ブッダたちの仏教 並川孝儀
1 ブッダとは
2 ゴータマ・ブッダと原始仏教
3 展開する仏教
4 悟りと教え
5 日本仏教の今
ヒンドゥー教ではゴータマ・ブッダはヴィシュヌ神の9番目の化身で、インドの神々の47番目の位になる。
仏教に共通する特徴
1自己の完成を求め、体得された真実の世界を生きる、
2時代と地域に限定された文化と固有性からはじめるので、他とは異なる独自の仏教を開花させる
3絶対的存在(アブラハム教の神)をもたず、理想的な自己確立を目指して生きる方法を教える
論蔵と大乗経典によって、ゴータマ・ブッダの教えを新たに解釈する
ブッダとは?
仏教以前では、真理を悟った人という普通名詞。原義は√budh (真理に)目覚める。
「ウパニシャッド」「イシバーシャーイム(ジャイナ教)」
2種類のブッダ
1初期経典のスッタニパータ957の1例だけが固有名詞としてのブッダ
sammāsambuddha「正覚者」の略としての ブッダ スッタニパータ545、571
2複数のブッダ 「ブッダの中で最高のゴータマ」 スッタニパータ226、383
修行者としてのブッダ スッタニパータ386
弟子のコンダンニャ テーラ・ガーター679
1ゴータマ・ブッダの教えを守り実践する 固有名詞のブッダ
2自己完成のために「ブッダになる」ために生きる教え 普通名詞のブッダ
ブッダについて 両サイドからの偏見
名詞 |
単複 |
実践 |
信仰 |
宗派 |
性質 |
救い |
固有 |
唯一 |
教えを守る |
人格 |
上座部 |
歴史 |
自己実践 |
普通 |
複数 |
ブッダになる |
dhamma |
大乗 |
普遍性 |
救済者 |
仏説の基盤 |
修行の段階 |
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身体論 |
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論蔵 |
四向四果 |
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Eとメンタル |
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大乗経典 |
長期の菩薩 |
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色身と法身 |
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経典に多くの相反する教えや矛盾がある
具体的に列挙する
片方が正しく、他方が誤りであるという判断はないので、苦肉の解釈の仕方は、
了義 ブッダの真意 ブッダの真実の教えに導かれたもの
未了義 ブッダの真意が完全に明らかになっていない ブッダの真実の教えがわずかに推測されるもの
真理を伝えるのは困難、たとえば梵天勧請
未了義の疑問の探求が論蔵abhidhamma 経蔵の矛盾や多様性を解釈した説明している「仏説」
大乗仏教の中心的尊格としてのブッダ 教えの新たな解釈
無量寿経 無限の光明と無限の寿命をもつ阿弥陀仏が西方極楽浄土にいる 他方仏
華厳経 中心的尊格としての毘盧遮那仏
大日経 大日如来の慈悲の心が中心から周囲に拡がっていく「胎蔵界」
金剛頂経 大日如来、他4如来の智慧で悟りを開くための実践をする(五相成身観)「金剛界」
法華経 ゴータマ・ブッダに永遠の生命がある ゴータマの悟りは方便で過去に既に悟っていた久遠実成
仏たちが全世界に君臨し、東方の薬師仏が東方瑠璃光浄土を、西方の阿弥陀仏が西方極楽浄土をマネジメントしているのが他方仏。
過去仏と未来仏
ブッダの絶対化
「ブッダは過去、現在、未来にいる」 SN 6 Brahmasaṁyutta 梵天相応
過去7仏について 長老偈 7.5. サラバンガ長老の詩偈
共通性は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(悪をなさず善を行い、みずからの心を浄めることが諸々の仏の教えである)「七仏通戒偈」。
未来仏について 弥勒という世尊(bhagavat) DN 26 Cakkavattisutta 26. 転輪〔王〕の経
弥勒仏 漢訳「増一阿含経」 「弥勒下生経」人の寿命84000歳
正法・像法・末法
SN16.13 Saddhammappatirūpakasutta
SN16.13 16.13. 正なる法の模造品の経
今の状況は人々が衰退し正法が滅しつつある。
末法は6世紀の中国になってから語られるようになる。
大乗経典「大集経」の「月蔵分」に説かれる500年ごとの時代区分
仏身論
如是語経 MN4 Itivuttaka
2種の涅槃 有余依涅槃と無有余依涅槃
有余依涅槃 ブッダは修行のうえ煩悩を滅して解脱したけれど、いまだ五種の感官はのこっていて、そのため楽と苦を感じている涅槃の状態にある 肉体に束縛をうけた涅槃
無余依涅槃 解脱をしたのちはなんらの執着の束縛をうけていない涅槃状態 束縛をこえた涅槃的身体
色身と法身
物質的な生身の色身
死後に肉体を離れても真理として存在し続け、それを法身または法性とする。
32大人相
Sutta Nipāta 3.7 Selasutta スッタニパータ3.7. セーラの経
インド神話の転輪聖王、もしくはゴータマ・ブッダの身体の特徴
大乗仏教の仏身論
「般若経」の注釈書である「大智度論」 色身と法身
応身・報身・法身
まねく遍在する数々の法身にまったく区別がないままでいいのか。みんな同じ法身なのか。そんなことはあるまいという議論が出てきた。
4〜5世紀になると新たな解釈が始まった。
応身 衆生の救済のためにこの世にあらわれた人格をもった仏身 ブッダになるという執着をもつ五蘊がこの世に誕生した輪廻の1プロセス
報身 ブッダになろうと修行を重ね、それによって完全な功徳を備えた仏身 ブッダになるという執着をもつ五蘊のこと。
法身 法性(ほっしょう)ともいうべき真理体そのもので、人格を有しない仏身である。
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上座部仏教 |
内容 |
色身 |
応身 |
化身 |
変化身 |
色rūpa |
肉体 |
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報身 |
解脱身 |
受用身 |
五取蘊 |
メンタル体 物質エネルギーのある魂 事実は五取蘊 |
法身 |
法身 |
法身 |
自性身 |
涅槃nibbāna |
霊性 事実はエネルギーが0の涅槃 |
新しい仏教
菩薩道
果てしない修行で、阿羅漢と比較できるものではない
新たに創造された阿弥陀仏
西暦100年頃に成立した無量寿経や阿弥陀経にみられる独自の浄土思想
原語は無量光アミターバと無量寿アミターユス。
他方仏
仏たちが全世界に君臨し、東方の薬師仏が東方瑠璃光浄土を、西方の阿弥陀仏が西方極楽浄土をマネジメントしている。
阿閦仏 Akṣobhya瞋 がないの意》東方の 阿比羅提国 に出現した大日如来のもとで発願・修行して成仏し、現在もその国土で説法しているとされる仏。
極楽・浄土
浄仏国土は中国で作られた漢字の語句で、大乗仏教の観念なのでパーリ語やサンスクリット語にはない。
しかしその観念は「般若経」「法華経」「華厳経」にある「国土を浄める」や「浄められた国土」という表現に求められる。
「無量寿経」の極楽の描写は「大品般若経」の浄仏国土の内容と酷似している。
曇鸞や善導などの中国の浄土教の大家たちも、阿弥陀仏が住む国土である極楽を浄土という語句で表現する傾向があった。
仏国土は[buddha+khetta国、田、土]に由来するが、国土を浄めるという用例はみられない。
上座部ではゴータマ・ブッダが生存したこの国土だけが現実であるのに対して、
大乗では、多数の他方仏と他方世界が認められるので、これらを清浄する対象としたためであろう。
往生
菩薩の誓願で来世に悟りを得てブッダになることを意味している。
上座部の四沙門果(四向四果)と大きく異なる
念仏
「無量寿経」「阿弥陀経」には、極楽浄土の往生する実践方法が念仏であると説かれている。
上座部のbuddhānussati仏随念が起源であるという説があるが、これは極楽浄土での往生とは結びつかない。
しかし、大乗ではこのbuddhānussatiが浄土経典の念仏往生の起源としてとらえ、凡夫のための易行道として位置づけられた。
臨終来迎
念仏して往生を願う人の臨終に阿弥陀仏が迎えに来る。
三千大千世界 sahā
我々が住んでいる世界を包括している仏国土(三千大千世界)の名前は娑婆(サハー、sahā)である。
この解釈の仕方によって他のブッダの存在を想定できる。
大乗仏教においては、一人の仏が教化する世界のことであり、宇宙は無数の三千大千世界から成る[2][3][4]。仏教の世界観では、須弥山を中心として日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界とし[1]、一世界が1,000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1,000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1,000個集まったものを大千世界という[1]。大千世界を三千大千世界ともいう[2][注釈 1]。略して三千世界といい[1]、三千界ともいう[1]。
一世界
仏教の世界観では、須弥山を中心としてその周りに四大州があり、さらにその周りに九山八海があるとされる[5]。これを一つの小世界(一世界)という[5]。小世界は、下は風輪から上は色界の初禅天までの領域であり、左右の大きさは鉄囲山(てっちせん)の囲む範囲である[5]。
阿弥陀如来が教化している極楽(sukhāvatī)という名前の仏国土は、サハー世界の外側、西の方角にあるため西方極楽浄土と呼ばれる。薬師如来の東方浄瑠璃世界や阿閦如来の妙喜世界なども同様にサハー世界の外に存在する。
新たな悟り
自己完成の悟りではなく、死後に浄土に往生できる悟り
救済
人々は厳しい現実に耐えて、死後には救済の場としての極楽西方浄土に往生でき、そこは救済者としての阿弥陀仏が人々を見守る世界。
第2章 ゴータマ・ブッダと原始仏教
sāvaka a hearer; a disciple.声聞,弟子
antevāsin,antevāsika 内住者
anusāsanī ブッダから聞いた教えを説く
あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠:潜在煩悩)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超え渡します。
Tuvaṁ buddho tuvaṁ satthā教師,
Tuvaṁ mārābhibhū muni;
Tuvaṁ anusaye chetvā,
Tiṇṇo tāresimaṁ pajaṁ.
Tiṇṇo → tarati:[tar + a]
crosses or pass over tarati:渡る,横切る
tāresi:[aor.of tāreti] made
cross; helped over; assisted.
pajā:f.[Sk.prajā<pra-jan]
人々.
教祖ティッタカラの語義は「浅瀬を渡す人」から転じ、「救済する人」
マハーカッサパとアーナンダ
マハーカッサパ ブッダ亡き後のリーダー
アーナンダ ブッダの付き人
マハーカッサパはアーナンダを叱責
ブッダに求められても水を与えなかった、女性修行者にブッダの陰蔵相(ペニス)を見せた 出典?
未熟者と誹謗したのをトゥッラナンダー比丘尼が罵倒する SN16.11 Cīvarasutta SN16.11. 衣料の経
第2結集の有力者6名はアーナンダの弟子
仏滅後100年
初期経典
パーリ語経典は北方には漢訳されて4種の阿含経に、南方にはパーリ語のまま5種のニカーヤで現存している。
19世紀後半から20世紀のヨーロッパ学者の語学、文献学、歴史学の研究によって、経典は修正や改訂や増補されていることが解明されてきた。
在家での預流果や不還果
不還果Anāgāmiphalaṁ SN 47.29 Sirivaḍḍhasutta SN47.29. シリヴァッダの経
預流果sotāpannohamasmi SN 55.8 Paṭhamagiñjakāvasathasutta SN 55.8 第一の煉瓦作りの居住所の経
AN 6.119. Tapussasutta AN 6.119. タプッサの経
AN6.120–139
Bhallikādisutta AN6.120–139. バッリカ等の諸経
経典の多様性の原因
対象者によって話す内容が変化する対機説法のため
両極端を排して中道の立場から説法したため
形而上学的な質問には回答しない「無記」のため
口伝であったため 結集 saṅgīti: rehearsal 合誦, 経典が記述されたのは仏滅100年後、論蔵は仏滅200年後
弟子たちの編集の可能性があるため
地域・時代による解釈の違い
例 DN16 Mahāparinibbānasutta DN16 大いなる完全なる涅槃の経
自己と法を拠り所にする 拠り所の譬喩が北伝の漢訳では熾然や灯明、南伝では洲や島
ブッダであるために必要な特徴は宿命明、天眼明、漏尽明である、と本書にあるが、これらの能力はブッダに限ったものではなく、第3禅定体験がある者でも得ることができる。
経典の創作された箇所
2人の仙人に師事して体得した無色界の禅定は仏滅後のことなので、これらの伝承は創作である。
色界4禅説、4無色定、9次第定も史実性とは関係しない。
根拠は?
縁起説の名色は認識の対象、六処は感覚や知覚作用を意味している
その根拠は?
経典の矛盾 カースト制度、苦
カースト差別の否定
バラモンの母親から生まれたからバラモンではなく、所有欲を離れ執着のない人こそが世間で評価される真のバラモンである。
スッタニパータ136
スッタニパータ462
MN113 Sappurisasutta MN113. 正なる人士の経
MN 90 Kaṇṇakatthala MN 90 カンナカッタラの経
カースト差別の肯定
この世で人間に優劣があるのは、前世の行為kammaによって生じ、寿命、病気、容姿、経済、階層などの14種の例を挙げて業報を説明している。現世の人間の優劣を認めて差別を肯定している、と著者は考える。
これは差異の原因の説明であり、差別ではない。前世のkammaが原因でバラモンに生まれても、本人が執着から離れていなければ来世はバラモンどころか人間として生まれるかどうかもわからない。これを差別と把える著者の思考回路は現代のインテリの中の1つの特徴で面白い。前世の行為
MN 135 Cūḷakammavibhaṅgasutta MN 135. 小なる行為の区分の経 小業分別経
苦についての態度
バラモン教の禅定の限界
ジャイナ教の苦行の限界
を理解し、次の修行法を完成させたのが、ゴータマ・ブッダの独自性である。
苦行tapoとは徹底した断食や禁欲、呼吸の制御などの修業によって肉体的な欲望を抑制し、苦からの開放をめざす修行法のこと。
不死に達するために苦行は役に立たないもので、まるで陸にあがった船の舵や櫓のようなものである、と悪魔に語った。SN4.1.4 SN4.4第一の悪魔の罠の経には上記のような節句はない。
苦行を悟りへと至るための有効な実践として、また理想的な宗教者の在り方として説いている
種子は道を求める心で、雨は苦行で、軛と鋤が智慧である スッタニパータ77
苦行と清らかな禁欲生活と聖なる真理を観察すること、そして涅槃を体得すること、これが幸せという スッタニパータ267
苦行と清らかな禁欲生活と感官の制御と自制によって真のバラモンとなり、これが最高のバラモンの在り方である スッタニパータ655
「信が、種です。苦行が、雨です。わたしのばあい、智慧(慧・般若)が、軛と鋤です。恥〔の思い〕(慚)が、轅です。意が、結び紐です。わたしのばあい、気づき(念)が、鋤先と刺し棒です。
Sutta Nipāta 1.4. 耕作者バーラドヴァージャの経
“Saddhā bījaṁ tapo vuṭṭhi,
paññā me yuganaṅgalaṁ;
Hirī īsā mano yottaṁ,
sati me phālapācanaṁ.
Sutta Nipāta 1.4 Kasibhāradvājasutta
「一切皆苦」と感覚作用を示す「受vedanā」の「苦」「楽」「不苦不楽」の「苦」の差異は、設定の違いによるものとも理解できるが、矛盾があると言わざるを得ない。と著者は言う。
2つは違う概念であるのでそれぞれの内容が矛盾しているのではなく、異なる概念である。
「一切皆苦」は涅槃からの視点にたち、受vedanāの「苦」は、この世の視点にたって、感覚には近・遠・中立(「楽」「苦」「不苦不楽」)のタグを付ける機能があることを説明しているので、お互いに矛盾している概念ではない。
たとえば日本語でも空が、大気、そら、空間、スペースができる、仏教の空思想とどれも異なるように。
また原語のパーリ語では苦行はtapo、苦はdukkhaなので異なる語句である。
縁起説では、生まれ(この世における誕生 jāti)は、苦の原因であって、苦そのものではない、と考えられている。
四苦(生・老・病・死)の生と縁起説の生では異なった範疇に入れられているのは問題である。と著者は言う。
縁起説とは対象の範囲によって内容が異なる法則(たとえば、前世・現世・来世やこの瞬間などの設定の違い)なので、
縁起説の誕生jātiだけではなく、どの12支も「苦そのもの」として解釈することができる。
初期経典は聖教ではない
パーリ語経典といえども、揺るぎのない変わることのない聖教なのではない。パーリ語経典も、以後に展開する諸経典と本質的には変わらないのである。
パーリ語経典の説示形態を読み取れば、主文の主語は仏の弟子たちであって、副文の主語がゴータマ・ブッダである、と理解するべきである。
仏教はいつ始まったのか?
スッタニパータ第5章 最古の経典
1ゴータマ・ブッダの宗教体験によって体得した悟りとはなにか?
2個体存在とはなにか?
3どのような修業によって体得できるのか?
1四諦、12支縁起説
2六処、五蘊
3四念処、四禅定、四無色禅定
これらはゴータマ・ブッダの教えを受け継いだ第一世代の弟子たちが自らの実践を通して追体験し、これらの命題を展開させた内容なので、ゴータマ・ブッダの直伝ではなく、仏教は歴史上に存在したゴータマ・ブッダの死後から始まったとも理解できる。
すなわち新たな視点、新たな価値を見出すべく展開した。ゴータマ・ブッダの名は残しつつも、実体は忘れさられたとも言え、新たな価値を付加しながら常に変容するところに、仏教の歴史的展開の必然があったと考える。
仏伝
兜率天Tusitaからこの世に生まれた スッタニパータ955、956
ゴータマ・ブッダの誕生 スッタニパータ683〜694
ゴータマ・ブッダの出家 スッタニパータ406〜424
ゴータマ・ブッダと悪魔の戦い スッタニパータ426〜440
出家、禅定修行、苦行、成道の事跡 聖求経
第三章 展開する仏教
時代と地域に即する変容
中国では初期段階でのインド仏教への対応の仕方を格義という。
3,4世紀ごろに、道教や儒教を基盤にインド仏教を漢訳して、理解しようとした。
すなわち直接に受け入れるのではなく、一旦中国化してから受容した。
たとえば、般若心経の「空」を老荘思想の「無」によって、
悟りの完成を意味する「菩提」を儒教や老荘思想の根本概念である「道」によって「成道」
教相判釈(教判) インド経典を整理分類して再構築して、新たな真意を確立する。これが宗派成立の根拠となる。
たとえば、慧観の五時教判や、天台宗の五時八教、華厳宗の智儼や法蔵の五教十宗、法然の浄土宗、日蓮の日蓮宗
教判はゴータマ・ブッダの教えの継承と展開だけではなく、新たな仏教が構築される一面がある。
換言すると、これらの教えの源流にゴータマ・ブッダの教えが想定されていても、実質上ではその意義は殆なく、ゴータマ・ブッダが直接には介入しない仏教が存在することになる。
このような展開こそが仏教の歴史に通底している特色といえる。
時々に生きる仏教者によって、その時の正しさやふさわしさを自らの宗教体験と思索を通して説き示し展開した。
チベットではシャーマニズムである原始ボン教の影響を受けた。
ゴータマ・ブッダが仏教の開祖で、シェンラブ・ミポがチベット仏教の開祖とみられる。
仏教では尊者を敬うために右繞するが、チベット仏教では左繞する
日本では神摯信仰(天神と地祇。天つ神と国つ神)と仏教が融合して、「神仏習合」になった。
本地垂迹 本地としての仏菩薩が垂迹としての神の姿に権現する。
神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現れたとする神仏同体の説。法華経の本門・迹門の理解に負うもので、すでに九世紀ごろから神仏習合説が行われ、平安末期から鎌倉時代にかけて、すべての神社の本地仏が定められるほど盛んとなり、明治の神仏分離まで続いた。
平安末期の飢饉と戦乱という社会で、民衆の無知や困難な状況を知る法然は、自力の聖道門を捨てて、念仏によって来世に生まれる浄土宗を開いた。
時代(時)と受け手の心が縁によって教法により動く機能(機)に適応(相応)することを「時機相応」と呼ぶ。
これまでの教えの区別にこだわらず、中国浄土教と劣悪な時代に生きる愚者に適した専修念仏の実践こそ救いの教えであると「選択本願念仏集」で説いた。
時代を直視し、自分の宗教体験に基づき、苦悩する人々に救いの道を示す固有の仏教観を世に問うた。
宗の意義
宗とは、元来は根本的立場を示す意見や主張を意味していたが、思想や理論とも理解されるようになった。
ゴータマ・ブッダの数多い教えの中でどの教えが真実であるのかと突き詰めて、
法相宗では、すべては心(識viññāna)が作り出すという教えを真意とする。
三論宗では、すべては空であるということが真意である。
天台宗では、法華経が真意である。
宗祖としての根本的立場の表明は、ゴータマ・ブッダの教えの継承者ではなく、独自の真理の体得者である。
臨済義玄は「仏や宗祖に逢うとも、それらを殺して初めて、あらゆるものから束縛を離れた自由自在の境地である解脱を得る」と説いている。「臨済録」
宗を起こした真意が今も生きているかどうかを直視することが、宗祖の真意を継承することになる。
信の対象
saddhaとは、ブッダの教えや真理に対して確信することが元来の意味である。
そしてその結果、心が澄む状態に変化していく。
しかし、時代や地域の変遷とともに「信」の対象は大きく変わっていった。
ゴータマ・ブッダの人格、阿弥陀仏、毘盧遮那仏、観音菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩、宗祖、・・・
たとえば、浄土宗徒にとっての信の対象は法然と阿弥陀仏であって、ゴータマ・ブッダではこれらの背後にある間接的な対象になっている。
時代と地域に適応したカタチになる2つの条件
1 ゴータマ・ブッダの追体験や阿弥陀仏や毘盧遮那仏などの出現で、そのTPOにふさわしい教えが説かれること
2 その教えがそこに生きる人にとって現実的で新鮮で、救いとなること
上座部仏教では信の対象は直接にゴータマ・ブッダに収束し変容は少ないのに対して、
大乗ではそれぞれの宗祖や阿弥陀仏などを直接的な信の対象にしているが、その最も奥にあるゴータマ・ブッダに間接的に収束する。
このような仏教を全体から俯瞰して理解をすることで、仏教の基本構造が露わになり、仏教がブッダの連続性によって成り立っている宗教であることがわかる。と著者は言う。
仏教の特色
一神教では、唯一神が絶対的な力を有す全知全能者であり、無から一切を創造する主であるとともに、最後の審判者である。
私見 アブラハム教を仏教のメカニズムで理解する。
唯一神 無色界の神
複数の神々 無色界、色界、欲界の神々
無から創造する主 どの生命体もがもつ機能 citta
審判者 過去に自らがつくったkammaの種
原罪説 生命体にプログラミングされた過剰一般化によって煩悩を生み出すメカニズム
イエスの死 贖罪により自分の死を意識するためのお手本
救済の契約 修行の実践
唯一神信仰による他の神信仰に対する不寛容や排斥が偶像崇拝否定につながるが、欲界や色界の生命体を崇拝するのは本人のためにならないと感じて行う言動である。
仏教の悟りの境地
成道、 悟りの道を完成させたため
涅槃、 苦悩を起こす原因である煩悩を消滅させたため
解脱、 苦悩から解き放たれたため
と呼ばれるもの。
常に自らの行為によって、自らがそれにふさわしい結果を導く、と説くのが仏教の基本的な立場。
仏教は阿羅漢やブッダになることを目指し、人間存在を探求し、生きるべき道を問い続け、人格の完成と真の自由の獲得を目指し、TPOに応じて多様に展開を遂げた宗教である。
具体的には、欲望に囚われ苦しむ人間からどのように苦悩を脱して自由を獲得し、この世を安楽に生きる究極の理想的人間であるブッダとなるまでの人間の在り方を体験し続けた宗教である。
仏教者たちの共通点
1 人間の理想的境地に至った人物、つまり苦から解放された心の自由を体得した人物
2 生きた時代と地域の人々の要請に呼応しつつ、新しい価値観によって時代を蘇生し、人々に生きる新しい座標軸を示した人物。
3 人々を分け隔てなく導き救済した人物
大乗仏教からの仏教の定義
仏教とは、最初に真理を悟ったゴータマ・ブッダと、それを追体験した仏教者たち、さらには真理が具現化された偉大なブッダたちが、そこに生きる人々にふさわしい苦悩からの脱却と救済を説き、一方でその教を信じ、その道を歩んだ人々の総体である
第四章 悟りと教え
2つの要素 普遍性と個別性
普遍性と個別性・特殊性
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仏教 |
天台宗 |
普遍性 |
不変 |
悟り |
真理 |
真理の体得 |
ブッダになる教え |
理 |
個別性 |
変わる |
教え |
個別性 |
教えを継承 |
ブッダの教え |
事 |
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普遍性 |
確立したブッダ |
体得した真理 |
観察できる真理 |
潜在化 |
聖性 |
到達の困難 |
個別性 |
修行方法 |
思想 |
説かれた教え |
顕在化 |
世俗性 |
伝達の限界 |
dhammānudhamma:[(dhamma + anuに従ったdhamma)] lawfulness; conformity with the Norm.
真理に基づいた教えを実践する
anudhamma:[m.] conformity with the Law. 随法,如法
真理 はじめのdhamma 修行者の向かうべき境地
教え あとのdhamma 解脱の境地のための実践
dhammasudhammatā [dhamma+suかどうかdhammatā]
教えのもつ見事な真理性を見よ(体験せよ) 教えがよく真理に沿っていることを見よ
sudhammatā:[f.] good nature.善法性,妙法たること
はじめのdhammaとあとのdhammaの意味が反対なのではないか?
教えが正しいものであっても固定化すべきものではない
筏の喩え
旅しているとき、周りは危険であるが、川の向こう岸は安全だとします。
しかし、渡船も橋も他の横断手段もありません。
そこで、草や木、枝や葉を集めて筏を作り、その筏を頼りに向こう岸まで安全に渡ろうとします。
無事に渡れた後にも、この筏を担いで、旅を続けるだろうか?
筏は危険な状態から離脱するために必要なものでした。
この筏とはdhamma(教え)のことで、いかに優れたものであってもいつまでも執着しないで、目的が果たされれば捨てるものと説かれている。
真理を伝える難しさ
真理は変わらないが、それに基づいた教え(dhamma)は変わってしまう。
梵天勧請のように、ゴータマ・ブッダさえ伝達する困難さから真理を伝えることに積極的ではなかった。
悟りの境地
ブッダがこの世に出現しなくても永遠に変わることのないあるがままの真理が縁起である。
この世のすべての現象は条件や原因の結果として起こっていることを明らかにするのが縁起。
法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る。
MN
28 Mahāhatthipadopamasutta MN
28 大いなる象の足跡の喩えの経
すべてのものに恒常なるものは何一つとてないという無常や縁起の現象をナーガールジュナ龍樹は再構築して、「空」という新たな思想として表現した。
教えの変容
大乗仏教では、ゴータマ・ブッダを歴史的存在というよりも、真理そのものの存在としての法身と解釈する傾向を進め、毘盧遮那仏のような宇宙に遍満する仏が出現する。
しかし法身といえども、TPOの影響をうけ、いずれの仏も同一ではないので、教えはそれぞれに相違が生じる。
つまり、どの教えにもTPOに制約されて世俗性が含まれる。
ゴータマ・ブッダの聖なる教えが変わることなく普遍であると断定してしまえば、仏教の歴史全体を正しく理解できなくなる、と著者は指摘している。
修行法
パーリ経典 修行法は戎・定・慧 具体的には八正道、七覚支、五根、五力、四念処、四正勤、四神足
禅定の実践によって修行が進んで煩悩を断ち切る智慧が生じれば、
見道 初地(初歓喜地)
修道 繰り返して修練、修習無学道
無学道 もう既に学ぶべきものがない
という三学の段階を経て、阿羅漢果の境地に至る。
大乗仏教では、六波羅蜜が説かれる。
三学が自己の悟りを目指すのに対して、六波羅蜜では他者に施す布施が一番目に設定されているように利他・救済の教えが核になっている。
「般舟三昧経」 ブッダを現前に想い禅定する念仏三昧
「無量寿経」 阿弥陀仏を念仏する
中国の禅宗 段階的悟りの漸悟と速やかな悟りの頓悟がある
密教 身体で印相を結び、口で真言を唱え、心で一心にブッダを観想して、ブッダとの一体化をはかり、
この身体のままブッダになる即身成仏
無我思想
無我の真理を悟り、ヴェーダ祭儀の根源の真理を受け継ぎながら、新しい仏教を説いている。
「わたしのもの」と思考する自我意識こそが、自己の外側にあるもの、自己の身体、深層意識の個体存在(五蘊)をも所有しているので、輪廻の中に存在し続けるのである。
著者や荒牧典俊博士は、自我意識が放捨され滅する状態が無我である、と記述しているp164
が引用しているパーリ経典の無我anattaとはこの世の3つの特徴(aniccā,dukkha,anattā)の1つである苦しみを意味するので、誤読している。
自我意識が滅する状態は預流果の段階で除去できる3つの下結の1つなので、涅槃になれば体得できるattaに至る段階的心境である。
2種類の無我
1 対象を我がものと執着する在り方を否定する無我 執着が苦しみの原因となる
2 自己の存在を実体的に捉えることを否定する無我 実体がないものをあると判断してkammaを取得
輪廻の永続的な我であるアートマンを否定した記述は見られない、と著者は言う。P165 本当?
最初期の仏教は過去や未来という時間的な範疇を除外し、あくまで生きている現在に関心を絞って、執着やこだわりの主体となっている自己を実体的に捉えないことで、苦しみからの開放を提唱していると解せるのである。と著者は言う。
最初期から仏教の関心は輪廻からの離脱であり、この世に戻らないための修行にしか関心を持っていない。
輪廻とは過去と現在と未来との因果関係に執着している状態を意味しているので、過去や未来を除外しようなど考えることさえしないのである。
Sutta Nipāta 3.12 Dvayatānupassanāsutta 756
“Anattani attamāniṁ,
Passa lokaṁ sadevakaṁ;
Niviṭṭhaṁ nāmarūpasmiṁ,
Idaṁ saccanti maññati.
Suttanipāta
3.12. 二なることの随観の経 756
「見よ、自己ではないものについて『自己である』と思量し、名前と形態(名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天を含む世〔の人々〕を。『これは、真理である』と〔迷いのままに〕思いなす。
アートマンに対応するアッタンやその反対語であるアナッタンという語が用いられている例は比較的少ない。
上記の756節「見よ、我でないものを我と思い込んでいる神々や世間の人々を。」のように我(アッタン)とその反対語であるアナッタンとが対比された例もあるが、ここでのアナッタンの意味は実体的な我ではなく、またアナッタンの意味も対象を我がものと執着しない無我であることがわかる。
ここでのアナッタンを「我(自己)ではないもの」と翻訳すると、上記のような誤謬が生じる。
アナッタンはこの世の3つの特徴(aniccā,dukkha,anattā)の1つである。すなわち無常や苦しみの同義語であるので、涅槃のattaからみたこの世の特徴を指している。
ゴータマ・ブッダはヴェーダ思想のアートマンは不変で実体のあるものであるとして、それは空想上の誤謬であると否定した。このアートマンの定義であると、ブラフマンとの合一があっても、それは輪廻の中で起きる瞬間なので、合一体験の後でも輪廻に留まることになる。
ゴータマ・ブッダのいうattaは輪廻の外にあるもので、2度とこの世に戻ることはないものを指している。
attaは始まることがないものなので終わることもない。この世にエネルギーを持って顕れることもないが、ただ前提条件としてエネルギーが0の状態でこの世にあるものを指している。
以上のことからアナッタンとは著者の言う無我ではなく、attaとは関係のないもの、attaではどうしようもないもの、attaが無力な状態、attaが役に立たない状態、始まることがないものなのに始まっているものと妄想してしまっているもの、を意味している。
(アッタン)が
個体の根本真理としてのアートマンを想定させる用例919,1119もみられるが、その場合も「我という存在はない」とか、「我が存在するという誤った見解から出て」というように、仏教外の見解として批判的に用いられている。
つまり、ここにはアートマンの反定位としての無我が説かれていないのである。
しかし、次第に無我は実体的かつ恒常的なアートマンの反定位の意味で理解されるようになる。
Sutta Nipāta 919 920の間違い?
Pubbāsave hitvā nave akubbaṁ,
Na chandagū nopi nivissavādī;
Sa vippamutto diṭṭhigatehi dhīro,
Na lippati loke anattagarahī.
諸々の過去の煩悩を捨棄して、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者は、欲〔の思い〕に至る者ではありません⸺また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解脱した者、〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、〔何にも〕汚されません。
Sutta
Nipāta 1119 節句番号の間違い?もしくは主語の取り違え?
Vibhūtarūpasaññissa,
sabbakāyappahāyino;
Ajjhattañca bahiddhā
ca,
natthi kiñcīti passato;
Ñāṇaṁ sakkānupucchāmi,
kathaṁ neyyo
tathāvidho”.
実体を離れた形態の表象ある者(形態の表象を超越した者)の、一切の身体を捨棄する者の、『かつまた、内も、かつまた、外も、何であれ、存在しない』と〔あるがままに〕見ている者の⸺〔彼の〕知恵を、釈迦〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような種類の者は、どのように導かれるのですか」〔と〕。(2)
Theragāthā 20.1.
マハー・モッガッラーナ長老の詩偈
彼らが、五つの〔心身を構成する〕範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識知作用)を、「他者である」と、さらに、「自己ではない」と、〔あるがままに〕見るなら、あたかも、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように、彼らは、微細なる〔道理〕を理解する。
そして、彼らが、諸々の形成〔作用〕(形成されたもの)を、「他者である」と、さらに、「自己ではない」と、〔あるがままに〕見るなら、あたかも、矢で毛の先端を〔射抜く〕ように、精緻なる〔道理〕を理解したのだ。
Sukhumaṁ te paṭivijjhanti,
vālaggaṁ usunā yathā;
Ye pañcakkhandhe passanti,
parato no ca attato.
Ye ca passanti saṅkhāre,
parato no ca attato;
Paccabyādhiṁsu nipuṇaṁ,
vālaggaṁ usunā yathā.
人間の存在はこの五蘊によって構成され、そのいずれもが実体でもなく恒常でもないことから、総体としての人間も同様であると説いているのである。ここでの我(アッタ)はアートマンと同じ実体的、恒常的なものとして捉えられて、その上でそうした捉え方を否定した例である。
ここでのattatoは輪廻から離脱したものなので、アートマンとして捉えているのではなく、この輪廻の世界にある「妄想の我(アナッタ)」は輪廻の外側にあるattatoではない、と言及しているに過ぎない
スッタニパータの第4・第5の最古層には輪廻思想に関して肯定的に説示されず、(次の)古層になると一気に輪廻を肯定したり、それに基づいた仏教思想が説かれるという展開と連動しているのではないか。
具体的な出典は?
著者の考えでは、
輪廻の中で主体となるアートマンに対して仏教では無我を主張したので、輪廻に対してのブレや矛盾が生じたと考えている。
仏教では輪廻の存在を肯定というよりもはじめから前提としており、その主体は変化し続ける五蘊と主張し、主体が不変であるアートマンに対してはそのようなものは存在しないことを主張し、その真偽を体験できる修行を勧めた。
部派仏教の犢子部と正量部では、輪廻の主体は実体的な我として存続するプトガラ(梵: Pudgala, 補特伽羅)を、五蘊のほかに想定したことが特徴である。その理由は、生命とは五蘊の仮和合(けわごう)によって構成された仮の存在で実体を持たない(無我)という説と、人間が死んだ後に輪廻するという、二つの説を説明するためであると考えられる。
「主体が存在しない輪廻」の理解に苦しんだ後代の仏教徒が、無我説と輪廻説をつなぎ合わせるために、苦肉の策として、無自性である五蘊の他に、死後も存続する補特伽羅を想定した。この説は、輪廻に主体を想定するため、補特伽羅という名称で常住の主体(アートマン)を認めることになる。結果、常住論に陥るため、理論上、輪廻の解脱を語ることができなくなってしまう。
私説では、輪廻には主体は必要なく、五蘊とそれをエネルギー始動させるもの、すなわちダークエネルギーとよばれるような物質的エネルギーがあれば、実体の主体がなくても、輪廻の中で存続する生命体が継続する。
犢子部の誤謬は輪廻の中の生命体には主体が必要と考えるためだが、永続している物質エネルギーを枠組みとして、そこにエネルギー0の涅槃が収まることで、メンタルが発生して生命体が生じる。
大乗仏教では、
中観学派のように、すべての存在するものそれ自体に本性はないとする無自性が説かれ、無我思想は実体性を徹底的に否定した。
しかし大乗の中期経典では、アートマンのような実体的・恒常的な存在を肯定するようになる。
如来蔵経では、一切の衆生sattaには常住にして不変である如来を蔵していると説かれる。
勝鬘経では、如来蔵は煩悩に覆われて顕現していないが、常住にして不変なる法身であり、本来的に自性清浄ですべての基にあるものである、と説かれる。
大乗涅槃経では、如来蔵とほぼ同義である「一切の衆生は悉く仏性がある」と説かれる。
つまり、生命あるものは、すべて仏になる性質を本来的に有しているという考え方である。
パーリ経典の無常・苦・無我という立場から常・楽・我へと発想を変換したことになる。
こうした発想はアートマンにも類似した考え方である。
如来蔵・仏性は中国や東アジアや日本に伝わると、本来的に具有している性質といった概念から、次第に実体性を有した原理ともいうべき内容へと展開することになる。
仏性をどう定義するかによって誤謬が明らかになる。
仏性を涅槃nibbānaと同じエネルギー0と捉えるのであれば、パーリ経典と矛盾はない。
しかしこれを実体性を有した原理、すなわちエネルギーがあるものとするならば、その根拠を示さない限り、これはパーリ経典と矛盾するだけではなく、概念が作り出した妄想という誤謬である。
女性観
マハーバーラタでは女性は本質的に邪悪で不浄な存在として描かれている。
仏教では男女平等を唱えている箇所がある。
SN1.5.6 箇所見つからず
テーリーガーター 180、235 228、401、 41,158 47.160 11 168 7,10 91 66.101
222 212 149 53,132 155 290
MN115. 多くの界域あるものの経 MN115 Bahudhātukasutta
女性は阿羅漢などにある道理も機会もない
『このことは、状況なきことであり、機会なきことである。すなわち、女の阿羅漢にして正等覚者が存在することである。この状況は見出されない』と覚知します。
DN 21 Sakkapañhasutta DN 21 帝釈〔天〕の問いの経
女性の状態を捨て、男性の状態になり、死後天界に生まれ変わり、33天にすみ、その神々の主の息子の状態になっている。
これが大乗仏教で「変成男子」と明確化される。
八敬法 aṭṭha garudhamma
釈迦が、最初の女性出家者であるマハーパジャーパティーの出家を許す際に条件とした、受持すべき8つの戒律のこと[
出家者が守るべき具足戒は男性が250戎、女性が350戎
法華経には、女性は梵天王、帝釈天、魔王、天輪聖王、仏にはなれないと記述されている。
無量寿経では、浄土には女性はおらず、変成男子によって女人往生が説かれている。
階級の平等
スッタニパータ137〜139
陰蔵相
馬や犬のように陰蔵(男性陰部)が体内に密蔵されている相。
体内に隠された陰蔵は「仏の慈愛」を表し、性的欲望を超越した姿を表しており、欲望から超越している事は、現実に満ち足りていることを表す。
死生観
古代インド人は、過酷な風土や貧困や差別などから生じる苦を死後に再生し何度も受けつつ付けると信じていた。
死後は人間として生まれた今よりもさらに苦に苛まれる存在として生まれる可能性が大きいことを誰もが想定せざるを得ない状況に置かれていた。
死は、苦難が待ち受けている世界の入口へと繋がる出口である。
日本
死によって非存在になる不安や畏怖心、恐怖心から起こる苦、つまり有からすべてが無になることに対して生じる苦である。
死ねば三途の川を渡ってあの世にいき、そこに留まるが、盆や彼岸になれば、またこの世に一時的に戻って来る。
その橋渡しになるのが、墓参り、迎え火、送り火、精霊流し、仏事をして祖霊を供養することです。
日本人に輪廻に基づく死生観は根付いていない。
予期せぬ事態に遭遇した時に輪廻業報説、すなわち前世にその論理的帰結を日本人は求めない傾向がある。
ヴァルナ・ジャーティー制度
ヴァルナは、バラモン、クシャトリヤ、バイシャ、シュードラの4つの階層からなる身分制度
ジャーティーは、ヴァルナをさらに細分化した職業や地縁に基づく集団で、世襲的な職業や内婚集団として機能
現代に仏教が活きること
現代に適応する教えが説かれているのか、現代に適応するように解釈されているのか?
第五章 日本仏教の今
仏教が伝来していこう2300年もの間続いたのは、スリランカだけ。ミャンマーやタイは?
現代に、日本という地域に生きる私たちの要請とは何なのか? 状況を正しく認識
このままでは、どのような結果と結びつくのを推測して、希望と危機感を感得する
それにふさわしい、自発性と主体性によって人々の避難所となる教えとは何なのか?
今に活きる教えと救済の実践がなければ仏教ではない。
葬式仏教
江戸時代のキリシタン禁制を契機として、寺院の檀家であることを証明する寺請証文が発行され、寺院や僧侶を統制する寺院法度ができ、葬式仏教が確立するようになった。
明治に入り、神仏分離令、寺請制度が廃止されたが、体制は現代まで継承されている。
松岡正剛の千夜千冊 ブッダたちの仏教 並川孝儀 ちくま新書 2017
ぼくは確信しているが、仏教は21世紀の世界思潮のいくばくかの思考領域や行動領域に食いこんで、何事かを少しずつおもしろくさせていくだろう。きっと、そうなると思う。そうなって、ほしい。
けれども現状では、その兆候はまだ少ない。隘路を突破できていない。日本にいると、そのことを負担のように感じる。仏教は寺や仏像や坊さんに囲まれている日本人にこそ、肝心なところが理解されていないのだ。
もともとわかりにくいところが多いからだと思う。むろん宗教にわかりにくいところがあるのは当然で、そういうミスティシズムを含めて宗教の真骨頂があるのだが、現代仏教は世界的にも大きな潮流になっているわりに、仏教関係者による説明不足が目立つのだ。説明の順序もヘタッピーだ。
うまく説明されていないところはいろいろあるが、仏教の大筋は説明しにくいと思われすぎている。たとえば世の中を「一切皆苦」と捉えるところや「空」を重視するところは、西洋からは過ぎたニヒリズムと感じられるだろうが、これはかまわない。西の連中のほうの認識が甘いのだから、かれらにベンキョーさせればいい。
ヒンドゥイズムから継承した「輪廻」(サンサーラ)や「縁起」(プラティーティヤ)は、西洋神秘主義でも、最近のネットワーク社会観からでも類推がつく。だから、このへんも自信をもって“東の説明”をすればいい。
それより、大きくはユダヤ=キリスト=イスラム教が「一神教」で組み立てられてきたのにくらべて、東のヒンドゥ=ブッディズムは徹して「多神多仏」であることが最大のわかりにくさになっている。これがうまく説明できていない。
ユダヤ=キリスト=イスラム教にも「預言」「約束の地」「処女懐胎」「復活」「啓示」「三位一体」など、ふつうの理解では納得できないところが多々あるのだけれど、それをかれらは一神教的ヒエラルキーとロジックで巧みに充填してきた。どんなふうに充填したのか、千夜千冊でもオリゲネス(345夜)やアウグスティヌス(733夜)などを例にして、角川の「千夜千冊エディション」では『文明の奥と底』(角川ソフィア文庫)で、そこのあたりのことを解説しておいた。
実は仏教だって、仏教史をみればわかることだが、そうしたわかりにくさをさまざまなヒエラルキーとロジックで乗り越えてきたのである。そう、思ったほうがいい。
だから経典も厖大にある。旧約、新約、クルアーンどころではない。ただし、そのヒエラルキー(三界や三身説)は仏教独自のものであり、その説明のためのロジック(縁起や般若)もかなり独特になっている。
独特なのは宗教の教説だから当然だが、日本人にはそれらを読む(理解する)ための大きなブラウザーがちゃんと据えられていないようなのだ。スコープだ。そのスコープをもったブラウザーが示すべきは、ブッダその人が多神多仏ならぬ多身多仏だということなのである。
ブッダは一人とはかぎらない。ブッダは多身で、多仏なのである。そのことをこのあと説明するが、この、ブッダの捉え方が多身で多仏になっているというスコープがわからないと、仏教の深みは掴みにくいだろうし、そこを前衛的なソフトウェアのアプリのように説明してきた仏教のよさが見えてこない。
仏教学にはブッダ論という領域がある。仏教を興した宗祖ブッダをどう見るかということ、そこを議論していくのがブッダ論だ。仏教史的には時代ごとにたくさんの議論があった。あまりに議論点が多いから整理をすると、その中身は大きくは二つの見方になってきた。
ひとつはA「ブッダによる教え」をもたらしたブッダをどう見るか、もうひとつはB「ブッダになる教え」を体現するブッダをどう見るかという議論だ。その話からしてみる。
Aの「ブッダによる教え」というのは、ブッダその人が覚醒したことを追う。
歴史上の一時点に北インドで生まれたゴータマ(ガウタマ)・シッダールタという実在者が、修行のすえに菩提樹のふもとでゴータマ・ブッダとして覚醒を遂げたのである。この歴史的な出来事と、そのブッダが説いた教えを探求する。これが、大文字のブッダ(Buddha)自身によって示されたブッダの教えをめぐるブッダ論になる。A「ブッダによる教え」だ。
Bの「ブッダになる教え」のほうは、そのゴータマ・ブッダによって到達されたブッダ(buddha)という心身状態が、仏教的にどんな様態をとりうるか、修行者や信仰者がどうしたらそこに達することができるかということを広く議論するブッダ論だ。
この小文字のブッダのほうは「覚醒するもの」「真理を悟ったもの」という意味で、原則的には誰もがなりうる高くて深い精神的な状態をさす。
仏教成立以前、『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』でも、聖者・賢者という意味での「ブッダ」という言い方がされていた。仏教最古の経典『スッタニパータ』や詩集『テーラ・ガーター』では、ゴータマ以前からブッダと呼ばれていた修行者が何人もいたのだということを伝えている。多くの者がブッダへの道をめざしたのだ。
したがって、こちらのブッダ論はA「ブッダによる教え」というよりも、B「ブッダになる教え」なのである。「よる」と「なる」ではずいぶんいろいろのことが異なってくる。それで、後者Bの「なる」ためのブッダ論がたいへん幅広いのだ。
本書『ブッダたちの仏教』は、この「ブッダによる仏教」と「ブッダになる仏教」がどのように議論されてきたかを、さまざまな証拠を並べてまとめた。
タイトルがいい。仏教がいくつもの「ブッダたち」、すなわちいくつもの「ブッダ状態」によって成立してきたことを、うまく象徴している。
著者の並川孝儀(なみかわたかよし)は京都生まれの佛教大学のセンセーで、「正量部の研究」でデビューした。『ゴータマ・ブッダ考』(大蔵出版)、『ゴータマ・ブッダ:縁起という「苦の生滅システム」の源泉』(佼成出版会)、『スッタニパータ
仏教最古の世界』(岩波書店)などの著作がある。岩波の『スッタニパータ』は若い日本人や一般読者の評判がいい。この問題を展開するにふさわしい研究者だ。
仏教学では、ブッダが在世中に説いた仏教のことを「原始仏教」という。まだまだ未熟ではあったが、原始仏教教団もできた。サンガ(僧団)である。そこにゴータマとその「教え」を理解した仏弟子(ぶつでし)たちがいた。ゴータマの教えを最初に聞き、最初に実践したのが仏弟子(サーヴァカ)だ。漢訳では「声聞」(しょうもん)と呼ばれる。
原始仏教期の「ブッダによる教え」はひっくるめて「仏説」(ヴァチャナ)という。仏説(ぶっせつ)はブッダ自身が生存中にさまざまな機会に法(ダンマ)と律(ヴィナヤ)と教え(シャーサナ)を説いたことをまとめたもので、当初のものは『大般涅槃経』などに散文的に載っている。
仏弟子のアーナンダ(阿難)が「法」を暗誦でき、何人かのウパーリ(優婆塞)が「律」を記憶していたので、長老たちはカーシュヤパ(迦葉)を統率者としてこれらをまとめることにしたのだった。ゴータマの語りが、これで少し物語になった。仏教史ではこの最初期の編集作業を第一結集(けつじゅう)と言っている。
そのなかには修行者たちが聞いた言葉が雑然と集められているものも、少なくない。ほんとうにブッダ自身がそういうことを言ったのかどうか、訝しいものもある。そこで原始仏教教団は、それらの言葉とのちに経典(スッタ/スートラ)としてまとまったものとを照らしあわせ、相互に齟齬がないかどうかをラフにチェックした。このチェックに合格したものが仏説にふさわしいものになる。
この作業が第二結集で、アーナンダの弟子の8人の長老たちがかかわった。アーナンダは新約聖書の大編集を指導したパウロにあたると思えばいい。
ブッダが亡くなって100年ほどすると、教団は上座部と大衆部の二つに分かれて「部派仏教」の時代に入った。どんな組織もこういうことはおこる。まして古代信仰集団だ。いっときは説一切有部をはじめ、20グループ前後の部派が林立した。
部派仏教では「ブッダになる」ことではなく、もっぱら阿羅漢(アルハット/アラハント)になることがめざされた。学ぶべきものがない境地に達した者が阿羅漢だ。
かれらは熱心な修行者ではあったが、他者の救済よりも、もっぱら自己の探求を極めるほうに関心があったため、のちに大乗仏教がおこってからは、あんたたちはあまりに小さな乗り物にこだわったねという意味で「小乗仏教」の活動者だったともみなされた。そのため、それまでは仏弟子全般を声聞と呼んでいたのだが、大乗仏教側はかれらを声聞と呼び、大乗仏教者を「菩薩」と呼ぶようにした。
一方、阿羅漢にも徹底した修行や思索をした者たちもいたので、のちにすぐれた阿羅漢を総称して「十六羅漢」などとして称揚した。羅漢さんである。
部派仏教の各部派は、自分たちの考え方こそが仏説に近いんだということを主張しあっていた。それぞれが理論化を深めていったので、どこの部派の主張が仏説からずれているとは言いがたい。しかし、すべてを同じように認めていっては混乱を呼ぶ。どうするか。
そこで論師たちは、仏説にはそもそも「了義」と「未了義」があったのだというふうにした。了義というのはブッダの教え通りのもの、未了義はブッダの教えが推測されるものではあるが、真意は完全にはあきらかになっていないものをいう。
こんな判断をしたのは、当時勢いを増していた仏教ムーブメントの機運を損なわないように、論師たちがやむなく振り分けたせいなのだが、これによって各部派は、かえって、なぜブッダが完全な言葉で真意をあらわさなかったのか、そこにはどんな意図があったのかということに興味をもった。
こうして部派仏教は未了義の研究に打ちこんでいったのである。これが、若いころにぼくが夢中になった「アビダルマ仏教」というものだ。アビダルマとはブッダの教えの解釈や研究に耽ることをいう。
やがてそのような解釈研究が論書というかたちになり、そのアーカイブを「論蔵」と名付けるようになると、経典を集積した「経蔵」よりも、むしろ論蔵のほうが仏説の中身を伝えるものだと位置づけるようになった。アビダルマはそうしたテキスト研究に没入していったのである。ぼくは、これはこれでたいへん重要な作業だったと思っている。
紀元前後に「大乗仏教」が立ち上がってきた。ブッダが説いた救済の思想を重視して、自己の解脱よりも他者の救済をめざすムーブメントが大きなうねりをもちはじめたのである。いわゆる「菩薩道」だった。利他行をめざした。
この救済型の菩薩道を提唱した大乗仏教が、このあとのブッダ観に大きな転換をもたらしていく。
大乗仏教は東洋文化史全般のなかでもかなり新しい思潮なので、もちろんその特色は多彩にあるのだが、今夜強調しておきたいのは、まずもって宗祖ゴータマ・ブッダを永遠の存在とみなすべく、複数に見立てたということがとても大きい。これはブッディズムにとっては大転換だった。
遥かな過去の時空にも未来永劫の時空にもブッダ(ブッダたち)がいらっしゃるとみなしたのだ。この構想は「過去仏」や「未来仏」の想定につながった。
『相応部経典』の第6章「梵天相応」には次のようにある。「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」。
実際にも、その「ブッダと言われる方々」の名前もあきらかにされた。毘婆尸仏(ヴィパシン)、尸棄仏(シキン)、毘舎浮仏(ヴィシュヴァブー)、拘留孫仏(クラクチャンダ)、拘那含牟尼仏(カナカムニ)、迦葉仏(カーシュヤパ)という六ブッダが想定されて、これにゴータマ・ブッダを加えたブッダたちが「過去七仏」に認定されたのだ。
わかりやすくいえば、大過去のブッダ(覚醒者たち)と永遠存在としてのゴータマ・ブッダが時間と空間をこえて概念的に同一視されたのである。
過去七仏は同一人物ではない。しかし、何かの深い共通性があってしかるべきである。そこで七仏たちは「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(悪をなさず善を行い、みずからの心を浄めることが諸々の仏の教えである)を共通の教えにして、世界の救済を確信していたのだとみなされた。この共通のコモンセンスを「七仏通戒偈」という。
インドからセイロン(スリランカ)をへて南方に伝承したパーリ語の聖典系では(南伝仏教=テラワーダ仏教)、過去仏の見方がさらに広がって、過去になんと24ものブッダたちがいて、ゴータマ・ブッダはその25番目だったというような、過去二五仏説が提唱されるまでになった。べらぼうだ。あまり知られていないことかもしれない。
一方、未来仏についても『転輪王経』で、今後の荒廃した時代にサンカという転輪王が出現して正しい法を求めることになるのだが、そのときゴータマ・ブッダはかねての計画通り、弥勒(マイトレーヤ)という世尊を正等覚者として世にさしむけるはずだと説いた。『増一阿含経』も、未来久遠の時代に兜率天にいた弥勒菩薩(菩薩行をしていた弥勒)がこの世に編まれた無上道を悟って弥勒仏になると説いた。
遠い未来に弥勒仏が想定されたのだ。このような見方はのちに『弥勒下生経』といった偽経にまで発展する。菊地章太『弥勒信仰のアジア』(1313夜)を読まれたい。
なぜ、こんなアクロバティックな見方を通したのか。過去仏といい未来仏といい、大乗仏教はブッダをなんとかして永遠の存在として絶対化したかったのだ。ぼくはこれも宗教としては当然の編集構想だったと思っている。
ふえすぎたブッダをめぐっては、さまざまな議論が噴出した。それもやむをえないことだろう。なかで、もともとのゴータマ・ブッダはそんなにも広大な過去・現在・未来をまたぐ時空で、いったいどんなような在り方で君臨しているのかという問題が浮上した。
ブッダがマルチバースになったことをどう説明するかという問題だ。ここに新たに「仏身論」という見方が登場する。
仏身(ぶっしん)とはブッダの体のことである。実際の肉体のこともあるが、理想化された身体のこともある。しかし、何人ものマルチバースなブッダがいるとなると、話はややこしい。
まずはゴータマ・ブッダが涅槃に入ったからには、その身体をどう解釈するかという問題があった。死者なのである。磔刑になったキリストの身体が長らく議論の対象になったように、ブッダの身体も容易には語れない。
そこで初期経典の『如是語』(イティヴッタカ)では、二種類の涅槃が説かれた。涅槃(ニルヴァーナ)とは「吹き消す」という意味の言葉で、煩悩を吹き消した状態が涅槃なのだが、その涅槃に二種類があるとしたのだ。
ひとつは「有余依涅槃」(うよえねはん)というものだ。ブッダは修行のうえ煩悩を滅して解脱したけれど、いまだ五種の感官はのこっていて、そのため楽と苦を感じている涅槃の状態にあるとするという見方である。もうひとつは「無余依涅槃」(むよえねはん)というもので、解脱をしたのちはなんらの執着の束縛をうけていない涅槃状態だということにした。
あまりにも便宜的ではあるが、執着の残余によって涅槃を区分することにしたわけだ。肉体に束縛をうけた涅槃と、その束縛をこえた涅槃的身体とがあるとしたわけだ。
これは肉体には不完全性があるという見方の強調でもあって、このあとの仏身論にさまざまな影響を与える。この工夫もキリスト教における三位一体論などに匹敵するもので、ぼくはどうしても必要な仮説だったろうと思っている。
少し解説を加えておくが、ブッダ在世時の原始仏教では、涅槃は死とは関係なく、生存中に体得できると考えられていた。けれどもブッダの現実の死に臨席した仏弟子たちは、その死はたいへん感動的なものだったので、涅槃(ニルヴァーナ)であったとみなすふうになったのである。この世に転生しない状態になるのが涅槃nibbāna
当時は「般涅槃」(はつねはん)とか「大般涅槃」と言っていた。「般」とは完全を意味する接頭辞で、煩悩を完全に滅却させたという意味をもつ。弟子たちはブッダの死(=涅槃)こそがその完成だとみなしたのだ。いいかえれば、ゴータマ・ブッダにあっても、生きているあいだは肉体が煩悩への執着を切り離せなかったとみなしたのだ。切り離れたので転生しないことが確定された、と釈尊は考える。
さあ、そうなると、ここにゴータマ・ブッダの体は最低でも二つあることになる。あるのは一つの肉体と心、そして死後のエネルギーが0の涅槃だけで、法身などは存在しない。なぜならば涅槃とは心身からの離脱であり、もう身はないからである。
奇妙なことのようだが、キリスト教でいえばイエスの身体とキリストの霊性を同時に想定したようなものだ。キリストの霊性は上座部仏教でいうメンタル界の五蘊である。二つあってもおかしくはない。仏教のばあいは「生身の仏身」と「解脱された仏身」の二つである。
しかし、ゴータマを分断したといえば、分断したのだ。それなら、この二つの分断をどのように説明するか。そこでついでは、生身の仏身を「色身」(しきしん)とみなし、深い真理に到達して涅槃となった仏身のほうを「法身」(ほっしん)とみなすことにした。そう見れば、過去にも未来にもブッダの法身はあまねく広がれる。ということは法身が複数に遍在しているということになる。
そのうち、そんなふうにあまねく遍在する数々の法身にまったく区別がないままでいいのか。みんな同じ法身なのか。そんなことはあるまいという議論が出てきた。
大乗仏教に『法華経』や『華厳経』などの大乗経典が生まれ、4〜5世紀になると、華厳の巨大なビルシャナ仏(ヴィロチャーナ)などが崇められる信仰が発展していったのだが、その影響も大きかった。では、そういうビルシャナ仏とは誰なのか。仏身だとしたら、どういう変化をおこした仏身なのか。
こうして仏身には、法身のほかに「報身」(ほうじん)と「応身」(おうじん)があるということになった。
法身は法性(ほっしょう)ともいうべき真理体そのもので、人格を有しない仏身である。報身はブッダになろうと修行を重ね、それによって完全な功徳を備えた仏身のことだ。ブッダになるという執着をもつ五蘊のこと。
応身は衆生(しゅじょう)の救済のためにこの世にあらわれた人格をもった仏身のことをさすというふうにした。このように法身・報身・応身というふうに仏身が変化する見方を「三身説」という。ブッダになるという執着をもつ五蘊がbhavaとなり、それがこの世に顕出して誕生した輪廻の1プロセス
苦肉の策のようだが、これがみごとに功を奏した。ほかに「法身・解脱身・化身」に分ける説、「自性身(じしょうしん)・受用身・変化身(へんげしん)」に分ける説も唱えられるに至った。少々レトリカルにもアナロジカルにも見えるだろうが、むしろ、ぼくはこのあたりの説明こそ21世紀にもっと露出するべきだろうと思っている。
仏教はインドでのみ発展していったのではない。さまざまな土地と時代で信仰され、そのつど編集されていった。南伝して東南アジアで編集され、北伝して西域・中国・朝鮮半島をへて日本でも編集された。
西域から中国に向かった信仰の中からは浄土教のムーブメントがあらわれた。もともとはインドで編まれた『無量寿経』と『阿弥陀経』にもとづいた信仰なのだが、これに西域あたりで編纂された『観無量寿経』が加わって(浄土三部経と総称される)、新たに阿弥陀仏と西方極楽浄土と往生思想をアピールしたのだ。詳しいことはリチャード・フォルツの『シルクロードの宗教』(1428夜)などで紹介しておいた。
浄土信仰は、またまたこれまでにない仏教動向だったのだ。仏教はついに「他方仏」と「他方世界」をもったのである。
浄土信仰や阿弥陀信仰は、のちの密教の出現とともにかなり斬新だ。ヒンドゥー教への先祖返り。
もともと仏教には「三千大千世界」や「須弥山世界」という世界観があった。ヒンドゥイズムから継承したところもある。
その三千大千世界のすべてに普遍的に君臨するとみなされたのが華厳のビルシャナ仏である。日本では東大寺の大仏がその姿をあらわしている。大仏(毘盧遮那仏)は蓮弁に坐しているのだが、その蓮弁にはことこまかに三千大千世界や須弥山のディテールが毛彫りされている。
のちに密教はこのビルシャナ(ヴァイロチャーナ)をさらに普遍巨大化して、さらに普遍的な大日如来(マハー・ヴァイロチャーナ)を登場させた。
これらは全世界に君臨する仏だが、各方面にいらっしゃる仏もいるのだと考えられたのだ。それが東方の薬師仏や西方の阿弥陀仏になった。それぞれ東方瑠璃光浄土、西方極楽浄土をマネジメントしているとした。これを「他方仏」という。地方仏ではなく、他方仏だ。ブッダたちはついに近所の山の向こうにおはしますことになったのだ。
浄土教は敦煌などの浄土観とともに中国に入り、さらに日本にやってきた。阿弥陀信仰はとくに日本で重視される。浄土教や浄土真宗だ。千夜千冊では、法然(1239夜)などを通して説明しておいた。
そこからは「往生」という「向こうへ行って生きる」という見方が普及した。一人一人の衆生(しゅじょう)、すなわち個人が浄土に行けることになったのだ。それも称名念仏を唱えるだけでも約束された。日本仏教にこのような特色があらわれたことも、正真正銘のブッディズムなのである。きわめてソフィスティケートされた仏教だ。
というわけで、仏教は「たくさんのブッダたち」を、時間と空間をともなって、また数々の仏身をともなって、つくりだしてきたのだった。ぼくは仏教関係者たちがこのことについての説明を、もっとしやすいようにしていったほうがいいと思ってきた。
日本にはどこにでも仏像がある。そのいちいちの背景をそろそろ愉しむようになったほうがいいのではないか。そのうえで、あらためて言うけれど、21世紀はぜひにも仏教の世紀であってほしいのである。
⊕ 著者略歴
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並川孝儀(なみかわ たかよし)
1947年京都府生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士課程満期退学。インドのジャワハルラル・ネルー大学客員研究員、同客員教授を経て佛教大学仏教学部教授。博士(文学)。専門はインド仏教、とくに原始仏教、部派仏教。著書に『ゴータマ・ブッダ考』『インド仏教教団正量部の研究』(以上、大蔵出版)、『スッタニパータ
仏教最古の世界』(岩波書店)『ゴータマ・ブッダ―縁起という「苦の生滅システム」の源泉』(佼成出版社)がある。