呼吸による癒やし ラリー・ローゼンバーグ
Breath by Breath The Liberation of
Practice of Insight Meditation Larry Rosenberg
しばらくの間、息と共に在ることができれば、感情を抑圧することなく感情を感じつつ呼吸していれば、すべてが変化します。
心は静まります。
呼吸と身体は行動を共にしています。
何かを獲得しようという考えで始めてはならない。
あらゆる瞑想のパラドックス
瞑想の目的をあげるとすれば、「いま・ここ」にいること。
何かを改善したい希望を抱いて呼吸を見つめているとき、「いま・ここ」との繋がりが薄まってしまう。
何かを獲得したいという考えが潜んでいたら、それを見つめて、気がついて、そしてそれを手放してください。
呼吸が浅いのならば、きっとそうである必要があるからです。
それを変えたいと思うかもしれない。しかし、一番始めにすることは、今の状態を受け入れることです。
受容には心を安定させて清澄にするダイナミックな力があり、まずはここがスタート地点です。
すべてのものは変化している。ただそれを気づいていてあげればいい。
目的を射る、この外側にあるもの
すべてが目的のための手段と化している世界があります。
簡単なレッスンで悟りを得たいように。
悟るために呼吸を見ているのではありません。
ただ呼吸と共に坐っているだけです。
心を埋め尽くしているすべてのものを手放し、ただ呼吸の中に消えていくのです。
瞑想とは達成感がないもの。
捕まったら、また呼吸にもどるだけです。
大脳は多様性や複雑性の快楽のために存在しています。
それが面白いのだし、唯一できることだし、存在理由なので、次々と分け続けることしかしません。
呼吸という単純な反復のサイクルが、この大脳の世界をまっすぐに通り抜けます。
的を射ることが、いかに不毛なことであるのか理解することがあるでしょう、この無常の世界では。
大脳の世界には自然に戻るようになっています。だからいつの間にか呼吸から離れるのが普通です。
そこでまた呼吸に戻ります。
ポイントは呼吸に優雅に気持ちよく晴れやかに戻るのが瞑想の目的です。
気づきに集中しているだけではなく、ダンスのように何度でも戻り続けるのが修練です。
気づきの4つの基礎
四念処cattāro satipaṭṭhānā, チャッターロー・サティパッターナー悟りのための4種の観想法の総称。
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦(ドゥッカ)であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心(チッタ)の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)
『大般涅槃経』等で繰り返し言及される
『大念処経』(大念住経、長部第22経)
『念処経』(四念処経、中部第10経)
瞑想の段階
Bojjhanga 目覚めを支える7つの要素
Mindfulness (sati). To maintain awareness of reality (dharma). 気づき
Investigation of the nature of reality (dhamma vicaya). 現象の探求
Energy (viriya) also determination, effort努力精進
Joy or rapture (pīti) 喜び
Relaxation or tranquility (passaddhi) of both body and mind安静
Concentration, (samādhi) a calm, one-pointed state of mind,[1] or clear awareness集中(清涼)
Equanimity (upekkha). To accept reality as-it-is (yatha-bhuta) without craving or aversion. 平静
pītiとSukha 喜悦と楽
砂漠を長い間水なしで旅していて、やっと水を見つけてひどい渇きが癒やされると知った時の喜びがpītiで、
水を飲んで安堵して満足しているのがSukha楽。
Sukha楽とPassaddhi 安静tranquilityの違いは?
SukhaはDukkhaの相対語
Passaddhiはpītiの後に来る安静の状態で、samādhiサマーディの前にある、という説明がWikipediaにあるが、
この文脈ではSukha楽とPassaddhiは同じものとなる?
エーカッガタ 一境性
ピーティとスカの静けさは次の5番目の状態につながる。
集中(サマーディ)の同義語
散漫さがなくなる
レーザー光線のように集中され、同時にしなやかに柔軟である。
この力が、マインド自体をみつめてマインドの解放を導く洞察を養う。
喜悦と楽も無常のもの
この理想のイメージを手放すことが救いとなる。
次にくるステージが「自己の不在」
対象と分離した主体を持たない行為。
行為の中にその性質をみる。
悟りには私とか私のものとの関連性に執着がありません。
自尊心の中に多くの苦しみがあります。なぜならばそれは無常なのでコントロールできないからです。
Vedana 感受
感覚のことでマインドや五感からくる信号
快、不快、中性の3つの感受がある。
感受から離れていると思考脳が働き、そこから自動回路である感情がおこります。
次にヒトは感受そのものを詳しく見ようとはせず、常に快の感受を求めてしまい、ただ感受の自動反応に奴隷になってしまうのが問題です。
決まったルーティンの奴隷に
もし感受をその根源において捕まえて、気づき見守ることができるのであれば、感情や思考脳に支配される鎖から解放されることを、ブッダは深く理解した。
マインド(心)のプロセス
マインドのプロセスを感じながら息を吸おう。
マインドのプロセスを感じながら息を吐こう。
マインドのプロセスは2つのことを言及しています。
前述の感受
そして感受の経験に対してラベルを貼っていく認知です。
認知には「わたし」が含まれています。
「わたし」という主体がラベルを貼るのですから、「わたし」がない認知はありません。
感受はマインドのプロセスを作り出しています。
たとえば喜悦はヒトの思考を強く条件づけています。
ヒトの思考とはマインドのプロセスのことです。
強く条件付けるとは法則性をみつけ、それに縛られるということです。
すなわち、喜悦によって、ヒトはマインドのプロセスが起動して、それに縛られるということになります。
しかしこのプロセスを気づいていることで、決められた自動回路のプロセスを手動にすることができます。
感受が快であるとき、ヒトはそれにしがみつきたくなるようにプログラミングされています。
しかしこの自動回路とは固執のことで、痛みをもたらします。
快の感受が消え去ったときには、記憶にしがみつきます。
ヒトは快楽に自動的に固執して、それゆえに痛みを感じてしまうのです。
「いま・ここ」の感受にスポットライトを当てるかわりに、過去に経験した記憶に支配されて、快を夢見ています。
動かない意味
不快や快を求めて、坐っている姿勢を変え続けようとしてしまいます。
感受に支配されている状況です。
しかし動かないことを決めて実践すると、通常の感受の快・不快の自動反応から離れて、マインドのプロセスや動きに寄り添うことができます。
これが動かないでいることの意味であり、それを実践する理由です。
快を求めて行動し、これが渇望となり問題を起こします。
達成感という快を追い求めて、ヒトは一生を費やしてしまい、豊かで美しい世界を見ることができなくなってしまいます。
暴力
暴力は不快の感受を拒否する結果として発生します。
退屈
中性の感受が退屈を生み出します。
11番目 深い集中
12番目 マインドを手放すこと
13番目 無常にスポットライトを当てる
これを常時体感していれば自然に14から16が顕れる。
14番目 色あせていくことにスポットライトを当てる
実際に色あせていくのは私たちの執着です。
生成と消滅を体感し続けていると、執着が自然と自分から離れていくことが起こります。
色褪せるヴィラーガとは情熱が冷めるとも訳されます。
執着が色褪せていくことを「道」と呼びます
15番目 消滅にスポットライトを当てる 心が貪欲、嫌悪、迷妄から離れる ニローダほどく、炎が消える
完全な消滅を獲得する人は多くありませんが、消滅を味あう人は多くいます。
恐怖と共にいて、それが勝手(自然)に消滅して行くポイントを洞察insightします。
しがみつくことを止めた時に、苦しみが終わります。
16番目 自意識を手放すことにスポットライトを当てる。
呼吸を私がしていないように、表層の自己意識が自然に離れていくことを、無作為に見守っている。
見守っているのは深層意識。
苦 dukkha
苦しみや痛みよりも、不満足という方がパーリ語の意味に近いのではないか。
欠けているもの、魂への扉、
病気や死だけではなく、快いと思う瞬間も、不満足性である、ことを「苦」は意味しています。
DukkhaとAnichaは同じものです。そして最終的にはAnattaとも。
鏡
自我意識で観察しているかぎりは、自分の関心に動機づけられています。そのために何が現れてきたとしても、澄んだ鏡のように映し出して内省することはできません。
明鏡とは、修行が展開するにつれて特定の見地から観察していない、そんな瞬間が訪れた状態のことです。
この時点では心理的性向から解き放たれますが、まだ自意識は残っています。
修行を充分に長く行うこともあるでしょう。
時間が経つにつれてそれも消えていき、ただ鏡あるだけになります。
観察者は消えて、対象との分離がありません。
スポットライトを当てようとしてはいません、ただスポットライトが当たっているだけです。そこにはスポットライトがあるだけです。
独坐敬亭山 李白
獨坐敬亭山
衆鳥高飛盡
孤雲獨去
相看兩不厭
只有敬亭山
獨(ひと)り敬亭山(けいていざん)に坐(ざ)す
衆鳥(しゅうちょう) 高く飛んで盡(つ)き
孤雲(こうん) 独(ひと)り去って閑(かん)なり
相看(あいみ)て両(ふた)つながら厭(いと)わざるは
只(ただ)敬亭山(けいていざん)あるのみ
語句
敬亭山 安徽省宣城の北にある景勝地。李白が尊敬していた南北朝時代の詩人謝朓がしばしば登った。
閨@ ゆったりおちついて、静かなこと。
両 ふたつとも。両方。李白と山という説、山と雲という説がある。
不厭 飽きない。いやにならない。
現代語訳
たくさん飛んでいた鳥たちも空高く飛び去り、
たった一つ浮かんでいた雲も流れさった。
向かい合っていて厭がない。
ただ敬亭山がある。
修行
連れてこられた小さいな島に何があるのかを見てみるように指導され実践すること。
何もないことが分かれば、その島の素晴らしさを感じるであろう。
愛と愛着
この2つは混同しない。
愛着は執着であり、愛は親しさである。
潜在意識と有機的智性
自己意識の奥にはまだ自覚されていない意識があり、それは思考による理性とは違い、いのちあるもの(有機性)を体感することで自覚できる法則(パターン、回路、能力)です。
粗い呼吸では智性は発動せず、潜在意識は自覚できません。
理性的な瞑想者
ある問題がなくなっただけでは満足せず、その問題を分析しなければ終わったとは感じない。
しかし仏教的瞑想者は問題の解決にスポットライトを当てません。解決するのではなく問題が溶けてなくなっていくのを自覚していくだけです。
問題は自覚という炎に焼き尽くされてしまいます。
悟り
常にいい気分に至ることが悟りではありません。
何があってもただあるがままの世界と共にあるが真の悟りであり、違ったあり方を望むことではありません。
悟りとは継続的なプロセスです。
気づきと学びは続きます。
常にやってくる変化に対して滞りなく対応することのできる静かな心を学ぶことです。