科学と「いのち」のパラドックス

 

 

学問したことを判断や行動の基準にして生きると「いのち」が弱まっていきます。

 

どのようなメカニズムなのでしょうか?

 

 

「いのち」がより強く、大きく、伸びやかになるために人類は科学を発展させてきました。

ところが、現代都市文明生活者にとっては、科学が「いのち」を弱体化させはじめました。

 

それは科学の発達により、エネルギーを一点に過度に集中させることができるようになったことに関連します。

 

たとえば、過疎の農村で車の運転を誤っても本人が農道に落ちて被害を受けるだけかもしれませんが、都会で交通事故を起こすと多くの人が被害を受けます。もし電車の踏切では被害は数百倍に増えるかもしれません。

一番の具体例は原子融合と原子分裂による莫大なエネルギーです。

 

科学によって効率よくエネルギーを集中化させたため、莫大なエネルギーを人はコントロールする権利を得ましたが、同時にそのメリットが増えた分だけ、デメリットも増えることになります。

 

 

デメリットの大きな2つは、エネルギーの制御といのちの弱体化の問題です。

それは集中した莫大なエネルギーのある時空では、そのエネルギーを扱うノウハウに従順にしたがうしかなく、

間違えや新たな方法を試みるのはリスクが高く回避するものになります。

したがって、ただマニュアル通りの行動するのが安全だという価値観が、エネルギーが集中した地域で生まれるのは当然のことです。

 

 

ところが、「いのち」は試行錯誤すること、すなわち失敗して、修正して、再試行して、再び失敗して、再び修正する、というプロセスを際限なく続けることで成り立つモノです。

宇宙は常に変化し続けいているために、それに適応するために、失敗して修正するのが「いのち」の機能の1つであるからです。

 

 

ここに「いのち」と科学のパラドックスが生まれます。

いのちは失敗を必要とし、科学は失敗をなくすことを目指すことから生じる対立です。

 

答えは明らかです。

もしあなたが「いのち」を持っているのならば、

科学を道具として利用はするが、

科学を基準にして物事を判断するのをやめて、

判断の基準を「いのち」にすることです。

 

科学的に効率が悪くても、「いのち」を持つ生命体は失敗することで維持されるものだからです。

これは宇宙という現象が常に変化し続けていることに由来することなので、脳の都合(科学)を宇宙に押し付けても宇宙の働きは変わることがありません。

 

科学はある種の必要悪、換言すれば「やんちゃ坊主」の「強引さ」と「ずる賢さ」なので、それほどまでに讃えるものではなく、ツッコミをいれてあげる程度のものです。

 

科学に対して、真面目や、誠実や、神聖や、信頼や、正義や、正直や純粋ほど不適切な言葉はありません。

 

 

 

 

科学(学問)とは大脳皮質を使って思考を関連づけることでできるものなので、

気を失ったり、寝ている時には勉強することはありません。

しかし、そんな状態でも「いのち」は働き続けているので、私たちはこうして生きていられます。

 

つまり、科学しなくても生きていけますが、生きていなくては科学することができない、という関係性です。

科学は「いのち」のほんの一部でしかなく、「いのち」は科学をも含んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


科学は印欧語のscienceの訳です。

scienceは、ラテン語の動詞"scio"(=知る。分子形がsciens、名詞は"scientia")に由来する言葉で、

「知る」ことを意味します。

 

意義は世界と現象の一部を対象領域とする、経験的に論証できる系統的な合理的認識のことなので、

一部を理解する認識であり、全体を理解することはできません。