瞑想と冥想
瞑と冥のどちらも「くらい」ことを意味します。共通点は心の内面に向かうことです。
瞑は目をつぶることを意味します。
冥は「暗い」「死者の世界」「神仏のはたらき」などを意味します。
「瞑想」=目を閉じて想うこと、内面との対話です。冥想の準備運動です。
「冥想」=目を開けて想うこと、内面との対話です。こころの働きを観察します。
英語では瞑想がmeditationで、 冥想はcontemplationと訳されることが多いようです。
瞑想は、静かな空間で座って目を閉じて、定めた対象に意識を集中させます。
感覚器官からの信号には意識を向けずに、特定の対象にだけ意識が向き続けるように訓練します。
冥想は、普段の生活の中で、目を開けながら自分の心の内面を観察します。
自分の心の動きを観察し、どのような時にどのように動くのを把握して、心の癖にも氣付いてきます。
このときに心が安らかな状態を維持していると、過去に作った心の回路(トラウマやコンプレックス)などが弱体化していきます。
このときのコツは、ただひたすら、自分の心(感覚、感情、思考)の働きを観察することで、これらに対して、批判や称賛などの評価はしないことです。
ただ、ただ、見るだけです。
参考資料
「仏教とヨーガ」著者保坂俊司の「ヨーガが瞑想と訳されたわけ」という章では、日本にはすでに「定・禅那・三昧」などのような「心の統一によって得られた世界」を表す言葉があったにもかかわらず、なぜこれらの言葉を用いずに「瞑想」という言葉をもちいるようになったのか、考察がされています。
「日本最初の本格的な英和辞典である『薩摩辞書』で”Meditation”という外来の言葉にあてられたのは仏教的な瞑想の意味である「禅」「三昧」「定」などではなく、老荘思想に端を発する日本では馴染みの薄い「瞑想・冥想」という用語であった。
(中略)
この時以来、「行」すなわち宗教性や精神性が希薄になったのである。このことが、今日我々が、仏教の伝統とヨーガを直接結び付けられて考えられない大きな原因である。」
明治・大正以降の思想界に影響を与えた井上哲次郎らがヨーロッパの言葉を翻訳するための用語の決定に際して、深い思想世界を表現する仏教用語を「あえて」用いなかった。その背景には当時の廃仏毀釈があり、旧来の思想との決別という明治時代独特の風潮があり、精神世界を表す言葉を極力仏教の伝統から切り離すことをめざしたという事情によるものであったと推察しています。
私たちが仏教とヨーガの結びつきに違和感を持つとすれば、それは近代日本文化の中に大きな理由があったということで、本書では日本の特殊事情から抜け出しグローバルな視点で仏教とヨーガを考えるというスタンスをとっています。