今を生きるための仏教100話 植木雅俊
中村元の日本仏教に対する評価
仏教はわが国で「儀礼的呪術的形態」でしか民衆と結びついていないとして、「思想的指導性は極めて乏しい」。
「宗教における思索と実践」 毎日新聞出版1949 中村元
日本の仏教受容の仕方は、シャーマニズムの域を出ることがなかった。
「日本人の思惟方法」中村P455
無我ではなく非我
経典では、anattanとは「何かを自己とみなす」ことを否定する表現になっている。
それはなにかが自己なのではない、という意味なので、無我(我が無い)ではなく、非我(我にあらず)と訳すべきである。
自己ではないものを自己とみなして執着することを戒めた言葉であって、自己を否定したものではない。
中国で女性化した観音菩薩
鳩摩羅什訳の法華経406年は33化身の7つは女性
サンスクリット原典(ケルン・南条本)、竺法護の正法華経286年は男性のみの17身。
イランの神である観音菩薩
クシャーナ王朝(1〜3世紀)に、ガンダーラでイランのmitra神を取り込んで、maitreyaとして、敦煌を経由して東アジアに伝来した。根拠?
船の難破や火災、風災、水災などの災難から守る守護神
ガンダーラ仏教美術では、釈尊の成道以前(菩薩)、成道以後(ブッダ)、マイトレーヤ菩薩像の3つが礼拝の対象として彫刻されていた。
現在のパキスタンのタキシラ(イスラマバード近郊)には菩薩像が多く発掘されている。
ミトラなどの外来の神格が仏教に取り込まれると、西洋の一神教的絶対者のような宇宙大の永遠であり抽象的な法身仏(如来)が考え出された。
またゾロアスター教のアフラ・マズダーに起源を持つとされる毘盧遮那仏vairocanaも絶対的仏である。
西洋において絶対者としての神は人間から断絶しているが、仏教において絶対者である仏は、人間の内に在している。
弥勒菩薩と観音菩薩の違い
観音菩薩avalokitasvaraは「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」
観音菩薩の起源や性別には定説がない。
観音菩薩は、その名前からはシヴァ神と関係していて、一方、蓮華や水瓶を持つなどその姿からは、富・美・光の女神であるラクシュミーやシュリー、ペルシャ語からの類推で、「光輝く者」が本来の意味だったという説もあり、ゾロアスター教のアフラ・マズダーの娘とされる河の女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連も指摘されている。
「法華経」では現世の人々を救う姿が説かれ、浄土系経典では阿弥陀如来を補佐する菩薩として人々を浄土まで運ぶとされ、「華厳経」では、南方海上の補堕陀落山の浄土に住むと説かれている。
儒教社会では家系を継ぐ男子がなければ先祖供養を絶つことを意味し、不孝の最たるものであったので、男児出産を願って観音信仰が普及した。
弥勒菩薩(マイトレーヤ)
梵: maitreya巴: metteyya(メッテイヤ)は釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏であり、大乗仏教では菩薩の一尊である。
弥勒は音写であり、「慈しみ」(梵: maitrī, 巴: mettā)を語源とするため、慈氏菩薩(“慈しみ”という名の菩薩)とも意訳する。
怠け者で、利得を貪り、名声が知れわたることを求める一人の菩薩がいた。
法華経第一章序品
一部の大乗経典では字(あざな)が阿逸多 Ajita とされているが、スッタニパータ第五章や、『中阿含経』中の説本経などの初期経典の記述では、弥勒と阿逸多は別人である。慧覚訳『賢愚経』では、弥勒は仏陀となると誓願を述べ、阿逸多は転輪聖王となるという誓いを表明したところ、阿逸多は叱責され、弥勒は記別を受けている。
「上生信仰」では、弥勒菩薩は須弥山の上空にある兜卒天で神々や菩薩達に説法をしているとされ、弥勒菩薩の名前を唱えて念じると、死後、兜卒浄土に生まれ変われるとする信仰です。阿弥陀如来の浄土信仰と似ています。
一方、「下生信仰」では、 56億7千万年後に弥勒菩薩が兜卒天から降りてきて如来となり、人々を救うとする信仰です。弥勒菩薩には少年神としての側面があります。日本では兜卒天で瞑想にふける姿を描いた半跏思惟の像が有名です。
弥勒菩薩にはユーラシア全体に広がる救世主神話と共通した側面があって、その元祖にあたるイランのミスラ神の仏教版であると考えられています。ミスラ神にも死後の天国の主宰神という性質と、未来の救世主という性質があります。
維摩経や法華経の編纂者もマイトレーヤ信仰に疑問があった。
維摩経3章51 「マイトレーヤよ、今、これらの神々の子たちを甘言でそそのかしてはならない。欺いてはならない」
「雑譬喩経」マイトレーヤ信仰に納得できない人が記述した弥勒菩薩の出現を待つことなく阿羅漢に達する
指導者(釈尊)の寿命の長さがいかに無限であるのか、私たちは、かつて聞いたことがありません。
法華経 第16章分別功徳品
マイトレーヤが釈尊の代わりに如来となる出番がないことを認めている、という解釈がある。
インド・ヨーロッパ語族の男性・女性・中性
サンスクリット語の妻であるdāraと婦人であるmātrgrāmaは男性名詞
ドイツ語の令嬢であるfräuleinと少女であるmädchenは中性名詞
月を表すドイツ語のmondは男性名詞で、英語のmoonは女性名詞
ジェンダー平等 生物学的な種による差異と名称による差異 Vāseṭṭhasutta SN 3.9 英訳
スッタニパータ
608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、
610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
611 身をうけた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
人間の在り方として人間同士には男女の性差に差異はなくジェンダー平等である。
男女差にこだわると魔が生じる Somāsutta SN 5.2 ソーマー経 英訳Soma
Ñāṇamhi vattamānamhi, sammā dhammaṃ vipassato.
♪智慧が転起しているとき、正法を見る者にとって。
Ñāṇamhi智、智慧
vattamānamhi 転ずる、起こる、存在する
vipassato vi-paś 現分 ant 男 単 属 観察する
‘Yassa nūna siyā evaṃ, itthāhaṃ purisoti vā;
♪その者に『私は女である』と、あるいは『男である』と、そのような〔考えが〕あるような者、
itthi 女、女性
ahaṃ 私
puriso 人、男
Kiñci vā pana aññasmi [asmīti (syā. kaṃ. pī.)], taṃ māro vattumarahatī’’ti.
♪あるいはまた別に『私は何々である』〔という考えがあるような者〕、魔は、その者に語りかけるのが相応しい」と。
māro 魔、死魔
vattum 言うこと、言うため
arahatī’値する
女性であれ、男性であれ、その人は実にこの乗り物によってまさにニルヴァーナのそばにいる
SAMYUTTA NIKAYA T.5.6 第T篇「神々についての集成」第五章「燃えている」第六節「天女」
出典?
初めての女性の僧 尼
伝承では、最初の比丘尼は釈迦の養母の摩訶波闍波提 (まかはじゃはだい、mahāprajāpatī)と500人の釈迦族の女性たちであった。
釈迦ははじめ女性の出家を許さなかったが、彼女たちの熱意と阿難(あなん、アーナンダ)のとりなしによって、比丘を敬い、罵謗したりしないなど8つの事項を守ることを条件に、女性の出家を認めたという。これにより釈迦の元妻である耶輸陀羅(やしょたら、ヤソーダラー)、大迦葉(だいかしょう、マハー・カッサパ)のかつての妻である妙賢(バッダー・カピラーニー)、ビンビサーラ王の妃であった差摩(さま、ケーマー)、蓮華色比丘尼(ウッパラヴァンナー)など次々と出家し尼僧集団が形成された。
女性は阿羅漢になれる Sundarītherīgāthā Therīgāthā 13.4 英訳Verses of the Elder Sundarī
Passa sundarimāyantiṁ,
vippamuttaṁ nirūpadhiṁ;
Vītarāgaṁ visaṁyuttaṁ,
katakiccamanāsavaṁ.
vippamutta [vi+pamutta] 離脱
See Sundarī coming,
released, free from acquisitions,
free from passion, unbound,
one who has done what was to be done, free from influences.”
法華経にある龍女の成仏
在家のアノーパマーが不還果に至り、後に阿羅漢になる。
女性は阿羅漢になれない
『 〈女性が阿羅漢である正自覚者になるであろうということは道理でなく、機
会のないものである。この道理は存在しない〉と知ります。また、〈男性が阿羅漢
である正自覚者になるであろうということは道理である。この道理は存在する〉
と知ります。』
ここで言う阿羅漢とはブッダ(=正自覚者)のことです。
ここで言っている事は女性が仏陀になることは道理ではなく有り得ない、という事で
あって他の仏典から見ても女性が阿羅漢になれないとは考えられません。
出典?
Bahudhātuka-sutta MN115 多界経 英訳Many Elements
には見当たらない。
実際、釈尊在世中に尼僧の僧団が出来た後、何人もの女性が阿羅漢となっている。
「アーナンダよ、女性が出家しなかったならば、梵行(性欲を断つ修行)は永遠に遵守されて行くだろう。正法(正しい教え)は千年の間、世間に流布するだろう。だが、じつのところ、アーナンダよ、いま女性の出家を認めてしまったからには、正法は半分の五百年ぐらいしか世間に流布しないだろう」
出典?
男性の修行者にとって女性は修行の妨げになることから、釈尊が語ったという設定で後代の仏教徒が言い出したと考えられる(田上太秀『仏教と女性』/東京書籍)そうで、最初期の仏教では、最高の智慧の完成において男女の区別はなく、女性を軽視する考えは全く見られない(植木雅俊、Gender Equality in Buddhism)のだそうです。
ギリシャ人のメガステネース(紀元前300年ごろ)がインド旅行記を残していますが、そこには、
「インドには驚くべきことがある。そこには女性の哲学者たちがいて、男性の哲学者たちに伍して、難解なことを堂々と論議している」とあります。
仏教の教団に女性差別というものが出てくるのは、異論もあるでしょうが、大体紀元前2〜1世紀頃(五障説の成立)の ことだと思われます。
女人五障説は仏教教団の分裂後に現れたと考えられているようです。
ところが釈尊の滅後、バラモン教的女性観の侵入が余儀なくされる。それは仏教教団の小乗化(保守化、権威主義化)によって促進された。釈尊は神格化され、程遠い存在とされた。それと並行して、女性は、@梵天王A帝釈B魔王C転輪聖王D仏身──の五つのものになれないとする「五障」説、あるいは、「三従」説などの差別思想が仏教にも導入された。釈尊という理解者を失って尼僧教団の立場はますます低下したのだ。
その結果、「女人は地獄の使なり能く仏種子を断ず」「一度女人を見る者はよく眼の功徳を失ふ設ひ大蛇をば見るとも女人を見るべからず」「一切の江河必ず回曲有り一切の女人必ず諂曲有り」「あらゆる三千界の男子の諸の煩悩を合わせ集めて一人の女人の業障となす」などの言葉が経典に登場するようになる。これらの言葉は、不幸なことに釈尊が語ったという設定で仏典に記されている。
日蓮がこうした言葉を見て、「法華経より外の一切経を見候には、女人とはなりたくも候はず」と嘆いたのもうなずけよう。この部分だけを見て、仏教全般が女性差別の宗教だと論ずるのは早とちりの謗りを免れない。
菩薩とは
釈尊が天文学的な時間をかけた修行(歴劫修行)をている時に、燃燈仏(ディーパンカラ如来)から未来成仏の予言(授記)を受けた。
覚りbodhiを得ることを確定している人sattvaを音写して菩提薩埵、これを略して菩薩となった。
神聖化される釈尊
古い仏典では悪魔が説法をやめさせようとした→初転法輪経では梵天勧請に改められた。
自分の妻子を布施することの理解に苦しむミリンダ王
第四十四話 莫大な布施と蓄財
2015年に橋爪大三郎氏(東京工業大学名誉抄受)と『法華経』について三回で計十五時間以上に及ぶ苛酷な対談をし『ほんとうの法華経』(ちくま新書)を出版した。『法華経』の第一章を論じている時、「自分の妻子を布施するのはやりすぎじゃないですか?」と追及された。されは『法華経』編纂当時(紀元一世紀末〜三世紀初頭)の仏教界の現状を描写した個所で、『法華経』が妻子の布施を推奨しているのではないと説明した。
そして「紀元前二世紀にすでに橋爪先生と同じように疑問を抱いた人がいます」と言うと、「だれですか?」と興味を示された。それは、アフガニスタンやインド北部を支配していたギリシア人のミリンダ(弥蘭陀、ギリシア名=メナンドロス)王である。この王が同様の疑問をぶつけ、対談相手の仏教僧(ナーガセーナ(那先)が、妻子の布施は「全知者の智慧の獲得のため」などと理解に苦しむ返答をした(『ミリンダ王の問い』)。妻子までも布施することを美談として布施をあおっていたのだ(詳細は『ほんとうの法華経』、八四〜八九頁を参照)。
伝統的・保守的な部派仏教(小乗教)は、社会の上層階級の支援のみを当てにして、精舎やストゥーパ(仏塔)の建立、教団やストゥーパへの莫大な富の布施は功徳が大きいといって奨励した。王侯・貴族・大地主から広大な土地を寄進された。それは寺院の荘園となり、王の官吏たちも立ち入ることが出来なかった。
その理由を中村元先生が挙げておられる。チャンドラプタ二世という帝王が教団に土地を寄進した文書に、「この土地を犯すものがあるならば、牛やバラモン殺しと同じ罪になる」とある。一般民衆が仏教寺院の土地を大切にしたのは、仏教に対する信仰からではなかったのだ。バラモン教を報ずる人たちにとって最も重罪とされた「牛殺し」と同じ罪になることを恐れたからだった(中村元著『インド史V』、五五二頁)。
伝統的・保守的な仏教教団は、ローマ帝国などと海外貿易を手掛ける豪商から莫大な金銭の寄進を受けていた。寄進されても、出家者が金銭等に手を触れることは禁じられていた。そこで、
浄法≠ニいう人を食った名前の抜け道を巧妙に考案した。金銭等に直接手を触れなければいいと、在家の財産管理人を雇ったのだ。説一切有部では、「利子を採って金貸しをやっているあいつらは出家者じゃない」という批判を受けて、出家者が利子を取って貸付することを禁止していたが、徐々になし崩しにされていった、商人の組合に貸し付けて利子を受け取った。こうして西暦紀元前後には、教団自体が大地主・大資本家と化していった(同、一九〇頁)。
その正当化のために、生存しているはずのない釈尊が語ったかのようにして、「僧伽(教団)のためには利潤を求むべし」という条項を律(出家者の守るべき規則)に盛り込んだ。釈尊の名前を語り、権威をかりて、都合よく規則(戒律)を改変したのだ。釈尊を祀り上げ、名前を語って、釈尊が説いてことの内実を骨抜きにした。
出家者たちが大寺院の中に澄んで瞑想に明け暮れ、煩瑣な教利の研究に没頭して、悩める民衆のことを考えなくなくなってしまった背景にはこうした事情もあったからである。紀元前後に登場する大乗仏教から、「小乗」と呼ばれるに至る理由はこうした点にあった。
神格化したブッダの権威をかりて、ストゥーパ信仰、聖地崇拝を宣揚し、莫大な布施を奨励し、その一方で金融業まがいの活動を展開し、莫大な財産を貯め込んだ。利己的・独善的な態度に陥り、一般民衆のことなど眼中になかったのも当然のことであった。
教団の繁栄は、資産家たちの財力によるところが大であった。それもローマ帝国の没落(四七六年)とともに、資産家たちも没落し、教団も衰退することになる。
大乗仏教のスローガン
「原始仏教に還れ」というルネサンス
利他行の実践 菩薩の自覚に立ってブッダ(目覚めた人)になることを理想とする
平等思想の復権 小乗の在家非阿羅漢論や女人不成仏を否定
先駆けが「般若経」「維摩経」
出家か在家よりも正しい行いを実行すればよい
ブラックホール 化城喩品
「中間幽冥の処、日月の威光も照らすこと能わざる所」
大通智勝仏がこの上ない無上の悟りを得られたとき、十方の各々の五百億の諸仏の世界は六種に震動し、
その国の中間の光が弱く暗い所、暗くて太陽や月の光も照らし出す事が出来ない様な処までみな明らかになり、
その中の生命のあるものすべては互いに見る事が出来る様になってこのように言った。
妙法蓮華経巻第七
妙法蓮華経。常不軽菩薩品。第二十
爾時仏告。得大勢菩薩摩訶薩。汝今当知。若
比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。持法華経者。若
有悪口。罵詈誹謗。獲大罪報。如前所説。其所
得功徳。如向所説。眼耳鼻舌身意清浄。得大
勢。乃往古昔。過無量無辺。不可思議。阿僧祇
劫。有仏名威音王。如来。応供。正遍知。明行足。
善逝。世間解。無上士。調御丈夫。天人師。仏。世
尊。劫名離衰。国名大成。其威音王仏。於彼世
中。為天人阿脩羅説法。為求声聞者。説応四
諦法。度生老病死。究竟涅槃。為求辟支仏者。
説応十二因縁法。為諸菩薩。因阿耨多羅三
藐三菩提。説応六波羅蜜法。究竟仏慧得大
勢。是威音王仏。寿四十万億那由佗。恒河沙
劫。正法住世劫数。如一閻浮提微塵。像法住
世劫数。如四天下微塵。其仏饒益衆生已。然
後滅度。正法。像法。滅尽之後。於此国土。復有
仏出。亦号威音王。如来。応供。正遍知。明行足。
善逝。世間解。無上士。調御丈夫。天人師。仏。世
尊。如是次第。有二万億仏。皆同一号。最初威
音王如来。既已滅度。正法滅後。於像法中。増
上慢比丘。有大勢力。爾時有一菩薩比丘。名
常不軽。得大勢。以何因縁。名常不軽。是比丘
凡有所見。若比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。皆
悉礼拜讃歎。而作是言。我深敬汝等。不敢軽
慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏。而
是比丘。不専読誦経典。但行礼拜。乃至遠見
四衆。亦復故往。礼拜讃歎。而作是言。我不敢
軽於汝等。汝等皆当作仏故。四衆之中。有生
瞋恚。心不浄者。悪口罵詈言。是無智比丘。従
何所来。自言我不軽汝。而与我等授記。当得
作仏。我等不用。如是虚妄授記。如此経歴多
年。常被罵詈。不生瞋恚。常作是言。汝当作仏。
説是語時。衆人或以。杖木瓦石。而打擲之。避
走遠住。猶高声唱言。我不敢軽於汝等。汝等
皆当作仏。以其常作是語故。増上慢比丘。比
丘尼。優婆塞。優婆夷。号之為常不軽。是比丘。
臨欲終時。於虚空中。具聞威音王仏。先所説
法華経。二十千万億偈。悉能受持。即得如上。
眼根清浄。耳鼻舌身意根清浄。得是六根清
浄已。更増寿命。二百万億。那由佗歳。広為人
説。是法華経。於時増上慢四衆。比丘。比丘尼。
優婆塞。優婆夷。軽賎是人。為作不軽名者。見
其得大神通力。楽説弁力。大善寂力。聞其所
説。皆信伏随従。是菩薩。復化千万億衆。令住
阿耨多羅三藐三菩提。命終之後。得値二千
億仏。皆号日月燈明。於其法中。説是法華経。
以是因縁。復値二千億仏。同号雲自在燈王。
於此諸仏法中。受持読誦。為諸四衆。説此経
典故。得是常眼清浄。耳鼻舌身意。諸根清浄。
於四衆中説法。心無所畏。得大勢。是常不軽
菩薩摩訶薩。供養如是。若干諸仏。恭敬尊重
讃歎。種諸善根。於後復値。千万億仏。亦於諸
仏法中。説是経典。功徳成就。当得作仏。得大
勢。於意云何。爾時常不軽菩薩。豈異人乎。則
我身是。若我於宿世。不受持読誦此経。為佗
人説者。不能疾得。阿耨多羅三藐三菩提。我
於先仏所。受持読誦此経。為人説故。疾得阿
耨多羅三藐三菩提。得大勢。彼時四衆。比丘。
比丘尼。優婆塞。優婆夷。以瞋恚意。軽賎我故。
二百億劫。常不値仏。不聞法。不見僧。千劫於
阿鼻地獄。受大苦悩。畢是罪已。復遇常不軽
菩薩。教化阿耨多羅三藐三菩提。得大勢。於
汝意云何。爾時四衆。常軽是菩薩者。豈異人
乎。今此会中。跋陀婆羅等。五百菩薩。師子月
等。五百比丘。尼思仏等。五百優婆塞。皆於阿
耨多羅三藐三菩提。不退転者是。得大勢。当
知是法華経。大饒益。諸菩薩摩訶薩。能令至
於。阿耨多羅三藐三菩提。是故諸菩薩摩訶
薩。於如来滅後。常応受持。読誦。解説。書写是
経。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言
過去有仏 号威音王 神智無量 将導一切
天人龍神 所共供養 是仏滅後 法欲尽時
有一菩薩 名常不軽 時諸四衆 計著於法
不軽菩薩 往到其所 而語之言 我不軽汝
汝等行道 皆当作仏 諸人聞已 軽毀罵詈
不軽菩薩 能忍受之 其罪畢已 臨命終時
得聞此経 六根清浄 神通力故 増益寿命
復為諸人 広説是経 諸著法衆 皆蒙菩薩
教化成就 令住仏道 不軽命終 値無数仏
説是経故 得無量福 漸具功徳 疾成仏道
彼時不軽 則我身是 時四部衆 著法之者
聞不軽言 汝当作仏 以是因縁 値無数仏
此会菩薩 五百之衆 并及四部 清信士女
今於我前 聴法者是 我於前世 勧是諸人
聴受斯経 第一之法 開示教人 令住涅槃
世世受持 如是経典 億億万劫 至不可議
時乃得聞 是法華経 億億万劫 至不可議
諸仏世尊 時説是経 是故行者 於仏滅後
聞如是経 勿生疑惑 応当一心 広説此経
世世値仏 疾成仏道
妙法蓮華経。如来神力品。第二十一
爾時千世界。微塵等。菩薩摩訶薩。従地涌出
者。皆於仏前。一心合掌。瞻仰尊顔。而白仏言。
世尊。我等於仏滅後。世尊分身。所在国土。滅
度之処。当広説此経。所以者何。我等亦自。欲
得是真浄大法。受持。読。誦。解説。書写。而供養
之。爾時世尊。於文殊師利等。無量百千万億。
旧住娑婆世界。菩薩摩訶薩。及諸比丘。比丘
尼。優婆塞。優婆夷。天。龍。夜叉。乾闥婆。阿脩羅。
迦楼羅。緊那羅。摩?羅伽。人非人等。一切衆
前。現大神力。出広長舌。上至梵世。一切毛孔。
放於無量。無数色光。皆悉遍照。十方世界。衆
宝樹下。師子座上諸仏。亦復如是。出広長舌。
放無量光。釈迦牟尼仏。及宝樹下諸仏。現神
力時。満百千歳。然後還摂舌相。一時謦?。倶
共弾指。是二音声。遍至十方。諸仏世界。地皆
六種震動。其中衆生。天。龍。夜叉。乾闥婆。阿脩
羅。迦楼羅。緊那羅。摩?羅伽。人非人等。以仏
神力故。皆見此娑婆世界。無量無辺。百千万
億。衆宝樹下。師子座上諸仏。及見釈迦牟尼
仏。共多宝如来。在宝塔中。坐師子座。又見無
量無辺。百千万億。菩薩摩訶薩。及諸四衆。恭
敬囲繞。釈迦牟尼仏。既見是已。皆大歓喜。得
未曾有。即時諸天。於虚空中。高声唱言。過此
無量無辺。百千万億。阿僧祇世界。有国名娑
婆。是中有仏。名釈迦牟尼。今為諸菩薩摩訶
薩。説大乗経。名妙法蓮華。教菩薩法。仏所護
念。汝等当深心随喜。亦当礼拜供養。釈迦牟
尼仏。彼諸衆生。聞虚空中声已。合掌向娑婆
世界。作如是言。南無釈迦牟尼仏。南無釈迦
牟尼仏。以種種華香。瓔珞旛蓋。及諸厳身之
具。珍宝妙物。皆共遥散。娑婆世界。所散諸物。
従十方来。譬如雲集。変成宝帳。遍覆此間。諸
仏之上。于時十方世界。通達無礙。如一仏土。
爾時仏告。上行等菩薩大衆。諸仏神力。如是
無量無辺。不可思議。若我以是神力。於無量
無辺。百千万億。阿僧祇劫。為属累故。説此経
功徳。猶不能尽。以要言之。如来一切所有之
法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。
如来一切甚深之事。皆於此経。宣示顕説。是
故汝等。於如来滅後。応当一心。受持読誦。解
説。書写。如説修行。所在国土。若有受持読誦。
解説書写。如説修行。若経巻所住之処。若於
園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣
舎。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆応。起塔供
養。所以者何。当知是処。即是道場。諸仏於此。
得阿耨多羅三藐三菩提。諸仏於此。転於法
輪。諸仏於此。而般涅槃。爾時世尊。欲重宣此
義。而説偈言
諸仏救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力
舌相至梵天 身放無数光 為求仏道者 現此希有事
諸仏謦?声 及弾指之声 周聞十方国 地皆六種動
以仏滅度後 能持是経故 諸仏皆歓喜 現無量神力
属累是経故 讃美受持者 於無量劫中 猶故不能尽
是人之功徳 無辺無有窮 如十方虚空 不可得辺際
能持是経者 則為已見我 亦見多宝仏 及諸分身者
又見我今日 教化諸菩薩 能持是経者 令我及分身
滅度多宝仏 一切皆歓喜 十方現在仏 并過去未来
亦見亦供養 亦令得歓喜 諸仏坐道場 所得秘要法
能持是経者 不久亦当得 能持是経者 於諸法之義
名字及言辞 楽説無窮尽 如風於空中 一切無障礙
於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説
如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇
教無量菩薩 畢竟住一乗 是故有智者 聞此功徳利
於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑
抽象名詞の多いサンスクリット語
名詞、形容詞、副詞の語尾に接尾辞のtāをつけると抽象名詞になる。
目の前にある物事の背後には普遍エネルギーがあるとみる人たちの特徴である。
0ゼロの発見と普遍性
この普遍性を観ようとする見方が2BCのインドでゼロを発見した。
宇宙全体
3千大千世界=1000の3乗=10億の世界
阿僧祇は10の59乗、那由多は10の10の11乗 第十五章 如来寿量品
ミクロの世界
極小の部分が存在しないところの土の微塵の粒子(pāmsu-rajas) 第七章 化城喩品
500塵点刧は10の360乗
ドグマを持たない Māgaṇḍiyasutta Sutta Nipāta 4.9 英訳Māgandiya Learns the Muni’s Life
自分の教えにも執着しない
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
“Idaṁ vadāmīti na tassa hoti,
(māgaṇḍiyāti bhagavā)
Dhammesu niccheyya samuggahītaṁ;
Passañca diṭṭhīsu anuggahāya,
Ajjhattasantiṁ pacinaṁ adassaṁ”.
ダンマが最高の権威である Vakkalisuttavakka SN22.87 ヴァッカリ経 英訳Vakkali
「もう十分だよ、ヴァッカリよ、お前が、この腐敗した身体を見ても、何になるだろうか。ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしを見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」
縁起がわかるとdhammaがわかる Mahāhatthipadopama-sutta MN28 象跡喩大経 英訳
『縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る。』
エネルギーの変換の因果関係を把握すると、その構成要素である普遍エネルギー(ダンマ)を知ることができ、
普遍エネルギーを把握すると、その変換の法則を知ることができる。
ここでいう【法】は四諦の法、【縁起】は十二縁起。
四諦の集諦は十二縁起の順観、滅諦は十二縁起の逆観で、十二縁起は四諦の法を理解する鍵なので、
『十二縁起を理解するものは四諦の法を理解する』
増一阿含経 二八
私は人間に生まれ、人間に長じ、人間においてブッダとなることを得た。
ダルマ・カヤとはなにか?
維摩経
法から生じた身体、法によって生じた身体
身体を離れたところに如来の法身があるといった、人間と断絶した絶対者的な存在だと考えるのは、法身如来という宇宙仏のことであるので、維摩経の考え方とは違う。
仏身論
釈尊の肉体(色身、生身、現身)は滅びたが、普遍の真理としての身体である法身は滅びない。
龍樹はこの法身が衆生救済のために化現したのが応身としての釈尊である、と考えた。
世親は、宇宙に遍満している普遍的真理としての永遠の法身、具現化して寿命のある応身、永遠と具体性を兼ね具える報身の3身論を唱えた。
1神教的絶対者のような毘盧遮那仏(ゾロアスター教のアフラ・マズダーに起源を持つ)のような法身仏を尊重する傾向に対して、法華経は歯止めをかけようとしていた。
依法不依人
近代ヨーロッパの平等
権利のための闘争を通じて表れた概念である。
平等の主張が不平等な現実を作り出す。
神の前での人は平等というが黒人は人と考えていない。
「きわめて英知的な存在である神様が魂を、とくに良い魂を真黒な肉体の中に入れたもうとは考えられない。(中略) この連中が人間であると我々が想定することは不可能である。なんとなれば、もしわれわれがかれらを人間だと規定すれば、人々はわれわれ自身をキリスト教ではないと信じはじめるであろうから。」
「法の精神」啓蒙思想家で法律家のモンテスキュー
対して、仏教の平等はダルマに基づいて「真の自己」に目覚め、智慧paññāと人格の完成によって、自他ともに人間の尊厳に目覚めるという形で提唱された。
漢訳の古訳、旧訳、新訳
鳩摩羅什より前 五蘊を色、痛痒、思想、生死、識
鳩摩羅什
玄奘以後
真作か偽作かは問題ではない
思想そのものを問題とする場合には、真作か偽作かということは大した問題ではない
普遍思想 世界思想史U
このようなことを主張しなければならなかった歴史的必然性があったという但し書きをつけた上で、その文献を評価する。
仏が説いたから真理であるのではなくて、真理であるから仏が説いたはずである。
「インド人の思惟方法」p188
ストアの思想は、帝王であったマルクス・アウレリウスの言であろうと、奴隷であったエピクテートスの言であろうと、価値あるものが取り出されて議論されているではないか
「古代思想 世界思想史T」p25