釈尊が発見した偉業

 

生きることは苦

vedanāのステップで近づきと遠ざかりのタグがつけられる。

3つの本能(細胞が信号を求める欲、生存欲、消滅する欲)をなくすことができる。

輪廻から離脱する方法    三相、五蘊、四諦、ヴィパッサナー瞑想

17ステップの心の路  心の回転

心と心所

物質とエネルギーと現象とnama-gotta

智慧paññāの発見   想saññāを智慧paññāに変換する

 

 

他の聖人も発見していたかも

心からはじまる宇宙論と生命体

 

 

 

輪廻転生と仏教

生きることは苦しみである、と自覚した人でも、なぜ輪廻転生したがるのか?

「生きていたい、死にたくない」という煩悩があるからである。

生きる苦しみを実感すると、永遠の命を期待してしまう。

次には苦しみのない生を実現させようとするので、死を避け、生にこだわる理由である。

これが「欲、有、見、無明」の煩悩である。

事実はこの世に存在しているのは、生と死が連続し回転し続けているからである。

死なしでは存在は成り立たない。

永遠の生などはなく、瞬間の生しかない。

無常という真理に気づかないから、永遠の命という「見」を作ってしまうのである。

生き続けたい、という「有」を作ってしまうのである。

こうして生きる時にいつもしている刺激(信号)に執着する「欲」を作ってしまうのである。

これらの煩悩の軛を絶たない限り、「生きることは無常で苦だ」と頭で分かっていても解脱には達しない。

比丘たちは一般人のように世俗の欲に未練はないのに解脱できない者がいるのはこの煩悩の軛のためである。

 

 

輪廻の仕組み

なぜ、ヒトは死んでもまたそのエネルギーがどこかで塊として現れてしまうのか?というメカニズムを明らかにしたのが釈尊。

私たちがずっと幻覚の中にいて苦しんでいる理由は、色声香味触の物質エネルギーに対して激しく欲が生まれるから。

これらの物質エネルギーをまた再現したいという欲が生まれる。事実は再現不可能であり、一度きりの出来事である。この再現願望が、新しい「続けたい」とエネルギーを生んでいく。これが物質欲である。

物質というのは色声香味触の5種だけ。

 

 

五蘊に誘惑される意識体    私たちの覚りを妨げているのは悪魔それともカミ?

体に執着している、色取蘊

楽・苦・不苦不楽という感覚に執着している、受取蘊

思考・概念・知識に執着している、想取蘊

幸せになりたい、あれもこれもやりたいという衝動に執着している、行取蘊

生きていることに執着している、識取蘊

 

私たちはこの自分という五蘊に執着しているが、五蘊は執着に値しない瞬間瞬間に変化する無常のものである。

このことを理解したくない意識体。

他人のせいにした方が気持ちがいいからである。この状態を無明とよぶ。

無明によって心は汚れ、煩悩が現れ、苦しみが続く。

死を迎えてもやりたいことが一杯溜まっているので、まだ死にたくなくもっと生き続けたい(行取蘊)ので、再びどこかで生まれてしまう。

これが輪廻転生という。五蘊に執着することが輪廻転生の原因である。

 

概念に執着する虚しさ

楽園や極楽浄土に執着するのは不可能である。

全知全能のカミに執着するのは不可能である。

それらは体験したこともない、未だに知らない、ただ空想しただけの、妄想の世界でしかないからだ。

 

概念に執着することを「愛」とよぶ。

恋人やペットを愛しているというのは、ただ自分を愛しているだけのことである。

恋人で、ペットで、自分が楽しい思いをしているのが想蘊である。

その楽しい想いを続けていたいのが行蘊である。

その結果、また心に愛着が生まれる。

それを他人を愛していることだと誤解している。

自分の想蘊に新たな愛着の想saññāが加わっただけのことである。

 

苦しみを乗り越えたいと思うならば、五蘊に対する執着を捨てることである。

五取蘊を捨てて、シンプルな五蘊にすれば解脱に至ることができる。

 

生きるとは苦である

生きるとは何かと観察したところ、生きることが苦であると発見した。

これが苦聖諦である。

生きることが苦であるならば、生命が闇雲になって生きることに挑戦して、輪廻転生するはずがない。

その理由を観察したところ、苦を続け、集める原因は渇愛であることを発見した。

 

エネルギー0の涅槃から生滅が絶えないこのエネルギー界は苦である。

涅槃に生滅がなく、楽である。