悟りの段階

 

 

【悟りの4段階+1】

準備段階:「預流向(よるこう)」

第一段階:「預流果(よるか)Sotapanna」と「一来向(いちらいこう)」のワンセット

第二段階:「一来果(いちらいか)Sakadagami」と「不還向(ふげんこう)」のワンセット

第三段階:「不還果(ふげんか)Anagami」と「阿羅漢向(あらかんこう)」のワンセット

最終段階:「阿羅漢果(あらかんか)」Arahan

 

『悟り』とは、「預流果」を皮切りに、煩悩が順に消えていき、煩悩が消えた分だけ智慧(真理を見極める認識力)が現れていく現象のことを言います。

 

ですから、一口に「悟り」と言っても、そのレベルは解釈によって大きく異なります。

預流果、一来果、不還果と順に一つずつ段階を進み、阿羅漢果で完成します。

大乗仏教やバラモン教の「悟り」を上座部仏教では「31領域における色界や無色界の到達」と伝統的に解釈されています。

 

 

『自分を苦しめている諸悪の根源は、己の持つ煩悩。それ以外の理由はない。』

 

このことをハッキリと理解し、「よし、煩悩を消して、真理を見極めよう。」と、シッカリと真理に向かう姿勢のことを「預流向(よるこう)」と言います。

ちなみに「預流(よる)」とは、「完全な悟り(阿羅漢果)へ向かう聖なる流れに身を預ける」という意味だそうです。

 

その目標に向かうから「預流向」。

ここでは、まだ悟りを目指しているだけの状態ですので、まだ「悟り」とは言えません。(そういう意味も込めて、「預流向」と「預流果」の間に線を入れさせていただきました。)

 

 

では、その一線を越え、「預流果」を迎えるとどうなるのでしょうか。

大きく分けると「貪欲(欲)」・「瞋恚(怒り)」・「愚痴(無知)」の3種類。

それに「慢(傲慢)」・「見(邪見)」・「疑(疑い)」を加えて『六大煩悩』。

 

それらを細分化していくと、有名な「108」に、それをさらに細分化すると数千、数万とキリがなくなっていきます。

その膨大な数の煩悩の中から、「預流果」で消える煩悩は…膨大な数の煩悩のうち、たった3つだけなんです。

1.有身見(うしんけん)

2.疑(ぎ)

3.戒禁取(かいごんじゅ)

 

無くなった煩悩はたった3つだけですから、まだまだ悩みも苦しみも膨大に残っています。

怒りもするし、泣きもするし、ヘマもしますし、凹みもします。

ですが、たった3つとはいえ、悟りを決定づける大切な3つです。

 

では、その3つを順に見ていきましょう。

1.有身見(うしんけん)

この煩悩は、「貪欲(欲)」でも「瞋恚(怒り)」でもありません。「愚痴(無知)」「見(邪見)」のカテゴリーに属する煩悩です。

これまで色々な形でお話してきた『「私」という独立した存在がある。』という錯覚のことを指す煩悩です。

ほんの一瞬でも、「無常」「無我」を知識としてではなく、体験として納得した時、「有身見」という邪見(因果の道理を無視する誤った考え方)は消え、「ああ、実際には“私”は実在しないんだ!」という理解と共に「無常・無我」という智慧が現れるんです。

 

メンタル・ボディが永遠にあると考えるのはsakāya ditthiです。

メンタルボディがありますが、bhavaからbhavaへと劇的に変化します。 たとえばしばらくの間、devaまたは人間であったとしても、次のbhavaapāyasにある可能性があります。

私たちの肉体には、「私のもの」とみなすに値するものは何もありません。

この事実を理解すると、sakāya ditthiSōtapannaステージを達成するための4つの条件の1つ)が削除されます。ただし、これはsakkāya ditthiを削除する1つの方法にすぎません。

この側面については、特にMūla­pariyā­ya­ Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN 12.15) Mahā­ Hatthi­pa­dopa­ma Sutta (MN 28)で説明されています。

 

 

 

そして、「有身見」が無くなると同時に、必然的に無くなる煩悩が2つあります。

それが「疑」と「戒禁取」です。この2つも「有身見」と同じく「愚痴(無知)」のカテゴリーの煩悩です。

 

2.疑(ぎ)

読んで字の如く「疑い」を意味します。

「疑」という煩悩が無くなるということは、「真理(諸行無常・諸法無我・因縁等)に対しての疑いが無くなる。」という意味です。

「有身見」が無くなったことによって、一瞬でも真理を「体験」しているため、当然それに対しての疑いがなくなります。

先日の「アハ体験」の例で言えば、「ああ!ホントにイエスが描かれていたんだ!」と納得できると、「アハ体験」以前にあった、「え〜?こんなワケのわからない模様の中に、何が見えるって言うの?」という疑いは、絵が見えたと同時に消え去ります。そんなニュアンスで捉えてください。

 

3.戒禁取(かいごんじゅ)

「戒禁取」は、しきたりや作法・儀式、無意味な修行や苦行等に対してこだわりをもってしまう煩悩(無知)のコトです。

ここ日本でも多く見受けられる「お祭り」や「火渡り」、「滝行」なんかも、この中に含まれます。

線香を何本立てろとか、戒名をどうしろこうしろとか、神社参拝やお墓参りの際は手を何回叩けとか、○○を供えろとか、日々「○○○○○」と唱えろとか、数珠は右手で持て、いや、左手だとか、そう言った「しきたり」や「儀式」にこだわるのも「戒禁取」です。

宗教的なコトだけではなく、事故に遭わないよう、家を出る時は靴は右足から履くとか、試合前にはユニフォームは右袖から着るとか、そういう、いわゆる「ジンクス」なども「戒禁取」です。

真理に触れるという経験をほんの一瞬でもすると、そういったあれこれは、エゴ(自我)が作った勝手な決まり事、文化以上の意味があるわけではないとわかるので、そういったものにこだわったり、ありがたがる気持ちがなくなります。

もちろん、それらの文化にも伝統や出来上がった背景などがありますから、無理に壊したり、蔑ろにするのも考え物です。

 

文化は、あくまで文化。ですから、人様に迷惑を掛けないのであれば、何をしていても自由です。

「ここではそういう決まりだ」と言われるのなら、それに従う方がいい。そこから余計な“いざこざ”は生まれません。

ですが、「私の行っている、この儀式こそが唯一の真実。こうでなければならない。」とそこにこだわりが生まれているなら「戒禁取」です。

そういうことにこだわる人、またこだわりを強要する人は、真理という自由さの中で生きているのではなく、自我が作ったルール・習慣に縛られ、自らの意思で不自由を選択した人です。

「預流果」によって消える煩悩は上記の3つのみです。

 

ですから、いくら「煩悩が消えた」と言っても、数ある煩悩のうち、「無知」に関する基本的な3つだけですので、まだまだ欲深な気質も、何かとカリカリイライラするような怒りっぽい性格もそのまま残っているんです。

とはいえ、「諸行無常(全ては変わり続ける)」「諸法無我(実際には“私”は実在しない)」というコトが理解できていますから、一種「諦め」に似た気持ちが生まれ、それまであった「執着」は、徐々に力を弱めていきます。

 

この「預流果」。

実は、特別な何かを行わなくても、到達できることがあります。

修行も瞑想も不要です。

ある日突然不意に訪れる様なこともありますし、しっかりとした指導者の説法によって迎えることも可能です。

最初の準備段階、「預流向」をすっ飛ばして、いきなり「ガツン!」と来ることもあるんです。

ただ…

何の予備知識も無いままに迎えてしまうと、結構うろたえてしまいますし、僕と同じように「預流向」をすっ飛ばして経験する場合には、ある独特な条件が必要な様です。

その独特な条件とは…

「絶望(地獄を見る)」という経験です。

まぁ、手っ取り早いと言えば手っ取り早いんですが、あまりにも痛すぎるし、リスクが高いので、この方法はオススメできません。

きちんと、順序を守って「預流向」から入られることをオススメいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絶望を感じると (ぽん)

 

2008-10-17 09:53:34

 

本当に凍りつくような痛みを感じませんでしたか?

 

私は何度もそんな感じを受けて、

夫の兄弟が進めるある新興宗教の出す本を読んで

パカッと開いて、キラキラの感情のままに行動したら、

精神病院の鉄格子のなかにいました。

 

その後も何度かそんな目にあって、

今があります。

 

今は常に開きっぱなしです。

でも、段階としてはまだまだ煩悩だらけです。

それでも絶望は感じません。

この心地を得るための絶望感だったのなら、

ありがたいことです。

 

 

 

 

 

う〜ん・・・ (油虫)

 

2008-10-17 21:11:57

 

 肉体を備えた人間が「悟り」を得ることに果たしてどれだけの意味があるのかなあ・・・。

 「悟り」そのものを得るのはすごく簡単なんですよ。死ねばいい。肉体が無くなればすぐにでも「神様」になれます。15日に伊勢神宮へ行ってきたのだけれど、神秘的でいい場所ですよね、あそこ。で、そのいい雰囲気のところで、ですね、たまたま通りすがりのカップルが

「本当にどっかの木陰から神様が出てきそうだよね」みたいな会話をしてたので、私は心の中で(あなた達自身がすでに神様なんだよ)って呟いていたのですが・・・。人間が言うところの「神様」って大抵は昔に亡くなった人々の魂のことだったりするからね。つまり、死ねば必然的に全ての煩悩から解き放たれるというのに、生きている間にその死後の状態を疑似体験する「悟り」とやらを獲得することにどれほどの意義があるんだろうかってことが疑問なの。

 死ねば必然的に得られる「悟り」。それを死ぬ前に獲得したいと思うのならば、当然それを思うだけの熱烈な動機と目的意識が無ければならない。それが無く闇雲に「悟り」を求めるのは、一歩間違えるとただの現実逃避になりかねないことを私は危惧する。確かに釈迦もキリストも「悟り」を得、その事実を広く世間に広めることによってこの世界を少しでも良くしようと試みた。しかし、このお二方が教えを広めて二千年近く、時を経たというに未だに世界には果てしない苦悩が山積み・・・。人間は無益な殺し合いをやめようとはせず、このままでは地球が滅びかねないところまで来てしまっている。結局「悟り」を得た人が、その事実を人々に広め、教えたところで人類を救うことなど出来ないということをその二千年間が証明してしまっているわけだ。

 まあ個人が体験する分には確かに気持ちいいらしいね、「悟り」ってやつは。私は体験したこと無いけど・・・。ただ守護霊(ジジイ)の声が聞こえるってだけ・・・。唯物論者の私には本当に迷惑な声だったよ、マジで。実を言うと未だにスピリチュアルや唯心論は好きになれない。いろんなスピ系のサイトやブログを見たけど、どれもこれも気持ち悪くてまともに読めたのはここだけだった。だからあんまり批判とかしたくは無いんです、本当はね。でも疑問に思ったからやっぱり書いちゃう。

 

 生前に「悟り」を得るのって、本当に必要なことなのでしょうか・・・?

 

 

 

 

油虫さまへ (Fam)

 

2008-10-17 22:20:17

 

>死ねば必然的に全ての煩悩から解き放たれるというのに、生きている間にその死後の状態を疑似体験する「悟り」

>死ねば必然的に得られる「悟り」

○はたしてそうなんでしょうか??

 

>結局「悟り」を得た人が、その事実を人々に広め、教えたところで人類を救うことなど出来ないということをその二千年間が証明してしまっているわけだ。

○たった2000年です。(と思います。)

 

>生前に「悟り」を得るのって、本当に必要なことなのでしょうか・・・?

○悟りを迎える事が目的なのではなく、悟りが迎えられるような生き方をしましょう。と言う事と私は受け止めています。結果、悟りを迎えられるのならば、それで良し。迎えられなくても、それはそれで構わないことだと思います。

大事な事は、人々がみな、より良い人生を送れる事こそが教えの目的なのではないでしょうか?全ての人が良い人生を送れば世界が良い結果を残せると言う事です。西暦で2000年、人類有史からみればもっとでしょうけれども、人々は成長します。2000年でダメなら3000年。それでもだめなら1万年。人々の成長が達するまで、お釈迦様のような方はそれぞれの時代に現われて教えを広めることでしょう。(あ〜なんかこんなこと書いてて、自分がインチキ宗教家のように思えてきた・・・・ただの一般人ですからね!!ほんとに。)

 

全ては油虫さんの考え方次第でいくらでも変わってしまいますので、私からお伝えしたいことは以上です。

 

蛇足ですが、他の気持ち悪いとおっしゃるサイトの方々も、その人にとっては楽しかったり、幸せなのかもしれません。考え方は人それぞれですので、全てを否定も肯定もしません。ただ、間違っている道に進んでいるようなら、早く気付いてほしいなーとは思いますよね(^^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

初・そして疑問 (ホンロウ)

 

2008-10-17 23:14:13

 

はじめまして、ホンロウと申します。

興味深く読ませていただいております。

 

読ませていただいて、「なるほど」と気づくことや「オラもそう感じていたこと(共通点)」があり、とても勉強になります。

 

 

そこて質問です。

 

今のオラの中では、「預流果」で消える煩悩も、意外に消化していました。少し昔に置いて来た感じ。

ただ、「体験をしたか」といわれるとした記憶も無く(気付いた事は多々あります)本当に消化したのかも疑問が残る今日この頃です。

 

どう「感じ」たら、「預流果」を迎えた事になるのですか?(だから書いてあるよとツッコミを入れないでください……)

 

疑問の意味が分からない場合や話の腰を折るようでしたら、無視していただいて構いません。

 

これからも、楽しく読まさせていただきます。

 

 

 

 

こだわらない (ひで)

 

2008-10-18 11:13:41

 

「ここではそういう決まりだ」と言われるのなら、それに従う方がいい。そこから余計な“いざこざ”は生まれません。

 

ここが肝ですね。

 

「こだわらない」ことにこだわることでトラブルが生じることもありますからね^^。

自分の家系でこれまでやってきたことと最近得られた考え方が違っていてもなんらこだわらない。

 ブログランキングで他のサイトで言っていることも、吸収しつつそこに同化しない。

 どこへ行っても何を聞いても、ありがたく受け入れながら流されない自分で居られることが、当面の目標です。

いつも為になる話をありがとうございますm(_ _)m

 

 

 

 

濁流に飲まれるのも一興 (ぽん)

 

2008-10-18 17:01:41

 

毒を食らわば皿まで

という諺がありますが、

頭でっかちになるよりも、

とにかく行動してみると

早道だと思います。

でも、いっぱい痛みを味わいます。

 

怖いと思ってることがあるとしり込みしてしまうから、

怖いものをなくしてみるのも開くのも早いかも。

 

全部合わせても一年にもならない私の精神病院入院時期ですが、回数は四度あります。

そこでの学びが今までで一番役に立ちました。

 

幼い頃に山の上にある精神病院が怖くて怖くてしかたなかったです。

でも、そこではないですが、違うところでも

入ってみてのカルチャーショックは

どんな学校や職場での経験よりも

スピリチュアルでした。

 

私はどうやらホンモノの病人ではなかったようで

長くはそこには居られませんでしたが、

そこでのすったもんだのあげくの心の触れ合いは

その後シャバでは味わえません。

 

社宅、転勤、介護、配偶者の死、子供の死、義理の親の死、ご近所トラブル、職場でのセクハラ、パワハラ、いじめ、エトセトラ、ドラマで扱われるような頭の心の痛い問題をすべて経験しましたが、

 

でも、結局は何も起きてはなかったのです。

気持の持ちようで、消え去るものだったのです。

 

そう気付いた時、心がひろくはてしなく広がったきがしました。

 

そして、私には様々な処世術が身につきましたが、

無益なトラブルに巻き込まれないためにはとても役立ってます。

 

教科書は身近なところに転がってます。

そこにもまれてみるのも一興ですよ。

自分で体得したものは必ず身につきます。

 

でも、その時に注意がただ一つ。

自分でも正しいと思うことにのみ飲まれてください。

絶対に正しいものはありませんが、

相対的に正しい、また自分が心から正しいと判断したものなら

のまれても悔いが残りません。

 

なんだか、わかったような口をきいてすみません。

 

 

 

 

 

Unknown (いいとも)

 

2010-02-24 16:39:38

 

十年間「地獄」を求めて生きてきました。

そうすれば何か分かると思ったからです。

でも今はズタボロになり立ち上がれない位になりましたが悟りは来ませんでした()

でもそのおかげでいろいろなことを勉強しここに来ました(そんなにかっこいいことではありませんが)

ヨルコウというのがあるんですね。気持ちがぐっと楽になりました。

見てるかどうか分かりませんが本当にありがとうございましたm(__)m

(理論的に解説してくれるのは本当にありがたいです。分かりやすいですし)

今度またチョイスの方に書かせてもらいますね。

 

 

 

 

ありがとうございます (にち)

 

2010-06-02 13:15:09

 

運 黒斎さんこんにちは。はじめまして “にち”と申します。

 

私は一ヶ月ほど前に黒斎さんの本を知って購入して一気に読みました。(感動しました!)その後ブログの記事もほぼ読みました。(さすがにコメント欄は読めておりませんが)

 

突然ですが 私の事を書かせて貰いますね

 

私の場合は小さい頃〜たぶん幼稚園の年長さん?〜から 童話や祖母が語る昔話の教訓を通して『この世ではないモノ(神様、霊、妖精、あの世、輪廻転生 などなど』に興味をもち、その存在を信じていました。

またその『この世ではないモノ』を実際に感じ取りたくて それについての「オベンキョウ」をしてみたりしていました。(例えば『妖精について』とか『超能力を身につけるための方法』などのたわいもない本を読んだりしてましたが、そのうちに“私は何故こんな辛い世界で生きなければいけないのか?生まれたのは何の為なのか?”ということに問題意識が移り、その回答を知りたくて精神世界の本を読んだりするようになりました。)

 

けれど 今までの「オベンキョウ」では納得出来るような答えは得られませんでした。

しかしそうこうするうちに 自分勝手で卑屈で逃げてばかりいる私に『アレ』が来ちゃったんですね アレ(気付きの為の一連の辛い出来事)が・・・

 

私の場合は去年の11月頃から今年の5月始めまでにかけて『仕事関連』で起こりました。

今考えると 高次の方々が「んもう〜 あのこったら仕方ないねぇ じゃ このプログラムで気付いてもらいましょうか!」と愛情込めて設定してくれたんでしょうね。

もちろん自分に非があって『仕事でトラブルが発生する』とか『上司から怒られる』のですが、その後“悪い事”が、もの凄く良いタイミングで!!次々と起こっていくんです。

例えていうなら「ピタゴラスイッチ NHK」の仕掛けのように一秒一ミリの狂いも無いタイミングで!

 

そうしてグウの根も出ないようになった時がその『プログラム』の最後(4月末に『降格&減給&移動を言い渡されました)だったようで、その最後のイベント(次へのステップ&プレゼント?)が『あの世に聞いた、この世の仕組み』(本&ブログ)だったんです。

 

読み勧めるうちに 今までの「オベンキョウ」では分からなかった事が納得出来た、またこのような出来事を仕組んでくれた高次の方々の愛情と細やかな采配に気付いて 驚き感動しました。

 

でも まだ「ほんの少し気付いた」くらいなんです 気を抜くとついつい以前の自分(思考、思い癖)に戻ってたりするんです。あちゃ〜〜

ただありがたい事に、今の私には『過去の痛〜い経験(から得られたモノ)』と『指針(運 黒斎さん)』があります。(もちろん 高次の導きも!)

 

本当はこういう事をこちらに書くつもりはありませんでした。たぶん私の様な経験をしている方は数多くいらっしゃるでしょうし、凄い気付きを得たわけでもないですし。

でも今日は 自分の区切りとして書いてみました。『今の現状を確認しなさいね』ということなんでしょうね。これからも精進していきます 

 

運 黒斎さんに出会えて助かりました。これからもご活躍楽しみにしています。