説の残骸も、現代の憲法に、裁判所に、教育に影響を与えています。例えば、利益を求める集団を会社として、憲法や教育界はいろいろな便宜を図っています。資本主義のもとにあって、会社の目的とはといわれれば「利潤の追求」です。こんなことはイエスが聞いたらビックリすると思います。
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 マタイによる福音書 19:23 類似 マルコによる福音書10:25
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。マタイによる福音書6:24
それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」マルコによる福音書10:23
富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。
金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。 テモテへの第一の手紙6:9-10
聖書にはこう書いてあるのに、解釈だといって、プロテスタントは「繁栄の神学」を生み出しています。
救われないかもしれないという16世紀の預定説への恐怖はなくなったけれど、残骸の不安はしっかりと残りました。果たしてそれは残されたのか、それともあえて残したのか?
そして、新しい不安を自らが作り続けることによって根本的不安を恐れて逃れ忘れようとするライフスタイルこそが、「現代の預定説」です。
現在の正統派で多数派の新たな信仰の一つです。
そう、最大の新興宗教の誕生です。
陥った罠と解決策
罠というよりも、単なる穴ボコなので脱出するのはそんなに難しくはありません。
シンプルな方法があります。
現代の予定説を大切にしながら、それが全てではないということを知るだけです。これで大丈夫です。
人工衛星の視点の問題は、単なる仮の話なので、たまにはそうやって太陽系や地球を眺めるのも面白いけれど、実際に見るときは自分の眼で月や惑星や星を見るのだから、そちらを大切にしてあげるということです。
穴ボコにいるからこそ見える景色や考え方もあるので、中に入ってはそれを楽しみ、時に穴ボコから出て、自分の眼や心や体が感じる世界を大切にするのです。
機械や理論を考える時は穴ボコの特別ルールにそって考えを進めるのもいいでしょう。
次に生命や、全体や、地球や、超時空間の時は、穴ボコにいても一面的な方法しか出てこないので、穴ボコから出て心臓や腸で感じるのがお勧めです。
穴ボコの外でははじめから自由や平等や平和や理想は一つも与えられていません。ですからないことを批難するのではなく、そこを楽しむのが現代の予定説を解決するコツです。
最後にフロクとしての
日本における予定説
では最後に日本の問題を。予定説に関心のない日本人がなぜ資本主義を受け入れ発展させることができたのだろうか?
これは面白いテーマだ。
なにが利潤追求をよしとしたのか、なにが日本の不安だったのか、貯蓄する理由付けをどのようにしたのか?
明治の内村鑑三も予定説の解釈に苦労しています。というよりも頭では理解しているが、腑には落ちていないように見えます。アメリカ人のクラークの影響でキリスト教に関わっていくのですが、『キリスト教問答』の中で
内村は慎重に言葉を選びながら、「神は不公平だが、大自然も不公平ではないか」と締め括り、その裏側には「だから仕方がないではないか」という嘆きが隠されています。
キリスト教の根底に流れるものは「神の不公平」であり、選ばれし者が存在する予定説でした。
神の不公平は、因果応報を宗教観念に持つ、日本人には実に信じ難い言葉でした。
内村曰(いわ)く「もし不公平を以て、神を責めますならば、同じように天然(自然)も責めなければなりますまい。(中略)ある婦人は美人として生まれ、他の婦人は醜婦として生まれてきたか、(これを考えれば)生来何の罪ありて、蛇は人に嫌われて鳩(はと)は人に愛せられるか、これを思えば天然の不公平もまた甚だしいではありませんか」と居直り、「だから神が不公平であっても責めてはならない」としているのです。これこそが神への冒涜(ぼうとく)であると力説するのです。
日本には死んだら土に戻るという感じ方があります。還ると言ったほうがわかりやすいかもしれません。
実はこれが宗教なんです。
キリスト教などでは死んだあとは煉獄にいくので、不安になってしまったり救済が必要なのですが、土に帰るという宗教はキリスト教の神による救済などは必要ありません。
神道にも予定説があります。
なんとはじめから、日本国は神によって繁栄をはじめから約束された土地である、といっているのです。キリスト教の神のように、契約を結んで約束を守るのではなく、なにもしなくても大丈夫と言っているのです。
「葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり」 『日本書紀』の天孫降臨の段
「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」 『古事記』の天孫降臨の段
また山崎闇斎の天皇教がその後の明治時代になって神の国としての国民に浸透し、天皇を前提にすることにより、平等の概念ができ、士農工商からの平等や、誰もが同じように富を求めることができる機会の平等につながりました。
天皇教が崩壊してからは日本の予定説も形骸化したので、平等や人権も「結果の平等」を求めるようになってしまいましたが。
第二次世界大戦後、天皇教の権威がなくなったことにより、次にはカネが大きな尺度の一つになりました。高度成長とは精神や身体の成長ではなく、いかに稼げるようにという成長です。
名誉や品や知識や人徳や組織や体力や美醜などいろいろほかの尺度もあります。
しかし例えば、なぜ勉強するの?という問いに、いい生活ができるから、と答えるのは単なる損得勘定です。
勉強の面白さや崇高さや驚きや苦悩や安らぎを伝えなければ、知識の権威は築くことができません。
損得勘定をいうだけではだれも尊敬はしません。それは便利であるかどうかの基準で判断するだけです。
自由も平等も平和も、大切なのはこの世にはもともとそんなものはないという前提です。
天皇教が衰退しても、神道は有り続けます。
神道がもとにしている自然は厳しくなおかつ私たちを生かせてくれるものだからです。
そして私たち自身が自然であるということを気づかせてくれるものだからです。
日本の予定説は、カミが救済してくれようかしてくれまいかにかかわらず、今をちゃんと生きることです。
体を通して得た強い自信に満ちあふれた祈りです。
人工衛星の速さ
地球を周回する人工衛星は、地球と人工衛星の間にはたらく万有引力を向心力として、地球の周りを回っています。人工衛星自体に推進力があるわけではありません*。
つまりこれは、糸の先に付けられた物体がくるくると回されているような状態です。
このときの糸の張力が、万有引力に当たります。
この人工衛星の速さについて考えてみます。
質量 m の人工衛星が、地表から h の高さを等速円運動しているとします。地球の質量を M 、地球の半径を R 、重力加速度の大きさを g 、万有引力定数を G とし、人工衛星の速さ v を求めます。
まずこの円運動の運動方程式を立てます。運動方程式を立てるということは ma = F の式を立てるということであり、
左辺の加速度 a は等速円運動の向心加速度 v2rv2r のことであり、すなわち v2R+hv2R+h であります。
右辺の力 F は地球と人工衛星の間の万有引力 GMmr2Mmr2 のことであり、すなわち GMm(R+h)2Mm(R+h)2 であります。
つまり立てたい運動方程式は以下のようになります。
mv2R+hv2R+h = GMm(R+h)2Mm(R+h)2
∴ v2 = GMR+hMR+h
∴ v = √GMR+hGMR+h
GM = gR2 を代入して別の形で表現すれば、
v = √gR2R+hgR2R+h
となります。
この式を吟味してみますと、G も、M も、g も、R も、すべて定数でありますから、この v の式というのは h のみで決まるということになります。人工衛星の質量 m も関係ありません。質量が大きく万有引力が大きくても、その分、動きにくいのでトータルで相殺されます。つまり人工衛星の速さというものは、地表からの高さのみで決まり、高いところにあるものほど速さが遅い、といえます。
第1宇宙速度
地表で水平方向に大砲を撃つと、砲弾はある程度の距離を飛んで地面に墜落します。このとき大砲の威力が大きければ、つまり砲弾の初速度が大きければ、その分、飛距離は伸びます。どんどん初速度を大きくしていくと、やがて砲弾は地球を一周します。実際には起こり得ない仮定ではありますが、空気抵抗が無く、砲弾の初速をいくらでも大きくできると仮定した場合、どれくらいの初速を与えると地球を一周するか考えてみます。
今、空気抵抗が無いと仮定したので、砲弾は減速しません。つまり地球を一周する場合は、初速を保ったまま一周するわけです。これはつまり等速円運動です。そして地表すれすれを飛ぶとすると、この円運動の半径は地球の半径 R ということになります。
砲弾の質量を m とすると、砲弾には mg の重力が掛かり、これが円運動の向心力です。
求める速さを v とすると、この円運動の運動方程式は、
mv2Rv2R = mg
となりますので、求める速さは
v2 = gR
∴ v = √gRgR
となります。これは上で求めた人工衛星の速さの式 v = √gR2R+hgR2R+h に h=0 を代入しても求められます。
この速度を第1宇宙速度といいます。推進力を持たない物体が地表すれすれを飛び続けるための速度です。(地表すれすれでなく、ある程度の高度で地球を一周する場合は、上の人工衛星の速さの式の h が 0 でなくなり、必要な速度 v はもっと小さくなります。下で説明する第2宇宙速度においても同じようなことがいえます。)
重力加速度 g = 9.8 m/s2 、地球の半径 R = 6.4×106 m
として第1宇宙速度の具体的な数値を求めてみますと、
v = √gRgR
= √9.8×6.4×1069.8×6.4×106
= √49×2×10−1×64×10−1×10649×2×10−1×64×10−1×106
= √72×2×82×10−1×10−1×10672×2×82×10−1×10−1×106
= √72×2×82×10472×2×82×104
= 7×8×102×√22
≒ 56×102×1.41
≒ 79.0×102
= 7.9×103
第1宇宙速度は 約7.9×103m/s つまり 約7.9km/s です。
地球に大気が無くて空気抵抗が無い場合、この速さで水平向きに大砲を撃てば砲弾は地球を一周して戻ってくるということです。地球一周は
約4万km ですからこれを
7.9 で割ると 約5000秒 ≒ 約1.4時間です。このくらいの時間で地球を一周するような速さということです。
静止衛星
日々の天気予報の衛星画像は気象衛星ひまわりが撮影したものですが、この気象衛星が常に日本を撮影しているということは、この人工衛星は日本の上空に静止しているということです。このような人工衛星を静止衛星といいます。これは宇宙からみれば、人工衛星が日本と一緒に回転しているということです。
静止衛星の軌道
しかし人工衛星は左図のような軌道はとれません。
円軌道の中心は地球の中心でなければなりません。
人工衛星が地球の周りを回るのは、万有引力によって引きつけ合っていて、それが向心力となって円運動しているのです。万有引力は物体の中心と物体の中心を結んだ方向*にはたらくものですから、人工衛星の軌道は必ず左図のようになります。上図では軌道の中心が北極付近になってしまっています。これでは万有引力ではありません。
そしてこれらの軌道のうち、日本に追随して回転できるのは赤道上空の軌道だけです。
赤道上空の軌道というのは左図のような軌道です。
静止衛星の高さ
さらに、日本と一緒に回転するためには回転速度(= 角速度)が地球の自転と同じでなければなりません。つまり24時間で一回転しなければなりません。
上の『人工衛星の速さ』のところで説明しましたが、人工衛星の速さは高さによります。低い位置にある人工衛星は速く、高い位置にある人工衛星は遅いです。これはつまり、24時間で一周するような速さというのはその高さが決まっているということです。
この高さを求めてみます。
まず、人工衛星の運動方程式から角速度の式を導き出してみます。
上の『人工衛星の速さ』のところで示した運動方程式は、
mv2R+hv2R+h = GMm(R+h)2Mm(R+h)2
でしたが、分かりやすくするため、R+h を r とおきます。つまり人工衛星の高さを地球の中心からの距離 r とおきます。すると、
mv2rv2r = GMmr2Mmr2
となります。次に左辺の v に v = rω を代入します。すると、
mrω2 = GMmr2Mmr2
∴ ω2 = GMr3Mr3 ……@
となります。この角速度 ω が、24時間で一周となればいいわけです。
24時間で一周という角速度は
ω = 2πT2πT = 2π rad24 h2π rad24 h ≒ 2×3.14 rad24×60×60 s2×3.14 rad24×60×60 s = 3.1412×60×603.1412×60×60 [rad/s]
この値と、万有引力定数 G = 6.67×10-11 と、地球の質量 M = 6.0×1024 kg
を @式に代入して静止衛星の高さ r を求めます。
ω2 = GMr3Mr3
⇒ (3.1412×60×60)2(3.1412×60×60)2 = 6.67×10−11×6.0×1024r36.67×10−11×6.0×1024r3
∴ r3 = (12×60×60)2×6.67×10−11×6.0×10243.142(12×60×60)2×6.67×10−11×6.0×10243.142
= 122×62×62×104×6.67×10−11×6.0×10243.142122×62×62×104×6.67×10−11×6.0×10243.142
= 122×62×62×6.67×6.0×10173.142122×62×62×6.67×6.0×10173.142
≒ 757500×1017
= 75.75×1021
∴ r ≒ 3√75.7575.753×107
≒ 4.23×107
というわけで、静止衛星は地球の中心から 約4.23×107m (約42300km)の高さにある、と分かりました。
この高さは地球の半径 R ≒
6.4×106 m と比べますと、
rRrR = 4.23×1076.4×1064.23×1076.4×106 ≒ 6.6
約6.6倍の高さと分かります。
地表からの高さでいえば 4.23×107 - 6.4×106 =
3.59×107 m、約3万6000km です。*
この赤道上空高度 約3万6000km
の円軌道を静止軌道といいます。
人工衛星でなくても、たとえば石ころでも、この位置にいれば地球と一緒に回転するということです。
この静止軌道は世界各国から打ち上げられた気象衛星、通信衛星、放送衛星などの静止衛星がひしめき合っているらしいです。*
第2宇宙速度
上の『第1宇宙速度』のところで、地表から水平に
約7.9km/s で大砲を撃つと砲弾は地球を一周して戻ってくるという話をしましたが、このとき初速をもっと大きくしても大砲の砲弾は戻って来ます。
ただしその軌道は楕円になります。
初速を大きくしていけばそれだけ大きな楕円になります。
そしてさらに初速を大きくしていくと、軌道は楕円でなく放物線になります。つまり無限の彼方に飛び出していってしまいます。地球の引力を振り切るのです。
このときの初速を求めてみます。力学的エネルギー保存の法則を用います。
万有引力は保存力であるから力学的エネルギー保存の法則が成り立っています。万有引力は位置のみによって決まる量*なので保存力であり、今は空気抵抗が無いという前提であり大砲の砲弾には保存力のみがはたらいているので力学的エネルギー保存の法則が成り立ちます。
力学的エネルギーとは運動エネルギーと位置エネルギーの和のことであり、それが保存されるということは、運動エネルギーと位置エネルギーの和が一定、ということです。
初速度を v0 、地球の中心と砲弾との距離を r としますと、以下のように表せます。
1212mv02 + (−GMmR(−GMmR)) = 1212mv2 + (−GMmr(−GMmr)) ……A
左辺はスタートの瞬間の力学的エネルギーです。左辺第1項が大砲が砲弾に与えた運動エネルギーで、左辺第2項が万有引力による位置エネルギーです。右辺は任意の点における力学的エネルギーです。この力学的エネルギーが一定ということです。
砲弾は発射されたときに運動エネルギーが最大で位置エネルギーが最小です。発射されたあと、徐々に運動エネルギーが減少して位置エネルギーが増加し、最も遠い地点で運動エネルギーが最小、位置エネルギーが最大、となります。砲弾の初速をどんどん大きくしていけば楕円軌道も無限大に近い大きさになっていきます。このときの最も遠い地点、つまり運動エネルギーが最小になる地点において少しでも運動エネルギーがある、すなわち少しでも速さがあれば、それは楕円軌道を飛び出す、ということになります。これが地球の引力を振り切るという状態です。
これはA式において、右辺第2項の r が ∞ 、つまり右辺第2項 (−GMmr(−GMmr)) が 0 で、右辺第1項が 1212mv2 ≧ 0 ということです。つまり、
1212mv02 + (−GMmR(−GMmR)) = 1212mv2 ≧ 0
∴ 1212mv02 + (−GMmR(−GMmR)) ≧ 0
∴ 1212mv02 ≧ GMmRGMmR
∴ v02 ≧ 2GMR2GMR
∴ v0 ≧ √2GMR2GMR GM = gR2 を代入して
∴ v0 ≧ √2gR2gR
となります。このときのぎりぎり振り切る速さ v = √2gR2gR を第2宇宙速度(あるいは脱出速度)といいます。
この速度は第1宇宙速度の √22 倍になっています。つまり、√22×7.9 ≒ 1.41×7.9 ≒ 11 km/s です。
この速さ以上で大砲を撃てば、砲弾は地球の引力を振り切って遥か彼方まで飛んでいきます。上で挙げた数値の例でいいますと、運動エネルギーと位置エネルギーの和が -250J とか -280J ではなく 0J とか 10J とかプラスになった状態です。
ちなみに、人工衛星は地球の引力を振り切って脱出すると、今度は太陽の引力に捕まって太陽の周りを回り出します。すると「人工衛星」という名前でなくなり「人工惑星」という呼び名に変わります。恒星(太陽)の周りを回るのか惑星で、惑星の周りを回るのが衛星です。人工衛星と人工惑星を総称して「人工天体」と呼びます。
また、第1宇宙速度、第2宇宙速度の他に第3宇宙速度というものもあります。