悟りはゴールではない

大乗仏教における一般的な「悟り」の定義

 

 

大乗仏教文化における

悟りとは、空とはなにか?

いま、ここを体感する

私に執着しない

呼吸にシンクロする

平静心で感覚に気づいている。

他と繋がっている

 

 

 

 

2015年時点での註】

ここで自分は「悟り系」という言葉を使っているが、この言葉はその後世間ではまったく異なった意味で多用されたため、非常に誤解を招く表現となった。自分は今の「悟り系」という表現の用いられ方には批判的である(MUGAの代表那智タケシ氏の処女作のタイトルが『悟り系で行こう!』というのも皮肉な話だが)。

 

 もちろん「悟りはゴールではない」という認識自体は今も変わらないし、大筋で言いたいことは変わっていないので発表当時のまま掲載する。

 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

―宮沢賢治『春と修羅 序』より

 

「無我」とか「悟り系」とか言われても、今一つピンと来ない、という人は多いのではないだろうか。というよりも、僕たちのやろうとしていることは、これまでにはない価値観の提示なのだから、ピンとこないのは当然なのだ。

そこで、より分かりやすくするために(逆効果かもしれないが…)、無我研が提示する価値観の一つである「悟り系」を、僕が勝手にキャッチコピー風に表現するとこうなった。

 

「ゴールとしての悟りではなく、スタイルのとしての悟り」。

「スタイル」などいうと、表面的でカッコつけてるだけじゃないかと思われそうだし、「悟りすました風に気取る」ことが「悟り系」だ、などという変な誤解も生みそうだ。

しかし、ここで言いたいのは、僕たちは、「無我が当たり前であるように振る舞う」姿勢をもう少し意識的にしてもいいのではないかということだ。

要するに、自我(エゴ)なんてものはハナから存在しないのだから、そんなものを有り難そうに、後生大事にする姿勢は本来「カッコ悪い」のである。

逆に言えば、「無我」だから偉い、とか「悟った」から偉い、などというのは、滅茶苦茶なハッタリでありゴマカシなのだ。だって「無我」なのが当たり前で、それが本来の姿なんだから、「悟った」も何もないのである。

言うまでもなく、「俺は悟った」というのは究極の自己矛盾である。誇らしげに「悟った」と宣言しているのは一体誰なのか?

 

「悟り」はゴールでも何でもない。それは前提条件であって、むしろ僕たちの生活はそこから始まるのだ。「悟り体験」を目指すだけで人生を終えるのは余りにももったいないし、「悟りの光明」を拝むのでは全然だめだ。「悟り」に価値があるのではなく、「悟り系」で生きていくこと、表現することにこそ価値があるのだ。

そろそろみんな、このことに気付こうよ。というのが、僕の理解する「無我研」のメッセージだと思うのだが、どうだろう。

 

「悟る」ためにいろんなセミナーに参加して、「悟った人」に何万円も(時には何十万円も!)払うのは滑稽なナンセンス以外の何物でもない。道端に一万円札をバラまくのをモッタイナイと思わないほどの恵まれた人ばかりなら別に文句を言う筋合いもないが、そんなお金があるなら、新しいムーブメントの発火点であるこのメルマガを有料化するから、それに払ってほしいものだ(嘘)。

 

そして、「悟り系」にかんしては、もっと大事なことがある。

「無我」で「悟り系」の方が、はるかに生きていくのが「楽」なのだ。

音楽雑誌なんかで、よく「本格派」のアーチストが、「苦しんで、苦しんで、苦しみぬいてこのアルバムを作りました」なんて2万字インタビューとかで誇らしげに語っている記事がある。かつての僕もそういう記事をさもありがたそうに読んでいたものだ。

でも、その人の「苦しみ」ってなんだろうとよく考えてみると、要するに近現代文学がさんざんやってきたところの「自意識との泥沼の葛藤」をよりスケールダウンしたものにすぎないのである。

それって、そんなにありがたく思って、評価するに値するものなんだろうか。

「自意識との泥沼の葛藤」がありがたく持て囃されるのは、それが人間として誠実な行為だという評価がどこかにあるからだろう。確かに、ごまかさずにみっともない自意識にまともに向き合うという作業は、ある意味では正直で誠実なのかもしれない。しかし、結局のところ、自我(エゴ、自意識)なんてものは存在しないのだから、そんなものにこだわる必要はないんだ、「こだわる」のは、その人が「こだわりたい」という理由以上のものはないんだ、という認識があるかないかで、「苦しみ」のとらえかたはだいぶ違ってくるんではないだろうか。

 

ある禅僧が、仲間たちに向けて、「悟った!」という喜びを伝えたくて書いた手紙を読んだことがある。その人はこう書いていた。

「・・・楽で、楽で、楽で仕方がない。」

そりゃそうだろう。

「悟り系」は楽なのだ。だってすべての苦しみの原因である自我(エゴ)という最大の重荷を捨ててしまったのだから。

もちろん、「悟り系」は何があってもヘラヘラ笑ってる、というのでもない。

オロオロするときもあるし、涙を流すときもある。

 

だから宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」は、究極の「悟り系」なのだ。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ陰ノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

こういうものが「スタイルとしての悟り系」だ。これ以上にかっこいいものがあるだろうか。これ以上にポジティブな価値観があるだろうか。

最後に、僕が大好きな世界的ベストセラー作家でカピバラみたいなオッサン、「エックハルト・トール」風に締めくくってみよう。

 

2015年時点での註】

前稿の註で指摘した通り、自分は今では「エックハルト・トール」のことは「大好き」ではない。

 

将来の世代は、われわれより上の世代よりも、エゴ(自我)や自意識の問題に上手く対処できるだろう。彼らは自我が幻想であることを早々に見抜き、「世界」だけが存在することを当たり前の前提として生きていくだろう。

「世界=全体」の観点から行動できず、「分離した自己」にしがみつく、エゴの捕らわれを離すことのできない人は、未成熟な人間とみなされるだろう。

そして、そのときまでには「悟り系」という言葉はもはや不要になるだろう。

「悟り系」という言葉は、もはや不要である。端的に「無我表現的」でよいと思う。

 

 

無我表現試論    MUGA第4号、201111

 さて、今回からは、このメルマガの趣旨に沿って、「無我表現」について何かを書いていきたいと思うのだが、無我表現の評論というのは、考えすぎるとできなくなってしまう。というか、考えに考え抜いた上で書くとむしろ頭でっかちな、エゴまるだしの評論になってしまう危険がある。なので、できるだけ肩の力を抜いてやっていこうと思う。

 

「評論」などと謳ってはいるが、少なくとも、ここでは「この表現は無我。この表現はエゴ」というレッテル貼りをするような評論をするつもりはない。

大切な前提がある。それは、悟りを開いた人でなければ無我表現ができないわけではない、ということだ。無我表現は、それ自体が「悟り」である。

無我表現とは、自他不二、自己即他者、我即世界、つまり「私と世界(他者)の間に隔たりのない表現」のことをいう。

厳密な話をすれば、「悟った人」が「作品」を通して表現する、ということではない。「作品」そのものが悟りなのだ。「作り手」という分離した存在が残っている限り、それはまだ無我表現ではない。

ごく普通の人(普段の生活ではエゴにまみれているような人)が、ふとした時に見せる「無我」な表現、あるいはエゴの塊のような芸術家や表現者がむしろ自分でも全く予期せぬ瞬間に生まれた無我の作品。そうしたものを拾っていければと思う。

次に示す有名なエピソードなど、「無我表現」の何たるかを端的に示す話だと思うのだが、どうだろうか。

三遊亭円朝といえば、名人と呼ばれる希代の落語家である。あるとき、この円朝が山岡鉄舟の前で「桃太郎」を一席しゃべった。ところが鉄舟は気にくわない。「おまえさんの桃太郎は、死んでしまっている。おまえは舌でしゃべるからいけない。舌を使わずに話してみろ」と鉄舟に言われ、以降熱心に参禅。2年間の修行の後、鉄舟に「桃太郎」の噺を聞かせたところ、「無舌居士」の名をもらったという。

鉄舟はこう言ったという。「今の芸人は、とかく人さえ喝采すれば、すぐにうぬぼれて名人を気取るようだが、昔の人は自分の芸をいつも自分の『本心』に問うて修行したものだ。しかし、いくら修行しても、落語家は『舌を無くす』ことをしない限り、本心は満足しない。役者だったら、身体をなくさない限り、本心は満足しないのだ」

 

先日、TBSラジオの『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』という番組で、『13人の刺客』や『一命』などの本格時代劇から『ヤッターマン』や『忍たま乱太郎』など幅広い作品を手掛ける、現在の日本を代表する映画監督といってよい三池崇監督のインタビューが放送されていた(話が脱線するが、TBSラジオはこの『ウィークエンドシャッフル』をはじめなかなか面白い番組をたくさんやっていて、最近ではポッドキャストなんかでも聞けるので重宝している)。そこでの三池監督の言葉に感心する箇所がいくつかあった。曰く、「最近の監督は個性を出そうとして流れに逆らおうと必死にもがいている感じがする。でも、流れに逆らっていることは傍から見れば止まっているのと同じに見える。自分はむしろ個性というものをいったん無くし切って、とことん流されていくことにしている。すると、結果的に思ってもみなかった個性的な作品が次々に生まれる。川の流れと一つになることで見えてくるものがある。流されていく先には必ず海があるのだから。」

三池監督の映画を一本もまともに見たことのない僕が言うのはおかしな話だが、彼の制作スタンスには「悟り系」の匂いを感じる。

2015年時点での註】

ここで自分は「悟り系」という言葉を使っているが、この言葉は世間ではまったく異なった意味で多用されたため、非常に誤解を招く表現となった。今の自分は「悟り系」という表現が適切であるとは思っていない。端的に「無我表現」ないし「無我的」でいいと思う。

 

 

 

無我表現とは? MUGA的な生き方とは?      MUGA第17号、201212

これまで、無我表現の実例として、文学(宮沢賢治)、芸能(AKB48)、建築(坂口恭平)、哲学(ウィトゲンシュタイン)といったさまざまなジャンルで活躍する人物を取り上げてきた。今回は、無我表現あるいはMUGA的な生き方というものについて改めて考えてみたい。

 

【悟りがゴール(目標)ではないということ】

MUGAでは「悟り系」というキーワードも使っているが、ここでいう「悟り」とか「無我」というのは、いつか達成すべき目標というものではない。

悟り系とは、自我を重んじない生き方のことをいう。悟りは目標ではなく、大事なのはむしろその先であり、何を表現するか、どう生きるかということだ。

「悟り体験」を求め続けて一生を終ってしまう人がいる。そのような人の生き方はまったく無我表現ではない。

無我というと、どうしても悟りとか禅とかいうイメージと結びつきやすいが、無我表現におけるポイントはむしろ「表現」の方にある。

「私は悟った」とか「私は無我だ(!)」という言及がいかに無意味なものであるかはウィトゲンシュタインが明らかにしている。具体的な「表現」を離れては、自我も無我も存在しない。

大切なのは、その人が過去に「悟り体験」を得たかどうかではなく、今その人が無我表現であるかということ<だけ>だ。

過ぎ去ってしまった「悟り体験」にしがみつき、そのイメージを反復しようとすることは、無我表現と対極にある。

あらゆる体験は、それが「私の体験」である限り、どうということはない。

 

【無我表現時代の到来】

よく誤解を受けそうなのだが、「無我な人(悟った人)が無我表現を行う」のではない。

無我表現とは、表現者と表現の間に分離がない状態のことをいう。無我夢中で踊っているAKB48のメンバーは、それが表現者(エゴ)のいない表現である限り、無我表現である。

表現者と表現の間に分離があるならば、それは無我表現ではない。表現するものと表現されるものの間に分離がないならば、「批評」という行為さえ無我表現たりえる。文芸批評の大家と呼ばれた小林秀雄の文章には、そのようなものがある。

もちろん、無我表現はトランス状態(忘我)とは異なる。忘我は一時的に自我を忘れることにすぎない。忘我(エクスタシー)という「体験」が終わると、再び自我が目を覚ます。

無我表現の中では、何かを体験する主体さえもがなくなる。

何が無我表現かどうかについて堅苦しく考える必要はない。無我表現は自我表現より優れているなどと考える必要もない。結局のところ、この宇宙全体が一つの無我表現である。

では改めて無我表現などと言う必要もないのではないか。

そう問われたら、それが時代の必然的な流れだから仕方がないと答えるしかない。

 

【無我表現と相容れないもの】

目覚めよ、などと言う人を警戒せよ。

悟りの開き方を教えるなどという人を警戒せよ。

霊的進化のためなどという人を警戒せよ。

特に、その文句の前にさりげなく「○○万円払えば」とか「この団体に入れば」というフレーズが加わった場合には。

あなたは悟りや目覚めの名のもとに誰かの奴隷になろうとするのか。

それは無我表現とはまったく相容れないやり方である。

 

【無我表現の発見】

無我表現研究会の目的の一つは、埋もれている無我表現を発見し、積極的に取り上げていくことにある。

それは町の隅っこで生まれている、誰からも注目されないひっそりとしたものであるかもしれない。あるいは、俗悪すぎるとして良識ある人々が目を背けるような表現かもしれない。

表現者自身を含む誰もがそれと気づいていないような無我表現に注目し、それを紹介していけたらいいと思う。

 

 

 

無我表現研究会について   MUGA第26号、20139

2011年の初夏にフリーライターの那智タケシ氏が「無我表現研究会」を立ち上げ、月1回の無料メルマガを発行し始めてから、早くも2年が過ぎた。

那智氏が書いた、会発足の趣旨という文章には、こう書かれている。

(引用始め)

 「私」「私のもの」「私の国」「私の神」というエゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界」という単位からの表現を志し、研究、創造、評価、発表することを趣旨とする会である。

 この場合の「世界」は、=「無我」であり、さらに言えば「私」性の超越である。表現ジャンルは、芸術、科学、スポーツ、芸能、宗教、哲学、生活等問わない。新たな表現の創造、評価による文化的価値の転換、革命を目指す。

(引用おわり)

これまでに、無我表現研究会は、月に1度のMUGA発行を通して、上記の趣旨に則り、新たな表現の創造、評価による文化的価値の転換、革命を目指してきた。

その中身は、詩や小説の発表、芸能論など、一見すると呑気な趣味的同人誌にすぎない。しかしそれらは、既存の媒体にはない「視点」を含んだものであった。そして、もしこの活動に何らかの価値があるとすれば、この「視点」の提示に尽きるといってよい。

すなわち、「無我表現」というジャンルの発見、提示、紹介である。

 

無我表現とは何か、については、MUGA第1号の拙稿「なぜ無我表現研究なのか」に詳述した。

会が発足したのは2011年の東日本大震災と福島原発事故の直後だった。2年半が経過した今も、原発事故は収束するどころか、最終的な処理の目途が絶たないまま海洋に汚染水を撒き散らし、放射能汚染はさらに深刻の度を増している。

このエゴに塗れた末期的文明症状を呈している世の中にあって、「無我表現」こそが未来への希望である。

無我表現とは崇拝されるべきものでも、自我(エゴ)の努力によって達成できる何物かでもない。それは純粋な聖性の現れである。

無我表現は、至るところに存在するが、それが正当に評価されることは稀である。少なくとも、それが「無我表現」であるという観点から評価されることはなかった。

MUGAにおいては、敢えて「スピリチュアル」から遠い場所で無我表現を見出そうとしてきた。そこには、安易な自己啓発(自我啓発=自我満足)系スピリチュアルへのアンチテーゼ的な意味合いも含まれていたといえる。

自分が取り上げて来た種種雑多な素材から考えると、無我表現にはいくつかの種類があるように思う。

 

・本人の活動の中でまったく無意識に(文字通り無我夢中で)表現されるもの。

 AKB、能年玲奈など

・自我表現が突き抜けて無我表現になっているもの

 ビートルズ、マイケル・ジャクソンなど

・生き方そのものが無我表現となっているもの

 クリシュナムルティ、無為隆彦など

 

1番目のものは、瞬間的な魔法のようなもので、たいてい一時的なもので終わる。

2番目のものは、インスピレーションが続く限り持続する。

3番目のものは、その生自体が無我表現である。

上記以外に、「無我表現的」な存在として、坂口恭平、タモリなどを取り上げた。

誰もが知っているものの中に無我表現を見出すという意味で、記事の同時代性も大切だと思う。

また、無我表現について哲学的な見地から語っているものとして、ウィトゲンシュタインやアフォーダンス理論、無為隆彦氏の「老子眼蔵」について取り上げた。小田切瑞穂博士の潜態論も、無我表現の範疇で捉える事ができる。

 

今後の課題としては、潜態論や老子眼蔵など、わが国に芽生え、このままでは忘却されるおそれのある貴重な無我表現思想のさらなる探究・紹介・普及、無我的芸術家の表現活動との連携といったことが挙げられる。特に、文芸、絵画、デザイン、映画、音楽、彫刻など、アートの分野における無我表現を発見していけたらいいと思う。

ずいぶん堅苦しい文章になってしまったが、それぞれの執筆陣がアンテナを張り巡らし、自由に表現していく中でいろんなものが自然につながっていけばいいと思っている。その思いは当初から変わっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リアリズムと夢と無我 〜〜つげ義春インタビューを巡る雑感    MUGA第35号、20146

 

<つげ義春>と言えば、もはや生ける伝説と化した孤高の漫画家である。若い人は知らないかもしれないが、60年代に「ガロ」に発表した「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」などの“芸術的”漫画が当時の全共闘世代に熱狂的に受け入れられたので、名前くらいは聞いたことがあるかもしれない。

 

彼は1970年代にも「ヨシボーの犯罪」や「外のふくらみ」などの、一種のシュールな悪夢を思わせる独特な作品を発表し、80年代にも、厭世的世界観を背景にした『無能の人』(後に竹中直人によって映画化された)などの佳作を発表したが、1987年に発表した作品『別離』を最後に、一切漫画作品を発表しなくなった。彼がその後どこで何をしているのか、再び活動することはあるのか、長らく謎に包まれていた。

 

そんな<つげ義春>が、今年(2014年)の『芸術新潮』1月号の「つげ義春特集号」で、実に久しぶりの、しかもかなり長文のインタビューに応じているのを、彼の作品をよく知る読者の誰もが驚いて読んだ。

つげの暗い作風や、ネガティブで世捨て人的な世界観からして、寡黙で、行間を必死に読み取ることを強いるインタビューかと思いきや、実に饒舌にいろんなことを語っているのにまた驚いた。相変わらず厭世的ではあるが、淡々、飄々としていて、いい意味で仙人のような印象を受けた。

しかもその内容が、意外なことに、<無我表現>という観点からも、なかなか興味深いものだったので、少し紹介してみたい。

(以下、「つげ義春インタビュー 芸術新潮2014年1月号」より引用)

「マンガは芸術じゃないと僕は思ってますが、まあそれはいいとして、どんな芸術でも、最終的に意味を排除するのが目標だと思っているんですよ。なので意味のない夢を下敷きにした一連の夢ものを描いたり夢日記をつけたりしていたんです。」

「夢は誰もが経験するように強烈なリアル感、リアリティがありますから、長年こだわっていたリアリティを追求するということで夢に関心を持ち、そこから自然にシュルレアリスム風の『ねじ式』が生まれたんです。」

(引用おわり)

『ねじ式』を初めとする、ストーリーを無視し、「意味」を排除したような作品は、まさに夢の世界だといえるが、つげはそこに「強烈なリアル感」を感じ、意味を排除するのが芸術の目標であるという考えのもとにリアリティを追求していたのだという。

興味深い発言だ。自分が漠然とつげの作品に感じていた印象を、作者自身が明快に解説してくれたことはなかなか感動的でさえあった。つげはさらに持論を展開していく。

(引用はじめ)

「自分の創作の基調はリアリズムだと思っているのですが、リアリズムは現実の事実に理想や幻想や主観などを加えず<あるがまま>に直視することで、そこに何か意味を求めるものではないです。あるがままとは解釈や意味づけをしない状態のことですから、すべてはただそのままに現前しているだけで無意味といえますね。」

 

「意味がないと物事は連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消え、それがまさに夢の世界であり、現実の無意味さを追求するシュール画が夢のようになるのは必然なのでしょう。現実も夢も無意味という点で一致するのでシュルレアリスムもリアリズムも目指している方向は同じではないかと思えるのです。」

(引用終わり)

 

つげの口から、「あるがまま」というキーワードが飛び出した。つげの考える「リアリズム」とは、「解釈や意味づけをしない」、「そのままに現前しているだけ」の世界を直視することであるという。そこに、「理想や幻想や主観」の入る余地はない。

 

『ねじ式』が「幻想や主観」を排した「そのままに現前しているだけ」の世界の描写であるとはとても思えないのだが、つげにとって、「意味を剥ぎ取られた世界」の無意味性を表現するのに、物事の連関性が失われ、すべては脈絡がなくなり断片化し、時間も消えた、夢の世界のような描写は必然であったのだろう。

さらに、「リアリズム」についての興味深い考察が続く。

(引用はじめ)

「ともかくリアリズムが好きですね。自分の主観による意味づけを排して、あるがままの現実に即して描くのが…。

 でもあるがままに認識するのは不可能であることを西洋哲学は主張してますね。どのようにしても主観が入るわけですから。けれども自分が無我になり主観が消えると、あるがままに認識できるんじゃないかと思えるんです。仏教の考えがそうでしょう。

 禅の道元は修行をするのは「自己」を忘れ無我になるためだと言っています。無我になって主観が消えると、世界はあるがままに現成すると。

 だけど修行するヒマなどない普通の凡人でも夢の中では無我を経験できますね。」

(引用おわり)

 

遂に「無我」というキーワードが登場した。「無我になって主観が消えると、世界はあるがままに現成する」という道元の思想がつげの創作のバックボーンになっていたなどということを初めて知ったことは一種の衝撃であった。

 

自分がつげ義春の作品を読んで感じるのは、どんなに精緻を極めた作画や、悲しく暗いストーリーでも、「余計な力がまったく入っていない」ということだった。

たとえば、僕の好きな作品に『海辺の叙景』というのがある。わけありそうな男と女が、海辺で静かに語り合い、女が雨の海を男が泳ぐ姿を眺めるというだけの、表面上はなんということもない話なのだが、そこに流れるそこはかとない緊張感、哀しみ、抒情、優しさといった、人間感情のさまざまな要素が、目に見えない静けさと激しさを同時に含みながら伝わってくる佳作である。

あるいはつげの抒情性を最も端的に示す『紅い花』という短編。旅情をかきたてる『ほんやら洞のべんさん』。殊更にドラマを提示することもなく、作品を鑑賞する上で邪魔になる作者の自我の片鱗がまったく感じられないから、読後に深い余韻を残す。

「無我になって主観が消えると、世界はあるがままに現成する」、そのあるがままの世界を描くことがリアリズムだというつげ義春の漫画は、実は「無我表現」であったのかもしれない。

さらに、つげの「リアリズム論」はどんどん掘り下げられていく。

(引用はじめ)

「夢は眠ることによって目覚めているときの自己が消えて無我の状態ですね。すると文字通りの「無我夢中」になり、夢の中での状況を対象化したり意味づけや解釈をする余裕がなくなる。そのためすべてをモロに真に受けてしまい強烈なリアル感を覚えるのでしょう。対象化できないとすべては意味もなく現前しているだけになり、その無意味性に直面し感応することによってリアリティが感得されるのではないかと思えるのです。」

「この現実世界は本来あるがままで意味はないのに、そこを主観でもってさまざまに解釈し、意味づけをしてひとつの世界像を「創作」したわけでしょう。別の解釈をすればまた別の世界になる。ということは虚構の世界に過ぎない。しかし虚構では何の根拠もなく不安ですから「創世記神話」まで創作し、もっともらしくしているのではないですか。

 歎異抄も含めて浄土教の説いている「浄土」とは、虚構に惑わされず事実を直視した世界のことでしょう。仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。でも自分はキリストも好きなんです。」

「後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って。一例を挙げると、「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものだからである」という言葉に出会ったとき、直感ですぐ理解できたのですが、後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね。乞食は社会の仕組みからはずれ、関係としての自己から解放されています。自己意識も消えて、生も死も意識されることがなくなり、生きていることの不安も消える、その状態こそ神の国、天国ではないですかね。」

(引用終わり)

 

つげ義春の作品から、「仏教的無常観」を感じることはあっても、超越的な神を求める信仰性を感じることなどついぞなかったのだが、キリスト教への造詣も深いとは知らなかった。あるいは作品を描かなくなってからこちらの方面への関心が深まったのだろうか。

そして、「夢とリアリティ」を追求していたつげの創作の秘密が明かされる。

(引用はじめ)

「自分で一番よくできたと思っているのは「夢の散歩」という作品なんだけど、注目する人がほとんどいませんね。「夢の散歩」は偶然出会った男女が泥のぬかるみの中でいきなり性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味がないんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように夢の世界に似た印象になりますね。現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです。

 この作品のタイトルは「夢の」としていますけれど、こんな夢を見たわけではなく、リアリズムから発展してこんな風に…。でも駄目ですね、説明をするのが難しくて。」

「その後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法でやっていたんですね。でも、自分はカフカ流の漫画では食っていくことができないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退していきましたけれど…」

(引用おわり)

 

80年代に発表した(彼の最後の作品群となった)『無能の人』や『海へ』、『別離』といった、私小説的、自伝的な作品は、つげ義春にとっては「リアリズム」からの後退を意味したのだった。これらの作品はそれはそれで味わいのあるもので、特に『無能の人』シリーズは個人的に好きな作品である。

インタビューでは、奥さんを癌で亡くした後、ノイローゼになって5年くらい精神科に通っていたこと、長引いたのは薬のせいで、通院をやめて薬をのまなくなったら治ったこと、現在はひきこもりがちな息子の世話と家事に追われていることなど、プライベートに関する事情も明らかにされている。

 

漫画の新作はたぶん期待できないと思うが、つげ義春の語る「リアリズム論」は、今後も何かの機会にさらに突っ込んだ形で公表されることを望んでいる。

 

 

 

『二十一世紀の諸法無我 断片と統合―新しき超人たちへの福音』(那智タケシ、ナチュラルスピリット社)

【現代的宗教精神のアヴァンギャルドな結晶】

この本は、いわゆる宗教書ではない。書店などでスピリチュアル系の書籍と同じ棚に並べられたとしても、「スピリチュアル本」と安易にカテゴライズされるべきではないと思う。  

だが、言葉本来の意味における宗教書といえるかもしれない。

 

本書は、大げさに言えば、時代精神の一つの結晶であり、本書の言葉を借りていえば、現代世界を取り巻くあらゆる「断片」を「統合」した独自の一形式である。タイトルが示しているとおり、この書は21世紀の今、歴史の必然として世に出るべくして出された新時代の幕開けを告げるものであると思う。

 

重要なのは、ここに書かれている言葉のすべては、他のどこかからの受け売りでもなく、著者自身が述べているように、「一切の外からやってくる断片的情報を却下し、自らの内部で肉化した言語だけで構成」したものであるということだ。一つひとつのフレーズは、著者自身の肉体の中で深化し、濃縮された、結晶の如き内実を備えている。少なくとも、ここに嘘は書かれていない。嘘というのは、自分自身で体験したものではないただの観念という意味だ。

昨今よく耳にする、インド発欧米経由のアドワイタ(不二一元論)的な言説は、我が国においては一部の精神世界愛好家にとっての心地よいモダニズムとしての役割を持つにしても、時代を創造していくアヴァンギャルドのみが有するエネルギーを持つことはない。

本書は、真に創造的であるという意味において「アヴァンギャルド」であり、既存のあらゆる観念、イメージを根こそぎ破壊する計り知れないエネルギーを内在している。

 

【『悟り系で行こう』を超えて】

著者は、前著『悟り系で行こう』において、「世界=私」というコペルニクス的認識転換の体験に基づいて、既存の宗教やイデオロギーを「私と世界との分離という誤った世界観(自我観)に基づくもの」として否定した。

 その認識は、ここでも維持されている。

しかし、この書では、著者の主張はさらに押し進められ、「世界との新たな関係性」について語られることになる。

この歪み切った醜悪な世界で、「自分(世界)は完全に満たされている」という充足感の中に満足している人がいるとすれば、それは現実から目を背けた自己欺瞞にすぎない。いかに「すべてはOK」という振りをしたところで、この競争と憎悪と放射能にまみれた世界の「悲しみ」を自覚しないならば、それは本当の意味での悟りではない。

自我の問題を克服することは決してゴールではない。自我の問題を浄化した時に初めて、人は世界が歪みと悲しみに覆われていることをリアルな事実として認識する。それまでは「私」とは別の「世界」の苦しみや悲しみでしかなかったものが、初めて自分自身の問題として切実に自覚される。だから

「悲しみを終わらせるために、あなたは行動する。その行動の源にあるものこそが、慈悲である。」(第2章「悟り」より)

求道の段階は終わりを告げ、「表現」(無我表現)の道が始まる。

 

【真実と虚偽〜〜形式のオリジナリティ】

第3章「芸術」からは、「表現」としての芸術の意義が語られる。

「断片を統合することによる芸術――これは、一つの新しい生き方そのものである。」

 著者は、形式のオリジナリティの中にこそ本物と偽物を識別する鍵があるという。

 「一つの観念を信じる者は、一つの言葉しか持たない。

 一つの断片からは、似たようなもう一つの断片しか生まれない。

  何が真実で、何が偽りかを見抜くことは簡単だ。そこにオリジナリティがあるか否かだけを見ればいい。もしもそれがなかったら、それは与えられた一つの断片を繰り返しているだけの偽物である。」

「独自の形式によってのみ、真実は表現される。

 独自の形式とは、世界との独自な関係性である。

 独自な関係性とは、あなたと花の関係そのものである。」

 

アフォリズム形式で書かれた本書は、それ自体が独自の形式による「断片の統合」であり、解説を読んで分かったつもりになるよりは、この作品が真実を提示する形式(フォルム)そのものを味わうべきであろう。

 

「芸術は心地よくあってはならない」というのは岡本太郎の言葉だが、この本に書かれている言葉は、決して心地よくはない。それどころか、「すべてはうまくいっている」という自己満足的な充足感や「自分は悟った」という個人的多幸感の中に安住している人々の意識に揺さぶりをかけ、挑発し、居心地のよさを破壊する力が込められている。ある種の人々にとっては、不快にすら感じられるフレーズを含んでいるかもしれない。そういう意味では、読者を選ぶ本だともいえる。

 

本当に「悟った」のならば、その人の表現は真に新しい形式を持たなければならない。では、悟ったと自称する人々のうち、オリジナルな、周囲の世界を根こそぎ変えてしまうような独自の表現活動を行っている人はどれほどいるか、と著者は問いかけているように思われる。

本書は、著者自身によるその解答である。

 

【読む冥想】

本書は「読む冥想」だと思う。自分とは何か? という探究に始まり、「諸法無我」から「超人」の誕生へと至る一つの孤独な冥想の道程である。

真我実現というのは実在論だと著者は言う。心身脱落を経た諸法無我の認識は、真我というような実体を認めない。全ては移りゆく。固定された永遠の自我というものはない(諸行無常、諸法無我)。ではどこに救いがあるのか? 救いというものはないと見切ることか? 

救いはある。が、それも一つの体験(断片)であり、通過すべきもの、超克されるべきものだ。それが21世紀の超人の生の在り方だ。

最初の一文から最後の一文まで、バラバラの断片が一本のロープのようにつなぎ合わされ、読者は、あたかもそのロープの上を綱渡りしているかのような集中力と緊張感を持って読み進めることになる。

その静謐なスリル感をもって、最後までロープを渡り切った時、いつの間にか「向こう岸」に辿り着いていることに気付く。そんな本だと思う。

 

短評

●ガダラの豚/中島らも(集英社文庫)

 中島らもについては、ちょっと飛んだ人というイメージしかなかったので、ずいぶんちゃんとした小説も書けるんだなあというのが第一印象。

 テーマは新宗教、自己啓発セミナー、超能力、アフリカ呪術などで、中島らもがこういうテーマにかなり深く取り組んでいたのだなというのも意外だった。

 上・中・下の三巻あり、それぞれに毛色が微妙に異なる。ネタバレするわけにいかないが、最終場面に向けての緊張感の高まりはかなりのもの。

 

●直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

 昨年末に出た、小林の対談本。対談の相手は、三木清、横光利一、湯川秀樹、折口信夫、河上徹太郎、今日出海など。リラックス気味の対話の中に、随所に興味深いフレーズが出てくる。

 特に小林が「形」にこだわる点を興味深く読んだ。彼は例えば、モーツアルトは音楽という空気の振動の「新しい形」を提示したのであり、その表現は彼の魂(才能)が必然的に要求したものだという。同様に、本居宣長は『古事記』を単なる書物ではなく、ひとつの「形」としてリアルにイメージしていた。宣長にとって『古事記』は観念や想像の産物ではなく、あたかも骨董屋にとっての美術工芸品の如く、具体的な「形」だったのだと。

 

 小林秀雄になぞらえれば、無我(「悟り」と言い換えてもよかろう)は、必然的に特定の「形」(形式)を要求する。それが「無我表現」であり、具体的な形としての表現を伴わない「悟り」や「覚醒」といったものは、ただの観念に過ぎない。さらに言えば、観念とは自我(エゴ)の投影であるから、それは無我ではありえない。

 戦前から戦後まで一貫する小林の洞察は、現在もなおその意義を失っていない。

 

●能とは何か/夢野久作(青空文庫)

 今更、能を無我表現等という言葉を用いて論ずるのも興醒めであろうと思うのだが、能という舞台芸術はやはり日本の生み出した究極の無我表現芸術というしかないだろう。

 この夢野久作(『ドグラ・マグラ』の作者)による能についてのエッセイは、言葉で伝え得ないニュアンスをギリギリのところまで伝えようとした試みであり、能についてまったく無知な自分にも伝わるものがあったので、入門書としても最適かもしれない。

 改めて世阿弥の『風姿花伝』など読み直そうとか思わないでもない今日この頃。

 

 ●『無【1】神の革命』、『無【2】無の哲学』 福岡正信著、春秋社

 

 自然農法のバイブルとしてそっちの世界では有名な本『わら一本の革命』の著者、福岡正信氏の著書を図書館で見つけたので読んだ。彼が思想哲学書を書いていたことは知らなかったが、たぶんこういうバックグラウンドがあるのだろうと思っていた。

そのものズバリだった。

 「無」三部作という形式で、全編で1500頁近い大著であり、福岡正信思想の集大成とでも呼ぶべき内容である。

 【1】は、終戦後まもなく謄写本として出した『無』という冊子を昭和33年に『百姓夜話』と改題して出版したものを骨組みとしたもの。『百姓夜話』のまえがきには、こう書かれている。

 「若いとき私は、ある一事を知った。…この書は平凡な一百姓の人生報告ではない。私を支配して、私の一生を狂わしてしまった一事(註:絶対無の体験)がなんであったかを書こうとしたにすぎない。不可能と知りながら・・・。」

 【2】は、西洋哲学批判、自らの悟り体験に基づく「無の哲学」提唱などが中心。

 彼の思想には、小田切瑞穂、伊福部隆彦らにつながる「東洋的絶対無」の精神が貫いていて、非常に骨太であり、観念論ではない実体験に基づくリアリティが感じられる。

 よく引き合いに出される『奇跡のリンゴ』とは一味もふた味も違うという気がした。

 

●『さよなら私』 みうらじゅん著、講談社

「自分」へのこだわりを捨て、「そもそもはない」とゆるく物事をあきらめることによって、ラクに人生を生きられる。みうらじゅん独特の仏教解釈をベースにした人生訓。(表紙裏より)

(以下本文より引用)

 「めんどうくさいのは“自分”があるからです。それに気づいたのは最近のことでした。みなさんはずいぶん前から知ってましたか? ・・・自分が“自分”だと思い込んでいるものは何でしょう? 実際は脳が作り出した幻想にすぎません。あのトーフのような白いやつの仕業です。うまいもんが食いたいとか、素敵な恋人に出会いたいとか、楽して生きたいとか、アイツが次々に要求してくるものに必死で対抗しているのが悲しいかな“自分”です。言うなれば脳の奴隷が自分なのです。・・・「自分なんていっさい信じてないモーン」と、言い返してやってください。それに対し、脳は理由や理屈を要求してきますが、誘惑に負けてはいけません。そのうち、脳のほうもあきれるでしょう。すべての悩みの原因は、自分があると信じていることなのですから。」

 

 「悩みの根源はすべて“自分”と、思い込んでいるものが原因で、そもそも自分なんてハッキリしたものはどこを捜してもないのです。・・・どんどん自分の中から理想をなくしていけばいいのです。大したことない自分をしっかりと受け止めなければ先には進めないからです。・・・大したことない自分と向き合えることが自信につながるのです。」

(引用終わり)

 

 仮に「自分なんてないんだ」という考え方をMUGA精神と呼ぶとしたら、彼はMUGA精神の提唱者としては現代日本の第一人者と言えるかもしれない。その主張は勿体をつけて書かれた仏教書よりもある意味で本質をついている気がした。

 

●『論理哲学論考』 ウィトゲンシュタイン著 ほか

なぜかウィトゲンシュタインを読み始めた息子(中二病)の影響で、ウィトゲンシュタイン関連本をいくつか読んだ。中でも入不二基義という人の『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)という本は、ウィトゲンシュタインの独我論について分かりやすく語っている。「私」=「世界」という認識を哲学するとこうなるのだろう。おそらくウィトゲンシュタインにはこの認識が先にあって、それを表現するために哲学したのではないか。そしてそれは彼の言う「語られざるもの」ではなかったか。

 

  『ウィトゲンシュタインと同性愛』(ウィリアム・W・バートリー著、小河原誠翻訳)という本も興味深く読んだ。タイトルが衝撃的だが、決してスキャンダラスな内容ではない。彼の人生と哲学を、他の評伝では描かれていない側面を交えて記述した興味深い評論である。とりわけ、『論理哲学論考』出版後に田舎の小学校教師となった「失われた年月」の幾多のエピソードは、著者が実際に当時の生徒たちに取材して書かれたもので、情熱的なウィトゲンシュタインの人間性が伝わってきて、とても面白かった。

 

 彼が地方農村の小学校で行ったラディカルな教育改革は、大人たちの猛反発をくらい、やがて追放されるに至るが、子供たちとは深い触れ合いがあったことが分かる。彼は重いリュックに果物を一杯詰めて、10キロの山道を歩きながら、貧しい農家の子供たちにバナナやリンゴを配って歩いた。小動物の骨を子供たちと一緒に拾い集めて、精巧な骨格模型を作り上げた(それは今でも用いられている)。大人たちが工場で使う機械の模型を子供たちと一緒に作り、稼働させることもした。生徒たちを自費でウイーンの姉のもとに遠足に連れて行ったり、森の中を巡って岩石や植物の標本を集めて実地の授業を行ったり、夜空を見上げながら星座の授業をした(親たちには夜まで子供を返さないことで非難された)。優秀な生徒には、毎日夜遅くまで個別授業をし、親に会いに行って、自分が学費を負担するから、学校を卒業したらウイーンでもっと高い教育を受けさせるべきだと主張したりもした(結局、変人扱いされて追い返された)。優秀な生徒を養子にして育てようとさえした。生徒たちは、ウィトゲンシュタインが去った数十年後も、ウィトゲンシュタインから教わったシラーの詩を暗唱できたし、ウィトゲンシュタインが演奏し歌ってくれたオペラの歌曲を覚えていた。ある元生徒(年老いた農夫)は筆者に、ウィトゲンシュタイン先生から聞かされた面白い話(哲学的パラドクスの問題)について嬉しそうに話したという。

 生徒の親たちは、この常軌を逸した新米教師を「怪物」と呼んで、生徒を体罰したと告発して裁判にかけた。ウィトゲンシュタインは無罪になったが、再び教壇に立つことを拒絶して、哲学の世界へと戻って行ったのだった。

 

●『ハムレット』『リア王』『十二夜』『アントニーとクレオパトラ』ほか 

正月にシェイクスピアの作品と関連書籍をいくつか読んだ。西洋文学の古典中の古典について今更何を言う事もないが、これはやはり無我表現である。シェイクスピアの視線は非人間的で冷酷と言えるほどに無私であり、その作品は虚飾を排した剥き出しの世界を提示しているにもかかわらず、全編に溢れる豊かすぎる詩情が観客にとっての緩衝剤となっている。作品鑑賞を限定する作家意識というようなものが存在しないために無限の解釈を許容する。シェイクスピア自身の生涯には謎が多く、別人説も流布しているが、これらの作品は彗星の到来の如き一種の自然現象であり、もはや、どんな自我がこれらの作品を考案したのかが問題となる次元にはない。

 

 

 

●『新しき文明の礎石を求めて』 伊福部隆彦著

 『老子眼蔵』の著者、伊福部隆彦氏の最後の著作という。文明論である。現代文明が近く破滅することを前提に書かれている。序文の日付は19671120日。2015年現在、まだ現代西洋商工業都市文明は破滅しきってはいないが、ほぼその瀬戸際にあるといえるだろう。超大国による全面核戦争の可能性が低くなった代わりに、西側先進国VSイスラム世界はじめとする第三世界との終わりなき内戦、テロによる漸進的破滅という現実が生じ始めている。

 伊福部氏は、東洋的重農主義に新しい文明の形を見る。富の共有を否定し富の個人的(暴力的)支配を認めたことが現文明の誤りであるとする。伊福部氏の思想は生前孤独であったが、先に上げた福岡正信氏の思想と根底においては共通するものがある。こうした在野の思想の価値は必ずや再評価されるだろうし、されなければならないと思う。

 

●『東京百景』又吉直樹

 今をときめく芥川賞作家、芸人でもある又吉直樹によるエッセイ集。この人に文才があるのは確かで、東京各地にまつわる短めのエッセイを集めたこの作品は、個人的に『火花』よりも面白かった。太宰治的な「自我文学」の方向性にあるが、「無害な自我」が「自我の置き所」を迷いながらユーモラスに探す様子が嫌味なく描かれていて好感が持てる。

 鳥居みゆきの小説にも感じたが、お笑いの人が書く文章は、読者へのサービス精神に溢れているという長所がある一方、同時に「ネタ帳」的な文体が気になる部分がある。又吉の文章にも時にそういう印象を受けるが、芸人と小説家という「二足のわらじ」を履いているうちは仕方ないのかもしれない。又吉が「自由律俳句」に挑戦した『カキフライがないなら来なかった』という本にも才能とセンスが感じられた。

 

●『ここは退屈迎えに来て』山内マリコ

  何か目先の変わったものが読みたいと思い、たまたま目についた変わったタイトルの本を買って読み始めると面白くて、夜更けまでかけて一気に読んでしまった。

 

   1980年生まれの作者が、地方都市出身の同世代の女性たちの内面外面の生活を、きびきびした文体でリアルに、時にペーソスの混じるユーモアを交えて切り取っている。男の目線からも似たような物語が書けるのではないかと思ったが、その物語はこれほど鮮やかな青春小説に並ぶものになるとはどうしても思えない。こういうのを読むと、女性にしか書けないリアリティというものがあるのかな、と感じる。著者と同じ世代ならもっとヒリヒリ来るのかもしれないと思った。

 

●『刑務所の中』『刑務所の前(全3巻)』花輪和一

MUGAの対談にも登場いただいたクニさんに貸していただいた。花輪和一の名前は知っていたが読んだのは初めてだった。『刑務所の中』は、モデルガン好きが高じて本物の拳銃(とはいっても錆びてボロボロの中古品)を知人から譲り受けた著者が銃刀法違反で刑務所に服役した記録だ。その題材及び視点の目新しさから、奇しくも(皮肉にも、というか)彼の作品としては一番売れ、映画化もされている。この事件、どう考えても実刑は行き過ぎだと思うのだが、本人は納得して服役したという。作品中にも恨み節のようなものは一切出てこない。まるでドストエフスキーの『死者の家の記録』を思わせるほどのリアリズム一辺倒である。これには花輪氏の複雑な個人的内面的事情を考慮する必要があるのかもしれない。

 

 花輪和一のマンガは、彼が背負っている(と彼自身が信じている)「業障」と何とか折り合いをつけ、それを解消するための一種のセラピー的な活動と感じられるときがある。いわゆるアウトサイダー・アートに近い匂いがする。そういう表現が持つ独特の切羽詰まった濃密さには、見る者を引き込む重力がある。表現者のあるがままの内面世界がそのままゴロッと提示されているような凄みがある。

 

 『刑務所の前』は、最終的には逮捕に至ってしまう拳銃改造のドキュメントと、『刑務所の中』と、宗教やトラウマや因縁物語を含む時代劇(?)とが混然一体となった凄いマンガである。この頭がくらくらするような一大絵巻を読み終わったとき、花輪和一はもしかしたらこれを書くことで一つのステージを乗り越えたのかもしれないという印象を受けた。

 

●『レイモンド・カーヴァー傑作選』(村上春樹訳、中公文庫)

 レイモンド・カーヴァーは、1939年アメリカ、オレゴン州生まれ。製材所勤務、病院の守衛、教科書編集などの職を転々とするかたわら執筆を始める。短編の名手とされ、無駄を削ぎ落とした文体は「ミニマリズム」とも評される。1988年に肺癌のため死去。

 

 この選集は、彼の主だった短編やエッセイや詩を村上春樹が訳したもので、わりと様々な傾向の作品が読める。彼の小説は下層寄りの中産階級が主人公であることが多く、アメリカの都会のインテリ向けの小説とは一線を画している。題材も、アルコール中毒更生施設(彼自身アル中に苦しんだ)や家族・夫婦の亀裂など、へヴィーなものが多い。それでも不思議と読後感は暗くはなく、しみじみと温かいものが胸に広がる。収録の『ぼくが電話をかけている場所』や『ささやかだけれど、役に立つこと』といった作品が特にそうだ。

 

 『足もとに流れる深い川 So Much Water So Close To Home』というタイトルの短編が収録されているが、カーヴァーは、表面的な描写の連続から、その底にある深い大きなものを感じさせるのが巧い。こういうのをアメリカ的なリリシズムというのだろうか。「間」を大切にする日本の芸能とも通じるものがある気がする。

 

 『大聖堂(カセドラル)』という作品は、最高傑作の一つと広く認められている。村上春樹は「立派な人が一人も出てこない立派な小説」と評しているが、これなどまさに、「表面に現れない深い大きなもの」を描かずしてリアルに描き出すカーヴァーの真骨頂といえるだろう。

 

 ストーリーと言えるほどの劇的な展開は何もない。表面的には何ほどのことも起こらない。しかし読んだ後、胸の奥に何かがこみ上げてくる。これは日常の中の奇跡についての物語である。

 

 ある日、主人公(私)の家に盲人が泊りに来ることになった。妻の昔からの友だちである。私は内心面白くない。会ったこともない相手だし、目が見えないというのもうっとうしい。妻は精神的に彼に惹かれているようだ。来てみるとかなりユニークな人物で、調子が狂ってしまう。一緒に食事をしたり煙草や大麻を吸ったりするうちに、私はこの盲人についてとらえどころのない不思議な感情を持つようになる。テレビではちょうど中世ヨーロッパの教会についてのドキュメンタリー番組が放映されている。そこに大聖堂が映し出される。大聖堂について盲人に説明しようとする私だが、口ではうまく説明できない。「ふたりで紙に絵を描いてみよう」と盲人は提案する。私の手に彼が自分の手を添えて、一緒に大聖堂を描き始める――

 

 ここからラストに向けての描写の見事さは実際に読んで体験してみないと分からない。小説を読む体験の醍醐味とはこういうことをいうのだろう。

 

 村上春樹の解説を借りれば、「ふとしたきっかけで、物語の流れは二人の『赤の他人』のあいだに生じる奇跡的な魂の融合のようなものへと突き進んでいく。モーツアルト風にいえば、肝のところで例の決定的な転調が訪れるのだ。その<はっ>と澄み渡る意外な一瞬が素晴らしい。」

 

 村上春樹の小説については以前メルマガで批判的に取り上げたことがあるが、当然ながら彼は最高に文章が上手く、翻訳のセンスもある。彼が情熱を傾けて訳したレイモンド・カーヴァーの作品は、日本語による小説として、まぎれもなく最上の部類に属する。

 

 

『人は必ず老いる。その時誰がケアするのか』本田徹著(角川学芸出版) MUGA第39号、201410

MUGA代表の那智タケシ氏が編集に関わった、とても興味深い本が発売された。

那智氏から、山谷の地域ケア・ネットワークという硬派なテーマで取材を続けていて、本田徹医師をはじめとする素晴らしい人々との出会いがあったという話をMUGAの編集会議の折に聞いていたので、ようやく出版されたと聞いて待ちきれず一気に読んだ。

 

私事になるが、本田徹医師の名前は、学生時代に聞いたことがあった。国際支援NGOの草分け的存在である「日本国際ボランティアセンター(JVC)」の事務所が上野にあり、学生ボランティアとして何度か出入りしたことがあった。そのJVCの医療版NGOとして「シェア=国際保健協力市民の会」があり、その中心だったのが本田医師だった。

社会人になって、すっかりボランティアとは縁遠くなってしまった自分だが、ここで再び那智さんの仕事を通じて本田医師の本を読めたことは不思議な縁だと感じている。

本書にも書かれているとおり、「シェア」は当初途上国の医療支援を活動の主軸としていた。それが、途上国の抱えている貧しい人々の医療ニーズが国内にも存在することを「灯台下暗し」の形で知らされたことで、本田医師の山谷における活動が始まる。

この本は、本田医師自身の活動よりもむしろ、地域ケア・ネットワークで働く様々な人たちや、ケアを受ける側の人々の姿に焦点を当てることで、山谷という日本でも特殊な地域性を持つコミュニティで効果的に機能しているシステムの現実を浮き彫りにしている。俯瞰的、客観的な描写に終始するのではなく、関わっている人間ひとりひとりの内面的ドラマにまで踏み込んだ感動的で立体的な記述になっている。これは那智氏の手腕といっていいだろう(別にヨイショではなく)。

本の大半は、山谷におけるNPO等の活動の実践報告に割かれているため、タイトルである『人は必ず老いる。その時誰がケアするのか』の示す社会全体の問題とどうリンクするのか興味を持って読み進めていたが、その点は、第5章「超高齢社会の脱出口とは?」あたりから本格的に論じられる。要は、近未来日本の超高齢社会の縮図である山谷という地域社会におけるケア連携ネットワークの実践が、今後他の地域社会でのモデル・ケースとなりうるのではないかということだ。本田医師が佐久病院で学んだ地域医療に関する「長野モデル」も紹介されている。

日本はすでに65歳以上の人口割合が25%を超えており、世界一の高齢化社会に突入しているが、団塊の世代が75歳の後期高齢者となる2025年からは、まさに人類史上未曽有の「超高齢社会」が本格化する。これはどうやっても避けることのできない厳然たる事実だ。首都圏人口の3人に1人が高齢者になるなんて想像できないなどと言っても始まらない。想像をたくましくして、その時代に備えなくてはいけない。

この本を読めば、山谷は特殊な地域だという言葉ではもう片付けられない状況になっていることが分かる。80歳を越えて単身で生活する人は今も決して珍しくない。近い将来には確実に、老後は単身世帯で、決して物質的に豊かではない暮らしを過ごす人が大半という時代になるだろう。

山谷で機能しているような、善意に基づいたNPOや病院その他関係諸機関の地域ネットワーク作りは、一朝一夕に成立するものではない。その鍵になるのはやはり「人間」なのだということがこの本を読むとよく分かる。

この著書の中で、本田医師は、決して自らの果たす役割の重要性を声高に語ることはない。しかし、彼の無私の働きと、人格的な魅力がなければ、このネットワークをここまで機能させることはできないということを自分は那智氏から聞いてよく知っている。

このネットワークは、本書で取材を受けているシスター、リタ・ボルジーさんのような「慈悲の体現者」やカナダ人牧師ルボ・ジャンさんのような博愛精神の持ち主がいてこそ成り立つ、血の通ったシステムなのだ。それ以外にも、山谷で訪問看護ステーションを立ち上げた勇気ある女性や、インターンシップで山谷に来て、ホームレスの宿泊施設を立ち上げた若者、マザー・テレサを尊敬し、頑固な老人の心に深く入り込む力を持つボランティア看護師など、魅力的で個性豊かな人物が登場する。しかしそういう人々は、本田医師がそうであるように、決して自らを特別視することはない。

彼らの普段の日常的な営み、それは、「無我表現」そのものである。

無我表現とは、芸術の分野やいわゆる「表現」の世界だけの事柄ではない。「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」、社会の片隅で、誰からも注目されることなく、弱き立場の人々のために黙々と働き続けている人間の姿こそ、無我表現の本質だ。その意味で、この本は、現代日本社会における一つの無我表現の記録としても読むことができる。

 

超高齢社会というテーマへの一つの問題提起としても重要な本だが、無我表現的な視点からも、現実世界と無我表現との関わりを示す興味深い書物だと思う。多くの読者を獲得してほしい良書であると断言できる。