ブッダ最後のことば 佐々木閑
涅槃には悟りを開くことと、その悟りを開いた人が死ぬことの2つの意味がある。
輪廻を止めて涅槃に入ることこそが、仏教修行者にとっての究極の終着点である。
輪廻させるのは業kammaのエネルギーであるので、それを取り除かない限りは輪廻は止まらない。この業kammaのエネルギーを作り出す原因は、我々の心のなかにある煩悩である。
私見では、業kammaとはスクリュー型の回路であるので、ダンマdhammaの普遍エネルギーによってその回路が発動してしまうので、この業kammaをつくらないことが修行の第一段階である。
体が緊張する時にこの回路が作成されるので、できるだけ心身の緊張させずに穏やかに生きることで、これまでに作られた回路を弱体化させることが可能になる。
煩悩とは過去の体験により作り上げた自動反応回路のことで、これに操作されて私たちは生きているので、この回路が発動したことに気づいた時には、できるだけ心を落ち着かせ、そのような回路を作らざるを得なかった過去のTPOに寄り添い、今ここにあるTPOとは異なることを認識して、過去の回路に操作されることが、「いま・ここ」では不適切であることを納得する。
仏教とはなにか、と問われたなら、「ブッダ(仏)を信頼し、ブッダの教え(法)に従って暮らす修行者たちが、サンガ(僧)を作って誠実に修行生活を送っている状態です」と答えれば100点です。
私見では、ブッダを参考にして、ダンマdhammaという宇宙の法則のレベルに至るまで論理的に考え、サンガの中で試行錯誤を繰り返して自分の体験として実証する実践、のことです。
3つのアプローチ
特徴 |
他者の教えを拝聴 |
自分の論理性で追求 |
自分の体験で確証 |
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3つのアプローチ |
ブッダ |
ダンマdhamma |
サンガ |
デメリット |
形式主義 |
論理性の限界 |
TPOの過剰一般化 |
メリット |
指標 |
応用力の育成 |
実感 |
大乗仏教誕生の理由
ボーガ町での釈尊の説法
「比丘の文言を経典と律と比較対照し、一致しなければ「この者の誤解である」として拒否せよ。もし一致するならば、それをブッダの言葉として承認せよ」
しかし釈尊の死後400年後にインドでこの基準を適度にゆるめて「理屈が通っていることならばブッダの教えと考えて良い」と主張する一派が複数現れた。
これが大乗仏教。
釈尊の死因は食中毒
パーヴァ村へ移動したブッダはチュンダの家でたべたスーカラ・マダヴァで食中毒を引き起こした。
スーカラは豚、マッダヴァは柔らかいという意味。
これを毒キノコだと解釈する人もいる。
ブッダの最期のことば
もろもろのことがらは過ぎ去っていく。怠ることなく修行を完成せよ。
私見では、これでは修行の具体的内容がわからないままです。
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。』と。これが修行を続けてきたものへの最後のことばであった。
(中村元訳「ブッダ最後の旅―大パリニッパーナ経」)
原文は、
‘‘handa dāni, bhikkhave, āmantayāmi vo, vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethā’’ti.
です。
Mahāparinibbānasutta Dīgha Nikāya 16 大般涅槃経 英訳 The Great Discourse on the Buddha’s
Extinguishment 16.6.7
ポイントは「怠ることなく」と「修行」の解釈です。
この語句は表層的な理解だけではなく語源からの解釈によってその意味がより深く理解できます。
確かに日本語や英語の辞書には下記のように
appamāda:m. [a-pamāda] 不放逸 だらしないことがない 弛緩せずにnon-laxity
とありますが、pamādaは気づかない、注意しないという意味なのので、
appamādaは気づかない状況にならない、すなわち気づいている、注意している、ということになります。
釈尊の最後の言葉
怠らないは誤訳? 混同しないという解釈
釈尊の最後の言葉に『appamāda:不放逸(気づかない』という言葉が出てきます。
よく「怠らない」と訳されています。
Appamāda,[a + pamāda]
thoughtfulness,carefulness,conscientiousness,watchfulness,vigilance,earnestness,
Pamāda,[cp.Vedic pramāda,pa+mad] carelessness,negligence,indolence,remissness
これは「今の瞬間に気づいている状態(覚醒している状態)を維持する」という意味です。
換言すると、気づきをやめると、眼の前のことを混同して一般化して怠けてしまうので、そうしないようにする、ということです。
新たな信号が入ってくるとそちらに気が奪われてしまうと、関係のない2つを混同し始めます。
長い時間にわたって強く集中するのではなく、ただ瞬間瞬間に気づいていることで、
自我が成立する時空がなくなり、対象物をまとめて混同(一般化)することが少なくなり、
次第に自我という妄想も減り、無常を体感し続けることで、結ばれていた紐が次々と解けて、
ありのままを知る(覚る)ことになります。
釈尊は最後の最後まで sati の実践に励むことを説かれていました。
同じ言葉でも瞑想者用語と日常生活用語では意味には違いがあり、瞑想者のいう「混同しない」というのは、
過去に学習した想蘊や出来上がった行蘊に依存して生活することも「混同して怠けている」ことになります。
218-2.
‘‘handa dāni, bhikkhave, āmantayāmi vo, vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethā’’ti.
訳文
「さあ、比丘たちよ、私はあなたたちに告げます。諸行は衰亡の性質あるものです。不放逸にてつとめなさい」と。
語 |
語根 |
品詞 |
語基 |
性 |
数 |
格 |
意味 |
‘‘handa |
|
不変 |
‐ |
‐ |
‐ |
‐ |
いざ |
dāni, |
|
不変 |
‐ |
‐ |
‐ |
‐ |
いま |
bhikkhave, |
bhikṣ |
名 |
u |
男 |
複 |
呼 |
比丘 |
述語 |
語根 |
品詞 |
活用 |
態 |
数 |
人称 |
意味 |
āmantayāmi |
|
動 |
ア |
能 |
単 |
一 |
呼びかける、話す、相談する |
vo, |
|
代 |
代的 |
‐ |
複 |
与 |
あなたたち |
vaya |
|
名 |
a |
男 |
有(属) |
衰、衰亡、消亡、壊 |
|
dhammā |
dhṛ |
名 |
a |
男中 |
複 |
主 |
法 |
saṅkhārā |
saṃ-kṛ |
名 |
a |
男 |
複 |
主 |
行、為作、現象 |
appamādena |
a-pra-mad |
名 |
a |
男 |
単 |
具 |
不放逸 |
述語 |
語根 |
品詞 |
活用 |
態 |
数 |
人称 |
意味 |
sampādethā’’ |
saṃ-pad 使 |
動 |
願 |
能 |
複 |
二 |
得る、完遂する、現生する、つとめる |
ti. |
|
不変 |
‐ |
‐ |
‐ |
‐ |
と、といって、かく、このように、ゆえに |
この世界のすべてはdhammāすなわちエネルギーによって成り立っています。
sankhāraもdhammāであり、vaya衰滅するdhammā、つまり終焉につながる(つまり、悪い結果につながる)だけです。
釈尊の肉体もsankhāraであり、いま、エネルギーがなくなりかけています。
「vaya」は破壊を意味します。ここでは、自分の未来を破壊することを意味します。
saṅkhāra とはvaya dhammāなのです。
したがって釈尊は「sanを混同せずに整理して見極め気づいているように」と指示しました
ブッダ最後の言葉「不放逸」について アッパマーダ(appamâda)とは
ブッダは、悟りを開いたのち45年もの間、ブッダを慕ったもの、あるいは救いを求めて集まってきた人々に語り続ける。自己の悟りを唯一の支え(自洲法洲、自灯明法灯明)として、他者が、あらゆる生き物が、苦しみから解き放たれてほしい(慈悲)と布教(転法輪)する。後の仏教徒は、それを「大悲」と呼ぶ。
ブッダ最後の言葉――自らの死期を知ったブッダが涅槃の床にあって、そばで悲しむ弟子たちに言い残した最後の言葉。この句を残して、ブッダは「不動」にして「寂静」なる定に入られた。(大般涅槃だいはつねはん)
「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。』と。これが修行を続けてきたものへの最後のことばであった。
(中村元訳「ブッダ最後の旅―大パリニッパーナ経」)
「汝ら、まさに知るべし。一切の所行は、みなことごとく無常なり。わが身、これを金剛の体といえども、またまた、無常の所遷を免れず。生死の中、きわめておそるべしとなす。汝ら、宜しく、まさに勤めて精進を行い、すみやかにこの生死の火坑を離るることを求むべし。これすなはち是は、我が最後の教えなり。」 (大正蔵七番『大般涅槃経』)
「比丘らよ、放逸を為すなかれ。我は不放逸を以っての故に、自ら正覚に到れり。無量の衆善も亦、不放逸に由りて得らる。一切万物に常在なる者なし。此れは是れ、如来末後の諸説なり。
(大正蔵一番『長阿含経』「遊行経」)
「動物・静物のすべては滅する。それゆえ、汝らはよく注意深くあれ。(私が)涅槃すべき時がやってきた。汝ら、言うことなかれ。これが最後の言葉である。」
(御牧克己 訳『ブッダチャリタ』・・・古典チベット語翻訳)
「精進こそ不死の道 放逸こそは死の道なり/ いそしみはげむ者は 死することなく/ 放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるなり/ 明らかに この理を知って いそしみはげむ 賢き人らは/ 精進の中に こころよろこび/ 聖者の心境に こころたのしむ 」 (法句経ダンマパダ)
「解脱したいと欲する人々は、けっして放逸であってはならない。」
ad. 400年 (『倶舎論』ヴァスバンドゥ)
では、「放逸」とはどうなることなのだろう。
放逸とは、悪を防ぎ善を修することに対してだらしなく、精進を怠ることである。懈怠と似ているが、放逸は、懈怠および貪・瞋・癡の三不善根の上に、悪を防がず、善を修せざる状態に対して、特に指摘されるものである。 (wiki)
不放逸とは、仏道=appamâdaを行すること。初期仏教では、苦しみをなくす方法。苦しみはこころの汚れ(煩悩)があるから生まれる。だから、こころの汚れを断つための手段はまとめてappamâda なのである。
布施をしたり、他に親切にしたりする当たり前の行為も、戒律を守ったり道徳を重んじることも、冥想することもappamâda。悟るための努力がappamâdaである。
(日本テーラワーダ仏教教会)
「不放逸」はパーリ語でアッパマーダ(appamâda)という。現代シンハラ語では、「アッパラマーデするな」というのは、「遅くなるな、早くしなさい」という意味。例えば、待ち合わせで「待たせるな」というときも、「アッパラマーデ」という。一生懸命頑張るという意味解釈はないらしい。
アッパマーダ(appamâda)の解釈は出家者と在家者とでは異なるものになる。
ブッダの直弟子の多くは、すでに出家し修行生活を送り、「もはや再び生まれ変わって、輪廻の苦しみを受けることはない」阿羅漢や不還者であったので、彼らにとっての「appamâda不放逸」とは行を実践することを意味する。
在家者にとっては、釈尊が生きながらえることに執着すること(放逸)の無意味さに気づき、するべきこととせざるべきことを混同しないことを意味する。
要するに、ブッダがいなくなっても、生身の体に執着して、ブッダの死に惑わされたり、悲しみに打ちひしがれ、不注意にも感情におぼれ、心が放逸となり、いままで続けてきた、世欲を離れて清浄な修行生活を途絶えさせてしまわないように、注意深く怠ることなく、それぞれの得た覚知を実現して、やがてはブッダと同じ涅槃に入るのだという意思を堅持して、精進し続けなさいという遺言である。
もう一つの大事なテーマはsampādethā
これをどう解釈するかである。
修行と訳するとあまりにも大雑把でその内容が何であるのかかがわからない。
一般的な日本の辞書では
sampādeti:[sampajjati の caus.] 得る,完遂す,現成す,努める
sampādeti:[saṃ + pad + e] tries to accomplish
とあるが、
ミャンマー語やシンハラ語の辞書では、
sampādeti:[saṃ + pad + e] [sampajjati の caus.] pajjati:[Sk.padyate<pad] 歩く,行く
sampādethā とはsan余分なもの+pādēta向かっている、移動する、歩く
sanに向かっている、つまり足されたもの(貪瞋痴)に気づいている、という意味になります。
それから「san」「pādēta」は「sampādēta」と韻を踏みます。
Dīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta経蔵長部第16経大般涅槃経『南伝大蔵経』第7巻144頁
以上のことから、ブッダの最期のことばの解釈は
「この世のエネルギー(つまりこの体)が崩壊していきます、サンカーラによってできたものだからです。
(ですから私の心身への想いに執着することなく)、混同することなく、san(余分なモノ、つまり貪瞋痴)に向き合って整理していってくださいね」
Sampajannaとはaniccaの深い理解を中断させないこと Satisutta SN47.35 念経 英訳Mindful
Samyutta Nikaya 3.5.401
Sampajannaとは、肉体と心(特に感覚vedanā)が変化し続ける性質であることを理解し、その明確な理解を継続することです。
感覚vedanaは体で感じられますが、それはマインドの一部であり、感覚の観察とはマインドと物質現象の観察のことです。
感覚は物質と物質が接触した時と、物質とマインドが接触したときに起こります。
たとえば、腕にボールが当たった時、たとえば、ボールが当たったところが泥で白い服が汚れたのを見た時です。
またvedanaとは身体の感覚であると釈尊は指摘しています。
大乗仏教の「涅槃経」
如来常住、釈尊が涅槃に行ったのは方便で、常住不変の超越的在り方でこの世にあることを主張する。
般若経や法華経も、ブッダはいつの世にも我々と共にあることを説く。
シンプルな自己鍛錬の修行集団から信仰の教団へと修正された時に、修行できなくても誰もが救われる方法を説き、永遠の命を持つブッダと理想化して、その超人的パワーにすがることで容易にブッダになることができる。
文献的には「如来蔵経」だが、歴史的影響では涅槃経。
一切衆生悉有仏性の起源が大乗涅槃経
ブッダは私たちの一人ひとりの内側にいるので、私たち自身が本来ブッダである、という主張。
このブッダの本性を仏性という。
私たちは煩悩まみれの暮らしでもがいているが、条件が整えばブッダになれる。
条件とは日々の規律を守り、仏性があることを革新して暮らすこと。
ある神父さんのHPに、『聖書の中に「思い出す」という言葉が出てきます。ギリシャ語で「アナムネーシス」と言うらしい。これは、「想起する」とも訳されていて、哲学者のプラトンなども使っている。善や美のイデアを、人は忘れている。それを「想起する」のだと。聖書で、この言葉が出て来るのが、あの「最後の晩餐」の話である。十字架につけられる前の最後の夜の食事。イエスはみんなに、パンとぶどう酒を配って、こう言われた。「私を思い出す(記念する)ため、このように行いなさい。(コリント11章) パンとぶどう酒をいただく時に、その目の前に、ありありとイエスさまがいるような気がします。私たちも最後の晩餐をイエスさまとともにいるような気持ちになります。』とあった。
キリスト教の追体験である「アナムネーシス」ではないが、釈尊の死を前に、いま比丘たちがなさねばならないことは、嘆き悲しむことではなく、遅れることなく自分も釈尊のように完全なる涅槃に入れるように「努める」ことなのである。
のちに、大乗が芽生え、涅槃への道として「慈悲」「他利」が芽生え、「如来蔵」から、密教に発展し、弘法大師空海が真言密教で唱える「山川草木悉皆成仏」、すべてのものに仏性があるという理念にいたり、衆生もまた「解脱」できるものとなり、また新たに「不放逸」の意味合いを解釈することになる。