グノーシス主義

 

 

 

 

グノーシス:プトレマイオスの教説(プレーローマ)

 

Le Système de Structure du Ogdoas Pleerooma   オグドアス・プレーローマ構成表

 

プトレマイオス派グノーシス主義のシステム  

(Selon le Raport d'Eirenaios)

‘ΟΟγδοας ’Αιων

 

’αιων ’ανδρειος
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男性アイオーン

’αιων γυναικειος
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女性アイオーン

‘ο Βυθος Ho Bythos, 深淵),
‘ο Προπατηρ 
Ho Propateer, 原父)

‘η Σιγη Hee Siigee, 沈黙・静寂>),
‘η ’ Εννοια 
Hee Ennoiaa, 思念)

‘ο Νους Ho Nous, 理法・宇宙理性),
‘ο Μονογενης 
Ho Monogenees, 独り子)

‘η ’Αληθεια Hee Aleetheia, 真理)

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‘ο Λογος Ho Logos, 言葉)

‘η Ζωη Hee Zooee, 生命)

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‘ο ’Ανθρωπος Ho Anthroopos, 人間)

‘η ’Εκκλησια Hee Ekkleesiaa, 教会)




Ho Ogdoas Aion
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オグドアス・アイオーン

 

aioon andreios
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男性アイオーン

aioon gynaikeios
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女性アイオーン

ビュトス Ho Bythos, 深淵),
プロパテールHo Propateer, 原父)

シーゲー Hee Siigee, 沈黙・静寂),
エンノイアー (Hee Ennoiaa, 思念)

ヌース Ho Nous, 理法・宇宙理性),
モノゲネース Ho Monogenees, 独り子)

レーテイア (Hee Aleetheia, 真理)

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ゴス (Ho Logos, 言葉)

ゾーエー Hee Zooee, 生命)

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アントローポス (Ho Anthroopos, 人間)

エククレーアー (Hee Ekkleesiaa, 教会)


‘ΗΟγδοας

第一    男性    プロパトール (‘ο Προπατωρ Ho Propatoor, 原父)____ [別名] ビュトス

第二    女性    エンノイア (‘η ’Εννοια Hee Ennoiaa, 思念)____ [別名] シーゲー

第三    男性    ヌース (‘ο Νους Ho Nous, 理法・宇宙理性)____ [別名] モノゲネース

第四    女性    アレーテイア (‘η ’Αληθεια Hee Aleetheia, 真理)

第五    男性    ロゴス (‘ο Λογος Ho Logos, 言葉)

第六    女性    ゾーエー (‘η Ζωη Hee Zooee, 生命)

第七    男性    アントローポス (‘ο ’Ανθρωπος Ho Anthroopos, 人間)

第八    女性    エクレーシア (‘η ’Εκκλησια Hee Ekkleesiaa, 教会)

 

  グノーシス主義異端反駁論者リヨンのエイレナイオス(Eireenaios)の報告による、プトレマイオス派グノーシス主義における至高プレーローマ界、「オグドアス」永遠世界の構成。四つの男性アイオーンと四つの女性アイオーンが、それぞれ「対」を構成している。「プロパテール」または「ビュ トス」は、「先在の父」とも「知られざる上の神」とも呼ばれ、人間や天使たち、高次アイオーンたちの認識を超絶した至高存在。

第9アイオーン  男性    ビュティオス (‘ο Βυθιος Ho Bythios, 深み)

10アイオーン 女性    ミクシス (‘η Μιξις Hee Miksis, 混合/交合)

11アイオーン 男性    アゲーラトス (‘ο ’Αγηρατος Ho Ageeratos, 不壊)

12アイオーン 女性    ヘンノーシス (‘η ‘Εννωσις Hee Hennoosis, 配慮・反省)

13アイオーン 男性    アウトピュエース (‘ο ’Αυτοφυης Ho Autophyees, 自己成長)

14アイオーン 女性    ヘードネー (‘η ‘Ηδονη Hee Heedonee, 喜び・快楽)

15アイオーン 男性    アキネートス (‘ο ’Ακινητος Ho Akineetos, 不動)

16アイオーン 女性    シュンクラーシス (‘η Συγκρασις Hee Synkraasis, 相互混合)

17アイオーン 男性    モノゲネース (‘ο Μονογενης Ho Monogenees, 独り子)

18アイオーン 女性    マカリア (‘η Μακαρια Hee Makariaa, 幸福・浄福)

‘Η Δωδεκας

19アイオーン 男性    パラクレートス (‘ο Παρακλητος Ho Parakleetos, 慰安者・仲介者)

20アイオーン 女性    ピスティス (‘η Πιστις Hee Pistis, 信仰・誠実)

21アイオーン 男性    パトリコス (‘ο Πατρικος Ho Patrikos, 父性)

22アイオーン 女性    エルピス (‘η ’Ελπις Hee Elpis, 希望・期待)

23アイオーン 男性    メートリコス (‘ο Μητρικος Ho Meetrikos, 母性)

24アイオーン 女性    アガペー (‘η ’Αγαπη Hee Agapee, 愛・兄弟愛)

25アイオーン 男性    アエイヌース (‘ο ’Αεινους Ho Aeinous, 永遠理法)

26アイオーン 女性    シュネシス (‘η Συνεσις Hee Synesis, 結合・統合)

27アイオーン 男性    エクレーシアスティコス (‘ο ’Εκκλησιαστικος Ho Ekkleesiastikos, 伝道)

28アイオーン 女性    マカリオテース (‘η Μακαριοτης Hee Makariotees, 幸福)

29アイオーン 男性    テレートス (‘ο Θελητος Ho Theleetos, 意欲・慾望)

30アイオーン 女性    ソピアー (‘η Σοφια Hee Sophiaa, 智慧・義しき判断)

 

 

カトリック正統天上位階構造表(聖トマスの天上位階論)

位階

名称

単数形

複数形

複数 カタカナ 名称

基本語源

 

上位

第一位階

熾天使

Seraph

Seraphim

セラフィーム

[H] MYiPhaReS

第二位階

智天使

Cherub

Cherubim

ケルービム

[H] MYiBWReKh

第三位階

座天使

Thronus

Throni

トロニー

[G] Θρονος

第四位階

主天使

Dominatio

Dominationes

ドミナーティオーネース

[L] ――

第五位階

力天使

Virtus, f

Virtutes

ウィルトゥーテース

[L] ――  

第六位階

能天使

Potestas, f

Potestates

ポテスターテース

[L] ――  

下位

第七位階

権天使

Principatus

Principatus

プリンキパートゥース

[L] ――  

第八位階

大天使

Archangelus

Archangeli

アルカンゲリー

[G] ’Αρχαγγελος

第九位階

天 使

Angelus

Angeli

アンゲリー

[G] ’Αγγελος

 

Le Système de Structure de l'Hiérarchie Céleste  キリスト教天上位階論(天使位階表)

 

【説明】 : キリスト教における「天使論」は様々に展開された。中世哲学の盛期において、天使とは、類としての個物即ち、「純粋概念存在」とされた。純粋概念存在とは、言い換えれば、「類」を規定する概念そのものが天使の存在であると云うことであり、従って、天使は「個物(レース)」であって、同時に、その概念形相のクラス全体であり、それ故、天使は、個々の人間が、「人間」と云う集合クラスに帰属するような意味での帰属類は持っていない。天使は、その一個体が、即ち「類」であり、個々の天使は、 それぞれ別の類に属している。

  しかし、人類が、更に上位のクラス、例えば、「霊長類」とか「哺乳類」と云ったクラスに属するような意味で、類を具現する天使もまた、上位の類に帰属している。諸天使は、上天の神の玉座の周りで、そのクラス・階梯に応じて神を取り巻いており、彼らは一種の「聖なる合唱隊(Chorus Sanctus)」を構成し、神の榮光を讃美し続けているとされる。

 

  天使の「合唱隊」は、天使の「位階(階級)」に応じて天上の位置が定まっており、これを、「天上位階(Hiérarchie Céleste, Celestial Hierarchy, Hierarchia Caelestis=ヒエラルキア・カイレスティス)」構造と呼び、キリスト教の教父たちに始まり、様々な賢者・聖人が、天上位階論を論じ、天上における天使の位階構造を主張した。それらの人々には、聖アンブロシウス、聖ヒエロニュムス、プセウド(偽)ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース(註 *1)、聖グレゴリウス I 世大教皇、聖トマス・アクィナス、セヴィリアのイシドール、モーゼス・マイモニデス等がいた。これらの人々は、「天使の位階」を、7段階、9段階、10段階、更に11段階とする説を主張した。また段階数が同じであっても、位階天使の名称や順序が異なっている説もあった。

  これらの多様な天使位階論=天上位階論は、聖トマス・アクィナスが、偽ディオニュシオスの三位階を一組として、この組を三つ積み重ねて、全9段階を天上位階とする説に、「祝福」を付与した結果、カトリック教会における聖トマスの権威の確立と共に、これが、カトリック教会のカノン天上位階構造となった。

 

  聖トマス・アクィナスの説でもある、偽ディオニュシオスの天上位階構造は、「セラフィム、ケルビム、座天使」の三位階を上位位階とし、中位位階として、「主天使、力天使、能天使」の三位階を置き、下位位階として、「権天使、大天使、天使」の三位階を置くものであった。

 

  聖座教会(カトリック教会)は、この位階構造論を正統と認めたが、16世紀の宗教改革の後、初期プロテスタントたちは、この位階論について再度、議論すると共に、聖トマスの正統位階論を拒絶した。

  (このように、天使の位階を九階梯と定めたことで、膨大な数の天使に関し、具体的に誰がどの位階に帰属し、また各九位階には、どういう名の天使がいるのかと云うことが問題にもなった。キリスト教聖書カノンに登場し、具体的に名称が分かっている天使の数は極めて少なく、そこで、『聖書外典』やユダヤ教の『タルムード』、またユダヤ神秘主義思想カッバーラの『ゾハールの書』などの伝承に登場する天使で、天上位階の階梯構造を満たした。その結果、『新約聖書・ヨハネの黙示録』に登場する、「神の前に立つ七人の大天使」の一人であるガブリエルは、「大天使」の位階であるが、また「座天使」の位階にもあり、更に「第八位階=ケルビム」を統括する天使[智天使]の位階にもあると云うようなことが起こった)。

 

  (天使たちは、位階に応じて、合唱隊を構成しており、天使の階級に応じて、九種類の天的合唱隊が存在するとされる。これらの天の合唱隊は、最高位天使であるセラフィムを代表として、すべて神を讃美する合唱を行っている。『旧約聖書・イザヤ書』6章3に依れば、セラフィムは、神の玉座の傍らにあって、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その榮光は全地に満ち充ちる」とうたい、神を讃美しているとされる。この言葉は、ラテン語に翻訳され、聖座教会の讃美の歌や祈りとなっている。"Sanctus, Sanctus, Sanctus Dominus Deus Sabaoth, Pleni sunt Caeli et Terra Gloria Tua." この讃美のラテン語では、『イザヤ書』の言葉とは違い、「全地」が「天地」となって、「天」も含むのと、「その榮光」であったのが、「汝の榮光」と変わっている)。

 

  以下に表にして示すのは、カトリック教会が正統と決めた、聖トマス・アクィナスの説による九段階天上位階表である(それはまた、偽ディオニュシオス・アレオパギテースの説でもあるが)。その他の説については、取りあえず、様々な説があったと云うことで、目下、具体的に示すことはしない(ダンテ・アリギエリが『神曲』のなかで表明した位階論及び、通常、眼にすることのない、ヘブライ語の天使位階名が使用される、『ゾハールの書』の位階論については、これらだけを別位階論の例として、取り上げる。ダンテの場合、「大天使」と「権天使」の位置の上下が変わっているだけで、他は、聖トマス=偽ディオニュシオスの位階論構造と同じである)。

 

 

 

 

 

グノーシス主義

1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によれば、グノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。

 

反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。

人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。

人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。

この「至高者」の下には、至高者に由来する諸の神的存在があり、グノーシス主義の創作神話では、この神的存在を「アイオーン」と呼ぶ。

 

キリスト教グノーシス主義

キリスト教グノーシス主義では、人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者とは、もちろん「イエス」であり、イエスは「父なる神」(=至高者)の下から派遣され、旧約聖書の創造神(=劣悪なる造物主)の束縛から人間を解放するため、「本来的自己の認識」を説く福音をもたらしたという神話を持つ(神話の詳細は、グノーシス各派により異なる。)。

 

キリスト教グノーシス主義は、異端であるとして、正統派・主流は教会から反駁されてきた。紀元2世紀のリヨン司教であったエイレナイオスや、3世紀のローマ司祭であったヒッポリュトスなど反駁書を記している。ヒッポリュトスは、グノーシス主義の教義や神話などが、ギリシア神話やプラトンの思想や、その他、諸々の素材を元に創作したものであるという説を唱え、「アイオーン」という用語もまた、ギリシア神話やプラトーンの著作から借用したものだと述べた。

 

このように、伝統的には、グノーシス主義は、諸宗教の要素が混淆したシンクレティズム宗教に過ぎないと考えられていたが、とくにナグ・ハマディ写本の発見により、非キリスト教グノーシス主義の存在が知られるようになり、現在では、グノーシス主義を、単なる混淆宗教、とりわけキリスト教にギリシア哲学や東方の諸宗教の要素を加えただけの異端説として論ずる学者は少ない。

 

グノーシス:プトレマイオスの教説(ソフィアの転落)

グノーシス (講談社選書メチエ)筒井賢治

p60 プトレマイオスの教説においてプレーローマの完成の後に来るのは、ソフィアの転落という事件である。救済論の理論体系として、この出来事が全体の核心に位置する。

ソフィアは30番目の最後のアイオーンの神格であるが、ペアのテレートスを欲せずに、至高神である父プロパトールを知って一つになりたいと願ったが、 圧倒的偉大さに驚愕して、激しい苦しみにおちいる。

願いは宇宙の創造の方向に向かっているので、プレーローマから転落する方向であり、境界であるホロスにさえぎられて、自分の限界を覚り、自分の激しい情熱と想いを境界の外であるアカモート(中間層)に投げ捨てる。

 

紀元2世紀のプトレマイオスの説では、プレーローマには、男女を一対として合計八体の至高アイオーン

 

 

 

 

 

 

プロパトール

ヌース

ロゴス

アントローポス

 

エンノイア(思考)

アレーテイア(真理)

ゾーエー(生命)

エクレシア(教会)

「プロパトール」であるが、この名は「先在の父」とも訳され、超越性の更に超越性にあるとされる。

 

p63

モノゲネース(ヌース)は父の計らいに従って、再びソフィアのような無謀なアイオーンが出てこないように、 

キリストと聖霊を流出し、キリストは彼らに「対」の本性を、聖霊は感謝を教え、真の安息を導き入れた。

この恵みに対する感謝として、全プレーローマは一致団結して各アイオーンが持つもっとも美しし特質を持ち寄って一つにし、イエス(ソーテール、救い主)と護衛役の天使たちが一緒に流出された。

(エイレナイオス異端反駁1.2.56

このイエスは新約聖書の歴史的人物とは別である。

ソーテールと天使には伴侶がいないのがポイント

 

 

 

p64 アカモートにはまだかたち(モルフェー)がない。アカモートは自分の惨めな境遇を知って動揺し、悲しみ、恐れ、落胆、無知といった感情(パトス)に取りつかれる、これらの感情から、物質あるいは「物質的なもの」が成立する。

他方、自分の出自がプレーローマであることをキリストを通して知ったアカモートには、同時にエピストロフェー(立ち返り)という性向も生じる。このエピストロフェーから「心魂的なもの」が生み出される

(エイレナイオス異端反駁1.4.14

 

秘教の常識

感情があると物質を生む       対象として現れる  時空

想いがあると心魂的なものを生む   対象として現れる  時空  立ち返り  悔い改め

 

またアカモートは救い主  霊的なものを持つ。

アカモートから生まれた3つの要素が流出してこの世界が形成される。

物質と心魂的なものはデミウルゴス(創造神)となり宇宙を造り、被造物の中には霊的(モナド 本来的自己)なものが入った。

物質(肉体)と心魂的なも(幽体)を脱ぎ捨て、霊的なもの(モナド)に至り、プレーローマに帰っていくのが彼らの救済である。

 

 

プトレマイオスの神学を見てみよう。

 

初めに不可知の神、男性原理「原父」=深淵と女性原理「思考」=沈黙が有り、そこから6柱の神(アイオーン)が産まれ計4組のアイオーンとなった。即ち

 

原父(プロパトール)と思考(エンノイア)

叡智(ヌース)と真理(アレーテイア)

言葉(ロゴス)と命(ゾーエー)

原人間(アントロポス)と教会(エクレシア)

 

この初めの4組は至高にして別格のアイオーンでありオグドアス(8個の集まり)と呼ばれた。これが恒星界オグドアスである。

さらに原父と思考は多くのアイオーンを産み、最後に「欲求と知恵(ソフィア)」が生まれ、神々は30組となった。

プトレマイオスの特徴の一つは神(アイオーン)が男女ペアをなし、子供として他の神を産むという事だ。日本の様な母権的な農業社会を想像させる。しかしプロティノスの影響で出産を「両性具有の原父から流出した」と表現する文献も有る。

もう一つ注目されるのはアイオーンが全て抽象名詞である事だ。そして中期プラトンの用語が至る所に現れる。恐らくグノーシス主義はイエスの様な底辺の民と交わる者ではなく、パリサイ派やエッセネ派の様な知的エリートによって担われたのだろう。

叡智(ヌース)は原父の偉大さを教え広めようとしたが、原父はそれを喜ばず邪魔をした。原父は不可知でなければならないからである。

最も低い神格の知恵(ソフィア)は原父の正体を知りたい(交わりたい)という欲求を抑え切れず叡智界の境界を破ろうとした。神界の秩序を犯したソフィアは「意図」と「情念」に分裂し惑星界(ヘブドマス)へ堕とされた。

叡智はキリストを生み、原父が不可知である事を世界に宣教し叡智界の秩序を回復した。しかしソフィアは叡智界に戻れず、「意図」と分裂した「情念」は悲しみ、恐れ、困窮、無知という4つの否定的感情を発した。

 

ソフィアは天使達と交わって悪神「デミウルゴス」、「霊」(プネウマ)、「魂」(プシュケー)が生まれ、デミウルゴスは惑星界と物質界を創造し、また人間を作って「魂」を吹き込んだ。

一方、彼女から切り離された「情念」は物質化し、4つの否定的感情は4大元素になった。こうして「霊」「魂」「物質」「デミウルゴス」が生まれた。

女性原理が欲望を抑え切れず罪を犯す点は聖書と似ているが、この世は神ではなくデミウルゴスが作った、言い換えればユダヤ教の信仰するヤーウェは実は悪魔だと言うのである。

デミウルゴスは母ソフィアの存在を知らず、自分が全世界の主だと思っていたが、ソフィアはひそかにデミウルゴスの中にも「霊的な胎児(プネウマ)」を入れていたので、人間の中にも「霊的な胎児」が蒔かれる事になった。

罪を作ったのはソフィアだが、デミウルゴスの裏をかいて人間の魂に良心を植え付け、世界救済の可能性を残しておいたのもまたソフィアである。堕罪神話の中に救済の可能性が微かに残っている辺り、天台教学の十界互具に似ていないだろうか?

人間の魂が自身の中にプネウマを発見し成熟して真の認識を得ると、ソフィアは叡智界に復帰しキリストと結婚する。デミウルゴスと良き魂は恒星界に上昇し、悪しき魂と物質界は火によって焼かれ滅びる定めとなっていると言う。

人間だけではなく「宇宙そのもの」がすでに狂っているのではないか? 世界はその出発点から間違っているのではないか? という後期ドストエフスキーの「大審問官」の苦悩はグノーシス主義に源を発するのである。

 

 

 

 

グノーシス:プトレマイオスの教説(人間の救済)

グノーシスの神話は事実として受け止めるのではなく、彼らの救済の理論が先にあり、神話を後付にした。

グノーシスは間違えた理論なのでそれを乗り越えて正しい世界をつかまえることがポイント。

 

グノーシス (講談社選書メチエ)筒井賢治

p68人間を3元素に応じて、3つの種族もしくはグループに分ける。

霊的  グノーシス主義キリスト教徒   モナド

心理的 正統多数派教会のキリスト教徒  コーザル体 幽体

泥的  異教徒             肉体

 

教えを内と外で使い分けるイエスやグノーシス派

山上の垂訓はマイトレーヤの教えを伝え、内輪の弟子にはグノーシスの教えを伝えていた。

  

p72種子がみな完成さえる時、彼らの母アカモートは、中間の場所を離れてプレーローマの内部に入り、花婿であるソーテール・・・を受け入れる。

・・・そして霊的な人々は心霊を脱ぎ捨てて叡智的な霊となって・・・プレーローマの中に入り、ソーテールの従者である天使たちに花嫁として委ねられる。(エイレナイオス 異端反駁1.7.1

 

 

グノーシス:フィリポの福音書

救済の到達点である新婦の部屋について  儀式を推察する  聖なる接吻?

性欲を伴わない結婚 肉体的交わりを意味しない  

欲望を苦悩とし、重荷であるかのように捨て去り、天使と一つの命になる

 

ナグ・ハマディ文書〈2〉福音書by 荒井 献, 小林 稔, 大貫 隆, 筒井 賢治

p60 世界の存立は人間であるが、人間の存立は結婚であるからである。穢れなき交接を考えてみなさい。すなわち、それには、大いなる力がある。穢れの中に在るのはその模像である

 

グノーシス派はこの世をサタンが造ったものなので忌み嫌っていて、この世界が存続しない消失する方向へ進むためには、だれもがグノーシス派になって、結婚しないことを望んでいた。

 

グノーシス教徒の結婚による救済観

p61 女のそれらは不従順な者(アダム)により、男のかたちの中に在るものたち(=魂)と呼ばれている。

そして何人もこれら(汚れた霊)から離れることができないであろう。もしそれら(の霊)が彼を捕えてしまい、彼が男性的かつ女性的な力、すなわち花婿と花嫁を受けないようならば、だが、誰でもそれ(力)を模擬の新婦の部屋から受け取るのである。

 

天使と一つになることで、悪から分離されて救済が起こる

 

グノーシス:マリヤの福音書

マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒   カレン・L.キング

理論と体験の最奥義

 

ナグ・ハマディ文書〈1〉救済神話  by 荒井 献 (翻訳), 小林 稔 (翻訳), 大貫 隆 (翻訳)

イエスが復活した後、弟子たちに姿(マイトレーヤ)を現し、しばらくの間、教えを説いている。

マリヤに教えられた秘儀

p120 (復活後のイエスは)「私があんたがたのために指図したこと、それをこえて何かを課するようなことをしてはならない。法制定者のやり方で法を与えるようなことはするな。あなたがたがその(法)の内にあって、支配されるようなことにならないために」

マリヤは「あなたがたに隠されていること、それを私はあなたがたに告げましょう。」「私は1つの幻の内に主を見ました」

「・・・また範型の内にあって(私が解き放たれたのは)天的な範型から(であり)、一時的な忘却の拘束(からである)。今から私が沈黙の内に獲ようとしているのは、時間の、時機の、そして永久の安息である」

マリヤは以上のことを言ったとき、黙り込んだ。救い主が彼女と語ったのはここまでだったからである。

 

デミウルゴスによって、人間の本質は内側にある至高神と同じ霊であることを忘れさせられている。

また束縛とは、正統派キリスト教会の唱える神と被造物の人間は全く違うものであるという律法と天敵の旧約の怒りの神によるもの

これらが一時的な忘却と束縛である。

また、永久の安息とはプレーローマ界のことである。

 

プトレマイオス神学はヘレニズム時代の宇宙観と一緒に理解する必要がある。当時ローマの人々は下のような宇宙を考えていたと言う。

地球を中心に何重もの同心球が取り巻いている。月下界の縁を月が運行し、その外側の惑星天は「7人の支配者」と呼ばれる惑星が通る。内側から金星、水星、太陽、火星、木星、土星である。この惑星は罪を負っている。金星は欲情、水星は虚偽、太陽は強欲、火星は憤怒、木星は傲慢、土星は怠惰である。

 

彼等が「支配者」と呼ばれるのは彼等が運命を支配しているからだ。惑星にはアルコーンが住み、神の領域へ脱出しようとする人間を妨害する。

 

さらに外側の恒星天は火の元素(恒星)が集中している。

叡智界=プレーローマはそのさらに外側にある。

12の惑星と悪徳

 

 

 

 

 

 

地球

太陽

 

 

 

 

 

 

 

欲情

虚偽

強欲

憤怒

傲慢

怠惰

 

 

 

 

 

 

 

グノーシス:三部の教え(概論)

女性原理が排除された三部の教え   地球の創造はソフィアではなくロゴスだったという宗派

 

ナグ・ハマディ文書〈1〉救済神話  by 荒井 献 (翻訳), 小林 稔 (翻訳), 大貫 隆 (翻訳)

p387 三層にわたる意味を現した表

 

p389 造物神、すなわち旧約聖書の神とその部下のアルコーンたちが生成してくる。しかし、彼らが心魂的な者たちと物質的な者たちの領域を初めて造り出すのではない。

彼らはすでに存在している2つの領域を、人間の創造に向かって、秩序付けるにすぎない。

 

ロゴスが力の強いアルコーンたちを支配者として任命する。

最後にすべてを統率する造物神をロゴスが任命する。

造物神は最後に現れるアルコーンである。

cf.現代国家の大統領のように、最後に現れる。

 

サナト・クマーラSanat Kumāra   =ルシファー?

サナト・クマーラとはサンスクリット語で「永遠の若者」を意味する。

ヒンドゥー教の神話・説話に登場する賢人にして、ブラフマーの精神から生まれた四人のクマーラ(チャトゥルサナ)の一人である。

近代神智学では、1850万年前に金星から、地球のロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における代理人としてやってきた霊的指導者マハトマである。「世界君主」として、マハトマの頂点に位置して、人類を含めた全ての生命体の「進化」を統括しているとされる。

 

ヒンドゥー教の宗教文書『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』7章ではリシ・ナーラダとの対話篇が記述されている。『ラーマーヤナ』でも彼の名やエピソードが挙げられ[2][3]、『シヴァ・プラーナ』には「サナト・クマーラ・サンヒター」と呼ばれる部分がある。

 

神智学的観点の影響を受けた人々の主張によれば、ひとを引き付け、全ての信仰信条の人々を団結させるサナト・クマーラのための神殿はスリランカのカタラガマ(英語版)にある聖地に位置している[4]

 

近代神智学

サナト・クマーラ(以下、近代神智学の記述に従い、サナット・クマラとする)は、近代神智学提唱者であるヘレナ・P・ブラヴァツキーが言及し、炎の主方に属するとしたが、その説明は簡素であり[5]、後に、神智学協会から分派したアルケイン・スクールのアリス・ベイリーやシェア・インターナショナルの創始者ベンジャミン・クレーム(英語版)などが発展させ、詳細な設定を追加した。

 

サナット・クマラは、地球の惑星ロゴス(地球の創造主、神)の、物質界における反映の任を司るために、1850万年前に金星からやって来たとされる。サナット・クマラは、当時から現在までも、エーテル体を纏っている。

サナット・クマラは、104人のクマラ方と共に地球に到来した。クマラ方は、炎の天主方などとも呼ばれる。105人のクマラ方の内、現在では4人だけが地球に留まっている。即ち、サナット・クマラと、「活動の仏陀 (プラチエカ仏陀)」などと呼ばれるクマラ方の3人とである。

サナット・クマラは、グレート・ホワイト・ブラザーフッドを創設し、そのリーダーである。モンゴルのゴビ砂漠上空の、エーテル界の上位亜界に、地球のエネルギー・センター(中心)、人間における頭頂チャクラに相応する「シャンバラ」を発生させ、本拠地としてそこに住む。

サナット・クマラが地球にやって来た当時の1850万年前は、人間は動物としては完成していたが、まだ本当の人間ではなかった。つまり、動物としての魂が宿る器に過ぎず、人間としての魂が宿る器ではなかった。

サナット・クマラは炎の主方と共に、人間としての進化の道にいる魂を、人間として転生させるために、動物人間であった地上人類の進化を促進したとされる。これにより、地上人類は本当の意味で人間となったとされる。

サナット・クマラは、第3段階以上のイニシエーションを司る。第2段階までは、マイトレーヤが司る。

 

 

 

神話4 『三部の教え』 『ナグ・ハマディ文書』より      

■1.唯一なる父について

 万物の根源である父は、彼自身の他にはまだ何も存在しないときから、すでに存在した。他の誰かによって生み出されたものではない彼こそが、本来の意味で父であり、神なのである。この神は、「知りえざる者、いかなる思考によっても知解しえざる者、いかなる物によっても見られえざる者、いかなる言葉によっても語りえざる者、いかなる手によっても触りえざる者」であり、自分自身を思考する者とされる。ただ一人唯一なる者である父は、「幹と枝と実をそなえた根のような仕方で存在する」のである。

 

■2.御子と教会

 「父」なる至高神と共に始源的存在者に数えられるのは、「御子」と「教会」である。御子は父によって最初に生み出された者であり、彼に先立つものが誰もいない「独り子」であって、神と共に永遠に共存する。また教会は、これ以降の無数のアイオーンたちを生み出し、それによって形成されるものである。

 

■3.アイオーンたち

 父は、自らは減少することなく、その思考によって次々にアイオーンたちを生み出す。また、父はアイオーンたちについて知悉していたが、アイオーンたちは父を知らなかった。「父はアイオーンたちを思考として生み出し、種子の状態に置いた」のであって、彼らは「胎児」として必要なものを十分備えていたが、自分自身が何に由来するか、永遠に存在する者とは何か、を知らなかった。そして御子は、アイオーンたちに対して父の存在を啓示した。なぜなら、「アイオーンたちには御子を見ることが可能であり、彼らが御子について知ることも語ることも可能」だったからである。

 

■4.ロゴスの過失

 アイオーンたちは、把握不可能な父について沈黙を守っていたが、アイオーンの最後の一人であるロゴスは、父の知解不可能性を敢えて把握し、これを賛美したいと考えた。ロゴスは思い上がりと過剰な愛によって、父に向かって突き進んだ。しかし、父は彼から離れ、境界を固くした。そしてロゴスは、「確固たるものとして手に入れようと欲したものを、かえって影と映像と模写として生み出してしまった。なぜなら、彼は光の輝きに耐えることができず、下にある深淵の方を眺めてしまい、心を二つに分けてしまったからである」。こうしてロゴスは二つに分裂したのだった。とはいえ、これらの出来事は、完全に否定的なものとして評価されてはいない。何よりもそれはロゴスの「善き意図」によって行なわれたものであり、しかもその出来事は父の経綸によって予め定められていたことが強調される。

 

 分裂したロゴスのうち、完全である部分は、プレーローマ界に帰昇して行った。他方、思い上がった考えから生じた欠乏を抱えたロゴスは、プレーローマ界の外に留まった。そして、このロゴスの考えによって、不従順で覇権を好む多くの者が現れてきた。彼らはプレーローマと似ているが、その模写、映像、影、幻想に他ならず、理性と光を欠いている。しかし彼らは自分たち自身について、自分たち自身によって存在しており、始源を持たない者たちなのだと考えた。

 

■5.ロゴスの回心

 ロゴスは、これらの不従順な者たちのが発生する原因となったが、自分自身は一層の錯乱の中にあり続けていた。彼が見たのは、完全ではなく欠乏、一致の代わりに分裂、安定の代わりに混乱、安息の代わりに争乱であった。また、ロゴスは無力な者となっていたので、これらの者たちを滅ぼすこともできなかった。

 

 しかしロゴスは、別の意見と別の考えに立ち帰った。これがロゴスの「悔い改め」(回心)であり、それは不従順な者たちを裁いて破滅させ、破滅に抵抗して戦う者たちには、怒りが彼らの後を追いかけたのだった。ロゴスは回心した後に、真に存在する者たちを想起し、上なるロゴスのための祈りを続けた。彼の祈りと想起は無為のままではなく、数多くの力(=心魂的な者たち)となった。そしてそれらの力は、模写に属する者たち(=物質的な者たち)よりははるかに善く、大きかったが、プレーローマ界に住まう先在の者たちと同等ではなかった。ロゴスは祈った後に自分を善き者に向け、心魂的な者たちに、栄光に満ちた先在者を探し、これを祈る性向を植えつけたのだった。

 物質的な者たちは、自分たちは初めなき者たちであると考え、思い上がって行動し、覇権を好んだ。このようにして、物質的な者たちと心魂的な者たちの二つの秩序は、互いに争ったのだった。

 

■6.救い主の流出

 プレーローマ界に帰昇した上なるロゴスは、欠乏の中にいる下なるロゴスのことを思い出し、彼のために執り成しをしたいと考えた。ロゴスがアイオーンたちに祈ると、彼らは下なるロゴスを助けることに同意した。アイオーンたちの申し出に父も同意し、彼らはそれによって一つの「実」を生み出した。この者は、「救い主」、「キリスト」、「定められた者たちの光」と呼ばれた。また、アイオーンたちも自分たち自身の力を生み出し、それらは救い主にとって、王に従う軍勢のようになった。

 

 救い主は、下なるロゴスの前に現れた。彼は完全なる光を輝かせ、上なる世界について教えて、言葉に尽くし難い喜びの中で彼を完全な者とした。そしてロゴスに、自分に対して不従順な者たちを分離して、投げ捨てる権威を与えたのだった。救い主は、稲妻のような光の姿で出現したが、心魂的な者たちは救い主の啓示を歓迎し、彼を拝んだ。それに対して模写に属する者たち(=物質的な者たち)は、この光をひどく恐れた。そして彼らは、「外の闇」、「カオス」、「深淵」と呼ばれる無知の穴の中に落ち込んでしまい、闇の上を支配する者となった。

 

■7.ロゴスのプレーローマと経綸

 救い主によって完全な者とされたロゴスは、上なるプレーローマの模像を創造する。ロゴスは自分の堅固さを取り戻し、「アイオーン」、「場所」、「救いの会堂」、「花嫁」、「王国」等と呼ばれるようになった。また、彼が創造したプレーローマにも、御子と教会が備えられた。ロゴスのプレーローマは心魂的な者の秩序と物質的な者の秩序の上に位置し、存在する事物のすべてに対する経綸を委ねられた。

 

 ロゴスは自らのプレーローマを純粋に保つと、その下にある二つの秩序を整えた。すなわち、心魂的な者たちを右に、物質的な者たちを左に配した。またロゴスは、経綸にしたがって、すべての天使たちやアルコーンたちに、それぞれの種族や役割、位階を与えたのだった。

 

■8.デミウルゴスの創造

 ロゴスは、すべてのアルコーンたちの上に一人のアルコーンを置いた。彼は、「父」、「神」、「造物主」、「王」、「裁き人」等と呼ばれた。ロゴスは彼を手のように用いて、下の領域に働きかけ、これを整えた。デミウルゴスが口にした言葉は直ちに実現されたが、彼はそれがロゴスに導かれていることを知らず、自分一人で成し遂げたと考えて喜んだ。デミウルゴスは、自分に従う者には安息を、自分を信じない者には刑罰を定め、楽園や王国、また彼を助ける働き手たちを創造した。それらは、プレーローマ界の形に倣ったものであった。またデミウルゴスは、物質世界を「霊的な秩序」、「心魂的な秩序」「奴隷の秩序」の三層構造に整えた。

 

■9.人間の創造

 デミウルゴスは物質世界を創造した後、最後に人間を創造した。そして人間についても、ロゴスが目には見えない仕方で造物神と天使たちを動かし、人間を完成させたのだった。ロゴスは、自らの形(=霊的本質)を人間に与えた。しかし、それはデミウルゴスの口を通して与えられたために、デミウルゴスは自らが与えたものだと考えたのだった。また、デミウルゴスは人間に魂を、「左の者たち(=物質的な者たち)」は物質を与えた。

 

 このような人間の三区分から、楽園に生えている三種類の木々が区別される。すなわち、「生命の木」は霊的要素、「善悪を知る木」は心魂的要素、「その他の木」は物質的要素である。人間は最初、悪しき「その他の木」から取って食べていたが、邪悪で狡猾な蛇にそそのかされて「善悪を知る木」から取って食べ、デミウルゴスの定めた禁忌を破ることによって楽園から追放された。しかし、この悲劇的出来事もまた神の摂理によるものであって、人間があらゆる無知と動揺を経験した後に、永遠の生命と善なるものの贈与に与るためであった。

 

■10.哲学・神学の多様性

 世界に存在する二つの秩序(心魂的秩序と物質的秩序)が互いに競い合ったために、さまざまな哲学が説かれることになった。その中でも特に、「被造物の運動の恒常性とその調和に目を凝らす者たち」(=ストア派)や、現に存在する事物は「それ自体で在るものなのだ」と言う者たち(=エピクロス派)は、現に存在する事物の原因を知ることが出来ずにきた、として批判されている。ヘブライ人の中で義人や預言者たちは、幻想や模写によって覆われた思考によってではなく、彼の内側で働いている力に従って語った。しかし、彼らが語った言葉は多くの宗派によって改変して受け入れられ、解釈されることによって、多くの異端を生み出したのだった。しかし預言者たちは、救い主の宣教を受けることによって、救い主が受肉してこの世に到来すること、彼がロゴスに由来する生まれざる者であること、苦難を受ける者ではないことを教えた。

 

■11.救い主の到来

 救い主は霊的なロゴスに由来する者であったが、からだと心魂をもった幼子として孕まれ、この世に到来した。また、救い主と共に、霊的本質に由来する同伴者たちが到来した。彼らは別の経綸を委ねられており、使徒や福音宣教者となった。救い主であるイエス・キリストは、「約束の種子」を有している人々に対して、その種子が由来する場所へ再び帰っていくという教えを啓示したのだった。

 

■12.三種類の人類とそれぞれの運命

 救い主の到来は、人間に存在する三種類の種族を明らかにした。まず霊的な種族は、救い主が出現したとき、直ちに彼のもとに走り寄り、認識を授けられた。心魂的な種族は認識を授けられることをためらい、むしろ声によって教えを受け、やがて来るべきことへの保証を受けたのだった。物質的な種族にとって、光である救い主の到来は自らの滅びを意味し、これから身を隠そうとした。霊的な種族は完全な救いに、物質的な種族は完全な滅びに定められているが、心魂的種族はそれらの中央にあって二重の定めを受けており、見捨てられる方か、善なるものの方へかに、定められた脱出をすることになっている。

 

■13.洗礼と救いの道

 霊的な者たちが物質世界へ生まれ出たのは、無知と苦しみを彼らに経験させ、その中で彼らを訓練するためであったとされる。また、救いを必要とするのは人間たちだけではなく、天使たちや模像たち、プレーローマ、そしてそれらを救うキリスト自身も救いを必要としているのである。救いとは「終わりが始めと同じようになる」ことを意味し、救いに与るためには、父、御子、聖霊に対する信仰告白である洗礼を受ける必要がある。それらの洗礼はまた、「沈黙」、「新婦の部屋」、「永遠の生命」等と呼ばれている。こうして、キリストの中にある御国を告白するならば、不同性と変転の世界から脱出し、「男も女もなく、奴隷も自由人もなく、割礼も無割礼もなく、天使も人間もなく、キリストがすべてにおけるすべてとなる」のである。

[出典]『ナグ・ハマディ文書U 福音書』

荒井献・大貫隆・小林稔・筒井賢治訳、岩波書店、1998年       

 

 

グノーシス:三部の教え(ロゴスの半身)

ナグ・ハマディ文書U 福音書

p216唯一なる者、万物の創造者

彼は過自身の他にはまだ何も存在するものに至っていない時から、すでに存在した。

父は数字の1のように唯一である。

なぜなら、彼は最初のものであり、彼だけがただ1人在る者だからである。

しかし、今はまだ彼は自分自身を沈黙の中に保っている。

大いなる者として、また、(やがて)万物を永遠の存在へと呼び出す原因者として。

p289 御子=最初に生まれた者

彼は最初に生まれた者であり、独り子なのである。「最初に生まれた者」というのは、彼に先立つ者(子)が誰もいないからである。他方、「独り子」というのは、彼の後に続く者(子)が誰もいないからである。

 

エンノイアの別名が沈黙

プトレマイオスは対のアイオーンだったが、三部の教えでは男性原理だけで、女性原理は男性原理の中に内包され1つの様相になっている。

 

ロゴスの半身はプレーローマに帰昇し、完全なるものとなり、

残りの半身は欠乏を抱えたまま完全であるという幻想をもってしまうことから、思い上がりが生じた。

彼らは自分たちが自分自身によって存在しており、始源をもたない者たちなのだと考えた。

なぜなら彼らには彼らより先に存在するものが他に何も見えないからである。このゆえに、彼らの生き方は不従順で、彼らがそのおかげで存在するようになった方に対して、身を低めることもなく、反抗的であった。

 

 

 

 

上のプレーローマ

父→御子→アイオーン

ロゴスの半身

上の教会

ロゴスのプレーローマ

ロゴスの半身

霊なる者たち

 

経綸

心魂的な者たち 造物神

(右)(中央)  サタン

        天使たち

メンタル体とアストラル体を造る

 

物質的な者たち エーテル体を造る

(左)

人間の3つの特徴

霊秩序、モナド ロゴスから

心魂秩序、

物質秩序

 

イエス・キリストの受肉や受難のグノーシス的解釈

60 救い主に関する預言

彼らが語るに値する唯一のことは、彼が生まれるであろうということ、そして、苦難を受けるであろうということ、このことである。

彼らが先在していたこと、また、彼が永遠であって、ロゴスに由来する生まれざる者、苦難を受けることない者として、肉の内に在るようになったこと、これらのことが彼ら(預言者)の考えに浮かんだことはなかった

61 救い主の受肉と受難

彼は救おうと考えた者たちのために彼らの死を身に引き受けたばかりではなく、彼らが体と心魂を備えて生まれたときに陥った卑小さをも受け入れたのである。それは、彼自身が、体と心魂をもった幼子として孕まれ、生まれることに自分を委ねた者であるからである。

 

グノーシス派は、ユダヤ教の預言者たちがイエスの受肉を予測していたが、預言者たちは心魂を持つ者として理解し、霊なる者であることは知らなかった、と解釈している。

 

イエスの仮現説   ラテン語:Docetismus、英語:Docetism

キリスト教の神学、キリスト論において、「イエスの身体性を否定する教説」を言う。

「イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目にそのように見えただけであった」という見解である。当時の主流派(正統派)教会からは、異端であるとして排除された。語源は、ギリシア語の δοκενdokeīn、〜であるように見える)という語である。

 

 

広義の仮現説

部分的に受肉を認める説を含める。イエスが人間に働きかけるための手段として仮に人間の身体を受けたとして、仮りそめの受肉を認める立場を含む(イエスの完全なる人間化は否定する)。

狭義の仮現説

イエスの肉体性を完全に否定する説。人間が目にしたイエスは、幻の如き存在であり、イエスは終始、霊的な存在であって、肉体をもつことはない。

仮現説は、しばしばキリスト教グノーシス主義と結びつけられる(ただし、仮現説とグノーシス主義とは同義ではない)。

グノーシス主義では、「物質的・肉体的なもの」と「霊的なもの」とを対立的に考える二元論をとり、前者を悪であると捉え、前者と後者は相容れない存在であると考える。 このような立場からは容易に、「イエスが神であるならば、神が劣悪な肉体をまとうはずがない」という教説が生まれることとなる。

 

仮現説では、イエスの完全な人間化を否定するので、十字架の上で苦しんだり死んだりすること(受難)はなく、肉体を棄てて神的存在に戻るだけであると考える。

したがって「肉体の復活」はなく、『福音書』などに見られる復活のイエスは、霊的に現われて啓示を伝えたものであるとする。また、当然の帰結として、「贖罪」信仰は成り立たない。

仮現説の片鱗は、グノーシス派と関係があるか否かはともかく、キリスト教の最初期までさかのぼることができる。

 

歴史

325年の第1ニカイア公会議で採択されたニカイア信条の中でも明確に述べられているように、原始キリスト教以来、キリスト教会は、ナザレのイエスを神であると告白してきた。しかし、「神が人間となる」(受肉)という矛盾をはらむキリスト論は、種々の神学を生み出した。キリストにおける「神としての側面」を強調した結果、人間としての肉体性を否定して唱えられたのが仮現説である。この点は、後代の「単性説」に通ずる部分がある。

 

グノーシス主義では、一般的に仮現説をとる。エイレナイオス(130年頃-202年)の『異端反駁』(Adversus haereses)の記述など、ギリシア教父の証言により、キリスト教グノーシス主義の仮現説(アレクサンドリアのバシレイデースの主張など)が分かる。また、20世紀に、多くのグノーシス文書を含む『ナグ・ハマディ写本』が発見されたことにより、原典に直接あたってグノーシス主義の仮現説を見ることができるようになった。

 

バシレイデースの主張

…したがって、彼(キリスト)は受難もしなかった。そうではなく、キュレネ人のシモンという者が徴用されて彼の代わりに十字架を背負ったのであり、この男が(人々の)無知と迷いのゆえに十字架に付けられたのである。彼(シモン)がイエスであるかのように見えるように、彼(イエス)によって姿を変えられた後で。他方、イエス自身の方はシモンの姿になり、立って彼らを笑っていた。

『異端反駁』I, 24, 4

 

三部の教えは、バシレイデースの主張とは違い、正統派教会と同じようにイエスは肉体をもった(受肉)が、受難を受けたのは肉体だけなので、イエスの本質である霊は傷つくこともないので受難していない、という立場をとる。

 

 

グノーシス:三部の教え(経綸)

三部の教えの人間観と救済観

ナグ・ハマディ文書U 福音書

50 人間の創造は最後に行われる

右側の者たちと左側の者たちの中間に置かれた思考は生殖の力である。

51 造物神とその天使たちも参与する

人間の創造は存在する他のものすべてのそれと同じである。

霊的なロゴスが目には見えない仕方で彼(造物神)を動かし、その造物神と彼に仕える天使たちを通して、彼(人間)を完成したのである。

それ(地的人間)は彼らが右の者も左の者も、それぞれが順番に、それぞれの在り方に従って()のかたちを与えながら、全員で準備したものである。

 

右側の者たちとは心魂的なもの、左側の者たちとは物質的なもの、は2つに分離することで、その中間には思考が発生してしまい、その思考は欠けたものを元に戻す原理、すなわち生殖のことに振り回されている。

 

 

 

 

 

神智学

上のプレーローマ

父→御子→アイオーン

ロゴスの半身

上の教会

ロゴス(+)

アートマー

ロゴスのプレーローマ

ロゴスの半身

霊なる者たち

 

ロゴス(―)

ブッディ

経綸

心魂的な者たち 造物神サタン

(右)(中央)   

天使たち

メンタル体とアストラル体を造る

 

物質的な者たち エーテル体を造る

(左)

人間の3つの特徴

霊秩序、モナド 心魂秩序、

物質秩序

造物神

マナス

 

人間の救済は半身のロゴスの救済に対応する。

60 彼(霊)は最初にこの考えたのである。

人間は先ず大いなる悪、すなわち死、すなわち万物についての完全なる無知を味わい、そのことから生じてくるはずのあらゆる悪しきことを経験し、また、それらの中に宿る動揺と屈託を経た後に、大いなる善、すなわち永遠の生命、すなわち万物についての確固たる認識とあらゆる善なるものの贈与に与るべきであると。

その最初の人間が犯した造反のゆえに、死が支配した。

しかし、このことは、われわれが先にも述べた摂理、つまり父の意志によるのである。

 

ロゴスのマイナスの半身が混乱し、大いなる屈託の後に、大いなる善に預かって、そして永遠の生命を預かったという順番と同じである。

グノーシスは上にあるものと同じように下にあるものも、と考えるからである。

 

 

グノーシス:グノーシス主義概説

ヘレニク・グノーシス主義は、主に原始キリスト教の資料・神話枠を援用して、善なる神が創造したはずの、この「善なる世界」に「悪」が充満しているのは、創造神ヤハウェ=YHWHが実は、「偽の神=悪の造物主」であり、従って、この宇宙=コスモスが、「悪の宇宙」となっているのは、当然な結果であると答えます。

 世界の創造者ヤハウェが、偽の神であるなら、また此の世が偽の神の創造になるものであるなら、「真の神=真の人間の創造者」がおり、また「真の宇宙・人間の魂が本来的に帰属する真の故郷」があるはずであると云う思想になります。

このように、「暗黒の現世=偽の悪の此の世versus真の救済の世界=光の永遠界」の二元論は、「此の世=宇宙=コスモス」を否定する形の二元論であるので、これをグノーシス主義の「反宇宙的二元論」と称します。

 

グノーシスの特徴である旧約の神の捉え方

正統派教会の神学がうまく神を説明できずに苦しいのは、旧約聖書の父なる神があまりにも残虐で、一部の民族だけを寵愛したり、逆にその民族を滅ぼしたりすることである。

 

人間三元構成論

3つの身体論

 

 

創造主

神智学

 

霊  プネウマ

霊の人  霊体

プレーローマ

コーザル体

 

心魂 プシュケー

心魂の人 幽体

ヤルダバオート

メンタル・アストラル体

 

物質 サルクス

肉の人  肉体

ヤルダバオート

エーテル体

 

 

 

グノーシス主義は、時代と地理を超えて、地球普遍な「世界観、人間観」であることが、また確認できる。

叡智gnosis真智sophiaの存在を認め、思索し、実践していく「実存の営み」であり、究極的には、智慧と救済の超宇宙的(プレーローマ)・超理性的(グノーシス)光Phosを要請することで救済(プレーローマの天使との結婚)を得られるという、超越的な「希望の世界・人間観」である。

→マニ教、スーパー・シーア派、マイトレーヤ運動、中国の弥勒教、神智学、ベンジャミン・クレームBenjamin Crème

 

差別的な思想が根源的に眠っている思想

女性原理を下に見る

階級による断絶  3種類に分ける  アンチ異教徒

 

 

グノーシス:反宇宙的二元論とヤルダバオト

反宇宙的二元論とヤルダバオト

 

仏教の極楽浄土を造った人とプレーローマで永遠のいのちを生きるという人たちは同じグループの人たちである。

 

世界に不幸な数々が存在するのはなぜなのか?

世界4大宗教は、浄らかな生活、弱者への布施を説いているが、世界はこのような苦しい状況である。

ではどのように見ればよいのか?

 

 

Lord Jaldabaoth』 bei Noice

泥の森に迷う時

涙のクリスタルは美しくはないだろうか

主ヤルダバオトは黄金の獅子にして

人の諸価値を定めたまう

王者の道と賢者の道

象牙と金の玉座 〔カテドラ〕 をローマに定めたもう

聖ナイルの泥の水は

白鷺を遊ばせ

その姿は優雅にして紫のあやめを見る

白鷺の瞳の青にあやめは映え

一面の泥の世界

水に蔽われし此の世のさなかに

レートー・タトの追憶の音色が響く

エジプト琴の月の反射に

世界創造に先立つ死が思い起こされる

主ヤルダバオトの権威をあがめ

ぼくたちは泥に生まれ泥に朽ちる

王者と賢者は称えられてあれ

幾億の涙と屈辱よ忘却されよ

傷みの故の憎しみよ涙と帰れ

ただ灰色の水の反復

泥に重ねる泥の歴史

主ヤルダバオトの象牙と黄金は星界へと去り

われらの耐えし涙と屈辱の故に

ただひとときナイルの泥のなかに

レートー・タトは透明のクリスタルを光らせるでしょう

泥の森に迷う時

失なわれたときは美しく

失なわれた少年たちは甘美であるでしょう

主ヤルダバオトの御稜威のもと

わたしはかく祈りかく歌う

                               Noice et Mirandaris  19830801:0000

                               Miranda et Marie RA. 19951228:0665

 

 

Der Akosmischendualismus und Jaldabaoth 「反宇宙的二元論とヤルダバオト」  bei Noice  1991

 

序章

〈反宇宙的二元論〉という言葉は、一般にあまり知られていない言葉である。しかしこの言葉は漢字であるので、それなりに何となく意味が理解できるのではないかと思う。しかし、標題に掲げたもうひとつの〈ヤルダバオト〉とは何のことなのか、おそらく即座に理解される人は極めて少ないであろう。これらは実は、グノーシス主義と呼ばれる、キリスト教史における、その初期最大の異端とされる諸派に関係して使われる用語である。

 

ところで、「グノーシス主義」というものが、実際にどのような思想あるいは信仰の体系であったのか、実は、二十世紀の半ばを過ぎるまで、明確には知られていなかったという事実がある。何故知られていなかったかというと、キリスト教側における反グノーシス活動があまりに熾烈であったため、グノーシス主義の基本教典とか主要文書類が、カトリック教会によって徹底的に破壊消滅させられたためである。そのため、二十世紀に入って、グノーシス主義の分析心理学的な意味を探ろうとして、グノーシス主義の研究に取り掛かったC・G・ユングは、その基本的文献の欠如の故に、研究の断念を表明せざるを得なかった。二十世紀半ばまでは、グノーシス主義について書かれた文献は、新プラトン主義の哲学者である西暦三世紀のプロティノスが著した『エンネアデス』中における『グノーシス主義に対して』という短い論文と、後は、エイレナイオスとかヒッポリュトスといった、キリスト教護教家による、否定的な文脈での、反駁的なグノーシス文献の引用だけであった。

 

この事態は、四世紀ないし五世紀以降、二十世紀の半ばまで、変化がなかったのであるが、一九四五年から四六年にかけて、エジプトのナグ・ハマディにおいて発見された、コプト語パピルス・コーデックスによって大きく変化した。現在、ナグ・ハマディ写本と呼ばれているこれらの諸コーデックスには、時間の中で湮滅したはずの、オリジナルのグノーシス主義の基本教典が、その他の文書と共に含まれていたのである。

 

さて、私のこの文書の主題は、ナグ・ハマディ写本の内容を説明するものでも、グノーシス主義を全体的に鳥瞰することでもない。初期キリスト教において、正統教会、すなわちカトリック教会より、異端として排斥されたグノーシス主義における、〈反宇宙的二元論〉という思想と、〈ヤルダバオト〉という固有名の説明をして、一つの世界観・宇宙観のアウトラインを簡単に描くことである。この世界観・宇宙観がどういう意味を私にとって持つかは、アウトラインを描いた後に、もう一度論じることとする。

 

第一章

今日の研究によれば、グノーシス主義というものは、キリスト教の異端ではなく、実はキリスト教とは発生起源を別とする異教であったという考えが一般である。しかし、紀元一世紀から四世紀頃の地中海世界の思想や信仰のありようを眺めると、ローマ帝国の文明の爛熟期にあって、あらゆる思想・信仰はいずれもシンクレティズムの様相を帯びていたのであり、おそらくその最たるものがキリスト教であったのであり、その一方で、グノーシス思想が、キリスト教的テクスト、すなわち旧約聖書および、新約聖書の基幹をなす、福音書とかパウロスの書翰を、その思想システムを表現するための素材として利用したということは事実なのである(福音書でも、『ヨハネ福音書』などは、その成立の当初から既にしてグノーシス主義の影響を受けていたことが確認される。この福音書だけは、他の三つの福音書と幾分懸け離れたキリスト理解と解釈を示している)。荒井献は、ナグ・ハマディ写本中の諸文書を分類して、「非キリスト教的グノーシス文書」「キリスト教化しつつあるグノーシス文書」「キリスト教化したグノーシス文書」「ヘルメス文書」といった分類見出しを与えている。この分類見出しから明らかなように、グノーシス主義とキリスト教のあいだで、思想あるいは信仰の形態が連続的に存在したということであり、逆に言えば、キリスト教の一つのヴァリエーションとしての異端ではなく、キリスト教とは独立した思想原理の上に立つ教えであったが故に、グノーシス主義というものは、キリスト教にとって、大きな敵対勢力であったとも言えるのである。

 

キリスト教は、福音書に見られるイエスの言説行為と、パウロスの諸書翰に典型的に見られる新約思想、つまり、イエスを犠牲とする、神との新しい関係・契約、無償の愛の神という信仰概念を、旧約の義による契約の神の概念と調和させようと、様々に思想的・信仰的に試行錯誤を繰り返した。しかるにグノーシス思想は、〈反宇宙的二元論〉と、世界創造者としての〈偽の神〉と、救済者としての〈真の神〉の二つの神の対比というきわめてシンプルな信仰概念を元に、新約聖書の原典を自在に改竄し、また旧約聖書の記述を、勝手に都合のよいように解釈して、ユダヤ教徒にとっても、キリスト教徒にとっても、到底受け容れ難い神話を構成した。ユダヤ教徒にとっては、義である神との契約は、神聖にして侵犯すべからざる信仰原理であったのであり、またキリスト教徒にとっても、イエスの十字架上における贖罪の死という事実は、神聖なる信仰原理だったのである。

 

しかし、グノーシスの諸派は、別の信仰原理を立てていたのであり、それ故に、旧約聖書の神ヤハウェは、偽りの神であったとか、イエスは真実には十字架上で死ななかったと言った、正統ユダヤ教徒や正統キリスト教徒にとっては、冒涜とも言える主張を平然と説いたのである。(キリスト教内部においても、イエスは三一の神の一位格ではなく、神より遣わされた最高の預言者であり、〈人間〉であったとする考えなどがあり〔アリウスの説〕、その正統教義であるニカエア信条〔アタナシウスの説〕が必ずしもキリスト教徒全員に自明なこととして認められていたわけではないが、グノーシス主義者の主張は、しばしば極端に過ぎることがあり、そのことは、グノーシス主義の影響下に明らかにある、『トマスの福音書』というナグ・ハマディ写本中の文書が、正統カトリックの教義と容易になじまないことからも明白である)。

 

第二章

グノーシスの諸派と私が言ったのは、グノーシス主義は、その教祖毎に、あるいはその信仰系統毎に様々なものがあったのであり、これが決定的と言えるような統一的なグノーシス主義というものは事実上存在しなかったからである。このことは、初期キリスト教についても同様に言えることであるが、初期キリスト教は、一大勢力を誇ったマルキオンの教説を排斥するため、〈神〉を、旧約聖書、新約聖書共通のものとし、それぞれにおける神の現れ、すなわち、旧約における義にして契約の神と、新約における善にして無償の愛の神という二つの神のモードを調和させるために、旧約聖書の記述を、象徴的に解釈する道を選んだ(マルキオンは、旧約の神と、新約のイエスの父なる神という二つの神を峻別したが、他のグノーシス主義諸派とは異なり、宇宙創造神話を新たには構成しなかった。マルキオンの教えでは、新約のイエスの父なる神は、この宇宙を創造した旧約の神、すなわちヤハウェとは別の神であるが、ヤハウェの上位に立つ、〈真の神〉というわけではなく、新約の神は、いわば〈異邦の神〉であり、この宇宙とはまったく関係のない神であり、まことに根拠なくして、無償の愛と救済を人類に与えてくれる神である。マルキオンのこの教説は、グノーシス主義としても特異な形態のものである)。キリスト教の公的な教えでは、旧約の義と契約の神と、新約の無償の愛の神は、同じ神の二つの現れであり、イエスが、「父よ〔アッバ〕、我が父よ〔パテール・ムウ〕」と呼び掛けた〈神〉は、旧約のテトラグラマトンTetragrammatonの神とは、 神の名を表わす「神聖四文字、すなわちיהוהイェホヴァあるいはヤハウェである。

だが、グノーシス主義においては、旧約のヤハウェと新約のイエスの父なる神は、また別の神である。様々に分化し、教義的にも多様なグノーシス主義諸派の教えのなかで、どの教説においても一致して強調されるのは、旧約の神は、確かにこの世界・宇宙を創造した神ではあるが、〈偽の神〉であり、この偽の神の上位に、偽の神を創造したところの〈真の神〉が存在するはずであるという考えである。

 

 グノーシス主義が説く、この〈偽の神〉こそは、グノーシス主義に一般な、プラトンの哲学用語から流用された、世界創造者という意味の〈デーミウルゴス〉という名で呼ばれる神、あるいはアルコーン〔支配者〕である。〈ヤルダバオト〉は、多くのグノーシス文献において、〈第一のアルコーン〉とか、または〈デーミウルゴス〉そのものの名前で呼ばれる。

 

 グノーシス主義に一般する世界・宇宙創造論は、極論すればすべて空想の産物である。しかし、それらが執拗に強調することは一つである。すなわち、この世界・宇宙――我々人間が、生まれ生き、やがて死んで、土へと崩れて行く〈この世〉――は、〈真の神〉ではない、〈偽の神〉であるデーミウルゴスが創造したものであり、土や塵へと分解して行く我々のこの肉体も、あるいは肉体の死と共に崩壊するこの儚い魂も、共に、〈偽の神〉であるデーミウルゴスが創造したものである。

 

 『この世の起源について』とか『ヨハネのアポクリュフォン』といったグノーシス教典において、〈ヤルダバオト〉と呼ばれている、デーミウルゴス、すなわち〈第一のアルコーン〉は、世界・宇宙を創造したのは自分であると主張し、更に、自分以外に別の〈神〉はいないと主張する。

例えば、旧約聖書の『イザヤ書』四十六章九節で、ヤハウェ(従って、グノーシス主義の考えよりすれば、デーミウルゴス、ヤルダバオト)は、こう言う、「われは神なり。われのほかに神なし。われは神なり。われのごとき者なし」と。またヤハウェは、「汝は他の神を拝むべからず、其はイェホヴァはその名を嫉妬〔ねたみ〕と言いて、嫉妬む神なればなり」とも主張する。しかし、グノーシスの教説者が一様に主張する通り、もし〈神ヤハウェ〉が唯一の神で〈真の神〉であるなら、何故、かくも「われのほかに神なし」「われのごとき者なし」「われは嫉妬深き神なり」という主張を執拗に繰り返すのであろうか。グノーシス主義の教説者たちは、これこそ、旧約の〈神〉がデーミウルゴスでありヤルダバオトであり、第一のアルコーンである証左であると見做す。一体、唯一の〈真の神〉がヤハウェであるなら、何故ヤハウェは「自分に比較できる者はいない」と、わざわざ主張し、更に「われは嫉妬深き神である」と主張する必要があったのであろうか。デーミウルゴスが〈唯一の真の神〉であるなら、一体誰に嫉妬する必要があるのか。グノーシス主義の教説者は、この事態を解説して、それは、デーミウルゴス、すなわちヤルダバオトが、実は自分自身で、自分より上位に〈真の神〉あるいは〈真のアイオーン〉が存在することを知っていたためであると言う。ヤルダバオトは、自分が創造した諸天使に向かい、自分は嫉妬深い神であると述べるのであるが、この言葉から逆に、天使たちは、ヤルダバオトの上位に別の〈真の神〉が存在することを知ってしまうのである。

 

 

第三章

 グノーシス主義はこのように一様に、〈真の神〉と〈偽の神〉あるいは、上位の真実の存在創造のランクと、下位の宇宙のありようの創造のランクを峻別する。〈この世〉つまり、可壊で命に限りのある世界・宇宙は、実は下位の諸アルコーンの創造によるものであり、就中、第一のアルコーンであるデーミウルゴス、すなわちヤルダバオトの創造の技であると解釈する。人間は、真の宇宙と存在の根源に近づけない故に、塵となる肉体に閉じ込められ、肉体の崩壊と共に無に帰する魂を持つと考えられる。しかし、ヤルダバオトは〈この世〉の支配者〔アルコーン〕であるとしても、上位の存在の意味と根拠の〈真なる神〉ではないのである。

この〈真なる神〉は、グノーシス主義において、普通、〈ビュトス〔深淵〕〉とか〈プロパテール〔原父〕〉とか呼ばれ、またヤルダバオトの上位に位置する存在の真実の界〔アイオーン〕のことを、〈プレーローマ〉とか〈オグドアス・アイオーン〉という風に呼ぶ。グノーシス主義の教義の一つの大きな特徴は、人間が霊〔プネウマ〕と魂〔プシューケー〕と肉体〔サルクス〕の三つから成り立っており、この裡、魂と肉体はデーミウルゴスの創造になるものであるが、霊〔プネウマ〕は、複雑な過程を経て、オグドアス・アイオーンあるいはプレーローマに由来しているものであるという主張である。人間は魂と肉体において〈この世〉に存在する者としては、極めて惨めな存在であるが、霊を持っていることにより、ある表現では、プレーローマ界の火花を魂の裡に秘めているが故に、〈救済〉の可能性を持つ存在なのである。

〈偽なる神〉にして世界創造者たるヤルダバオト、また〈真なる神ビュトス〉、オグドアス・アイオーン、プレーローマ界、そして霊〔プネウマ〕の破片を持つが故の人間の〈救済〉の可能性は、これら自身が秘密であり、秘密にして真実の知識であるが故に、グノーシス〔真知・叡智〕と呼ばれる。

 

 グノーシス主義者によれば、この真知・叡智〔グノーシス〕を知って、〈この世〉は偽りの世界であるということを認識することが大きな悟りなのである。ヤルダバオトあるいはデーミウルゴスによって創造された、肉体も魂も朽ちて行く〈この世〉すなわち〈この宇宙〉〔コスモス〕、それに対しグノーシスを知ることによってやがては帰還して行ける永遠の世界である〈プレーローマ〉の世界・宇宙〔アイオーン〕。この二つの宇宙あるいは世界が、グノーシス主義における、〈反宇宙的二元論〉を構成するのである。反宇宙的とは、デーミウルゴスが創造した世界・宇宙を受け入れないという意味での〈反宇宙的〉であり、二元論とは言うまでもなく、〈真の神〉と〈偽りの神〉の、そしてヤルダバオトの創造したこの宇宙と、プロパテールの創造になる〈プレーローマ〉の二元対立である。

 

  C・G・ユングは、この世界における〈悪〉の問題を取り上げて、〈悪〉とは聖トマス・アクィナスの正統神学に言うところの〈善の欠如〉ではなく、〈実在〉としての積極的・活動的な存在であると主張している。

ユングの言う〈悪〉とは、グノーシス主義における、世界創造者〈デーミウルゴス〉の存在と作用を指しているものと考えて間違いないであろう。

この世には何故、不公平や不正や悪や悲惨な事々があまたあるのであろうか

それに対する哲学的解答としては、唯物論や仏教思想の主張を考慮外におけば、聖トマスの教義か、またはそれとほぼ同質のライプニッツの考えか、あるいは、ゾロアスター教やマニ教、そしてグノーシス主義の主張する善・悪の二元論しか答えがないのである。

ユングは第一次世界大戦を体験し、更に第二次世界大戦終結の後の時代まで生きていた。〈悪〉は現実的に〈力〉を持つアルコーンなのであろうか。それとも善の欠如か、世界が最善の状態を維持実現するにやむを得ない最少限の痛みなのであろうか、あるいはそのような形而上学的概念とは無縁に、唯物論的に、あるいは仏教的思想的に、人間が集まれば自然と〈悪〉が生まれるのであろうか。

私自身としては、グノーシス主義の〈反宇宙的二元論〉を私の考え・解答としたいと思う。

一元論的に考えれば、善なる神が創造したこの宇宙に何故〈悪〉が存在するのか理解できないし、もっと素朴に唯物論的に解釈して、あるいは仏教的思考の脈絡において、善も悪も共に変わりなく現象であって当事者である人間にとっては相対的であるとしても、それは現象論的な見掛けの答えにはなっても、人間の生と死、この宇宙の存在に〈意味〉を求める、宗教的・形而上的要求を到底満たしそうにないからである。

〈反宇宙的〉というのは、この世界を否定するということである。事実、グノーシスの教師たちは、この世界を否定するということを身をもって実践した。しかしグノーシスの教師たちにしても、〈この世〉がある意味で、ある稀な瞬間においては、美しく、神の御意にかなっていると言うことを認めないではいられないであろう。

それは、デーミウルゴスの創造した世界に紛れ込んだ、プレーローマ界の善美の破片なのかも知れない。

とまれ、この世界が時として、限りなく美しく思えることも含めて、私は〈反宇宙的二元論〉の立場を取る。

それが正しいか否か、それは人間の思考や議論を越えたものであろう。

 

第四章

さて、グノーシス主義は先に述べた通り、グノーシス〔真知〕というものを重視する。このグノーシスの中には、人間の魂の中に、プレーローマ界の霊の破片が含まれているということが主張されている。

人間は、その魂の中のプレーローマ界の破片よりすれば、実は、諸アルコーンよりも、第一のアルコーンであるヤルダバオトよりも優れた存在なのである。だが、私たちがこの世で現実に出会う様々な出来事は、私たちは存在物の中でも、もっとも惨めな存在ではないのかという疑念を引き起こすに充分である。この世の鉄の鎖の秩序の中で私たちが流す涙は、グノーシス主義の教えより見ても、正統キリスト教の教えより見ても、あるいは仏教思想より見ても、まことに甲斐のないものである(大乗仏教的には、諸行は無常なのであるから)。

実際、旧約聖書『伝道の書』の四章一節は次のように述べている、「茲〔ここ〕に我〔われ〕身を転〔めぐら〕して、日の下に行はるゝ諸〔もろもろ〕の虐遇〔しへたげ〕を見たり。嗚呼、虐げらるゝ者の涙ながる。之を慰むる者あらざるなり。また虐ぐる者の手には権力〔ちから〕あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり」。

この二千年以上前の文章を引用するまでもなく、二十世紀の今日においてさえ、力や富や地位によって、他人を虐げる者の数多く存在することを、私たちは知っている。ある場合には、私たち自身がこの虐げられる者の立場に立っていることもある。これは社会矛盾であるが、これに対しどのような回答が今日あり得るであろうか。

 

「虐げられる者の涙、これを慰める者とてなく、虐げる者、彼等の手には権力がある」というのが、今日においてもなお真実でないだろうか。

確かに、イエスは、「幸福〔さいはひ〕なるかな、悲しむ者、その人は慰められん」と言い、また「されど我は汝らに告ぐ、悪しき者に抵抗〔てむか〕ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。なんぢらを訴へて下着を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。なんぢらに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」と言った。仏教も貧者への救済を述べ、イスラム教もまた、その信徒の義務としてザカート〔喜捨〕を数えている。

しかし、これら多数の文化的・宗教的な倫理的指示にもかかわらず、〈この世〉を総体として眺めれば、そこには何と無数の「甲斐ない涙」、「報われることのない悲嘆」の数々が存在することであろうか。

 

――餓死して行くアフリカの難民、カースト制と慢性的な貧困に見舞われているインド亜大陸、災害に見舞われるバングラデシュやフィリピン、これらは二十世紀の現在の問題であって、イエスや仏陀の時代の問題ではない。私は、グノーシスの教義がこれらの悲惨な出来事を解決できるとは信じていない。だが、それでは、キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、仏教にせよ、どの既成宗教がこれらの問題の解決となり得るのであろうか。

グノーシス主義は、人間がこの世に生きて生活しながらも、その本質は、プレーローマ界にあると主張する。

敬虔なユダヤ教徒である賢人マルティン・ブーバーは、ナチスによるユダヤ人大虐殺の後で、ユダヤ教の聖典である旧約聖書を手から取り落とし、「これが、何の役に立つのか、何の役に立つのか」と絶望の叫びをあげたと聞く。〈悪〉は存在し、ナチス・ヒットラーは、人類に対する歴然たる〈悪〉であった。しかし戦争中において、人々がヒットラーを熱狂的に支持したことも事実である。

宗教は近代・現代にあっては、平和的機能として無力であった。私はそれだから、グノーシス主義が正しいと言うわけではない。ヨーロッパ中世にあって絶大な民衆の支持を受けたが、その死後、教会によって、その著作はすべて異端とされたマイスター・エックハルトが、人間の魂の中には、〈霊の火花〉が宿っており、この火花によって至高の神と人間は結ばれているのであると主張したことを思い起こすと、カール・グスタフ・ユングではないが、人間の魂の中には、〈神の刻印〉が宿っていると私は信じる気になる。

虐げられた者には何時か〈救い〉があるのかも知れない。しかし〈この宇宙〉の現実の姿を見る時、私たちは、虐げられた者の涙は甲斐もなく流れ、黄金の獅子にして支配者たるヤルダバオトは、人間の運命を掌の上で弄んでいるようにも思えるのである。

 

終章

グノーシス主義は、「この世の悪の起源」の疑問への探究に対する一つの答えとして出されたものと理解することができる。事実、C・G・ユングは、最晩年のモノグラフの傑作において、旧約の嫉妬深い義と契約の神と、新約の無償の愛と救済の善の神の対立を、旧約聖書『ヨブ記』の独自な解読によって、かつてキリスト教国の誰も考えなかったような関係において把握しようとした。

このモノグラフ『ヨブへの答え』によれば、旧約の神ヤハウェは、人間で言うならば無意識状態にあったのであり、旧約の神の様々な気紛れな残虐さや、その矛盾した行動なども、神が無意識であるが故のためと説明される。だが、神は新約のイエスの父なる神となった後でもなお、その無意識的な活動を停止していないように私には思える。

旧約の義の神は、自己自身を意識化することによって、新約の無償の愛の神となったのであるが、それと呼応するように、旧約においては中立的な立場にあった天使サーターンが、〈悪魔〉あるいは〈堕天使〉として、〈この世の悪〉の原因とされるようになった。キリスト教神学に興味のない人にとっては、このような議論は何の意味もないことのように映るであろうことを、私は勿論理解しているつもりである。しかし私にとっては、世界・宇宙における善と悪の問題を考えるにおいて、まず依拠すべきは、キリスト教的な思考であったということはどうしようもない事実性なのである。

 

 私はグノーシス主義者ではないし、厳密にはキリスト教徒でもない。しかし私がこの世界・宇宙を眺め、そのなかの不合理な面、不公正な出来事、〈悪〉の実在の効果としか言いようのない事象に直面する時、私はそれらをただに〈事実性〉とか〈現象的事実〉といった抽象的表現で把握するには満足できないことも事実である。

私は、人格的な悪意を持った〈悪魔〉あるいは〈堕天使〉が、歴史と現代を通じて、人類に、そしてこの世界に干渉していると言った単純な見解を取るわけではない。しかし、何であるか不明であるがとまれ、〈悪意の勢力〉あるいはユングの言う〈無意識的な悪意〉の宇宙的実在に関心を持たざるを得ないのである。

「この言葉の解釈を見出す者は死を味わわないであろう」というのは、『トマスの福音書』の冒頭に置かれている言葉である。キリスト教においては、〈死は罪の棘〉であると考えられる。そしてイエスが十字架上で死んだことによって何が救済されたかと言えば、それは「死よりの救済」であった。だが、キリスト教徒でない私は〈最後の審判〉を信仰することはできないし、〈死者の復活〉を信仰することもできない。『トマスの福音書』において、トマスは実はグノーシス〔真知〕を告げているのである。だが、トマスの語る〈真知〉によって、私は救済がなされるとは信じることができないし、ましてやマルキオンのように〈異邦の神〉に確信を持って信仰を寄せることはできない。

 

これらは、私の理性が、私の感傷性あるいは信仰の心を引き留め、抑制するのである。理性的に判断すれば、神の救済も悪の霊もグノーシスも最後の審判も不合理の一語に尽きるであろう。

だが、〈詩人〉としての私は、心私かに希うのである。

ヤルダバオトは自らを〈主〉すなわち〈アドーナイ〉だと称している。

諸アルコーンたちは星界より訪れ、やがて星界の彼方に去って行く。後には破滅した〈地球〉と滅び去った人類の遺跡が残されるであろう。だが私は、ヤルダバオトの預言とは別の〈救済〉を求めるのである。

かつてのグノーシス主義は、歴史の中で敗北し破綻し忘却の淵に沈淪した。しかし、私たち、あるいは地球上のすべての生命たちの魂の中に、共通したある〈永遠の破片〉が残されていると言うのは真実ではないのであろうか。勿論、これは私の〈信仰〉であって事実ではない。しかし、すべてが滅びて行くこの地上にあって、私たちは他にどんな信仰を持つことができるであろうか。

「《わたし》は忘れられている」Leethoo〔レートー〕。

このように私の心の中で呼ぶ声は、一体〈誰〉の声なのであろうか。

私たちが、そして私が見失っている《グノーシス》が、私たちのこの世界・宇宙のどこかに未だ存在しているのであろうか。

私は理性的には〈超越者〉の救済の存在を確言する理拠はない。しかし私の心の底で、かつてレートー・タトは確かに囁いたのではないか。

(*しかり、《ぼく》は存在している。そして《忘却》というのが《ぼく》のありようなのだ)と。

このようにして、私は此処に、私自身の《グノーシス》を語り、偽りの主であるヤルダバオトではない、私たちの《主》に向かい、かく記しかく祈るのである。

 

Noice et Mirandaris  1991:1121:0000

 

主要参考文献

荒井献 『原始キリスト教とグノーシス主義』(岩波書店)

ハンス・ヨナス 『グノーシスの宗教』(人文書院)

C・G・ユング 『ヨブへの答え』(みすず書房)

『舊新約聖書』(日本聖書協会)

 

【注記】

この文章は、論文・評論ではなく、むしろ〈反宇宙的二元論〉という概念を 説明するための、一種の解説的エッセイである。とは言え、エッセイとしての結構は充分に整えたつもりであるし、これで独立した作品として読んで頂きたい。参考文献はその他にも色々とあるが、主要なものを挙げた。

 

I 章における、ナグ・ハマディ写本のコーデックス中の諸文書の分類見出しは、荒井献著『原始キリスト教とグノーシス主義』一五八頁−一六〇頁の『ナグ・ハマディ文書の内容』という一覧表に付記されているものを引用した。(ただし、荒井献は一九八六年に同じ岩波書店から刊行した『新約聖書とグノーシス主義』という研究書において、この分類見出しにおける三番目の「キリスト教化したグノーシス文書」を、「キリスト教的グノーシス文書」という表記に変更している。荒井献はこの表記変更の理由について、同書において説明しているが、議論が余りに詳細に渡るので、ここでは荒井献の説明は省略する。興味のあられる方は、岩波書店刊行の同書の第二部の一である『ナグ・ハマディ写本と新約聖書』中の二三五頁以下の節を参照して頂きたい)。

 

II 章における、マルキオンについての言及は、ハンス・ヨナスの本より得た(ハンス・ヨナス著『グノーシスの宗教』一九〇頁−二〇三頁)。マルキオンの思想を中心主題とした詩篇が鷲巣繁夫にあるが、この作品は、ナグ・ハマディ写本以前のグノーシス理解一般を詩の形で具象化しており、詩作品としても興味深い点が多々ある(「定本鷲巣繁夫詩集」(国文社)収録詩集『マルキオン』)。

 

終章における、「レートー」 ληθωというのは、ギリシア語の中動相動詞として、「私は忘れられている」という意味がある(直説法中動相現在単数一人称形)。巻頭詩に出てくる「タト」という名前は、ヘルメス思想における奥義伝達者としてのヘルメスの別名の裡の四番目のものであり、また奥義伝達において、ヘルメスが「我が愛し子」と読んで奥義を伝達する弟子の名前でもある。タトは、エジプトのトート神から来ているのであろう(『ヘルメス文書』(朝日出版社)における柴田有の解説)。

 

またII 章の「テトラグラマトン」というのは聖四文字のことであり、YHWHの四つの文字(「ヨッド・ヘー・ヴァウ・ヘー」と普通読む。本来、ヘブライ文字)で、これは旧約の神の名前を表し、母音をつけるとヤハウェとかイェホヴァとなる。

 

「デーミウルゴス」というのは、ギリシア語で、「工匠」という意味であり、プラトンの『ティマイオス』における、下級の世界製作者の呼称である。「アルコーン」とは、ギリシア語で「支配者」の意味であり、グノーシス思想では、オグドアス・アイオーンであるプレーローマと、死すべき人間のこの世界・宇宙のあいだに君臨する、超霊的存在で、プロパテールに較べられる時には〈偽の神〉であるが、なお人間にとっては、「星界に存在する恐るべき霊」である(グノーシス思想一般では天界の星辰をそれぞれアルコーンであると考えた。従って、天ないし天界そして星辰界はグノーシス主義者にとっては「敵」である)。アルコーンは通常複数が存在し、「アルコーンたち」、または「アルコンテス」と呼ばれる。アルコンテスは、言うまでもなく、アルコーンのギリシア語での複数形である。このようにアルコーンが複数存在するため、アルコーンたちの中でも「第一のアルコーン」として、ヤルダバオトの名が特に強調されるのである。

 

またIV 章のマルティン・ブーバーの逸話は、故R・D・レインの『わが半生』に記されているものである。

終章における、『トマスの福音書』からの引用文は、『聖書の世界・第5巻』(講談社)中の荒井献訳『トマスによる福音書』による。

なお聖書からの引用は、すべて、日本聖書協会発行の『舊新約聖書』の一九七四年版よりのものであり、原文は旧仮名遣いで、漢字の正字が使用されていたが、読み易いよう、適宜に、漢字の正字を当用漢字に書き変え、また原文には存在しない句読点や送りがなを付けた。聖書よりの引用章節を、以下にまとめて列挙しておく。

 

II 章における、「父よ〔アッバ〕……」は、マルコ福音書十四章三十六節、他より。「われは神なり。われのほかに神なし……」イザヤ書四十六章九節。「汝は他の神を拝むべからず。其はイェホヴァはその名を嫉妬と言いて……」出エジプト記三十四章十四節。IV 章における、「茲に我身を転して……」は、伝道の書四章一節より。「幸福なるかな、悲しむ者……」マタイ福音書五章四節。「されど我は汝らに告ぐ……」は、同じくマタイ福音書五章三十九節より。

Miranda et Marie RA. 19990610:0112