「煩悩即菩提」とは、欲望が真実であるということ。
煩悩とは人を煩わすという意味で欲望を指し、これが即ち菩提と一つであるという意味。
仮に人間に欲望がなくなったらどうなるか考えてみると、命がなくなることになる。
だから欲望とは人間が生きているという事実の裏側である、あるいは事実そのものである。
生きるという事そのもの、生命そのものもが欲望である。
「煩悩=菩提」、煩悩がそのまま悟りである、と考えられやすいが、これは誤解であり、間違いである。
天台本覚思想に過剰一般化すれば、現実の相対的二元論を忘れ、而二不二の考えを忘却し、本覚思想の絶対的一元論より「煩悩そのまま菩提」というように直接に肯定してしまうことになり、人々の愛欲や煩悩を増長し、退廃し、墮落することになるため、誤った解釈である。
あくまでも紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩があるからこそ苦を招き、その苦を脱するため菩提を求める心も生じる、菩提があるからこそ煩悩を見つめることもできる、というのが煩悩即菩提の正しい語意である。
多くの宗教が欲望は罪悪であるという。欲望は本来において避けるべきものであるけれども、人間はそれを避けることが出来ない。したがってそういう罪深い人間は神に対して謝罪しなければならない、あるいは許しを乞わなければならないという考え方が多くの宗教が欲望に対して持っている基本的な考え方だと言える。
ただ仏教はそういう考え方をとってはいない。
(しかし、浄土系の仏教思想ではキリト教的な欲望の考え方と非常に似た考え方をしている。が、親鸞の「正信念仏偈」には「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」と示される。この意味は「よく教えを信じて、一念(非常に短い時間)で喜びの心を起こすことができるならば、煩悩をなくさないままに、煩悩の支配を受けない涅槃という境地に至ることができる」である)
欲望の問題を考えていく場合にも、仏教の原則に従って四諦観でみると、
1苦諦(欲望をまずは罪悪視しないでありのままの欲望を見てみる)・
2集諦(欲望を勉強する)・
3滅諦(欲望には自然の限界がある)・
4道諦(限界の中の欲望は欲望ではなくなる)
という四段階で考えられる。
2・集諦の立場から欲望をどう考えるかというと「欲望を勉強する」。
例えば「正法眼蔵」の礼拝得髄の巻では、男女の平等という事が中心に取り上げられているわけです。その中に「おほよそ、鏡をみてはあきらむることをならふべし、おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行なり」という言葉があるわけです。
この意味は、一般的に言って、何らかの対象が自分の目の前に現れたならば、それがどう言う意味のものかを勉強してはっきりさせるという習慣をつける必要がある、怖がって逃げてばかりいる習慣をつける事は小乗仏教の人々のやり方であり、理論だけで仏教を勉強していこうという人々の教えであり行いであるということです。
ですから我々が人生を生きていく上において、何らかの新しい対象が出てきたならば、それの実体が何であるかという事を常に勉強しなければならない。
欲望とはどういうものかを実体として捉えてみる。
3・滅諦(欲望には自然の限界がある)の立場で考えるとどういう事になるか。
日常生活の中で欲望を考えていくと、欲望には自然の限界がある。
例えば非常に栄養価の高い美味しい食べ物があったとする。ただそれを胃袋の量の二倍、三倍食べると栄養になるかどうかというと必ずしも栄養にならない、体のためにいいかと言うと体のためによくない。
だからいかに栄養のある美味しい食べ物でも、それなりの限界があって、それを超えると欲望そのものが弊害をもたらすと、こういう事が我々の日常生活においてあるわけです。
ですから欲望の限界というものを知ってそれを超えない事が大事になってくる。
4・道諦の立場では「限界の中の欲望は欲望ではなくなる」。
たとえば朝食をとる時に日常生活の表現として「欲望が起きたから朝ごはんを食べた」という表現はしない。つまり朝飯を食べる事は欲望として我々はふつう受け取らないわけです。
科学的に考えれば確かに欲望ですが、ごく自然の中の欲望は欲望としての意味を持たないという問題がある。
欲望は自然の限界内においておけば別に問題にするに足りないほどごく自然な事実だという事になる。
ところがなぜ欲望が出てくるかというと押さえつけから出てくる、罪悪視して抑えつけるから、あるいはとり省こうとするから出てくるわけです。
その点では「正法眼蔵」の空華という巻にも、張拙秀才という人の作った詩の一節として
「欲望というものはほっておけば出てこないけれども、断ち切ろう取り除こうとするとさらに弊害が増大する」とある。
だから欲望の実体をよく見て、それをしっかり掴んでいれば何の問題もないわけですが、得てして欲望を取り除こう、押さえつけようという意思が働いて、そういう意思が働くと欲望というものがとてつもなく力の強いものになって大暴れするという問題があるわけです。
したがって「正法眼蔵」の空華という巻のところで道元禅師は
「煩悩かならず断除の法を帯せるなり」と言われているわけです。
これは、欲望は例外なしに断ち切ろう、取り除こうとすると現れてくる性質を持っている、という意味です。
これが果たして本当なのかどうかと日常生活の中で実際に勉強してみるとなるほど本当だという事実としてある。
道元禅師の師匠の天童如浄禅師は「正法眼蔵」家常の巻で
「お腹が空いたらご飯を食べる、疲れてきたら寝る、これが仏道の真実だ」と言われています。
こういう言葉を聞きますと「いやあ、そんなおかしい話はない。お腹がすいたらご飯を食べる、疲れたら寝るという事では動物と同じゃないか。人間はもっと人間らしくお腹が空いてもご飯を食べないで我慢をするという事がなければつまらない。眠くなっても寝たいのを我慢するというのが人間らしい」と、こういう考え方もあるわけです。
そういう点では、仏教の欲望に対する考え方は非常に大らかだと言えるわけです。
ただ欲望に対してこういう大らかな理解を持ち態度をとるという事は実は中々難しいこと。
釈尊が29才で出家されまして、それからある一時期、苦行という事を一所懸命やられた時代があるわけです。苦行をなぜやられたかといいますと、当時、釈尊はまだ仏道の真実に到達していなかったために「欲望とは罪悪視すべきものでありそれを絶滅することが修行の目標である」という考え方を持って一所懸命に苦行をされた。
そして他の修行者たちは苦行においても多少の妥協があったが、釈尊は妥協されない性格で徹底的に苦行をやられた。
したがって釈尊は、2度も3度も仮死状態になったと伝えられている。そういう激しい形で苦行をされた結果、釈尊は苦行というものが真実に到達する道ではないとはっきりわかったために、それから村の娘の捧げた羊の乳を飲んで、今度は苦行ではなしに普通の生活をしながら尼連禅河の畔で坐禅を始められたと、そういう経過がある。
ですから、今ほど申しました欲望に対する仏教の立場は釈尊が我々のために代わって苦行をされてその結果得られた結論だと言える。
そういう点では、欲望に関して仏教の立場からどう見るかということは大切な問題であり、それが仏教という思想を理解する上においても非常に重要な意味を持っている。
仏教における欲望とは
―西嶋先生の話―
今日は最初に欲望という問題について申し上げておきたいと思います。欲望という問題は非常にくだらんつまらない話の様でありますが、宗教に関連しては非常に大切な中心的な問題になるわけです。そしてまた仏教の欲望に対する考え方は他の宗教の欲望に対する考え方と少し違うという面があるわけです。ですから欲望の問題を仏教でどう考えているかという事がわかってきますと、仏教という宗教がどういう考え方を持っているかという事がわかりやすくなるという面もあります。
欲望の問題を考えていく場合にも、仏教の原則に従いまして
1苦諦(欲望を罪悪視しない)・
2集諦(欲望を勉強する)・
3滅諦(欲望には自然の限界がある)・
4道諦(限界の中の欲望は欲望ではなくなる)という四段階で考えていきます。
まず1・苦諦の立場で仏教が欲望をどう見ているかという事を考えてみたいと思います。苦諦とは頭で問題をどう考えるかという観点からの問題の取り上げ方になるわけです。その場合に仏教が欲望をどう考えているかと見てまいりますと、欲望を罪悪視しないという態度が仏教には基本的にあるわけです。
なぜそういう事が言えるかというと、仏教、特に大乗仏教の基本的な考え方の一つに「煩悩即菩提」という考え方があるわけです。この「煩悩即菩提」と言う考え方はどういう意味かというと、煩悩とは人間を煩わすという意味で主として欲望を指すわけです。即とはすなわちという事で煩悩が菩提と一つのものだと言う意味をあらわしているわけです。菩提とは仏教徒が一所懸命求めているところの真実という意味です。従って「煩悩即菩提」とは欲望が真実であると言う主張です。
それはどういう事を意味するかというと、我々の人生においては欲望がありますがその欲望をどう考えるかという問題について、仮に人間が欲望がなくなったらどうなるかという事を考えてみますと、命がなくなるという事でもあるわけです。ですから欲望とは人間が生きているという事実の裏側である、あるいは事実そのものである。生きるという事そのもの、生命そのものもが欲望だという考え方を「煩悩即菩提」という言葉で述べているわけです。
仏教の考え方は普通の宗教と欲望に対する考え方とかなり異なっているという事が言えるわけです。普通の宗教ではかなりの宗教が欲望というものは罪悪であるという。それは本来避けるべきものであるけれども、人間はそれを避けることが出来ない。したがってそういう罪深い人間は神に対して謝罪しなければならない、あるいは許しを乞わなければならないと、こういう考え方が普通の宗教が欲望に対して持っている基本的な考え方だと言えるわけです。
ただ仏教はそういう考え方をとってはいない。こういう事がまず最初の考え方としてあるわけです。しかしこの問題に関連して、仏教の中でもキリス教と非常に似た考え方をしておる流れがあるわけです。それはどういう流れの宗教かというと、浄土系の仏教思想ではキリト教的な欲望の考え方と非常に似た考え方をしておるという面があるわけです。ですからその点では逆に、浄土系の仏教思想というものは仏教思想本来の考え方とかなり性質が違っておると、こういう事が言えようかと思うわけです。
2・集諦の立場から欲望をどう考えるかというと「欲望を勉強する」という主張がみられるわけです。それはどういう事かというと、例えば「正法眼蔵」の礼拝得髄の巻では、男女の平等という事が中心に取り上げられているわけです。その中に「おほよそ、鏡をみてはあきらむることをならふべし、おぢてにぐるとのみならふは、小乗声聞の教行なり」という言葉があるわけです。
この言葉の意味は一般的に言って、何らかの対象が自分の目の前に現れたならば、それがどう言う意味のものかという事を勉強してはっきりさせるという習慣をつける必要がある、怖がって逃げてばかりいる習慣をつける事は小乗仏教の人々のやり方であり、理論だけで仏教を勉強していこうという人々の教えであり行いであると言われているわけです。ですから我々が人生を生きていく上において、何らかの新しい対象が出てきたならば、それの実体が何であるかという事を常に勉強しなければならん、仏教とはそういう思想であり主張であるという事が述べられています。
したがって集諦の立場から見るならば、欲望というものを勉強しなきゃならん、欲望とはどういうものかという事を実体として捉えなければならないと言う事が言えるわけです。そういう点ではスポ−ツ新聞にはそういう面の記事がたくさん出ておりますが、ああいうものを読めという事では決してない。なぜああいうものを読むことを意味しないかというと、ああいうところに書かれている知識や事実は非常に不確か非常にいいかげんだという事実があるわけです。
そう言ういいかげんな知識を頭におき、そういうものとして問題を理解していると現実をかえって見損なう恐れがある。そういう点では、もっと欲望の実体に即して勉強しなきゃならんと、こういう事が言えるわけです。
3・滅諦(欲望には自然の限界がある)の立場で考えるとどういう事になるか。日常生活の中で欲望というものを考えていくとどうなるかと言うと、欲望には自然の限界がある。これはどういう事かと言うと、例えば非常に栄養価の高い美味しい食べ物があったとする。ただそれを胃袋の量の二倍、三倍食べると栄養になるかどうかというと必ずしも栄養にならない、体のためにいいかと言うと体のためによくない。
だからいかに栄養のある美味しい食べ物と言えども、それなりの限界があって、それを超えると欲望そのものが弊害をもたらすと、こういう事が我々の日常生活においてあるわけです。ですから欲望の限界というものを知ってそれを超えないという事がかなり大事になってくるわけです。
4・道諦の立場では「限界の中の欲望は欲望ではなくなる」という問題があるわけです。これはどういう事かというと、たとえば朝ご飯を食べるという事があるわけですが、そういう場合に日常生活の表現として「欲望が起きたから朝ごはんを食べた」という表現はしないわけです。お昼になって昼ご飯を食べる時に「欲望が起きたから昼ご飯を食べました」という事はふつう言わない、という事は朝ご飯を食べる事、昼ご飯を食べる事は欲望として我々はふつう受け取らないわけです。
科学的に考えれば確かに欲望ですがごく自然の中の欲望は欲望としての意味を持たないと、こういう問題があるわけです。ですからそういう点では、欲望というものは自然の限界内においておけば別に問題にするに足りないほどごく自然な事実だと、こういう事になるわけです。ところがなぜ欲望が出てくるかというと押さえつけから出てくる、罪悪視して抑えつけるから、あるいはとり省こうとするから出てくると、こういう問題があるわけです。
その点では「正法眼蔵」の空華という巻にも、張拙秀才という人の作った詩の一節として「欲望というものはほっておけば出てこないけれども、断ち切ろう取り除こうとするとさらに弊害を増大する」とある。欲望にはこういう意味がある。だから欲望の実体をよく見て、それをしっかり掴んでいれば何の問題もないわけですが、得てして欲望を取り除こう、押さえつけようという意思が働いて、そういう意思が働くと欲望というものがとてつもなく力の強いものになって大暴れするという問題があるわけです。
したがって「正法眼蔵」の空華という巻のところで道元禅師は「煩悩かならず断除の法を帯せるなり」と言われているわけです。これは欲望は例外なしに断ち切ろう、取り除こうとすると現れてくる性質を持っているという意味です。そういう点ではこれが果たして本当なのかどうかというふうな問題については、我々の日常生活の中で実際に勉強してみるとなるほど本当だという事が事実としてあるという事が言えると思います。
道元禅師の師匠の天童如浄禅師は「正法眼蔵」家常の巻で「お腹が空いたらご飯を食べる、疲れてきたら寝る、これが仏道の真実だ」と言われています。こういう言葉を聞きますと「いやあ、そんなおかしい話はない。お腹がすいたらご飯を食べる、疲れたら寝るという事では動物と同じゃないか。人間はもっと人間らしくお腹が空いてもご飯を食べないで我慢をするという事がなければつまらない。眠くなっても寝たいのを我慢するというのが人間らしい」と、こういう考え方もあるわけです。
ですからそういう点では、仏教の欲望に対する考え方は非常に大らかだという事が言えるわけです。ただ欲望に対してこういう大らかな理解を持ち態度をとるという事は中々難しいこと。
釈尊が29才で出家されまして、それからある一時期、苦行という事を一所懸命やられた時代があるわけです。苦行をなぜやられたかといいますと、当時、釈尊はまだ仏道の真実に到達していなかったために「欲望とは罪悪視すべきものでありそれを絶滅することが修行の目標である」という考え方を持って一所懸命に苦行をされた。
そして他の修行者は多少は苦行においても妥協があったわけですが、釈尊は妥協されない性格でありましたから徹底的に苦行をやられた。したがって釈尊は、2度も3度も仮死状態になったと伝えられているわけです。そういう激しい形で苦行をされた結果、釈尊は苦行というものが真実に到達する道ではないとはっきりわかったために、それから村の娘の捧げた羊の乳を飲んで、今度は苦行ではなしに普通の生活をしながら尼連禅河の畔で坐禅を始められたと、そういう経過があるわけです。
ですから、今ほど申しました欲望に対する仏教の立場は釈尊が我々のために代わって苦行をされてその結果得られた結論だと、こういういことが言えるわけです。ですからそういう点では、欲望というものに関連しても、仏教の立場からどう見るかという事はかなり大切な問題でありまして、それが仏教という思想を理解する上においても非常に重要な意味を持っていると、こういう事が言えようかと思うわけです。