竹の音で悟る
掃除をしていたら、掃いた小石が竹に当たる音を聞いて忽然として悟りを開いたが、どのような悟りなのか?
ヒト(生命体)の心について、
心は「知る機能」があるので、他を認識することができる。
しかし、この認識とは「わたし」が意図的に他を認知しているのではない。
たとえば、秋の夜に虫の声が聞こえてきても、その音を遮ることは「わたし」にはできない。「わたし」は自分の聴覚を遮断することはできないため、外の空気振動は自動的に耳(鼓膜)を介して電気信号に変換されて脳に伝わり、それを分析してレッテルを貼る。多くの場合は過去のデータと照合されて、それを概念化(比較、類似、特定、名称)する。
このプロセスを一般的には、「主体である「わたし」が〇〇の音を聞いた」と表現されているが、実際には上記のように、これは主体が能動的にしているのではなく、1つの受動的プロセス(自動的因果関係の条件反射)であることを、まるで主体が意図的に認識しているように解釈しているに過ぎない。
このような表層的に解釈するメリットは、各自が選択していると想うことで、志向を明確にできることである。
デメリットは、このプロセスに本質的主体はないのに、主体を仮設したことで、世界を表層的な主と客という2分法を使って捉えてしまうことで、その先にある対象の微細領域を実感するのを妨げることである。
つまり、自分の深層意識にある回路によって、私たちは操作されているのだが、表層意識のレベルの因果関係だけで現象を理解してしまうことで、その先にあるエネルギー領域やメンタル回路領域に気づくことなく生きることになってしまうからである。
具体的には、物質界のブラックエネルギーやブラックマター、メンタル界の回路(五蘊(色・受・想・行・識蘊))、そして涅槃についての気づきと考察の機会が奪われてしまっている。
「香厳撃竹大悟」とは何か?
「香厳撃竹大悟」という公案は曹洞宗の道元禅師が記された書物、「正法眼蔵」三百則に出てくる話です。
庭掃きをしている時に、使っていた箒によって小石が竹に当たり、その音で悟りに至った話です。
香厳智閑禅師は師匠である潙山霊佑禅師に「生まれる以前の、父も母も生まれる以前の仏法の真実とは何か?」と問われました、
自分の中にあったそれまで培った知識を駆使し、「これだ!」と思うものを次々に答えていきます。
しかし、「それは違う、それも違う、そんな事が聞きたいのではない!」
と、徹底的に自分が考えた答えを否定され続けてしまいます。
そして遂には、「あぁ私はダメだ。私は今生においてはもう恐らく真実に目覚めることはできない。」
と、この香厳智閑禅師はがっかりしてしまいます。
そして、「私は南陽慧忠国師(なんようえちゅうこくし)のお墓を守りながら、一生懸命掃除をし、そして一生過ごそう」といって、山の中に入って行ってそこで生活をします。
そんな折、ある日庭掃除をしていました。
その際使っていた箒の先にあった小石を掃きました。
その小石は放り出されて、竹にカチーンと当たった音が響き渡ります。
その音を聞くことで、香厳智閑禅師は悟りを開くことができました。
これが「香厳撃竹」という話における大悟(悟りを開く)の契機となり、「あぁそうだったのか!!」と、悟りを開くことができました。
この香厳禅師はそれまでは書籍や文献を使って習ったり、覚えたりして修行を積み重ねていました。
自分の思惑ばかりを追いかけて「自分はこうであるべきだ、悟りもこうあるべきだ」と決めてしまっていました。
そんな折に、それまでに自分が思い描いたことと違う「悟り」を、竹に石が当たった瞬間、目の当たりにしました。
香厳智閑禅師が出会った悟り
それでは香厳智閑禅師が新しく出会った、今までとは違う「悟り」というのは具体的にはどういうものだったのでしょうか?
解釈
1 「耳から入ってくる感覚」など五感覚に支配されているのに気づいた。
2 日常生活の五感覚器官を介する認識は、表層の波のようなもので、全体の海ではないことに気づいた。
3 主体とは仮設されたものであることきづいた
4 認識とは仮設されたものであり、全体の一部分でしかないことに気づいた
5 深層意識によって表層意識が成り立っていることに気づいた
6 深層意識にある回路のメカニズムとその解体方法に気づいた
7 認知過程(五蘊)は学習によって作られた回路であって、実際には一時的で意図的なものでしかない
8 ヒトの一挙手一投足全てが「大自然」そのものであることに気づいた
9 わたしと大自然は繋がっていて一つものだという「大自然の理」に気づいた
などいろいろな可能性があります。
香厳智閑禅師はこの悟りを海と例えるのなら、それまでは、その海の表面である「波」の部分ばかりを追いかけていました。
静かな「波」だろうが、荒れ狂う「波」であろうがそれは「海」の一部分でしかありません。
「大波」、「小波」どちらであろうと、その場の表面上の状態で、それまでは全体を見ることができませんでした。
しかし、その一部分を追いかけていた自分にやっと香厳智閑禅師は気づくことができました。
全体を行じる事ができていなかったと言ってもいいのかもしれません。
しかし「竹」に小石がぶつかる「カチーン」というこの音を聞いて、「全体」を初めて理解できたのです。
こういったことわざがあります。
「波の音聞くのが嫌さに山住まい。声色変える松風の音。」
波のザワザワザワザワする音が嫌だと感じ、山の中に住みたいと思った。
しかし、いざ山の中に行ったら今度は同じようにザワザワザワザワ、松風の音が気になってしまう。
このことわざでは、「逃げたり追いかけたり」、「追いかけたり逃げたり」を繰り返していく間に人生を終えてしまうぞ、という戒めをあらわしています。
この「香厳撃竹大悟」は道元禅師が書いた「正法眼蔵」三百則に出てくる話です。
そしてこの公案を通して道元禅師が一番言いたいのは、
「表面的な「波」ばかり追いかけてはいけません、それで終わってしまったら、掛け替えのない命がもったいない。折角、今生に生を受けた掛け替えのない命なのに、その「波」の部分だけを捉え、追いかけまわす、或いは逃げ回る。それだけで人生が終わっってしまったら本当にもったいないから「命の全体」を行じてください。」
ということを言いたいわけです。
この、「香厳撃竹大悟」の中には「一撃に所知を忘ず」という有名な「偈」が出てきます。
「カチーン」と、竹に石が当たった音がする。
これはその音を聞いて今まで習い覚えた事を香厳智閑禅師は一切忘れてしまったということです。
頭から無くなってしまったという。
迷いから悟りへ転換したいというのは単なる自分だけの思惑で、その思惑が竹に当たる石の音で、一切忘れてしまったといいます。
そんなものは元からなかったというのです。
「更にしゅうじをからず。」
「ああなりたい、こうなりたい。」という自分で作った目標。もしくは、「こうあるべきだ。これが真実であるべきだ。」という狙いというのは「大自然」には本来ありません。
大自然は常に真実むき出しで、何も包み隠していません。常にそこには全てが展開しています。
目標や狙いは各自の概念なので、生命体によっておこされるものです。それは不変の真実ではなく、そのようなものは本来の大自然にはありません。
またこの「香厳撃竹大悟」には、
「動揺(どうよう)ころにあがり」という一文がでてきます。
日常生活において「動いたり」、「動かなかったり」という意味を示します。
つまり我々の「一挙手一投足」のことも「動揺(どうよう)」と言えるわけです。
また「古路(ころ)」というのは、古仏の道に適っている。という意味になりますので、
我々の一挙手一投足全てが「仏の道」である。
という意味になります。
言い方を変えれば、
我々の一挙手一投足全てが「大自然」そのものである、ということです。
そのことを竹に小石があたることによって気付くことができました。
それまで香厳禅師は「修行」と「悟り」、「私」と「大自然」という風に2つに分けて物事を考えていました。
しかし本来、「大自然」と「私」というものは一つものです。繋がっています。
それが大自然の理です。
例えば人間の呼吸一つとってもそうです。
我々の呼吸というのは大自然が発する「酸素」を吸って行われます。
つまりその「酸素」がなければ我々人間は呼吸ができないわけです。
そしてその呼吸をすることによって我々人間は生きられるわけです。
しかしその酸素はどこから運ばれてくるのでしょう?森?
そうやって考えたときに「どこからどこまでが人間の命」なのでしょうか?
仮にここからここまでが私の命だとなれば、たちまちに我々は窒息死してしまうことでしょう。
あるいは今こうしていると、車の走る音や、カラスの鳴き声、サイレンの音が耳を震わします。
つまりそれらの存在によって、私の耳が鳴るということです。それらによって私の命が生じるということです。
またスクランブル交差点で誰かとぶつかったとして、お互いが痛い思いをします。それは相手によって自分が痛い思いをした、自分の命が起こったということです。
誰かと手を繋げば温かく感じますが、そこにおいては全世界の誰とでも手を繋ぐことができ、そこで実際に温かさを感じることができます。
このようにこの世界のあらゆる命には線引きがないんですね。全てが重なり合っている。繋がっている。他が自分で、自分が他なのです。
「大自然」と「私」というのは「一つ」であるのです。そのことに気付いいました。
また、「しょうぜんのきにだせず」とあるのは、普通であれば、自分の思い描いたものと実際に起きたことが違った場合や、目標を失ってしまった場合などは、それは「悄然の機(しょうぜんのき)」に落ちてしまいます。
つまりがっかりしてしまうはずです。
しかしこの香厳智閑禅師も本来自分が思いもしなかった「真実の悟り」と出会った。
それは狙いを間違えたといことにもなりますが、香厳智閑禅師は少しも意気消沈してがっかりすることがありませんでした。
何故なら、本当の真実の在り方を香厳智閑禅師は見つけることが出来たからです。
「処処縦跡(しょしょしょうせき)なし。」
これは「一瞬一瞬が二度と戻ることのない刹那の人生」であるということですが、実に嬉しかったのでしょう。
そういった本来の「大自然の姿」を知ることができた。「真実の悟り」に出会う事ができた。
そのような思いが伝わってきます。
香厳撃竹大悟、最重要ポイント
またこの「香厳撃竹大悟」には、
「声色外の威儀なり。」というフレーズが出てきますが、公案において最重要ポイントとなります。
「声色(しょうしき)」というのは「声」と「色」と書きます。
つまり耳と目の感覚のことを言っています。
「耳から入ってくる感覚と目から入ってくる感覚。」人間の感覚の世界において、この二つの感覚は非常に重要な物で、それに支配されているのが我々の日常です。
誰かの評価や世間の噂話に我々はいつも振り回されてしまいます。
そして初めの香厳智閑禅師のように、そのような「波」や「形」ばかりに振り回されて、全体がまるで見えなくなっています。
道元禅師がお開きになった曹洞宗には「修証義」という聖典があります。
この「修証義」は法事やお葬式でよく僧侶によって読まれるものなのですが、その「修証義」の中に、
「声色の奴婢と馳走す。」(しょうしきのぬぴとちそうす。)
という言葉が出てきます。
これは「我々は感覚の世界に奴隷になっている」という意味です。
感覚ばかりに囚われて、全体がまるで見えていないといいます。
掛け替えのない一度きりの人生を、「声色の奴婢」つまり、感覚の奴隷になっていいのか?そう我々に訴えかけています。
「香厳撃竹大悟」には、「声色外の威儀なり」とあります。
ここで言う「威儀(いいぎ)」とは我々の日常生活のことです。
そして本来、我々の日常生活において目指すべきものはこの「声色外の威儀」であると、言うわけです。
「声色外の威儀を目指す」というのは、要するに「感覚に訴えない、人の喜怒哀楽で生活をしないことを目指す」という事です。
「永平寺」の1日
禅の修行道場では常に大衆200人以上で共同生活を送っています。
僧堂で「ジャーン」と音が鳴ったらみんなで坐禅をして、また「ジャーン」と鳴ったら立って経行(きんひん)をするをただひたすらに繰り返します。
これはまるで元々敷かれたレールの上をただ歩いているような、実につまらない生活ですが、これが「声色外の威儀」です。
鐘が鳴ったら坐禅をする。これは人の「感覚」の世界ではないからです。つまる、つまらないの話ではないからです。
そこには一人一人の感覚や、喜怒哀楽などが入り込む余地もありません。
僧堂は本来の大自然を学ぶ場所です。本来の悟りを行じる場所です。ですから禅の修行道場などでは全て、「声色外の威儀」の生活です。これを重んじています。
禅の修行道場で多くの日数を送る内に、だんだん「こんなとこにいてもなんの役にも立たないのではないか」と疑問を持つようになります。
しかし、何の役にも立たないのがこの「声色外の威儀」です。
大自然は何も見返りがない。人間の思惑も通用しない。ただ真実が常にそこで展開されている。
同じように人間もただひたすらに「坐禅」を行じる。ただひたすらに大自然のままでいる。それが本当の悟りです。
それが非常に重要だといいます。
それが、この「声色界の威儀なり。」という一文に表れています。
世間でいえば、この「声色外の威儀」というのは馬鹿にされる対象かもしれません。なんの役にも立たないからです。鐘が鳴ったら坐禅をするなんてこと、誰でもできるからです。全くもってつまらない。
一般の世界においては「声色」が全てです。
しかしその「声色」というのは、海の「全体」ではありません。
人間でいう「脳」という「表面」だけの部分です。
なので道元禅師は、日常生活において「声色外の威儀」を疎かにしてくれるなと、大切にしてください。と言われるわけです。
香厳撃竹大悟、終わり
この「香厳撃竹大悟」という話は、道元禅師が「本来の悟りとは何か?」つまり、我々人間にとって「本来の生き方」とは何か?を説いた話であります。
香厳禅師が小石が竹にぶつかった音を聞いて「大悟」した話から、この「香厳撃竹大悟」という公案は始まっていきます。
大きな悟りと書いて「大悟」と言います。一方で大きな迷いと書いて「大迷」と言います。
仮にこの世界に迷いしかなかったら、何も心配はいらなかったんです。迷いしかない世界だったら、悟りも迷いも生まれずに済みますからね。どちらか一方のみだったら良かったわけです。
しかし本来はそのどちらでもありません。それは人間の概念で捉えた話だからです。「迷い」や「悟り」も、それは人間の言葉によって生み出された世界で、世界には本来そのようなものはないからです。
我々は常に救われています。常に全てが真実むき出し。いつどこでもあらゆるものが一秒ごとに姿を変えていって、いつどこでも足をくめば痛い。いつでもどこでも呼吸ができる。いつでもどこでもカラスの鳴き声が耳を震わせる。
我々が気づこうが気ずかまいが、真実は常にむき出しで、こうして全てによって生かされている。
全てが1つに繋がって支え合って生きているわけです。
道元禅師は、
「どうようころにあがりしょうぜんのきにだせず、しょしょしょうせきなし。声色界の威儀なり。しょほうのつどうのものことごとくじょうじょうの期という。」
という言葉をもってこの「香厳撃竹大悟」という公案をしめくくられます。
「しょほうのつどうのものことごとくじょうじょうの期という。」
というのは香厳智閑禅師が「大悟」したときに、歌ったとされる「偈」をそのまま引用されました。
「諸法の真実に目覚めることができた!これこそが真実の在り方であり、宇宙一杯の世界である。」
そういう意味の偈(歌)となります。本当に嬉しかったんでしょう。
その際、師匠にあたる「潙山霊祐禅師」がおられる大潙山の方を向かって、感謝の意を込めて五大投地の礼拝をしたと言われています。
その噂を伝え聞いた潙山霊祐禅師は、
「潙山聞きえて言わくここってせり」と。
潙山霊祐禅師は「あぁやっと私の弟子、香厳智閑も真実に気が付いてくれたなぁ。」
というやりとりを紹介する形でこの公案は終わります。
香厳撃竹の公案
https://note.com/syakutyoukuu/n/nbe16373e4b37
香巌撃竹は「きょうげんげきちく」と読む。「香厳撃竹大悟」とも。
『宏智禪師廣録』卷第一にこうある。
上堂云。聲色見聞鬧浩浩。恰似兒時鬥百草。兩家拈出一般般。相對無言點頭笑。好笑好笑。人人盡道。香嚴撃竹響而明心。靈雲見桃花而悟道。還端的也無。當時到即不點。而今點即不到
登壇して言った。
「音も色も匂いもそこらじゅうにあって騒がしい。 まるで子供の頃、いろんな草を叩いていた時のようだ。 二人は凡庸なことを言い合い、無言で頭をくっつけては笑い合う。面白い、面白い。みんな一生懸命だ。香巌禅師は竹を打つ音で心を明らかにした。靈雲禅師は桃の花を見て悟った。てっとり早く核心にいたることはできない。時がきても要点はつけず、要点をついたとしても至れない」
一般に、「香厳撃竹」は竹にホウキで掃いた小石が当たる音で悟ったと解説されている。
「禅僧、香厳智閑(きょうげんちかん)がなかなか悟りきれず、墓守として生活をしていた時、箒(ほうき)で掃いた小石が竹に当った音を聞いて、悟りを得たというもの。」との解説である。
インターネット時代、この元となった逸話がどこから来たのかをググりにググって見たのだが、いまだ発見できていない。とりあえず、その逸話をふまえて思索をしてみたい。
この逸話で「一瞬の音の響きからアハ体験のように悟りが開けた」と思っている方もいるだろう。宏智禪師の言葉は、それを否定している。「子供の時には草を叩いて遊んだものじゃ。だが、それで悟れたりはしない。仏道の勉強をして悟りを求めて機が得られなければ、要点はつけん」という話である。
私はこう推測している。
ホウキで道を掃く→小石が飛ぶ→竹に当たる→音がする、という一連の流れで音が成立するのであって、そのどれが欠けても成立しない、すなわち全ては因縁の中なのだ、という悟りだった、と。
靈雲禅師は桃の花を見て悟った、という話にしても同じことだ。
『潭州潙山靈祐禪師語録』に曰く
靈雲。初在潙山。因見桃花悟道。有偈云。
三十年來尋劍客。幾回落葉又抽枝。
自從一見桃華後。直至如今更不疑。
師覽偈。
詰其所悟。與之符契。
師云。從縁悟達。永無退失。善自護持
靈雲禅師がはじめて潙山霊祐(いざん れいゆう)禅師の元に行ったとき、桃の花を見て悟った。それを偈にして曰く、
「この三十年間、剣客を探していた。 何回失望して秋を迎え、また新たな枝にひっかかっただろう。
桃の花をぱっと見たときに、すぐに真実に行き着いて疑いはなくなった。」師はその偈を見て言った。
「その悟りをつきつめていけば、私もぴったり同じ考えだ」
潙山靈祐禅師は言った。「この縁によって悟りを得た。永遠に失ってはならない。よく保ちなさい」
靈雲禅師は三十年間、自分の外にある「悟り」という何かを求めてきた。それは全てをズバリと切り捨てる絶対の境地だ。
しかし桃の花を見て気づいたのだ。
私がいる→桃の木がある→その花が開いている→「きれいだ! いい香りだ」という感興が湧く。
全ては因縁の中なのだ!