生物学者と仏教学者 7つの対論 斎藤成也 佐々木閑
1 物質と精神
2 意識と無意識
3 生と死
4 科学と宗教における絶対的存在
5 科学と宗教の重なる部分
6 科学と宗教の将来
7 科学と宗教 社会、神秘主義、聖と俗、日本人の宗教観
1 物質と精神
生物学 1元の機械論と2元の生気論
生物も水や空気などの無機物を必要とすることから、生物と無生物に特別な違いはなく、どちらも同一の物理化学法則に従う、という機械論とも呼ばれる一元論。
物質構成物から自然現象を理解しようとするアプローチ。
1859年の種の起源では機械論の立場から生物を捉え、これが生化学や遺伝学や分子生物学につながる。
機械論の弱点ともいうべき限界は、機械はそれを作成したものが必要となることである。
つまり機械論では生物を作成した「カミ」の存在が暗黙の内に前提にされている。
対して、2元の生気論は物質界と生物界を明確に分けるアリストテレスたち。
ドリーシュは生物自身が情報概念(エンテレキー)という物質に乗せることで存在する、と考える。
モノとこころとコト
モノとこころには相互関係があり、2つの共通集合をコトと南方熊楠はよんだ。
コト主義 プラトンは天上のイデア(地上の存在の本体)を根源とした
モノ主義 アリストテレスは宇宙の森羅万象をモノ、すなわち物質として捉えた
ナーガルジュナの「空」は本体がなく、コトという相互依存関係絶対主義を提示する。しかしこれは一般の論理では把握できないので、非論理的議論が展開される。
仏教学
神々と触れ合う恩寵により、輪廻転生した時に、幸福を得るとしていたバラモン教に対して、その輪廻転生の生活も苦であると唱え、そこからの離脱を実践したのが釈尊である。
いかなる法則によって精神が動いているのかを探求し、輪廻転生の原因は、業kammaの作用であり、この業kammaを生み出すのは心のなかにある煩悩である。したがって、この煩悩を消し去ることができれば輪廻も停止する。
煩悩とは、業kammaの推進力になる良くない心所のこと。それは心所につながる意識のソケットに蓋をすることができれば、煩悩が現われる可能性がゼロになる。
瞑想者は自己のアプリの上書きをしている。
私説では、信号を思考・言動に変換する自動反応回路のことで、自意識の活性化のために働く時にはネガティブなエネルギーを生み出す。集合体のために活性化する時は煩悩とは呼ばない。
実践方法は、集中力を継続させて、智慧paññāを生み出し、それによって煩悩を消し去り、心の有り様を自分の力で変えていくことである。
智慧paññāとは自我意識を排除した論理思考回路のことである。
神が天地創造したと考える宗教では、宇宙法則もすべて神の思いの反映なので、外部世界の構造や物質的現象の法則を知ることが神の意志を知ることである「神の存在の探求」と考えた。
すなわち神の一面の表現として、宇宙に遍満するシンプルにして端麗な法則の存在こそが、神が宇宙を司っている証だと考えた。
しかし、物質世界に神の足跡を見出そうと努力したが、神秘性の砦が次々と崩されていくことで、この世に絶対的で神秘的な存在などはなく、物質と精神による現象は、普遍的な法則性に沿って展開していく、と考えるようになっていく。
この考えこそが仏教の前提である。
この考えに至るまで合理性の体系を創生したキリスト教文化圏と、この考えをそのまま受け入れることで科学的体系を必要としなかった仏教文化圏が2つの違いである。
心の苦しみは究極の救済者によって「救われる」という宗教団体(アブラハム教、大乗仏教などの神秘主義宗教)とは違い、釈尊はこの世の法則は一切皆苦として、自分の煩悩の除去をしない苦しみからの離脱はないと宣言した。
2 意識と無意識
生物学
虫にも意識と無意識はあるのかもしれない。私説ではある。
インド文明では3000年以上前から無意識の存在が知られており、ヨガなどはそれに気づくための実践である。
「無意識の発見」1993新田義弘
「個体」を認識する自意識は神経系細胞が発達した5億年ほど前にできあがる。
無限を理解するには、自己言及から思考するアプローチによる。仮説
仏教
現代語の意識はconsciousnessの江戸末期から明治にかけての訳語
「自分が、今現在、情報信号を認識し、確認し、それに反応しているという自覚」
仏教の意識は、5感覚器官と脳器官からの信号から生じる識viññānaを意味する。
「意」とは心のことで、対象を把握する認識機関として作用している時の心を意と呼ぶ。
論蔵アビダルマの目的は、自分自身の努力で自己改造を行う方法を皆に教えること。
この世の構成要素がどのような合理的因果則で関連づけられるのかを説いている。
唯識派では無意識の世界は「アーラヤ識」であり、さらに外界の物質界はアーラヤという心の作用に生み出されるヴァーチャル・リアリティであるとする。
このヴァーチャルなものがリアルであり、リアルとヴァーチャルに区別がない、と主張している。
唯識を自覚することで、会えないはずの仏に出会え、大乗仏教的神秘が成就する。
3 生と死
生物学
臓器の移植に関する法律の第6条2項
脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された状態を人間の死と定義する。
2009年には臓器移植に関係なく、日本においてはどのような場合も脳死を死と定義することになった。
経済学の限界
経済学理論では、健全な経済は経済成長率がつねに1を超えることが条件だが、これはネズミ講と同じように爆発にむかっていることを意味し、有限な環境の中で生活しているという、当たり前の現実を経済学者は無視している。
現代の無常観とは、この宇宙もやがて死を迎えると推測し、この時空の変遷の中で自分はちっぽけな存在に過ぎない、と感じること。
仏教
誕生に死をみることで限られた時間を理解しているが、今すぐには死なないと、考えることで絶望と希望のバランスの中で人は生きている。
こころの宗教
科学的合理性という素粒子から構成される世界観を持つことで、現代では全知全能の神や天国と地獄を信じることができなくなり、「神は私たちのこころの中の存在である」「天国とはこころの中にある」というように、心の有様に移し替えて、理解している。
神や天国が外界に実在していることを受け入れられなくなり、「こころが生み出すヴァーチャルな世界」と再解釈している。
つまり、教義は心の有様の比喩的表現にすぎない、と考えている。
釈迦の仏教
「生き物は何もしなければ自動的に輪廻してしまう。それは苦しみの連続である。その苦しみから逃れるには、輪廻を止めて完全消滅を目指すしかない。釈尊や弟子たちはそれを成し遂げた。」
大乗の仏教
「悟った者は不死なる超越存在と合体することで、宇宙の一部となり、長大な寿命を持ち生きることができる」
輪廻の動力源は本人が作り出す業kammaの力であり、その業kammaは心の中の煩悩が生み出すので、修行をして煩悩を除去すれば、業kammaのパワーを打ち消し、輪廻を止めることができる。
私説では、輪廻の動力源はダンマdhammaであり、その力が作成してしまった自動反応回路である煩悩のインプットなることで、苦しみというアウトプットが出てくる。業kammaとはこの煩悩(行sankhāra)が生み出すエネルギーのことを指す。
また広義では業kammaとは行sankhāra回路そのものが持つエネルギーをも含める。
釈迦の教えとは業kammaや輪廻とは神秘的要素とは別の「世界の現象を法則性によってとらえ、その法則性に沿ったかたちで自分の精神構造を改良し、それによって死の苦痛を取り除く」
私説では、業kammaや輪廻は神秘的要素ではなく、法則性として捉える現象である。
良い行いや悪い行いを実行すると、そのパワーが潜在的に保存され、将来において必ず結果を生む。
私説では、善悪の行いにより、行sankhāra(自動反応回路)が作成されるので、これを解除しない限り、現世もしくは来世において条件が整えばこの行sankhāraが発動する。
修行を続けていくためには、必ず先生の傍にいて46時中直接に指導してもらわねばならなかった。
私説では、心のメカニズムである五蘊を学んだ後は、弟子は悟ってその状態を報告するまで先生(釈迦)の前に現われないのが主流であった。
4 科学と宗教における絶対的存在
生物学
宇宙の存在理由としては人間原理、著者のいう生命原理が必要である。
人間原理とは、宇宙を記述する物理定数が人間が存在することを可能にしている、と考えることである。
この思考の背後には、物理定数の組み合わせを持つ無限に近い平行宇宙が存在し、この私たち宇宙はそれらの中の1つに過ぎない、という仮定がある。
また人間原理には、人間を創造した神が背後にあるように感じられる。
数学の限界
数学は論理構造だけを考えるので、その構造が実在しているかどうかは問わない。たとえば無限や0のように。
この有限の宇宙を前提にしていない論理構造である。
したがって、数学でこの世のすべてを説明することはできない。
脳の働きは、ニュートン力学の範囲内で十分説明できる、と多くの生物学者は考えている。
しかし、未知の相互作用や未知の相転移があることが推測される。
コンピューターは2進数、DNAは塩基の4進数なのでバクテリアでも、ゲノムに情報を蓄えることができる。
仏教
アブラハム教では絶対者はいる。
バラモン教では絶対者(ブラフマン)はいる。バラモン教を否定する一群は沙門と呼ばれる。
大乗では絶対者(仏や菩薩)はいる。
小乗では絶対者はいない
絶対者のいる思考では、この世に君臨する統治者の恩寵にすがって生きるか弱い生き物であり、神々に供物を供養し祈りを捧げることとで恩恵を与えられ、安楽な人生や幸せな死後の世界が約束される。。
一般的な宗教の定義は、絶対的な存在を認めて、すべてを委ねることが宗教で生きる、ということである。
絶対者の存在を認めないので救済を願う対象がないので、各自が救済するしかない。
宗教とは、「人を特定の生き方に導く活動」であるので、「しなければならないこと」と「してはいけない」ことがある。
私説では、これは宗教では社会グループの定義である。
殉死
絶対者と契約した約束事を遵守するためには殉死も正当化される。
神のためならばしたいことも我慢する
つまり契約の遵守が最上の善であるので、法律や道徳の善悪を超えた「絶対の善」である。
小乗仏教における絶対はこの世を動かしている因果の法則である。
絶対者との契約ではなく、因果則のアプリを解体することで涅槃を目指すので、命や身体を犠牲にしても輪廻から解脱することはない。
したがって日常的な善悪の両方とも輪廻を続ける行為に結びつくので、どちらも涅槃に至らせないもの、つまり小乗仏教特有の悪とみなされる。
5 科学と宗教の重なる部分
生物学
宇宙の法則を知ることで神の法則を知ることができる ニュートン、ケプラー、メンデル、
人を知ることで、神を知ることができる 人は神の似姿である。
ダーウィン「あらゆる事物のはじめという神秘は、われわれには解き得ない。私個人としては不可知論者にとどまらざるを得ない」
agnosticismとはグノーシス主義を否定したもので、霊魂の不滅、死後の世界、幽霊などを我々は知ることができない、という立場である。
ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」では、解明できない現象に対しては沈黙すべきが自然科学の態度であると記述している。
自然科学の外側に論理では記述できない広大な領域があることを認めることが、自然科学では必要である。
「語り得ないものを表現しなければならないけれども、言葉をいくら尽くしても最終的にそれが行き詰まっていく」
リチャード・オーウェンはインテリジェント・デザインという、知性を持った存在によって生物の進化や宇宙までも創られたという考え方で、創造神を讚えているに過ぎない。
宗教の目的論否定したはずのダーウィンの提唱した自然淘汰論には「〇〇のために、自然環境に適応する☓☓の形質が自然淘汰で残された」という目的が説かれている。
目的論ぬきで自然淘汰は説明できるが、ヒトは目的論的に説明することを好む。
宗教的考え方から離れた、真に科学的な進化論は目的を持たない偶然が進化の原動力である。
他人と話を通じる第一歩は論理という土台を共有することで、これがなければ他人と話し合うことができない。
絶対神に反発する人がいれば、その神は共通理解の鍵にならず、ここに宗教に端を発する、ありとあらゆる闘争の根がある。
意識の認知プロセスに端を発する
限界はあるが論理体系を用いて、とことんまで自然現象を解明しようというのが、自然科学のやり方である。
仏教
小乗仏教では、この世の現象は、いかなるものの意志も含まれず、すべて機械的に自動的に粛々と進んでいく因果の連続であるので、自然科学の世界と同一線上にある。
また、どちらも社会からの布施によって生活が成りっている。
仏教では、良いことをすれば良い結果が得られるという表層的な業kammaの理解に基づき、はるかなる将来の見返りを期待して、一般人は仏教修行者に布施をする。
科学では研究のための支援金や研究費や施設と契約を結ぶことで布施を受け取る。
違いは考察対象で、科学では物質と精神を2分割して、物質を対象にし、そこに潜む神の摂理としての法則を見出そうとした。しかし、物質法則だけでこの世が説明されるように感じられてくると、神の概念から離れ、神なき世界の物質現象を法則で理解する科学的世界観が確立した。
その結果、精神の作用は物質法則に基づくものなので、精神を単独に探求することはない。
仏教は心がどのような法則で動いているのかを明らかにすることに意味がある。
それによって、解明された法則を利用して、苦しみの原因を突き止め、そのメカニズムに修正を加えることで、苦しみの発生を止めるという目標を達成する。
対して、科学の目的は物質のもつ法則(神の摂理)を知ることで、目標は成就されるので、目的は純粋なる知的好奇心であり、最終到着点は知的満足である。
6 科学と宗教の将来
生物学
国際internationalという運動には文明の新しい姿を生む気概を感じることはない。代わりに地球全体を意味するglobalには可能性がある。
一般的に神秘主義とは普通の方法では到達できない物事がこの世には存在するという考え方だが、この世の全体が神秘だという神秘主義もあるのではないか?
仏教
大乗仏教の誕生は、僧侶になるための通過儀礼をし、サンガで修行生活を送っているのであれば見解の相違は問題としない、という考えから生まれた。
単一の教義を共有する者から、同じ規則に沿った共同生活に参加している者に変わった。
「自分たちは変わっても良い」と考えている者は、積極的に変化して自分の方から変わっていく。
原点回帰主義もまた、多様な仏教の一形態である。
未来の仏教は学校教育の中で科学の知を正しいものとして学んだことで、科学的なものを信頼するという思考回路を植え付けられた人々にどのように対応するかがポイントになる。
科学的であること 論理性 手順で解釈して結論を得る 結果が変われば法則にこだわらない
科学的に見えること スタイル 数字を使う、仮説を立てて実験で証明する、機械で自動的に処理する
科学とは矛盾しない教義を提示する宗教団体は、釈迦の合理性を神秘主義に置き換えることで発展してきた。
すなわち神秘性を科学スタイルのオブラートにくるんだものにして、現代人への適応を図った。
私説では、科学のメリットと限界を説明するのがよい。
著者は宗教とは生きる杖として役に立てば意味があると主張するので、神秘性があっても、非科学的であっても構わない、と考える。
私説では、宗教とはカミとの合一の体験をする時空であり、さらに小乗仏教においては、そこからの離脱である。
7 科学と宗教 社会、神秘主義、聖と俗、日本人の宗教観
日本仏教とはバラモン教のこと?
の共通点は、「絶対的な存在としての仏がこの世に遍満していて、われわれはその仏の慈悲を受ける個々のアートマンである」というバラモン教の梵我一如を基盤にしている。
この大いなる超越者という仏の中に含まれていることを自覚することが悟りである。
したがって日本仏教は大乗仏教ではなくヒンドゥー教の1つの宗派である。
法華経や浄土宗がでてきた天台密教は、すべての人々が悟り成仏できるとする法華一乗の立場をとり、梵我一如性が色濃くでている。
ブラフマンの概念は2つあり、
1つは、人格としてのブラフマン神である梵天、
もう1つは、すべての物体、概念、法則と宇宙に遍満した神性があるという汎神論としての梵である。
汎神論は神を否定した自然科学と基盤が同じなので、キリスト教では擬人化する人格神を基盤とする。
汎神論はすべての現象に神が行き渡ると見るのに対して、
アニミズムはhenotheismとして理解することができる。
単一神教,拝一神論と訳され、多数の神を認めながらも,TPOに合わせて一神を選んで信仰する。
私説では、スピノザの汎神論は、神性の段階を明確にできない一元論なので、修行の必要性のない安易なものである。
2つの神秘性
神秘的な存在を設定する神秘主義 アブラハム教 修行をしなくても大丈夫
伝えられるべき事柄が神秘という神秘主義 禅 拈華微笑 修行をして自分を向上させる
ここに絶対神が生まれる理由があり、世俗な人を引っ張ってくれるエネルギーすなわち外的神秘という神が必要となる。
法則性の実在
お互いの情報伝達のための法則性なので、普遍的で絶対的なものではない。
法則は絶対的だと主張する物理学者がいるが、その論証はない。
数字
自然界を数字で記述した数式にすることで、予測が可能になると考える。
しかし自然界は多層であるのに、数式以外のカタチで表すことには関心がないし、それ以外の層はない、という証明はしない。
ラッセルの記号論理学の限界
集合論で矛盾を抱えて、行き詰まる。
つまり、数学的な世界では解けないことがある。
コンピューターでつくるAIとはArtificial intelligence、すなわち人工の知能に過ぎない。
この矛盾の綻びを完全に縫い合わせる高次な体系を発見する
それまでは綻びの世界で生きるのであって、綻びの論理を基準にする意味はない。
インド・ヨーロッパ語の発見
ウィルアム・ジョーンズ1746〜1794 裁判官、言語学者
トレーニング方法を提示したのが釈迦の教え
最終的な悟りを他者に体験させることは不可能なので、そこに至るトレーニング方法を指導した。
これが修行方法の伝達である。
出家の目的は自由時間
すべてを自己鍛錬に使うことができる。
自分の関心のあるものから始めると、自分にとって必要なものに到達し、それからそれを練習する。
掃除をしないインドのお寺
掃除も修行であるというのは中国の禅宗以降 チューラパンタカ周利槃特は例外
近代学者の縁起説の解釈
釈迦は輪廻を説かなかったという解釈が近代の仏教学にはある。
輪廻転生に関してのパーリ語文献は後からの修正である、という学説で、非論理的な輪廻を認めない。
したがって、縁起説は時間的な輪廻を表すものではなく、同時存在的な相互依存関係であることを説く。
ナーガルジュナの空の思想から発展したものかもしれない。
人を助けたら破門された禅僧
世間の道徳的善悪を捨てたところに禅の善悪はある。
無門関、臨済録にある説話
南泉斬猫や親を殺すなどの極端な喩えで、現世では一般的な善人ぶった行いは戒めた。
しかしこの論理は素粒子を基準にしているもので、心や魂の構成要素を基準にしたものではない。
したがって論理という時には、これを2つに分ける必要がある。
1素粒子よりも大きい構成要素で成り立つ因果関係を整理したものを論理性と一般常識ではよぶ
2素粒子よりも小さい心の構成要素の因果関係をも扱うもので、矛盾や法則性を見出すもの。