四界分別観 Four-Elements Meditation
部派仏教では、「止(サマタ)」という集中する瞑想に分類されるようになった瞑想法ですが、本来は、「観(ヴィパッサナー)」という洞察する瞑想の要素が強い瞑想法。
基本的に、「四界差別観」は、五蘊の色身、つまり、体などは四大元素の「地」、「水」、「火」、「風」に過ぎず、どれも「私」ではないことを知る瞑想法です。
四大元素というのは象徴的な存在(感覚器官では認知できない無色界にあるもの)で、私たちが日常で言うそれとは違います。
「地」は硬さの性質を持つ存在、「水」はつながりのある性質の存在、「火」は熱を持つ性質の存在、「風」は推進する性質の存在です。
如何にして四界分別観を修習するか 『パオ・セヤドー法話集:如実知見』より引用。
パーリ経典の中には、四界分別観を修行するための、二種類の方法が記載されている。即ち、簡略法と詳細法である。ここで紹介する簡略法とは、智慧の鋭い人向けであり、詳細法は、簡略法では困難を覚える人向けである。仏陀は<大念住経Mahaasatipatthaana Sutta>の中で、以下のように簡略を教えている。
「比丘はかくの如くにその身を観察する。この身が如何なる状態に置かれ、また安置されようとも、ただ各種の界によって成り立っているだけだということを・・・『この身体には、ただ地界、水界、火界、風界だけがある』」と。
<清浄道論・第十一品>において、更に一歩解釈を進めて言う「故に、この業処を修行したい智慧の聡い修行者に対して先に説明する。修行者は、一人静かな場所で独居し、注意力を物質で構成された自分の全身におく。
『この身の内で、硬さまたは粗さは地界である。流動性または粘着性は水界である。遍熟性または温暖性は火界である。推進性または支持性は風界である』
修行者はこのように諸界を注意して観察し、かつこのように修行に励む。
暫くすると、修行者には定力が生じるが、この定力は、各種の界の違いを照見する智慧によって更に増強される。この定力は各種の元素を対象にしているため、それは近行定であり、未だ安止定には到達していない。」
「また、シャーリプトラ尊者が言うところの、身体の四つの部分が、四界の中に顕現されているだけであって、如何なる有情もいない。
即ち、『一つの空間が、骨、腱、肉、皮によって包囲されるとき、それは色(ruupa物質)と呼ばれる』。
修行者はそれらを逐一解剖・分析し、智慧の手によってそれらを分解しなければならない。
上に述べた方法で識別するとは、即ち『この身体の内に、硬さ・・・それは近行定であり、未だ安止定には到達していない。」
パオ僧院の指導法によって、全身の四界を判別するとは、以下のことをいう。
一、 地界:硬さ、粗さ、重さ、柔ら、滑らかさ、軽さ
二、 水界:流動性、粘着性
三、 火界:熱さ、冷たさ
四、 風界:支持性、推進性
もし、四界分別観を修行 したいのであるならば、修行者は先に、逐一四界の十二種類の特徴または性質を識別しなければならない。初心者にとって、通常は、先に比較的判別しやすい特徴を学び、判別するのが比較的難しい特徴は後に残しておく。
通常の指導順序は、推進性、硬さ、粗さ、重さ、支持性、柔らかさ、滑らかさ、軽さ、熱さ、冷たさ、流動性、粘着性である。それぞれの特徴を識別するとき、先に身体のある部位においてそれを判別し、その後で、全身の各部位においてそれを判別するよう チャレンジしなければならない。
一、「推進性」の識別を 開始するとき、修行者は触覚によって呼吸するときに頭部中央に感じる推進性に注意する。
推進性を認識することが出来るようになったら、修行者の心が明晰に それを認識できるまで、それに専注する。その後で、修行者は注意力を(頭部)近くのその他の身体部位に移し、その場所の推進性を識別する。
この様に、ゆっくりと、修行者は先に頭部の推進性を確認した後、首、躯体、腕、太腿、足に移していく。このようなことを、注意力を身体のどの部位においても、容易に推進性を感じ取れるようになるまで、何度も、繰り返し修行する。
もし、頭部の中央において呼吸の推進性を認識することが出来ないならば、呼吸時の胸の拡張の推進性、または腹部が移動するときの推進性を判別するようチャレンジする。
もし、これらの部位の推進性が不鮮明であるならば、心臓が動くときの脈拍の推進性を判別するか、またはその他の任意の形式の、比較的明らかな推進性を判別する ― 移動する部位には、必ず推進性が存在しているので ― どのような部位から判別を開始しても、修行者が全身のそれぞれの部位において推進性を判別できるよう、徐々に「見極める力」を養成しなければならない。
ある部位の推進性は非常に明確で、ある部位の推進性は微弱であっても、推進性そのものは、全身のそれぞれの部位に存在している。
二、修行者がこのように判別して、それに満足したなら、「硬さ」の識別にチャレンジしてもよい。
先に、歯によって硬さの特徴を認識する。まず、上下の歯を噛み合わせ、その硬さの感触を確認する。
その後で、噛み合わせている歯を緩めて、歯そのものの硬さを確認する。
硬さを明確に感じ取れたなら、推進性を判別したのと同じ方法で、組織的・体系的に頭から足まで、全身の硬さを判別する。しかし、故意に身体を硬くしてはならない。
全身の硬さの特徴を認識した後、修行者は再度、全身の推進性の特徴について、確認する。推進性と硬さについて、一度また一度と相互に取り替えて確認する。
頭から足までに至る全身の推進性を確認した後、引き続き頭から足までの硬さを確認する。このように、熟練して満足するまで、この過程を何度も繰り返さなければならない。
三、推進性と硬さを判別 することができるようになったなら、修行者は「粗さ」を判別することにチャレンジする。
舌で歯の先端を擦るか、または手でもう一つの腕の皮膚を擦り、粗さの特長を感じ取る。
その後に、前述したのと同じように、組織的、系統的に全身の粗さを判別する。もし、粗さを感じ取ることができないのであれば、修行者は再度推進性と硬さを確認すれば、粗さとはそれらと共に存在しているのだ、ということが分かる。
修行者が粗さを判別できるようになったなら、引き続き、頭から足にかけて、全身の推進性、硬さ、粗さを、一回につき、一種類認識することを絶え間なく、何度も繰り返す。
四、上に述べた三種類の特徴を識別することに満足したなら、修行者は全身の「重さ」を識別する。
まず、両手を重ねて、膝の上に置き、上に置いた手が重いことを実感するか、または頭を前に垂らし、頭の重さを実感する。
修行者が全身の各部位に重さを感じられるようになるまで、組織的・系統的に修 行する。その後で、引き続き逐一全身の四つの特長、即ち推進性、硬さ、粗さ、重さを確認する。
五、この四種類の特徴を判別することに満足したなら、修行者は全身の「支持性」についての認識を行わなければならない。
先に、背中を緩めて、身体を前の方に少しばかり彎曲させる。その後で、身体をまっすぐに伸ばし、直立を保つ。身体をまっすぐにさせ、静止させ、直立させる力は「支持性」である。
頭から足まで、全身の支持性が認識できるまで、組織的・系統的な修行を続ける。もし、このようにするのが困難である場合、修行者は支持性を確認しながら、同時に硬さを確認してもよい。なぜなら、このようにすれば、比較的容易に支持性が確認できるからである。支持性を容易に確認できるようになったな ら、修行者は全身の推進性、硬さ、粗さ、重さ、支持性を確認・判別する。
六、この五種類の特徴を判別できるようになったなら、舌を唇の内側に軽く押し当てることによって、「柔らかさ」を感じ取ることができる。
その後で、修行者は身体を緩め、全身の柔らかさを確認できるまで、組織的・系統的に修行する。これで、全身の推進性、硬さ、粗さ、重さ、支持性、柔らかさを 認識できるようになった。
七、次に、自分の唇を湿らせ、その後で舌を唇の左右に滑らせる。このようにすると修行者は「滑らかさ」を認識できる。
上に述べたように、全身の滑らかさを認識できるようになるまで、修行する。その後で、逐一全身の七つの特徴を判別・確認する。
八、次に、指を上下に動かし、その「軽さ」を確認する。
全身の軽さを認識できるまで修行したなら、上に述べたように、全身の八つの特徴を判別・確認する。
九、次に、全身の「熱さ」を確認する。通常、これは非常に簡単である。これで九つの特徴を判別・確認できるようになった。
十、次に、息を吸い込むときの鼻孔における「冷たさ」を感じ取る。その後で、組織的、系統的に全身の冷たさを確認する。これで十種類の特徴が判別できるようになった。
注:上に述べた十種類の特徴は、全て直接の触覚によって知覚することができる。しかし、最後の流動性と粘着性という二種類の特徴は、その他の十種類の特徴から推定して得ることになる。これがそれらを最後まで残しておいてから教える理由である。
十一、「粘着性」を識別 するとき、修行者は身体が如何にして皮膚、筋肉、腱によって粘着しているかを観察しなければならない。
血液は皮膚に守られて身体内に存在しているのは、まるで気球の中の水のようである。もし、粘着性という作用がなければ、身体は分裂して砕片になるか、顆粒状になってしまう。
また、人体が地面に付着していられるための引力もまた、粘着力の作用である。(このように理解した後)上に述べた如くに修行する。
十二、「流動性」を識別する。
修行者は唾液が口に入るときの流動性、血管の中の血液の流動性、空気が肺に入る流動性または熱気が全身を巡る流動性を観察し知覚しなければならない。
その後、上に述べた如くに修行する。
もし、粘着性や流動性を 識別することに困難が生じた場合、修行者は再度、何度も逐一先に述べた特徴を、全身において確認する。熟練したなら、修行者にとって、粘着性の特徴もはっ きりしてくるであろう。
万一、粘着性についてなお、明確でないとき、修行者は何度も推進性と硬さという二種類の特徴について注意を注がなければならない。 最終的には、修行者は全身が縄でぐるぐるまきにされたような感触を得るが、これが粘着性の特徴である。万一流動性の特徴が明確でないとき、修行者はそれを 認識すると同時に、冷たさ、熱さまたは推進性を確認すれば、流動性をも確認することができる。
〜以上、引用終わり。
私はパオ・スタイルで修行した経験はないので、実に興味深く読ませていただきました。興味のある方は、是非、上記リンクにて全文を読んでみてください。
以下に、本ブログの論旨と照らし合わせて重要な点を要約します。
パオ・スタイルの四界分別観とはブッダゴーサの“清浄道論”に拠るものであり、『この身体には、ただ地界、水界、火界、風界だけがある』という“真理”を観察する修習を通じて、修行者の心を禅定へと導いていきます。
身体の中に存在する地界、水界、火界、風界という四界の特徴は、以下のように分類され、観察されます。
一、 地界:硬さ、粗さ、重さ、柔ら、滑らかさ、軽さ
二、 水界:流動性、粘着性
三、 火界:熱さ、冷たさ
四、 風界:支持性、推進性
これら四界の12の特性は、以下の順番に、以下の身体の部位“ポイント”において、観察・修習されます。
1. 推進性、
呼吸するときに頭部中央で生じる触覚。
呼吸時の胸の拡張
または腹部の動き
心臓が動く時の脈拍
2.硬さ、
上下の歯を“噛み合わせた”硬さの感触
噛み合わせている歯を緩めて、歯そのものの硬さ
3.粗さ、
舌で歯の先端に触れた感触
手でもう一つの腕の皮膚を触った感触
4.重さ、
両手を重ねて、膝の上に置いた重さの感覚
頭を前に垂らした重さの感覚
5.支持性、
身体をまっすぐにさせ、静止させ、直立させる力の感覚
6.柔らかさ、
舌を唇の内側に軽く押し当てた時の柔らかい感触
7.滑らかさ、
唇を湿らせ、舌を唇の左右に滑らせた時の滑らかな感触
8.軽さ、
指を上下に動かした時に感じる軽さ
9.熱さ、
全身で感じられる体温
10.冷たさ、
息を吸い込む時に鼻孔で感じる
11.流動性、
唾液が口に入るときの流動性
血管の中の血液の流動性
空気が肺に入る流動性
熱気が全身を巡る流動性
12.粘着性、
皮膚、筋肉、腱がお互いにくっつき合う力(状態)
身体が地面に押しつけられる引力
さらに分かりやすくまとめると、四界分別観において、気づきの部位として項目ごとに上げられた身体上の“ポイント”は以下のようになります。
1.頭部中央(呼吸)
2.胸の拡張(呼吸)
3.腹部の動き(呼吸)
4.心臓が動く時の脈拍
5.上下の歯を“噛み合わせた”
6.噛み合わせている歯を緩めた歯そのもの
7.舌で歯の先端に
8.手でもう一つの腕の皮膚を
9.両手を重ねて膝の上に
10.頭を前に垂し
11.直立する身体
12.舌を唇の内側に軽く押し当て
13.舌を唇の左右に滑らせた
14.指の動き
15.全身で体温
16.息を鼻孔で(呼吸)
17.唾液が口に
18.血管の中の血流
19.空気が肺に(呼吸)
20.熱気が全身に
21.皮膚、筋肉、腱の粘着
22.身体で引力を
このように並べてみると一目瞭然ですが、計22項目の内、歯と舌を中心とした口周りだけで6項目を占めています。
これは明らかに、仏の32相における“歯に対するこだわり”、そして“広長舌相”との深い相関を示すものでしょう。
もうひとつ顕著なのが、『四界分別観』を名乗りながら、“呼吸”に伴う感覚が5項目を占めるという事実です。
これらの事実は、一体何を物語っているのでしょうか。
実は、このパオ・メソッドにおける歯や舌など口周りに対するこだわりと、そして呼吸へのこだわり、その原像とも思われる具体的な記述が、パーリ経典の中に複数個所存在しています。
その記述こそが、おそらくはパオ・メソッドによる四界分別観の典拠になったものかも知れません。
四界分別観
そんな風にして心をコントロールして行くわけですけれども、アーナパーナサティをやってもなかなか集中がよくない人に対して、もう一つの瞑想法を説明したいと思います。アナパナを20分くらいやっても集中をなかなか得られない人は、四界分別観をやるといいでしょう。四界分別観をやっていると、いろいろな身体の振動とか、感覚を見ていくので、それをやってまたアナパナへ戻ると、瞑想の性格が違うので、ちょっと煩わしくなるという事が起こるそうです。ですからアナパナをやって、うまくいかなくて、それで四界分別をやろうと決めたら、しばらくは四界分別でやるようにして、あれこれ変えないようにしてください。
四界分別観をやる意義というのは二つあって、一つは四界分別観をやることによって禅定に非常に近いところに達することができます。近行定(きんぎょうじょう)といいますが、そこに達することができます。もう一つの意義は、ヴィッパサナーと関係してきます。ヴィッパサナー瞑想をやる人は、必ず四界分別の瞑想をやらなくてはいけない。それからアーナパーナサティをする目的は、第四禅定までのジャーナ(禅定)、非常に深い集中力を得ることです。ですからアナパナで、第四禅定まで到達したら、それから先はヴィッパサナー瞑想をやるわけで、そのヴィッパサナー瞑想をやるときに、また四界分別観という瞑想が入ってきます。
数日間アーナパーナサティをやってそれから四界分別をやるというやり方もあるみたいですけれども、それではなかなか上手く行かない。それはアナパナで第四禅定までの禅定をしっかり得てないと、その次の段階に進んでも、ナーマ(精神性)とかルーパ(物質性)をしっかり見るというのはなかなか難しいということです。最初に四界分別観の瞑想をやって到達できるサマディというのは、ウパチャーラ・サマディ(近行定)という禅定にかなり近い状態だけれども、それでもまだ充分な状態ではないので、例えばナーマ、ルーパというのは、心と身体ですね、それらを見ていくには不充分なので、更に先にそれをやってからカシナ瞑想をする必要があります。
地水火風の要素
それで四界分別は、何を対象にするかというと、地水火風という四つの要素を対象にします。地の要素を分けると更に2つのグループで、6つに分かれます。まず重さ・軽さに分けます。重さのグループは更に3つに分けられて、硬さ・粗さ・重さという3つが入ります。今度は反対の方ですけれども、硬さと反対の柔らかさ、粗さの反対の滑らかさ、重さの反対の軽さ、この3つが一つのグループです。
地水火風の火の要素は2つあって、熱さと冷たさの2つです。三番目の風の要素ですけれども、これは押す力と支える力があります。四番目の水の要素ですけれども、流れる性質と、粘着力という、まとまろうとする力、この2つの性質に分けられます。それで全部分類したのを合計すると十二になるわけです。この十二の要素について自分の身体の中にそれぞれを見つけて、その感覚を一つ一つ確かめていくようにします。
最初にやるのは、比較的容易な風の要素の中の、押す性質を観ていきます。この場合に使うのは、アナパナと同じように呼吸で、特に入ってくる呼吸を観ます。この場合アナパナの場合は中に入っていってはいけないという説明がありましたが、四界分別観の場合は、押す力で呼吸が入って行って、ずっと頭の所まで来る、その力を感じるようにします。それでそんな風に、呼吸が入ってきて、押していって頭の天辺までずっと入ってくるのを感じるわけでが、その時に押す力で振動しているような感覚を頭の上の部分に感じて、それを段々顔全体に広げていって、さらに身体全体に広げていくようにします。
最初はなかなか難しいから、どちらかというとイメージの方が多いのですが、押す力によって振動しているのを感じて、それを段々全体に広げていくと、それが感覚として実感できるようになってきます。それを何度も何度も繰り返して見るようにします。
そんなふうにして風の要素の、押す力を見ることができたら、今度は地の要素の硬い性質を見ます。二番目に硬い性質を見る場合は、歯をグッと噛みしめてみて、その時に硬いという感覚を感じてそれを全体に広げて行きます。次の粗さの感覚を見るには、舌先で歯の裏側のザラザラしている感覚を体全体にずっと広げていく、あるいは皮膚におけるザラザラした感覚があったらそれを全体に広げていく、そういうふうに見ます。次は重さの性質ですけれども、これを感じる時には両手を腿の上に置いて段々身体を傾けて、体重をかけていくと「重い、重い」という感覚が出てくると思います。その重さの感覚をまた身体全体に広げていって見るようにします。
次は柔らかさという性質ですけれども、それを見る時は、上の歯で下唇を噛んでみると、唇だから柔らかいわけですね。この柔らかさを感じてそれを全体に広げていきます。「柔らかい、柔らかい」というふうに感覚を全体に広げていきます。次に滑らかさの感覚ですが、この場合は舌先で自分の唇の裏側を舐めてみると非常に滑らかでツルツルした感じがあります。その滑らかな感覚を顔から更に全体に広げていって「滑らか、滑らか」というふうに見ていきます。次の要素は軽さですが、これを見る時は、指を曲げ上げてみると簡単に上がる。これは軽いから上がるわけで、重さが載っていないから簡単に上がるわけです。その軽さの感覚を指から全体に広げていって、「軽い、軽い」という風に感覚を取ってみてください。
次は風の要素のもう一つの支える性質ですが、この場合は身体を段々傾けていって、それからまた戻す。すると身体を支えている力があるからまた元に戻るわけで、その支えている力を感じることができると思います。その力、その感覚をまた見ていって全体に広げていきます。眠くなった時に、身体が段々前にかしげて、ある所まできたら飛び上ってパッと元のところまで戻りますが、それは支える力が働いているからなのです。皆さん、そういう経験ありますか?
次は火の要素のうちの、熱ですけれども、この場合は手のひらに手の甲を当ててみると温かさ、熱を感じますけれども、この熱の感覚を、手からずっと広げて「温かい、温かい」と見ていきます。次はその反対の冷たい、涼しいという感覚ですけれども、この場合は呼吸する時の感覚を見ます。鼻に空気が入ってきて、スースーして、涼しい感覚があるわけですけれども、その涼しい感覚を見ていって「涼しい、涼しい」と、あるいは、冷たいという感覚ですね、「冷たい、冷たい」という感覚を見ていって身体全体に広げていきます。
次に見るのは、粘着性(cohesion)という、ギュッとまとめようとする力です。水の、流れる性質とは反対の、ギュッとまとまる力、凝縮しようとする力ですが、手首をグッと握って手首がその時に、グッと絞まる感覚を見て、これを広げていきます。これが難しい時は、身体が呼吸をしていて、うまくできない時に身体が硬直して硬くなっている時の、ギュッと圧縮しているような感覚として見ていきます。それでも難しい時は、硬さと粗さと重さ、その3つを感じると、身体がギュっと締められているような感覚になると思います。圧縮されるような感覚です。
次は流れる性質ですけれども、これは涙だとか、汗とか、血液とか、自分に一番合ったものを選んで、その流れている感覚を見て、それを広げていきます。そんなふうにして、今十二の性質についてお話ししたのですが、それらを一つ一つ見ていって、一つが終わったら次の一つを見ていくと、段々集中が良くなってきて、集中が良くなると明るい光が見えてきます。アナパナと同じようなニミッタですね、ある種の色が見えきます。これもアナパナと同じなのですが、光の色が見えたとしてもそちらの方には集中しないで、身体の地水火風の感覚の方にずっと集中し続けます。
近行定に達する
そのうち見えている色が段々と氷の塊みたいになってきます。そのように氷の塊のみたいに見えてきたら、今度は氷の塊の方に意識を集中していって、禅定の近くまで行くことができます。こんなふうにして、四界分別の瞑想によって、近行定という禅定に近いサマディに到達することができます。
参照
定に近づきつつある前段階を近分定(ごんぶんじょう)、それぞれの定に入り終わった段階を根本定という
それでこのように四界分別の瞑想から更にアナパナをやって第四禅定までいくと、その時の光をもって身体の内部の三十二の部分を見る瞑想をします。そこで瞑想の段階の話をしますけれども、三十二の身体の部分を見たら、今度は骸骨ですね、身体の中の骸骨を見る瞑想をして、それからその骸骨の色を使ってカシナの瞑想をします。カシナという円盤なのですけれども、色のついた円盤を見る瞑想をするというふうに、段々、段階を追ってやっていきます。骨は白いですから、白いカシナの瞑想をやって、それが終わったらヴィッパサナーに入っていくという、こういう段階です。
ヴィッパサナー瞑想というのは、この塊を粉々にして、微細な粒子にしてしまうというようにやるそうです。最初は粉々じゃなくて、一つの身体としてあるのだけれども、四界分別観でその身体の地水火風で何度も何度も見ていくうちに、身体が粉々になって、粒粒になって見えるそうです。ルーパとは物質ですが、非常に細かい最小の粒であるルーパ・カラーパというのがあるのですが、ルーパ・カラーパについては次の機会に説明したいと思います。
ですから四界分別観にしても、アーナパーナサティの四つの禅定の瞑想にしても、心をコントロールするというのが大事なわけです。で、心をコントロールして集中力を高めるという、この集中力がないと自分の身体の内側を見ることができないわけで、そのためにやっているわけです。
信・精進・気付き
その時に必要な心の要素としては、まず「信」です。信仰の信、信頼の信、信ずるという信です。信はとても重要で、「私にはニミッタなんて見えない」、「見えるわけがない」などと信が揺らいでいると、「もうやめて帰ろうか」というような事になってしまいます。とても強い信が大切で、「私はここにニミッタを見るためにやって来たのだ」、「絶対に見てやろう」と信をもって進めることが必要です。
リトリートに入って2日間で一番問題になるのは、眠気と、心があちこち彷徨い妄想が始まるということです。何故ならば、こんなに朝早く起きるという習慣がまずないでしょう。2・3日すればこれにも慣れてきます。2日間は大目に見ますけれども、3日目は寝ている人がいないかしっかりチェックしますから、よろしいですね。
もう一つは、心が彷徨い出す妄想ですが、これもしっかり見ています。次に大事な心の要素としては、精進、努力です。努力がないと気付いているという力が弱くなって、それで容易に眠気や、妄想だらけになってしまうことが起こるわけで、そのためにも努力が必要です。
努力・精進は、心に持つということであって、呼吸のところには力を入れないでください。呼吸のところで力んでしまうと、段々疲れて来るので、そこは自然な呼吸をするようにして、心に努力の力を注ぐようにしてください。信と精進(努力)と3番目がマインドフル(気付き)です。気付いている、というのは何に気付いているかというと、瞑想の対象は呼吸であるという事に絶えず気付いているとことで、これがなくなってしまうと対象がどこかに飛んで行ってしまう事が起こるわけです。絶えず瞑想の対象は呼吸である、ということに気付いていることが大切です。
「原始仏典」の中部 『界分別経』の方法を紹介
この方法は「観」の瞑想です。
まず、髪、毛、爪、歯、皮・肉、筋、骨、脊髄、腎臓・心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺臓・腸、腸間膜、胃物、大便、脳髄の20の身体部分が、内なる固く粗い「地」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「地」の要素も同様に観察します。
次に、胆汁、痰、膿、血、汗、脂肪・涙、脂肪油、唾、鼻液、間接液、小便の12の身体部分が、内なる水の水と化す「水」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「水」の要素も同様に観察します。
次に、それによって熱せられ、老化され、焼かれ、飲食消化されるもの、その他の、内なる火の火と化す「火」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「火」の要素も同様に観察します。
最後に、上向きの風、下向きの風、腹の外の風、腹の内の風、四肢に向かう風、出息、入息、その他の、内なる風の風と化す「風」の要素であり、「私」ではないと観察します。
外の「風」の要素も同様に観察します。
次に、南伝仏教の最大の聖典、修行指導書である『清浄道論』に沿って説明します。
賢い人は、身体に四大元素が存在すると、順に4種の瞑想するだけで良いとされます。
しかし、普通の人は、次のように瞑想します。
・具体的に略して
身体を4つの部分が、それぞれ四界であると思念します。
・具体的に詳細に
身体の32の各部分(42種)を、別々に四界に分別して思念します。
・抽象的に略して
身体を4つの部分それぞれに、四界があると思念します。
・抽象的に詳細に
四界のそれぞれの中にも、他の三界があると思念します。
さらにそれぞれを、13種類の観点(言葉・集合・原子・特徴・現れ・多と一・分解と分解なき・部分を共にするしない・内外・包摂・縁・集中・縁の区分)から四界を思念します。
次に、現代のミャンマーで行われているパオ流の「四界差別観」について、説明します。
パオ流では、まず、身体のある部分で、その後に全身の各部位で、四界の12の特徴を識別します。
具体的には次の通りです。
・地界:硬さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ
・水界:流動性、粘着性
・火界:熱さ、冷たさ
・風界:支持性、推進性
最初のどの部分で感じるかは、例えば、次の通りです。
・推進性:呼吸する際の頭部中央
・硬さ:歯
・粗さ:舌で歯の先端
・重さ:ひざの上に置いた手の重さ
・支持性:直立した時の直立させる力
・柔らかさ:舌で唇の内側
・滑らかさ:舌で湿らせた唇を
・軽さ:指を上下させて
・熱さ:全身
・粘着性:皮膚、筋肉、腱など
・流動性:唾液
次に、12の特徴を四界にまとめて識別します。
集中が増して近行定になると、「ニミッタ(相)」と呼ばれる光が現れます。
この透明な光の中の空界の中に微細な「色聚(ルーパ・カラーパ)」を識別します。
この段階に到達することを「心清浄」とします。
ここまでが「止(サマタ)」の瞑想です。
その後、「色聚」の中のさらに細かい色法を分析する段階からが「観(ヴィパッサナー)」の瞑想になります。
四界分別観・物質の生滅を観る ディーパンカーラ・サヤレー
四界分別観という地水火風についての瞑想について説明いたします。先に40の瞑想があるという話をしましたけれど、その中の一つに四界分別観という瞑想法があります。四界分別観では近行定(禅定に近い状態)のところまで行くことができます。四界分別観の目的は二つありまして、一つには集中力を養う目的があり、もう一つはヴィパッサナーの基礎として行うということです。ヴィパッサナー瞑想をやる人は、誰もがこの四界分別観をやらなければなりません。
お釈迦様は、ナーマ(精神的現象)とルーパ(物質的現象)について説明していて、ルーパについては28のルーパがあると仰っています。その28の中には四つの要素が含まれています。その四つの要素は何かということを理解する必要があります。それは地・水・火・風の四つです。
地の要素にはさらに6つの性格があります。その6つは、重いグループと軽いグループの2つのグループに分けることが出来ます。
重いグループというのは、固さ(hardness)、粗さ(roughness)、重さ(heaviness)です。
軽いグループというのは、柔らかさ(softness)、滑らかさ(smoothness)、軽さ(lightness)です。
お互いのグループはちょうど正反対になっています。自分の体を見たとき、重い方の要素がはっきりしているときは、軽い方の要素ははっきりしていません。この2つのグループを合わせて地の要素です。
水の要素には、流動性(flowing)と、結合性(cohesion)があります。
火の要素には、熱さ(hot)と冷たさ(cold)があります。
風の要素には、押す力(pushing)と支える力(supporting)があります。
これが、全部で12の性質になります。私達は、その12の性質について1つ1つ体の中で見ていく必要があります。いちばん最初に、風の要素について取り上げてみます。なぜならば、風の要素というのは簡単にしかもはっきりと体の中に捉えられる要素だからです。入ってくる呼吸に集中して追っていると、押している力がずっと入って来ます。出る方にはあまり意識を集中せずに、入ってくる方に集中するようにします。
頭のてっぺんの中央に集中します。頭頂部の辺りに意識を集中していると、そこが振動していることが感じられます。頭頂部を中心に振動しているというのを感じられるようになったら、それを頭頂部からだんだん頭全体に広げていくようにします。
そのようにして、振動している感覚を首から上全体に感じるようにします。首から胸、足まで全体に感じられるようにします。そうすると、体全体に振動を感じられるようになります。体の内部の臓器に集中してみると、臓器の振動も感じられるようになる人もいます。
四界分別の瞑想をしている対象は、感覚を観ていくということです。
頭から足までそのような振動を観ていきます。そういうふうにして風の押す力を観た後は、熱さの感覚を観るとか、そういうふうに1つ1つ観ていきます。
固さを感じるときは、口の中から感じていき、それをだんだん体全体に広げていきます。
粗さについては、舌を歯の裏側につけてみて、そのザラザラした感覚を観ていきます。そのザラザラした感じを体の表面で感じていって、体全体にそういう感覚を広げていきます。
重さについては、手を膝の上に置いて、体重をゆっくりかけていき、上半身の重さを感じるようにします。そういうふうにして、重いという感覚を感じたら、「重い、重い」とその感覚を体全体に広げるようにします。
柔らかさについては、上の歯で下唇を噛んでみると、とても柔らいのを感じます。その柔らかさを顔全体に広げていって、その感覚を味わっていきます。その柔らかさを感じるには、リラックスしないといけません。
滑らかさについては、口の中で唾液とともに舌を動かしていると、非常に滑らかな感じが分かると思いますけれど、その感じをだんだん広げていきます。
そんなふうにして、最初は口とか顔から始めて、それを全体に広げていきます。あるときは、自分の体の中の臓器についても、柔らかいとか滑らかだとかを感じられると思います。
軽さについては、指を上にはねるようにします。なぜ、このように指が動くかというと軽いという感覚があるからです。それで、指に感じている軽さをだんだん腕とか上半身に広げていき、体全体に広げていきます。
支える要素については、瞑想をしていて、眠くなってくると体が揺れてくると思います。眠くなって、体がだんだん前のめりになって、床に着くかなと思うときに、パッと元に戻ったりする、それが支える要素です。眠かったりするときは、気付きの力が弱くなっているので支える要素が抜けているのですが、気付きによって支える力を呼び戻し、元に戻るわけです。
熱さと冷たさについては、このように掌に触れてみると、暖かさを感じます。そんなふうにして、暖かい感じを腕から体全体に広げていきます。ここで感じるのが難しければ、胃の方で感じてください。食べたものを消化するときに熱を使っています。消化するときの暖かさを体全体に広げていきます。
寒さあるいは涼しさについては、空気を吸うときにヒヤッとする感覚を感じていきます。先ほどは、空気を吸うときに押す力を観たのですが、今度は涼しいヒヤッとする感覚を観て、それを全体に広げていきます。
この瞑想では禅定に近いところまで行きます。
もう一つは水の要素の中にある、つなげているという結合性の要素ですけど、この時は、ぐっと腕を握り締めるような感じで、ぐっと縛っているという感覚ですね。縛ってくっつき合っているという感覚を体全体に広げていきます。瞑想をしていて、重さとか固さと荒さを体で感じるとき、体が縛られているというような不快な感覚が生じています。
それから、もう一つは流れているという要素で汗とか涙とかを体全体で感じるのです。頭のてっぺんから足のつま先まで、いろいろな感覚について上から下まで観ていきます。慣れてきたら、12の性質について、例えば、地の要素、水の要素について一つ一つを観ていくのですが、非常に速く、一つ観たら次のものという感じで、どんどん観ていくのです。それで、だんだん集中力が良くなってくると、頭についての感覚だとか腕についての感覚だとか、ただ感覚だけが生じているということだけが観えてきます。
色が見えてくる
いろいろな要素のバランスがよくなければなりません。集中の訓練にとっては要素をバランスさせることが大事です。要素がバランスしていないときというのは、一つのものしか選んでいないかもしれません。一つの要素しか選んでいない時には、要素がバランスしていないために、体の痛みとなって表れます。
一つの要素しか選んでいない時に、例えば風の要素だけを選んで“押す力、押す力”と観ていると、一つだけなので痛みとなって表れます。それゆえに、それぞれの性質についてバランスさせるよう、一つ一つをすばやく観ていく必要があります。いろいろな要素のバランスがとれている場合は、幸せな感覚が得られ、安定した感覚になります。
それから、色についてです。体の中のいろいろな要素を観ていくと、ある種の色が見えてきます。月だとか太陽だとかという感じで色が現れてきます。初めのうちは、色が現れても、その生じた色に対して集中してはいけません。現れた光や色に気を集中してしまうと、すぐに消えてしまうのです。
色とかが見えても気にしないで、感覚の方に集中し続けます。見えてきた光や色がだんだん白っぽくなってきます。そうすると、白くなって輝いてきた光が、その色を見ていくと、からだのなかの要素とミックスした感じになります。そのようにして、地水火風の要素をみて、感覚を見ていくと光が生じて光そのものが水や氷の塊のように見えてきます。ダイヤモンドだとかクリスタルみたいな輝きになってきます。
そんな風にして見えていた光が安定的になってきたら、今までは、感覚を見てきたのですが、今度は、集中の対象を光のニミッタの方に移していきます。1時間もニミッタを見ていられるようになったら、禅定に入ったということになります。まだ、初禅ではないのですけど、それに近い禅定(近行定)になります。
ウ”ィパッサナー瞑想
こういうような禅定が得られた時にウ”ィパッサナー瞑想をやります。これは洞察瞑想とも呼ばれます。ウ”ィパッサナーをすることは大変、重要なことです。人により異なった、波羅蜜を持っています。ある人は、三十二の身体の部分を観た後にその波羅蜜によって、禅定の近く(近行定)まで行けるでしょう。また、このような集中が得られない人もいます。そのような人には“白いカシナ”の瞑想をして第一禅定まで行くことができます。
三十二の体の部分を観る瞑想(三十二身分)において、どのように体の部分を見ていくかといいますと、クリスタルのように輝く光によって、体の部分を照らしていきます。髪の毛を見るとか、三十二の部分を一つ一つ見て行きます。その三十二身分を終えて、さらに高い四つの禅定の修行をすることもできます。
三十二身分のなかで骸骨への瞑想を使います(白骨観)。骸骨に1時間、2時間と集中することができると第一禅定にいたることができます。白い骸骨を「白い、白い」と見ていくことにより、禅定に入ることができます。そんな風に白い色が全体に広がった後に、一つの特定の場所を選んで集中することにより第一禅定から、第四禅定まで至ることができます。
第四禅定まで行けば、心はとても大きな力を得ます。そしてこの体に集中します。今、眼耳鼻舌身の五つの門が体と一緒になっています。例えば、眼だけに集中します。私たちがヴィパッサナーをするときに、小さな粒子が生じ、滅しているのを見て、無常・苦・無我を洞察します。この微粒子(ルーパ・カラーパ)を見ることができなければ無常・苦・無我を洞察することは難しいでしょう。
体における感覚を見る人もいます。感覚も生じ、滅しています。しかし、感覚だけだと深いヴィパッサナーに至ることはできません。深いヴィパッサナーにおいては、どのようにして粒子について観ていくか。四界分別のように、眼に集中します。一つのエネルギーについて、すばやく観ていると、たくさんの粒子が動き回リ、生じ、滅しているのを観ることができます。
例えば太陽が出たとき、細かい塵がきらきらと動き回っているのを見たことがあるでしょう。同じようなものです。それは眼についてであって、耳についても、生じ、滅しているのを観ます。鼻・舌・身についても同じです。そして集中力を使ってもう一度眼の中の一つの粒子に集中します。
粒子の中にもいろいろあって、あるものはとても輝いているし、あるものはぼんやりしている。そしてこの粒子の中に何があるかを観察します。その中に八つの性質を観てとることができます。その八つというのは、さっき言いました地水火風の四つの要素と色、香り、味、栄養素です。その八つの性質が、一つの粒子の中に含まれています。それらが、我々の中で一番微細な物質の基礎になっているものです。
そういう粒子の中の性質があるのは、それらにエネルギーがあるということです。例えば、眼の中の粒子を見ていくときに、ある粒子を見たときに色がはっきり見えるし、ある粒子には香りが分かるし、それぞれの粒子は性質が違うということです。御釈迦様は、それぞれの性格に関して詳細に述べているようですけれども。
今は、科学が進んでこのようなことは、科学の方で解明されてきています。アメリカで高名な物理学の教授がリトリートに参加をした時に、ルーパ(物質的な現象)についてサヤレーとディスカッションをしました。科学者が言うには、物質を極限的に見ていって、アトムがあって、さらにアトムを見ていくと陽子と中性子あるいは電子があって、さらにそれらがもう一つ小さい粒子でできていてと、どんどん見ていくわけです。そういう話は、昔、仏教で言っていたルーパ・カラーパと言って微細な粒子の話とよく似ていると言っていました。
ブッダの教えとよく似ているとことが現代の科学の話の中でも出てきます。粒子の中で、あるものについては色が鮮明であることが分かるし、あるものについては香りが鮮明であることが分かります。物理学者の先生は、驚かれていました。お釈迦様が教えてこられてきたことと物理学で分かって来たことを比べて、なんとブッダの教えが力強いのかということに気がついたからです。
その次の年に、その教授は、ミャンマーへ修行をしに来ました。その先生は、微細な粒子がどのように観えるのかということを実際に知りたかったからです。科学で非常に微細な粒子のための研究に、何十億とかお金をかけている、要するに電子とかそういうものの観察にですね。瞑想ではお金はいりませんよ(笑)。瞑想をすれば中に入っていて観ることができます。そういう風にして、集中力を高めて観ると、色々なことが観えてくるのでブッダの教えは有益です。ブッダの教えは今の科学よりも深いところへいっています。
ブッダが教えているのは、ただ単にカラーパだけではなく、微細な粒子だけではなくて、カラーパにどれだけのタイプがあるのか、というところまで観ています。微細な粒子に関して、それを作る四つの原因を述べています。その中の一つが、業(カルマ)です。二つ目が、心です。三つ目は時節(温度)が作っています。四つ目は、栄養素が作っています。
粒子についてですが、どれが業によってできているのか、どれが心によってできているのか、どれが時節なのか、栄養素なのかチェックをしていきます。科学者(物理学者)にはそこまでわかりません。業について見ていくと、三つのタイプの微粒子があります。それぞれについて10の性質を持っています。どれが10かというと、今まで既に説明をしてきた八つがあります。覚えていますか?
八つの性質とは何であるか分かりますか。今日は、話が難しいのですが、集中力をよくして、思い出して下さい。まず四つの要素、地水火風ですね、それから色、香り、味、栄養素。ここで八つの性質ですね。それにもう一つは、命を支える要素「命根」(ジヴィティンドゥリヤ)といわれるもの。もう一つは浄色(パサダ・ルーパ)と言って、眼耳鼻舌身のなかにあるもの。例えば眼の瞳孔のなかにあります。白目の部分に見つけるのはなかなか難しく、真ん中の黒目のところにある、そういう物質的要素があります。目の真ん中の浄色がだめになると目が見えなくなってしまいます。
業(カルマ)によって作られた粒子には三つのタイプがある。一つ目は心基、二つ目は男性であるか女性であるかの性色。これも10の物質的性質がある。もう一つは身体のルーパ・カラーパ(微粒子の集まり)。これらの三つのタイプの粒子(カラーパ)はカルマ(業)によって作られます。それぞれ10ずつの性質があるので全部で30種類になります。
心が作っているルーパ・カラパという粒子は八つの性質を持っている。また、時節(温度)もルーパ・カラーパを作り出している。それもやはり八つの性質を持っている。その八つは覚えていますか。
もう一つの栄養素のルーパ・カラーパも八つの性質を持っている。カルマによるルーパ・カラーパには3つのタイプの粒子(ルーパ・カラーパ)があって、それぞれ10の性質がある。時節、心、栄養素によって作られるルーパ・カラーパには8つの性質がある。合わせると30と24で54になる。それで全部合わせて54のタイプのルーパ・カラーパが肉体の中にはある。それで、そのようにして、お釈迦様は非常に深い詳細な真理について教えてくださいました。科学者でもそこまではなかなか解明することはできていません。それらを観るには非常に強い集中力がないと難しいのです。
ブッダがおっしゃったのは、ヴィパッサナーをやるためには、このようにしてルーパ・カラパについて微細に見なくてはならないということです。ヴィパッサナーをやるというのは、ただ単に感覚を観るだけではなくて、ルーパ・カラパを観るようにしなければならない。こういうふうに観ていくことによって、心というのは非常に鮮明にはっきりと観ることができるようになってくる。それは眼も耳、鼻、舌、体全体、すべて同じようなものです。
身体だけではなくて内部の器官(臓器)を観ても、微細な粒子が生じて滅していることを観ることができます。それでそういうふうにして智慧の目でルーパ・カラパを観ていくと、ここに頭とかいうものがあるということではなく、単にルーパ・カラパが生滅していることが観えてくる。我々の肉体とかが在るのではなくて、すべてルーパ・カラパというものが生じて滅しているということが観えてくる。
そのようにして瞑想していくと、自分の内部だけでなく、外のもの、他の人も同じようにして観えてくる。そうすると、これが自分のものであるとかいうことが全然意味がなくなってしまって、単にルーパ・カラパが生じて滅しているだけであるということがはっきり分かってきます。
物質の現象についてちょっと説明しただけですが、さらに精神性、心の現象についての非常に深い教えがある。科学者と話をした時も、科学は物質について非常に細かく研究するけれど、心についてはあまり研究していない、ということを言っていた。お釈迦様は心の問題についてもとてもパワフルで、他人の心もコントロールできましたし、精神的な問題を抱えていた人についても扱うことができました。
集中力をもって病気を治す
例えば体がガンなどの病気になったとしても、その病気を集中力でもって治すことができます。第四禅定まで禅定を深めていくと、身体の部分についていろいろ観ることができ、自分の身体のどこがおかしいのかということをチェックすることができるようになる。たとえば心臓がどうも良くないというときは、心を心臓に集中させる。そうすると、ある人はあるイメージがわいてくる。イメージがぱっと出てくる。目の前にイメージが見えるのではなく、実際にたとえば心臓が悪いのであれば、心臓のところにイメージが見えてくる。
二つのタイプの集中がある。心臓についてみていると、直接にそこに(中に)感じることができる人と、もうひとつのタイプの人は中に見るのではなくて、目の前にぱっとイメージとして出てきて現れる。どちらにしても、目の前に見えても、中に見えても、それはどちらでもよい。そうすると心臓なら心臓が悪いところに、黒いものが見えてくる、何かが起こっているのが見えてくる。例えば臓器に腫瘍ができているのが見えてくる。それで我々は腫瘍を治すことができる。
四つの瞑想、四大要素の瞑想ですね、覚えていますか。火の要素、地水火風の感覚についてやった、熱の要素ですね。熱の要素について、その感覚を全部からだの中で集めて、それで、それを1つのスポットに、例えば、腫瘍で黒くなっている部分について、その熱を集中させて、心と、それからその熱というのを、そこの腫瘍について当てることによって、それを消し去ることができるのです。
腫瘍に対して、1時間とか2時間とか集中して、その熱とか心をずっと集中させることによって、その腫瘍そのものが軟らかくなってくる。そうすると、軟らかくなってきたその腫瘍が、だんだん小さくなってくる。これは、だから実際に、実践的に、自分でやることができます。それで、さっきやった四界分別ですね、その四つの、四大の瞑想によって、自分の中のいろいろな悪い病気というのを無くしていく事ができます。自身が悪いカルマを持っているときは、なかなかそれを消すのは難しいですね。みなさんが良いカルマを持っていたら、それ位の内部の病気は治すことができます。
それは肉体的な問題についてです。もうひとつは、心ですね、精神的な病、問題についてということですが、その場合は慈悲の瞑想が良いです。慈しみと、それから、思いやりですね、悲の瞑想です。それと同時に強い集中的な心というのが必要です。
脳を損傷した人の話
去年ミャンマーの瞑想センターへ、シンガポールから瞑想に来ていた一人の生徒がいました。彼女が交通事故にあったのです。足と、手と、それから頭の部分を損傷しました。ぶつけて、そこを損傷したので、3週間、病院のなかで、意識がありませんでした。みんな誰もが彼女は死んでしまったというふうに思っていました。そして3週間後に足が少し動きました。それでお医者さんたちもびっくりして、治療をしっかりと施していって、それで段々と回復していきました。
脳の方は損傷していたので、非常に重篤な感じであったということです。自分の両親とか友人とかが全然分からなかったし、自分自身がいったい何をしているのかということもよく分からない状態だったのです。病院で3ヶ月過ぎたとき、シンガポールのコミュニティの人たちがサヤレーを呼びました。サヤレーはミャンマーで非常に忙しかったのだけども、一日シンガポールに行って、彼女に会いました。
病院へ行って、サヤレーは非常にびっくりしました。というのは、彼女は、先生であるサヤレーのことが全然、分からなかったのです。彼女は瞑想をずいぶん一生懸命にやっていた人だったのです。ジェシーという名前ですが、彼女の名前をずっと呼んでみた。呼んでみたけども、彼女の眼はずっときょろきょろ動いているような感じで、反応がなかった。
それで、サヤレーは眼がそんな風に動いているので、それでは分かりましたということで、今、お経を読むからよく聞いてなさい、といって読みはじめた。サヤレーは、患者の心の、ハートですね、心臓の部分に心を集中させて、お経を読んだ。そうすると、最初は眼がこんなふうにきょろきょろと動いていたのだけども、お経を読んでいくに従って、真ん中のほうに眼が落着いて、定まってきた。それで、彼女はじっとサヤレーのほうを見るようになってきた。それで、さらにお経を続けていくと、彼女は涙を流し始めた。
それで、サヤレーは「今、お経を読んでいるから、一緒に読んでください」と言いました。しばらくすると、彼女の唇が段々動き出してきた。それで少しずつお経を読み始めた。それでみんな非常に驚いたのです。サヤレーも大変に驚いたけれど、とても幸せ、幸福であった。サヤレーの唱えるお経に、一緒にお経を読んで、非常に幸せな感じでした。
それでお経を読んだ後で、彼女は「サヤレー」としゃべった。それで、サヤレーは「私の名前はただサヤレーというだけでなくて、その後にも何かあるでしょう」と言ったら、彼女は、「サヤレー・ディーパンカラ」と言った。それを聞いた周りのすべての両親、友達、学生たちは非常に喜びました。サヤレーにとっても自分の今までの人生の中で一番幸福な日でした。その後も、彼女の頭ははっきりしている時もあり、あるときはまたぼんやりちいう感じでした。
次の日、ミャンマーに帰るので、もう一回病院を訪れたときには、彼女は腕を引っ張って、帰らないで、ずっと居て欲しいと言いました。そして彼女は、一緒にミャンマーへ行って、一緒に瞑想したいと話しました。それから、彼女はすべての忘れていたことを思い出してきました。彼女は足も悪かったのだけど、回復してきたら器具をつけて、今年ミャンマーに来て、3ヶ月のリトリートに参加しました。
そして彼女は第四禅定まで非常に簡単に行くことができたのです。6年間ずっとそれまで修行していたけれど、ニミッタも現れないし、禅定にも全く達することができていなかった。今はところが、禅定も得ることができた。彼女は人生とは非常に危ないものである、危険が一杯であるということが分かって、それで一生懸命にやるようになりました。そういう事故の経験をして、それが瞑想に非常にプラスになったのです。
人間は明日死ぬかも知れない
だから、みなさんはそのような状況を経験したことがないから、まだあまり一生懸命に瞑想する気持ちにならないかも知れませんけど、もう本当に死ななくちゃならないという、そういう状況になると、一生懸命やろうという、そういうふうな気持ちになる。どうでしょうか。それが事実ではないでしょうか。
明日は死ぬかも知れないということがある。もし死ななければならないとしたら、どこへ行くか分かっていますか?私たちはどこへ行くか分かっていますか?誰か次にどこへ行くかが分かっている人は教えてください。
天上界へ行けるという保証はあるでしょうか。天上界へ行けるのか、それとも地獄へ行くのか。地獄の方は、いろいろな苦しみが多くあります。ほとんどの人があまり地獄に行きたいとは思いません。誰か地獄へ行きたいという人がいたら、手を挙げてみてください。もし、地獄の方へ行きたくないのなら、自分自身をチェックしてみてください。
お釈迦様はカルマについて教えてくれました。昨日も説明しましたけれども、現在の生ですね、現在の人生というのが、来世にとって、非常に重要である。さあ、それで、今の自分をチェックしてみて、どれだけの欲とそれから怒りとそれから無知、その三つがあるかというのを、よく見てください。どれだけ怒りとか欲とかを自分で出したか、思い出して見てください。みなさん、数えられますか?どれだけの怒りや欲があったか。どうして数えられないでしょうか。非常に多いので、なかなか数えられないでしょう。
どうでしょうか。それが事実ではないでしょうか。今までのすべての人生とは言わないから、今年だけについてもちょっと思い出してみてください。八戒にしても守った日があったかどうか。どれだけ八戒について守った日があったか、ちょっと数えてみてください。数えられますか?どれぐらい瞑想のリトリートに行ったか。数えられますか?行ったことがないから数えられなかったりします。
それで、みなさんは自分の心を見て、現在の自分というものをチェックしてみてください。欲と怒りと無知と不善と、そういう不善な行いなどが、悪いカルマを作っていきます。戒を守って、それから瞑想をするのが、非常に善い行いになります。善い行いというのは、数えてみても、なかなか数が少ない。不善なものと善いものとよく数えてみて、どちらのほうが多いでしょうか。
お釈迦様がおっしゃっているのは、悪いカルマ、悪いものが多いと、地獄のほうへ行かなくてはならない。良いカルマを積んでいる人は、上の方、天上界へ行くことができる。人に聞かなくとも、自分でチェックしてみれば分かるでしょう。明日どこへ行くかと自分でちょっとチェックしてみてください。
明日は死んでしまうかも知れない。みなさんの未来、将来のことを思うとすごく心配になってきます。なぜかというと、悪いカルマも持っているでしょうから。もし、その悪いものがあるとしたら、それ以上の善きカルマを積むようにしてください。たとえ、その上の、天上界へ行きたいと自分では思っていても、カルマが悪いと、自分で思っているだけでは行くことができない、ということですね。
今日帰ったら、自分自身でチェックしてみて、善いカルマと悪いカルマとどういうふうになっているか。それで、ちょっとばかり悪いのがあったら、瞑想のリトリートに出るようにするとか、善いカルマを積むようにしてください。それから、戒を守るということがとても大事ですね。それらが、善き心、善きカルマを作っていくということになります。それで未来がすごく善い未来になっていきます。
これが皆様にたいする私の、ゴールデン・ウィークのプレゼントです。
サヤレーが話した、「人間は明日死ぬかも知れない」という、このことを忘れないようにしてください。
サードゥ・サードゥ・サードゥ
いままで地水火風の12の性質について見てきましたが、覚えていますか。これらの要素について一通り観終わったら、全体を眺めます。上から部分部分について、「堅さ、荒さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さという地の要素の六つの性質について順に観ていきます。さらに水の要素、火の要素、風の要素についても見ていきます。
はじめは、性質をはっきり観るようにしますが、次第にす早く行うようにします。だんだん早くしていって、心が集中し、楽しい感覚になり、さ迷い出すことがなくなリ、痛みを感じなくなれば、四大要素のバランスが取れたということです。
一つの要素だけを観ていると、バランスが取れてなくて、どこかに痛みなどが出てきたりします。火風の四つのバランスが取れていると、痛みなどはあまり関係なくなります。
そのようしてバランスが取れていると、集中力が良くなって身体が快適になり、平和な感覚になってきます、そうすると、アーナパーナ(呼吸瞑想)で見たような光が見えてきます。
光は人によりいろいろな色をしていますが、最初はどんな色にも集中しないで、身体の中の地水火風を観るようにしてください。それをして行くと、光の色がだんだん明るく白っぽくなってきて、最終的には氷の塊のような透明になってきます。
光(ニミッタ)がさらに輝きを増し、氷のような透明の光になリ、安定してきたら、四つの要素を見ていた心を、今度はニミッタの方に移して、ミニッタに一時間ぐらい留まるようにしてください。
そうすると近行定という禅定(ジャーナ)に近いところまで達することができます。四界分別観では第一禅定まで達することはできないのですが、その第一禅定に非常に近い近行定まで達することができます。
そのように集中力を得たら、次に体の中の32の部分について観察します。アーナパーナ・サティをやって、第四禅定までいってから、その後に32の身体の部分を見るという瞑想をしますが、四界分別を終わってから32の部分を見るのと、アーナパーナで第四禅定まで行ってから身体の32の部分を見るのとではちょっと違います。アーナパーナの方が明確に見えて、四界分別の方は少し明瞭さが足りないのです。なぜ違うかというと、禅定(ジャーナ)のレベルが違うからで、アーナパーナで第四禅定まで達した方が禅定のレベルが高いので、より明瞭に見えてくるわけです。
身体の32の部分の観察が終わったら、次は骸骨の観察瞑想をします。その骸骨の瞑想によって第一禅定にまで達することができます。次に骸骨は白いものですから、白いカシナの瞑想をやります。カシナというのは円盤です。この白い円盤の瞑想をすると、第四禅定まで達することができます。
四界分別から始めて行って、順を追っていけば、やはり第四禅定まで達することができます。
禅定(ジャーナ)を得て、ヴィパッサナー(観察)をしますが、その時に四界分別観をやって、身体の物質的要素が粉々になるのを見ていきます。そのようなヴィパッサナーをしたかったら、10日間では無理なので、瞑想センターのリトリートへ来てください。
この四界分別観は身体の治療とか病気への対症法として有効です。例えば、脳梗塞などで足が良く動かない時には、風の要素などが滞っていることがあって、うまく働きません。足が良く動かない場合には、風の要素である押す力が滞っているということなので、心をその滞っている箇所に集中し、風の要素である「押す力」念じます。ゆっくり「押す力」を念じていると、段々動きが出てくるようになります。風の要素の、押す力だけでなく火の要素である、熱も一緒にそこへ送るようにします。
体のどこか一部が動かない場合、そこの部分は風の要素の押す力が滞っているだけではなく、そこが冷たくなり、血液や、熱が行かなくなっっていますから、瞑想して押す力と共に熱も一緒に心で送ってやるようにします。
私達の人生は何が起こるか分からないわけです。ずっと病気にならないという保障はありません。何らかの障害が起こることはあり得ます。そういう時に自分で体を守る方法を知っていれば、自分で治療することができます。
もう一つの例はガンの治療に有効であることです。ガンの場合は最初に、その部分に集中してよく見ます。最初にそこに心を集中するのがまず一番です。心には非常に大きな力があるので、まずそこの部分に心を集中し、その部分に熱を送るようにします。そうすると腫瘍の部分がとても柔らかくなってくる。それで、自分の中で決意をして、全てのバクテリアとか腫瘍などが尿となって流れ出るようにと決意します。そういうことを何度もやっていると、そこにエネルギーが働き、それらが外へ出て行ってしいまいます。
あるいは、さっき言ったように熱をそこの部分に当てて集中していると、段々暑くなってきます。それでも続けているうちに、腫瘍の部分が次第に小さくなって、しまいには無くなります。その時に必要なのが集中力であって、集中力があれば、それが容易に出来るようになります。そんな風にして、自分の体を治療し、対処することが出来ます。このような経験を話しました。今度そのようなことが起こったら試してみてください(笑)。
本日はこれからアーナパーナ・サティをします。ミニッタがどうしても見えない方とか、アーナパーナはあまりやりたくない人は、今言った四界分別観の瞑想をしても結構です。それでは、体を真っ直ぐ立てて集中してください。
○ルーパ・カラーパ(物質の微粒子)の生滅を観る
今日は智慧の部門について、お話ししたいと思います。
最初に「戒・定・慧」ということを申し上げました。はじめに戒を守るということ、それから定、サマーディの話です。サマーディにすっと入れて、10分、15分とやっていくうち段々サマーディが深くなっていくという人もいます。
三番目の智慧に関して言うと、ヴィパッサナーということが非常に重要で、智慧を得なければ、悟りを得ることができません。それから、ヴィパッサナーの実践には集中力が非常に大事です。ヴィパッサナーにおいてなぜ集中力が必要かというと、集中力がないと身体の中を見ることができないからです。
身体の32の部分について、内側を見ることができないので、ルーパ・カラーパという物質の微粒子が生じたり滅したりしている様子を見ることができません。今、ちょっと目を閉じてみて、身体の中の内臓とか、32の部分を感じることができるかチェックしてみてください。肝臓とか、腎臓とかです。
(しばらく瞑想)
どうですか、見ることができましたか?
ちゃんと修行した人は見ることができて、集中力のまだ付いていない人は見ることができない訳です。集中力がないから身体の内側を見ることができないわけで、禅定(ジャーナ)に入ることができれば、その人は身体の中を見ることができます。
眼についてヴィパッサナーで観るときに、眼の中でルーパ・カラーパという大変微細な粒子が生滅しているのを観なくてはならない、と仏陀は述べています。
眼球そのものを、四界分別観(地水火風の瞑想)をして見るときに、眼の中の細かい粒子が滅している、壊れているのを観ることはなかなか難しいのですが、物質の一番小さな微粒子であるルーパ・カラーパが生じて滅していることが分かれば、三つの真理である無常・苦・無我について知ることができます。
○地・水・火・風について12の性質を観る
ヴィパッサナーの瞑想をやる人は、例えば感覚、すなわちいろいろなセンセーションについて、それが生じたり滅したりするのを見ますが、それはヴィパッサナーの一つの基礎となっています。それで、四界分別観という瞑想法、すなわち地水火風を見ていく瞑想法というのは、ヴィパッサナーの基礎として非常に重要な瞑想です。
四界分別観の瞑想においては、地水火風それぞれの要素について系統的に同じように見て行きます。各要素のバランスが取れて無いと、上手く瞑想できません。
まずに風の要素について見てみます。これには、押す力と支える力という二つの性質があります。それから地の要素には六つの性質があります。固さと、荒さと、重さ、その反対の軟らかさ、滑らかさ、軽さです。火の要素は熱ですから、二つの性質があって、熱さと、冷たさです。水の要素については、二つの性質があって、一つは流れるという性質と、もう一つはくっつけるという、粘着性の性質です。
最初に、風の要素の押すという性質について見ていきます。押す力を見るときには、呼吸をみます。アーナーパーナ・サティの時は、ただ呼吸について出たり入ったりというのを見ていくのですが、ここでは鼻から入ってくる呼吸をずっと追って、それを観察します。
それで、呼吸を吸い込んで、頭のところにまで来るのを見ます。それをずっと追っていって、頭のところに集中して、頭の筋肉がいろいろ動いたりしている波動、バイブレーションを感じます。
そういう風に筋肉が動いたりしているのは、押す力で動いているわけですから、「押す力、押す力」という風に、最初は頭のところに集中します。そして、「押す力、押す力」ということで、段々と身体全体に広げていきます。
それで身体全体を見て、今度は、押す力の動きについて、内臓がそういう風に動いているのを見ていきます。それが観察できれば、とても素晴らしいことです。それで内臓の動きを見ることができたら、皮膚とか筋肉が動いているのを見ます。頭から初めて身体全体にずっと広げていくのを何度も何度も繰り返して観察します。
押す力の性質について観察できたら、今度は地水火風の地の要素である固さについて観察します。顎のところで、奥歯をぐっと噛んでみると、頬の筋肉が固くなります。その固い感覚をずっと全身に広げていきます。
次は粗さですけれども、上歯の裏側を舌で触ってみるとざらざらしている感じがあります。そのざらざらしている粗さの感覚を、歯から始めて、全身に広げていって、その感覚を皮膚とか筋肉について見ていきます。
次は重さという性質です。これを見るときには、膝の上に手を置いて、上体の重さをぐっと膝のところに乗せて掛けていきます。そうすると重さを感じますから、今度はその感覚を、身体全体に広げていきます。
次は軟らかさという性質ですけれど、これを見るときには、上の歯で下唇をちょっと触ってみる、噛んでみると非常に軟らかいですね。この軟らかい感覚をずっと身体全体に広げていって、軟らかさを見ます。
次は滑らかさです。滑らかさを見るときには、さっきやった下唇のところに唾液をぬって、触って見ると非常に滑らかな感じがありますね。舌で触ってみると滑らかな感じがあります。その滑らかさをずっと身体全体に広げていきます。肌がすべすべして滑らかにすべっていく感じも全体に広げていきます。
次は軽さですけども、軽さを見るときには、指をちょっと上げて見ると簡単に上がります。これは、上に何も乗っていないから軽くて、上がっていくということです。この軽さという感覚に集中して、「軽さ、軽さ」と見て、それを手から腕から身体全体に広げていきます。
○火と水の要素
次は火の要素です。火の要素のうちの熱さですけども、これを感じてみるには、掌を手の甲で触って見ると、手のひらの温かさ、熱が感じられます。この熱を感じて、その感覚に集中して、温かさを身体全体に広げていきます。
次は冷たさ、熱さの反対の冷たさの感覚ですけれども、これを見るときには、さっきと同じ呼吸を使います。
吸い込むときの呼吸を使って、吸ったときに鼻のところに涼しい感覚がありますけれども、その感覚を観て、感覚に集中して、「涼しさ、涼しさ」という風に冷たさの性質を観ます。それを身体全体に広げていきます。
次は風の要素のうち支えるという性質ですけど、これを見るときには、例えば坐禅をやっているときに、眠くなって、あっちいったりこっちいったり、身体がふらふらしはじめて、しまいに眠くなって前に段々のめっていって、頭が畳に着いてしまうぐらい眠くなったりします。その着くかなと思うときに、また戻ってきます。その時に戻るっていうのが支えるという性質なのです。その感覚に集中して見ていく。
どうですか皆さん、眠気の経験というのはありますか。 第一日目というのはほとんどの人が眠かったのではないでしょうか。眠気ではなくても、身体をぐっと曲げてって、倒していって、それから身体を戻してくると、そこである種のエネルギーというのを感じることができると思います。
次は水の要素の性質の一つである粘着性ということなのですが、これを見る場合は、腕を手でぐっと握り締めると、ぎゅっと圧迫されて締め付けられるような感覚があると思います。その感覚を見ていきますけれども、そこでうまく感覚が取れない場合は、固さと粗さと重さですね、身体でこの三つを感じてみると身体がぐっと硬直した感じになると思いますけど、その硬直した感覚というのが、ぎゅっと詰まるような粘着性ということができます。だから、あまり心地よくない感覚ですね。
次は水の要素の流れる性質ですけれども、流れる性質を見るには、人の中で流れている涙とか汗とか、それから身体の中の血と小水ですね、それらが流れるときの様子を感じるのですが、そのうちのどれか一番自分に合っているものを選んで、流れるという感覚ですね、汗なら汗が流れている感覚をとって、そこに集中し、それを身体全体に広げていきます。それで今4つの要素について12の性質について話しました。
○物質の微粒子を観る
それで今話しました12の性質について、1つずつ上から下に通して観ていきます。ひとつずつ、観て行きます。最初は一つずつゆっくり観ていくのですが、段々慣れてきたら、素早く上から下までそれぞれの感覚について観ていきます。それを非常に速くやっていると、それらの感覚がはっきり分かってきて、すると身体を感じるのではなく、感覚そのものだけがあるように感じられます。
そういう性質だけを感じるようになってくると、段々集中が良くなって、とても幸福な感じになってきて、次にそこに色――アーナーパーナでいうとニミッタのような色――が見えるようになります。
最初、そういう色が現れたとしても、その色の方に意識を向けるのではなく、その性質の感覚をずっと見続けます。それで、赤とか青とか黄色ですけど、それを見ていくと、段々白くなってきて、氷のような、そんな感じに見えてきます。氷のようなものが見えてくるのは、身体の外側に見えてくることもあるし、内側に見えてくることもあります。
それでアーナーパーナと同じなのですが、氷のようなイメージがしっかりして、はっきりしてきたら、今度はそこに心を集中するようにします。身体のところで、氷のように、またはダイアモンドのように光っているニミッタに意識を集中していくと、禅定に非常に近い近行定にまで達することができます。
前に説明しましたけれども、アーナーパーナ・サティが苦手な人は、この四界分別観をやってみて、非常に禅定に近いところ、近行定というところまで行くことができます。
それでアーナーパーナ・サティがうまくいって、禅定に達した人も、ヴィパッサナーをやるときに、まず四界分別観を実践します。身体全体ではなくて、眼球を観察すると、眼の中に小さな微細な粒子が生じて滅しているのを見ることができます。それで微細な粒子を見ていくと、あるものは鮮明に見えるし、あるものははっきり見えません。その小さな粒子が生じて滅しているというのは、とても速い瞬間で起こっているので、集中力がないとなかなか見ることができません。
それで第四禅定まで行った後に、微細な粒子を見て、透明なものと透明ではないものとあるのですが、透明な粒子のなかにどんな要素があるのか、あるいは、透明でないものについてはその中にどういう要素があるかを観察します。
眼の中を見たときに、透明な粒子は、だいたい眼の中心部、黒目のあたりにあります。その透明な粒子のことを、眼の中の「透明なルーパ・カラーパ」といいます。この透明な粒子がこわれてしまうと、ものを見ることができなくなってしまいます。
眼を作っている物質について観るときに、4つの原因があります。実際の粒子が生じたり滅したりしているのですが、その粒子の原因の一つはカルマ、二つ目は心、三つ目は暑かったり寒かったりという温度、四番目は栄養素です。そういう四つの原因によって、すべての眼の中のルーパ・カラーパ、物質の微粒子ですね、これが生じたり滅したりしています。
その微粒子を見ることが出来なければ、それら四つの原因によって生じたり滅したりしているということも知ることができません。それでヴィパッサナーを実践するときには、そういうレベルまで達していないと観ることが出来ないわけです。その例として、仏陀の時代の1つのお話をしたいと思います。
○ある比丘の話
ブッダの時代に、ナンダカという比丘がいらっしゃいました。そのとき、500人の女性が出家して比丘尼になっていました。比丘たちはパーティモッカというお坊さんの戒律を唱えます。その後に、仏陀とか、それから先輩の比丘たち、ブッダの弟子の長老格のお坊さんたちが説法をします。
それで、比丘尼の1人が自分たちも説法を聞きたいと思って、仏陀のところに来て頼みました。2週間に一回は比丘尼たちのところに来て、経を詠み、その後に説法をしてくださるよう頼みました。
ブッダはそこに派遣する比丘を選んだのですが、まずそれは阿羅漢であること。年齢が40以上であること。もう1つは教える能力があるということ。一人一人見てそれらの基準に適う人を選びました。ナンダカという比丘は、要請されても、自分は忙しいとか言って、そこに派遣されるのを嫌がりました。なぜ断っていたかというと、ナンダカ比丘は阿羅漢でありまして、見通す力を持っていたので、自分の過去世について見ていました。
昔、ナンダカ比丘は王様だった時があって、500人の比丘尼を見てみたら、かつて全員自分の妻であったことが分かりました。そんな過去を持っていたわけですけれども、なぜ彼が仏陀の要請を断ったかというと、他の阿羅漢の中には神通力を持っている人がいて、そういう人は他人の過去世もある程度見ることができます。
彼の過去世も見かもしれません。その時に、王様の妻だった人たちがいることを見て、「なんだ、今も昔の奥さんと一緒にいるのか」とそのように言ったりすると、それをした人が悪いカルマを積むことになるというので、それを恐れて躊躇していました。
それで、仏陀は、侍者をしていたアーナンダ尊者に聞きました。アーナンダ尊者が言うには、他の比丘たちは了承して、比丘尼の所へ教えに言っているけれども、ナンダカ比丘だけがいつも断わり続けている、ということでした。
仏陀が見てみると、比丘尼たちは、ナンダカ比丘以外の比丘が行って教えても、悟ることはできない。ナンダカ比丘だけが、その比丘尼たちに悟らせる力があると、仏陀は見通しました。それで、仏陀はナンダカ比丘を呼んで、500人の比丘尼たちに教えに行くよう要請しました。それで彼も了承したわけです。
○ナンダカ比丘の説法
あるとき500人の比丘尼たちに、今日はナンダカ比丘が説法に来るということが伝わると、比丘尼たちは他の比丘たちが来てもあまり喜ばなかったのですが、その話を聞いてたいそう喜びました。そういう嬉しい気持ちというのは、非常に大事です。
その晩、ナンダカ比丘が500人の比丘尼のいる僧院にやって来ました。比丘は、500人の比丘尼に話したのですが、前の比丘たちがやってきて話を聞いていたときは、ただ義務として聞いていただけで、あまり身に付かなかったのです。今度、ナンダカ比丘が来て話した時は、とても喜んで聴いていたので、非常に集中力良く聴くことができました。
ナンダカ比丘は、法話を集中して聞くように、それでも理解できない時はもう一回聞き直すように、質問するようにとお話ししました。その説法の中で、私たちには眼耳鼻舌身意という六つの門があります、という話をしました。まず眼について、透明な眼の要素があるのを観るように言いました。良い波羅密を持っている人は、それをすぐに観ることができるので、眼の中の微粒子を見るように言いました。
(皆さんも目を閉じてみて、眼球の中の透明な粒子が生じたり滅したりするのが見えますか。イメージしてみてください。波羅密というのはそれぞれみなさん異なっています)
それで、比丘が説明したのは、そんなふうにして眼の中の粒子も生じたり滅したりしている無常のものです。ですから、これは自分の眼であるということはできない、自分のものではないということを話しました。眼というのは、私でもないし、私のものでもありません。
○体は自分のものではない
もし眼が自分のものだったら、自分の自由にすることができるわけだから、無常のままにしておかないで、留めておくことができるでしょうが、実際は生滅を止めることができない。生滅するというのは自然の本性であって、眼というのは自然のものだから、自分のものではないという風に説明をしました。
皆さん分かりますか。ですから、この眼を自分の眼だというふうには思わないようにしてください。なぜならいつもこの眼は自分のものだ、自分に属するものだというふうに思い込んでいて、そこに問題があるわけです。仏陀とか弟子たちがいつも言っていたのは、眼もそうですが、生じて滅していて、無常であって、自分の自由にすることはできない、掴むことはできないものであると言うことです。
エゴ=自我というのが、「自分のもの」というふうに掴んでしまう。そのエゴが「私の目はとても美しく、他人よりも良い」と思ってしまう。皆さんそんなふうに思いますか?そこに問題があります。
耳もそこに集中してみると、透明なものが生じたり滅したりしているというのを観ることができます。それもまた生じたり滅したりしています。そういう風に生じたり滅したりするのを観察した後に、それらが無常であって、苦であって、無我であるということが分かります。
それでそういう風に見た後で、瞑想して見てみると、耳の中の透明な粒子というのは、自分のものではないし、自分には属さないし、自分自身ではないということが分かります。
眼耳鼻舌身意という六つの門について同じように言うことができます。
そんなふうにして体全体が自分のものではない、という風に観て、それは自分だけでなく他人についてもいえるわけで、六つの門についても、やはりその人に属するわけではないわけです。そして自分についての執着があるだけではなくて、他人についての執着もあります。皆さんどうでしょうか。自分の夫とか子供とかボーイフレンドとかガールフレンドについてすべて執着を持ったりするでしょう。そのことで疲れたりしませんか。愛があれば、疲れるということはありません。
皆さんも、執着のためにとても疲れているように見えますが、どうでしょうか(笑)。なぜ執着するかというと、夫がいると、その夫は「自分の夫である」という思いがあります。どうですか、それが真実ではないですか。
「これは私の妻であって、私に属するものである」と、そのように思っています。皆と分け与えることができません。自分だけのものと思います。そうではないですか。
結婚して20年ぐらい経って、夫が他の女性に見とれていた時に、妻の方はどんなふうに思うでしょうか。妻は夫が他の女性に見とれていて、幸せでしょうか。どう感じるでしょうか。「自分の夫であって、自分に属するものであるから、自分に属する夫が、他の女性に目を向けるのは、許せない」とこうなるわけです。
いろいろな国へ行って様々な人に会いますが、こういう問題が非常に多いのです。教えていると、生徒が来て、泣きながらそういう話をします。集中なんかとても出来ません。そういう相談が来た時生徒たちに話すのは、夫はあなた一人のものではないと言うことです。
私たちは非常に多くの過去世を持っています。どれほど多くの過去世を経てきたか数えることができません。それだけの長い過去を経てきたわけですから、数えることができないくらいの夫がいて、また妻がいる、と言うことです。
結婚した時に、相手の女性が過去において一緒だった女性であった、ということもあります。なぜ一緒になったかというと、過去からのカルマがあって、そのカルマを切ることができないため、また今生でも一緒になったということがあります。
ですから、夫というのは自分だけに属しているのではなく、他の人にも属しているということを話しました。どうでしょうか。それが事実ではないでしょうか。そんな風にしてカルマというものを見ていくわけです。
忍耐
ですからそういう気付きの力が強い時には、とても容易に集中力を作り出す事が出来ます。そんな風に集中力がしっかりしてくると、その集中力をもってヴィッパサナーをして、智慧が生まれ、洞察力が生じます。ですから禅定やヴィッパサナーを得たかったら、必要なのは忍耐の力です。パーリ語でカンティと言いますが、足が痛くても、いろいろ辛い事があっても怒らずに、忍耐をもって進んで行くことが必要です。
30分なり1時間なり座っていると、あちこちが痛くなってくるのを感じたりするものです。どうですか、皆さんもそういうのを感じますか。あちこちに痛みとか。痛みを感じると、怒りの気持ちが出てきたりしますか。怒りというのは、瞑想には良くないわけで、痛みがあっても、心は善の心を持っていれば瞑想は進むけれど、不善の心を持っていると良くない方向に行ってしまいます。
その最初に感じる痛みというのは、それほど大きなものではないのだけれども、それに対して怒りを持つと、その怒りによって痛みがもっともっと大きくなってしまいます。それで地獄に落ちてしまう。地獄に落ちた時の方がもっとすごい。それは日常生活においても、ちょっと不満足な事が起こると怒りを出すような習慣があるから、ちょっとした痛みでも怒りが出てきてしまう。そんなふうになるわけです。どうですか、そんなふうではないですか。
菩薩の忍耐
ブッダが菩薩だった時、すなわち、ブッダになる前の過去世で10の波羅蜜を修行していて、そのうちの一つがカンティという忍耐の波羅蜜でした。昔バナラシ国の王様にカラーブという王様が居て、この人はとても粗暴な王様でした。ブッダの時代に、デーバダッタというブッダに危害を加える人が居ますが、その人の前世がこの王様だったという事です。菩薩はとても裕福な家庭に生まれました。両親が亡くなった時に、莫大な財産がその菩薩に相続されました。菩薩は、瞑想していた時に、たとえこの莫大な財産を貰ったとしても、自分が死んでしまったら持って行くわけにはいかないと熟慮しました。どうせ財産は自分には属さないと考え、すべてをいろいろな人々にダーナ(お布施)として分け、自分自身はヒマラヤの麓で瞑想をするようになりました。
それで森で暮らしていたのですが、その時に塩が体にとって必要なエネルギーなのでそれを求めて町へ托鉢に行きました。その時、王様の下で国を治める宰相が居て、その人はとても信仰深い人で、菩薩がその国にやって来た時に自分の家に案内して供養をしました。宰相は、菩薩を案内したのですが、その時に王様が非常に美しい庭を持っていたので、そこに案内しました。ある時王様は、従者を連れてそこの庭にやって来て、踊り子に踊らせたり音楽を楽しんだりしていました。その様子やイメージがわかりますか。
それでいろいろなダンスを踊ったりしていたのですが、そのうち疲れて寝てしまいました。そうすると踊り子達は、王様が寝ているのだから踊っても踊らなくても良いのではないかという事で踊りをやめて、その森や美しい庭とかの散歩を始めました。踊り子たちが庭を散歩していたら、その時に先程の菩薩が沙羅双樹の木の下で瞑想していたのに出会ったわけです。それで踊り子達は、菩薩に礼拝して、「どうぞ法話をしてください」と頼みました。その時、まさに王様が目覚めて、起きたら誰もそばに居ないので、たいへんに怒りを感じました。それで王様は、「彼らはどこに行ったのか」と探し始めました。
皆は菩薩の法話を聞いているところでした。それで王様は、菩薩が説いているのを見て、非常に腹を立て、その菩薩を殺したいと思い、「一体何の瞑想をしているのだ」と尋ねました。菩薩は、「私が主にやっているのは、忍耐波羅蜜の修行です」と答えました。
すると王様は、「カンティー(忍耐)というのは何なのか」と尋ねました。「忍耐というのは、誰かが謗ったり怒ったり叩いたとしても、そんなことをされても怒りを出さないのが、カンティー(忍耐)の修行です」と菩薩は答えました。王様は、「よく分かった。君が忍耐をもっているかどうか今試してやろう」と言いました。従者の中の死刑執行人を呼んで「やってみろ」と命じました。先に棘々が付いた棒で、「2千回、菩薩を叩きなさい」と命じました。2千回叩かれたので、菩薩の皮膚は破け、肉も弾けて血だらけになりました。その時に菩薩は王様に、「叩いて、私の忍耐を見つけようとしても、忍耐は筋肉や皮膚や骨のところにあるのではなく心の中にあるのです」と言いました。王様は執行人に、「それでは、両腕と両足を切ってしまえ」と命じました。その時に菩薩は、「忍耐というのは腕や足だとかにあるのではなく心にあるのです」と言ったので、王様は、「今度は耳と鼻とを切ってしまえ」と命令しました。それで残った菩薩の体は血だらけになってしまいました。
王様は足で菩薩を蹴っ飛ばしました。王様が去った後、宰相が来て非常に恐れて菩薩に謝罪し、「王様に対して怒りを持ったとしてもそれは結構ですが、その周りの人々には怒りを持たないようにしてください」と言いました。そこで菩薩は、「たとえ私の腕や足が切られても怒りをもつという事はありません」と答えました。ひどい痛みがあったとしてもメッタ(慈悲)の心を送ることが出来るわけです。
その後、王様は庭から出て行った時に、突然大地が裂けて地獄に真っ逆さまに落ちて行きました。その時に菩薩も同じく庭で亡くなりました。ですから慈悲の修行と忍耐の修行をしている時は、いかなる自分の痛みに対しても怒りを持つ事なく、あるいは自分を虐待した人に対しても怒りを持たないようにします。ブッダがおっしゃったのは、「我々は生まれ変わって来ているわけですが、歳をとるし、病気になると痛み苦しみが起こります。たとえ体が病気になっても、心は病まないようにしてください」ということです。心というのはとてもパワフルです。
サヤレーの忍耐
今度はサヤレーの話になりますが、サヤレーは少し前に台湾で1ヶ月半、病気で入院していました。インフルエンザで咳が止まらなかったという状態だったのです。その時台湾で100人以上の瞑想の指導をしていて、その人たちはかなり瞑想が進んでいて、過去世を見る段階にきていたので、瞑想指導をキャンセルするという事はとてもできなかったわけです。その時、非常に強い薬を飲んで仕事をしたのだけれども、あまりにも強かったので副作用でアレルギーが出てしまいました。救急車で病院に運ばれ、集中治療室に連れて行かれました。
体は集中治療室に運ばれたわけですけれども、自分の心は瞑想センターにありました。20日間のリトリートだったのですが、インタビューというのはとても重要なわけです。1日1日のインタビューは非常に大事で、そのインタビューを聞いて次のステップへと進んでいくというような状態でした。ですから集中治療室にいた時にも心は瞑想センターに行きたくて、先生にも是非帰りたいと言ったのですが、先生は「それは駄目だ」と言われ、注射を打たれました。
「注射を打つと眠くなって寝てしまうので、帰る事は出来ません」と医者は言いました。本当に注射を打った後に意識が朦朧としてきて、何とか意識をしっかり保とうとしたけれども、なかなか難しかったのです。そしたらもう一つ注射を打たれた。それで体はアレルギーでとても痛かったのですが、その時瞑想している人たちの為に指導するか、自分の体を治すか二つの選択がありました。お医者さんは、「3ヵ月間は教えるのは無理です」と言いました。3ヵ月駄目だとなると、シンガポールとかインドネシアとか日本とか香港のリトリートを全部キャンセルしなければならなくなる。それで心をもっと強くして6割ぐらいは治してしまって、それでリトリートを続けているというわけです。
インドネシアで先生(パオ・セヤドー)と一緒にリトリートをしていたわけですけれども、「もう日本には行かない方が良い」と先生に言われました。サヤレーはとても頑固だから「いや私は行きます」と来てくださったそうです。
サヤレーの気持ちとしては、いろいろな痛みとか大変なのはあるけれども、とにかく瞑想の修行を教えたいということでここに来ています。もう一つの理由としては、富士山を見るととても幸せな気持ちになって慈悲を送る事が出来る。今回富士山に行く事が出来なくても、日本に居るという事だけで非常に幸福な気持ちでいられます。膝がとても良くなくて、20分も座っていると痛みが出てきます。お医者さんがすぐ手術しなければいけないという状態ですけれども、日本に来てくださっているということです。
ですから、皆さんが瞑想している時にいつも付き合う事が出来ないというのはそういう理由からです。そのようにして努力をしてここに来ているのですから、皆さんも簡単に諦めないで努力をして瞑想を進めるようにしてください。リトリートの期間は短いわけですが、その期間を有効に使って進めてください。インタビューの時間以外でも聞きたい事があったら来てください。宜しいですか。ですからもう一段の努力をしてみてください。
サードゥ! サードゥ! サードゥ!
心を探究する 三島ジーン 第二部 光とイメージ〜意識の微細レベル 第一章 光明
一章二節 光の分解
(一) ルーパ・カラーパ
ミャンマーの上座部仏教の代表的指導者であるパオ・サヤドー(注:サヤドーは尊敬 されている教師を意味するビルマ語)の説明によれば、四界分別観において現れていた光を発散する氷の塊のようなニミッタは、やがて「ルーパ・カラーパ」と呼ばれる小さな微粒子の集団へと分解することになる(1)。
止観の行の深いレベルに達した修行者は、 無数の微粒子が非常に早い速度で生起し、消滅する様子に直面することになる。パオ・サヤドーの説明によれば、注意を一点に固定する「止」の行のみを実践する修行者は、ルーパ・カラーパを観ることはできない。ルーパ・カラーパは非常に微細な事象であって、「止」だけを徹底させても、それを経験することは難しい。それを確実に
観ようと思うならば、修行者は「観」の行によって得られる生滅智のレベルにまで達している必要がある(2)。
「止」と「観」の注意の技法(つまり、意図的に注意を一点に固定する技法〈止〉と、自動的に生起する事象に対してまんべんなく気づいていく技法〈観〉)
の両者を鍛えぬいて合わせたときに、光として顕現するニミッタはルーパ・カラーパと呼ばれる極微の事象として認知されることになる。止観の行者は自分の内と外の区別無く現れていた光り輝くニミッタを、ルーパ・カラーパの集団として認知するようになり、あらゆる事象を、生滅を繰り返す微粒子の集団、あるいは微細な波動の集まりとして理解するようになる。
止観の行の指導者であるゴエンカ氏の弟子ウィリアム・ハート氏は、このような体性感覚への気づきの瞑想からルーパ・カラーパの認知に至るまでの様子を次のように語っ
ている。
まじめに瞑想をつづけてゆくと、やがて感覚の質が変化する段階に入る。全身に均一で微細な感覚があらわれ、それがものすごいスピードで生まれては消えてゆくのである。このとき意識はうわべのかたまりをつらぬいて、それを構成している背後の現象を感じ取っている。万物を構成する微粒子のうごきを感知している。微粒子はひっきりなしに生まれては消え、その無常性をまざまざと体験するのである。からだのどこを観察しても微粒子が振動している。血液、骨、固体の部分、液体の部分、気体の部分、醜いところ、美しい
ところ、どこを観察しても波動の集まりだけを感じる。もうからだの各部を区別できない。
識別したり命名したりするプロセスも止まる。このとき、自分自身のなかで、たえず流動し、生まれては消える物質の究極の真理を体験するのである(3)。
(二) 透明な要素(transparent-element)
現代科学が原子や素粒子といった物質の最小単位を探究して、それに質量や電荷、スピンなどといった様々な基本的要素や特性を見出しているように、仏教も非常に微細な認知事象であるルーパ・カラーパを探究して、それに対して様々な要素や属性を見出している。それらの各要素には、「地」「火」「水」「風」「色
いろ 」「匂い」「味」「栄養素」「命」「性」「心」「透明」などといった名前が付けられている(4)。
これら各種の要素群の中でも、「透明な要素」はルーパ・カラーパを大きく二つに分 類する基準となっている(5)。透明な要素がある微粒子は「透明なルーパ・カラーパ (transparent rupa-kalapas)」と呼ばれ、それが無い微粒子は「不透明なルーパ・カラ ーパ(opaque rupa-kalapas」と呼ばれる。現代生物学において、地球上の動物が脊髄の有無によって脊髄動物と無脊髄動物に大きく二分されているように、ルーパ・カラーパは透明な要素の有無によって大きく二分される。
体性感覚を観る四界分別観では、止観の行者は身体を透明な氷の塊(ニミッタ)として認知するようになるが、パオ・サヤドーの説明によれば、この透明な氷の塊として認知されていたものは、実はルーパ・カラーパ群の透明な要素の集団である。心の刹那レベルを分別する生滅智が十分ではなく、ルーパ・カラーパの一つ一つを識別できない修行者は、そのルーパ・カラーパの透明な要素の集団を、透明な氷の塊として認知する。
しかしながら、生滅智が十分に発達した修行者は、それを分解して、ルーパ・カラーパの透明な要素の集まりとして観るようになる(6)。
興味深いことに、このルーパ・カラーパの透明な要素は、五種の感覚器官(眼、耳、 鼻、舌、身)由来の刺激に対して反応すると言う(7)。視覚性の刺激に反応する透明の 要素は、「眼の透明の要素」と呼ばれる。その他に、聴覚性の刺激に反応する「耳の透 明の要素」、嗅覚性の刺激に反応する「鼻の透明の要素」、味覚性の刺激に反応する「舌
の透明の要素」、触覚などの身体性の刺激に反応する「身体の透明の要素」が存在している。
上座部仏教の心理学が説明するところによると、私たちの日常的な意識経験である視
覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などは、このルーパ・カラーパの透明の要素に依存して生じている。ルーパ・カラーパの透明の要素が各感覚刺激群に応答して、視覚や聴覚、体
性感覚といった私たちにとって馴染み深い各種の感覚が生まれている。したがって、止観の行者の心の中の光り輝く澄んだニミッタやルーパ・カラーパは、神仏が発する霊妙な光のようなものではなく、それは日常的な知覚の基盤、基底となるものである。それは様々な感覚刺激群に応答し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚といった粗大な意識現象へと分化発展するものである。多彩で豊潤なクオリア世界は、光の世界から創造されている。
(三) 究極の物質性(ultimate materiality)
仏教の論書の一つであるアビダルマによれば、どのルーパ・カラーパにも必ず八種類の要素が備わっており、それら各要素は共に生起している(8)。
その基本的な八種類の 要素とは、「地」「火」「水」「風」「色 いろ 」「匂い」「味」「栄養素」である。アビダルマの概念に沿った修行を実践するパオ・サヤドーは、これら八つの基本的要素群は修行過程に
おいて最終的にはすべてのルーパ・カラーパに見出されるようになると説明する。ルー
パ・カラーパは修行者の心で非常に速い速度で生滅を繰り返しているので、そこに各種要素を同定するのはかなり難しい作業である。しかしながら、最終的には熟達した止観の行者は各々のルーパ・カラーパにすべての要素群を一瞥して見分けることが可能にな
る。パオ・サヤドーは、このルーパ・カラーパに見出される各要素群こそが、「究極の
物質性」であり、「究極の現実」であると指摘する。
この基本的な八種類の要素のうち、「地」「火」「水」「風」の四元素は、先ほど説明したように各種の体性感覚として見出されるようである。また、「色
いろ 」「匂い」「味」は、それぞれ文字通りの感覚を意味する。つまり、これらの要素群の多くは、非常に微細な
意識レベルでの何らかの感覚情報(クオリア)を意味している。
仏教(特に上座部仏教)は、私たちが認知可能な物質に関する事象の一切すべてを、
ルーパ・カラーパ、もしくはルーパ・カラーパの各要素群によって説明しようと試みる。
現代科学においては自然世界が原子や量子のような物質の最少単位にまで還元されているように、仏教においては、私たちに認知される事象として現れる自然世界や身体は、ルーパ・カラーパもしくは各要素群のレベルにまで還元される。ゴエンカ氏の弟子ウィリアム・ハート氏は、このルーパ・カラーパと物質世界の関係性について、次のように
述べている。
ブッダは物質世界がすべて、パーリ語でカラーパという「分解できない極小単位」から 構成されていることを発見した。この極小単位が果てしなく変化して、物質の基本的な性質である質量、粘着力、熱、運動をあらわす。さらに、それらが組み合わさって「もの」
が構成される。ものは一見ほとんど変化しない。ところが実際、ものはみなカラーパという微粒子から構成されており、そのカラーパはたえず生まれては消えるという。つまり、
連続的な波動の流れ、絶え間ない微粒子の流れ、これが「もの」の究極の真相なのである。わたしたちがそれぞれ「自分」と呼んでいる「からだ」の実体なのである(9)。仏教の心理学は、粗大な意識レベルの事象だけでなく、微細な意識レベルの事象でさえも、ルーパ・カラーパによって説明する。例えば、光を発散しているように見えるニミッタも、実はルーパ・カラーパの「色
いろ 」の要素の集まりが「光」として認知されているにすぎないと説明する。集中する力が高まるにしたがって、ニミッタの色
いろ は、より光 り輝くものへと変化することになるが、熟練した止観の行者は、光として現れていた事象でさえも、ルーパ・カラーパ(の透明な要素)の集まりとして認知するようになる。
現代の仏教者は、しばしばルーパ・カラーパを現代物理学の素粒子や原子に喩える。
しかしながら、科学者の立場からすれば、そのような言説はあくまでも比喩であって、
ルーパ・カラーパを客観的な自然世界を構成する物質の最小単位の一つとみなすことは
到底できないであろう。仏教者は微粒子そのものに「色
いろ 」「匂い」「味」といった感覚的な特質が見出されることを指摘するが、現代科学は「色
いろ 」「匂い」「味」のような感覚的な特質は客観的物質に内在する存在論的なものではなく、私たちの心の中に内在する認識論的なものであると理解している。したがって科学の側から言えば、感覚特性(クオ
リア)を内に含むルーパ・カラーパを、科学的な実在物である「素粒子」や「原子」と
同列に扱うことは不可能である。
しかしながらルーパ・カラーパを、物質世界を構成する最小の実在として扱わずに、 深い集中によって認知可能となる微細なレベルの心的事象として扱うのならば、私たち 現代人にも比較的受け入れやすいものになるかと思う。止観の行者らは注意集中の技法を駆使して、非常に微細なレベルの意識場の活動や挙動を捉えて、それを「微粒子(ル
ーパ・カラーパ)の生滅」や「波動の流れ」として描写しているのではないだろうか。
卓越した止観の行者は非常に微細な意識場の活動を捉えて、そこに多様なクオリアの萌芽を見出し、その変動する模様や挙動などを直接観察によって見極めようとしているのではないだろうか※ 。
※ここではルーパ・カラーパの各要素群をクオリアの一種として認識論的に解釈している。しかしながら、ルーパ・
カラーパの要素のなかには認識論的には解釈し難い要素も幾つか存在する。たとえば、男性性と女性性の区別に関与する「性(sex)」という要素がある。常識的には「性」は私たちの個人的意識やクオリアとは無関係であり、生物学的な染色体や外見的な容貌によって決定されると理解されている。仏教の古い論書であるアビダルマは「性」
を物質の一つとして列挙しているが、パオ・サヤドーは「性」という要素もルーパ・カラーパに見出すことが可能であると説明する。パオ・サヤドーは微細レベルの心的現象を伝統的なアビダルマの体系に沿って詳しく説明しているが、私たち一般の立場から見れば「認識論」と「存在論」が交錯しており、理解し難いものも少なくない。
(四) 脳卒中時の微細な意識レベル
意識の微細レベルは極度の注意集中という心理学的な要因によって経験可能となるが、特殊な神経生物学的な要因によっても微細レベルの意識を経験できる可能性がある(ただし、神経生物学的要因の場合は、それをコントロールすることができない)。第
一部では神経解剖学者ジル・ボルト・テイラー博士の自身の脳卒中時の神秘的体験について述べたが、彼女が説明する特殊な意識経験は、上座部仏教徒らが語る意識の微細レ
ベルの描写に非常によく似ている。脳卒中によって神経細胞の機能が徐々に崩壊するにつれて、彼女の通常の粗大レベルの意識は後退し始め、世界と自己はエネルギー、流れ、粒子として認知されるようになっていく。
「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔へだてる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が流体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている!……自分を流れとして、あるいは、そこにある全てのエネルギーの流れに結ばれた、宇宙と同じ大きさの魂を持つものとして考えることは、わたしたちを不安にします。
しかしわたしの場合、自分は固まりだという左脳の判断力がないため、自分についての認知は、本来の姿である「流れ」に戻ったのです。わたしたちは確かに、静かに振動する何十兆個という粒子なのです。わたしたちは、全てのものが動き続けて存在する、流れの世界のなかの、流体でいっぱいになった嚢(ふくろ)として存在しています。異なる存在は、異なる密度の分子で構成されている。しかし結局のところ、全ての粒は、優雅なダンスを踊る電子や陽子や中性子といったものからつくられている。あなたとわたしの全ての微塵イオタiを含み、
そして、あいだの空間にあるように見える粒は、原子的な物体とエネルギーでできている。
わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認知できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざり合っているように見えたのです。視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした(わたしはこの粒々になった光景が、まるで印象派の点描画のようだと感じました)。
わたしの意識は覚醒していました。そして、流れのなかにいるのを感じています。目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。そしてエネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、わたしたちの全てが群れをなしてひとつになり、流れています。ものともののあいだの境界線はわかりません。なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。それはおそらく、眼鏡を外したり目薬をさしたとき、まわりの輪郭がぼやける感じに似ているのではないでしょうか。
この精神状態では、三次元を知覚できません。ものが近くにあるのか遠くにあるのかもわからない。もし、誰かが戸口に立っていても、その人が動くまで、その存在を判別できないのです。特定の粒々のかたまりが動くことに特別な注意を向けないとダメだったのです。そのうえ、色は色として脳に伝わりません。色が区別できないのです(10)。
1
The venerable Pa-Auk Tawya Sayadaw「Knowing and Seeing (Revised Edition)」Pa-Auk Forest Monastery (Editors), WAVE Publications (2003) p151 (http://www.paaukforestmonastery.org/books.htm)
2 同上 pp.195-196
3 ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門
豊かな人生の技法」日本ヴィパッサナー協会(監
修)、 太田陽太郎(訳)、春秋社 (1999) 一六九〜一七〇頁
4 前掲書1 pp.132-135
5 同上 p.152
6 同上 p.151
7 同上 pp.159-161, p.173 など
8 櫻部建、上山春平「仏教の思想2
存在の分析〈アビダルマ〉」角川学芸出版 (1996) 一〇三〜一〇四頁、アル ボムッレ・スマナサーラ、藤本晃「ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第一巻 物質の分析」サン ガ (2005) 二九八〜二九九頁、前掲書1pp.132-135
9 ウィリアム・ハート「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門
豊かな人生の技法」日本ヴィパッサナー協会(監
修)、太田陽太郎(訳)、春秋社 (1999) 三二頁
10
ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」竹内薫(訳)、新潮社 (2009) 七二〜七四頁
マハーシ・サヤドーは、ミャンマーの僧侶で、上座部仏教大長老である。なお、「マハーシ」というのは、下述するように、彼がかつて指導を行っていた「マハーシ僧院」のことであり、「サヤドー、サヤドウ、セヤドー、サヤードー等とも」とは、ミャンマー仏教で一般的に用いられる「長老」を意味する尊称