坐禅入門 坐り方/作法マニュアル 無門龍善
はじめに
T 坐り方・作法マニュアル
一、坐禅とは
二、坐禅の動機と決心
三、坐禅をする準備
服装 坐蒲団 食べ物 眠り 時間と時期 役割
四、坐禅の仕方
足の組み方 サマーディに入る 呼吸の調整 数を数える方法 課題
五、道場の行事と作法
起床と就寝 禅堂の出入 坐禅 食事 読経 動中の禅 労働
師弟の面接
禅問答 テキストと講義
U 提 唱:
一、心の展開(禅の心理)
二、社会生活と禅(禅の論理)
V 質問に答える
W 参禅の方法と釈迦牟尼会
X 禅会用語小辞典
編集後記
T 坐り方・作法マニュアル
一、 坐禅とは
釈尊のjhāna(禅)の道を体現することによって、釈尊に帰り、釈尊にダイレクトに接し、仏教の根本原理を破格しようとするものである。
私見 釈尊の根本原理は輪廻からの離脱である。
禅は中国に伝わってその国民性から現実的、実践的な性格を帯びて独自のものになった。それが日本に渡来して、日常的でありながら、しかも芸術的にまで高められて完成した。
私見 大乗仏教の再解釈により、仏教は輪廻からの離脱よりも、その前提になる輪廻の実体感するための修行と思想に焦点を移した。そして日本では、それが生命体だけではなく、川や岩にいたる物質界にも広がるものであることを日常生活の中で体感しようとした。メリットは全体性の再解釈、デメリットはkammaエネルギーの転移と消去についての熟慮不足につながった。
二、 坐禅の動機と決心
現代人の無常と地獄は、科学の進歩がもたらした、利益追求のための大量生産の競争社会における家族、教育、職場などの人間関係のひずみによる苦悩である。
私見 科学、進歩、利益追求、大量生産、競争社会に問題があるのではなく、これらに固執して、これらを基準にした社会にこだわることが苦しみを生じさせるのである。
ひとえに仏教を信じて帰依し、釈尊のやられたように坐禅を行じることによって現代の苦悩を超克し、平安にして充実した生活を迎えることが切望される。
私見 日本仏教は参考にするものであって信じるものではなく、信じるものであってもそれは盲目的なものではなく、試行錯誤することが信じるという意味である。坐禅によっても現代の苦悩は消え去らず、深層意識にある自動反応回路を安穏した状態で再現することで、回路が弱体化し、消去される。
三、 坐禅をする準備
服装 原則として、羽織、足袋、トレーニングウェアは控える
坐蒲団 壁にもたれて坐らない
食べ物 腹式呼吸をするので、消化のよいものを飽食しないようにして、食後30分は坐らない
眠り 6時間以上が望ましい
時間と時期 朝晩に1時間ないし30分 7日間の大摂心5月、8月、12月
役割 責任者の直日、応対係の知客しか、会計係の副司ふうす、食事係の典坐てんぞ、世話係の侍者
四、 坐禅の仕方
足の組み方 背骨をまっすぐに伸ばして坐る 足は結跏趺坐、半跏趺坐
尻と両膝の3点で地に安定させる。
肩の力を抜き、目は半眼にして閉じない 視点は膝から約1m前方
法界定印 右手の掌の上に左手を置き、親指を合わせる 握り合わせでもよい
サマーディに入る 舌は上アゴに着け、下腹に重心がとどまるようにする
呼吸の調整 呼吸は音を立てず静かにする
まず腹式呼吸を3回する。下腹をすぼめて身体中の悪い気を全部吐き出し(呼気)、
下腹を膨らませて天地の空気を吸い込む(吸気)
定が深まるにつれて、息は細く長くなって、1呼吸が1分間に2,3回になる。
呼気は吸気に比べて長い
数を数える方法 数息観 呼気と吸気を数える
随息観 数えるのやめて呼吸と一体になって宇宙とともに生死にするようになる
課題 公案(公府の案牘 札のこと)
論理的に矛盾し、絶対の否定を通じて非合理の極に飛躍し、
「それ」自体となることによって、無相の実相を知って解決する。
「趙州の無字」を長年かけて実感する
死即生、生即死の体験的現前があって見性(本性を見抜く)し、師家に初関を許される
五、 道場の行事と作法
起床と就寝 3時半起床 4時から坐禅、9時に坐禅を終え、9時半に就寝。
禅堂の出入 暁天坐、朝坐、昼坐、夜坐
禅堂に入るときは、仏足頂礼の拝をする。参禅者は入口の廊下で正面に向かってまず合掌し、膝まづいて
頭を低く下げ、両手を離して両肘を廊下につけ、掌を上に向けて頭上に差し上げる。
伝統的な最敬礼では三回の拝をするが、入堂のときは省略して一拝する。
そして、参禅者は立ち上がって合掌して堂内中央を直進し、自分の坐る坐具を見付け、その目標に直角に向きを変えて曲がり、その坐具の前で立ったまま一礼し、後ろに向き直ってまた一礼して坐につく。
廊下は叉手当胸、つまり右手を胸に当てて、その上に左手を交叉してそえて静かに歩む
坐禅
師家が入堂し、直日柝(たく・拍子木)によって読経がはじまる。
通常は、『観音経』(普門品第二十五)、『般若心経』、『三綱領』を唱える。 それが終わると「一心頂礼や方常住三宝」と唱えながら仏足頂礼の拝を三回行なう。
それから、直日の柝および引磐(いんきん)の合図によって一斉に合掌して坐禅をはじめる。
一柱坐40分の入定の後、直日の合図で 約五分間の休憩になる。
坐禅中に直日は警策(けいさく)を行じる。眠いときなど自発的に受ける。
食事
釈尊は一日一食の斎(とき)をとられた。現在道場では、これを昼食 とし、朝は粥を食べる。そして夜は伝統として食事の代わりに薬の意味
で薬石(やくせき)をとる。
朝食は粥座、昼食は斎座といわれ、煮物、酢の物、香の物、御飯、お汁がある
読経 「耳で読む」といわれるように、皆の声に合わせて唱える。
動中の禅 曹洞宗では一息半歩というきわめてゆっくりした歩行を行う
労働 作務と呼ばれ、動中の禅である
師弟の面接 長く坐禅を続ける決心をした人は、師家と相見の礼をとり師弟関係を結ぶ
禅問答
坐禅中に隠寮から入室の振鈴が聞こえると、直日は「独参」と叫ぶ。
公案を思常し見解ができた参禅者は作法にしたがって室内を進み、
師家の前に正坐して姓名を名乗り公案を述べ、ついで公案に対する問答商量が行なわれる。
その見解が育認できるものであれば、師家は次の公案を与え、肯認できなければ直ちに鈴を振る。
室内で行なわれた問答商量については一切他言しない。
テキストと講義
『臨済録』や『無門関』、『碧厳録』などの昔の偉大な禅者の言行およびそのコメントなどを記録した書籍をテキストに用いて師家が講義をするのを、禅宗では提唱と称している。
提唱はあくまで坐禅を実りあるものにするための激励であり、
助言であるから、提唱に公案の解決のヒントを求めるといった態度では なく、ひたすらサマーディに入って心身ともに聞きつぶれる心がけが大事。
参考文献
在家禅入門 苧坂光龍 大蔵出版
在家の禅 苧坂光龍 教育新潮社
正しい坐禅の心得 原田祖岳 大蔵出版
目で見る坐禅入門 宝積玄承 東方出版(大阪)
坐禅のすすめ 禅文化研究所編 禅文化研究所
参禅入門 大森曹玄 春秋社
坐禅儀 宗麟
普勧坐禅儀 道元
U 提 唱:
一、 心の展開(禅の心理)
もっと古くは黒い図から だんだん白くなっていって、心の浄化の経過を画いたものであったようですが、中国の扉庵(かくあん)和尚は十牛の図を作りました。
各図の説明
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第一図 尋牛(じんぎゅう) |
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第二図 見跡(けんせき) |
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第三図 見牛(けんぎゅう) |
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第四図 得牛(とくぎゅう) |
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第五図 牧牛(ぼくぎゅう) |
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第六図 騎牛帰家(きぎゅうきけ) |
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第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん) |
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第八図 人牛倶忘(にんぎゅうくぼう) |
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第九図 返本還源(へんぽんげんげん) |
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第十図 入廛垂手(にってんすいしゅ) |
http://pacha21.com/buddha/10bulls.htm
その第一が尋牛。
溈山霊祐(いさんれいゆう)禅師が百年後
に自分の檀家の水牛になってあらわれると、言われた。
その時、水牛の左の横腹に「溈山僧某甲」とその名前が書いてある。それで、「溈山僧某甲」
と呼べばそれは水牛である。水牛と呼べばそれは「溈山僧某甲」である。さて、何と呼んだら よいか、という公案がある。
南泉普願禅師も自分は死んでから百年後、檀家の水牛となろう、と言って遷化しておられる。 ともかく、牛は家畜として非常に我われ東洋人には親しい動物ですが、ことに水牛は、私も
台湾にいたことがあるので、農耕に欠かせない動物であることを知っています。
インドでは白年、つまり白色の牛は「法華経』にございますように尊ばれ、今日でもオールド・デリーの方に参りますと、道に牛がおると人や車がそれを避けて通るように、白牛を大事
にしておると承知しております。
ことに、象とか牛とか孔雀とかがインドでは聖なるものとして尊重されましたが、中国へ参りますと風土が変り、牛が親しみのある、ある種の象徴として見られたのでございます。
尋牛の牛はまさにその牛で、この牛を十牛の図では仏とか伝心とか仏性、あるいは見性の性とか見ている。
さて今日は「心の展開」と題しましたが、その心をわかり易くわけて、ひらがなの「こころ」とそれから漢字の「心」と、いちおう私なりにわけて説明してみたいと思います。
同じ心でありまして別に二つない。が、便宜上そのようにわけてみたいと思う。
経本の中に、
観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常亲我净。朝念観世音。暮念観世音。
念念従心起。念念不離心。
とあり、後の方の部分は、一念一念が「心」より起る。一念一念が「心」を離れない、
といっていますが。念念の念は私の「こころ」にあたるもので、念と「心」は、 「こころ」と「心」にもなり不二であります。
「こころ」を極めてゆくうちに「心」の面影をまず見る。
こころ 自動反応回路経由の認識 念念 善悪がある「こころ」 「即心是仏」の心
心 自動反応回路を除去した後の認識 仏、仏性、見性
昔、大梅が馬祖に問うて「如何なるか是れ仏」というと、「即心是仏」と答えた。
この心はむしろ「こころ」でありまして、悪しき「こころ」も善き「こころ」もそれを突きつめてゆくと、そこに仏の消息がある。ほかならぬその「こころ」が仏である、というのは幅の広い、非常におおらかなこの宗派の解釈でございます。
今日のこの尋牛とは「心」を尋ねることを意味する。それは、念念従心起。念念不離心。の 「心」である。
同じ心で二心はない。が、「心」と呼ぶ心があって、尋牛はその「心」 を尋ねる。あるいは「心」に成る。
「こころ」を極めてゆくうちに「心」の面影をまず見る。それが、その第二の見跡であります。
詳しいことは後から申し上げるとして、第三の段階が見牛である。この図の左の方に牛の尻 が見えておりますが、絵によりましては首を見せております。その方が正しいという説明がございますけれども、首をチラチラ見るというのも悪くない。
この牛の段階がいわゆる見性であり、私のいう見「心」であります。
そして第四に得牛。「心」をつかまえた、という段階でありますから、この画の乱れがちな 「こころ」を持った人物が、牛つまり「心」をピッシリとつかまえて離さぬようにしている。
牛はなお芳叢(香ある草むら)を恋うてやまないから、この間に緊張関係があって手綱は張りつめておる。なかなか純一無雑になり切れない「こころ」の状態であります。
第五は牧牛。これは牛を馴らして純和し、「こころ」が則を超えず、常に「心」と違和しな い。最早この牛を引く人と引かれる牛との間の手綱は緊張関係のないおだやかなものになって
いる。
この牛の顔も何か人の顔みたいに愉快な顔になっておりますね。こうなるとだんだんと牛も 飼いならされてまいりまして、その純和の度合がこれから後の五図に牧牛のプロセスとして、
一コマ一コマあらわれている。
第六は騎牛帰家。人は横笛を吹きながら牛に乗って夕暮のわが家に帰ろうとする、きわめてのどかなあり様であります。 最早、手綱も使うことなく「こころ」は「心」のままとなり人牛一如、一体である。その風光はまことにのびやかに、得失を忘れて笛の音のまま、牛の足の赴くままである。
そして第七が忘牛存人。最早一如の心は空じられ、無心となり、無心そのものも忘れ果てて、人はこのとき随所に主となり、立所皆真となって本当に自由な主体の姿を見せている。牛はとうに姿を消しておる。
そして第八は人牛俱忘。これが非常に有名な一円相の図でございますね。禅僧が揮毫を求められて一円相を画くのはまさにこの境地であります。
中は白く何にもない。それこそ真空無相の端的である。非思量底の兀々地、深般若波羅蜜多はこのようにしか表現できません。すべて相対的なものは影をひそめて、有るといえば絶対無の境地があるだけであります。
そして絶対に消息を絶ったところから、第九に返本還源、第十に入座垂手、となるのです。
この二つは禅の特徴でございます。ことに中国、あるいは、日本に渡ってきた禅の最高の理想状態は、この九、十の境界を置くところに大きな意味があるのでありまして、まず返本還源からはじめますと、ここで元にまたもどるのです。しかし再度のはじまりは初めのはじまりと異なり、そこは無一物中無尽蔵、花有り月有り楼台有りで、姿は昔のままであっても、その姿が妙なる存在となる。
次の第十の絵は布袋でありますね。その布袋が中国の信仰では弥勒菩薩の化身だといわれておりますが、中国の理想的な禅者の人格像は布袋だとされておるのでございます。
日本でございますと、例えば宇治の黄粟山の万福寺へ参りますと、中国文化の影響を直接受けて作られた大きな布袋像が時々大笑しているのがありますけれども、非常に福々として、そしていつでもにこやかにして入鄽垂手の姿である。街の中に無心に入って、灰頭土面、会う人と接して隔てなく、衆生利益の奉仕につとめる。
この働きは第九の真空妙有にたいして真空妙用である。この妙なる無作の妙用になってこなければ禅の仕上げにならないのです。この、第九、第十が東洋の禅の総仕上げである。たんに第八で終ったのではもう一つ首尾一貫しない。
以上が十牛の図のあらましでございますが、この図は西欧諸国でも非常にいろいろ話題となっております。例えばハイデッガーがこの図に興味を持ったとか、やれユングの心理学の学派がこれを取り上げたとか、刺激的な興味を与えているようでありますが、今日は、さっそく、光龍先生のご修行の経過とこの十牛図の関係を申し上げたいと思います。
先生のご修行の経過自体は、「禅昧」の二八四集に巻頭言としてとりあげられておりますが、 それは昭和三十年頃、お話になったことが載っているのでございます。
そこで先生のご経歴がわかるのでございますが、たびたび私たちも親しくお話を承ったこと でもございますので、それらを総合して、これから申し上げることにします。
まず、第一尋牛の段階でございますが、先生は明治三十四年に四国の香川県でお生まれになりました。ご両親は浄土真宗西本願寺派の篤信の信者でございます。
この道場を開設されました鎌田淡翁居士も同県の方で、その昔貴族院議員、衆議院議員をなさり、実業界にも活躍なさった方ですが、このお方も浄土真宗のご家庭です。香川県は浄土真宗が盛んでございます。
で、先生のご両親としては坐禅をすることを好まれない。
浄土真宗から申しますと、坐禅は雑修雑行といって嫌いまして、純一無雑にただお念仏を唱えることが大事とされます。それでご両親は自力聖道門の坐禅を嫌われたと、承っております。しかし先生はまた、親鸞聖人の『歎異抄』の中にある、「地獄は一定の住家ぞかし」という言葉がどうしても納得いかない。おそらく旧制中学の頃でありましたでしょう、地獄、極楽というような単純な思想に納得がゆかれなかったと思うのでございます。
二、社会生活と禅(禅の論理)
『無門関』 第一則「趙州の無字」について
「狗子に還って仏性有りや也無しや」
犬に仏性はありますか、それともありませんか?
一切衆生悉有仏性
死即生、生即死の体験的現前があって見性(本性を見抜く)し、師家に初関を許される
『無門関』 第二則百丈野狐について
「即非」の論理 「絶対矛盾的自己同一」の論理
修行して大悟徹底した人も、この世の法則に縛られて、因果差別の苦楽生死に落ち込むのか?
前百丈は因果に落ちない、と答えて法に背いたため、野狐身に堕してしまった。
一、不落因果 生死苦楽の因果に支配されない(撥無因果)、といって野狐に堕ちる。
二、不昧因果 生死苦楽の因果の支配は明らかである、といって野狐を脱する。
昧 くらい あけぼの
因果の不落、不昧と野狐の堕、脱がパラレルになっている。おのおのの理由は何故か、と無門が問題を提起する。
我われは今政治的、経済的、制度的、組織的な因果生死の中で、粧 い、偽り、楽しみ、泣き、狂い、酔い、競う。これは現代の野狐身だ。
この野狐身の生活にまみれないと答えて、前百丈は野狐となる。これに反し、この野狐身のまっただ中に生活していると答えたときに、前百丈は野狐から脱けでた、粧い、偽る生活を超えた、というのはどういうわけか、と問う。
我われには横に眼二つがある。眼横鼻直と申し、これは平常底でかつ真理をあらわしますけれども、横に二つの眼があるために、モノを相対的に見る。あるいは二元的に見る。
ところが、禅では、一雙眼といって、縦についた一つの眼を「正法眼」、悟りの眼といたします。 その眼は不二の姿なき彫像を横に見る癖を否定して、そのものに成り切って見る無心の縦眼。
この眼によって、この不落、不昧の因果の関係を透視すると、野狐理脱の真相がわかり、前百丈五百生の野孤身もまた風流である、泣き、狂い、酔い、競う我われの生活の風流ならざるところ、また風流の日々である、好日の日々である、ということがわかると言うの
です。
無門はここのところを詩によみました。
不落不昧 両采一賽 不昧不落 千錯萬錯
因果の不落と不昧は、さいころを一ふりして二つとも勝ち目が出たようなものだ。
不落が不昧で不昧が不落だと肯定した。
しかし不昧と不落とは、ちょっと間違うとどちらもいけない、いけない、と否定した趣旨の 詩で、禅者は古来、禅境、禅昧を散文より詩になじむものとして、このような表現をするならわしがあります。
我われ人の顔をした中に実は狐がたくさんいますし、かの狐の中に安住した仏がいるかもしれません。
非常な逆説でありますが、不落で不昧、不昧で不落の二律背反。
背反している二つが実は同 一である。絶対矛盾の自己同一、あるいは即非の論理といいますが、常に禅の公案は、普通の次元の論理でまいりますと二律背反、矛盾の中にあります。
そこが実は一つになる、あるいは一つであったと自覚するところに、禅の修行の第一歩があるのでございます。
今日は問題点を並べいささか整理したつもりですが、解決は、禅にあっては実地に坐るより他ないことでありまして、禅経験によって、現代生活の野狐身をどう捉えどう脱け出てゆくか
が本当の皆さまのものになる。
V 質問に答える
W 参禅の方法と釈迦牟尼会
X 禅会用語小辞典
ア行
【朝坐】あさざ〔ちょうざ〕 朝食の後、午前中の坐禅の時間。(二九ページ参照)
【一往坐】 いっちゅうざ〔いっしゅざ〕 柱は線香のこと。一回の坐禅の長さ、一本の線香が燃える時間
(二六、三三、九八、一二一ページ参照)
【維那】いのう〔いの〕 堂内の規律を保つ役位。(八九ページ参照)
【引磬】いんきん 入定、出定の際などに先頭の直日が鳴らす小さな鐘。(三二、三六ページ参照)
【隠寮】いんりょう 師家または老師の居室。弟子を指導する部屋でもある。(三九ページ参照)
【雲水】うんすい 行雲流水の略。一般に修行僧のこと。(八九ページ参照)
【円相】 えんそう 禅僧が描く円、無の境地を表す。
カ行
【開静】〈開定〉かいじょう 起床のこと。曹洞宗では坐禅をやめることをいう。
【解定】〈解枕・開枕〉かいちん〔かいじょう] 就寝すること(時間)。(二九、九八ページ参照)
【開板】 かいはん 夜明けに起床を告げる板木。(二八ページ参照)
【看経】 かんきん 眼で経文を看て、心を法理に照らすこと。
【喚鐘】 かんしょう 入室などのときに合図に叩く鐘。(三一、三七、四○ページ参照)
【看話禅】 かんなぜん 臨済宗の公案を工夫する修行法。
【観音経】かんのんきょう『法華経』第二十五品、単に普門品ともいう。一般に良く知られているお経。(三二ページ参照)
【気海丹田】 きかいたんでん 下腹部にある気の元。
【吉祥坐】 きちじょうざ 右足を上にする結跏趺坐。
【教外別伝】 きょうげべつでん 言葉によらず悟りを伝えること。(七九ページ参照)
【行住坐臥】 ぎょうじゅうざが 日常生活そのもの。これを四威儀という。(一〇ページ参照)
【暁天坐】 ぎょうてんざ 早朝一番の坐禅の時間。(二九、三一、九九ページ参照)
【経行】 きんひん 動中の工夫の一つ。坐禅のとき、眠気を防ぐため歩きながら禅定を保つ。
(三八、九八、一〇五ページ参照)
【偈】げ お経の中の詩文。韻文の体裁をとる禅宗の法語類をいう。
【警策】 けいさく「きょうさく] 警覚策励するため坐禅中に直日などが巡警に使う棒。(三二、三十、百一、百十一ページ参照)
【磐石】 けいせき 行事を知らせるために叩いて音を発する石。(三四、三七ページ参照)
【懈怠】 けたい なまけ怠ること。
【結跏趺坐】 けっかふざ両足を組んで坐る坐法。(一八、一九、九七ページ参照)
【見性】 けんしょう 自己の本心を徹見すること。(二七、五〇、九七ページ参照)
【検単】 けんたん 師家または直日が修行者の坐を点検すること。
【公案】 こうあん 公府の案牘(あんとく)の略。師家が弟子に与える禅の修行の課題。(二七、四○、八〇、八一ページ参照)
【後板】こうはん〔ごはん] 坐の始まりを告げる板木。(二八、三一ページ参照)
【香盤】こうばん 直日が時間をみるため線香を立てる盤。
【降魔坐】ごうまざ 左足を上にする結跏趺坐。
サ行
【古参】こさん 古手の参禅者。(一七ページ参照))
【古則】 こそく 古人の言動を記した語句。(七八ページ参照)
【在家】ざいけ 僧侶でない一般の人。(七五ページ参照)
【再進】<再請> さいしん
食事のときの「おかわり」。(三五ページ参照)
【差定】 さじょう 行事の時間割、配役を記した表。(一六ページ参照)
【叉手当胸】 さすとうきょう[しゃしゅとうきょう〕 右手を胸に当て、その上に左手を交叉させる。
(堂内を歩くときなど)(三〇、三一、三八、四一ページ参照)
【生飯】 さば「さんば、さんはん〕食事の作法。一部を餓鬼(がき)などに与えるために別にとる。
ただし七粒以下。(三四ページ参照)
【坐蒲】 ざふ 坐禅のときに尻に敷く小さな蒲団。(一三、一一二ページ参照)
【作務】 さむ 道場における労働。(三九、八四ページ参照)
【三綱領】 さんこうりょう 釈迦牟尼会の修行の要点をまとめた綱領。(三二ページ参照)
【参禅】 さんぜん 入室して師家に見解を呈すること。(三九、六二ページ参照)
【三昧】 さんまい〔ざんまい〕 サマーディ。坐禅における禅定。(一〇、一八、二三、四三、一一〇ペ
ージ参照)
【四威儀】 しいぎ行住坐臥の起居振舞。
【知客】 しか お客様の接待係。(一七、三九ページ参照)
【只管打坐】〈祇管打坐〉しかんたざ 坐禅に何の目的も意義も求めず、ただひたすら坐禅すること。
【直日】 じきじつ 道場における重要な役割、坐の進行係。(一七、三三、一〇九ページ参照)
【直日単】 じきじつたん 直日側の坐る単。(一七ページ参照)
【食堂】 じきどう 食事をするところ。(三四ページ参照)
【師家】しけ禅の老師。修行経験豊富で修行者接得の最高の指導者。(一七、四三ページ参照)
【侍者】 じしゃ老師の近くにいて用務を果たす者。(一七ページ参照)
【止静】 しじょう 坐禅して禅定に入ること。坐禅のはじまりをいう。
【著語】 じゃくご 境界を詩文などで適切に表現すること。(七八ページ参照)
【十牛図】 じゅうぎゅうず 十枚の牛の絵を用いて修行の段階を表した図。(四八ページ参照)
【踊経】 じゅきょう お経を読むこと。読経。
【粥座】 しゅくざ 摂心のときに朝お粥を食べる座。朝食のこと。(三四、八九ページ参照)
【頌古】 じゅこ 古則に詩文をつけること。(七八ページ参照)
【出家】 しゅっけ 僧侶になること。
【巡警】 じゅんけい 巡堂警省のこと。坐禅中に居眠りまたは懈怠の人たちを戒めるために警策を持って回ること。(一○一ページ参照)
【巡錫】 じゅんしゃく 各地の道場を回ること。(六一ページ参照)
【定】 じょう深い三昧に入ること。(二四、九七ページ参照)
【相見】 しょうけん 老師に面接すること。正式に弟子入りするには相見の礼をとる。(三九、四二ページ参照)
【正法眼】 しょうぼうげん 正しい仏の眼。正法を明らかにうつす智慧の眼。(九二ページ参照)
【商量】 しょうりょう 師家が弟子の力量を計ること。
【初関】 しょかん 最初の関門である公案。(二七、八○ページ参照)
【清規】 しんぎ 禅堂の規則。(八四ページ参照)
【振鈴】 しんれい 入室の際に老師が合図に振る鈴。(四○ページ参照)
【垂示】 すいじ 師家の訓戒。(七八ページ参照)
【随息観】 ずいそくかん 息の出入りに意識を集中して禅定に入る坐法。(二六、八一、一〇ニページ参照)
【数息観】 すそくかん 息を数えることに意識を集中させて禅定に入る坐法。(二六、八一)
【摂心】〈接心> せっしん 一定の期間集中的に坐禅すること。(一五、一六、二八、四二、九八ページ
【禅定】 ぜんじょう 坐禅で定に入ること。(四三、一〇〇ページ参照)
【善逝】ぜんせい 仏陀の別名。(六二ページ参照)
【禅那】 ぜんな ジェンナ。坐禅の語源。ヨーガの一つともいわれる。(九ページ参照)
【前板】ぜんばん 坐が始まる少し前に板木を叩いて合図する。(二八、三一ページ参照)
【総参】 そうざん「そうさん) 相見を終えている者が全員入室し、老師の指導を受けること(時間)(四ニページ参照)
【叢林】 そうりん サンガ。僧堂のこと。
タ行
【祖録】 そろく 祖師の言動を記した書物。(一〇八ページ参照)
【析】<卓>たく 拍子木のこと。直日がこれを叩いて坐禅の進行をする。(三二、三六ページ参照)
【塔頭】 たっちゅう 大寺院の中にある小院。(五八ページ参照)
【単】 たん 禅堂で坐禅する場所。坐蒲一つをさす。(三一ページ参照)
【抽解】 ちゅうかい 坐禅と坐禅の間の休憩時間。
【朝課】 ちょうか 朝の勤行。朝の読経のこと。
ナ行
【提唱】 ていしょう師家が祖録などを講じること。(四三、八三、一〇ハページ参照)
【低頭】 ていとう〔ていず] 頭を下げ礼拝すること。(二九、一〇九ページ参照)
【典座】 てんぞ 道場における料理係。(一七、三四ページ参照)
【東司】 とうす 便所のこと。禅堂では東にあるところからそう呼ぶ。(二八ページ参照)
【斎】とき〔さい]昼食のこと。一日の正餐でもある。(三四、八九ページ参照)
【斎座】 ときざ〔さいざ) 昼食の時間、座。(三四、三五、八九ページ参照)
【独参】 どくさん 希望者が個別に入室して老師に公案の見解を呈する。(四○ページ参照)
【入室】 にっしつ〔にゅっしつ] 老師の待つ隠寮に修行者が一人ずつ入室し指導を受けること。(三
四、四○、四二ページ参照)
【入定】 にゅうじょう 定に入ること。坐禅三昧の境地に入ること。(二五、三三、一〇四ページ参照)
【如意】 にょい 師家の持つ棒。(四二ページ参照)
ハ行
【晩課】 ばんか 夕刻の読経。
【不立文字】 ふりゅうもんじ 禅の真髄は文字によって表現できないとして体験を重んずる。(七九ページ)
【半跏趺坐】 はんかふざ 片足を太股に上げて坐る坐法。(一八、二〇、九七ページ参照)
【般若心経】 はんにゃしんぎょう 二六二字の中に般若皆空の教えを説いた簡潔なお経。(三二ページ参照)
【評唱】 ひょうしょう 本則のコメント。(七八ページ参照)
【昼坐】 ひるざ 昼食の後、午後の坐禅の時間。(二九ページ参照)
【副司】<副寺> ふうす
道場の会計係。(一七ページ参照)
【仏足頂礼】 ぶっそくちょうらい 膝まづいて仏の御足を頂くようにする礼。(二九、三三、ページ参照)
【碧巌録】 へきがんろく 碧巖集ともいう。達磨大師を初め古人の禅的機縁百則を編集した禅の古典。
(四三、七八ページ参照)
【方丈】 ほうじょう 住職の居室。一丈四方の居室の意味。
【法鼓】 ほっく〔ほうく] 提唱などの合図に用いる太鼓。法雷(ほうらい)とも呼ばれる。
【発心】 ほっしん 発菩提心の略。仏道の修行を決意すること。(一二ページ参照)
【本則】ほんそく 古則などの本文。(八五ページ参照)
マ行
【無相】むそう無の相、大宇宙の真の姿は相が無い。一切の執著を離れた境地。
【無門関】 むもんかん 宋の無門和尚が古人の言動を公案として集めた四十八則。(一六、四三、七
六、八二ページ参照)
【面壁】 めんべき 壁に向かって坐禅すること。
【黙照禅】 もくしょうぜん 曹洞宗の只管打坐の禅風。
ヤ行
【薬石】 やくせき 夕食の代りにとる軽い食事。(三四、三五、八九ページ参照)
【野狐禅】 やこぜん 真の悟りを得ていない偽禅。(八三ページ参照)
【夜坐】 やざ 夜の坐禅。(一五、二九、四二、九九ページ参照)
ラ行
【臨済録】 りんざいろく 臨済禅師の言動を記録した語録。(一六、四三ページ参照)
【臘八】ろうはつ 〔ろうはち〕 臘八摂心の略。十二月八日(臘八) 釈尊が菩提樹下で悟りを開いた日 (成道)の故事にちなみ、十二月一日から八日の朝までひたすら坐禅修行をする大摂心。(七○ページ参照)