ヴィパッサナー瞑想の実践     「スノー・イン・ザ・サマー」ウ・ジョーティカ師

 

我とはコントールするという意味です。

ですから、無我とはヒトの意志ではこの世をコントロールできない、と言うことです。

自分の無意識もコントールできないのに、他人をコントールすることもできないし、ましてや宇宙の法則によって司られているものをコントールすることはできません。

 

 

心の性質、即ち、ローバ(貪り)、ドーサ(反感)、モーハ(錯誤)、マーナ(比較)、イッサー(嫉妬)、マッチャリヤ(吝嗇)、クックッチャ(心配、後悔)などの性質を理解すること。そしてまた、サティ(気づき)、サマーディ(集中)、パンニャー(智慧)、メッター(慈しみ)、カルナー(哀れみ)等々を理解することは、ある悟りの段階を達成することや、煩悩を除くことよりも大切です。

先に来るのは理解することなのであって、克服することは、然る後に自然に起こる(続く)のです。

ですから、何であれその瞬間に起こっていることを観察するのに、どうか積極的に取り組むようにしてください。

 

まずはその性質を観るのです。

ローバやドーサ、等々があるからといって、あなたが動揺してしまったら、心が乱れてドーサ(反感)が出てしまっているがゆえに、それを明らかに観ることはできないでしょう。その動揺している状態も、また観察の対象です。罪悪感をもつことなく、またそれに何の手も加えようとすることなしに、あなたが自分の心を進んで見つめることができた時、はじめて煩悩を、はっきりと観ることができるのです。するとそれは、あなたに及ぼす力を失う。暴露されてしまったから――白日の下に晒されてしまったからです。

 

貪りやプライド、怒りなどを、どうか非難しないでください。あなたはそこから、実にたくさんのものを学ぶことができるのです。煩悩についてよくよく知らなければ、成長することはできません。明晰な心でそれらを観察することができた時、はじめてあなたは、その真の性質、とりわけその無我‐性を学ぶことができるのです。

瞑想における最初の、そして最も重要なステップは、精神的(ナーマ)と物質的(ルーパ)の現象に同一化しないことです。

この段階で克服されているのは、ナーマルーパ(名色)のプロセスとの同一化であって、それ以外の何かではありません。

なぜ人々は動揺してしまうのでしょう?

それは彼らが、ナーマルーパに同一化しているからです

ですから、貪欲や情欲、執着やフラストレーション、怒りやプライド、等々がある時に、最も大切なポイントは、それらを個人に属するものとして受け取らずに、一つの自然現象として観察すること。

そうした煩悩を、克服しようとはしないでください。

 

 パーリ語および一般的な漢語訳は以下のとおり。lobha(貪)、dosa(瞋)、moha(痴)mAna(慢)、issA(嫉)、macchariya(慳)、kukkucca(悔)、sati(念)、samAdhi(定)、

paJJA(慧)、mettA(慈)、karuNA(悲)。

 

 

腹を立てることは、自我による仕掛けの一つです。

腹を立てている人(アッタ、我)というのは、存在しているのでしょうか?

腹を立てることは、単に自然現象の一つに過ぎません。

腹を立てることというのは、自我の昴進です。

心が腹を立てておらず、観察している心のほうに同一化が存在していなければ、つまり、平静さ(捨)が保たれているならば、

心は貪り等を興味と落ち着き、そして明晰さを保って注視することができ、それをありのままに、つまり、素早く過ぎ去り、実体のない、自然現象として、観察することができるのです。

同一化によって、あらゆる煩悩はより強いものとなります。 

同一化が存在しなければ、それらはさほどに強力なものではありません。預流者はまだ貪りや怒り等をもっていますが、しかし、そこにナーマルーパとの同一化は存在していない。不還者と阿羅漢だけが、貪りと怒りから自由になっているのです。ただし、マーナ(慢、比較)から自由になっているのは阿羅漢だけです。

自分が音楽を楽しんでいるからといって腹を立てるならば、それはあまりに要求過多というものです。あなたは多くを求め(期待し)過ぎている。しかし、楽しんでいる心を観察し、それを平静さとともに注視したならば、その時はじめて、あなたは事態をありのままに観ることができるでしょう。

腹を立てること(これはドーサです)は、貪りやプライドの近い仲間です。「私は瞑想者だ。だから貪りやプライドは心に生じるべきではない」と考えるから、あなたは腹を立ててしまう。どんな種類のものであれ、貪りや楽しむ気持ちが起こったら、「どうか留まって、君のことを学ばせてくれ」と、代わりに言うようにしてください。そうした気持ちは、本当に凄いものなのですよ。貪りというのは最高の魔術師です。それが様々な快感を、帽子から出してみせる仕方を学んで(観察して)ください。

心は貪りにすっかり騙されているものだから、私たちはそれを魔術師ではなく、自分自身であると見なしているのです。

心というのは油断のならないものです。心は変化を求め、何か異なるものを求める

それは娯楽を、刺激を渇望しています。退屈は大問題。それが、ほとんどの人々がやっていることですね、次々と異なる形の、刺激を追いかけ続けること。

注意しておかないと、私たちはひどく独りよがりになってしまうことがあり得ます。

私たちは瞑想者だったり、仏教徒の実践を行っていたり、ダンマ(仏法)を知っていたりしますからね。つまり、私たちは何が善いことで何が悪いことかを知っているというわけです……。これもまた、マーナですね。

心にマーナがある時は、それを進んで明晰に観ようとしてください。心から、マーナを追い払おうとはしないこと。明晰に観るということが、とても大切なのです。それ以外のことは、自ずから勝手に起こるでしょう。阿羅漢になった時、はじめて人はマーナから自由になれるのです。謙遜を、修行しようとはしないでください。すれば強いられた謙遜になってしまう。ただ、マーナ(プライド、うぬぼれ)にマインドフルであるようにするのです。心を明らかに観たならば、あなたは自然に謙虚になる。自分が謙遜を修行していると、感じることはないでしょう。意識的にそうしようとはしていないけど、慢心することが減るのです。

心の健全/不健全な状態の直接的な効果を理解することなしに、ダンマの価値を本当の意味で知ることはできません。

いかなる形の宗教的な実践であれ、表面的に従っているだけでは、深く永続的な結果をもたらすことは決してありません。

六つの感覚の門を通じた経験の全てに対する、心の反応を理解することがとても大切ですが、とりわけ重要なのは、観念とそれに対する執着がもたらす影響を知ることです。

心の健全(クサラ)/不健全(アクサラ)な状態を、あなたは理解しました(しています)か?

これは実践において最も基本的なことだと私は思います。私は、善い/悪いという言葉を、クサラ/アクサラに関して使いたくはありません。理解というのは、それについての本を読んだり、あるいはそれについて考えたりすることで得られるもののことを言っているのではありませんよ。私の言う理解とは、クサラとアクサラを、実際に直接的に見ることです。心が健全な時と不健全な時で、その性質がどう異なるかを観察してください。

こうした性質の相違を非常に明らかに見ることがあると、状況(環境)がどうであろうと、心を不健全な状態にしておくことに価値はないという理解に、私は至ります。困難な状況に対処するには、(不健全な心の状態を伴わない)適切な仕方というものがある。智慧というのはこのことです。いかなる状況でも、不健全な心の状態を伴わずに生きていくために、その智慧を得るために、私たちはまず、あらゆる状況に対して、つまり私たちが目にしたり耳にしたりして知覚する全てのことに対して反応を続けている心に、はっきりとマインドフルでなければならないのです。

怒り、欲望、疑い、慢心といった、不健全で不快であり、美しくも望ましくもないものであっても、それを変化させたいと望むことなく、何であれいま心に起こっていることを観察すること。そして、(落ち着きや静けさ、歓喜や明晰さ等の)心に起こっている何であれ快いことを、それにしがみつくことなく、より長続きさせようと試みることもなしに観察すること。これらのことが、とても大切です。

心が状況をコントロール下に置こうとした瞬間に(いま起こっていることに反抗したり、邪魔したり妨げたり、もしくは、それをつくり出したり、生み出したり、あるいは長続きさせようとしたりすることです)、それはバランスを失います。

反抗することが反感(ドーサ)であり、しがみつくことが執着(ローバ)です。

しかし、反抗するなということは、敢えて積極的になるということではありませんし、また、しがみつくなということが、敢えて消極的になるということを意味するわけでもありません。ただシンプルに観察することが気づき(マインドフルネス)です。

巻き込まれずに観察すること。

 

私たちは何かをすること、何かをつくり出すことに慣れきっていて、だからシンプルに観察するとはどういうことかがわからないのです。私たちは物事をコントロールしたがっている。物事に関わりたいと思っているのです。だからトラブルに巻き込まれる

「関わるな、コントロールするな」と、私は言いたいわけではありませんよ。そうしたら、関わらないように、コントロールしないようにと、あなたは試みてしまうことになるでしょうからね。それは結局、またコントロールしようと試みることです。

ですから、あなたがコントロールしようとしていたなら、シンプルにそのことに気づいてください。

気づきがなかったら人生は皮相的なものになると、わたしはますます理解できるようになりました。気づきは人生に、深みと意義を与えてくれます。

これは理解し難いことなのですが、人々は幸せになりたいと言いますね。しかし、ならばなぜ、彼らは本当にマインドフルであることに興味をもっていないのでしょう?

おそらくそれは、彼らが幸せというものはどこか他の場所に、つまり、感覚的快楽や欲しいものを得ること、また何者かになることや、何か重要な地位を占めることや、何らかの快い感覚などのうちにあるものだと、考えているからに違いありません。

人々(あなたや私)は、興奮すること、何か刺激になるもの(知的に、ですね。私にとっては)を欲している。時に私たちは休みたくなります。刺激を与える物事に疲れてしまうのですね。すると私たちは、気づきを実践して、心を鎮めておきたくなる。読んだり話したり、考えたり計画したりすることに、私は本当に疲れてしまって、燃え尽きてしまうことが時々あります。そうなると、私は心を、全てそうした物事から別の方向へと向けかえるその種の物事が、いかに無意味で、いかに不必要か、よくよく見て取ることができますからね。そうした時には、ただシンプルにマインドフルであることが、とても簡単なのです。だから、私はいつも燃え尽きていたいと思いますよ。燃え尽きたと感じて構わないのです。シッダールタだって、出家した時には燃え尽きていたのですから。

この世界には、つまらない計画というものが実に多いのですよ。

 

「我々の最高の洞察は、もともとそういう気質があって、そうなるように方向づけられていない人々によって聞かれたら、愚かで、そして時には犯罪めいて聞こえるに違いないし、またそうあるべきなのだ」(ニーチェ)。

車やラジオをチューニングするように、身体と心をよくチューニングされた状態に保っておくことはとても大切です。

よい状態にある時に、はじめてそれらは敏感になって、振動や周波数や信号を、適切に検知できるようになるのですから。

ですから、物事が私たちの身体と心に、どのように影響するかを学ぶことはとても大切です。

食べ物、天候、運動、会話、読書、感覚的快楽、全てが私たちの身体と心に影響を与えます。そしてまた瞑想も。瞑想によって、心はより敏感になる。

心は過去や未来に住したがるのです。それは現在にはほんの少し接するだけで、そこに留まりたがらない。心は常に、気を散らすものを探しています、テレビを見たり、

ラジオやカセットを聞いたり、食べたり、話したり、喫煙したり、読書したり(ええ、忘れていました、読書もですね)、そういったことですね。

 

私たちは本当に、気づきを保っておくこと(マインドフルネス)が好きなのでしょうか? ええ……、そうですね……、いや……、ハハハ。

私たちが皮相的であることに、疑いはありません。

私たちは、気づきを痛み止めとして用います。

人生があまりにも辛くなった時に初めて、私たちは静かな場所に行って瞑想したいと思う

そうでなかったら、私たちは気を散らす物事に、すこぶる満足しているのです。

人は怒りから完全に自由であることはできません。十分な理由があれば、それはやって来る。私たちにできることは、怒りの存在を観ることだけです。腹を立てている時に、あなたがどれだけ自分自身を傷つけているか観てみてください。何事についてであれ、腹を立てる価値などないのです。マインドフルになりましょう。

怒りをただ怒りであると観察して、「私の怒り」と捉えないようにするのです。

怒るべきではない、とは言わないでください。現実的であることはとても大切です。

 

私たちには理想がある。しかしながら、その理想に到達することは決してないかもしれません。

これは、理想をもってはならない、ということではありませんよ。言いたいのは、私たちは自分の能力の限界(キャパシティ)に意識的でなければならないということです。ですから、アップダウンがあるからといってがっかりしたりはしないでください。可能な限り、マインドフルであるよう試みるのです。ベストを尽くしてください。

かつての私は、自分に欠陥があること(完璧でないこと)を申し訳なく(恥ずかしく)思っていたものです。

ある場合には、それは他の人々が私に投影した、非現実的な期待でした。そして知らず知らずのうちに、私も彼らが自分に期待した役割の内に、滑りこんでいたのです。そんな役割を果たすことは不可能であり、また危険ですらある。そうした状況下では、自分が不適格だと感じさせられてしまいましたから。しかし、いまや私は、自分自身であることを学びました。

時にはそうすることが辛いかもしれないけれど、どうかマインドフルであってください。

マインドフルであるなんて不可能だと思う時こそ、マインドフルであることが最も大切な時なのです。

落ち着きを失っている時に瞑想することは、より大切です。

心が狂気を帯びてしまって、瞑想するなんて不可能だと思える時、それこそが、瞑想のための最も大切な時間です

 

『大念住経(マハーサティパッターナ・スッタ)』でブッダは、VikkhittaM vA cittaMvikkhittaM cittanti pajAnAti(心が落ち着きを失っている時は、心が落ち着きを失ってい

ると知る)と言っています。それ以上のことは、求められていないのです。

ブッダは、欲望や怒りを感じていることに罪悪感をおぼえなければならないとは言っていません。

いま自分の心に起きていることを、あなたは知っている。そこで自分に嘘をつかない。あなたにできることはそれだけなのです

ですから、ただマインドフルであることだけを心がけて、自分を責め立てるのはやめること。受容と誠実が、最も大切なことなのです。

 

心の現状をただ知っているならば、それで十分です。それ以上のことを何かしようとしたならば、そのことによって、よりいっそうのフラストレーションをためてしまうことになるでしょう。コントロールは存在していない、それが無我(anattā)ということです。

SarAgaM vA cittaM sarAgaM cittanti pajAnAti(心が貪欲になっている時は、心が貪欲になっていると知る)

PajAnAti(明らかに知ること)、それだけであって、それ以上ではありません。落ち着いて安らぎに満ちた心を常に保っておくことは、毎日とてもたくさんの人々と接する人にとっては不可能なことです。

ある種の仏法の本を読み、そして/あるいは、ある種の法話のテープを聴くことで、人がどれほど後ろめたい気持ちになり得るかということを、私は知っています。

具体例?

理想が高過ぎるのです。私たちはそこには到達できない。誰のことも傷つけていないのであれば、私たちは感覚の楽しみを享受することに罪悪感をおぼえる必要はないのです。感覚の楽しみを享受するということがいかなることであるかを、観察するようにしてください。

SukhaM vA vedanaM vedayamAno sukhaM vedanaM vedayAmIti pajAnAti(心地よい感覚を享受している時は、私は心地よい感覚を享受していると知る)。

罪悪感の余地がどこにありますか? 人生を楽しむたびに罪悪感をおぼえることを、誰が教えましたか?

もう十分です!

マインドフルネス(気づきを保っておくこと)が自身にできる最上のことであると、私たちは知っていますが、それでも私たちは、実によく気を散らされるのです。私たちは、刺激されたがっている。

心を注視して、それが何をしているのか観察してください。心を理解すれば、あなたの問題のほとんどは消えてしまいます。問題のほとんどは、心がつくるものですからね、それらはあなたの心の外では、現実性をもたないのです。

 

あなたにできる最上のことは、心のいまある状態を、自身を責めたり正当化したりすることなく、それを違った状態にしたりそこから逃げ出そうとしたりすることなく、また後ろめたく思ったり恥ずかしく思ったりすることなく、認めて、気づいて、知ることです。

心をただ心として見て、「私の心」だとは見ないこと。

それが「善」だろうが「悪」だろうが、アナッター(無我)として観るのです。

それは十分な条件があったから起こったのであって、それ自身に基づいて起こっているのではないことを観てください。存在者ではなく、私ではなく、私のものではないのです。キレーサkilesa (煩悩)というのは、たいへん興味深いものですよ。

期待というのは、落胆の源泉です。それ自体としては、期待は心から落ち着きを失わせさえします。

 

時に私は、落ち着きや安らぎや快活さといった理想をもつことで、人はますますフラストレーションをためてしまうのではないかと思うことがあります。

世俗から離れて生活をしている人は、平静さを保つことができるでしょう(私は違いますけどね)。

しかし人々(思慮が足らず、わがままで、あなたを利用しようとしている人々)と接した瞬間に、平静さを保つことは難しくなることがわかると思います。

落ち着きは深い洞察を育てるために必要です。それは動揺の反対物。一定の落ち着きを保つことに、何も間違いはありません。しかしながら、落ち着きに執着することには注意してください。この執着は危険です。落ち着きは心を明晰にしてくれる。それは心をリフレッシュし、気づきを保つこと(マインドフルネス)を助けてくれます。

ヨーニソー・マナシカーラ yoniso manasikāra, 漢訳では「如理作意」(賢明な思慮)は、クサラ(心の健全な状態)の直接原因です。

ヨーニソー・マナシカーラがなかったら、クサラは存在し得ません。アヨーニソー・マナシカーラ(賢明でない思慮)は、アクサラ(心の不健全な状態)の原因です。

私たちは毎日、自己暗示を行っています。しかし、私たちのほとんどはそのことを知りません。それらのうちのいくらかはポジティブなものだし、いくらかはもちろんネガティブです。

暗示(suggestion)というのは、態度(attitude)にごく近いものです

知るべき最も大切なものは、あなた自身の心です。

あなたが直接経験している唯一のものは、あなたの心であり、それはあなたの思考、感覚、態度などを含んでいる。それ以外のものは全て推論です。手を見て自分がその形や色を観察していると考える時でさえ、そこでは多くの段階が踏まれています。あなたは手の形や色をどのように観察するのでしょうか? 形とは何でしょう? そして色とは何でしょう?

ある友人が私に語ってくれたところでは、彼は瞑想していて音に気づいた際、最初は音をどこか距離のあるところからやって来るものであるかのように経験していたそう

です。後によりマインドフルになった時、彼は音を耳の中に、耳の中で起こっているものとして経験した。それからさらにもっとマインドフルになった時、彼は音が心の中で起こっているのを経験したのです。心がなければ、音は存在し得ません。

マインドフルネスの代わりになるものはありません。あなたは、「私の問題の多くは、もしかしたら、この実践を続ければなくなってしまうであろうことを、私は知っています」と言われましたね。私たちはしばしば、「もし、もし、もし…」と言います。

私たちに、本当にそのことを実行させないでいるものは何でしょうか? なぜ「もし」なのでしょう?

まるで私たちは、自分の問題をなくしてしまいたくはないかのように見える。あるいは、私たちは本当には、自分たちにそれが可能であると信じてはいないのです。だから、「もし」と言っておいたほうがよい。そうしておけば、希望をもち続けておくことができますから。もし本当にそれをやってみて成功しなかったら、私たちはもう希望をもつことができなくなるでしょう。だから、本当には飛び込まないほうがよいのです。ただ希望しておくのがよい。実際にはやらずにいれば、いつも「私はできる」と言えますから。

これが、心の仕掛けるトリックの仕組みなのです。希望がないと感じてしまうことから自分自身を守るために、それは決して、何事も誠心誠意やろうとはしないわけですね。

他人を納得させるために、なぜ私たちはこんなにも一生懸命になるのでしょう?                                                             

私がアメリカから戻った時、多くの人たちが、アメリカには仏教を信じている人たちがたくさんいるのかと尋ねてきました。西洋人たちがブッダの教えを実践していることで、彼らはとても嬉しくなったのです。しかしながら、彼ら自身は、本当に実践を行っているわけではない。西洋人たちが実践を行っていたり、仏教徒になったりすると、彼らはどうして嬉しいのでしょう? 他人が自分の信じているものを信じると、なぜ嬉しいと感じるのでしょう?

私たちは何も確実には知らないけれど、ただ自分が苦しんでいることは知っている。

落ち着きを失ってしまわなければ、私たちは答えを見いだせます。

 

答えをもっているというプライドが、私を盲目にしている原因なのです。(サヤドー・ウ・ジョーティカ)

 

何であれ、自分が望むことを行ってください。瞑想してもいいし、僧侶になってもいいし、懺悔の行を修してもいいでしょう。自分にとっていちばんよいことを、あなたは知っていますからね。それでも何かあなたにアドバイスをするとすれば、私はこう言うことになる。「マインドフルであってください」。

リラックスの瞑想を実践してください。とてもシンプルなものですよ。楽な姿勢で座るか、あるいは可能なら横になる。そして額からはじめて身体全体を調べてゆき、緊張していたり、鈍い痛みを感じている全ての箇所をチェックするのです。不快な感覚を感じていることに気づくようになればなるほど、あなたは筋肉をリラックスさせることを学んでゆき、緊張や痛みはゆっくりと消えてゆく。身体の全ての部分を、例外なく観ていってください。身体の内部さえもです。とてもゆっくり、がまん強く、指先やつま先まで降りてゆき、前も後ろもやりましょう。何度も繰り返し行うのです。

僧侶になる前に、私は瞑想に関するたくさんの本を読んできました。ですから私は、それについては全て知っていると思っていた。そうして僧侶になって一年ほどした後に、私は「いまはじめて、瞑想の何たるかがわかった」と思いました。それから僧侶三年目になると、「いまになってはじめて、私は本当に瞑想の何たるかがわかった

、、、、」と思った。

ことはそんなふうに進んでいくのです。

若い頃、私は探検家に関する本をたくさん読んで、未踏の地がもうどこにも残っていないということにがっかりしました。しかし、心理学的な世界を知って以来、私はこれが、多くの人々によって探索されてきた空白地であるということがわかったのです。多くの人が、適切な道具なしにこの世界へと戻ってゆき、そうして道に迷ってしまう。私には、適切な道具があります、マインドフルネスですね。

 

時に私は、多くの宗教的な人々がマインドフルネスに関するいちばん簡単なことさえ知らないのに驚いてしまいます。ある人々は、いつでも・どこでも・何をしていてもマインドフルネス(気づきを保っておくこと)を実践することが可能だというのは、初耳だったと言っていました。多くの人々が、瞑想とは座っている時だけに実践すべきものだと思っています。そして、瞑想している時は何もしてはならないとも。彼らはそうしている時だけ、、が瞑想の時間だと思っていて、つまりは人々と関わっている時に自分の心を観察することには積極的でないのです。

日常生活において、多くの人々が座る瞑想を実践していますが、彼らは自分たちの欲望や願望、怒りや憎しみ、プライドや羨望や嫉妬を観察してはいません。多くの瞑想者は、日常生活や人々との交渉、また人々と会話している際に自然に起きてくる煩悩を、誠実に注視することの大切さを知らないのです。

私は話している時にマインドフルであることを大いに強調しています。その時が、人々が最もマインドフルでない時ですから。

ほとんどの瞑想者が、瞑想するための決まった時間を設けています。彼らは瞑想の対象を選んでいるのです(初心の段階で、そうすることは構わないのですが)。

選ぶということは、排除するということです(彼らは何かを排除している)。瞑想とは、包括に関わるものでなければなりません。私の理解するところでは、人々はまず、自分の煩悩を意識するよう努めなければならないのです。

 

BhAsite sampajAnakArI hoti(マインドフルネスの実践者は、マインドフルに話す)。

話すことは、私たちの人生の大きな部分を占めています。話している際にマインドフルネスを育てることは、とても有益ですよ。

簡単なことではありませんが、不可能なことでもありません。話したいと思っていることにマインドフルでありましょう。そして、話している時には、唇の動きや、また声のトーンや大きさ、他にも何であれ話すことに関わることに、マインドフルであってください。

 

沈黙こそが、応答の中で最も聖なるものである時がある。(ユージーン・ケネディ)

 

他人か自分自身を益し得ることだけを話しなさい。無駄なお喋りは避けること……。(ベンジャミン・フランクリン)

 

人生の中で最も辛い経験は、関係性から生じてきます。ですから、人々と関わる時に、マインドフルであることはとても大切です。私たちは、関わりをもっている人たちに対する自分の態度に、意識的でなければならない。何に対するものであれ、自分の態度を注視することはとても大切です。正しい態度を保っていなければ、私たちはたくさんの問題を生み出してしまうことになる。自分の態度を観察していない瞑想者の多くは、明らかに多くの問題を引き起こしています。

 

私は車に乗っている時や、人々と話している時、物事を行っている時に、マインドフルであるように努めています。マインドフルネスを実践するためのよい機会となるのは、忙しい時です。自分が教えていることを実践しているのですよ!

マインドフルであることは、私が自分のためにできる最上のことです。マインドフルネスをマインドフルネスのために実践することができれば、あなたはマインドフルネスを、よりよく理解することができるでしょう。

人々は、葛藤する願望や欲望でいっぱいになっています。ほとんどの人は、自分が本当にしたいと思っていることを知らないのです。彼らは自分の心をあちらへこちらへと変化させる。非一貫性がルールなのです。心は葛藤する感情に満ちています。

樹の影が長く伸びて、日が傾いてきています。黄昏時の風が涼しい。ここは本当に静かで、安らぎに満ちています。まるで梵天(brahmA)の世界に住んでいるよう。単純さと満足、節度(saMvara)とマインドフルネス、思慮深さと忍耐、慈しみとあわれみ、そして心と身体についての理解、それらが、ここでの生活をそのように安らぎに満ちたものにしているのです。

 

私は退屈を感じることが全くありません。いま私は安らぎに満ちた生活をしていて、森の中で安らぎに満ちた死を迎えられたらと願っています。私は自分の心を注視する。

物事はやって来ては去ってゆく。永続するものは何もありません。最悪のことでさえ、長くは続きません。だからそれらがやって来ても、次の瞬間には消えてしまうであろうことを私は知っている。

そうしたことどもを消し去るために、私は何もする必要がないのです。そうした最悪なことどもを、私は顕微鏡で何かすごく興味深いものを見るかのように、観察してみたいと思いますよ。しかし、何であれ生起していることに心の焦点を合わせた瞬間に、私に見えるのはそのかすかなひらめきだけです。それで、その対象は去ってしまう。「どうか留まって、君のことをよく見せて」と、私は言いたいのです。

結局のところ、私たちは古い知り合いなのですから。しかしながら、彼らは綿密に精査されることを恐れている。だから私が常に一緒なのはマインドフルネスです。私はマインドフルネスを注視する。自分がマインドフルであることにマインドフルなのです。気づきの気づきですね。

 

最も大切なことは、マインドフルであることです。思考が止まってしまうくらいにマインドフルになると、人生の全体が見えてきて、問題がどこからやって来るのかわかってくる。あなたの問題は、あなたの心から来るのです。「あなたの問題は、あなたの心からやって来る」と言っても、私が何を言おうとしているのかはわからないかもしれませんね。でも、あなたが自分の心を本当に深く理解する地点に到達すれば、その時におわかりになると思います。

 

 

智慧は業(kamma)を克服することができるのです。

マインドフルネスについて私がずっと昔に気づいたもう一つのことは、それは継続的に実践されなければならない、ということです。

僧侶として、あるいは在家仏教者としての戒を守り続けることについても同じこと。私はリトリート(瞑想合宿)のあいだは戒を守ってマインドフルであり続けるけど、リトリートが終わったらそうするためにベストは尽くさない、と言うとしたら、それはダンマ(仏法・真理)に忠実ではないのです(女性と結婚している時に、浮気するようなものですね、面白い喩えじゃありませんか?)。関係性が偽物になる。本当の喜びを得ることはできないし、本当に真剣になることすらできなくなるのです。ええ、私のものの見方というのはこうしたものですね。

人は常に、自分のやっていること(戒やマインドフルネス)に真率で(忠実で、浮気をせずに)いなければならない。そうでなかったら、自分のやっていること、あるいは自分自身に、敬意を払えなくなってしまう。そしてこの敬意がなかったら、あなたの行為は、楽しく、満足がゆき、よい結果をもたらすものにはならないでしょう。

私たちは、心と呼ばれているプロセスのかなりの部分に気づいていません。そしてまた私たちは、(過去生を含めた)過去の経験や感覚や決定の大部分を忘れてしまっている。しかしながら、そうしたことどもは私たちの考え方や感じ方に大きな影響を与えています。そのように、私たちがあまりしっかりと気づいていなかったり、あるいは忘れていたりするのだけど、それでも私たちの心の一部であるような部分のことを、私は無意識の心と読んでいます。他によりよい言葉がありませんからね。

私は自分の心の暗い側面にますます気づくようになってきています。私が受容的になればなるほど、それはますます己を明かすようになってきて、私はよりリラックスしてくるのです。

私たちはコミュニケーションする際に言葉を使う。しかし、言葉というのは意味の実に曖昧なものです。多くの物事が、私にとっては重要性を失ってしまいました。多くの物事が、もう気にならなくなっているのです。そのことによって、私は自分の心や人生で何が起こっているのか、そして心が本当には何をやっているのかということを、より自由に観察できるようになりました。

私たちの苦しみのほとんどは、自分自身が創りだしたものです。心というのは偉大な魔術師ですよ。自分が創りだした苦しみで自分が苦しみ、自分が創りだした楽しみで自分が楽しむ。自分の創りだした蛇に自分が噛まれて、その毒のせいで苦しんでいるのです。

心が自覚してこれほど多くの苦しみを創りだすのをやめさえすれば、90%の心の痛みは、もうなくなってしまうでしょうね。

 

私はここに、自分自身の意識と心により深く入っていくための時間を、より多くとる

ためにやって来ました。私は自分自身のことを、もっとよく知りたいのです――私の意識と心の内で、葛藤している全ての動機や欲望や願望や理想を観るために。私は心の全ての暗い隅や亀裂、這いまわっているものやこそこそと歩きまわる蜘蛛、サソリや毒蛇、全てのライオンや鷲、等々を知り尽くしたい。それらを追い出したいからではありません。私はただ、自分の心の善友に、親切で理解のある友達になりたいのです。そうしたことどものことをよく知らない限り、彼らは私を安眠させてくれませんからね。

私は、私のことを本当の姿とは違う何かしらのタイプの人間として捉える人たちのことが好きではありません。しかし、これは避けられないことです。世界中の人が、みな誤解されている。彼らが私のことを正しく理解したならば、それはそれで、私は腹を立ててしまうでしょう。

あなたがどこに住んでいて、誰と付き合っているかということはとても大切です。ある種の場所や人々は、心を気分の悪い状態にしてしまう。そして常に気分の悪い状態でいるということは、心にひどいダメージを与え得るのです。私たちは実にかすかな形で、周囲の人たちから影響を受けています。

私はますます、人々や組織から距離をとるようになっています。

人は「助けてあげる」と言いながら、他人を自己の権力拡大のために利用します。

 

誰であれ怪物と戦うものは、その過程で、自分自身が怪物にならぬよう注意しなければならない。(ニーチェ)

 

いまに至るまで、私は自分の心を長い年月にわたって注視してきました。ですから、私は自分の心のことをとてもよく意識しています。私は心が、どれほどバカで、思慮がなく、愚かで、悪ふざけをするものであり得るかを知っている。しかし、私はそのことを意識していますから、心にさらわれてしまうことがないのです。

私は自分が本から学んだことを、ほとんど忘れてしまいました。私は、あまりたくさんのことを覚えておきたくないのです。でも、私は自分自身と自分の心、自分の精神状態や、自分に関する全ての悪かったり愚かだったりすることをたくさん知っています。

私は人々から、そうしたことどもは恥ずかしいことで、そのような思考を抱いてしまうことを後ろめたく感じるべきだと教えられてきました。

私は彼らが言うことを信じることを拒絶しました。私たちはみんなそうした思考を抱いているのに、私たちのほとんどがそれらを否定することを、私は知っています。

私は人々に、自分に関する全てのことを話そうとは思いません。

私はよいことであれ悪いことであれ、自分に関する全てのことを受け容れるのです(抵抗はしません)。

 

受け容れない限り、私たちは何も変えることができない。(カール・ユング)

 

自分自身を理解し受け容れることで、私の心は平安になり、リラックスします。

私は、ただ私のあるがままで構わない。私は私の心を、拒絶することなく、裁くことなく、抵抗することなく、否定することなく、観察し続けてゆきます

私が本当によく知りたいと思う一人の人間は、私自身なのです。

私は自分の心が空っぽになっていて、はっきりと明るく、そして学ぶことに負担をかけられていない状態が好きです。

私は何も証明する必要はないし、何も防衛する必要はないし、何も布教する必要はありません。

私は若いころに、愚かなことをたくさんしました(まだ時には、愚かなことをしてしまいます)。

それについては話すこともできないのですが、そうした行為を忘れないようには努めています。

自分がやったことの記憶は、心の中に浮かんでくる。私はそれに抵抗はしません。

痛みを感じはするけれども、ひどく動揺してしまうこともないのです。

過ちは誰でも犯します。人が過ちを犯してしまった時に、心に何が起こるかということについて、私はたくさんのことを学んできました。

罪悪感でどれほど心が焼けるような思いをするか。心がどれほど過去を(誤って)忘れようとするか。そしてとくに、心がどれほどその人を、人生におけるよいこと(例えば愛や尊敬、献身や名誉や洞察智など)に自身が値すると感ずることから、(誤って)遠ざけておこうとするか。

私は自分自身を許します。その時の状況や条件を考えれば、どうして私がその行為をすることを避けられたでしょうか? それでも私は、残りの人生のあいだずっと、罪悪感を感じ続ける必要があるのか? ありませんとも! 私は自分の過ちから学び、それらを繰り返さないようにベストを尽くします。それ以上に、私にできることがあるでしょうか。

ありませんね。

真実を受け容れることによって、心は自由になります。

私は全てにおいて賢いわけではありません。時に私は、とても愚かです。心に気づきを保っておくこと(マインドフルネス)が、私のコンパスです。

過ちを犯してしまった時は、私の心のマインドフルネスが、いつも私に、自分がトラブルに巻き込まれていることを教えてくれます。

自分自身をただありのままに、深く理解することなくしては、本当の意味でのスピリチュアルな成長はあり得ません。

一時的な平安や幸福感は、たいへん励みになるものです。しかし、そのことだけによって人間の変容がもたらされるということはないのです。

意見が合うと安心できます。ええ、人々が偏見のない心でいないからといって、私も腹を立て続けていることがあるかもしれません。しかし、もうそんなことはしたくありませんね。私には彼らを変えることはできませんし、彼らに責任をもっているわけでもないですから。自分に可能なのであれば、私は彼らを助けるでしょう。ほとんどの人々は、自分の心や自分の人生に、何が起きているのかを知りません。彼らは知っているつもりだけど、実のところは違うのです。

 

たいていの人が、ひどく重い条件付けを課されています。この条件付けを克服するためには、とんでもない量の気づきと誠実さが必要ですよ。あなたは条件付けられているし、私も条件付けられているのです。私たちは、自分が条件付けられているということを知っているでしょうか? 私たちの思考や反応のほとんどは、条件付けられた反射です。ですから、まずは自分自身のことに取り組みましょう。

条件付けられている状態から自分自身が自由になった時、はじめて私たちは、他者の条件付けを解除するために、何らかの助けができるのだと私は思います。自分自身が動揺してしまっているあいだは、「助けてあげる」と言いながら、他者を傷つけてしまうことになるでしょう。

自己欺瞞ですね。時にその自己欺瞞はあまりにも完璧なので、自分でもわからないことすらある。自分を守りたいがゆえに、自分の弱いところに盲目になってしまうのです(自己欺瞞)。

私たちは、幸福であるために自分を騙す。自分の弱点を観ることは、時には辛いことがありますから。

あらゆる過去の記憶や未来の心配を、心に持ち込まないようにしてください。各々の瞬間を全てマインドフルに生きるのです。未来のことは、未来が何とかするでしょう。

学んでゆくにつれて、私たちは自分の執着や欲望、夢想や願望から抜け出してゆきます。夢から醒めるということは、落胆と関わっていますから最初は辛い。しかし、後にはそのことによって、心が自由になるのです。より現実的になるのですね。人生はおとぎ話ではない。「彼らはそれからずっと幸せに暮らしました」ということは、現実の人生にはないのです。

 

真誠であり続けるためには、私たちは変わらなければなりません。きつくなり過ぎてしまった皮を脱ぎ捨てる蛇のように、私たちは自分の大好きな夢を脱ぎ捨てなければならない。きつ過ぎて息ができなくなったと愚痴をこぼす代わりに、より楽に自分が呼吸をできるようにするために、私たちは古い皮を脱ぎ捨てて、新しい皮を育てなければならないのです。しかし、その新しい皮を再び脱ぎ捨てる時が来たら、ためらってはならないということも覚えておかねばなりません。いつだって、古い皮を脱ぎ捨てるというのは辛いことです。新しい皮は環境と接することに耐えられるほど、まだ十分に強くなっていないので、自分がとても脆弱で、ひどく感じやすい状態になってしまいますからね。

私はますます、心理的に独立するようになりました。私はさみしいと感じません。

 

「心の深い奥底の状態に、どうしたらマインドフルに/注意深くなれますか?」

感覚を感じるといいでしょう。

感覚にマインドフルになって、ことが表面化するのを忍耐強く待つのです。

無理強いはしないこと。心を柔らかく保ってください。

幸福とは、穏やかな心であることです。完全にマインドフルであって、私という思いや感覚がなくなってしまうくらいになること。

この幸福は、過去や未来に関する全ての思いが起こらない時に、「私」もなく、昨日もなく、明日もなく、計画もない時にやって来ます。

そのような時間を離れた状態において、この至福を経験する「私」は存在しません。

そこにあるのは、ただ幸福だけです。本当の幸福には理由がない。(私という感覚がなくて)本当に幸福である時、「私は〜だから幸福だ」とは言えないのです。

幸福になろうと一生懸命に頑張ったら、失敗するのは確実です。本当の幸福は、招かずしてやって来るものですから。

思考が止まってしまうところに至るまで、心にぐっと近づいて観察することができますか?

思いが存在せず、有るものにただ気づいている時、心は安らぎに満ちています。

考えることによって、心が安らぐことはあり得ません。

解決し得ない問題というのは存在するものですが、その種の問題に対処する最高の方法は、それらについて考えないことです。ぐるぐると考え続けていたら、あなたはただ疲れきってしまうだけ。

私たちのような教育のある人間たちは考え過ぎてしまう。そのことを、認めなければなりません。私たちは考えることに溺れ過ぎてしまわぬように、自らを律しなければならないのです。

読むことや話すことや、その他全ての気晴らしは、人を気づきの欠けた状態にしてしまいます。(何であれ)その種のものをあまりに利用し過ぎる人は、それをやっていないと、空虚で落ち着かず、退屈した気分になってしまう。言い換えれば、彼らの心はそうした刺激物がないと、とても鈍くなってしまうのです。

思いの一つ一つが、心を疲れさせ引き裂いてしまう。考えることは重荷であり、拷問です。

それについて考えることによって、あなたは自分が幸福になるための道を見出だせると思っている。どれほど長いあいだ、そうして自分を騙してきましたか?

そしていつまで、そうして自分を騙し続けるつもりですか?

考えるのはもう十分です! ただ現在起こっていることを、考えることなしに観てください。

多くの物事が、私にとっては重要性を失ってしまいました。そのことによって、私は自分の心や人生に起こっていることを、以前よりもずっと自由に観ることができるようになっています。

考えている心(a thinking mind)は観ることができません。思考は盲目です。観ることが思考を排除する。本当に観るということは、ラベリングすることではありません。

考えれば考えるほど、ますますぐるぐると同じところを回ることになる。思考を本当に明らかに観ることができれば、それは必ず止まります。

私が考えているのではありません。思考というのは、それ自体で回っているものなのです。それはあたかも、永久機関のようなものです。

考え過ぎないこと。そして行為をし過ぎないこと。

瞑想が可能であるためには、忙し過ぎず、会話し過ぎず、睡眠に耽り過ぎず、孤独を楽しみ、感覚の六つの門に気づいていて、食を節制する必要があります。

最近の瞑想の調子はどうですか? 考えることをやめ、ラベリングすることすらやめてしまい、心が注意と気づきを伴った完全な静寂へと至った時、あなたは刹那に滅して

ゆく自然の姿、物事の夢に似た本性を観察します。

箱のなかに、古新聞がいくらかあります。それを読みはじめて、私は自分の心を注視しました。気散じですね! 娯楽。時間つぶし。無益なものです。

人々は娯楽と情報に没頭していて、心を人生における真正で大切な物事から逸らしている。

自分自身の心と自分自身の人生を学ぶほうがずっと価値があるのですけど、ほとんどの人々はそれをすることを恐れています。

その代わりに、彼らは自分自身を忘れたがる。自分自身から逃げ出しているのですね。己に直面するだけの勇気がないのです。あるいは、彼らは怖がっている。

自分自身について考え過ぎたら狂ってしまうだろうと恐れているのです。でも、私は考えなさいと言っているわけではありません。私は注視しなさいと言っているのです。ええ、自分自身について考え過ぎたら、それは狂ってしまうでしょう。

人々は自分が空虚で役立たずだと感じています。その感覚を覆うために、彼らは自分を忙しくしておこうとする。忙しいと、自分は重要な存在だと感じるのですよ。

あなたは何をするべきか、誰が告げることができるでしょう? 私ではありませんよ。

あなたは自分自身で、それを見出さなくてはならない。私があなたに言えることは、マインドフルであって、シンプルな生活をしなさい、ということだけです。

多かれ少なかれ、あなたはもう実践されていることだと思いますけどね。私たちには、全てを手にすることはできません。私たちは選択をしなければならず、その他のことは、手放さなければならないのです。

望むことが少なければ、背負うものも少なくなります。

 

渇望や執着、および情欲や貪欲がドゥッカ(dukkha、苦)の源泉であり、そしてそこから抜け出す唯一の道は徹底的な観察であることに、私は疑いを抱いていません。

抑圧し、そして/あるいは、表出することには、いずれにせよ大して価値はありません。深く理解することが大切なのです。

タンハー(taNHA、渇愛)、マーナ(mAna、慢、プライド)、ディッティ(diTThi、邪見、誤った見解)はパパンチャ(papaJca、戯論、障碍)です。それらは実に多くの不必要な活動の原因であり、輪廻(saMsAra)を長引かせる原因であり、そして人々が実践を行って、解放に至ることを遅らせる原因でもある。パパンチャは精神的と物質的の現象を拡張し、人々を忙しく、気を散らされた状態に保つのです。

私はヴィマラ・タカールの、「瞑想という生き方」という記事を読んだことがあります。以下、そこから私の大好きな部分をいくらか引用しましょう。

……自ら見出し、発見しようとする生来の情熱に欠けていたならば、その人には瞑想的な生き方をする素養がないということになるでしょう。瞑想とは生の全体的なあり方であって、部分的もしくは断片的な活動ではないのです。……生とは西洋的なものでも東洋的なものでもありません。……真の探求者に興奮はない。あるのは深みをもった強さであって、浅い熱狂的な興奮ではないのです。……そうして、この観察している状態が起きている時間に浸透しはじめます。食事を作っている時であれ、会社に行く時であれ、あるいは話している時であれ、この観察している状態が、起きている時間に行われる全ての活動に浸透しはじめるのです。……観察している状態が保たれると、感受性が高められて、朝から晩まで、以前よりもずっと覚醒している状態になります。……心の活動に注意を集中して、あなたの生き方の他の部分を排除してしまうことは無益です。瞑想というのは存在の全体、そして人生の全体に属しているものです。あなたがそこで生きていようが、生きていなかろうが同じこと。言い換えれば、瞑想とは身体的なものと心理的なものの全てに関わっているものなのです。……ですから、精神的な活動の小さな領域から、私たちは瞑想を、意識の広い領域へと連れ出してきました。そこにおいて瞑想は、あなたの立ち方や座り方、一日を通じて、あなたが言葉にしたり身体に表したりする全ての仕方に、関係づけられるのです。あなたが望もうと望むまいと、存在の内的な状態は、あなたの振る舞いに表現されるのですからね。……このように瞑想と生の全体的なあり方を相互に関係づけることが、全体的な変容の道を歩むために、最初に必要とされることなのです。……常に言語化を続けることが、瞑想の道における最大の障害物のうちの一つであることに気づいている人は、私たちのうちにほとんどいません。……生というのは同質的な全体を形作っているものなのであって、それを断片化することは決してできないのです。……この逸脱もしくは破れ目に気づくことは、それ自体が一種の観察です。(ヴィマラ・タカール)

 

断片化あるいは特殊化された人生へのアプローチは、上手くいくことがありません。

オールラウンドな理解が、必要とされているのです。身体において、全ての部分は他の全ての部分と関係付けられている。人生においても、それは同じことです。即ち、人生における全ての側面は、他の全ての側面と関係付けられている。人生の経済的、感情的、知的、社会的、そしてスピリチュアルな側面は、全て互いに関連し合っている。それらを別々にしておくことはできません。別々にしておこうと試みたら、あなたの人生は満たされず調和を欠いたものになってしまうでしょう。葛藤や分裂、麻痺が起こることになるのです。

 

ブッダが自分の足や手、そして鉢をとても丁寧に洗ったというのを読んだことがありますか? 彼の行いは、全てスピリチュアルなものであった。これが本当のスピリチュ

アリティー(霊性)です。それは、あなたの人生の全ての側面に関わりがある。ですから、あなたの話し方、服の着方、他人との関わり方、食べ方、眠り方、笑い方――全てあなたの行うことは、あなたの心の反映なのです。

「非常に深い瞑想経験」という時に、人々は何を言おうとしているのでしょう?

預流者とは何か? 誰かが預流者であるかそうでないかを、誰が告げることができるでしょう? 預流者と凡夫のあいだに違いはあるのか? その違いは何か?

あなた自身が答えてください。わざわざ私に言う必要はありません。

どうしたら深いところまで届く思考ができるか?

そのためには、穏やかでマインドフルな心が必要です。疲れていたり落ち着きを失っていたりはしておらず、物事が明晰に見えている心ですね。

大切なのは、明晰に見えているということです。

 

内的なものであれ外的なものであれ、私たちはみんな葛藤をもっています。

助けになるのは、明晰な気づきと智慧だけです。

よりポジティブなことを考えるよう努めてください。考えることは、たいへん大きな力をもっています。

そして、自分をより快活にしてくれるようなものを周囲に置くこと。

本は心を穏やかで晴朗に、快活にしてくれるようなものを読みましょう。一部の本は、心を憂鬱にさせてしまいます。

そして、自分についても他者についても、あまり多くを期待しすぎないこと。

気づきの瞑想を二年間実践した後、私は気づきの実践に関するマハーシ・サヤドーの本を読み、自分の経験してきたことのほとんどが、彼が本で言っていることと合致していることを知りました(これは私にとって驚きであり、喜びでしたね)。

十分に長く実践してから、ニャンジン(洞察の段階/進行)に関する本を読んだほうがいいでしょうね。とはいえ、ニャンジンは帽子の羽飾り(自慢の種)ではありませんが。

預流者は五戒を破ることはないでしょう。これは、ブッダが繰り返し述べていることです。