知識と智慧の違い

 

 

私たちにある知識とは、五感から入るデータによって、頭のなかに現れる概念のことです。

私たちの知識は全て、人間という種の都合によって勝手に編集して捏造した概念です。

ですから、知識とは真理ではなく、必ず間違え、簡単に変わり続けます。

知識とは一時的な感想です。一定しないのです。

例えば歴史を学んだとしても、その知識は一定しないのです。

新しいデータが発見されたら、自分の知識を変えなくてはいけないのです。

知識には終わりが無いのです。知識がいくらあっても、知らないもののほうが圧倒的です。

 

しかも知識があると存在欲が強まるので、生きることが苦しくなるのです。

ヒトは生きるために知識を利用するので、生きることが苦しくなるのです。

 

 

真理を発見することが智慧です

智慧とは人間中心に物事を見ることではありません。すべての生命の立場から見ることでもありません。

智慧とは、実際なんなのかと知ることです。

一切の主観、感情、見解、先入観を取り除いて、ありのままに、まったく評価のラベルを貼らないで、感覚器官に入るデータを確認することで現れる能力が智慧です。

 

それには訓練が必要です。

脳が学習した感情や思考のパターンを使わないで認識する練習が必要です。

智慧は徐々に現れてきます。

「一切智者」と言うと、世のありとあらゆるすべての知識を知っていることだと思ってしまいますが、世にある知識は、一時的な感想に過ぎません。

 

たとえば、ある病人が頭が痛い、関節が痛い、食欲が無い、身体がダルい、眠れない、起きられない、気分が良くない、やる気が出ない、周りが鬱陶しいなどと感じているとします。

それぞれの症状に対して手当すると、そこは一時的に改善しますが、別なところで別な症状が現れ、症状は変わらないことがあります。そこで身体を全体的に検査すると、メンタルの問題であったということがあります。

それで今までの多くの症状はメンタル、すなわち感じ方や考え方の問題であったというケースがあります。

 

一つ一つの症状に、対処するのが知識だとすれば、メンタルを治癒するのが智慧です。

 

このようなことが日常の中にもあります。

生活の中で「苦」があります。そこでそれに対処しても、苦が別な苦に変わるだけです。

友達が居ないとそれが苦です。友達が居るとその関係で苦が起きます。

人が知識を得るのも、苦を無くす目的です。

しかし知識を得て振り返ってみたら、苦が増えただけであることを発見します。

 

智慧とは「なぜ苦しみが起こるのか」をと発見することです。

そして、その原因を取り除くことです。

すると一切の苦が消えるのです。

このプロセスを経た人は、この世にある如何なる現象であっても、それに反応できるようになります。

これが、最終的な解決であり、智慧の効果です

 

訓練をはじめたら、智慧が徐々に現れてきます。

智慧が現れた分だけ、人生が楽になります。

いくら知識があっても、智慧にはなりません。

わずかな智慧があれば、知識がなくても、より瞬時に、適切な生き方を発見できます。

智慧は概念をためる働きではなく、物事をありのままに観れる能力のことです。

知識には完了はないが、智慧には完了があります。

ですから智慧について、あれこれと考える必要はありません。