なぜサーキャ共和国は滅ぼされたのか
(以下の記事は、2003 年 12 月にヴィパッサナー研究所が発行した S. N. ゴエンカ師によるヒンディー語の記事を翻訳・編集したものです。)
サーキャ国とコーリヤ国はロヒニー河の両岸に建てられた共和国でした。2 つの国の支配者層はラージャーとよばれ、ラージャーの長はマハーラージャーとよばれていました。マハーラージャーは国内の行政問題については自治権を持っていましたが、ヴェーサーリー (毘舎離Vesālī古代インドの十六大国の1つヴァッジ国内にあった商業都市,リッチャヴィ族(離車族)の住んでいた地域で、自治制・共和制がしかれ、通商貿易が盛んで、自由を尊ぶ精神的雰囲気があったと言われている)のような完全な独立国ではありませんでした。両国とも隣国のコーサラ王国の属国だったからです。 サーキャ族とコーリヤ族はともに、太陽王朝のアーディッチャ(イクシュヴァークIkṣvāku甘蔗王)族のクシャトリアでした。彼らと同じクシャトリア階級の王族はその地域にはほかにいなかったため、両国は双方の王族の間で婚姻を繰り返してきました。双方とも王族の血統の純粋さをとても誇りにしており、古くから血族結婚の伝統を守ってきました。たとえば、スッドーダナの父方の叔母はコーリヤ国の支配者であるアンジャナと結婚しました。彼らの2人の娘のマハーマーヤーとマハーパジャーパティ・ゴータミーは、サーキャ族の長であるスッドーダナに嫁ぎました。同様に、アンジャナの息子スッパブッダの娘ヤショーダラは、サーキャ族の王子シッダッタに嫁ぎました。このように 2 つの王族は、母方・父方のいとこ同士での婚姻というつながりで、古くから関係を保ち続けていたのです。このような近い血のつながりにもかかわらず、ときには両王族の間に不和が生じ、それが あからさまな敵意に発展することもありました。 両国の伝統的な産業は農業でした。壮大なヒマラヤのふもとの丘陵に位置するタラーイー地方の平原はとても肥沃でした。ロヒニー河はヒマラヤの豊富な水をもたらし、両国の農地を潤しました。おかげで、両国の人民はとても豊かな暮らしをしていました。 当初は、サーキャ国とコーリヤ国の人口はどちらも少なかったので、ロヒニー河の水は農業には十分でした。しかし、時を経るにつれて、人口の増大にともない、周辺の森林が農 地として開墾されるようになりました。河の水は高まる需要を十分に満たせなくなったのです。水不足はすぐに 2 国の対立の原因となりました。 河の両岸の人々は「水を必要以上に使用している」とお互いを非難しました。水の分配についての新しい協約を結びましたが、それは何度も破られました。 人口が増大し続けるにつれて、新しく開拓された農地も増えたために、コーリヤ人もサーキャ人も、ロヒニー河の上流でしか必要な水を得られなくなりました。ロヒニー河がサー キャ国とコーリヤ国の首都に至るときには、わずかの水量しか残っていませんでした。両国は協力してダムを建設しましたが、夏には水位がとても低くなりました。 ブッダの生きていた時代にある危機がおきました。5月のことです。河の水位はとても低く、両岸の農地は夏の暑さで乾ききっていました。十分な水がないと作物は枯れてしまいます。 ダムにはわずかな水しか残っていなかったため、片岸の農地しか灌漑することができませ ん。もう一方の作物は枯れてしまうことになります。 もしダムの水を均等に分配すれば、水が十分に供給されず、両岸の作物がしおれてしまい ます。水を片方の農地の灌漑だけに使えば、少なくとも片方の作物は守ることができます。 そのため、サーキャ国とコーリヤ国の農夫たちは、貯水池のわずかな水をどう分けるかを 議論しました。どちらも、自分たちの作物を守って、対岸の農夫たちが収穫の分け前を乞うべきだと主張しました。双方ともに自尊心が強かったため、対岸に分け前を乞うことには耐えられませんでした。ほどなく口論は激しくなり、暴言の応酬、そして殴り合いにまで悪化する始末でした。農夫たちは対岸の地主を侮辱し、やがては相手国の支配者の先祖 たちについても暴言を吐くようになりました。 暴言の応酬について、一部の農夫が農地の地主に報告しました。自分の先祖が侮辱されていると聞いて、両岸の農夫らの対立は深まるばかりでした。 争いのことは、サーキャ国とコーリヤ国の大臣に、そして王子や王の耳にも届きました。 両国の若い王子は、自分の祖先が罵られているとの説明を受けて激怒し、祖先への侮辱の 仕返しをすることを胸に誓いました。王子たちは燃え上がる怒りのままに、全身武装して 河岸に集まり、対岸に戦いを挑みました。状況は緊迫しており、流血は避けられそうにありませんでした。 対立の勃発を知ったブッダは、その場所に自ら赴きました。両国の王族である偉大で高名なその人を前にして、両軍の兵士たちは深く困惑してしまいました。みな武器を置き、ブッダに敬意を表しました。それがブッダに敬意を表す当時の伝統的な作法でした。 コーサラ国のパセーナディ王が表敬でブッダのもとに訪れたときも、いつも、王家の印が刻まれた剣、ターバン、扇子、日傘、履物を付き人に預けてからブッダの部屋に入ったのです。 ブッダは河岸の広場に用意された椅子に腰掛けました。サーキャ人もコーリヤ人も、ブッダに敬意を表し、ブッダの前にうやうやしく座りました。「みなさんの血は河の水よりもはるかに貴重です。無益な血を流してはいけません。平和裏に水を共有する方法を見つけるのです」と、ブッダは説きました。ブッダは慈悲に満ちた調停者でした。ささいな物質的利益のために人命が奪われるのは道理に適っていないと考えました。
スッタ・ニパータ(アッタカター)2.362、サンマーパリッバージャニーヤスッタヴァンナナー
強大な隣のコーサラ国と比べて、サーキャ国とコーリヤ国はあまりに弱小でした。すでに 国家の主権はコーサラ国に明け渡しています。互いにいがみ合っていれば、今度は自治権すら失いかねません。 サーキャ族とコーリヤ族が争えば、両方とも滅亡するでしょう。両族が結束すれば、力が合わさって両国とも強くなるでしょう。コーサラ国の支配者は優位に立てずに、これ以上の干渉はできません。それどころか、結束し続ければ、コーサラ国の支配から完全に自由 になれる可能性すら大いにあります。このことを念頭に、ブッダは結束し続けることの有益性を説きました。 ブッダは、対立が激化したのは誤解によるものだと理解しました。農地で働いていた農夫たちが対岸のラージャーの祖先を侮辱しました。しかし、ラージャーは対岸のラージャーが自分たちの祖先を侮辱したのだと知らされたのです。もしいい加減な農夫たちに落ち度があることが両岸のラージャーにわかっていたなら、流血の寸前まで至ることなく、農夫たちを叱責するだけで一件落着していたでしょう。両国の結束は依然として保たれていたはずです。 この状況を念頭に置き、ブッダはジャータカ物語を語りはじめました。ときには、物語の力を借りた方が問題を明らかにしやすいことがあるのです。そのため、ドゥッドゥバ・ジ ャータカの物語をとおして、いかに無明な者が盲信の餌食になって自分自身を苦しめるか を説きました。知恵ある者は一方で、みずから真実を見極め、自分自身を害から守ります。
ドゥッドゥバ・ジャータカ
このジャータカによると、野ウサギがベルの木の下で休んでいました。すると、熟したベルの果実が近くの地面に突然落ちました。果実が地面を打つ音を聞いた野ウサギはパニックになりました。空が裂け、いまにも大地が壊れると思ったのです。恐怖のあまり、野ウサギはその場から逃げ出しました。逃げる途中で会うすべての動物に、空が裂け、今にも大地が壊れると言いました。ほかの野ウサギから、シカ、ブタ、カモシカ、バッファロー、 ウシ、トラ、ゾウに至るまで、この話を聞いたものはみな盲目的に信じこんでパニックになり、逃げ出しました。このまま恐怖におびえて逃げ続けたなら、みな森から出て目の前の海に落ち、溺れ死んでしまったことでしょう。 危険な光景を目の当たりにしたジャングルの王ライオンは、動物たちの突進を制止して忠告しました。「どうしたのだ?野ウサギが大地の壊れる音を聞いた場所に行ってみよう。」 動物たちはみな、野ウサギと一緒に野ウサギが休んでいた場所に行きました。ベルの果実が落ちているのをみて、真実に気づき、みな胸をなでおろしました。 うわさを盲信して考えることなく反応すると、大きな災いをもたらします。このことを説いて、ブッダは次のように言いました。
Appatvā padaviññāṇaṃ, paraghosānusārino; Panādaparamā bālā, te honti parapattiyā
真実を自分で確かめずに他人の言葉を受け入れ、それに妄信的に従う者は、軽率で愚かである。
ジャータカ 1.4.322、ドゥッドゥバ・ジャータカ、
愚かな農夫たちが罵り合ったことが、地主、大臣、貴族、ラージャー、そして頭に血がの ぼった王子の耳に届いたときにはすでに、みな判断を見失っていて、自滅する覚悟ができていた、とブッダは説きました。事実を冷静に確かめていれば、農夫たちを叱責し、争いはすぐさま収まっていたでしょう。
サーキャ族の大虐殺
サーキャ族の大君主であるコーサラ国のパセーナディ王はクシャトリアでした。しかし、 太陽王朝のアーディッチャ(日種族)出身のサーキャ族の方が高いカーストだとみなされていました。 サーキャ族は自分たちのカーストの高さをとても誇っていました。サーキャ族は、パセー ナディ王は自分たちの支配者であっても低いカーストだとみなしていました。このことは パセーナディ王の大きな悩みの種でした。サーキャ族がカーストを誇っていることは容認できませんでしたが、どうすることもできませんでした。サーキャ国を制圧したものの、 社会に深く根づいたカースト制度をなきものにすることは不可能でした。 王はある方法を思いつきました。パセーナディ王の後宮には高いカーストの王妃がいませんでした。それで、サーキャ族の王女と結婚して正室に迎えるという上手い戦略を思いついたのです。そうすれば、王女の息子は一族の王子になります。王子が王位を継承すると、 王子とその子孫は母方の血統から、高いカーストのクシャトリアとみなされるようになります。そうすれば、サーキャ族はコーサラの王族よりも身分が高いと言い張ることができなくなります。 それに加え、もうひとつ出来事が起きました。何百ものビック(僧侶)がアナータピンディカ(コーサラ国の大臣も務めた長者。 本名はスダッタ(須達)、チューラ・アナータピンディカ、ヴィサーカー(鹿子母講堂を僧団に寄進)、そしてスッパヴァーサー(コーリヤ族の優婆夷)の家々に赴き、施しの食べものを受け取るのを、パセーナディ王は見ていたのです。王もビックに 施しを提供したいと思い、毎日 500 人のビックを来させるようにブッダに頼みました。
ビックたちは施しの食べ物を受け取るために王宮に行きましたが、数日後には行くのをやめてしまいました。ほかの在家信者がいる場所では、多くの喜捨者は自ら姿を現し、僧侶を座らせてから、うやうやしく施しの食べ物を捧げます。王宮ではそうはいきません。王は忙しいので、毎日ビックらを歓迎することはとうてい不可能でした。宮殿にいる王妃たちも、この責務を十分に果たすことができません。それで、ビックたちは宮殿に行くのをやめてしまったのです。そこで、パセーナディ王は「サーキャ族の姫を自分の王宮の正室の座につけるべく育てれば、ブッダと同じサーキャ族出身の王妃は、喜んで招待したビックを歓迎して手厚くもてなすだろう」と考えました。そうすれば、ビックは毎日宮殿に施しの食べ物を求めてやってくるでしょう。
ダンマパダ アッタカター 1.46、ヴィタトゥーバヴァットゥ
パセーナディ王はこのように考え、サーキャ族の王子たちにサーキャ族の王女との結婚を仲立ちするよう通達を送りました。この通達はサーキャ国に混乱を引き起こしました。パセーナディ王はサーキャ共和国の君主であり、力のある軍人でもあります。サーキャ族がその要求を断れば、怒りを買うでしょう。パセーナディの王国は広大で強力な軍隊を持っています。侵攻されればサーキャ国は総崩れになり、領内の内政の自治権すら失ってしまうでしょう。サーキャ族は過去に同じような忌まわしい出来事があったことをつぶさに覚えています。コーサラ国の君主の要求を断れば、歴史は繰り返し、恐ろしいことになるでしょう。二度と国が崩壊するのを見たくはありません。とはいえ、パセーナディ王の通告を受け入れることもできませんでした。「サーキャ族の王女をどうして彼王に嫁がせることができようか?彼王は低いカーストのクシャトリアだ」サーキャ族のカーストの誇りは高く、このような侮辱を承諾することはできなかったのです。 そこで、サーキャ族は一同に集まり、この危機について議論しました。熟考と協議を重ねた上で、ヴァーサバカッティヤーというマハーナーマの奴隷の娘をサーキャ族の王女と偽ってパセーナディ王に嫁がせることを決めました。サーキャ一族はヴァーサバカッティヤーの出自については今後いっさい秘密にしておくことも決めました。ヴァーサバカッティヤーがマハーナーマと一緒に同じ皿で食事しているとパセーナディ王の特使団に信じこませることで、どうにか彼女が正統なサーキャ族の王女であると納得させることができました。特使団はまんまと騙されたのです。 ヴァーサバカッティヤーはパセーナディ王に嫁ぎ、正室になりました。しばらくして王妃はヴィタトゥーバという男の子を産みました。やがて男の子は成長すると、母方の祖父の宮殿に連れていくように母にせがむようになりました。王子の友達が母方の叔父に関する興味深い話をしたり、彼らから贈られた品々を見せたりしたのです。王子は母方の親戚に会って贈り物をもらいたいとしきりにせがみました。しかし、ヴァーサバカッティヤーは、いつも何かと言い訳をして会いに行こうとしませんでした。パセーナディ王が自分の出生の秘密を知ったら悲惨な結末になることがよくわかっていたのです。 ヴィタトゥーバは16歳のとき、母が付き添わなくても母方の祖父を訪ねる、と主張しました。ヴァーサバカッティヤーは、ヴィタトゥーバがカピラヴァットゥを訪ねようとしているという情報をマハーナーマに知らせました。
何としても謀略が明るみにならないように 王子をきちんともてなす必要があったのです。サーキャの王族はこの状況に巧妙に対応しました。王子をたいそう歓迎し、国賓級の手厚いもてなしをしました。その一方で、年か さの王子たちならヴィタトゥーバが挨拶したときに敬礼をかえさなくてもいいだろうと考 えて、ヴィタトゥーバよりも若い王子たちをなんらかの口実をつけて前もって王都の外に行かせました。 ヴィタトゥーバは豪華なもてなしにたいそう満足してサーヴァッティに戻りました。帰り道の途中、付き添いの従者のひとりが王子が剣を忘れてきたことに気づき、取りに戻りま した。そこで従者は、ヴィタトゥーバが食事をした座が薄めたミルクで洗われている光景を目の当たりにし、目を疑いました。席を洗っている奴隷の少女は、奴隷の女ヴァーサバ カッティヤーの息子ヴィタトゥーバが王の席に座って穢してしまったことを、声高に罵っていました。それで、席を清めるにはミルクで洗う必要があったのです。少女はその余計な仕事をさせられていました。 従者がヴァーサバカッティヤーの秘密の一部始終をその少女から聞き、ヴィタトゥーバに伝えました。これを聞いたヴィタトゥーバの心には復讐の炎が燃え上がりました。王位を継承したらすぐに、自分たちのカーストに驕り高ぶっているサーキャ族の王子たちを皆殺しにすることを誓いました。彼らがミルクで洗った席を、今度は王子たちの血で洗うことを心に誓ったのです。 サーヴァッティに戻ると、ヴァーサバカッティヤーの出生の秘密は明らかにされました。 パセーナディ王は怒りにふるえました。王は、ヴァーサバカッティヤーとヴィタトゥーバに与えられていた王族の位と特権を剥奪しました。2 人には、普通の奴隷に許される地位と権限だけを与えました。ヴィタトゥーバの中に燃えさかる復讐の炎はいっそう強さを増しました。このことを知ったブッダは、パセーナディ王にカーストに基づく地位の高低を重視しないよう強く説得しました。カッタハーリ・ジャータカの例を引用して、王に嫁いだ少女はたとえ木こりの娘であっても女王になれると説いたのです。ジャータカに出てくるカッタハーリ王のように、彼女から生まれた息子は王位継承者です。
ジャータカ 1.1.7 カッタハーリ・ジャータカ
カーストが王位継承とどんな関係があるのでしょうか?ヴァーサバカッティヤーは王の妻であって、奴隷ではありません。ヴィタトゥーバは王の嫡男です。彼をどうしてカーストが低いとみなす必要があるでしょうか?パセーナディ王はブッダの言葉に怒りを和らげ、ヴァーサバカッティヤーとヴィタトゥーバに以前の王族の位と特権を再び与えました。 ところが、ヴィタトゥーバの心に燃える復讐の炎は消え去ったわけではありませんでした。 彼は兵隊の長であるディーガ・カーラーヤナと密かに謀略を練り、機会を得るとすぐさま 王位を強奪したのです。パセーナディ王は命からがら逃げ出し、義理の息子のアジャータサットゥの助けを求めてラージャガハに向かいました。街に到着したときには、夜も遅く、街の門はすでに閉まっていました。門が開くのを待っているあいだに、パセーナディ王は門の外で夜明けに息を引き取りました。これで、ヴィタトゥーバが王位継承権を主張するにあたって、障壁はなくなりました。復讐の念を燃やし、大軍を引き連れてカピラヴァットゥに進軍しました。 ブッダは突撃が目前であることを知って、カピラヴァットゥの郊外に向かい、午後の熱い日差しの中、枝に葉のない木の下に座りました。ヴィタトゥーバはブッダを見つけると困惑してしまいました。ブッダのおかげで彼と彼の母親は王宮で王族の地位を取り戻すことができたからです。それでも、彼は尋ねました。「あなたのような高貴な方がサーキャ国の辺境のこのような裸の木の下に座っておられるのはどうしたことか?高貴な方よ、我々の 領内にあるバンヤンの木陰で座られよ。」ブッダは答えました。「偉大な王よ、親族から与えられた木陰の方が涼しいのです。」ヴィタトゥーバにはブッダがサーキャ国を守るために そこに座っていることがわかりました。そこで、軍隊を撤収させ王都に戻りました。数日後、ヴィタトゥーバはまた遠征隊を引き連れてサーキャ国に向かいました。やはりブ ッダはそこに座っており、引き返すしかありませんでした。3 回目も同じでした。 4 回目、ヴィタトゥーバは怒りが極限に達したまま、また出発しました。今回はサーキャ族 から受けた恥辱を晴らすまでは誰にも翻意されないと心に誓っていました。ブッダは彼の心中を理解し、いよいよサーキャ族が過去の過ちの報いを受けるときがやってきたことも知りました。そのため、ブッダは調停しませんでした。 ヴィタトゥーバは兵士たちに、マハーナーマの宮殿のサーキャ人たちは殺さないように命じました。ほかの人々はみな、無慈悲に虐殺されました。無残な屠殺のあとで、彼はマハーナーマとその家族を引き連れてサーヴァッティに戻りました。翌朝、彼はマハーナーマに朝食を共にするように命じました。おそらく、カーストを誇るマハーナーマとその家族を連れてきたのは、同じ皿で食事をすることを強要するためだったのでしょう。マハーナ ーマはそうしたくありませんでした。食事の前に近くの湖で沐浴をしたいとその場を言い逃れました。そして湖に飛び込んだきり、浮かび上がることはありませんでした。ヴィタトゥーバはサーヴァッティへの帰路を進み続け、日没頃にアチラヴァティー河に到着しました。彼とその軍隊は河岸で宿営し、一夜を過ごしました。眠っている間に、鉄砲水に襲われて、ヴィタトゥーバと多くの兵士たちが洪水に流されて死んでしまいました。
ダンマパダ アッタカター 1.46、ヴィタトゥーバヴァットゥ
マハーナーマの家族らがどうなったかについては歴史の記録がありません。何人かは南方のヴェディサーギリに逃れたはずです。彼らは商人になり、後に、彼らの子孫であるサキャクマリー・ヴェディサーデヴィーという娘はアショーカ王が皇帝になる前の最初の妻になりました。 カピラヴァットゥでのヴィタトゥーバの軍による大虐殺のあいだ、サーキャ族の一部の人々は難を逃れることができました。サーキャ国は完全に滅ぼされたわけではなかったのです。大虐殺の数日後、ブッダはクシナーラーでパリニッバーナ(訳注:悟りを開いた人の死)に至りました。カピラヴァットゥのサーキャ人とラーマガーマのコーリヤ人はブッダの遺骨を一部ずつ求め、それぞれの都の巨大なストゥーパに祭りました。
ディーガニカーヤ 2.239、マハーパリニッバーナ スッタ
これはヴィタトゥーバがサーキャ族の多くを殺したのは間違いないものの、全員を根絶やしにしたわけではないことの証左です。 これらの出来事を考慮に入れて、ブッダの教えのせいでサーキャ国が滅亡したという疑いが史実に基づくものかどうかを検証しましょう。 ひとつ重要なことは、サーキャ国が巨大なコーサラ帝国に比べてとても小さかったということです。ヴィタトゥーバの軍隊による大虐殺の直前に、500 人ものサーキャ族とコーリヤ族の王子が出家していました。それよりも前に、サーキャ族とコーリヤ族の一部の若者た ちが俗世を捨てていました。これによって両国の軍隊の相対的な力に実質的な違いが生じることはなかったはずです。仮に 500人の王子が出家していなくても、コーサラの軍隊はサーキャ国を十分に滅ぼすことができたでしょう。 もっと重要なことは、サーキャ国がヴァッジ国のような完全な独立国ではなかったということです。コーサラ王国のひとつの州に過ぎませんでした。ティピタカにはサーキャ国がコーサラ王国の一部であることを示す記述がいくつもあります。 ゴータマ・シッダッタが究極の真実を求めて出家したとき、まずマガタ国の首都ラージャガハに向かいました。この若い世捨て人の堂々とした振る舞いに感銘を受けたビンビサーラ王は、彼に会いに行きました。王は彼に王国の一部を献上しようとして、彼が何者なのかを尋ねました。シッダッタは答えました。
Ujuṃ janapado rāja, himavantassa passato; Dhanavīriyena sampanno, kosalesu niketino.
ヒマラヤのふもとのタラーイー地方に、富と活力を授かった王がいました。その人はコーサラに属していました。
Ādiccā nāma gottena, sākiyā nāma jātiyā; Tumhā kulā pabbajitemhī, na kāme abhipatthayaṃ
その人の氏姓はアーディッチャで、サーキャ族の出でした。私はその家から、官能的な快楽を欲していなかったので、出て行きました。
スッタ・ニパータ 424-5、パッバッジャースッタ
この一節からも、サーキャ人のいる地域がコーサラ国の一部だったことは明白です。それゆえにサーキャ人はみな、統治者も含めてコーサラ人と呼ばれていました。 サーキャ族はコーサラ王の臣民であり、嫌々ながらも国王に対して敬意を表す必要がありました。彼らはこの状況を快く思っていませんでしたが、どうしようもありませんでした。 その一方で、パセーナディ王は、サーキャ族出身のブッダの足元にひれ伏していました。 どうしてそのような最高の敬意を表すのかとブッダが王に尋ねると、ブッダが究極の悟りに至ったからであり、ブッダがダンマを説いたからであり、ブッダの弟子たちが正しい道を実践しているからだと、王は答えました。王は最終的に、ブッダと直接的で個人的な関係を築き、「尊い方はクシャトリアで私もクシャトリアです。尊い方はコーサラの人で、私もコーサラの人です」と言いました。
マッジマ・ニカーヤ 2.366-374、ダンマチェーティヤ・スッタ
サーキャ国がコーサラ国の一部であることは明白でした。そしてそれゆえ、王はブッダのことをコーサラ人と呼んだのです。 これにはもうひとつ有力な証拠があります。パセーナディ王はすべての属国に対して安全保障について調査して回る必要がありました。サーキャ国も頻繁に訪問していました。そのような視察旅行の中で、王はサーキャ国のナガラカという町をディーガ・カーラーヤナというコーサラ軍の兵士長を伴って訪れました。
マッジマ・ニカーヤ 2.364-366、ダンマチェーティヤ・スッタ
視察旅行の際に兵士長がいたことは 2 つのことを示しています。第一に、コーサラの支配者がいくつもの属国のさまざまな場所に自国の軍隊の師団を駐留させていたに違いないということです。属国はコーサラ軍の師団の滞在費を賄わなければなりませんでした。そのため、コーサラの王は各師団が各国の統治者たちにきちんと保護されているかを確かめる必要がありました。 第二に、王は属国が秘密裏に軍隊を強化していないことを確かめる必要があったということです。軍隊は地元の治安維持のためだけに認められていました。そうしなければ、反乱を起こすチャンスを属国に与えかねません。潜在的な脅威を警戒するのは当然のことで、 兵士長はその可能性を調べる上で適任でした。したがって、王の属国への視察旅行に兵士長を帯同するのは不可欠でした。 ある視察旅行で、パセーナディ王は昼過ぎにナガラカの町で視察の執務を終え、夜に現地の公園を訪れることにしました。王は自軍の馬車に乗り込み、ほかの馬車に護衛されながら公園まで進みました。 公園を歩いていると、静かで穏やかな、ひと気のない落ち着いた庭園の自然の美しさの中で、王はよくブッダと同じような気持ちのいい雰囲気の場所で会ったことを思い出しました。ブッダはどこにいようと、それが少しの間であっても、その自然な雰囲気は魅力的で恍惚とさせるものになるのでした。ブッダは言っていました。
Gāme vā yadi vāraññe, ninne vā yadi vā thale; yattha arahanto viharanti, taṃ bhūmirāmaṇeyyakaṃ.
村であれ、森であれ、谷であれ、丘であれ、アラハンの住むところこそ、心地よい場所である。
ダンマパダ 98、アラハンタヴァッガ
パセーナディ王はブッダが近くに滞在していると確信しました。王はディーガ・カーラー ヤナにブッダが近くに住んでいるか尋ねました。ディーガ・カーラーヤナは、ブッダはメダールパという3ヨージャナしか離れていないサーキャの町に滞在している、と答えまし た。パセーナディ王は喜んでブッダに会いに行きました。
マッジマ・ニカーヤ 2.4.365-366 、ダンマチェーティヤ・スッタ
この話は、サーキャの国がパセーナディ王に直接支配されていることを示しています。だからこそ、王は行きたい場所に自由に行くことができました。サーキャ人に事前に通知する必要もなければ、ましてや許可を得る必要もなかったのです。 コーサラ王国とサーキャ国の関係はインドの英国統治時代の諸藩王国とデリーの英国総督 府の関係と似ていました。 藩王や太守らは自国のあらゆる行政に関する自治権を持っていました。自治のために警察隊も持っていましたが、英国の統治に脅威を与えうるような軍隊を持つことは許されていませんでした。デリーの帝国軍に比べ、藩王国の警察隊の力は取るに足らないものでした。 もし英国の統治軍が何らかの理由で藩王国を侵略しても、藩王国が英国軍に立ち向かうのは不可能だったのです。 同じように、もしコーサラの支配者が属国であるサーキャ国を攻めるために派兵したなら、サーキャ人が国内の治安維持のためだけに組織された兵たちでは、コーサラの強大な軍事力に立ち向かうことは不可能だったでしょう。兵がブッダの非暴力の教えに影響されていたかどうかにかかわらず、サーキャ国がコーサラ軍に反撃できなかっただろうことは明らかです。 それにもかかわらず、ブッダの教えがサーキャ国を滅亡に追い込んだという誤解がよくみられます。ところが、ブッダの教えがサーキャ国とコーサラ王国の間の調和を保つ上で役立っていたのは明らかです。ブッダは「衰退しない統治の七つの原則」をリッチャヴィ国の王子にも同様に教え、自国の防衛に関して常に気を配るように諭しました。
サーキャ国はいつコーサラ国の属国になったのか
サーキャ国が強大なコーサラ王国の弱小な属国であったことは、ティピタカからはっきりと証明されます。しかし、いつ、どのようにサーキャ国が支配下に置かれたのかははっきりとしていません。 私たちはミャンマー古代王朝の歴史に答えを見つけることができます。ブッダの生きていた時代より数世紀前に属国化されたようです。カピラヴァットゥのサーキャ族とデーヴァダハのコーリヤ族は太陽王朝のクシャトリアでした。イクスヴァーク王の直系の子孫として、両氏族は自分たちが純粋な王家の血統であることを誇っており、両族間でのみ結婚しました。女性をほかの氏族と結婚させることはなく、また、ほかの氏族の女性を受け入れ ることもありませんでした。 サーキヤ族とコーリヤ族は当時も小さな共和国でした。それに対して、西のコーサラ国とパンチャーラ国は強国でした。コーサラ国はパンチャーラ王の支配下にありました。王はこうして権力が増すと、プライドもはるかに高くなりました。彼はクシャトリアでしたが、 サーキヤ族やコーリヤ族よりも劣っているとされていました。低いカーストとみられることを避けるためにイクスヴァークの氏族の純血を得る野望に燃えた王は、サーキヤ族とコーリヤ族にそれぞれ姫を自分に嫁がせるよう最後通告を言い渡しました。 普通は、自分の娘がこのような権力のある皇帝に嫁いで女帝になるなら、誰しも喜ぶでしょう。しかし、サーキャ族とコーリヤ族は正統な血統であるという誇りが高すぎるあまり、パンチャーラ国の支配者からの要求を受け入れませんでした。その結果、パンチャーラ王は立腹して2つの国を侵略し、滅ぼしたのです。 こうして征服された後、サーキャ族の長のアビラージャーは仲間を連れ、カーマルーパ(アッサム)を通って東へ進みました。ミャンマー国境のほとんど通行不能な険しい山々を越えて、チンドウィン川とエーヤワディー川の間の土地にたどり着きました。 そこで一行は避難所やほかの多くのものを見つけました。一行が逃れた国の寛大な人々は、 新しくやってきた一行の長い統治の経験にたいそう感心して、難民のリーダーであるアビラージャーをその地の統治者に選びました。アビラージャーは、現在のシュウェボの町から70マイルほど北の地にタゴン王国を興しました。この古代都市の遺跡は今もなお見られ ます。ミャンマーの歴史学者によると、ミャンマーの王朝、そしてミャンマー人の歴史は アビラージャーから始まったそうです。
Hman Nan Yarzawin(ガラスの王宮の年代記)
コーリヤとサーキャの両国がパンチャーラの支配者によって属国化されたのは、パンチャーラ国とコーサラ国がひとつの王国に合併した後でした。後に、パンチャーラ国は再び2 つの王国に分裂しました。コーサラ国はパンチャーラ国よりもサーキャ国やコーリヤ国に 近かったので、両国はコーサラ国の支配下に置かれたということです。どうやらこの時代に両国はコーサラ国の属国になったようです。パンチャーラ王がサーキャ国とコーサラ国から王女を要求したとき、彼らは、純血を誇るあまり、要求を退けて王を怒らせてしまい、パンチャーラ王の軍隊によって滅ぼされてしまいました。この頃はまだブッダとその教えは存在していない時代でした。では、どうして両国は滅ぼされたのでしょうか?コーサラのヴィタトゥーバ王に攻められたのと同じく、戦争の根本的な原因はサーキャ族のカーストの誇りにありました。 コーサラ国はいつも強大で、サーキャ国は軍事力ではとても敵いませんでした。そのため、 サーキャ国が滅ぼされるのは間違いありませんでした。前回と比べて、今回は両国ともコーサラ国の属国でしたので、さらに弱い立場だったのです。そのような状況の中で、コーサラの軍隊が両国を完膚なきまでに打ちのめしたのは驚くべきことではありません。では、なぜサーキャ族の没落がブッダとその教えのせいだとされているのでしょうか?明らかに、そこにはブッダの教えを貶めるもうひとつの口実がありました。 サーキャ国の滅亡の理由は明らかにカーストに対する誇りの高さにありました。アビラージャー王の時代に滅ぼされたのもこのカーストの誇りが原因でしたし、ヴィタトゥーバの時代にまた虐殺されたのも同じ理由でした。しかし今日、この史実を無視して全く偽りの罪が捏造されています。このような虚偽を捏造して広めた者は、みな何らかの方法でブッ ダの教えを誹謗することが唯一の目的だったのです。 仮に4つのカーストの制度を受け入れなければならないとしてもそれは出自によるものであってはならない、ということは、ブッダの教え全体から明らかです。もし出自によるとすれば、ダンマを貶めることになり、ダンマを害し、傷つけることになります。この考えによると、甚だしく非道徳的に生きる者でも高いカーストの家系に生まれれば崇拝されます。一方、低いカーストの家系に生まれたために、道徳的に生きる者が差別されます。つまり、道徳的な生き方よりも家のカーストの方が大事であるということになります。この ような否定的な考え方をなくし、純粋なダンマを再び定着させるために、「人は出自によるのではなく、行いと徳によって、高貴にも下賎にも、立派にも卑劣にもなる」とブッダは強調したのです。 しかし、サーキャ族はブッダの教えに背き、出自に基づいて身分が上下するという信念を助長しました。この凝り固まった考えのせいで、彼らは 2 度も滅ぼされたのです。 ヴァッジの人々が滅ぼされたのも、ヴァッサカーラというバラモンの大臣にそそのかされ て、ブッダの教えをないがしろにしたからです。同じように、サーキャの人々が滅ぼされ たのはブッダの教えに従ったからではなく、出自は地位の高低の根拠にはならないというブッダの教えを無視したからです。サーキャとコーリヤのクシャトリアたちは、自分たちの優越性に傲るあまり、ほかのクシャトリアにさえも嫁がせることができなかったのです。 この件について、ブッダの教えはとても明白です。
Jātitthaddho dhanatthaddho, gottatthaddho ca yo naro; saññātiṃ atimaññeti, taṃ parābhavato mukhaṃ
自分の出自、財産、氏族に対する誇りから周りを軽蔑すれば、それが堕落の原因となる。
スッタ・ニパータ 104、パラーバヴァスッタ
これがまさに起きたのです。サーキャ人とコーリヤ人はカーストの誇りの中毒になってしまい、パンチャーラの支配者がクシャトリアであったにもかかわらず、一族の少女を嫁がせずに、彼を侮辱しました。同じように、パセーナディ王がカーストで劣っていると判断して、王女を嫁がせる代わりに、王を欺きました。どちらの状況でも、サーキャ族は負かされ、滅ぼされてしまいました。したがって、没落の真の原因は、高いカーストに属しているという誇りの高さだったのです。サーキャ族は ブッダの教えに従うどころか、反対の振る舞いをしてしまいました。それゆえに、彼らは打ち負かされてしまったのです。 インドの国としての衰退の真の原因も、この破滅的なカースト制度にあります。カースト 制度は国民を分裂させて内紛へと至らしめ、無力にしました。この国は結束して国を守る ことができず、その悲惨な結果として、このような分裂に苦しんできました。さあ意を決し、人々を苦しませるこのカースト制度を私たちの社会から根絶しましょう。