仏典の役割  人工衛星の視点の外に出る指標   

 

 

 

釈尊の教え、その一つの表現としての経典は「人工衛星の視点」の外側に出るために記述されたものなので、この意図を理解せずに、日常では正しいとされている「一般化」を基準に理解したり翻訳しようとすると、経典でさえ、釈尊の教えから遠く離れるばかりか、教えの障壁となります。

 

この点に注意を向けるクセをつけないと、従来の学校教育を受けてしまった人は、誤解をし、権威と慣習の力を無意識に行使して、誤謬を世間に広めていく役割を負ってしまいます。

 

 

従来の経典の翻訳の仕方は、釈尊の教えを「わかりやすくまとめて」もしくは「分析して統合して」もしくは「客観的に観察して」伝えようするのもありました。

しかし、それでは高みに立って、全体性を理解できたかのような爽快感を得たり与えたりはしますが、訳された内容と自分のこれからのすべき行動との間を分断してしまって、各自が実践するための大事なはじめの一歩を踏みだすのを妨げることになります。

 

経典は、知識や一般化のためではなく、大脳が作り上げた世界の可能性とそこから生まれる思考と感情の限界と恐ろしさを再認識するための灯台の役目があります。

経典は、思考や感情(大脳が作り出したもの)を持たない生命体のサバイバル術と、自分の思考や感情や行動を浄化(自動反応プログラムの解除)する方法を記述しています。

これまでの習慣で癖になってしまった自分の思考パターンや行動パターンを変革して、「現実をありのままに感じる」ためのツールです。

 

常に変化し続ける状況をありのままに見守り、寄り添い続けることが、経典を理解する時に目指す方向です。

なぜ釈尊をはじめとする仏教徒たちは、「教え」を自分の時間と力のすべてを人生を通じて伝えてきているのでしょうか?