中国の仏教

 

仏教の伝来

伝来に関する説話は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽白馬寺に纏わる求法説話である。また『後漢書』には、楚王英伝に仏教信仰に関する記録がある。

 

また、1990年代以降、この時代の遺物の意匠中から仏像と見られるものが発見されるなど、考古学的な面からもこの時代に仏像が伝来していたことが立証されている。恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。

また、後漢末期の武将として小説『三国志演義』にも登場する笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られている。

 

桓帝の時代にインドや西域の仏教者が漢土に到来し、洛陽を中心に仏典の翻訳に従事した。なかでも安世高、安玄、支婁迦讖(支讖)、笠仏朔(笠朔仏)、支曜、康巨、康孟詳、笠大力らが経典の訳出に携わった。また初めての漢人出家者として厳仏調が現れ、安玄の訳経を助けた[2] この時代の仏教書としては『牟氏理惑論』や『四十二章経』など、幾つか挙げられるが、いずれも後世に書かれた物であるとの疑いが強い。明帝の求法説話や摂摩騰の『四十二章経』等の翻訳を架空の創作とすると、中国で初めて仏教の経典を翻訳したのは、安息国(パルティア)出身の安世高となる。安世高は『安般守意経』『陰持入経』等の部派仏教の禅観に関する経典やアビダルマ論書である『阿毘曇五法行経』を訳した。

 

また『出三蔵記集』巻七、「道行経後記」によれば、霊帝の時代に笠仏朔、支婁迦讖らが大乗経典の『道行般若経』を訳出したという[3][2]。また『般舟三昧経』が光和2年(179年)の108日に胡本から漢訳された(『道行般若経』は同年1018日)。なかでも、『般舟三昧経』が説く般舟三昧は禅観法として受容され、東晋の時代に白蓮社が結成されるに至った。インドや西域など幅広い地域から部派仏教と大乗仏教双方の仏典が時を同じくして相次いで訳された。[2]

 

三国・両晋・五胡十六国

紀元3世紀頃より、サンスクリット仏典の漢訳が開始された。この時代は華北のみならず、江南地方でも支謙や康僧会によって訳経が始まり、それと同時に仏教が伝えられた。その一方で、中国人の出家者が見られるのはこの時代からである。記録に残る最初の出家者は、朱士行である。また、この時代の主流は、支遁(314 - 366年)に代表される格義仏教であった。訳経僧の代表は、敦煌菩薩と呼ばれた竺法護である。

 

紀元4世紀頃から、西方から渡来した仏図澄(? - 348年)や鳩摩羅什くまらじゅう(344 - 413年)などの高僧が現われ、旧来の中国仏教を一変させるような転機を起こす。前者は後述の釈道安(314 - 385年)の師であり、後者は、唐の玄奘訳の経典群に比較される程の数多くの漢訳仏典を後世に残している。

 

仏図澄の弟子である釈道安が出て、経録(経典目録)を作り、経典の解釈を一新し、僧制を制定したことで、格義仏教より脱却した中国仏教の流れが始まる。釈道安の弟子が、白蓮社を結成した廬山の慧遠(334 - 416年)である。

 

南北朝

5世紀になると、『華厳経』、『法華経』、『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞(476 - 542年)が浄土教を開いた。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まる。

 

またこの時代、北朝の北魏では、太武帝の廃仏(三武一宗の廃仏の第1回目)の後、沙門統の曇曜を中心に仏教が再興され、平城郊外には大規模な仏教石窟寺院である雲岡石窟が開削された。その後、孝文帝が洛陽に遷都すると、仏教の中心も洛陽に移り、郊外の龍門に石窟が開かれた。また、洛陽城内には、永寧寺に代表される堂塔伽藍が建ち並び、そのさまは『洛陽伽藍記』として今日に伝えられている。永寧寺の壮大な伽藍を見た達磨は、連日「南無」と唱えたという。

 

一方、南朝でも仏教は盛んであったが、中でも、希代の崇仏皇帝であり、またその長命の故にか、リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、梁の武帝の時代が最盛期である。都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。

 

このような北魏及び梁の南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北においては六鎮の乱に始まる東西分裂、南では侯景の乱によるあっけない梁の滅亡によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀と、通道観の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、慧思の「立誓願文」に見られるような、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。

 

北周の覇業を継承した隋の文帝は、陳を併合することで、西晋以来の中国の統一を成し遂げる。が、宗教政策においては、武帝のそれを継承せず、仏教復興政策というよりも、儒教に変わって仏教を中心に据えるほどの仏教中心の宗教政策、いわゆる仏教治国策を展開することとなる。漢代以来の長安城の地を捨てて新たに造成され、唐の長安の礎となる大興は、国寺としての大興善寺をその中心に据え、洛陽・建康に代わる仏教の中心地となる。また、文帝はその晩年、崇仏の度を増し、中国全土の要地に舎利塔を建立し、各地方の信仰の中心とした。その年号をとって、仁寿舎利塔と呼ばれる。これが、日本の国分寺の起源となるものである。また、その発想は、インドのアショーカ王が各地に建てたという仏塔(ストゥーパ)に通じている(中国では阿育王塔という)。

 

隋の第2代皇帝である煬帝は、暴君の悪名高い天子ではあるが、その即位前、晋王時代より、天台智を崇敬したことで知られ、智より菩薩戒を受けているほか、行在所に初めて内道場を設けてより身近な場所で仏教を信仰した。

 

6世紀には、次々と仏教宗派が生まれた。但し、中国における宗派とは、日本における各宗派独自の制度を持った独立的な組織としての教団的な色彩は薄く、奈良時代の南都六宗に通じるような、講学上や教理上の学派に近いものであった。

 

菩提流支(508 - 535年)による地論宗

真諦(499 - 569年)による摂論宗

菩提達摩(? - 528年?)によるとされる禅宗

智(538 - 597年)による天台宗

吉蔵(549 - 623年)による三論宗

杜順(557 - 640年)による華厳宗

道綽(562 - 645年)による浄土教

これらの中で、隋唐代に教団的色彩を持つに至るのは、天台宗と禅宗である。

 

唐の建国当初、仏教は未だ国家の統制下にあり、造寺や度僧は制限を受けていた。更に、高祖代には、排仏主義者で元道士の太史令・傅奕による排仏案が何度も献策されていた。

 

紀元7世紀の最も重要な高僧は、玄奘三蔵(600 - 664年)である。唐の国禁を破って天竺(インド)へ仏典請来の大旅行を決行した(630 - 644年)。彼の請来した仏典は、太宗の庇護を受けて、組織的に漢訳が進められ、後世の東アジアの仏教の基盤となった。彼の弟子の慈恩大師基(632 - 682年)は法相宗を開宗した。

 

この時代の各宗派の状況を順に上げれば、善導(613 - 681年)が浄土教を大成した。禅宗は、第五祖弘忍(602 - 674年)以後、南北二宗に分裂した。分裂当初は、長安を中心とした唐の中心部、都市部に教線を張った神秀(? - 706年、第六祖)の北宗が優勢であったが、慧能(638 - 713年)が禅宗の諸派中、後に主流となる南宗において第六祖と呼ばれた。法蔵(643 - 712年)が華厳宗を確立した。善無畏(637 - 735年)金剛智(669 - 741年)が密教を伝えた。

 

もう一つ、この時代の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。各宗派の僧が一緒に住むのが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。

 

また、唐朝を一時中断させて武周朝を建てた武則天も、妖僧薛懐義を重用し、一種の恐怖政治を行うなど問題が多いが、熱心な仏教信者であった。その武周革命には、偽作とはいえ仏教経典である『大雲経』を利用しており、日本の国分寺に通じる大雲経寺を各地に建立した。また、同姓の老子(李耳)を祖と仰ぐ唐の慣例で宮中での席次は「道先仏後」と定められていたのを「仏先道後」に改めた。さらに、自身の姿に似せたという大仏を龍門の奉先寺に造営し、その威容は今日まで伝えられている。

 

紀元8世紀には、不空(706 - 774年)が密教を大成した。不空の弟子の恵果の密教は、真言密教として日本の空海に伝えられることになる。一方禅宗の方は北宗禅の神秀の下を出た荷沢神会(684年‐758年)が慧能に参じ、自らを七祖とし、慧能を禅宗六祖とする南宗禅の立場を確立した。

 

紀元9世紀は、黄檗希運(? - 850年頃?)、臨済義玄(? - 867年)、趙州従諗(778 - 897年)らの禅宗(南宗)が盛んであった。

 

また、この時代、仏教信者の多い宦官勢力に影響されて、仏教を崇敬する皇帝が多く現れた。第11代の憲宗も、そういった皇帝の一人であった。彼は、30年に一度しかいわゆる御開帳されない法門寺の仏舎利を長安に迎えて盛大な法会を執行した。韓愈は、「論仏骨表」を上奏し、その偽妄であることを直諌したが、受け入れられる筈もなく、当時は未開発であり、風土病などによって中央の人々から恐れられていた広東省に左遷されることとなった。

 

しかし、武宗の会昌年間(841 - 846年)の会昌の廃仏(法難)と呼ばれる仏教弾圧事件(三武一宗の廃仏の第3回目)を契機として、仏教の勢力は急速に衰えることになった。この事件の同時代資料であり、その状況を現代に伝えるのは、日本の入唐僧円仁の入唐求法巡礼行記である。但し、弾圧自体は武宗の治世のみで取りやめられ、次の宣宗以降、仏教は復興することとなる。

 

廃仏より復興はするが、この時期、唐朝自体が安史の乱以降、各地の節度使勢力によって中央集権的な求心力を失っていたこともあり、往日の長安を中心に繁栄した様が再現されることはなかった。やがて、黄巣の乱を契機として、唐は一気に衰亡の一途をたどった。

 

五代・宋・元

唐が滅亡した後、五代十国の分裂時代になり、五代最後の後周の世宗によって廃仏事件が起きた(三武一宗の廃仏の第4回目)

 

北宋の統一後、宋の太祖は行き過ぎた仏教への投資をやめ、出家制度においては度牒(得度した公文書)の出売を行なって、国家財政の一助とするとともに、賜額制度、寺院の資産への課税による寺院統制を行い、やがて五山十刹制度として国家の統制の下に管理する事に成功した。

 

また宋代には、司馬光の『資治通鑑』の影響を受けて、志磐の『仏祖統紀』に代表される、通史として叙述された仏教史書が編纂され、その傾向は元代から明初にまで及んだ。

 

中国地域の仏教は北宋以降、禅宗と浄土教を中心に盛んであったが、元・清の時代には王朝がチベット仏教に心酔したこともあり、密教も広まった。

 

また一方で、『輔教編』を著わして儒・仏の一致を説いた北宋の仏日契嵩や、『三教平心論』を著わした劉謐らに、儒教と仏教、あるいは道教も含めた三教が融合すると主張する傾向も見られ、インド起源の仏教が次第に本来のインド的な特色を失い、中国的な宗教へと変貌を遂げて行く時期でもある。やがて、その傾向は、仏教とは一線を画した民間宗教としての、白蓮教や白雲宗として、姿を現すこととなる。同時に、それらの民間教派は、時の政府の弾圧の対象、いわゆる邪教として、取り締まられ排斥されるようになる。

 

明・清

明・清代になると、仏教教団、とりわけ出家者である僧尼には目立った活動をする者が、雲棲袾宏(1535 - 1615年)ら四大師と称される一部しか見られなくなった。

 

その一方で、知識層においては在家の居士による居士仏教が盛んとなり、一方では、儒教や仏教、道教の要素を取り入れながらも、それら三教とは一線を画した民間宗教の経典である宝巻を所依の経典とする羅教等の、三教の伝統的教派とは、より異質な民間宗教が現れてくる。これらの教派に至っては、秘密結社である青幇や紅幇との結びつきが密接になった。

 

清朝末期になると、楊文会を中心とした開明的な居士仏教の運動が起こる。金陵刻経処で新たに経典を刊刻したり、日本の南条文雄や、インド・ヨーロッパの仏教学者と交流をはかるなどの活発な活動を行った。また、当時の思想界にも影響を与えた。

 

台湾の仏教

第二次世界大戦が終わり、中国国民党が台湾に逃れて、中国共産党により中華人民共和国が成立すると、政府が宗教活動を統制するために中国仏教協会が設立されてダライ・ラマは名誉会長を務めた。1960年代の文化大革命では極端な弾圧と破壊が行われ、中でもチベット地域では、多数の寺院が破壊され、多数の僧侶が虐殺され、ダライ・ラマを初めとするチベット政府はインドへ逃れざるを得なかった。

中華人民共和国

21世紀現在では、中国政府は文化大革命の非を認め、再び保護政策に戻ってる。日本との国交正常化直後には中国国内の仏教寺院は荒れ果てていたが、現在では華僑などの援助によって沿海部を中心に復興を遂げている。

 

備考

中国に伝来して以降、中国化したとされる仏教だが、漢訳仏典については、その逆の現象をたどっており、初期の漢訳仏典の方が中国的要素を多分に含み[4]、当初は中国人に分かりやすくしていた。例えば、「生き物」とするべき語訳を「人間」としたり、儒教に見られる人間中心主義の影響が見られる[5]。当時の中国人に人以外の生物が人と共に救済されるべきとした説は難しかったものとみられる。つまり仏教の真髄ともいえる教えを初期の布教者は避けていた傾向があり、後世になって仏典のインド化が進んだ[6]

 

脚注

^ 岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.97-p.98.

^ a b c 岡部和雄、田中良昭・編 2006, p.98.

^ 「光和二年十月八日。河南洛陽孟元士口授。天竺菩薩竺朔仏時伝言者訳。月支菩薩支讖時侍者南陽張少安南海子碧。勧助者孫和周提立。正光二年九月十五日洛陽城西菩薩寺中沙門仏大写之。」(道行経後記第二)

^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 講談社文庫 111997年(11990年) ISBN 4-06-184784-8 p.322.

^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 p.323.

^ 陳舜臣 『中国の歴史 (三)』 p.325.

 

 

菩提達磨(ぼだいだるま、中国語: 达摩、サンスクリット語: बोधिधर्म, bodhidharma、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧である。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。達摩との表記もあるが、『洛陽伽藍記[1]』や、いわゆる中国禅の典籍『続高僧伝 [2]』など唐代以前のものは達摩と表記している。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。

 

生涯

菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いを持たれている。南天竺[3]国王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨になったということになっている。しかしそれよりも古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』卷一 永寧寺の条(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。

 

時有西域沙門菩提達摩者、波斯國胡人也。起自荒裔、來遊中土。

見金盤R日、光照雲表、寶鐸含風、響出天外。歌詠讚歎、實是神功。自云,年一百五十歳、歴渉諸國、靡不周遍、而此寺精麗、閻浮所無也。

極佛境界、亦未有此、口唱南無、合掌連日。 洛陽城内伽藍記巻第一(永寧寺の条)

 

時に西域の沙門で菩提達摩という者有り、波斯国(ササン朝ペルシア)の胡人也。起ちて荒裔(はるか)なる自(よ)り中土に来遊す。

〈永寧寺塔の〉金盤日にR(かがや)き、光は雲表に照り、宝鐸の風を含みて天外に響出するを見て、歌を詠じて実に是れ神功なりと讚歎す。

自ら年一百五十歳なりとて諸国を歴渉し、遍く周らざる靡(な)く、而して此の寺精麗にして閻浮所(諸仏の国)にも無い也。極物・境界にも亦(ま)た未だ有らざると云えり。此の口に南無と唱え、連日合掌す。

 

このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。ペルシア生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、中国へ来遊した。

永寧寺の塔の金盤が太陽に輝き、その光が雲表を照らしているのを見て、また金の鈴が風を受けて鳴り、その響きが中天にも届くさまを見、思わず讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。

その自ら言うところでは、齢は150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮にはまたと無い、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。

 

 

弟子の曇林が伝えるところ[4]によると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている[5]

 

北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録[6]』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅の初祖とされる。この燈史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至[7]王の第三王子として生まれる[8]。中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。

 

普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。921日(1018日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。この書では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。

 

帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功コ

師曰 並無功コ

帝曰 何以無功コ

師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實

帝曰 如何是真功コ

答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功コ不以世求

帝又問 如何是聖諦第一義

師曰 廓然無聖

帝曰 對朕者誰

師曰 不識

帝不領悟

師知機不契 景コ傳燈録第三巻

帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」

師曰く「並びに功徳無し」

帝曰く「何を以て功徳無しや」

師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」

帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」

答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」

帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」

師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」

帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」

師曰く「識らず(認識できぬ・・・空だから)」

帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り

武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。

 

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている[9]が、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』[10]などに継承されている。

 

大通2129日(52914日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って[11]決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。[12]

 

永安元年105日(528112日)に150歳で遷化したとされる[13]。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[14]。諡は円覚大師[15]

 

一方『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える[16]。中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

 

二入四行論について

彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』がある。柳田聖山によれば『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想を伝えるとされている。敦煌文書を基にした復元された『達摩二入四行論[17]』に登場する三蔵法師が、菩提達摩その人だと信じられている。これは、いくつかの既存の禅宗の文献を部分として含む重要な文献だとされている。しかし伊吹敦は『二入四行論』の内容を精査分析し、これが菩提達磨の教説ではなく中国人にしか書けないものであると報告している[18]。さらに伊吹敦は『二入四行論』の作者は誰かという問題に挑み、慧可であろうと推定している[19]

 

影響

白隠慧鶴筆『達磨図』

達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗、曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。

 

禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。

 

達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは『福だるま』と呼ばれ縁起物として現在も親しまれている。

 

注・出典

^ 547年楊衒之撰。ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:洛陽伽藍記/卷一

^ 645年道宣撰。大正新脩大蔵経 T2060_.50.0551b27

^ 「南天竺」は「南インド」とされるが、現在のインドと完全に一致するわけではない。

^ 『菩提達磨大師略辨大乘入道四行觀 弟子曇琳序』に「法師者、西域南天竺國人、是婆羅門國王第三之子也。神慧疏朗、聞皆曉悟。志存摩訶衍道、故捨素隨緇、紹隆聖種。冥心虚寂、通鑒世事、内外俱明、コ超世表。」とある。ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:達摩四行觀(略称)

^ 『続高僧伝』巻第十六「菩提達摩。南天竺婆羅門種。神慧疎朗。聞皆曉悟。志存大乘冥心虚寂。通微徹數定學高之。悲此邊隅以法相導。初達宋境南越。末又北度至魏。隨其所止誨以禪教。」(大正新脩大蔵経 T2060_.50.0551b27 - c26

^ 第三巻 菩提達磨の条。ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:傳燈錄/03

^ こうし、カンチプラム。

^ 『続高僧伝』では「婆羅門種」となっていたのが「姓利帝」クシャトリヤの一族に変わる。

^ 『景徳伝燈録』第三巻に「 寓止於嵩山少林寺。面壁而坐,終曰默然,人莫之測。謂之壁觀婆羅門。 迄九年已,欲西返天竺。… 」とある。

^ 坐禅の定義

^ この伝説もまた、慧可と曇林が盗賊に臂を斬られたという唐高僧伝のエピソードからの潤色であろうと水野弘元などは指摘する。『菩提達摩の二入四行説と金剛三昧経』駒澤大學研究紀要 13, 33, 1955-03pdf p.49-50

^ 瑩山紹瑾『伝光録』第二十九章を参照。

^ 大川普済『五灯会元』より(上記の伝光録の記述とは矛盾する)。成尋『参天台五台山記』によると太和19年(495年)105日入滅であるが、それより後年にも活動していた記述があり、信憑性にはやや問題がある。

^ 道元『正法眼蔵』第二十五「渓声山色」、瑩山紹瑾『伝光録』第二十八章「菩提達磨章」を参照。

^ 影山純夫 『禅画を読む』 淡交社、20113月、18頁。ISBN 978-4-473-03726-8

^ 第三巻 菩提達磨伝の末尾に「後三歳、魏宋雲奉使西域回、遇師於葱嶺、見手攜只履、翩翩獨逝。雲問師何往。師曰「西天去。」又謂雲曰「汝主已厭世。」雲聞之茫然。別師東邁。既復命、即明帝已登遐矣。而孝莊即位、雲具奏其事。帝令壙。惟空棺一隻革履存焉」

^ 『禅の語録1 達磨の語録 二入四行論』(1969年)に収録。

^ 「『二入四行論』の成立について」 印度學佛教學研究 55(1), 127-134,1195, 2006 日本印度学仏教学会pdf

^ 「『二入四行論』の作者について--「曇林序」を中心に」東洋学論叢 (32), 204-185, 2007-03 東洋大学文学部pdf

 

 

 

鳩摩羅什

344 - 413年(または350 - 409年)

生地       亀茲国

没地       長安

          須利耶蘇摩

弟子       道生・僧肇・慧観・僧叡

著作       『大乗大義章』

鳩摩羅什(くまらじゅう、くもらじゅう、サンスクリット語: कुमारजीवKumārajīva、クマーラジーヴァ、344 - 413[1]、一説に350 - 409年とも)、亀茲国(きじこく[2][注釈 1])(新疆ウイグル自治区クチャ県)出身の西域僧、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧である[3]。最初の三蔵法師。のちに玄奘など、多くの三蔵法師が現れたが、鳩摩羅什は玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗・成実宗の基礎を築く。

 

漢名の鳩摩羅什(くまらじゅう)はサンスクリット名のクマーラジーヴァの音写である[1]。略称は羅什(らじゅう)または什(じゅう)。

 

 

略歴

350 インドの名門貴族出身でカシミール[4]生まれの鳩摩羅炎(クマーラヤーナ[5])を父に、亀茲国の王族であった耆婆[6](ジーヴァー[5])を母として亀茲国に生まれる。

356 母と共に出家。

360年代 仏教における学問の中心地であったカシミールに遊学[7]。原始経典や阿毘達磨仏教を学ぶ。カシュガルで12歳にして梵語の『転法輪経』を講じ、五明を学ぶ[7]

369 受具し、須利耶蘇摩(しゅりやそま、スーリヤソーマ)と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究。

384 亀茲国を攻略した前秦の呂光の捕虜となるも、軍師的位置にあって度々呂光を助ける。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。

401 後秦の姚興に迎えられて長安に移転。

402 姚興の意向で女性を受け入れて(女犯)破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事。

409 逝去。

臨終の直前に「我が所伝(訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)焚身ののちに舌焦爛せず」と言ったが、まさに外国の方法に随い火葬したところ、薪滅し姿形なくして、ただ舌だけが焼け残ったといわれる(『高僧伝』巻2)。

 

訳出した経典

鳩摩羅什訳による仏説阿弥陀経

『坐禅三昧経』3

『仏説阿弥陀経』1

『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻)

『妙法蓮華経』8

『維摩経』3

『大智度論』100

『中論』4

一部の経典において大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)、それ以前を古訳と呼ぶ。

 

著書

『大乗大義章』3 - 廬山の慧遠との問答集

弟子

道生・僧肇・慧観・僧叡の4人を四哲と称す。その他に、道融・曇影・慧厳・道恒・道常などを加えて十哲と称される(なお書により異説あり一致しない)。

 

 

 

 

面授の問題点

禅門では「面授嗣法」即ち一般に師が弟子に直接法を伝えることを重要視するが、曹洞宗では投子義青(10321083)の嗣法について問題視する考え方がある。

それは大陽警玄(9431027)には弟子がなく偶々臨済系の浮山法遠に皮履と直トツを与えて後事を託し、後に投子義青がこれを得て大陽警玄に嗣法したという禅宗史の問題である。

この嗣法の問題は中国文明の歴史観が深い影響を与えていると考えられる。

つまり中国文明の歴史観は司馬遷の『史記』に始まる「正統」の歴史観である(『歴史とはなにか』岡田英弘著・文春新書参照)が、この正統思想が中国においては禅宗史にまで影響を及ぼしたのではないかと思われる。