自己喪失の体験   バーナデット・ロバーツ

Barnadette Roberts     The Experience of No-Self, A contemplative journey

 

カトリックの観想と三蔵の瞑想

第1と第2の特徴

参考資料 無色界の瞑想  ロバーツの特徴  救済 ボブマーリー  聖霊 マザーテレサの合一体験

 

 

 

私の価値観、そして並んで三蔵の分別でロバーツの精神状態を推察してみる。

ロバーツの本が読みにくいのは使っている言葉がこれまでの伝統な用法ではなく独自の定義をしているためだが、あれから40年がすぎ、都市現代文明社会で生まれ育ってきた人口も増え、2020年のアジア人学生の語句の用法にも著者ロバーツとの共通点がでてきたので、ここで考察してみる。

 

 

伝統的キリスト教の神秘主義は、自己を低い自己(ego)と高い自己に分け、低い自己(ego)を捨てて、高い自己とカミとの合一を目標とする。これを自己から無自己に至る第一段階で「真の自己の完成への道」、と著者はする。

そして著者はその後は、高い自己を捨てることで、主客の区分の無くなった合一体感が「ない」状態を観察して、無自己からありとあらゆるところへと到達するのが第二段階で「自己解体の道」と定義する。

主客(主体と現象)の合一状態では自己の枠や範囲や境界もなくなるので、こうなると真空状態がどれぐらい大きいのか、言いようがない。

月を見て、その月がない状態を観察するようなもので、これは矛盾する表現を使うことでしか言語化するができない経験である。

 

しかし、月を指すことはできるので、後は各自がメソッドに従って経験してもらうしかない。

ちゃんとメソッドに従わないと、著者のように苦しい時間が継続する。

 

瞑想対象は無辺の真空である。

対象が消えたら枠がなくなるので、真空だけを観察する。

そしてこの真空を認識する。

そして認識することで、自分がまた、それと一つになる。

そうすると心の波がさらに細かくなり、概念(考えること)はまったくなくなる。

心の働きによって「知る」ことは、「ただ、いるだけ。」

いるだけで、何も見えない、何も聞こえない、身体の感覚はまったく感じない。

自分がここにいるという概念さえない。

本人の身体はきれいに消えている。

 

この境地に入ると、一体になっていた物質と心の働きがやっと分離する。

それまでは心が物質に依存しており、物質からの情報(信号)を受けて、それらが波を打っていた。

主客の合一の体感までは、物質エネルギーの信号によって心が回転(認識するはたらき)をしているが、この物質がない状態を観察することで、やっと心が物質から離れて、自分の心だけで回転することができるようなる。

 

概念は物質の信号に触れることではじめて生まれるものなので、この境地では概念は一切生じることがない。

心がある一定のパターンで規則正しい波で活動している。

きめ細かく、極めて丁寧に、幅も大きさも決まって、厳密に波打つ。

 

はじめの主客の一致は「心が何かを体験する」レベルだが、

この境地は「心が何かになる」レベルで、何かによってではなく心自身が変化していく。

心はただ平静な状態に変化するので、喜悦感も何も感じない。

 

 

著者はこの合一体感の心境を「観想」の時だけに限定せずに、鍛え上げてしまった自意識の影響により、区分をすることで成り立っている日常世界にこの心境を持ち込むことで周囲との摩擦を起こした。

 

 

saññā想とは、違いを感じるために「概念」というパターンの籠を作る働きをしている。

saññāとは思考の要素になる概念の元型。

ものごとの差を認識することが、すなわち感覚器官とそれをベースにする概念による認識世界の働きであり、これは厳密な原理や法則がある。

たとえば洗濯物を区分する時のいろいろな種類のカゴのこと

 

日常生活で「頭がよい」というのはsaññā想が鋭いということ。

よく勉強した、というのはsaññā想の訓練を良くした、ということ。

記憶力が良いというのはsaññā想のカゴを大脳皮質というHDに一杯持ち、すぐにそれを机の上に並べる能力。

既知のsaññā想と信号を結びつけることで新たなことを連想して記憶する

 

 

 

ロバーツの言葉

私の表現

三蔵の語句

それ, that 8

ありのままにしか見ない認識システム

rūpa蘊と識viññāna

不可知のものUnknown8

あるがままの無常

真のaniccāに至らないyathābhūta

無自己

文明社会の思考パターンの除外

自我+人工衛星の視点の除外

いくつかの行sankhāraが除外された心citta

純粋主体性

私は私、対象は対象の2相

深層意識  智性+霊性(滅性)

自動反応アプリを取り外した主体

尋・伺・喜・楽・一境性のセット

vitakka-vicāra-piti-sukhekaggatā

無自己の沈黙 p79

没頭

khaika samādhi 刹那的集中

空白の沈黙  p80

逃避的気絶 記憶機能の欠陥障碍

saññāの喪失

静寂点の沈黙5,81 still-point

深層意識 アートマン 梵我の我

尋・伺・喜・楽・一境性のセット

暗夜    81

イニシエーション  トンネル

修習bhāvanā

嵐の後の静けさ  82

深層意識

tatra-majjhattatā中捨

それ 83 what Is

無限

空無辺処善心ākāsānañcāyatana

一なること  85

主客一致からの視点 一であり多である

uggaha- nimitta取相

虚無  85

主客一致への没入

第一禅定 pahamajihāna

究極への通路85

空虚と不可知109

カタチのない世界へのイニシエーション

カタチになる前のすべて

rūpa界から無色arūpa

 

立体鏡  85

観察者によるスポットライトの当て方

共通点もしくは相違点に当てる光

識蘊viññānakkhandaによる

saññāの切り替え

最後に「見た」 89

あるがまま as it is  無常の無体感

aniccāに至らないyathābhūta

純粋行  90

宇宙の法則に従っている行為

貪瞋痴のない行為 sammā

永遠の行 91

宇宙の法則

Dhamma

仏教の無我94

禅定と智慧paññāの混同による誤謬

第一禅定pahamajihāna

一なることを見る者98

観察者

識蘊viññānakkhanda

現場監督98

体は常に刺激を欲しがる性質をもつ

kama tanha感覚器官の欲求 欲愛

聖霊109

 

 

復活111

宇宙の「意」を持つカタチ

空無辺処心ākāsānañcāyatana

の現象化

純粋主体として「見る」111

直接ただ知る

saññāなし識蘊viññānakkhanda

キリストの苦悶と死 112

カタチの限界

rūpa界から無色arūpa

客体の神の死112

黄泉に下る

主客一致からの離脱 カタチなき「空」

カタチがエネルギー体に融解する

色蘊rūpakkhandaからの離脱

kalāpaからdhammā

昇天112

「空」との一体化と独立

空無辺処善心ākāsānañcāyatana

原罪113

感情と思考のパターン認識

五取蘊Pañcupādāna-kkhandhā

信仰114

灯火の智慧

suta-mayā paññā

見ること114

復活の結果120

saññāと行sankhāraに囚われない「感知」

bhāvanā-mayā paññā

2つの様相137

波と海中   大乗の「色」と「空」

rūpa dhammā

存在そのもの162

あるがまま

aniccā変化しつづけるもの

普通の思考

アプリ

色受想行識への執着  五取蘊

自意識なしの思考

「いま・ここ」

saññāのない認識

相対

感覚器官からの信号を比較

三毒(貪瞋痴)のある

非相対な知

磨かれた理性

 

無自己の沈黙

鬱  

惛沈 心身を鈍重に塞ぎ込ませる

無自己の沈黙

差異感覚機能の欠陥障害

管理できない想saññāの欠如

 

 

1段階と第2段階

1 低い自己(ego)を捨てて、高い自己selfとカミとの合一する「真の自己の完成への道」

2 合一感が「ない」状態を観察することで、ありとあらゆるところへと到達する自己解体した「無自己の道」

 

1と第2の間に中間期(marketplace 生業の世界)があり、ここでの充実した行為が第2に至るとても重要な準備期間なのだが、これについて言及する人や本が少ない。

この準備期間の前半では、「静寂点」と自己が固く結び付けられているが、後半では自己の機能は果たされなくなり、生きるのに自己は必要なくなる。

 

 

 

関係性

主体

時間

善悪

基準

パターン

1

相対的

主体的

過去現在未来

善悪の実

原則、方針

情意の働き

2

非相対的

脱主体的

いま・ここ

実がなくなる

流動的

なくなる

 

 

 

科学

性質

美学

言語化

判定、判断

第1

科学の善悪

理性

共感や愛

試行は可能

樹は果実によりて知らる

第2

科学からの離脱

智性

安穏した心

説明不可能

無果実で樹を判定できない

 

 

 

意志

捉え方

活力

トンネル

変化したこと

第1

意志はある

思考

情緒の活力

暗夜darknights

神との結合による活力

第2

意志が無くなる

あるがまま

活力の無

死滅後の復活

限りにない拡がり

 

 

著者の「自己」について

第2段階に行く前までは「自己」とは、other他者であるOne神を見つける主体として理解していた。

self自己とはbody体(肉体),soul魂(霊魂),mind心(知性),feeling感覚(感情)true selfアートマン(神と繋がっている本当の自己)を統一したもの  

()は訳者の雨宮一郎の翻訳または解釈      

 

 

著者の「無自己」とは

まず「自己」とは外来の未知のものに対して自分を護る役割を果たし、生存のための防衛機能だと思っている。

中間期後半以降は、パターン認識をする自己は不必要になって、本来備えられた新しい生に入ることができる、と考えている。

しかし、著者の「無自己」には多くの概念が混同されている。

自己が無くなり、無自己になってはじめてすべての沈黙を超えたところへいく、と著者は考えているが、たとえば著者の無自己とは自意識の機能の喪失である。

また、無自己とは、海綿のようなもので、自己という水を搾り取ることで現れるもの、と考えている。

だから、「自己の水に浸された」曇った思考がなくなることを「無自己」と定義している箇所もあるが、実際には「海綿」が残存しているので、「自己」がなくなることで、何も無くなるという解釈の仕方はロバーツのように日常生活における混乱を招くので、気をつける必要がある。

 

 

仏教の無我no-sllfの観念6

この無我の観念はロバーツの読んだ仏教のある宗派による解釈のもので、釈尊はこのような無我の観念とは違い、

anattāというパーリ語で「わたし(自己)」は「涅槃に至る道」において無力であることを説いているだけである。

「見ること」は頭の少し前の方にあるように感じた。

感覚器官は使用せず、メンタルボディによる認識の時に感じる感覚

外にあるもののすべてのものの脱落。一なること、立体鏡もなくなり、「見ること」が消える全般的空虚

近行ステージから主客一致の禅定に入った時に起きる状態

頭が火がついたように熱くなる

感覚器官と意識から入る信号を分別しようとしているが処理が間に合わずオーバーヒートしている状態

目の後ろが強く押させてつぶれてしまいそうになる。

眼に触れる信号とそれを引き寄せる感覚器官の欲求kama tanhaによって起こる力が圧力になっている

自己の無くなった後に何も残らない  98

識蘊が残り、想saññāは残るとも残らないとも言えない

すべての宗教が究極に目指す「それ」98  

「それ」とは単なる空無辺処善心ākāsānañcāyatanaであり、出世間心の8つとは違う無色界第一禅定であるので究極に目指すものとは限らない。

何か不思議な巨大なものが私の周りに現れて過ぎていくのを感じました。・・・それは神だったのです。102

天使かもしれず、神だと断定する根拠を理解するのは難しい

私の内部が四方八方に膨張して行く116

体に囚われていた心が、そこから離れた時に感じる感覚、そして解放された心が天まで拡がっていく可能性

最後の体験117

不可知なるカミはすべての意識体の心も含んでいる。

神の占領が「我は神なり」とう意識・・・118

自己(受vedanā・想saññā・行sankhāraを経由した認識が対象とセットになっている自己を生む。)が無くなっても、色rūpaと識viññānaの蘊は残っているので、他者に占領されずに「知る」ことはできるが、もしここで自分の体に他者によって占領されると勘違いしてしまうのは、まだそこに思考と感情パターンという自動反応回路のアプリが残っているので、それらに操作されているだけのことなので、無自己に向かうプロセスは、自己を喪失するという概念が先行したものではなく、アプリを丁寧に一つづつ書き換えたり除去する手順を踏まないと、妄想や暴走が起こり、危険である。

当惑したことは、自己の喪失よりも客体としての神の喪失です。138

預流果として覚る時に消滅する煩悩の一つが戒禁取sīlabbataparāmāsaで、ありがたがられている儀式や習慣に何の根拠もなく徹底的に執着してしがみついている無意識のこと。

主体としての神は客体としての神ほどの満足感を与えない140

客体としての神は「わたし」の中に尋・伺・喜・楽・一境性のセットがあるので、喜びも楽もあるが、

主体としての神は、これらの尋・伺・喜・楽は除去され、残っているの一境性と呼ばれる統一性とupekkhaと呼ばれる安穏した心しかないので、感覚器官と心の刺激になるものがない。

不可知のものへの凝視によって、覚醒を保つことができたのです。144

saññāを使用しないことにより概念によって対象が何であるかを決め付けることができなくなるので、対象は常に変化し続けるもの、すなわち「不可知」になるので、それらをただ見ることによって、心の働きは機能し続け、対象は色蘊を経由して直接に識蘊viññānakkhanndhaで「知る」ことになった。

どの文献に書いてあるのも、愛と祝福、光と活力、内なる神、真の自己などのことで、これは第1段階、すなわち相対的な情意の働きの圏内にあることばかりなのです。154

目的のある文献はある一定数のために書かれるので、第二段階のように数が少ない事例は体験を通して相伝されたり、各自が体験する。

 

私が賛意する言葉

自分の内なる他者をおいて他人に向かうべきではない。160

本当の他者と合一してはじめて、対人関係のあらゆる試練に耐えることができ、そこで何があっても心が乱されることがない。

静寂点(内なる他者)が人間の独立と安全への鍵であり、そこに達してはじめて他人に心を開き、寛大になり、その自由を尊重することができる。

この内的なものが欠けていれば外に向かうほかなくなり、絶えず外に向かうことで対人関係の問題が生じる。

人生のほんとうの問題は自他の関係にではなく、自分と内なる「他者」との関係にある。

 

観想の道を行く者は、はじめは努力して進むのだが、ある段階からはただ流されていくだけで、ついには自分がいつでもこの流れそのものに他ならなかったと知る。

 

 

私の理解

自分の内なるカミとの合一、もしくはつながる者は、この関係性を他者にも見て接することになるので、感情や思考パターンの愛情とは次元の違う心の次元でも同時に接することになる。

そして次の物質の無くなる次元では、感覚器官の信号がなくなり、カタチという多くの相違点はエネルギー体という一つの共通点の背後に退くので、安穏した心で自分と他者に接している。

 

 

 

タイトルから誤謬がはじまった

ロバーツの言う「自己self」とは、単なる「文明社会の思考・感情パターン」のことでしかないので、ここから雪だるま式に誤解がはじまってしまう。

たとえば著者の言う「無自己の沈黙」には複数の概念が混濁しており、その1つは鬱のことであったり、差異感覚機能の欠陥障害のことであるので、「無自己である」と著者は記述するが、実際には自己は残存している。

対象を認識すれば、そこには主体である自己が対象とのセットして現れ出るので、それを心理学でも日常会話でも一般的に「無自己」とは呼ばないのがこれまでの決め事(定義)である。

また自己がなくなっても神経学や心理学で「観察者」ともよばれる「知るもの」は残存するので、何もなくなるということはない。

仏教の三蔵ではこれを識蘊viññānakkhandaと呼び、思考パターンsankhāraや概念saññāを経由した認識ではなく、直接に「知る」回路であり、これが癖になるまで繰り返す修習を日課とすることで取得可能となる。

 

著者がこの本を書いた目的は、「枠がないものを認識する体験」が特別なものであると感じたため、と推定されるが、これは私も含めて古今東西でよくある出来事である。

しかし著者の場合はこの体感を「無自己」「自己」「何も無い」「カミ」という概念にこだわるあまりに、自己でコントロールできるメソッドを研究も探索もせずに記述することの無責任さについては考慮してはいない。

推察できるのは当時は著者の周囲に事態を説明して指導できる人物がおらず、自己の体験を普遍的なものとして伝えることに価値があると思い、この経験の危険性について考慮する余裕がなかったのかもしれない。

 

 

 

参考資料

arūpāvacara-citta         無色界心

 

kusala-citta  4  善心

ākāsānañcāyatana-kusala- citta,viññāañcāyatana-kusala-citta,

ākiñcaññāyatana-kusala--citta, nevasaññānāsaññāyatana-kusala-cittañ ceti,

imāni cattāri pi arūpāvacara-kusala-cittāni nāma.

空無辺処善心、識無辺処善心、無所有処善心、非想非非想処善心、というこれら4つが無色界善心と呼ばれる

 

無色界での瞑想の対象は、普遍的な宇宙的な真理。

 

 

空無辺処善心  ākāsānañcāyatana

ākāsa    空間、スペース、何もない真空

anañca   (ananta)[an-anta] 無辺の,無限の,無量の

āyatana   達する、入り込んだ状態

 

自分の心と物質的なエネルギーとが一体になるのを感じ、この物質的な存在が「ない」状態を観察する。

月を見て、その月がない状態を観察するのだから、けっこう難しい。

 

真空状態が無辺で、物質がある状態が有辺であるので、an(無)-anta(辺)という。

この時の瞑想対象はākāsam ananta無辺の真空である。

対象が消えたら無辺なので、ākāsa真空だけを観察する。

そしてこのākāsa真空を認識する。

 

空無辺処の禅定では、心はただ平静な状態である「捨」だけで、喜悦感も何も感じない。

 

 

識無辺処善心 viññāañcāyatana

viññāa 

ananta  無辺

āyatana 処、状態

 

瞑想の仕方

空無辺処の禅定を後から何度も観察する。

これで真空状態がわかり、「物質はもう嫌だ」と物質のレベルは終わったのだが、この状況を分析すると、

物質があることに支えられて物質のない状態を認識して、真空状態を体験していることが分かる。

物質が逆説的に「真空」を支えてくれているということ。

そこで「今度は物質のない真空状態に頼っていたのだ」という事実がわかる。

それは真空状態という杖を持って、手すりに掴まって登ったことになるので、

「次は、手すりで登ってみよう」ということになる。

無辺の心の状態を杖にして瞑想するということ。

空無辺を心が体験したので、次は「心の無辺」のステップに進むということ。

心を空無辺に拡げたので、次は「識が無辺に流れていく」のを観察する。

「こころが無辺であること」を観察する。

これは真空状態(物質がない)という手すりなしに、また無辺の状態を体験することになる。

 

無所有処善心  ākiñcaññāyatana

ākicana     ā否定+kiñcanakiñci 何かsome)  何もないnothing

        真空や虚空ではない。それさえも無い「何もないことnothingness

āyatana    処、状態、入り込んだ状態

 

「識は無辺であること」を何度も観察して、一体感を得て、禅定が上手になってから、呼吸にも心にも何にも頼らないで、

「ただ集中するだけで心が無辺状態になるか」と訓練する。

 

「何もないことnothingness」というのは認識が生まれないことである。

すなわち「知らない」ということで、「何もないことnothingness」の瞑想はできない。

 

心に何も刺激を与えなければ、いきなり無辺状態になるはずである。

ではどのようにすれば刺激を与えないようにできるか?

問題はどのようにして常に動いている心、言葉を変えると脳細胞の働きをどうやって止めるかということ。

本当に止まったら、その細胞は止まってしまうので、物質的な世界では「刺激を感じないようにすること」は不可能である。

しかし無色界の瞑想は物質的な世界とはまったく関係がない違う次元である。

身体が植物として働いているようなもので、脳細胞は止まっても死ぬことはない。

 

 

非想非非想処善心nevasaññānāsaññāyatana

nevasaññā  naなし+evaただ(only+saññā(想、区別) 欲界の想がなく想がないかのような状態                              nāsaññā   na なし+asaññā   色界の波動の差はあるので非想(差がわからない)ではない状態  

                              

「自分は、無辺的な存在を感じている。しかし何の特色もない。空気のように、真空のように、自分が何となく、僅かな自分という意識だけあって、あとは何もない」

 

非想非非想処善心nevasaññānāsaññāyatanaの限界

差を受け取らない状態なので、心はこれ以上認識できないのでどこにも進むことができないのだが、識viññānaとしは、心は一直線でもズーッと流れている。 

これが「永遠」の状態であると禅定者は思った。

それは84000劫、または阿僧祇asakha劫と言われ、10140乗の劫なのだそうである。

一劫とは宇宙が一回生まれて消えるまでの時間。

 

しかし刺激が入ったら、この一直線が変化する。

そこで釈尊は「今、心は究極の状態に進んだ。しかし、心が存在しているのだから、またいつか荒波を立てるのだ」と分かった。出典は?

「心はいつも動いている。エネルギーがある限りは禅定状態にいて、エネルギーが消えるとまた普通の波に戻る。だから究極のところまで心が成長すると、とてつもなく長い間、その徳の力で同じレベルで至福感を感じているかもしれないが、やがてまた荒波が立つのだ。なぜなら心の波がここにあるからだ」出典?

心自身がウイルスという生命体であるので、波動を持っているのだ。

 

永遠を断言するためには、その「永遠」よりさらに長い時間を知った状態にいなければならない。コレ自体に矛盾があるので、永遠を指し示すことはできない。

永遠は常識ある知識人が使う言葉ではない。

 

色界や無色界に対する欲    有愛bhavata 非有愛vibhavata   出典?

細胞が刺激を求める物質的な欲愛kāmataに対して、

有愛bhavataとは、心は体の欲求をカタチにしようとして、より高いレベルに行きたい、そして永遠になりたい、という存在欲になり、

非有愛vibhavataとは、物質がない次元での欲であり、「存在は嫌いだ、存在しない方がありがたい」と欲するので、ある種の怒りのような欲になる。

 

「物質的な欲愛kāmata、有愛bhavata、非有愛vibhavata3つがある限りは悟りではない。」   出典?

 

非想非非想処を観察しても、「この心もやはり生滅変化しているではないか」と釈尊は気付いた。出典?

原因はいずれ変わり、したがって結果も変わるので、「ここも最終解脱ではない」と確認した。出典?

 

この無色界は物質とは関係のない心だけの世界なので、誰もこの世界の生命とはコンタクトすることができない。

時空をとらない存在なので、無色界梵天は「どこかにいる」ということもない。

 

仏教以外の無色界禅定

「魂のはたらきは物質と関係ないのだ」

シャンカラĀdi Śakaraadvaitavedānta(非二元性)哲学

nirguabrahman   nirgua 何も特色なし  brahman 超越している魂(ātman 個我ではなく真我

「真我には何の特色もない(nirgua)のだ」

 

シャンカラが目ざしたものは輪廻からの解脱であり、その手段は、原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、個人の本体であるアートマン(我)は本来同一であると主張した。

現実の日常経験がこの真理と矛盾しているのは、この知識を会得しない無知(無明)によるとし、肉体をも含めた一切の現象世界は無明によってブラフマンに付託されたものにすぎないものであって、本来実在しないと説いて幻影主義的な一元論(不二一元論)を唱えた。

歴史的にみれば、彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担ったともいえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己喪失の体験   バーナデット・ロバーツについて

Barnadette Roberts     The Experience of No-Self, A contemplative journey

 

わたしから見ると自意識の高い人が無色界に至る精神病者の実体験の本であるが、このような境遇を持つ人が21世紀のアジアでも増えたので考察する必要がでてきた。

ここでいう精神病というのは、自分のいる社会的時空を把握しておらず、周囲との摩擦も感じられ、下手をすると周囲の通報により病院に送られる可能性があったかもしれないことが、文間に感じたからである。

たとえば文中のようにスーパーで気を失うのはいいが、車の運転中ならば自他の命に関わる。

第2の瞑想をする時には次元が色界や無色界へと移行するので、世間と距離を取り、瞑想が終われば、体験した感覚が通用しない世間に戻ることを自覚することで、精神病と世間からラベルを貼られる必要がなくなる。

「人口密度の法則」を活用することにより、自分の瞑想と周囲の価値観との両立も可能になると思われる。

 

著者の病状の特徴

ultimatefinalなどの使い方から推察できるように、きめつけで仮説を早急に立ててそれを信じ込む

概念や一般化を好む  文明社会志向  絶対境地の信仰

未知なるものを区分しなくては落ち着かない文明人の大脳皮質の本能に寄り添う心の弱さ

概念と思考パターンのアプリを根拠もなく早急に作り、それに依存する体質。

検証するのではなく、納得することを好むのだが、本人は信仰よりも実践を選択していると信じ込んでいる。

心と体の一体化に依存している   細胞の欲求に心が寄り添うことで体の本能の強制力を感じる。

主客一致の価値観を「観想」の時だけではなく、自意識が高いために、日常生活に持ち込み、周囲との摩擦を起こす。

 

なぜ精神病者になったのかというと、不可知を忌み嫌う価値観の空間(都市現代文明)に身を置いたため。

そこから離れるようにすれば精神病者ではなくなる。

 

背景の特徴

知識や学歴に対する信仰

人口密度の低いところから多いところへ移行した青年期

ものごとを区分しなければならない環境で成長期をすごす

社会環境が高度経済成長期であった。

 

精神病になった原因は、上記の環境から離脱しようとしたため

具体的には、情報が増大したため処理能力すなわち信号分別能力が機能を超えてしまったため。

そしてカトリックの「観想」の実践。

 

対処法

観想をしない

するのであれば、観想をする場所としない場所で時空(次元)が変わることを自覚

特に第2のプロセスは、感覚器官からの信号の処理の仕方が変化するので、車の運転などは危険である。

 

 

 

ロバーツの聖霊の理解の変移

第1段階  神の住む処、神と自己が結ばれている処

第2段階  感覚器官の信号とそれらで構成されたイメージで認識するシステムが、想saññā蘊を経由しない「知る回路」を取得したため、区別することや限りという線をひくことなく「一なるもの」を直接に「知る」ことになった。そこで上記の聖霊と自己のセットは消えたが、それによって黄泉に下った後に「一なるもの」が現象となった新しいカタチとなって蘇った。

これを第2段階の終了とよび、「that限りなきこと」を見出したと言っている。

 

無色界における聖霊と復活の意味

聖霊   宇宙の「意」

復活   「意」が死滅し、そのエネルギーは「限りのない意」となり、それが現象化してカタチになった

 

釈尊の観る聖霊とはなにか?

この世は「物質と心と心の要素と涅槃」しかないという勝義諦 paramattha saccaからみると、

違いを知るというはたらきでcittaといい、宇宙では「意」、人では意識とよばれるもの。

「こころのはたらき」

知るという機能が、刹那に生じ、刹那に滅し、繋がって連なっている。

 

釈尊の観る復活とはなにか?

物質が滅び、心は死心となるが次の刹那には結生心となる。

イエスの結生心は無色界にて転生した。

体は消え、心が無限に拡がっている。

 

そしてどこまでも拡がった心が瞑想者の「復活」である。

体に縛られない心、すなわち物質の認識システム回路だけに依存するのではなく、限りのないものを「知る」回路を併せ持った生命体として再生する。

 

 

 

redemption  贖罪 救い 復活

キリスト教で、十字架上で死んだイエス=キリストがよみがえったことをいい、キリスト教の最も中心的な信仰内容。イエスの復活は罪と死に対する勝利であり、神の愛による人類の救いの完成という意味をもつ。

 

 

救済史 (History of redemption) とは創造以前に定められた神の計画により、イエス・キリストの死と復活を中心に堕落した罪人を救う、全ての御わざを指している。より幅広い意味で救済史を定義するならば、人類の初めであるアダムとエバの堕落によって失った楽園を取り戻すために、人類と万物を新たにしようとする神の経綸と言うこともできる。

救済という言葉においては、「解放」と似た意味として罪という束縛から代価を支払い自由となる「救い」を指している。よって、救済とは必ず何か代価を支払わなくてはいけないということを前提としている。

罪の結果である死 (ローマ6:23) の代価を、私たちの代わりに支払い、救ってくださるのは天上天下においてイエス・キリストただ一人である (マタイ20:28)

救済史の重要な主題は、大きく「創造」と「堕落」と「救い」に分けることができる。神の形に模って想像された人が (創世記1:26-27)、創造主なる神様の御言葉に従わなかったことによって堕落してしまった (創世記3:6)。神は堕落したこの人間を救うために眠ることなく (詩編121:3-4)、救いの歴史を進めている。創造と堕落と救いの歴史の中で、中断することなく前進する神の救済史を引き継いで来たのが、神の「契約」である[1]

救済史と契約

神の救済史を時代ごとに繋ぎ合わせているチェーン (link) は、「契約」とその「契約の成就」である。よって、創造と堕落と救いという「救済史の主題」において、この契約が実際の歴史の中でどのように成就して来たのかを、具体的に察することはとても重要である。

契約 (言約, Covenant) はヘブライ語で「ベリト」であり、契約の当事者たちが相互の間に同意することを表す。しかし、神と神の民との契約は、神の一方的で主権的な契約である。 何故ならば神は創造主であり、人は彼の被造物として、本質的に神と人は相互同等な存在ではないからである。しかし、「私があなたとの間に契約を立てる」という創世記 6:18 の言葉にも、契約を立てる方は神であり契約の所有者も神であると語っている。また、ヘブライ語「ベリト」は「裂く」という意味を持っている。

昔、近東地方で破棄されてはいけないとても重要な契約を結ぶ時、獣を殺してから裂き、両側に分けておいたことから由来した言葉である (創世記15:10, エレミヤ34:18)。 これは、もし契約者たちが約束を守らない時には、裂かれた獣のようになるということを意味している[2]

救済史と経綸

経綸 (Administration) という言葉は、「仕事を組織して経営すること」という意味を含んでいる。ギリシャ語で経綸は「オイコノミア」である。 その意味は管理者 (ルカ16:2-4、使徒行伝4:2)、職分 (Uコリント9:17)、経綸 (コロサイ1:25)、奥義 (エペソ1:9) に訳すことができる。

このような意味を総合して見るとき、経綸とは管理者が家を管理して治めるように、全宇宙の主人である神が人類の救いのために地上の教会とキリストを通して、天下を治める経営を意味する。神の経綸とは、神が自分の民の救いのために宇宙万物の運行と秩序、時間を最も適切に調節して、分配し並べ、計画して支配しながら管理するすべての過程を意味する (コロサイ1:25) [3]

救済史と摂理

神は契約を永遠に成就させるために救済史の中で具体的な活動を行なうのだが、それがまさに「摂理 (Providence)」である。「摂理」は、「自然界を支配している原理」、または「世の中の全てのものを治める神の意志、または恩恵」である。

摂理は、神が決心された目的を果たすために全てのものを治める神の継続的な活動、 すなわち全ての事をその心通りに働かせる神の計画の実践である。言い換えれば救いの計画を実現されていく神自身の具体的な活動である。罪を犯した人間を救おうとする神の計画が実現するまで、この世の中で起こる全ての事に主権的に介入して積極的に働くという意味である [4]

聖書解釈の歴史

·                    救済史的に聖書を理解するためには、予型象徴を正しく理解することが必要である。救済史的な立場で、象徴を取り扱うために、用いられるのが予型論的解釈である。ルターカルヴァンは正しい意味での予型論的解釈を主張した。

·                    救済史の概念を最初に提唱したのは、ヨーハン・ホーフマンである。聖書の機械的な理解に異議を唱えて、聖書解釈において、文法的、歴史的解釈と第三の解釈原理である、神学的解釈を加えた。それは、神が聖書の著者であるならば、そこに一貫性があり、明確な目的があるはずであるという前提である。

·                    1939年にL・ゴッペルトが『テュポス』を著した。この書が、旧約学者、ゲルハルト・フォン・ラートマルティン・ノート、新約学者のストフェールE・シュタウファーらに積極的に評価された。

·                    ゴッペルトは、旧約聖書の人物、出来事、制度は新約において成就されるべき、事柄の預言であったとした。

·                    フォン・ラートは、啓示が進展的なものであり、初めから終わりに向うものであることを主張した。

聖書の歴史

·                    旧約聖書においては、創造、堕落に始まる創世記1章−11章を序章として、アブラハムを父祖とするイスラエの歴史に入り、モーセによる出エジプトを中心的な出来事として、扱っている。イスラエルの歴史においては、出エジプトの歴史が救いの型になって、繰り返されている。

·                    新約聖書においては、キリスト受肉十字架復活昇天、初代教会誕生という新しいイスラエルの歴史の枠の中で取り扱われて、終末における審判と救いの完成を目指して進展していく。

脚注

 

1.  ^ パク・ユンシク,「神の摂理に在る約束された永遠の約束」 (睴宣出版, 2010) , 33p.

2.  ^ パク・ユンシク,「 忘れていた出会い」 (睴宣出版, 2008) , 46-47p.

3.  ^ パク・ユンシク,「 創世記の系図」 (睴宣出版, 2007) , 37-38p.

4.  ^ パク・ユンシク,「 永遠の契約に込められた神秘的な神の摂理」 (睴宣出版, 2009) , 45-46p

 

 

ラストアルバム「アップライジング」B面最後の曲「リデンプション・ソング」

Bob Marley redemption song

精神的奴隷状態から自らを解放するんだ

僕らの精神を自由にできるのは僕ら自身なんだ

 

遠い昔 海賊が俺達をさらって

奴隷船に売り払った

そして奴らは俺達を商品として

船底から引きずり出した

 

全能の神が授けてくれた手だ

大いなる誇りを持って

この時代を進んでいく

 

俺が今まで歌ってきたのは全て解放の歌だ

この自由の歌を一緒に歌ってくれないか

なぜなら俺が今まで歌ってきたのはすべて救いの歌だ

救いの歌だけなんだ

 

精神的奴隷の状態から自分自身を解放せよ

俺たちの精神(こころ)を解き放てられるのは

他の誰でもなく 俺たち自身なのだ

原子力など恐れるな

やつらに時まで止めることはできやしない

 

あまりにも長いこと 奴らは

俺たちの予言者を殺し続けてきた

俺たちは傍観していただけだった

 

あるものはそれは聖書に書かれているという

そして 俺たちは予言の書を完成せねばならない

 

この自由の歌を一緒に歌ってくれないか

なぜなら 俺が今まで歌ってきたのは全て救いの歌だけだ

そう 俺の歌ってきた歌はすべて救いの歌なんだ

 

Old pirates yes they rob I

Sold I to the merchant ships

Minutes after they took I

From the bottomless pit

 

But my hand was made strong

By the hand of the almighty

We forward in this generation

Triumphantly

 

All I ever had, is songs of freedom

Won't you help to sing, these songs of freedom

Cause all I ever had, redemption songs

Redemption songs

 

Emancipate yourselves from mental slavery

None but ourselves can free our minds

Have no fear for atomic energy

Cause none of them can stop the time

 

How long shall they kill our prophets

While we stand aside and look

Yes some say it's just a part of it

We've got to fulfill the book

 

Won't you help to sing, these songs of freedom

Cause all I ever had, redemption songs

redemption songs, redemption songs

 

Won't you help to sing, these songs of freedom

Cause all I ever had, redemption songs

All I ever had, redemption songs

These songs of freedom, songs of freedom...

 

 

 

聖霊とは何ですか

聖書の答え

聖霊とは,神の活動する力のことです。(ミカ 3:8。ルカ 1:35

神は聖霊を送り出し,そのエネルギーによってどこにおいてもご意志を成し遂げられます。―詩編 104:30; 139:7

 

聖書に出てくる「霊」という語は,ヘブライ語のルーアハ,ギリシャ語のプネウマを訳したものです。

ほとんどの場合,これらの語は神の活動する力つまり聖霊を指して用いられています。(創世記 1:2)しかし,聖書中では次のものを意味する場合もあります。

 

息。―ハバクク 2:19。啓示 13:15

風。―創世記 8:1。ヨハネ 3:8

生き物の内にある活力。―ヨブ 34:1415

人の気質や態度。―民数記 14:24

神や天使を含む霊者たち。―列王第一 22:21。ヨハネ 4:24

 

こうしたものすべては,肉眼では見えませんが,その力が働いている結果を見ることができます。

同様に神の霊も,「風に似た,目に見えない無形の強力な」力を意味しています。―「新約聖書用語解説辞典」(英語),WE・バイン編。

 

また,聖書は神の聖霊のことを神の「手」や「指」と描写しています。(詩編 8:3; 19:1。ルカ 11:20。マタイ 12:28と比較してください。)

人間が手と指を使って仕事をするように,神もご自分の霊を用いて次のようなことを行なってこられました。

 

宇宙を創造する。―詩編 33:6。イザヤ 66:12

聖書を筆記させる。―ペテロ第二 1:2021

古代の神の僕(しもべ)たちに奇跡や熱心な宣教を行なわせる。―ルカ 4:18。使徒 1:8。コリント第一 12:4-11

神に従う人々が立派な特質を培えるようにする。―ガラテア 5:2223

 

聖霊は人格的存在ではない

聖書は,神の霊のことを神の「手」や「指」や「息」であると述べることにより,聖霊が人格的存在ではないことを明らかにしています。(出エジプト記 15:810)人間の手は,脳や体から独立して機能することはできません。同じように,聖霊も神の指示なくしては作用しません。(ルカ 11:13)また,聖書の中では,聖霊が水に似たものであると述べられていたり,信仰や知識と関連付けられていたりします。こうした点はいずれも,聖霊が人格的存在ではないということを示しています。―イザヤ 44:3。使徒 6:5。コリント第二 6:6

 

聖書には,エホバ神の名やみ子イエス・キリストの名が出てきますが,聖霊の名はどこにも見当たりません。(イザヤ 42:8。ルカ 1:31

クリスチャンの殉教者ステファノは奇跡的に天の光景を目にしましたが,見えたのはエホバとイエスだけで,聖霊は見えませんでした。「彼は聖霊に満ち,天を見つめて,神の栄光およびイエスが神の右に立っておられるのを目にし」た,と聖書は述べています。(使徒 7:55)ですから,聖霊は神の活動する力であり,ステファノはその聖霊の力によって幻を見ることができたのです。

 

聖霊についての誤った考え

誤った考え: 「御霊(みたま)」つまり聖霊は人格的存在であり,「ジェームズ王欽定訳(きんていやく)」聖書のヨハネ第一 578節が述べるとおり,三位一体の一部である。

 

真実: 「ジェームズ王欽定訳」聖書のヨハネ第一 578節はこうなっています。「天において……御父(みちち)と御言葉(みことば)と御霊……この三つは一つなり。また,地において証(あかし)するものは三つ」。しかし,研究者たちにより,これらの言葉が使徒ヨハネによって書かれたものではないこと,それゆえに聖書に含められるべきではないことが判明しました。ブルース・M・メツガー教授はこう書いています。「これらの言葉が偽筆であり新約聖書の中に含められるべき理由が一切ないことは明白である」。―「ギリシャ語新約聖書の本文に関する注解」(英語)。

 

誤った考え: 聖書は聖霊を擬人化しており,そのことは聖霊が人格的存在であることを証明している。

 

真実: 聖書がときどき聖霊を擬人化しているからと言って,聖霊が人格的存在であることの証拠になるわけではありません。聖書は知恵や死や罪も擬人化しています。(箴言 1:20。ローマ 5:1721)例えば,知恵には「働き」があって「子供ら」がいると述べられています。また,罪は人をたぶらかし,殺し,貪欲を生み出す,と描写されています。―マタイ 11:19。ルカ 7:35。ローマ 7:811

 

同様に,使徒ヨハネが記したイエスの言葉を見ると,イエスは聖霊を「助け手」(擁護者)として擬人化しています。そして,聖霊が証拠を与える,案内する,話す,聞く,告げ知らせる,栄光を表わす,受ける,と述べました。イエスは「助け手」に言及した時,「彼」という男性形の人称代名詞を用いました。(ヨハネ 16:7-15)なぜなら,ギリシャ語の「助け手」(パラクレートス)という語は男性名詞で,ギリシャ語の文法上,男性形の代名詞を必要とするからです。ヨハネが中性名詞プネウマを用いて聖霊について書いた時には,中性形の代名詞である「それ」が使われています。―ヨハネ 14:1617

 

誤った考え: バプテスマを聖霊の名において受けるということは,聖霊が人格的存在であることを裏付けている。

 

真実: 聖書では,「名」が権威や権力を表わしている場合があります。(申命記 18:519-22。エステル 8:10)英語にも,「法の名において」という表現がありますが,それは法律が人格的存在であることを意味しているのではありません。聖霊の「名において」バプテスマを受ける人は,神のご意志が成し遂げられるうえでの聖霊の権威や役割を認めます。―マタイ 28:19

 

誤った考え: イエスの使徒や初期の弟子たちは聖霊が人格的存在であることを信じていた。

 

真実: 聖書も歴史の記録もそのようなことは示していません。ブリタニカ百科事典(英語)にはこうあります。「聖霊は別個の神聖な人格的存在……という定義は,西暦381年のコンスタンティノープル公会議において決定された」。これは,最後の使徒が亡くなってから250年以上後の出来事でした。

 

 

 

 

聖霊の体験  https://yourchurch.jp/wpj/2017/08/13/m20170813/

1. 自分の力で信じたのではなかった(1-5)

1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたがを受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……5 あなたがたにを授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。

 ガラテヤの人たちは、聖霊様によるとても不思議な経験をしていたようです。彼らが最初にイエス様のことをパウロから聞いて信じた時、おそらくペンテコステの時のように、超自然的な出来事が起こりました。それは、ガラテヤの人たちに、パウロの教えている神様はいるという確信を与えました。パウロは、その時あなたたちが持っていた確信と喜びを思い出せと書いています。その時あなたたちは律法を知らなかったし、その不思議な体験が自分の力によるものではないと分かっていたはずだと呼びかけています。
私たちにとっても神様を信じるということは、第一に私たちの力ではなく神様の働きです。私たちは一人ひとり、自分が初めてイエス様を信じた時のことを時々思い出す必要があると思います。イエス様は本当にいるんだ、自分のことを知っておられるんだと初めて分かった時、私たちは「ついに自分の努力が報われた!」と喜んだのでしょうか?そうではないと思います。イエス様と私たちの関係は、私たちが頑張って獲得したものではなく、神様が与えてくださった恵みです。他の人の言葉を通して、また様々な経験を通して、私たちに与えられた恵みです。それはすでに私たちに聖霊様が注がれていたということでもあります。でも、前回もお話ししたように、人間はどうしても因果応報の考え方に流れます。良い行いによって神様の恵みを勝ち取ろうと考えるようになります。良い行いによって神様に喜んでいただきたいと思うのは間違っていませんが、そこにはいつも、自分の行いによって神様に選ばれるのだという間違った誇りを持つ危険がひそんでいます。そして行いの良し悪しによって他人も裁くようになります。私たちは誰も自分の力でイエス様を信じているのではないということ、聖霊様が注がれて信じたのだということを覚えておきましょう。

2. 見えない神様を信じる力 (6, 創世記 15:1-6) 

6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。

 これは創世記15:6の言葉です。もう少し詳しく知るために、創世記15章を開いてみたいと思います。15:1-6です

(創世記15:1-6) 1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラハムには長い間子供がいませんでした。神様がこの約束をアブラハムに告げた時、彼はすでに80歳くらいになっていました。そして、この約束が実現したのは、さらに少なくとも15年は後のことです。自分と妻は子供ができるには年を取りすぎていると、アブラハム自身も笑ったとも書かれています。それでも、彼は神様とのコミュニケーションをやめず、聞き従おうとしました。それが彼の義と認められたということです。ここに、パウロが信じ、私たちが信じる、信仰とは何かということがあります。私たちが神様を信じるということは、最初から、目に見えない神様を信じ、まだ実現していない神様の約束を信じるということです。私たちは、神様が願いを叶えてくださったから信じたのではないし、願いを叶えてもらうために信じるのでもありません。状況が良くても悪くても、神様はおられ、私を愛しておられると信じ続けることが、神様を信じるということです。それはいつも一点の迷いも不安も持ってはいけないという意味ではありません。迷いや不安があっても、神様は正しく良いことをなさると信じ続けることです。それは実際、人間にはとても難しいことです。でも、それをできるようにしてくださるのが聖霊様の力です。そして、その根拠となる出来事が、今日最後にお話しすることになる、イエス様の十字架です。でもその前に、7節からのパウロの聖書解釈についてお話ししたいと思います。まず7-9節です。

 

B. 自由な聖書解釈

1. アブラハムによる祝福? (7-9)

7 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。9 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。

 8節でパウロが引用しているように、創世記には、アブラハムによって世界中の民族が祝福を受けるということが繰り返し言われています。このことはずっと、ユダヤ人にとっての誇りでした。アブラハムの血を引く民族、イスラエルの民、ユダヤ人が、世界中に祝福をもたらすために神様に選ばれた民であるという誇りです。そして、ユダヤ人以外の民族はユダヤ人の信仰と生活を受け入れることによってのみ、同じ神様の祝福を受けられると信じていました。それが、ユダヤ人の聖書解釈の常識でした。だから、ガラテヤの人々もユダヤ人の生活を受け入れて、正式にアブラハムの子になりなさいと教えられていました。
でもパウロは、このユダヤ人の聖書解釈が間違っていたことに気がつきました。それは、パウロ自身の信仰によります。また、パウロをそのように導いた聖霊様の力によるとも言えます。彼は自分の信仰は自分で獲得したのではなく、神様によって与えられた恵みだと知っていました。それは、迫害者から宣教者に180度人生を変えられた彼だからこそ持つことのできた確信だったかもしれません。パウロは聖霊様に導かれて、信仰に基づいて、聖書を読み直しました。アブラハムの優れていた点は何か、なぜ神様はユダヤ民族を選ばれたのか。そして、気がつきました。アブラハムもユダヤ民族も、もともと優れていた点はなかったのです。アブラハムが選ばれ、ユダヤ民族が選ばれたのは、彼らが他と比べて何かが優れていたからではなく、神様が一方的に彼らを選んだだけでした。優れているとされたのは、彼らが神様に選ばれた後の反応でした。彼らは、神様の選びに答えて、神様を信じたという点においてだけ、神様に喜ばれたのです。だからパウロは、アブラハムの子というのは、アブラハムの血を引く民族ではなく、アブラハムの信仰を受け継ぐ人全てだと解釈し直しました。それは当時の多くのユダヤ人にとっては受け入れがたい解釈でしたが、間違っていたのはユダヤ人の方でした。
パウロの聖書の再解釈は続きます。10-12節です。

2. 「律法を守らない者は呪われている」?(10-12)
10 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。11 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。12 律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

 10節「律法の書に書かれている全てのことを絶えず守らないものは皆、呪われている」ユダヤ人なら、だから律法を全て守らなければいけない、と当然考えました。12節も同じです。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」だから律法に従って生きよう、とそれまでは考えられてきました。でもパウロは違いました。彼は、律法を全て守って生きることは人間には不可能だという前提に立っています。そして、律法を全て守らないなら呪われている、その通り、私たちはみんな呪われていると言います。また、律法によって生きようとするなら、律法にしばられていることになり、信仰によって生きていることにはならないと言います。行いによって神様に認めてもらうことは不可能であり、それを目指すことは偽善でしかないということです。
このように、同じ聖書の言葉を読みながら全く違う解釈ができてしまうのが、聖書を読むときの注意点だと言えます。正しく読まなければ、人を生かす神様の言葉は、人を神様から引き離す呪いの言葉になってしまいます。また反対に、正しく読めば、人間の限界をはるかに超えた神様の言葉を読み取ることができます。今までどう解釈されてきたかは参考にはなりますが、時には劇的な再解釈が必要な場合もあります。その意味では、聖書は難しい本だと言えます。でも、聖書を正しく読むために必要なのは、断じて聖書の知識ではありません。必要なのは信仰です。イエス様を知って間もない人の方が、何十年も聖書を研究している学者よりも正しい聖書の読み方をしている場合もあります。大切なのは、聖書の知識よりも信仰です。イエス様が自分のために死なれたと信じること、そして、聖霊様によって自分は生かされていると信じることです。聖書の知識は、信仰の助けにはなっても、信仰の代わりには決してなれません。
それでは最後になりますが、私たちの信仰の根幹の部分についてです。13-14節です。

C. キリストの死の意味 (13-14)

13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。
14
それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束されたを信仰によって受けるためでした。

 パウロが大胆な聖書の再解釈をできた最大の根拠がここにあります。イエス様が私たちの代わりに呪われた者となり、死なれたという事実です。昔も今も、神様の前に正しい人は一人もいません。どんなに努力をして良い行いを積んでも、神様の目に完全な人は誰もいません。私たちは神様にただ憐れみを乞うしかない存在だということです。それなのに、私たちは偽善で神様をだませると考えます。それが私たちの罪であり、律法の呪いです。神様を信じていようといまいと、この傲慢さは私たち全員が持っている罪です。ここから私たちを救えるのは、神様ご自身のほかにはいません。そして神様がそれを実現されたのが、イエス様の十字架でした。イエス様が死なれたのは自分の罪のためだったと信じることにより、私たちは罪から解放されました。律法の呪いはもう私たちを支配することはなくなりました。私たちは自分の力で神様に正しいとされることは決してありませんが、イエス様を信じることによって正しいとみなされているのです。だから、イエス様を信じることと、自分の力で正しく生きようとすることは、決して両立しません。自分の力で正しく生きることができるなら、イエス様が死なれる必要はなかったことになります。それは、イエス様を信じていることにはなりません。私たちの、そしてパウロの信仰の根幹はここにあります。イエス様が自分のために死なれたという信仰です。
この信仰によって、パウロはユダヤ人の常識から自由になって大胆に聖書を解釈し直しました。私たちも信仰によって、聖書の文字の中から語りかける神様に耳を傾けましょう。イエス様の愛と聖霊様の力を信じれば、私たちには誰でもそれができます。反対に、自分の主張の根拠とするために聖書を使うのはとても危険な行為です。そういう聖書の使い方をしている人たちには注意してください。

メッセージのポイント

イエス様の死と聖霊の注ぎという事実が、パウロの聖書の読み方を変えました。それは、神様の言葉の再解釈と言えます。私たちも、自分の信仰がただ神様によって与えらえた恵みであり、自分の行いによって獲得したものではないと知り、聖書を正しく解釈しましょう。

 

子供たちのために
聖書は神様の言葉です。でも、聖書に書かれている言葉の一言一句を文字通りに守らなければいけないという教えは間違っています。聖書は正しい信仰によって解釈されて初めて意味を持ちます。正しい信仰とは、イエス様が自分のために死なれた神様だと信じる信仰です。子供達は聖書は難しいと思っているかもしれませんが、大人も同じです。聖書は読んですぐに分かる簡単な本ではありません。それでも、信仰を持って読むなら、神様は私たちの心を開かせて、必要な励まし、戒めを教えてくださいます。反対に聖書をただの本として読むなら、人を傷つける武器にもなってしまいます。(たとえば1コリント14:34~を取り上げてもいいかもしれません。「34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」→これをこのまま読んだら女性差別にしかなりません。)

 

 

 

 

聖霊論pneumatology)は組織神学の一項目である。三位一体の神の位格のひとつである聖霊について論じる学問である。

聖書における聖霊論

旧約聖書

1.  聖霊は創造に関与している。(創世記12節)

2.  聖霊は人間の創造にも関与している。創世記27節では、神は土地のちりにいのちの息である聖霊を吹き込んで人を創造した。

3.  聖霊は神が選んだ指導者に与えられる。神が指導者としてモーセを選んだ時に神の霊が与えられた。(民数記1117節)

4.  聖霊は預言者に与えられる。サウルに聖霊が臨んだ時に、恍惚状態になって預言をした。(第一サムエル記1010節)

5.  聖霊は救済の働きをする。ダビデが罪を犯した時に、神との交わりを回復できるのは聖霊によると告白している。(詩篇5111節)

新約聖書[編集]

1.  イエス・キリストの誕生は聖霊によった。(マタイ118節)

2.  聖霊が弟子たちに与えられるのは、父の約束による。(使徒の働き14節)

3.  教会はペンテコステの日、聖霊に注ぎによって設立された。(使徒の働き21節−4節)

4.  神の国に属するために必要なものは新生である。新生は聖霊による。(ヨハネの福音書38節)

ディデュモスの聖霊論

·                    「聖霊は非物体的な方である。聖霊は不可変の方である。限定されない方である。本性的に聖なる方である。聖化する方である。聖霊はその実在で被造物を満たす。聖霊は唯一の方である。聖霊は参与される方である。聖霊は豊饒かつ満ち溢れる賜物である。」[1]

聖霊論の歴史

教父時代の主な聖霊論

·                    アタナシオスの『セラピオンへの手紙』

·                    バシレイオスの『聖霊論』

·                    ディデュモス英語版)の『聖霊論』

·                    アンブロシウスの『聖霊論』[1]

古代

·                    2世紀後半モンタノス主義が起こり、終末の接近と聖霊の降誕を強調した。

·                    アウグスティヌスは三位一体の神の働きを強調した。信者の生活と聖霊との関係について関心をもった。聖霊によって導入される神の愛によって信者の生活は導かれると説いた。

宗教改革

·                    ルターは宗教改革の基本原則は「信仰のみ」であるが、福音を聞くものに信仰を起こすのは聖霊であるとしている。

·                    カルヴァンは聖霊の働きは聖書論との関係において強調している。聖書の権威の根拠を聖霊においた。

·                    アナバプテストは聖霊を過度に強調して、内なることばを強調した。そのため聖書を軽視した。

現代

·                    カール・バルトは「イエスは主である」を神学の出発とし、父、子、聖霊は「主」として啓示する神であるとする。信者が聖霊の業を語るとき、それはキリストの体である教会への結びつきで語るのである。その意味でバルト神学では聖霊論は教会論と関係がある。

·                    パウル・ティリッヒは伝統的な意味で三位一体を理解せず、象徴として捉えている。

·                    19世紀末になって、ペンテコステ運動が盛んになり世界的に広がった。

·                    1950年代には伝統的な教会にペンテコステ派の影響が及び、リスマ運動が起こった。

·                    1990年代には、聖霊の第三の波と呼ばれる聖霊運動が起きた。

脚注

1.           a b 小高毅, 四世紀後半における聖霊論 : ディデュモス『聖霊論』を中心にして」『日本の神学』 1993 32 1993 p.24-44, 日本基督教学会doi:10.5873/nihonnoshingaku.1993.24, 2020526日閲覧。

参考文献

·                    松木祐三「聖霊、聖霊論」『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991

·                    小高毅, 四世紀後半における聖霊論 : ディデュモス『聖霊論』を中心にして」『日本の神学』 1993 32 1993 p.24-44, 日本基督教学会doi:10.5873/nihonnoshingaku.1993.24

 

 

 

キリストの昇天 the Ascension

復活したイエス・キリストが天にあげられたこと、またそれを記念するキリスト教の祝日。

「イエスの昇天」は使徒信条やニカイア・コンスタンティノポリス信条にも含まれている。

日本正教会では升天祭(しょうてんさい)との表記が祈祷書などにおいて正式な表記である。

教義

世俗の用法と異なり、現在のキリスト教ではこの語を人の死の意味で用いることはない。キリスト教の正統信仰では、普通の人の死に際して起こっていることはイエスの十字架の死と同じ現象、すなわち「陰府(よみ)に下る」ことであり、復活の栄光の体をもって天に昇る「昇天」とは分けて考える。

カトリック教会ではイエスの他に聖母マリアが、死後直ちに天にあげられたという信仰が有り、これを聖母被昇天(ラテン語: assumptio)と呼ぶ。

 

聖書の記述

イエス・キリストの昇天に関する記述が見られる第一の資料は

『マルコによる福音書』1614節から19節である。その描写によると、イエスと弟子たちがエルサレムに近い場所にある建物の室内で席についていた。イエスは弟子たちに福音を述べ伝えるよう命じ、信じるものは毒にも倒れず、病気のものを癒す力が与えられると言った。イエスはこう言い終えると天にあげられ、神の右の座についたという。昇天という出来事自体に関する記述はない。

『ルカによる福音書』2450節から51節の記述はもっと短い。イエスは11人の使徒とエルサレム近郊のベタニアに赴く。イエスは彼らを祝福し、天にあげられたという。マルコでもルカでも、昇天は復活後すぐに起こっている。

 

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコによる福音書1614節〜19)

 

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。(ルカによる福音書 2450節〜51)

 

昇天に関してもっとも詳細な描写を行っているのは『使徒言行録』1:9-12である。それによれば復活後の四十日間、イエスは神の国について語り続けた。四十日のあと、イエスと弟子たちはベタニア北部のオリベト山に集まった。イエスは弟子たちに聖霊の力が与えられるだろうと告げ、福音を全世界に伝えよと命じる。イエスはそこで昇天し、雲の間に消えた。そこへ白衣を着た二人の男があらわれてイエスがやがて同じように再臨すると告げたという。

 

イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒言行録』17節〜11)

 

一見すると、これらの三つの記述は微妙に食い違っているようである。特にルカ福音書と使徒言行録が同じ著者によって書かれたという伝承があるだけに読者は戸惑いを感じるであろう。しかしよく見ると、ルカ福音では決してイエスが復活後すぐに天にあげられたといっているわけではないことがわかる。また聖書学的にはマルコ福音書の本来の末尾は16:8であり、それ以降の部分は後代の付加であろうという説が有力になっていることにも留意する必要がある。

 

『マタイによる福音書』は、ガリラヤの山でイエスが弟子たちに世界へ福音を伝えるよう命じて終わっており、昇天に関する記事はない。マルコ、ルカ、使徒言行録以外では聖書に昇天に関する言及はない。

 

キリスト教における死の婉曲表現

キリスト教はそもそも信仰上の理由から死を忌むことが少なく、そのまま「死亡」「死去」「逝去」などの語を用いるが、何らかの配慮が必要な際には逆に死生観の異なる仏教や神道に基づく表現を使うわけにいかず、不自由することになる。使えない語としては、成仏はもちろん、転生を意味する往生、霊界の存在を明示する他界、鬼籍に入る、復活の教義に抵触する永眠(ただし正教では正式な用語として使う)などがある。

 

そこで独自の表現を用いることになるが、上記教義上の区別により、「召天」(しょうてん、天に召される)「帰天」(きてん、天に帰る)などの語を用いる。ただし、「召天」は戦後に、人の死去に対し「昇天」を用いる神学的問題とキリストに対する不遜を避ける遠慮から音を合わせて造語されたものであり、漢文に親しんだ世代からは「『天を召す』としか読めない、間違っている上にかえって不遜な表現である」という批判がある。

 

昇天祭

昇天祭または昇天日 (Ascension Day) はキリスト教の祝祭日の一つである。「キリストの昇天」を記念し祝う。

キリストの昇天の祝日はキリスト教の典礼暦の中でもっとも大きな祝いの一つであり、教派を超えて広範に祝われている。日本語表記は教派によって異なるが、「主の昇天」や「昇天祭」などと呼ばれる。

この日は復活祭に連動して動くため、西方教会の場合早くて430日、遅くて63日になる。本来、昇天は復活祭から40日後(復活祭の日を第1日と数えるため、実際には39日後。正確な表現では、復活祭から数えて6回目の日曜日後の木曜日。)のことで木曜日にあたるが、西方教会では、平日に教会に集まりにくい信徒の事情を考慮してその次の日曜日に祝われる地域もある。

 

カトリック教会では主の昇天の祭日は大きな祝い日で守るべき祭日とされている。現在はプロテスタント地域であるスカンジナビア諸国、オランダ、ドイツなどでは、昇天の祝日は国祭日となっている。ドイツでは同日が父の日にもあたっている。またインドネシアでも国民の休日となっているが、日付はずらされることがある[1]

 

正教会では升天(昇天祭)といい、十二大祭のひとつである。正教会ではこの日をもって復活祭期の終わりとするため、教会暦上の大きな節目のひとつでもある。

 

 

 

マザーテレサの神との合一体験

「アサンソールでは、イエスが丸ごと自分をマザーに与え、甘美と慰めに満ちた中でイエスと固く結ばれた」と述べている体験です。

この体験については、イエスのビジョン(霊視現象)やイエスの言葉(霊聴現象)の時のようには多く語られていません。全くと言ってよいほど、その様子は伝えられていません。実はマザーが言葉少なく語っているこの体験こそが深い意味を持っているのですが、その体験のあまりの特殊性のために、マザーやキリスト教関係者(*エクセム神父など)によって、意図的に非公表にされた可能性が考えられます。

 

マザーがごく簡単に触れているこの神秘体験は、古来より「神との合一体験」とか「接神体験」として知られてきた心霊現象なのです。神と一つになったかのような感覚の中で、歓喜と霊的エクスタシーを体験する現象です。修行者の間では、瞑想の最中に神と融合し一つになったかのように感じられる神秘的境地・エクスタシーの境地の存在が知られてきました。このエクスタシーの世界を一度でも体験すると、魂にその強烈な刺激が刻印され、最高の喜び・幸福感を再び味わいたいと渇望するようになります。古代インドの神秘主義では、この世界が“ニルバーナ”と呼ばれ、神と融合・合一する状態と見なされてきました。インドの修行僧や仏教の密教僧の間では、神や仏と自分が融合して一体となる境地が理想化されるようになりました。

 

一方、キリスト教徒にも同じ心霊現象が発生します。キリスト教徒にとっては、この神秘的境地は、イエスと一体となる世界・イエスと合体する瞬間として理解されることになります。キリスト教の教義によって“修道女はイエスの花嫁である”との意識が形成されているため、この体験には実際に霊的次元での性的歓喜・性的エクスタシーがしばしばともなうようになります。これが「接神体験」です。中世のキリスト教世界においては、神秘体験はとかくサタンの仕業とされたり、魔女の証拠とされ、あまり表立って語られることはありませんでした。

 

しかしそうした中にあっても、霊性の高まった一部の修道女たちの「神(イエス)との合一体験・接神体験」が知られてきました。接神体験をした有名な修道女として、13世紀の聖クララ、聖人ハデウェイク、聖人メヒティルト、14世紀の聖カテリーナ、15世紀の聖マージェリー、1617世紀のベネデッタ・カルリーニなどの名前を挙げることができます。彼女たちは神秘的な霊的境地でイエスと一体となり、霊的な官能体験・恍惚(こうこつ)体験をしてきたのです。

 

こうした「神(イエス)との合一体験・接神体験」は、実際にはイエスと交わるのではなく、高級霊や天使の関与によって摂理に一致した形で喜びが与えられるものです。神との合一体験・接神体験は、地上人のサイキック能力が一度に大きく開かれたときに起きる現象です。大量の霊的エネルギーが入ってくることで神の存在や愛の実感度が普段では考えられないほどに高まり、発生するものなのです。この意味で「神との合一体験・接神体験」は、低俗な“憑依現象”とは本質的に異なります。

 

Come Be My Light”を見ると、マザーがアサンソール滞在中に、あるいはそれ以前のダージリン滞在中から、こうした体験をしていた様子がうかがわれます。マザーが高い霊性と霊能力を兼ね備えた修道女であったために「接神体験」という特別な現象が起きていたことが想像されます。

 

「神との合一体験」は、肉体がない霊界人にはひんぱんに発生しますが、地上人の場合には肉体という物質が妨げとなって、よほどのことがない限り発生しません。長期にわたる修行生活・厳格な霊主肉従の禁欲生活・真剣で深い瞑想と祈りの生活を通して、ごく一部の人間が体験する稀な出来事となっています。

 

先に述べたように「神との合一体験」は、文字どおり神と一つになるというものではありません。霊的エネルギーが充満し、霊的感覚が鋭敏になり、神がきわめて身近に感じられるようになる「主観的体験」です。しかし本人には、まさに神と融合・合一したかのような歓喜・幸福感がもたらされるのです。これは神が人間に与えてくださった喜び・幸福感の一つです。霊界に行ったときには、誰もが味わうことになる「至福体験」なのです。

 

36歳のときの神秘体験が、マザーの心に大きな刻印を残すことになりました。それはマザーにとって、決して忘れることのできない人生最大の出来事だったのです。マザーは神秘体験を通して現実そのもののリアルなイエスと出会い、イエスと触れ合い、イエスと一体化しました。この体験の衝撃があまりにも強すぎたため、それが失われたとき、言葉にできないほどの喪失感とショックがマザーを襲うことになりました。リアルなイエスとの触れ合いが失われたとき、“神(イエス)の不在感”という苦しみが心を占めるようになりました。実はこれこそが“神秘体験”から始まったマザーの「心の闇」の正体だったのです。

 

イエスと出会い、イエスと交わり一体となるという体験は、マザーに歓喜をもたらしました。マザーにとっては、その体験こそが神(イエス)の存在を実感する出来事でした。そしてそれが失われると、頭(理性)では神を信じてはいても、実感のともなわない現実の中で、神もイエスもいない闇の世界が展開することになってしまいました。マザーは、その後の人生を、神(イエス)の不在感という悲しみ・苦しみを抱いて過ごすことになってしまったのです。一時期の“強烈な神秘体験”――それが神を実感することであると思い込んでしまったところから、マザーの悲劇が生まれたのです。

 

マザーやマザーを指導する教会関係者に、ここで述べてきたような霊視や霊聴や神との合一体験・接神体験といった「心霊現象」についての知識があったなら、マザーの喪失感を「心の闇」として捉えるようなことはなかったはずです。マザーに、自分が体験したものはいくつかの心霊的な条件が整って発生した特殊な現象であるとの認識があれば、悩み苦しみ続けるようなことにはならなかったはずです。イエスの声が聞こえなくなったからといって、焦るようなことはなかったでしょう。

 

マザーは晩年、「ベナレスからの手紙」の中で「神の愛の宣教者会」の全メンバーに向けて、次のように述べています。「一対一でイエスと出会い、イエスの声を聞きなさい。リアルなイエスの姿を見、生きているイエスと愛において一つとなりなさい」――実はこうしたことはすべて、マザーが36歳のときの神秘体験の内容なのです。マザーは、「かつて自分がしたのと同じ体験を皆にもしてほしい!」と望んだのです。

 

ところが当のマザーはといえば、イエスの姿も見えず、イエスの声も聞こえず、イエスとの一体感が失われて苦しみ続けていたのです。マザーは、自らの「心の闇」の苦しみを押し殺して隠し、皆には「より深くイエスと結ばれるように」とのアドバイスをしたのです。

 

しかし、これは明らかに的外れなアドバイスです。イエスの姿を見、イエスの声を聞くためには、霊能力という生まれつきの能力が必要となります。それと同時に、霊界側の働きかけが必要です。愛があればイエスを見、イエスの声を聞けるというものではないのです。またそうした条件が整ってイエスと出会ったとしても、それは本物のイエスではない、ということなのです。

 

キリスト教の教義の間違いも「心の闇」発生の大きな原因

マザーが「心の闇」を発生させてしまったもう一つの原因は、キリスト教の教義の間違いにあります。修道者の生活は、いずれの宗教・宗派にかかわらず共通しています。それは、一日が祈りで始まり祈りで終わるということです。彼らの祈りは、神への懇願・願い事が大きな部分を占めています。祈りは、神に対して直接願い事をする行為となっています。実は、そこに地上の大半の宗教の根本的な間違いがあるのです。

 

もし神と人間が直接的な関係にあるとするなら、そうした祈りは正しい行為と言えますが、実際には神と人間は直接的な関係にはありません。神は人間をはじめ万物を創造すると同時に、それらを維持するための仕組みもつくり出しました。それが「摂理(法則)」です。神と人間は、いかなる場合においても、摂理を介して間接的に結ばれるようになっています。すなわち人間は、摂理を通してのみ神と関係を持つことができるようになっているのです。これが「神の摂理」による間接支配のシステムです。この観点から神について言えば、「摂理の神」ということになります。

 

こうした事実を人間サイドから見ると、神は常に摂理を通して現れ、人間の目には神は摂理そのもののように映ることになります。人間が常に願い求めてきた「愛の神」は、摂理の背後に隠れていて、人間の前には現れないようになっているのです。

 

しかしこれまで地球人類は、神と人間の関係を直接的なものと考えてきました。人間が真剣に祈り求めれば、神はそれを聞き届けてくれると思い込んできました。そのため不幸や災いを取り除き、幸せをもたらしてほしいと必死に祈っても、それが実現しないと“どうして神は苦しむ自分を助けてくれないのか”と思うようになったのです。人によってはいくら祈っても聞き届けられない現実の中で、“神などいない”と考えるようになってしまいました。

 

マザーの場合も、これと同じことが言えます。マザーは毎日、真剣に神に祈ってきました。かつてイエス(神)と触れ合い交わった体験を、もう一度させてほしいと祈り続けてきました。しかし、いつまでたってもマザーの願いは聞き届けられませんでした。必死になって祈れば祈るほど、マザーの苦しみは大きくなっていきました。マザーの「心の闇」は、神と人間が「摂理(法則)」という機械的システムによって結ばれている事実を知らなかったところから発生したものなのです。

 

もしマザーに、あるいはキリスト教会に、「神と人間の関係は摂理を介して間接的に成立するものである」との認識があったなら、マザーの祈りの内容も、神に対する姿勢も根本から違っていたはずです。「摂理という無慈悲で機械的な形をとってしか神は現れない」と分かっていたなら、むやみに神を呼び求め、神にすがるようなことはしなかったでしょう。マザーは、ひたすら「神の摂理」に自分をそわせるようになっていったと思われます。「神の摂理」と一致した歩みをしているなら、何ひとつ心配する必要はないのだと、心を切り替えることができたはずです。マザーは「神の摂理」に対する無知から、的外れな悩みを抱え込むことになったのです。

 

このようにキリスト教の間違った神観が、マザーの心に闇を生み出すことになりました。神を「愛の存在」としてだけ捉え、「摂理の神」についての認識がなかったために、マザーは“神の不在感”という「心の闇」を持ち続けることになってしまったのです。

 

また、イエスを神と同一視する“三位一体”の神観も、マザーの「心の闇」の原因となっています。その間違った教義によって、「イエスの不在」イコール「神の不在」と考えるようになってしまいました。マザーは、キリスト教の教えを信じ込み、それを基にしてすべての判断をしていったために「心の闇」を発生させることになってしまったのです。

 

マザーは利他愛の実践に関して、きわめて重要な教訓を私たちに残しています。それは私たちが奉仕する対象者は、すぐ目の前にいる貧しい人々・自分より恵まれない人々である、ということです。マザーはインドの貧困者に奉仕するために、インド国籍を得てインド人となっています。イエスはマザーを召命する際に、「インド人の修道女がほしい」と語りかけています。

 

マザーを理想化するファンの中には、わざわざインドに出向いてマザーの奉仕活動を手伝うボランティア活動に参加する人がいました(*現在でも同じです)。しかしそうした行為は、マザーが本心から望んでいたことではなかったはずです。おそらくマザーは、「わざわざツアーを組んで日本から来て奉仕活動をするくらいなら、日本にいて貧しい日本人のために奉仕すればいいのに……」と思っていたことでしょう。そうすればインドを訪ねるための旅費や滞在費を、貧しいインド人に与えることもできるのです。

 

インドにまで足を運んでマザーの手伝いをするという行為の底辺には、“自分の生きがいや満足を求める”という未熟な思い・幼稚な考えが潜んでいます。“自分は善いことをしている”という勝手な思い込みやエゴ的満足心が存在していることもあります。もしそうした思いがあるなら、インドにまで行って奉仕活動に参加することは“偽善的ボランティア”ということになってしまいます。事実、マザーは日本を訪問したときに、次のように述べています。「日本人はわざわざボランティア活動のためにインドに行かなくても、日本にいて貧しい人々を助けてください。日本の貧しい人々に奉仕してください」――「利他愛」の本質に照らしてみれば、このマザーの言葉は当然のことなのです。

 

もし今、マザーが生きていたなら――「私は私のすべきことをしますから、あなた方はあなた方のすべきことをしてください。私は私の場所(インド)で全力を尽くしますから、あなた方はあなた方の場所(日本)で全力を尽くしてください」と声を大にして言ったはずです。純粋な利他愛は、対象者や場所を選びません。

 

もし奉仕する相手や場所にこだわるようなことがあるとするなら、その人の奉仕精神や利他愛が本物ではないことを示しています。それはエゴ的行為・偽善的奉仕活動ということにもなりかねません。自己満足を求めるだけの子供っぽいボランティア活動は、一刻も早く卒業すべきです。“自分は善いことをしている”と自分自身を騙し続けるようなボランティア活動は、自らの魂を貶(おとし)め、偽善者の仲間入りをさせることになってしまいます。

 

 

 

 

心霊主義と三蔵

霊訓 モーゼス

三蔵 パーリ語

内容

 

 

 

 

 

 

肉体

欲界kama lokarūpa

物質

心  mind

rūpa界の心

物質ではない、概念ではない

精神 魂 spirit soul

無色界の心所

 

聖霊

出世間界の心所

宇宙の「意」、天使のエネルギー

天使  聖霊

智慧paññā

実際に稼働する力   出世間界に住む

cf. 八百万の神々は色界と無色界に住む

 

 

 

三位一体

Dhamma, paññā,buddha

全体(カミ)、聖霊、カタチ

愛と知識

Dhamma智慧paññā

 

善と悪

kusala   akusala

未熟な状態と完成した状態

 

 

 

魂の

 

 

純情

saddhā

 

進歩

風は成長させる働きがある

元素の風は動かす性質を持つ

浄き

無貪、無瞋

 

美しき

中捨

 

神の認識と崇敬

samathabhāvanā

 

同胞への貢献

metta bhāvanā

 

真理を求める

Vipassana bhāvanā