禅定について
目次
はじめに samādhi三昧とjhāna禅那とsamāpatti定と禅定
3段階のsamādhi
禅定瞑想のメカニズム
禅定の心路citta
vīthi
nimittaと禅定瞑想のステップ
禅定が生まれない理由
五自在 pañca-vasītā 瞑想者を守るマスターすべき五項目
四つの禅定 パオ・セヤドー
禅定は九段階
ゴエンカジの見解 The art of livingから抜粋
はじめに
samādhi三昧とjhāna禅那とsamāpatti定と禅定
jhāna禅那と samādhi三昧との違い
samādhiとは対象の一点に集中することで3つの段階がある。
jhānaとはsamādhiの三番目の段階を指し、心が完全に専一的な統一状態(主客の区別がなくなる)のこと。
samāpattiとは
samāpatti [fr.saṁ+ā+pad] [BSk.<samāpajjati]とは到達するattainmentsという意味で、無色界でのjhānaを指す。
漢字文化圏では定,等至,三摩鉢底と訳される
しかし9段階のjhānaをsamāpattiという宗派もあるので文脈で判断します。
禅定とは
中国仏教において、色界のjhāna禅と無色界のsamāpatti定(等至)の両方を含めた意味を持つ。
よって8段階のjhāna禅那は禅定と同じ意味で使われるケースが多い
集中の段階 3つのsamādhi
日常生活の集中力を瞑想することでもう1段階深い集中にするのがはじめの修習(練習)の目的である。
また「わたし」という主体と「対象」の客体が一体化する境地に至るまでには、もう1段階深い集中が必要となる。
この3段階をカニカ、ウーパチャラ、アッパーナのステージと呼ぶ。
khaṇika samādhi瞬間的集中、瞬間、瞬間に維持される
upacārā samādhi近所的集中、jhāna禅那に入る手前にある状態 2〜30分
appanā samādhi決定的集中 主客が心的同化(absorption)するjhana禅那の達成 別名は第一禅定
upacārā( upaそこら辺+cārā歩く)近寄るという意味 禅定に似ているが中に入ったわけではないこと
appanā:f. [Sk. arpaṇa. cf. appeti] 安止,根本定
このようにsamadhiには段階があり、appana samadhiと呼ばれるに至るまでには、upacārā samādhiと呼ばれる「心の浄化」のステップがある。
出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、五蓋が取り除かれることで、歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽が生じ、appana samadhi初禅へと入っていく準備が整う。
jhāna禅那 |
パーリー語 |
漢字文化圏 |
特徴 |
界 |
9 |
nirodha-samāpatti |
滅尽定 |
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|
8 |
samāpatti= jhāna |
定=等至 |
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無色界 |
7 |
samāpatti= jhāna |
定=等至 |
|
無色界 |
6 |
samāpatti= jhāna |
定=等至 |
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無色界 |
5 |
samāpatti= jhāna |
定=等至 |
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無色界 |
4 |
jhāna |
禅 |
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色界 |
3 |
jhāna |
禅 |
|
色界 |
2 |
jhāna |
禅 |
|
色界 |
1 |
appanā samadhi = jhāna |
禅 |
|
色界 |
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upacārā samadhi |
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準備段階 歓喜・喜悦、身体の軽安・安楽 |
天人界 |
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khaṇika samadhi |
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人間界 |
中国仏教の解釈 禅定 禅jhāna + 定(等至)samāpatti
ただ中国仏教ではパーリ語とは別の解釈となり、
はじめの4段階のjhānaを禅と呼び、次の4段階のsamāpatti (jhāna)を定もしくは等至と呼びます。
「定」 無色界には心を集中させる物質対象がなく、心的対象に定めて、心を静める状態
「等至」 無色界には心を集中させる物質対象がなく、心がただ「至った」「達した」状態
「禅」は色界で、寂静(感覚器官からの信号認識を止める)<審慮(ものごとを見きわめる)
「定」は無色界で、寂静(感覚器官からの信号認識を止める)>審慮(ものごとを見きわめる)
つまり漢字文化圏である日本仏教の禅と三昧はパーリ経典とは解釈が違うことになる。
この説は多くの文献での確認が必要
jhāna(梵dhyāna)の意訳は「静慮」であり、これは寂静(5感覚器官からの信号を認識することを止める)と審慮(ものごとを見きわめる)の2つの性格が含まれていることを表している。
禅那と禅定の違いは? 禅那=禅定? 上座部仏教と中国仏教
禅那は上座部仏教のjhānaの表音漢字
禅定は中国仏教の色界禅那である「禅」と無色界禅那である「定」の両方を1つにしたもの
文化は違うが指すものは同じである。
日本では一般的に禅定と呼ばれる。
<清浄道論・第三品>では、「心と心所を平等(<説>よいバランスを保つこと)にし、落ち着かせ、散乱させず、雑にならないようにして単独の対象の中に安住すること」と述べている。
<長部Dīgha Nīkāya>では、禅那の心を「寧かで静か、清浄・透明で、すでに育成されており、邪悪なく、柔軟・従順で堪能、強固で沈着して、不動である」と禅那の心には強力な生命力があることを示唆している。
禅定と感覚器官
五門から得る情報を正しいとは判断せず、鵜呑みにしたり、信じたりしない認識方法。
五門からの情報を土台にして利用することで、五門から離脱できるようにする認識方法。
五門から入る情報の次元から離脱できると、第一禅定が生まれる。
禅定は五門と意門からの信号からではなく、心だけで認識する新たな方法である。
しかし、禅定は欲界の意門心路の心が勝手に作る幻覚なので、信じるものではない。
3つ認識プラス1
外からの信号(五門)や内からの信号(意門)に頼る欲界認識
物質はあるが五門と意門に頼らない色界禅定
物質そのものがない無色界禅定
特殊な2種類の意門の認識方法を作り上げるのが禅定する理由。
色界・無色界の禅定による認識(1〜8禅)と覆いを外した出世間の領域での認識(9禅)の仕方がある
瞑想が進んでいる身体の軽さと喜びの実感
眼耳鼻舌身への未練がどんどん消えてきて心が落ち着いてくると、身体も楽になる。
そしてたまに身体が軽く感じる。綿のように、空気のように、身体には何の物質もないのではないかと感じる。
どんどんと喜びが生まれ、体重を感じないので、歩いても坐っても疲れがない。
禅定に入る前のupacārā samadhiからこのような喜びはある。
欲界の喜びとは質が違い、ただ何もなく喜びがある。
心には希望がない。しなければならないこともない。
このような状態の喜びである。
救って欲しい人は瞑想よりもまずは理性から
「誰かに頼りたい、すがりたい」と思っている人は、まず自分の理性を育てることを優先させる。
瞑想は、「ものごとは自分で判断したい、自分で決めたい」という人に向いている。
禅定瞑想のメカニズム
意門での思考を止めるのがポイントなので、途中から思考が生まれないように、先に意門を利用することで、考えが飛び込んでくるのを防ぐ。
たとえば目の前にあるモノを言葉に出して念じ続けるとこで、心は妄想することができなくなる。
心は一つしかないので、同時に二つ以上のことをできないので、念じるという行為で心のはたらきが独占すると、他のことができなくなるからである。
また、同じものをずっと見ていると、眼を閉じても、それと同じものを見ることができるようになる。
たとえばコントラストの強いものを見ていると眼を閉じても残像があるように。
同じ対象物を2時間〜4時間かけて見続けると、同じ信号だけを認識し続けると心はその信号を学習し、対象を見なくても、心がその認識を作るようになる。
したがって、対象の大きさを意思で変えることも可能になる。
それからさらに瞑想を続けていると、さらに純粋な認識が生まれ、対象物がさらに強く見え始めるようになる。
これは心のはたらきの特徴である。
外界を見る視覚に頼っているのならば、このように見えることはない。
このような体験をすると、見ることも心のはたらきであって、眼でみるだけのものではない、ということを実感する。
こうしてさらに瞑想を続けいていると、強烈に純粋な光が見え始めるので、意識をさらに強くする。
光が一点に集中したり、透明化したり、個人差があるようであるが、その光が安定するのは共通点である。
この完全な安定した光になるまで時間がかかる。1時間から3時間ほど。慣れてくると極めて短い時間でも大丈夫だという話を聞くことはある。
それから、その純粋な光に集中して半時間ほどすると突如、光に呑み込まれるように拡がる。
一体感が生まれて、これまで意識で認識していたのが、意識することもなく自動的に動く瞬間があり、自分でなにもしようとすることなく、ただ認識が流れていく。
ただ心が流れている、そのような一体感のような、自分の意識が消えてしまう瞬間が次元を破った一つの証である。
いわゆるこれが梵我一如の一体感の第一ステップである。
この純粋認識の世界には色界が4,無色界が4の合計8段階のステップがある。
「眼がなくても見える、耳がなくても聞こえるという体験をし、五門を通さなくても認識が生まれる」ことを実感し、いわゆる超能力と言われることの可能性も考慮に入り、実体験することでさらに理解できるようになるらしい。
欲界を捨てない限り禅定の見込みはない
この五門の信号に頼る世界に深い意味はなく、単なる表層で、こだわる価値がないことを実感しないと禅定を体験するのは難しいらしい。
欲界の「俗世間の快楽は微々たるものだ。無意味なのだ」という程度の理解の智慧paññāレベルであっても禅定を得るには十分であるらしい。
だから絶対神を信仰していても、サマーディ瞑想で禅定に達することは可能であるらしい。
捨てることを前提にするだけの智慧がすでにあるので、それほど難しいことではないらしい。
禅定の心路citta vīthi
manōdvāracitta vīthiの長さは通常、平均して10〜12cittāですが、jhānaにいる間にはmanindvāracitta vīthiは多くのjavana
cittāを持つことができます。
jhānaの最中では、そのような長いmanōdvāracitta vīthiは、間に生じるpancadvāracitta vīthiによって中断されます。これが、jhānaの最中に外部の音を聞くことができる理由です。
しかし、jhāna samāpatti(禅定)では、単一のmanōdvāracitta vīthiが長時間中断されずに続き、javana
cittaが中止されることなく発生します。
B B B B B「BC BU MD J J J J J J J J J J
J………..
したがって、Bhavanga状態に戻ることはありません。すなわち、pancadvāra citta vīthi
や別のmanōdvāra citta vīthiが発生することはないので、外の世界で何が起こっているのか分からなくなります。
したがって、samāpatti(禅定)に入る前に、実践者はsamāpattiに滞在する時間を決定します。
これが、jhāna
samāpattiに入ることができる人々がJavana cittaの真の力を本当に発揮できる理由です。
これを視覚化できる喩えで表すと、マッチ棒の火でオイルランプ(オイルに浸した芯)を点火するとき、マッチ棒の火が芯の近くで安定せずに動いてしまう場合には点火できませんが、火を安定して保持できれば、すぐに点火する状態です。
レーザー光線の喩えを使うと、レーザービームのスポットが金属板の一点に安定して保持されない限り、そこは加熱されず穴はあきません。
jhāna samāpattiとは、レーザービームをある一点に長時間にわたり安定して保持するようなものです。
Citta vīthiは常に、過去のkamma、つまりkamma vipakaによる外部からの感覚入力から始まることを理解することが重要です。
Jhānaに至る時のcitta vīthi
B
B B「BC BU MD P U A
G Jh」B B B
B
B B「BC BU MD U A G
Jh」B B B
1つ目は普通の人のjhānacitta vīthiで、2つ目は、「より高い智慧」を持つ人のためのものです。
B、BC、BU、MD、
Parikamma (P), Upacara
(U), Anuloma (A), Gotrabu (G) 次に、Jhāna(Jh)cittaを通過します。
nimittaと禅定瞑想のステップ
対象を決める。モノ、カミ、呪文、音、呼吸、変化、踊り
自分が対象に関わり近づき、スポットライトを当てる。
対象に集中することで禅定が生まれる。
禅定(サマーディ状態)とは、自分という主体が消えて、対象と区分がなくなる「一体感」である。
具体的には、
瞑想をすると、対象がどんどんと明確になってきて、光になる。
それを眼耳鼻舌身からの信号としてではなく、神経管が認識する。
対象を五感覚器官を通じずに神経管で受け取っている。
こうして、外からの光の情報はなくても、体内の認識力だけでそれを感じ続けている。
これをuggaha nimittaという。 uggaha取得taking up nimita相mark,sign; image; target,object
さらに瞑想を続けると、完璧なカタチで見え始める。これをpatibhāga-nimitta似相とよぶ。
さらに瞑想を続けると、その対象が襲ってくる。
もしくは襲うように引き込まれて、対象と自分が一体化してしまう。
これまでに対象していたものが自分を襲ってきて、自分を抑えて自分に乗り移ってしまう一瞬の出来事である。
この認識の次の瞬間は有分心になる。
自分と他という区分が消える瞬間にこそ喜びが究極的に強烈に感じられる体験である。
サマーディ瞑想では対象が体の中にありありとそのまま観えることである。
対象を眼で見てなくても、厳密に明確に観えることが必要な条件であり、これを実践していると喜びを感じる。
宗教に関わらず、誰にでも体験できる。
問題はこの経験から離れなくなるなり、自分の体験に執着して絶対視をして、他者の話を聞かないようになる。
仏教は瞑想の世界が陥る偏見の闇に光を当てて分析し、科学的に心理学の立場で解説しようとしている。
禅相nimitta―禅定を修行するとき、心が専注する対象。イメージでもいいし、概念であってもよい。
取相uggaha-nimitta―取得した禅相。学んだ禅相。定力が上昇したとき、息の相が心によって徹底的取り入れられたときの禅相。
似相paṭibhāga-nimitta―取相の禅相に似ている。定力が更に深まったとき、非常に取相に似た禅相が心の中に、安定的に生起する。それは純潔で欠陥がないとは言え、やはり修行によって生起した一種の概念に過ぎない。
禅那jhāna―心が完全に専一的な状態にあること。
欲界の智慧、禅定の智慧
「見たくない、聞きたくない、認めたくない」というのは底流にある「拒否(怒り)」が具象化したものなので、その時には智慧がない。
無常の理解については、欲界の智慧では「俗世間の快楽は微々たるものだ。無意味なのだ」という程度の理解である。
だから、無常そのものでなくても、概念だけを徹底的に叩き込んで、無上に基づいて考えるようになってしまえば、それは智慧の生き方になる。
対して、禅定の智慧は、「眼耳鼻舌身に頼ることはばかばかしいことだ。無意味だ」という理解と納得である。
禅定が生まれない理由
眼耳鼻舌身からの刺激にも喜びはあるが、
「眼耳鼻舌身からの情報は心底から面白いものではなく、煩わしいものである。また頭の中の概念にこだわるのも煩わしい。そういうことから離れた方が、大変落ち着いて幸福だ」という実感を持った理解と腑に落ちた納得がないからである。
禅定瞑想をする人は、なにか対象を作って、瞑想するのだが、それによって、その対象に頼っていることが明確に理解できるからである。これが理解できると頼らない時空に達するステップとなるのか?
五蓋(ごがい)pañca nīvaraṇānとは禅定を邪魔する5つの障害、つまり5つの煩悩の総称。
蓋nīvaraṇaとは認識を覆う障害のこと
Nīvaraṇasutta Hindrances AN9.64 増支部九集念処品
Kāmacchanda-欲愛 Kāma; 五根からの欲の情報を恋しがる(chanda)蓋 感覚に執着する
vyāpāda-瞋恚(しんに、byāpāda) - 怒り・憎しみ・敵意。
thīna-middha惛沈・睡眠(こんじん すいめん)倦怠・眠気。
uddhacca-kukkucca掉挙・悪作(じょうこ おさ)心が落ち着かないこと。過去の間違いに対しての後悔。
vicikicchā疑 疑い。妄想。チャレンジすることに対しての心の弱み。固くなること。何かになる。
別の言葉では、愛欲、悪心、もの憂い、ざわつき、とまどい
kāmacchandaは貪欲と訳されているが、kāmaとは欲界kāmalokaの欲という意味は、欲望の欲lobhaと理解するのではなく、「眼耳鼻舌身に頼っている世界」と理解するほうが、サマーディ瞑想する時にはわかりやすい。
欲界kāmalokaでのメインテーマは五門からの信号を使って「身体を楽しませる」ことなので、これまでの習慣の認識方法では、いくら瞑想をしてもジャーナjānaは生まれない。
ジャーナは欲界の次元を超えることを理解して、そのための準備と相応しい実践をしていないので、ジャーナ体験は瞑想する人々の1万人に1人しか得られないと言われている。
釈尊は、五蓋が残っている状態を、借金奴隷に喩えている。 長部経典2経「沙門果経」
「大王よ、比丘はこれら捨断されていない五蓋を、負債、病気、牢獄、奴隷、荒野をゆく旅路のようにみなすのです。
また大王よ、比丘はこれら五蓋を捨断したことを、無借金、無病、拘束からの解放、自由人、安らぎの場所とみなすのです。」
「五蓋の滅」から「四禅定」へと至る
五蓋の滅 → 満足 → 喜び → 軽安 → 楽 → 心の統一というプロセスです。
五蓋を滅することによってのみ四禅定の「第一禅」に至る準備になります。
「五蓋の滅」は、「寂止の瞑想」によって心の働きを静めて得られる果報ではありません。
何故ならば、そのような「五蓋の停止状態」は、再び日常生活に戻れば、簡単に崩れ去るものだからです。
「五蓋の滅」を主目的とした修行は、八正道の「正念」、つまり「四念処」です。
五蓋への対策
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症状 |
五禅支での対策 |
balaでの対策 |
kāmacchanda |
kāma 感覚+ icca好み +anda盲目 感覚の喜びへの偏好によって盲目にされる 過去を思い出し反復する 感覚への想いに支配されている |
ekgaggata (一点集中 一体感)
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Sati awareness 「いま・ここ」に気づいている saddha すべての基礎 盲信ではなく体験した信心 paññā |
byāpāda vyāpada) |
泣きは種蒔なので泣くことが増える。 過去と未来のことで嫌悪するがこの時に平静でいるとそれが消えるチャンス。 |
pīti 喜びの心 対象に吸収されると、悪意は抑制される。 |
saddha すべての基礎 何に対して帰依? 釈尊の教え、徳、資質 |
uddhacca -kukkucca |
掉挙 動揺 頭に血が上った状態 昏沈・心配 頭に血がいかない |
sukha身体の楽 体が軽くなり、上ずりと不安に対抗 |
Samadi aniccaの体験をし続け、sampajāno(エネルギーと混同しない |
thīna -middha |
惛沈こんじん、倦怠、怠惰 睡眠すいめん、眠気 |
vitakka対象に心を向ける。 何度でも入る |
Viriya努力 英雄の勇気 散歩してまた坐る Sati awareness 「いま・ここ」に気づいている |
vicikicchā |
vigata失う+cikicchā√cit知る願望 知ろうとする欲求の欠如 aniccaの性質を知らないために賢明でないことをする傾向 無知の「疑」自分で確かめたりせずに、判定すること。 |
Vicāra 対象への集中を維持して、継続的に留まる |
paññā 平静心は知性ではなく実際にaniccaを体験することから生じる 智慧とは渇望や嫌悪や無知に囚われな |
戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、五蓋が取り除かれることで、歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽が生じ、appana samadhi初禅へと入っていく準備が整います。
五禅支
vitakka⇒瞑想の対象に心を向ける。外に出ても何度も何度も入ることのできる心。尋(じん):
怠惰と無気力(thīna middha)の障害を抑制します。これは、思考対象、たとえば呼吸にマインドを向けるように訓練する方法です。tharkaは多くのarammana(思考対象)の間を行き来することに由来します。これが停止すると、「vitharka」すなわちvitakkaが発生します。つまり1つの思考対象(たとえば、呼吸やカシーナの対象)に留まります。
vicaara(ヴィカラ)⇒瞑想に向けた心を保つ心、支える心伺(し):
その対象に対するマインドの継続的に留まります。つまり、その対象への集中を維持します。
vicāraは、viは停止、「cāra」は動き回わることに由来します。
Vitakkaとvicāraは、花に向かって飛んでいるミツバチと喩えられ、花の周囲をブラブラと飛びながら、花から蜜を吸う様子です。Vicāraは一時的にvicikicca(疑惑,猶予)の妨害を抑制する働きをします。
pīti(ピティ)⇒喜びの心。 喜(き)
sukha(スカ)⇒身体的な楽。楽(らく)
ekaggata(エカーガッター)⇒一体感。 一境性(いっきょうせい):
マインドが対象に吸収されると、悪意の思考は抑制され、熱意またはメンタル的幸福(pīti もしくは “preethi)がマインドに生じます。これはpītiのjhānic要因であり、悪意(vyāpada)の妨げになります。この幸せは主に表面的に感じられます。
肉体的な幸福(sukha)によって身体が軽くなります。このjhānicの要因は、落ち着きのなさと不安(uddhacca kukkucca)の障害に対抗します。
このようにマインドは完全に思考対象に吸収され、一点集中(ekgaggata)になります。これは、すべてのrūpalōka jhānic状態の主要なjhānic要素であり、集中(samādhi)の本質です。
この一点集中は、感覚的な欲望(kāmachanda)を一時的に阻害します。
kāmacchanda渇望 に対しては、 ekgaggata(一点集中)
vyāpāda嫌悪 に対しては、 pīti
uddhacca-kukkucca移り気 に対しては、 sukha
thīna-middha怠け癖(眠気) に対しては、 vitakka
vicikicchā疑い に対しては、 Vicāra
Balaについて
satiの対極にあるのは、muṭṭhasaccaと呼ばれるakusala kammaです。muṭṭhasaccaとは、samatha bhāvanāの作業(例えば、kāyagatā sati)やvipassanā bhāvanāの作業に没頭できないこと、集中できないこと、マインドを制御できないこと、集中している対象以外の対象に思考がさまようことを意味します。生まれたときから備わっているpakati satiでは、muṭṭhasaccaを払拭することはできません。それを払拭できるのはbhāvanā satiだけです。
samādhiの対極にあるのは、vikkhepa115(注釈115 彷徨う考えや空想)(心の落ち着きのなさ)のakusala kammaです。それは、集中できないことやbhāvanā manasikāraの作業におけるマインドの落ち着きのなさです。集中している対象以外の対象に思考が生じることです。マインドを制御できず、一つの対象に集中し続けることができません。pakati samādhiでは、vikkhepaのakusala kammaを解消することはできず、bhāvanā samādhiだけが解消することができます。
paññāの対極にあるのが、sammoha116(注釈116 Sammoha 妄想)のakusala kammaです。それは、無知、明晰さの欠如、霧、マインドの光の欠如から成ります。それはマインドを囲む暗闇です。このsammohaはpakati paññāでも、Ti-Piṭakas全体の知識を含むpariyatti paññāでも解消できません。sammohaを徐々に解消できるのは、kāyagatā satiを確立したbhāvanā paññāだけです。
これは5つの paṭipakha
akusala dhammasとそれぞれのbalaの意味を示しています。
5 つのpaṭipakha (paṭipakkha:反対の,敵)akusala dhammaは次のとおりです: (1) taṇhā、(2) kosajja、すなわち怠惰、または苦痛に耐えられない、またはpaṭipatti(実践)の作業における恐れ知らずの欠如、(3) muṭṭhasacca、(4) vikkhepa,
(5) sammohaです。 これらのakusala dhammaに対抗し、払拭できる5つのdhammaはbalaと呼ばれます。
これら5つのbalaのいずれかが弱く、それぞれのpaṭipakkha dhamma 117(注釈117 Paṭipakha 反対側)を払拭できない場合、Neyya(未了)の個に関する限り、Samathaとvipassanaの作業はあまり成功しません。
したがって、現在では、saddhā balaの強さのせいで、taṇhāの領域から抜け出すことができる人もいます。 彼らはpaccaya āmisaや世俗的な威厳や名誉に対する執着を取り除きます。 しかし、他の4つのbalaが不足しているため、santuṭṭhi (満足した状態) の段階を超えることができません。
saddhābalaとvīriyabalaが強いため、taṇhāとkosajjaの領域から抜け出すことができる人もいます。 彼らはsantosa dhamma 118 を遵守し、丘や森に住み、dhutaṅgas (修行) を実践します。
(注釈118 santosa-dhammaには 4 種類があります。
1. Cīvara-santosa – 法衣の満足感。 the yellow robe (of a Buddhist monk)
2. Piṇḍapāta-santosa
– 食物の満足度。
3. Senāsana-santosa – 宿泊の満足度。
4. Gilāna-paccaya-bhesajja-parikkhāra-santosa – 医薬品の満足度。
Saṃyutta-Nikāya, Nidāna-vagga- Saṃyutta, Kassapa-Saṃyutta, p. 398、6th Synod Edition.
注記 Santosa(喜び、満足、快さ) と santuṭṭhi(満足、知足、喜足) は同じ意味です。)
しかし、他の 3 つのbalaが弱いため、kāyagatāsatiを実践したり、Samathaやvipassanaの作業を行うことができません。
最初の3つのbalaが得意で、kāyagatāsatiの作業に取り組むことができる人もいます。 呼気・吸気、あるいは体の骨々に集中します。 しかし、他の2つのbalaが不足しているため、jhānaとvipassanaの作業に取り組むことができません。
最初の4つのbalaが強いためJhānasamāpattiまで到達できる人もいますが、paññā balaが弱いため、vipassanaの作業まで上がってくることはできません。
paññābalaが強い人もいます。 dhammaと三蔵を学び、paramattha dhamma (究極の現実) において賢明です。 しかし、他の4つのバッググランドが機能していないため、taṇhā、kosajja、muṭṭhasacca、vikkhepa の領域から出ることができないケースがあります。彼らはakusalaの範囲内で生き、そして死んでいきます。 このようにして、balaのいずれかが欠けていると、それぞれのpaṭipakkha(反する力)の領域から抜け出すことができません。
5つのbalaのうち、vīriya balaとpaññā balaもiddhipādaです。 したがって、これら 2 つのbalaが力を持ち、調整されていれば、他の3つのbalaが弱いためにvipassanaの作業に取り組むことができないということは起こりません。 実例として、釈迦の時代にSāvatthi市で世俗的な悪(ills)から解放された5億500万人の世帯主のケースを考えることができます。出典は?
iddhipādā、indriya、balaの機能を知らない人は、なぜ自分の願望が弱いのか、そしてどのようなpaṭipakkhaが彼らを襲うのかを知りません。 またどのようなDhammaを確立しなければならないのか知りませんし、それらを確立したいという願望も生じません。 こうして現在ではariya vaṃsa
dhammas は消滅の瀬戸際に瀕しています。
これについて喩えで説明をしてみます。
usabhaという種の雄牛がいます。 それは普通の雄牛1000頭や1万頭よりも価値のある雄牛です。 その雄牛の性質と特有の徴候が分かり、適切に育てられ、世話されるならば、その四肢と特徴は成長し、その強さと力は増加するでしょう。 そうなれば、100頭の牛舎さえもライオンやヒョウの侵入から守ることができます。 そのような雄牛がいる囲いの中の牛は、大きな病気や伝染病に罹らないでしょう。 その柵の4方7軒の家までの住人は、大きな病気や伝染病に悩まされることはありません。 雄牛のNandi Visāla119のように、一度に 500 台の荷車を引くこともできます。
(注釈119 Khuddaka-Nikāya, Jātaka Pāḷi,
Ekaka-Nipāta, Kuruuga-vagga,
28. Nandi-Visāla-Jātaka, p. 7. 6th Syn. Edn.)
もしそのような雄牛の所有者がこれらを知らず、適切に育てたり世話したりせずに、他の普通の雄牛と同じようにして、他の雄牛と一緒に耕したり荷車を引いたりする場合には、その特有の特徴や手足は成長せず、その強さと力は休眠したままになります。 したがって、他の雄牛と同じように生きて死ぬことになります。
しかし、知識のある飼い主はusabhaを他の雄牛から切り離し、特別に建てられた小屋に保管するとします。小屋の床をきれいな砂で覆い、小屋には天井を固定します。牛舎を尿や糞からきれいに保ち、人にも適した籾や豆類を与えます。usabhaを洗い、化粧品と軟膏を塗ります。 その場合、特有な特徴と手足が発達し、その強さと力は飛躍的に増大します。
これらはBuddha Sāsanaから見ると、Neyya(未体験)の個は雄牛の飼い主に似ています。 Neyyaの5つのbalaはUsabhaに似ています。
論蔵のThe Satipaṭṭhāna Vibhaṅga,
Sammappadhāna Vibhaṅga, Iddhipāda Vibhaṅga, Indriya Vibhaṅga, Bojjhaṅga
Vibhaṅga,
maggaṅga
Vibhaṅga, そして経蔵のMahāsatipaṭṭhāna- Sutta, Satipaṭṭhāna-Saṃyutta, Sammappadhāna-Saṃyutta,
Iddhipāda-Saṃyutta,
Indriya-Saṃyutta,
Bala-Saṃyutta,
Bojjhaṅga-SaṃyuttaはUsabha雄牛の特有な印、特徴、性質や、育て方と世話の方法、そしてちゃんと世話をすれば達成される強さと力を説明する世俗的な解説書に似ています。
無知のためにbhāvanāの作業を通じて5つのbalaを開発しようとはせず、dāna、sīla、pariyatti (聖典)dhammaの研究などのSāsanaの中では低次レベルでの達成に満足し続けるNeyyaは、Usabha雄牛を適切に育て、世話をしなかった無知な飼い主に似ています。
この世には、様々な世俗的な事業があります。富の力によって達成できる事業もあれば、知識の力によって達成できる事業もあります。土地を耕す場合でも、それを成し遂げるには様々な力が必要です。時には富の力を最初に獲得する必要があり、また時には知識の力を最初に獲得する必要があります。準備された教育と研究は知識の強さを蓄積するものです。
同様に、Buddha Sāsanaには、Samatha、vipassana、聖なる道と果報、nibbānaの達成に必要な5つのbalaがあります。これらのbalaが蓄積されてはじめて、前述の偉大な作業を行うことができます。5つのbalaのうちの1つでも持っていない者は、これらの大きな作業に取り組みたいという願望を呼び起こすことはできません。 彼らには、そのような偉大な作業がこの世で達成できるとは思いもよりません。 彼らは忘れっぽく、決意を持たずに生きています。その作業が達成できると指摘されても、それを聞きたがりません。彼らのbalaの蓄積はとても低いので、そのような考え方が自分たちの中に起きていることを知りません。 偉大な作業を行わないのはpāramīs、あるいはdvihetuka、あるいは時代の責任にしています。120
(注釈120 ある人は、今は聖なる道とその成果がもはや達成できない時代であると信じており、pāramīsが熟すまで努力を先延ばしにする傾向があります。 また、ある人は現代人はdvi-hetuka(つまり、無執着と親愛という2つの根本条件を持って生まれ変わった生命体)であり、そのため、現世では「聖なる道とその果実」を得ることができないと信じています。)
しかし、これらの人々がānāpāna satiなどのSatipaṭṭhānaの1つをして、saddhā、vīriya、satiの3つのbalaを確立(準備)した場合は、そのような考えは確実に消えるでしょう。 新しい健全な考えが生まれるのは避けられません。 それは自分の強さを成長させたからです。
こうやって強さが培われていきますが、まだrūpaとnāmaについての洞察に達することはできませんが、paccayāmisa taṇhā(物質的要因に対する渇望) とlokāmisa taṇhā(世間体に対する渇望)をコントロールすることによって弱いsaddhāが成長します。弱いvīriyaはkosajja(怠惰)の制御を通じて成長します。 弱いsatiはmuṭṭhasacca(変化に気づけない)の制御を通じて成長します。
samādhiとpaññāもvikkhepa(空想)とsammoha(妄想)の制御を通じて強さを増します。こうしたbalaが発生すると、本人のマインドに変化が生じることは避けられません。
この世の建築家の「強さ」は、千枚通し、のみ、斧、ナイフ、鋸などの優れた道具にあります。そのような強さを身に着けて初めて、修道院や家などの建設に取り組むことができます。 大工、鍛冶屋、金細工師、芸術家、木彫家なども、それぞれの強さを持っています。 彼らの強みは優れた道具と手法です。それらを使うことで作業を達成することができます。
同様に、Sāsanaでは、 magga
ñāṇaとphala ñāṇaを達成するためのsamathaとvipassanaのツールは、ānāpānasatiなどのsatipaṭṭhānasの1 つを通じて開発されたbhāvanā saddhā、bhāvanā vīriya、bhāvanā sati、bhāvanā samādhi、bhāvanā paññāで構成されています。これら5つのbalaがyogāvacaras123の強さです。
(注釈123 Yogāvacaraとは、samathaまたはvipassana、またはその両方を実践する人)
したがって、Buddha Sāsanaの中でsamathaとvipassanaの作業を成功させるためには、これらの5つのbalaを成長させる必要があります。
これが上記で引用した節での「bhāveti」の意味です。
(参照 bhāveti:[bhū+
e] increases; cultivates; develops.成長する。
自説ではマインドの力でエネルギーを枠内に集中させて望むカタチを生成する)
5つのjhānic要素がすべて存在する場合、5つの障害は一時的に抑制され、最初のjhānic状態になります。
禅定瞑想の一体感
自分が対象に係わっている最中に、自分を忘れているのは大きな喜びがある。
この喜びは欲界のものだが、このような自我を忘れて、自分と他という区分が消える瞬間にこそ喜びが強烈に感じられる体験をしている。たとえば、お神輿、セックス、大会場でのウェーブ、コンサート。
しかし、ここでの無我とは対象との区分のある一体感である。
たとえば、画家も眼を閉じて対象を観て、イメージを持って作品を描く。
しかし、禅定はこれらのイメージの作成とは違い、より強烈で、もっと深い一体感がある。
集中力が高まっているので、眼を閉じても対象をより強く感じ、区分のない一体感がある。
ニミッタの出現
集中力が出てくると、黄色や赤色やその他の色が目頭からおでこにかけて見えてきます。継続的に30分ほど呼吸に集中していると、顔の前に、明るい光が見えてきます。
それはさまざまで、異なった色が見えたりしますが、目を開けて、「これは何だ」と見てはいけません。
あくまでも呼吸に集中し続けます。この時点で光の方に注意を向けると、集中力は途切れてしまいます。
質問:好奇心が湧いて、これは何だろうと思って見たくなってしまうのですが。
答:見てもいいですが、初めのうち光の方を見るとすぐになくなってしまいます。そして集中力が途切れます。
訓練を続けたい時には、光の方を見ないで、呼吸に集中します。
呼吸に集中し続けると黄色やオレンジ色が見えてきます。そして、さらに呼吸に集中し続けるとその色は、だんだんと白く変わっていきます。色が白くなっても呼吸に集中し続けて下さい。そうすると白い色がさらに明るさを増し、クリスタルのように透明になってきます。
そしてこのニミッタ、(相、イメージ)が10分間も安定しているようなら、今度はその光のニミッタの方に集中します。つまり、ニミッタには3段階あります。
1、黄色、オレンジ、その他の色として現れる。
2、色が白くなってくる。
3、さらに輝きを増し、透明になる。
ゆっくりゆっくりとこのニミッタが安定してきたら、集中力を呼吸からニミッタの方に移します。
質問:「見たい見たい」と思って見てしまって、そこでニミッタがなくなってしまいます。どうやって引き伸ばしたらよいでしょうか。
答:それは心が興奮しているからです。静かではなくなっているからです。リラックスして心を静めましょう。
そしてニミッタに集中して、1時間、2時間、心が外へ飛んでしまうことなく集中していると、身体の感覚がなくなります。ただ、心とニミッタだけになります。それが禅定です。禅定には初禅から四禅までありますが、そこまで到達するには、先生の案内が必要です。急がず、ゆっくりゆっくりとやっていきましょう。
五自在 pañca-vasītā 瞑想者が道を誤らないため 瞑想者を守るマスターすべき五項目
・引転自在⇒禅定から出た後で、禅定中にまだある感情や思考を確かめられる力
・入定自在⇒禅定に入りたいときに、すぐに入ることができる力
・在定自在⇒自分で決めた時間、禅定に入り続ける力
※たとえば1時間禅定に入りたいと思えば、1時間ずっと禅定に入ることのできる力
・出定自在⇒禅定から出たいときに、すぐに出られることのできる力
・観察(省察)自在⇒禅定の中で、まだある感情や思考を確かめられる力
1.引転自在−サマーディから出た後で、 サマーディ中にまだ残っている思考・感情を判別・確認する能力
āvajjana は省察reflectionの意味で、心を向けて観察すること。
āvajjeti:[ā + vajj + e] observes
欲界に戻って、自分の体験を思い出し、ただ事実をありのまま、客観的に観察して確認する。
解釈とは誤解のことなので、ただ自分に起きた事実を観察するだけにする。
するとカミとの一体化というような解釈をしなくなる。
宗教家が解脱を見つけられず、輪廻を遡る途中でやめてしまう理由は「解釈したからである。説明したので間違ってしまった」と釈尊は説いている。出典?
2.入定自在−サマーディに入りたいと思うとき、いつでも出来る能力
samāpajjana [abs.of samāpajjati] having entered upon; having engaged in
3.在定自在−自分の決めた時間にサマーディに留まることが出来る能力
adhiṭṭhāna [fr. adhi + sthā] 1. decision,resolution,self-determination,will 決定
パーリ語では誓願の意味が多いが、ここでは違う。 ここでは、意図したようにする意欲の意味。
4.出定自在−自分の決めた時間がきたらサマーディから出る能力
vuṭṭhāna [the sandhi form of uṭṭhāna]
rising out 起き上がって出ること
禅定から出て、欲界の常識に適応すること。2つの認識範囲の違いを明確に理解すること。
5.観察自在−サマーディ中にまだ残っている思考・感情を判別・確認できる能力
paccavekkhaṇa 観察、省察
禅定の弱点もよく観察する。
これで、禅定に対して起こる強力な執着(欲)が消える。
日常生活での欲はlobha、禅定に対しての欲は、nikanti
このnikantiを捨てられると第二禅定を作ることができる。
第一禅定から成長するためには、このnikantiを捨て、五自在をして、成長の可能性を探り、現状の欠点を認識することで、第二禅定以降を作ることができる。
言葉を回転させることで禅定を得ることができると思っている者が言語を繰り返さないで禅定が得られるはずだと瞑想を続けることで、第二禅定を作ることができる。
言葉で考えなくても、何かものを見たらすぐに一体になるということが第二禅定である。
何かを見たら何も頭に浮かばない状態で、これは我を忘れてしまうことなので、たとえば車の運転などのように現代文明での日常生活では危ないものと判断される。
また、非想非非想処定を作ったとしても、五自在をして欠点をチェックしなければ、成長はそこで止まり、ヴィパッサナー瞑想をすることがなくなってしまう。
五禅支
・尋(じん):vitakka(ヴィタカ)⇒ニミッタに心を向ける。ニミッタに何度も何度も入ることのできる心。
・伺(し):vicaara(ヴィカラ)⇒ニミッタに向けた心を保つ心、支える心。
・喜(き):piti(ピティ)⇒喜びの心。
・楽(らく):sukha(スカ)⇒身体的な楽。
・一境性(いっきょうせい):ekaggata(エカーガッター)⇒一体感。
第一禅定paṭhama-jhāna尋、伺、喜、楽、一境性と共にある
諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、喜・楽と共にある状態
第二禅定dutiya-jhāna 喜、楽、一境性と共にある
言葉による思考を捨てることで、尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態
第三禅定tatiya-jhāna 喜、楽、一境性と共にある
喜を捨し、喜pītiがなくても正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。
第四禅定catuttha-jhāna 楽、一境性と共にある
楽が止み、一切のvedanāが捨てられた不苦不楽の状態。
段階
色界の禅 (Rupajhana)
|
||||
四禅 |
初禅 |
第二禅 |
第三禅 |
第四禅 |
諸欲(Kāma) / 不善(Akusala) (性欲・拙劣な資質) |
隔れ、離脱する |
離れている |
離れている |
離れている |
尋(Vitakka)(認識対象把握) |
ジャーナに従う |
静止する |
離れている |
離れている |
伺(Vicāra)(認識対象維持) |
||||
喜(Pīti) (喜悦) |
静まり、体に浸透する |
サマーディが発生し |
消え去っている |
離れている |
楽(Sukha) (安楽) |
物理的に体へと |
放棄されている |
||
Upekkhāsatipārisuddhi (純粋、マインドフルな平静) |
離れている |
内面の安息を経て |
平静でマインドフル |
マインドフル |
上座部仏教や大乗仏教は、共に、その教義の基礎の多くを「アビダルマ(論書)」に置いています。
そして両方共に、「止観」という瞑想を説明する場合は、最初に「寂止」を修することで煩悩の働きを静め、
心をクリアー(水が澄んだような状態)にしてから、諸法を如実に観察する「正観」を行うことを説いています。
その結果、上座部仏教では、自然界の「真実相(無常・苦・無我)」を証得して、遠離 ・離貪・解脱・涅槃に至り、
大乗仏教では、「諸法実相(縁起=空)」を悟ることで、諸々の煩悩を滅することが出来るとされています。
しかし、経典の説明では、その順序が、「逆」です。
まず、最初に「寂止」ではなく、「四念処」という「正観(有尋有伺定・無尋有伺定)」の修行によって、
「五蓋」を滅して「有尋有伺定」の究竟(最高の状態)である「第一禅定」に到達することが説かれています。
そして、その後で、「尋と伺」が静まる(寂止する)ことで、それに依って成立してた「喜びや楽」も消えて、
それとは異なった、心の安定より生じる「喜びと楽」のある「第二禅定」へと移行します。
換言すると、
「第一禅定」では、「(尋と伺に依って生起した)遠離から生じる喜びと楽のある状態」なのに対して、
「第二禅定」では、「(尋と伺の無い)心の安定より生じる喜びと楽のある状態」へと変化するのです。
【第三禅定】
第三禅定では「喜:piti」が抜けて「楽:sukha」と「一境性:ekaggata」が残るように練習をします。
「喜:piti」はニミッタに見て「喜んでいる」状態で、心は微妙に揺れています。
そこで、より安定した心にするために「喜:piti」を抜ける必要があります。この段階では「喜:piti」を抜ける練習をしていきます。
ある人は第三禅定の心地よさにとらわれてしまい「このままでいたい」「これが好ましい」という感覚が生まれてきて、ここにとどまってしまう方も少なくありません。第三禅定は、「楽」「一境性」の心しかないからです。
第三禅定は、世の中で得られる楽しさや快楽をはるかに超えていて(世間では得られない楽しさが得られているため)、第三禅定の快楽よりも優れた楽しみは無い、これ以上の楽しみは無いと思ってしまいます。
ですので、第三禅定から抜けられずに、ここにとどまってしまう人が多くなってしまいます。そうして第三禅定でも五自在の練習をします。
【第四禅定】
第四禅定は最高のサマーディになり、「捨:upekkh」と「一境性:ekaggata」になります。第四禅定では「楽:sukha」が抜けて、「捨:upekkh」の感覚が強くなります。
第三禅定では、ニミッタに対して「楽:sukha」の一体感がありますが、第四禅定では、無視したような感じになって(捨)、ニミッタとの一体感(一境性)があります。
ですので、第四禅定は、「捨:upekkh」と「一境性:ekaggata」のみの心ということになります。
第四禅定は、もっとも集中力が強く、深まっている状態です。
第四禅定に入っている人を見ると、体の動きはありませんし、地面の上に石を乗せたような状態で動きがなく、心も体の状態も安定しています。集中力が深まっていない人は、体があちこに動いたり、痛くなったりします。
パーリ語経典長部『沙門果経』では、王に仏教の比丘(沙門)の果報を問われた釈迦が、まず戒律の果報を説き、次にこの四禅の果報を説き、最後に六神通を説いた 出典?。
パーリ語経典長部『大般涅槃経』では、釈迦の入滅の様子が、「初禅から滅想受まで、「九次第定」を段々と上がって行き、そこから初禅まで段々と下って行き、そこから再び四禅まで上がったところで入滅した」と描写されており、第四禅定をして涅槃とする根拠とされた。同経には釈迦が涅槃に入る前に座禅したとは説かれておらず、涅槃図は一般に右手を枕にして横になる姿勢で表わされる。なお、色界の次を無色界と呼ぶ[要出典]。
四つの禅定 パオ・セヤドー
心臓にある強い光
今回の法話では、第一禅定から、第四禅定に到るまでの過程を説明したいと思います。前回説明した七覚支もこの話に絡んできます。
第一禅定の対象は、集中が深まっていくにつれて現れてくるアナパナニミッタです。ニミッタはその強さによって三段階あり、最後はパティパーガ・ニミッタ(浄亮光)というクリアな光を放つニミッタが現れてきます。アナパナではずっと呼吸を対象として集中しますが、ここでその対象を呼吸からニミッタに移します。するとニミッタに心がスーッと沈んでいくような状態になり、この没入状態を第一禅定といいます。
ここで、禅定(ジャーナ)を支える、五つの要素である禅支(ジャーナファクター)について説明します。第一禅定に入れる状態が、2時間、3時間と増えて禅定が安定していき、三日間くらい、毎日禅定に入れるようになると、とても安定した禅定をつくれるようになります。
さて、どのように五つの禅支を観ていくのでしょうか。まず、一時間ほど、深い禅定状態に入ります。禅定状態にあると、物事を分析することができないので、一旦そこから出ます。そして、バーバンガ(Bhavanga有分心)というものを見ていきます。有分心(バーバンガ)とは、心臓の真ん中の辺りに心を向けると存在している、とても光溢れるものです。有分心について、ここで正確に理解することは難しいので、これはメタファー(隠喩)としてとらえましょう。アビダンマに詳しい説明があります。とにかく、一旦禅定状態から出て、心臓の真ん中にとても強い光があるということを確認します。
なぜとても強い光が見えるのでしょうか。非常に強い禅定状態になると、チッタジャーカラーパという、心が生み出すカラーパ(微細な粒子)が体全体に広がっていきます。カラーパには、8つの要素があります。このときは、その中の色の要素がとても強いのです。また、8つの物質エネルギーのうちの1つに火の要素(テージョ)がありますが、その要素から、次のカラーパが生まれてきます。そうやって新しく生まれてきたカラーパの色も輝いています。
心から生まれたカラーパと、火から生まれたカラーパ、両方がとても輝いているので、光となって現れるのです。それが光の正体であり、有分心(バーバンガ)というのは、とても輝いています。
心の門(意門)というものがあり、これは心臓のところにある鏡のようなものと理解してください。アナパナを深めていき、呼吸に集中していますので、鼻のところに強いアナパナニミッタが現れ、光が現れます。心臓のところに鏡があるので、そこにもう1つの光が現れるように見えるのです。
禅定を支える五つの要素
さて、第一禅定を支える五つの要素を見ていきましょう。まず、ヴィタッカ(vitakka、尋)という、常にどこかへ飛んでいってしまう心をいつも集中対象である呼吸に戻してくる要素があります。二番目はヴィチャーラ(viccara、伺)という要素で、戻ってきた心を常に対象に留めておく働きです。三番目はピティ(piti、喜)という、パティバーガ・ニミッタを観ることに対する喜びの要素です。四番目はスカ(sukha、楽)という、幸せの要素です。五番目はエーカガター(ekka gata)という1つの対象に集中していて心が散漫にならない要素です。一境性とも言います。
これらの五つが禅定に入った心の中に強く存在しています。さて、鼻のところにアナパナ・ニミッタがあり、心臓のところに有分心(バーバンガ)があります。まず長時間の禅定状態に入って、一旦そこから出て、有分心のほうを見ます。そこが今、意門という、心の要素を感じる部分になっています。そしてそこに現れている五つの禅支を見るのですが、素早く見ないと、禅定が壊れて弱くなってしまいます。第一禅定の五つの禅支を観るには、強い禅定状態を保って、そこから一旦出てすぐに心を観て、また禅定に戻るようにします。
まず最初は、五つの禅支を一つ一つ見ることから始めます。禅定状態に深く入ってから出て、パティバーガニミッタを見ながら、同時に有分心(バーバンガ)を見ます。そのとき、ヴィタッカ(尋)という心を対象に戻していく働きが存在していることをはっきりと確認します。そしてまた禅定状態に戻り、10分くらいしたら、また出て、同じ手順でヴィチャーラ(伺)という心を対象につなぎとめていく働きを見ます。
そしてまた禅定状態に10分ほど入ってから出て、ピティという喜びの要素があることを確認します。同じようにして、スカという幸せの要素を見て、エッカーガタという一点集中する一境性の要素を見ます。このようにして五つの禅支を一つ一つ丁寧に確認していきます。そして、それができたら、今度はそれらを同時に見ます。同じようにして禅定から出て、パティパーガニミッタを観ながら意門を観て、五つの要素が同時に存在しているのを観ます。
さて、第一禅定を自在にコントロールできるようにならなくてはなりません。まず、禅定に入っていくときに心をそれに向けていく、意門転向心ができるようにします。次に、禅定に入ってから、ずっと禅定の心を保ち続けることができるようにします。初めて禅定に入った状態ではこれらの区別はできませんので、後になってからやることになります。
五つのコントロールができるようになって初めて、禅定をマスターしたといえます。今挙げた二つと、自分が入ろうと思ったときにいつでも禅定に入れること、出ようと思ったときにいつでも禅定から出られること、そして、禅定に入っている時間を自在にコントロールできること、の五つですね。これらができて、初めて禅定を達成したといえます。そうでない場合は、禅定の成否は偶然に左右されていると言えますね。
第二禅定
さて、第一禅定を達成したら、次に第二、第三禅定へと進みます。なぜ進まなくてはならないのでしょうか。第一禅定には、ある不利な点(Disadvantage)があります。瞑想を妨害する五つの心の障害から離れて、没入状態に入っているのですが、まだ、その障害から完全に離れてはおらず、煩悩の要素が残っているのです。
第一禅定には二つの不利な点があります。一つは、いまだに瞑想を妨害する五つの障碍があることと、二つ目は、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)の禅支がまだあることとです。ヴィタッカの要素は、逸れてしまった心を対象に戻すはたらきであり、ヴィチャーラは心を対象にとどめていく働きで、これら二つがないと心を対象に集中させることはできません。ですが、これらの要素は、少し心を騒がせる性質があるのです。よく観察してみると、心を戻すこと、留めること、これには、暴力的な側面が少しあるということがわかります。これらがある限り、どうしても集中状態は深まっていきません。これらを捨てたときに、より平安な状態になります。それらを捨てて、第二禅定に入ります。
第二禅定に入ると、ヴィタッカ(尋)とヴィチャーラ(伺)の要素がなくなり、ピティ(喜)と、スカ(楽)と、エーカガター(一境性)の要素のみになります。この状態になったときに、どれほど心が平安になるかという利点を見てください。
では、どのようにして第二禅定へ進んでいけばいいのでしょうか。まず、第一禅定における二つの不利な点をよく心で見ます。頭で考えるのではなく、数分間じっと見ます。さて、次にパティバーガニミッタに集中して、深い第一禅定に入ります。そしてそこから出て、強い禅定状態にある、五つの禅支をはっきりと見ます。
そこで、ヴィタッカ(尋)とヴィチャーラ(伺)という二つの要素が心を騒がせる粗いものだと見て、残り三つの要素がもっと平安なものであると見ます。そして、ヴィタッカとヴィチャーラの二つの要素がなくなるように、と決意し、もう一度パティバーガニミッタに集中します。こうして二度目に入った禅定では、二つの要素が落ちていて、もっと平安な第二禅定になっているはずです。ですが、禅定が弱い人の場合にはすんなりと入ることができず、また第一禅定に戻ってしまうこともあります。
第三禅定
さて、つぎに、第三禅定に入っていく課程をお話しします。第二禅定に入れるようになったら、第一禅定と同じように、五つの禅定のコントロール法をマスターし、第二禅定を意のままに操れるようになってください。さて、第二禅定には、まだわずかにヴィタッカとヴィチャーラの要素が残っています。また、ピティという喜びの要素が残っています。ピティとは喜びの要素ですので、感情的なものであり、心を騒がせるものなのです。これがあると、一層の平安な状態には入れません。第三禅定では、スカ(楽)とエーカガター(一境性)の要素だけが残っており、より一層平安な状態になっています。
さて、第三禅定に入る手順です。パティバーガニミッタに集中し、第二禅定に深く深く入ります。そしてそこから出て、有分心(ヴァバンガ)を観て、ピティ(喜)、スカ(楽)、エーカガター(一境性)の三つの要素があるのを確認します。そして、その中でピティ(喜)が粗いものであり、それがなくなることでどれほど平安になるかと見て、ピティの要素がなくなるようにと意志し、決意します。そこでまた禅定に入ると、ピティが落ちて、スカーとエーカガターの要素だけが残った第三禅定に入っています。
第四禅定
さて、次は第四禅定です。まず第一、第二禅定に数分間入った後、第三禅定に深く長く入ります。第三禅定では、「楽」と「一境性」の要素が残っています。例えるなら、「喜」という要素は、喉がカラカラで砂漠をさまよっている時に、オアシスを見つけたような喜びの要素です。そして「楽」は、水を飲み終え、満足しているような幸福の要素です。「楽」は「喜」よりは安定しており、静かな要素なのですが、やはり感情的な要素であって、心をいくぶん騒がせるものなのです。ですから、「楽」もまた不利な点であり、ものごとを完全にニュートラルな視点でとらえる、ウペッカ(捨)という平和で静寂な状態を目指そうと決意します。
どのようにして第四禅定に入るのでしょうか。まず第三禅定に深く入り、そこから一旦出て、今存在している禅支をみます。スカー(楽)とエーカガター(一境性)ですね。そして、「楽」の要素がある限り、心はどうしてもこれ以上深い平安な状態にはならないということを確認し、ウペッカ(捨)という、ものごとの好き嫌いを判断しない、完全な平等性の要素の素晴らしさを見ます。そして、「楽」を捨てようという決意をし、ふたたび禅定に入ると、第四禅定に入ることができます。「一境性」の禅支だけが残り、完全なウペッカ(捨)の状態になっています。第四禅定に入ることができたら、その時間を1時間、2時間と、どんどん長くしていってください。
アナパナを通して入れる禅定では、第四禅定が最も深い禅定です。この禅定にはとても顕著な特徴があります。心身がきわめて平安で静まった状態になるので、この禅定に入っている間は、呼吸が止まっているのです。1時間第四禅定に入っていると、1時間呼吸をしないということです。そういう非常に強烈な特徴があります。第四禅定に入れるようになったら、今までのように、それを自在にコントロールできるようになってください。
40あるサマタ瞑想
さて、瞑想を進めるに当たっての見通しをつけるために、この後どうやって瞑想をしていけばいいのかお話しします。アナパナとは、テーラワーダ仏教の伝統の中で40あるサマタ瞑想のうちのひとつです。アナパナ瞑想が終わったら、他のサマタ瞑想をやります。カシナ瞑想や、無色禅定などを通して、第八禅定まで進みます。また、慈悲の瞑想もやります。しかし、サマタ瞑想はアナパナで十分だという場合は、ここからヴィパッサナー瞑想に移行してもかまいません。そのときは、ヴィパッサナーの前に、四界分別観という瞑想を行います。
アナパナで第四禅定にまで入ると、ニミッタの光がとても強く現れてきます。この智慧の光(Light of Wisdom)によって、ものごとがはっきり見えるようになっています。通常は、アナパナのあと、三十二身分という、人間の体を構成している32の要素を観る瞑想をします。髪の毛、歯、心臓などを、一つづつ見ていきます。まずは自分の体の中にある32の構成要素を観て、次に、外にある他人の32の体の構成要素を観ます。普通は瞑想センターにいる他の人を対象にします。そしてその範囲を全宇宙にまでどんどん広げていきます。このとき動物とか人間といった個別的なものは見えなくなり、32のパーツが存在していることだけが見えます。
パオセヤドーのメソッドでは、次にカシナ瞑想を行います。カシナ瞑想は10ありますが、そのうち、4つが色のカシナです。たとえば、32のパーツのうちの一つである髪の毛を対象とする場合、日本人なら黒髪なので、黒に集中していきます。そうすると、黒い光が現れてきて、それがスーッと全世界を覆っていきます。これが黒のカシナです。
また、32身分のうちの尿を対象に取るなら、黄色い色に集中していきます。すると黄色い光が全世界を覆っていきます。これが黄のカシナです。また、心臓のところに集まる血を対象に取り、赤に集中していくと、赤い光が全世界を覆っていきます。赤のカッシーナですね。そして、頭蓋骨の白さを見て行き、それに集中していくと、ある時点でそれは白い光に変化して、全世界を覆っていきます。白のカシナです。このようにして、三十二身分からカシナ瞑想に移行していきます。
カシナは10あります。今説明した色のカシナが4つと、地水火風の4つと、光と、スペース(空間)です。ですが、4つの色のカシナ瞑想をマスターすれば、残りもすぐにマスターできます。カシナ瞑想の次は、それをもとにして、アルーパジャーナという、無色界禅定に入っていきます。無色界禅定には4つの禅定があるので、色界禅定と合わせて全部で8つの禅定があるということになります。ここまでくれば、それらをマスターするのにそんなに時間はかかりません。
また、カシナ瞑想をちゃんとマスターすれば、慈悲喜捨の四つを対象とする、「慈悲の瞑想」も簡単にマスターできます。
ヴィパッサナー瞑想
このようにしてサマタ瞑想を修行した後、いよいよ四界分別観を媒介にしてに入っていきます。この瞑想で、精神性と物質性の究極の真実を観ていきます。そして、無常、苦、無我を観て行くのです。究極の精神的、物質的世界の現実を観ると、それが常に生じては滅しているということがダイレクトに見えてきます。それが無常であり、すべてはそのようにして留まることなく流れています。ものごとは永続せず、常に生滅しており、確固として安定しているものはないので、苦(ドゥッカ)です。生じ滅しているものは、何の実体も持っていないので、無我です。これら三つを見ることで、この世界の真実のありようが明らかになってきます。
こうして無常、苦、無我を観ている心の中に、前回お話した七覚支が存在しています。まず、究極の物質性、精神性と因果関係に気づき続けているということで、念覚支が存在しています。
世界が無常、苦、無我の組み合わせで成り立っているということを詳しく観ていくことで、択法覚支が存在しています。無常、苦、無我という観点から世界の構成を見ていこうという努力をしているということで、精進覚支が存在しています。無常、苦、無我というものを観ていたら、気が沈んでいくのではないかと思われるかもしれませんが、そうではなく、このときは喜びが生じてくるのです。それが喜覚支、ピティです。
こうして無常、苦、無我の三つを観ていくときに、とても心が静まっていきます。そのように静また心のあり方を軽安覚支といいます。無常、苦、無我の三つのものがあるということに集中していく心のあり方が、定覚支の要素です。最後に、この世のすべてのものは無常、苦、無我であるということを観て、すべての執着を乗り越えているのが、捨覚支、ウペッカーの要素です。
悟りの要素であるこれらの七覚支を育てていき、確固たるものとしていくことで、道智、果智という悟りを得ます。ニッバーナ(涅槃)を対象とするヴィパッサナーの最終段階の悟りに到るまで、七覚支を深く養っていくことです。
七覚支には、マンデーンという世間的なものと、スープラマンデーンという出世間的なものがあります。前者は、禅定状態のときと、ヴィパッサナーの洞察のときに存在しています。後者の七覚支は、ヴィパッサナーの最終段階において現れます。道智、果智、ニッバーナを対象としている悟りの心の中に、出世間的な七覚支があるのです。
今日はここまでにしましょう。
サードゥ サードゥ サードゥ
禅定の9段階
四禅(四静慮)の後に、四無色Arūpajhānaがある。
物質の繋縛を離れ、物質を滅した境涯であるから無色という。
空無辺処定(ākāśa-ānantya-āyatana)物質的存在がなくただ場としてのみの空間の無限性をさとる修行の境地
識無辺処定 阿頼耶識を含む心識が無辺であると観じる境地
無所有処定 何ものもそこに存在しないという体験の境地に到達するための禅定
悲想非非想処定 一切無所有想をも超越して、想があるのでもなく、ないのでもない という境界
四禅と四無色定の上に、滅尽定(nirodha-samāpatti)
すなわち、想受滅定(saññā-vedayita-nirodha-samāpatti)があり、九次第定と呼ばれる。
無心定(無想定と滅尽定)および九次次第
無心定には、無想定と滅尽定とがあり、いずれも心・心所を全く滅する定である。
滅尽の九定は、異心をまじえずに次第を追って順次に修得するときは九次次第、無間禅と名付けられる。
無想定は、凡夫や外道が無想の状態を真の悟りと誤認して修めるものであるが、
滅尽定は、聖者がその定の境地を無余涅槃界の静けさになぞらえて修めるものである。
無想定では、第四の禅定にもとづき知覚の粗いはたらきがなくなり、
滅尽定(nirodha-samāpatti)では、有頂天にもとづき心と心所法は決められた間において止滅する。
九次第定とは、パーリ語仏典では9つの定を置く形で説明が保たれており、
第一禅定、第二禅定、第三禅定、第四禅定、空無辺処(定)、識無辺処(定)、無所有処(定)、非想非非想処(定)、想受滅となり、この最後だけが釈迦が初めて到達した仏教に特徴的な定だとされる。
大般涅槃経では、釈迦は入滅にさいして第一禅定と想受滅のあいだを上下し、第四禅定から出定したのち般涅槃に入ったとされている。
藤本晃は、滅尽定は煩悩を滅して心を完全に清らかにした阿羅漢でなければできない禅定であり、凡夫の禅定者にとっては非想非非想処定が最高の境地であると述べている。
禅定の安止
#16 jhāna-vīthi, magga-vīthi 禅の路、道の路
Appanā-javana-vāre pana vibhūtāvibhūta-bhedo
natthi.
Tathā tadārammaṇuppādo
ca.
一方、安止の速行の仕方では、明瞭と不明瞭の区別はない。
またそこでは、彼所縁は生まれない。
bhedo:Breaking; rending; division; disunion; breach,schism; sort,kind
光の対象が見えたとしてもまだ次元を破ったとは限らない。
一体感が生まれて、これまで意識で認識していたのが、意識することもなく自動的に動く瞬間があり、自分でなにもしようとすることなく、ただ認識が流れていく。
ただ心が流れている。
そのような一体感のような、自分の意識が消えてしまう瞬間が次元を破った一つの証である。
Tattha hi ñāṇa-sampayutta-kāmāvacara-javanānam
aṭṭhannaṃ aññatarasmiṃ parikammopacārānuloma
-gotrabhū-nāmena catukkhattuṃ tikkhattum
eva vā yathākkamaṃ uppajjitvā
niruddhānantaram eva yathārahaṃ
catutthaṃ
pañcamaṃ
vā chabbīsati mahaggata-lokuttara-javanesu
yathābhinīhāra-vasena
yaṃ
kiñci javanaṃ appanā-vīthim
otarati. Tato paraṃ appanāvasāne
bhavaṅga-pāto
va hoti.
その場合には、智相応欲界速行心8つの中のどれか一つが遍作、近行、随順、種姓という名前で4回、ないし3回、順次に生まれて、滅するとその直後に、つまり5回目、あるいは4回目に、大心と出世間心の速行心26の中のどれかの速行心が導引力によって安止の心路に入る。その後、安止が終わったら、有分に落ちる。
aññatara:a. [añña他other の比較級] 隨一,二者の一,或る.
appanā-vīthi 安止の心路
遍作parikamma
準備という意味 あまねくよく準備している
近行upacārā
近寄るという意味 禅定に近寄る、似ている心
upaそこら辺 cārā歩いている 中に入ったわけではないこと
強引に瞑想している状態で、サマーディの味をまだ味わっていない。
随順anuloma
ほとんど似ているという意味 禅定サマーディにピッタリ付き従っている
種姓gotrabhū
gotra家族・家系、bhūなりました、生まれたという意味で、「家系になった」
次元を超えた世界の住人になったという意味。
gotrabhūの心が生まれたら、次の速行心は必ず禅定心になる。
しかし、これはまだ欲界善心の心で、色界のものではない。
安止定appanā-samādhi
本物の禅定心 サマーディに入って、安定して、そこに止まっている状態の心
appanā:f. [Sk. arpaṇa. cf. appeti] 安止,根本定
近行upacārāと安止定appanā-samādhiの混同
近行の結果として、心が清らかになり、なかなか怒ることも欲が生まれることもなく、落ち着いた状態になるため、。多くの修行者が近行で「これでいい」と満足して修行を止めてしまう。
近行では先が見えないため、先を見ようとはせず、それで安心してしまうため
安止定は、心の何かが切れて「破った」という認識があり、次元を破って上に飛んだという経験がある。
膜を破って飛び出し、もう元には戻らない状態を経験する。
安止速行の法則
禅定安止の法則
#24 appanā-javana 安止速行
ādikammikassa pana paṭhamakappanāyaṃ mahaggata-javanāni
abhiññā-javanāni ca sabbadā
pi ekavāram eva javanti. Tato paraṃ bhavaṅga-pāto
一方、初めて人が最初に得達する時は、大界の速行心と神通の速行心は、いつでも1回だけ速行する。
その後、有分に落ちる。
ādikammika:[m.] beginner
paṭhamako:First,previous
appanā:f. 安止
禅定に慣れると安止速行心がずっと続く
初めての禅定では1回しか禅定の心が生まれないが、次からは延ばすことができる。
すると速行心は7つという法則も変わり、1つの心路の中で、100でも200でも連続して生まれる可能性もある。
Cattāro pana magguppādā
ekacittakkhaṇikā.
Tato paraṃ
dve tīṇi phala-cittāni
yahtārahaṃ
uppajjanti. Tato paraṃ bhavaṅga-pāto.
また、4つの道心が生じるときは、1心刹那生じる。その後、2,3回、果心が適宜に生じ、それから有分に落ちる。
参考資料
禅定は九段階 藤本晃(慈照) 文学博士・誓教寺住職
ではその禅定とは、どんなものでしょうか?どれだけの段階があるのでしょうか?
禅定は全部で九段階に分けられています。それは三つのグループに細分できます。一つ目は四つのグループ。二つ目も四つのグループ。三つ目が、一つだけ異色のものです。
最初の四つのグループは「色界四禅」と呼ばれます。色界とは、世界を欲界・色界・無色界の三つに分ける時の色界です。五道輪廻の地獄から六種類の天(六欲天)までが欲界。欲界の天よりレベルの高い世界に梵天があり、それがさらに色界梵天と無色界梵天に分けられます。でも梵天も輪廻の境涯です。存在すること自体が輪廻なのです。
欲界は、眼耳鼻舌身の五つの感覚器官から入る情報や物質的な感覚を楽しんだり苦しんだりする世界です。テレビを見て楽しんだり食事を味わって楽しんだり殴られて苦しむ世界です。
色界は、身体を作る物質や物質を成り立たせる空間はあるのですが、その物質自体が物質と言うよりもエネルギー状態みたいな余りにも精妙なもので、しかもそこに住む色界梵天たちはその物質から情報を受け取って楽しむのではなく、禅定状態を作るのに物質というか対象に集中しているだけという世界です。人界と欲界天には普通の善業で往けますが、梵天界には禅定に入らないと往けません。それで禅定自体も「色界」禅定と呼んだりします。その色界の禅定に四段階あります。
無色界には、身体も瞑想の対象になる物質さえもありません。ただ心だけの存在が空間もない状態で何も対象とせず、心だけで瞑想状態でいます。これにも四段階あります。この瞑想状態を「無色界」禅定などと呼びます。
より厳密に言えば、何かを対象にして禅定を作る色界禅定は、心を対象に集中させて、定めて、静めていますので色界「禅(jhāna)」と呼びますが、無色界には心を集中させる対象・物質がありませんから、心がただ「至った」「達した」状態という意味で無色界「等至(samāpatti)」と言って区別しています。
色界禅は四つ
色界四禅は、名前で内容が分かるようになってはいません。第一禅から第四禅まで、ただ数字で表しているだけです。ただし内容は、きちんと明確に説かれています。誰がどんなふうにやっても、もし禅定に入れたなら第一番目ではこうなります、第二番目ではこうなります、と釈尊が目印を付けておいて下さったのです。禅定の各段階で、必ずそういう状態になります。ですから、釈尊が第三禅をお話しされた時、その内容を聞いてそれが自分たちの達した最高ギリギリのあの禅定のことだと分かった仏教外の瞑想家たちが、それが実は最高の悟りではないと知らされて嘆いたのです。
誰がどんなふうにやっても同じ段階の禅定に入れば同じ内容を体験しますが、実は禅定に入る時から既に、心の状態は同じパターンになっています。
簡単に言えば二つのことがなくなって、色界第一禅に入ります。
一つは日常の世間的なこと・欲界への執着がなくなること、
二つ目は悪いことから離れることです。
心を何か一点の対象に集中させて、日常の欲と悪から切り離すと、色界第一禅に入るのです。
第一禅は、言葉による思考と言葉によらない思考がある(有尋・有伺 savitakkaṃ savicāram)、あらゆる関わりから離れること(遠離 viveka )で生じる喜悦感(pīti) と幸福感(sukha)に満ちた状態です。
これはまだ、禅定と言うよりは、一点に集中して欲や悪などあらゆる関わりから無理やり離れて生じた楽の体験というようなものです。それでも、欲界の煩わしさから完全に離れられた状態は、明らかに喜び、幸福です。第一禅の最中では思考はまだはたらいています。
第二禅は、言葉によるものとよらないものの二種類の思考(尋・伺)が消えることにより内(心)が穏やかになり、心が統一され、無尋・無伺の三昧(samādhi)から生じる喜悦感と幸福感に満ちた禅定です。
必死で一点に集中しなくても既に心は統一されていますので、この段階からは本当にリラックスできます。ここで初めて思考作用がなくなります。第一禅の「離れることで生じる」喜悦・幸福に対して、ここでは「三昧(samādhi)から生じる」喜悦・幸福に満ちると言われるように、厳密に言えば第二禅でやっと、心が禅定(サマーディ)状態に入っているのです。
ところで、思考作用がはたらいていないのにどうしてその禅定の中身が分かるのでしょうか、説明できるのでしょうか?禅定の最中は確かにただそれを体験しているだけで、何の説明も思考も心に起こってはいないのですが、その禅定から出て日常の欲界の心に戻った後で、その時の禅定状態の心を振り返って、思考と言葉で説明しているのです。体験が先にあり、それについての思考が後からついてくるのです。
第三禅は、喜悦感と幸福感の内、喜悦感から離れることから、平安(upekhako)であり、気づきと味わいがあり(sato ca sampajāno)、幸福感を身体で感じ、聖者たちが「平安で、気づきを具えて幸福でいる」と語る禅定です。
ここでは、心が統一されている禅定の喜びさえもなくなり、ただ平安の幸福感だけを感じています。ウキウキする気分が治まって、落ち着いた幸福感だけになるのです。しかも気づきと味わい(sati,sampajāna サティ・サンパジャーナ)はますます冴え、心は澄み渡っています。この状態を、禅定を嗜んでいた仏教外の人々も「平安で云々」と言っていたのです。
第四禅は幸福感を無くし、苦を無くし、また既に喜びと憂いが消えていることより、不苦不楽の、清らかな平安に(のみ)気づきがある (upekhāsatipārisuddhim)禅定です。
喜悦と幸福の内、残っていた落ち着いた感じ・幸福感さえなくなりますと、幸福でなくなるのではなく、それどころか「苦」がなくなります。この「苦」は私たちが欲界で通常味わう苦ではなく、色界禅定の最中にさえ感じる、対象と触れて生じる喜悦感や幸福感などの心の揺れ動きのことです。禅定が進むと、この最高の幸福感さえ煩わしいと感じられるのです。それがこの第四禅で消えるのです。禅定から生まれる喜びも、禅定に関して生じる様々な憂いも、色界最高の禅定に達して既に消えていますから、不苦不楽の平安だけを気づき味わうのです。
何かの対象に触れても心の揺らぎが起こらない、喜悦感も幸福感さえもなくした平安状態の禅定が、対象を取る色界四禅の最高の状態です。禅定をこのレベルまで達してから、釈尊は最高の阿羅漢果に達しました。同様に色界第四禅から悟りを開いたお弟子さんたちの話も、お経にたくさん残っています。
無色界等至は四つ
平等・平安の悟りの方向ではなく、禅定をさらに進もうとするなら、色界を超えて、何も対象を取らない無色界等至に進むしかありません。
五番目に、対象に対する意識(rūpasaññā)を完全に超え、(対象に)触れるという意識(patighasaññā)をなくし、あれこれ定まらずに意識することも止めて、「虚空は無辺である」という空無辺処に達します。
この五番目からが無色界の禅定・無色界等至 (samāpatti)です。喜悦感も幸福感もなくなり、ただ平安だけを気づき味わう色界第四禅の段階から、心が何かに触れることさえなくして、ただ、虚空が限りないという心の状態に到達します。壁などで仕切った「空間」ではなく、遮る「もの」が本当に何もない「虚空」だけが限りない、何にも対象にぶつからない心の状態です。
六番目に、空無辺処を完全に超え、「識は無辺である」という識無辺処に達します。
「物質対象に何にも触れない、触れない」と外に心を向けていた空無辺処から、逆に心そのものに心を向けて、心自体が、何にも遮られることのない、限りないものだと、対象に触れず、ほとんど揺れ動きもしない心だけを、ただ味わいます。
七番目に、識無辺処を完全に超え、「何もない(空)」という無所有処に達します。 心だけ、ということさえ意識しない「何もない」状態の禅定です。
八番目に、無所有処を完全に超え、非想非非想処に達します。
何も意識しない心さえなくしてみようと、意識はおろか、意識しようとする衝動「想(saññā)」さえ起こさせない、でもそれさえも完全に起こらないのは心自体が滅することでちょっと不可能で、実際には想が起こるのか起こらないのか分からないほど微かにして、もちろん意識などは全く起こらない状態にまで達します。
世俗的に言えば仮死状態のような、意識しようとする衝動さえ起こさないよう抑えられている禅定が、この、色界禅定を超えた無色界等至の最高の状態です。
このように始めは何かの対象を通して四段階、次に心だけで四段階、心を制御する禅定が、合計八種類あります。
苦も楽も感じないのが究極の楽?
八種類の禅定を駆け足で見てきましたが、何だか変な話ではないかとお思いになったでしょうか?禅定に入ってこーんな楽しいことやあーんな嬉しいことが味わえるのではないかと期待していたのに、第一禅定の最初っから、いきなり世間の楽しみを全部離れないといけないなんて、がっかりなさいませんでしたか?
しかもその後も、禅定の段階が一つずつ上がる度に、何かポイントとかご褒美とかが一つずつ貯まるのではなく、それどころか全く逆に、思考作用が消える、喜悦感が消える、幸福感が消えるなどと、一つずつ、感覚がどんどん消えていくのです。無感覚で無感動で、それで何か面白いのでしょうか?
これは実際にその段階に達した人だけに分かることですが、禅定に入ると、欲界世間の楽しみは確かに煩わしいものだと感じられるそうです。卑近な例で申し訳ありませんが、何の物音も聞こえない山奥の湖畔に佇むと、一流ホテルでのパーティの華やかさが煩わしく思い出されるようなものです。苦はもとより楽さえも、しっかり観察して味わうと、「苦に他ならない。捨てるべきものだ」と分かるそうです。
そんなわけで、禅定の段階が上がる度に、味わうものが一つずつ消されていくのです。究極の禅定は、想自体さえ、はたらいているかいないか分からないほどの、何ものにもほとんど触れない「楽」です。
色界四つと無色界四つの八種類の禅定は、釈尊より前から知られていました。釈尊は無色界等至の最後の二つ、七番目と八番目を、出家してすぐに習い、すぐに修得したのでした。それでも、その禅定から出ればまた元通りの心の状態に戻るのです。釈尊は、これら八つの禅定全てを、「現世で楽しむためだけのものだ、執着するな」と、教えておられます。
その一方で、禅定に入れるほど心を集中できるなら、心の力が強いなら、それだけ早く、簡単に、悟りの各段階に達することができるのも事実です。禅定を楽しむだけでは欲が増えるだけで悟りはかえって遠退きますけど、禅定に入れるほどの集中力で観(ヴィパッサナー)瞑想をして、全てのものごとの絶え間ない生滅変化・無常をありのままに捉えられたら、悟りはとってもスムーズに達せられるのです。禅定は、悟りの助けのためには大変有効な修行です。
滅尽定は悟りの体験
最後に九番目の禅定を説明しないといけません。これだけは、今の世界では釈尊より前には誰にも達せられていませんでした。想受滅とか滅尽定などと呼ばれていて、想がはたらいているかどうかも分からない非想非非想処からさらに進んで、想で全ての触れることの滅を感受して、それでお終いになるのです。後は滅だけで、想もない状態です。全ての感受を断ち切った、究極の「楽」です。
お経では簡単に、他の無色界等至と同様に「非想非非想処を完全に超え、想受滅に達します」とだけ説かれますが、実はこれができるのは、完全に悟って阿羅漢になった人だけです。最初の八つの禅定は感受を減らしていくもので、悟っていない人でも瞑想の達人なら達せられるものですが、この九番目の想受滅だけは、減らすだけでなく、滅するという、レベルの違うことをするのです。
まず悟りを開いて、その人が禅定も得意なら、色界四禅から無色界四等至を経て感受を減らして減らして、最後にレベルを乗り越えて、この九番目の滅の禅定に達することができるのです。感受を完全に滅する想受滅は、「全てのものごと・現象が無常であり、絶え間ない生滅の繰り返しに過ぎない」と自分の力で発見し悟りを開いた阿羅漢、「滅」を自ら捉えた人にしかできないのです。
九番目の想受滅は、瞑想とか禅定という言い方が当てはまるかどうかさえちょっと分からない、悟りの追体験なのです。何も感受しない、本当に滅の状態です。意識はもちろん、意識したいという衝動・想さえなくして、想によって何かが感受されることさえ滅した状態です。
悟った人は最長七日間、想受滅の状態のままで居続けられるそうです。想受滅の間は何の心のはたらきもありませんから、その最中にそろそろ出定しようかなどと考えることもできません。どのくらいの時間想受滅に入っているか、いつ想受滅から出定するか、想受滅に入る前に予め決めておきます。時間が来たら、レンジでチーンとするみたいに自動的に心がはたらき始めて、また欲界の日常の心にまで戻るのです。
想受滅では心の状態に連動して、身体のはたらきもその間ほとんど止まります。飲食や排泄はもちろん、呼吸さえほぼなく、細胞の活動自体がほぼ完全に休止します。身体に絶え間なく起こるはずの活動・変化がほとんど起こりませんので、硬いお地蔵さんのような状態になります。「時間よ止まれ!」などと言ってヒーローが活躍する時は、止まった人々や動物や落ちかけのお皿などが全部カチンカチンに固まって止まっているように描かれていますが、あんな感じです。実際には時間なんかはなく、絶え間なく連続する「変化」があるのですが、その変化がほとんど起こらない身体は、カチンカチンなのです。
樹下で想受滅に入っていたあるお坊様を見た町の人が、そのお坊様が亡くなったのだと思い込んで火葬にしようとして、動かない身体の周りに薪を積んで一昼夜燃やし、翌日骨を拾いに行ってみたら、ちょうど想受滅から出定したお坊様が身体に付いた薪の灰を払い落としているところに出くわして腰を抜かしたという出来事がお経に記録されています。
想受滅まで達せられると、悟りもOK、禅定もOKで、言うことなしになります。
言葉を使ってものごとをいつもばらばらに捉えているという意識状態をやめる手続きとして、言葉を使うことをやめてしまう「禅定」という方法があります。
坐禅・禅定をしていきますと、言葉を使って意識が分別している、「あれはあれ、これはこれ」という気持ち、自分と外の世界が分かれているという意識は全くなくなってしまって、しかし、はっきり覚めていて、気絶しているわけでも、ぼんやりしているわけでも、眠っているわけでもないという心の状態になれます。そうすると、「自分と他が分かれていない世界の方が本当の世界だな」という体験ができてくるわけです。
そういう無分別の体験は、体験したらそれでおしまいではなくて、まさに習気というか、薫習というか、種子というか、現代的にいえば記憶というか、必ず記憶される。どこに記憶されるかといえば、唯識的にいうと、「アーラヤ識」に記憶されるわけです。そして、記憶されたものは、やがていつか思い出されるわけです。
tammada https://tammada.hatenablog.com/
第四禅定回想録2021-03-14
瞑想をしている人はたくさんおられるようですが、禅定体験について書かれている文章に出合ったことがありません。禅定、特に四禅は、経験した人が少ないからと思います。
四禅になったらどのような感覚なのか書いておくことは、これから体験する人のため、あるいは過去に、何かわからない奇妙な心の体験をした方が、自分の体験と比較して見るために参考になると考え、一度詳しく書いておきたいと思います。
タイで阿羅漢と噂されている数人の方のお寺のサイトで、阿羅漢になった時の話を読んだことがありますが、「阿羅漢になった」時の状態は四禅ではないかと感じるのばかりだったので、前もって四禅の状態を知っておけば、四禅を「阿羅漢になった」と誤解しないで済むからです。
そして「いつか、そのうち」と思っている間に何年も経ってしまい、書き残せる状態でなくなってしまうかも知れないので、
ブッダは四つの禅定について、簡単に説明されています。私もそうでしたが、ほとんどの人は、読んだだけでは、意味が良く分からないと思います。私自身も、繰り返しこの文章を読んでいながら、自分自身の奇妙な体験が四禅だったと気づくまでに、十年くらいの時間が掛かったからです。
初めに、四つの禅定のブッダの説明は次のようです。
『この場合の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタッカ(継続して考えること)とヴィチャーラ(その感情から離れないこと)、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達します。
ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、心の内面を明るくする二禅に到達し、常にその感覚の中にいます。
喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚(常自覚)があり、そして名身namarupa?で幸福を味わい、当然、聖人の方々が「この定に到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。
幸福と苦とを捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます』。
日記をつけていないので詳しい日時は分かりませんが、私が四禅に到達するプロセスに至ったのは、1999年の11月頃のことです。その一年半くらい前にチャヤサロー比丘の「心の友」を読んで(翻訳して)、四念処のような実践を、始めていました。「心は空のような物で、考えは鳥や雲などの飛行物体のような物」と見て、常に心の中を観察し、考えが生じたら、それは何か、喜びか、悲しみか、怒りか、それとも迷いか判断し、それを見分けたら、すぐにその考えを捨てる、というような実践でした。
cf. チャヤサロー比丘は、1958年生まれのイギリス人で、アーチャン・チャーのお弟子さんです。しかし法話を読むと、ターン・プッタタート比丘の本を読まれていることが分かります。以前はウボンラーチャタニー県にあるナナチャート寺の住職でしたが、現在は庵で閑居しておられるようです。
「真実の愛」は、イギリス人の少年がどのようにして仏教に出合ったかという体験談的法話です。
そのように実践する努力を継続していると、すぐに習慣になりました。そして1999年の10月頃、その時、タンマタート著「初心者のための仏教」の二部と、初めてのプッタタート比丘の本「幸福について」を順に訳していましたが、翻訳している間中、一字一句が心に響いて、感動というより、もっと深く、もっと濃やかな喜びを感じました。言葉で表せない種類のものですが、無理やり言葉にすれば、心の深奥が戦慄するような喜びでした。後にブッダの言葉を学ぶようになって知ると、これが「一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの」と言われている「喜悦と幸福」と分かりました。
cf. http://buddhadasa.hahaue.com/index.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88
プッタタート比丘は1906年は、午年7月7日に当たる5月27日、夫シエン パーニットと妻クルアンの子として、当時タイのチャイヤー県庁があったプムリエンの中心街で生れる。
その頃、これも記録がないので何日と確定できませんが、夫が「従業員から仲人を頼まれた」と言いました。
当時、非常に夫を嫌っていて、何度離婚話をしても応じない夫に愛想が尽きていて、可能な限り顔を会わさない暮らしをしていました。親戚の冠婚葬祭だけは、仕方なく行動を共にしましたが、他人の仲人まで引き受けられると、挙式の日一日、一緒に行動しなければならないのが苦痛で、「何度言ったら分かるのよ! もう二度と引き受けないでと言っているでしょ!」と怒りが爆発しました。
しかしその日、心の中でいつもの反応がなく、「夫も断れなかったのだろう」という思いが浮かびました。そしてそれほど嫌でなく感ました。夫を嫌っていない感覚は、自分でも驚きました。この時が『聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する』と言われている三禅だと思います。何があっても平然としていられます。
結婚式はその一週間か十日くらい後でした。その日は朝から晩まで行動を共にしましたが、それまで目にするのが死ぬほど嫌だった夫の色んな行動を見ても、何とも感じませんでした。自分の目は、ただ状況を捉えるドキュメント・カメラのようだと感じました。「私の夫」と感じなかったからです。
それから翌年の4月まで、四禅の状態は続きました。当時は手帳を日記代わりに、その日の出来事、記録すべきことをメモしていましたが、不思議なことに、その年の2月から空白になっていて、支出のメモも、10月上旬までで終わっています。そして翌2000年は、何十年も使用していた手帳も買っていません。これは「時が止まってしまっていた」と見ることもできます。支出の記録を止めたのは、自分のお金という感覚がなくなり、管理する意味も消えたからと見えます。
当時のことで覚えているのは、見慣れた家の周囲の景色が、非常に美しく見えました。空気中の埃を全部除去して、家の屋根や森の木々など、すべてを水で洗い、自分の網膜の埃も最大限に除去したように、家々も、森も、空も、何もかも清潔で、澄み切って美しく感じました。(世界が美しく見える)
そして、いつもと同じように時は流れ、朝が来て、日が暮れて、一日一日が過ぎていくのに、そのように感じず、時が止まっているように感じました。(時間が止まっているように感じる)
家の外へ出て近所の風景を見ると、風も吹き、車も走り、普通に生活音は聞こえているのに、知り合いが通れば声を掛け、挨拶を交わしているのに、自分を囲んでいる半径一メートルくらいの空間はガラスのドームを被せたように、音もなく、すべてが静止しているような静寂を感じました。(自分の周囲だけドームに囲まれているように、別世界に感じる)
思うことも、考えることもないのに、突然空から降って来たように、「何年か前に、タイでスリ被害にあった原因は、学生時代に母の財布からお金を引き抜いたから」と、因果関係が意識上に浮かび上がりました。あまり良い記憶でないので思い出したことがなく、そのような出来事を憶えていたことに驚きました。
そして「すべてのことには原因がある」「カンマとカンマの結果はある」という道理が、机上の論理でなく、世界を支配している法則であることを実感し、今まで感じたことのない畏れを感じましたが、一瞬だけでした。
「ブッダが言っていることは、真実だった」「ブッダは本当に悟った人だ」と実感し、その時初めて、畏怖する気持ちが生じました。(ブッダに帰依する気持ちが兆す)それを皮切りに、その後折に触れ、現れている現象の原因であるカンマが見えるようになりました。
それまでは、夫と別れることを望み、いつか必ず、できるだけ早くと、それだけを冀っていましたが、別れても別れなくても何も違いはないと感じました。夫も生活も、何も少しも変っていないのに、何も不満がなくなり、何も望みがなくなり「今のままで十分、何も足りない物も過剰な物もない。すべてがちょうど良い」と感じました。それまでは夫と離婚できないことで、友達より不幸と感じていましたが、その時「私は最高に幸福。世界の誰よりも幸福。私より幸福な人は誰もいない」と感じました。(最高の幸福を感じる)
老いも病気も、死も怖いと感じませんでした。まだ仏教書を三冊しか読んでなく、涅槃の知識はありませんでしたが、「これは聞いたことがある涅槃の状態に良く似ているが、涅槃であるはずはない。しかし天上に住んでいるような不思議な感覚だ」と思ったのを憶えています。
ここまで書いて来て、食べ物を美味しいと感じたことを思い出しました。あれが美味しい、これが美味しいというのでなく、食べる物すべてに格段に深い味わいがあると感じました。何かを食べている時でなく、別の時に「食べ物はどれも、今まで味わえなかったほど深い味わいがあって美味しい」という感嘆が心に現れました。それは「目に入る光景のすべてが美しい」と感じたのと、一連の感慨だったかもしれません。あるいは、気づかないうちに、禅定が薄れ始めた頃かもしれません。(食べ物の味わいが最高に深くなる)
プッタタート師は、時間が経過して禅定の威力が自然に薄れるか、何か禅定を破る出来事が生じるまで、四禅は続くと解説しています。私の場合後者で、ある出来事が起こるまで、四か月ほど続きました。四禅が消えた後は非常に心が乱れて、混乱した月日があったのも事実です。しばらく飲んでいた薬を急に止めると、飲む前より悪い症状が現れる退薬症候のように、サマーディが消えると、経験したことがないほど、心が混乱しました。
智慧解脱には四禅で十分で、四禅になったら心を「無常・苦・無我」に傾ければ、心が世界から解脱すると、プッタタート師は説明しています。残念ながらその時、何の知識もなかったので、ただその味を味わうだけでした。それでもこの時を境に、その後、自分自身のいろんな出来事の原因であるカンマ、他人の出来事の原因であるカンマが見えるようになり、自分自身の過去世や、他人の過去世について洞察するようになりました。(宿命智、天眼智の兆し)
整理すると、思い出せるのは下旬頃の二禅からなので、10月中旬頃に初禅になっていたと推測します。初禅は、愛欲が治まり、ヴィタッカ・ヴィチャラがあり、ピーティとスッカがあります。ヴィタッカ・ヴィチャーラとは、「タンマに到達するために」で、「猿を繋いでおくことに例えれば、ヴィタッカは杭に繋がっていること、ヴィチャーラは、杭の周りを飛んだり跳ねたりして、いずれにしても杭と繋がっていることです」と説明しています。
良くわからない真似事でも、起きている間はいつでも四念処をしていたので、五蓋は心から払われていたと思います。
翻訳をする時は、その原書の内容を一瞬考え(ヴィタッカ)、仕事をしている間中、その考えが心に出没して(ヴィチャーラ)、「いい話だ」と、しみじみ喜び(ピーティとスッカ)を感じていました。
それが初禅だったと思います。仕事(翻訳)をすることには、サマーディを深める効果があったと感じます。
その後11月初旬に三禅、11月中旬か下旬頃に四禅に入ったと思われます。
座って一気呵成に入定する瞑想でなく、普段から四念処で自然に経過する場合、二か月くらい掛かって四禅に至ったと観察します。このように長い時間を掛けて、段階的にサマーディが深くなり、四禅に到達しているということです。その定は四か月ほど続き、定から出た後の混乱も四か月くらいありました。一つの頂点に上る時も下るときも、同じくらいの時間が必要なのかもしれません。
瞑想中や、生活の中の短い時間だけ珍しい精神状態、不思議な心の状態を経験したと書いているブログなどを見ることがあります。しかし瞑想中に現れる感覚は、禅定ではないと思います。
初禅から四禅までの禅定にいる時、非常に心は鮮明で、仕事が良くでき、プッタタート師も、禅定には「カムマニヨー(一境性)」という状態があり、それは、仕事に敏捷という意味です、と言われているので、四つの禅定は、仕事ができる状態である必要があるからです。
ゴエンカジの見解 8つのjhāna
ブッダ自身も、悟りを開く前に「メンタル的同化mental absorption」の 8 つのトランスtrance状態 (ジャーナjhāna)を教えられ、生涯を通じてそれらを実践し続けた
The
art of livingから抜粋
Right
Concentration
Fixing the attention on respiration develops awareness of the present moment. Maintaining this awareness from moment to moment, for as long as possible, is right concentration.
In the daily actions of ordinary life, concentration is also required, but it is not necessarily the same as right concentration. A person may be concentrating on satisfying a sensual desire or forestalling a fear. A cat waits with all its attention focused on a mousehole, ready to pounce as soon as a mouse appears. A pickpocket is intent on the victim's wallet, waiting for the moment to remove it. A child in bed at night stares fearfully at the darkest corner of the room, imagining monsters hidden in the shadows.
None of these is right concentration, concentration that can be used for liberation. Samādhi must have as its focus an object that is free from all craving, all aversion, all illusion.
In practicing awareness of breathing, one finds how difficult it is to maintain unbroken awareness. Despite a firm determination to keep the attention fixed on the object of the breath, somehow it slips away unnoticed. We find we are like a drunken man trying to walk a straight line, who keeps straying to one side or the other. In fact, we are drunk with our own ignorance and illusions, and so we keep straying into past or future, craving or aversion. We cannot remain on the straight path of sustained awareness.
As meditators, we would be wise not to become depressed or discouraged when faced with these difficulties, but instead to understand that it takes time to change the ingrained mental habits of years. It can be done only by working repeatedly, continuously, patiently, and persistently. Our job is simply to return attention to our breathing as soon as we notice that it has strayed. If we can do that, we have taken an important step toward changing the wandering ways of the mind. And by repeated practice, it becomes possible to bring the attention back more and more quickly. Gradually, the periods of forgetfulness become shorter, and the periods of sustained awareness—samādhi—become longer.
As concentration strengthens, we begin to feel relaxed, happy, full of energy. Little by little, the breath changes,
becoming soft, regular, light, shallow. At times, it may seem that respiration has stopped altogether. Actually, as the mind becomes tranquil, the body also becomes calm, and the metabolism slows down, so that less oxygen is required.
At this stage, some of those who practice awareness of respiration may have various unusual experiences: seeing lights or visions while sitting with eyes closed or hearing extraordinary sounds, for example. All these so-called extrasensory experiences are merely indications that the mind has attained a heightened level of concentration. In themselves, these phenomena have no importance and should be given no attention. The object of awareness remains respiration; anything else is a distraction. Nor should one expect such experiences; they occur in some cases and not in others. All these extraordinary experiences are simply milestones that mark progress on the path. Sometimes the milestone may be hidden from view, or we may be so intent on the path that we stride ahead without noticing it. But if we take such a milestone as the final goal and cling to it, we cease making progress altogether. After all, there are countless extraordinary sensory experiences to be had. Those practicing Dhamma are not seeking such experiences but rather insight into their nature, to attain freedom from suffering.
Therefore we continue to give attention only to respiration. As the mind becomes more concentrated, the breath becomes finer and more difficult to follow, thereby requiring still greater efforts to remain attentive. In this way, we continue to hone the mind, to sharpen the concentration, to make of it a tool with which to penetrate beyond apparent reality to observe the subtlest reality within.
There are many other techniques to develop concentration. One may be taught to concentrate on a word by repeating it, or on a visual image, or even to perform over and over again a certain physical action. In doing so, one becomes absorbed in the object of attention and attains a blissful state of trance. Although such a state is no doubt very pleasant so long as it lasts, when it ends, one finds oneself back in ordinary life with the same problems as before. These techniques work by developing a layer of peace and joy at the surface of the mind, but in the depths, the conditioning remains untouched. The objects used to attain concentration in such techniques have no connection with the moment-to-moment reality of oneself. The bliss that one attains is superimposed, intentionally created, rather than arising spontaneously from the depths of a purified mind. Right samādhi cannot be spiritual intoxication. It must be free from all artificiality, all illusions.
Even within the teaching of the Buddha, there are various states of trance—jhāna—that can be attained. The Buddha himself was taught eight states of mental absorption before he became enlightened, and he continued to practice them throughout his life. However, states of trance alone could not liberate him. When he taught the states of absorption, therefore, he emphasized their function only as stepping-stones to the development of insight. Meditators develop the faculty of concentration not in order to experience bliss or ecstasy, but rather to forge the mind into an instrument with which to examine their own reality and to remove the conditioning that causes their suffering. This is right concentration.
正しい集中力
呼吸に注意を向けることで、今この瞬間に対する意識が高まります。 この意識を瞬間瞬間、できるだけ長く維持することが正しい集中力です。
普段の日常生活の動作においても集中力は必要ですが、それが正しい集中力であるとは限りません。 人は感覚的な欲求を満たすこと、または恐怖を回避することに集中している可能性があります。
猫はネズミ穴に全神経を集中させて待ち、ネズミが現れるとすぐに飛びかかる準備ができています。 スリは被害者の財布を狙って、それを取り出す瞬間を待っています。 夜、ベッドの中で子供が部屋の最も暗い隅を恐る恐る見つめ、影に隠れた怪物を想像します。
これらはどれも正しい集中力、解放に使用できる集中力ではありません。 サマーディは、あらゆる渇望、あらゆる嫌悪、あらゆる幻想から自由な対象を焦点とします。
呼吸の意識を実践すると、途切れることのない意識を維持することがいかに難しいかがわかります。 呼吸の対象に注意を向け続けるという固い決意にもかかわらず、どういうわけか知らぬ間に呼吸は消え去っています。
代わりに過去や未来、記憶や空想、渇望や嫌悪の幻想の中をさまよい続けます。
まるで、まっすぐに歩こうとして、道の両端を往復する酔っぱらいのように。
実際、自分自身の無知と幻想に酔っているので、意識を持続させる真っ直ぐな道を歩み続けることはできません。
瞑想者としては、こうした困難に直面しても落ち込んだり落胆したりせず、長年染み付いた心の習慣を変えるには時間がかかることを理解するのが賢明です。 それは、繰り返し、継続的に、忍耐強く、粘り強く取り組むことによってのみ可能になります。 私たちの仕事は、呼吸が逸れたことに気づいたらすぐに注意を戻すことだけです。 それができれば、心のさまよい方を変えるための重要な一歩を踏み出したことになります。 そして、繰り返し練習することで、どんどん注意を早く取り戻すことができるようになります。 徐々に、さまよいの期間は短くなり、意識が持続する期間(サマーディ)は長くなります。
集中力が高まるにつれて、私たちはリラックスし、幸せで、エネルギーに満ちていると感じ始めます。 少しずつ呼吸が変わり、柔らかく、規則正しく、軽く、浅くなっています。 場合によっては、呼吸が完全に停止したように見えることもあります。 実際、心が穏やかになると体も穏やかになり、新陳代謝が低下して必要な酸素の量が減ります。
この段階で、呼吸の意識を実践する人の中には、目を閉じて座っているときに光やビジョンが見えたり、異常な音が聞こえたりするなど、さまざまな異常な体験をする人もいます。 これらのいわゆる超感覚体験はすべて、心が集中力の高いレベルに達したことを示すものにすぎません。 これらの現象自体には重要性はなく、注目すべきではありません。 意識の対象は呼吸のままです。 それ以外のものは気を散らすものです。 また、そのような経験を期待すべきではありません。 発生する場合もあれば発生しない場合もあります。 これらすべての並外れた経験は、その道の進歩を示すマイルストーンにすぎません。 時にはマイルストーンが視界から隠れてしまったり、道に夢中になって気づかずに前を向いてしまったりすることもあります。 しかし、そのようなマイルストーンを最終目標として捉え、それに執着してしまうと、進歩は完全に止まってしまいます。 結局のところ、後に数え切れないほどの並外れた感覚体験が得られます。 ダンマを実践する人々は、そのような経験を求めているのではなく、苦しみからの自由を達成するために、自分の本質を洞察することを求めています。
したがって、私たちは呼吸だけに注目し続けます。 心がより集中するにつれて、呼吸はより細かくなり、気づくのが難しくなり、それによって注意を保つためにさらに大きな努力が必要になります。 このようにして、私たちは心を磨き、集中力を研ぎ澄まし、それを見かけの現実を超えて内部にある最も微細な現実を観察するためのツールとして利用し続けます。
集中力を高めるテクニックは他にもたくさんあります。 人は、単語を繰り返すことによって集中することや、視覚的なイメージに集中すること、さらには特定の身体的動作を何度も実行することさえ教えられるかもしれません。 そうすることで、人は注意の対象に夢中になり、至福のトランス状態に達します。 そのような状態が続く限りは間違いなく非常に快適ですが、それが終わると、人は以前と同じ問題を抱えた日常生活に戻ってしまいます。 これらのテクニックは、心の表面に平安と喜びの層を発展させる機能はしますが、深層では条件付けはそのまま残ります。 そのようなテクニックで集中を達成するために使用される対象は、自分自身の瞬間瞬間の現実とは何の関係もありません。
得られるこの至福は、浄化された心の奥底から自然に生じるものではなく、意図的に重ね合わせて作り出されたものです。 正しいサマーディは霊的な酔いではありえません。 それは一切の人為性や幻想から自由でなければなりません。
仏陀の教えの中でも、達成できるさまざまなトランス状態 (ジャーナ) があります。 ブッダ自身も、悟りを開く前に心(メンタル)的同化の 8 つの状態を教えられ、生涯を通じてそれらを実践し続けました。 しかし、トランス状態は彼を解放させることはできませんでした。 そこで仏陀が心的同化を教えるとき、それらの機能は洞察力の発展への足がかりとしてのみであることを強調しました。 瞑想者は、至福感やエクスタシーを体験するためではなく、心を鍛え上げるのは手段として、自分の現実を吟味し、苦しみの原因となっている条件付けを取り除くために集中力を発達させます。 これが正しい集中力です。