「水源と7つの海」
根源や比較を使って概念を作り出す方法
パターンとして認識するには、対象の共通点と差異にスポットライトを当てることが同時に行われます。
これをイギリスでは「水源と7つの海」という譬えで説明されることがあります。
根源を定義づけ、他と差別化することで「概念」を作り出します。
たとえば、一本の河があれば、その水源をたどることで、その河の出自を明らかにすることです。
そして次に、世界の河と比べることで、眼の前の河との差異を明らかにします。
根源を作成(捏造)して、他のTPOと比較して導き出されるものは、ヒト(大脳皮質)の「まとめてしまう作業」という一般化の機能に由来します。
大脳皮質に障害があったり、頭を強く打ったり、睡眠中の意識がない時には、この一般化という作業(定義づけと比較)という作業は行われません。
河に特定の水源というものがあるかにように思われているのは錯覚の1つで、これは一般化をするためのトリックです。
これは、一本の河ができる過程を詳細にみることで明らかになります。
2つの視点において、河には1つの水源がある、とは言い難くなります。
1つ目の視点は、河になる水は雨に由来しますが、その雨は一箇所の水源に降るのではなく、あたり一面に降ります。その一面には凸凹があるので、凸の水は凹に集まり、これが谷になり、それらの多くの谷の水が最も凹となっているところに流れて河や湖になり、それらが海に繋がります。
河の一滴の水はその地域全部(分水嶺の内側)が水源であり、1点に特定できるような水源などはこの世には存在しません。
2つ目の視点では、河の構成要素である水滴、すなわち雨そのものの由来です。
地域全体に降っている一滴の雨は、高・低気圧のぶつかった雲からできたものであり、その雲は海や地表の水分が太陽と地球の熱によって蒸発して出来上がったものだということです。
このように雲は大地や海の水分が蒸発したものですから、河の一滴は雨によって、そしてその雨は雲によって、そしてその雲は大地と海の水分によって、成り立っています。
したがって、水の源をしっかりと観察してみると、
河の一滴の水源は、雨が地上に接するところの全てであり、
その雨は太陽が当たるすべての場所の水蒸気であることがわかります。
「水源をたどり、7つの海を比べる」という学問の手法は、ものごとをわかりやすく理解するための作業ですが、
それは表面的で簡略化されたもので事実とはかけ離れてしまっており、「根源と比較」は1つの羅針盤とはなりますが、実際は河には1つの水源がある、とは言えません。
対して、「水源は雨が降るところのすべてであり、その元は地球のすべての水蒸気である」という「いのち」のアプローチは、なんでも「すべて」なので分断化することも数値化することもできません。
それは、この世のあらゆる現象は常に変化、進化、退化しているので、これに向き合うためには対応し続ける必要があるので、眼の前の唯一無二な対象に接する試行錯誤(主体の変化)が必要となります。
つまり「わたし」が対象に合わせて次々に変化していくことになります。
これが「いのち」のアプローチです。
これは物質の源でも同じようなことが言えます。
中学校で物質の源は原子と電子であり、高校では素粒子であり、量子力学の学会ではプランク単位を最小であるとしていますが、どれもが根源ではないのに、根源を仮設することから話をはじめるフィクションです。
このように、学問は「まずは根源ありき」という思考パターンをつくることから成り立ち、こうして事実から離れることで、「いのち」という分けることができない全体性を弱めてしまっています。