瞑想のメカニズム
縁起説と論蔵を使っての解説
善い原因の縁起説
kusala-mūlaPSプロセスと呼ばれる縁起説がある。
PSとはPaticcasamuppādaの略で「pati」+「icca」+「sama」+「uppāda」の複合語。
「pati」+「icca」とは、「pati」は拘束、結合、「icca」は好みを意味し、
「喜んで何かと結びついている」、または「それを好きになることで何かに愛着を持つ」という意味である。
それが起こると、Samuppāda=「sama」(同じまたは類似した同様なもの)+「uppāda」(生成、出生、誕生)する。
つまり、同様または類似した品質または種類のものが具象化するということで、一言でいうと「似たものが現れ出てくる」という意味である。
したがって、samuppādaとは、存在(具象化したもの)に導くことであり、言い換えれば、束縛を促進するためのパターン化(汚れ)の因果関係を作り上げることを意味する。
根本(mūla)が善(kusala)であることから始動する。
八聖道を歩むことで最終的に涅槃nibbānaに至る、「良いkamma」エネルギーを蓄積するもの。
kamma vipāka(行為の結果)がそのような「良いPS」プロセスにつながるようになるためには、訓練をする必要がある。
これはSatipaṭṭhāna/ Ānapāna
/ Vippasana瞑想を実践することによって可能になる。
悪い原因の縁起説
akusala-mūla PSプロセスと呼ばれる。一般に知られている縁起説Paticca-samuppādaのこと。
根本(mūla)が悪(akusala)であることから始動する。
再生プロセス(輪廻)を拡張する新しいkammaを生成する可能性がある。
このプロセスは一瞬で発動するが、マインドフル(Satipaṭṭhāna/Ānapāna)であれば、そのプロセスに気づくことによって途中で停止することも練習によって可能になる。
中断するポイントは11箇所あるが、実質的には2箇所で可能である。
gati(閉じた輪である輪廻に留まる習慣)に基づいている「kammā生成」PSサイクルは制御することができます。
その根拠は、gatiは感覚の出来事に対する私たちの反応として生じるものなので、この反応を変えることでgatiも変化し、その結果、kamma生成PSサイクルを使用する回数が減少するからです。
これが、Satipatthāna/Anāpāna瞑想を実践して、感覚の反応を意図的に変える理由です。
「すべての感覚入力は、因果関係kammā vipākaを介して送られてくる」という考え方をすることもできます。
始まりのない閉じた輪を通じて、私たちは大小の「無限の量」の因果関係kammāvipākaを蓄積してきています。それぞれの「見る出来事」や「聴く出来事」はkammā vipākaによるものです。
これらの感覚の出来事のほとんどに本人は気付くことさえありません。
たとえば、車で旅行すると、その結果として、何百万の対象が窓越しに見えますが、「注意を引く」ものはごくわずかです。
これらのわずかな出来事のみが、「kammā生成」PSサイクルの開始につながります。
そして「kamma生成」PSサイクルのたった1回の開始によって、そこから多くの「フォローアップ」PSサイクルが開始されています。
たとえば、散歩していると、(kammāvipākaによる)当人が本当に気に入っている家が見えることがあります。その家に惹かれて(tanhāを形成して)、そのような家を建てることを考え始めるかもしれません。
すると次に、友人の持つ素敵な家を思い出し、その友人について考え始めるかもしれません。
このように突然、より強力な「kammā生成」PSサイクルを開始させてしまうことで、kamma bīja(気に入った家と友人の家庭の関係性)を作成し、それらが新たなkammāvipākaにつながります。
これがwheeling process、すなわち回り続けるシステムです。
「kammā生成」PSサイクルが生み出す数え切れない「カルマの種」が燃料となって、閉じた輪がまわり続けるのを支えています。
換言すると、
現在の「結果vipāka」は過去に作成した「原因のエネルギーkammā」と条件が揃うことによって導かれ、この「vipāka」が次の新たな「kammā」を作成する、という悪循環は、私たちが無限の再生を繰り返す輪廻転生sansaraとなります。
これが苦しみの「世界」を永続させるプロセスでありシステムです。
釈尊はこれを
“kammā vipākā vaddanti, vipākō kamma sambhavō, tasmā punabbhavō hōti, evan lokō pavattati“
と表現しています。
vaddanti 誕生の周期?
tasmā したがって
つまり「kammāはvipākāを導き、次にvipākāはkammāを導き、よって再生(punabbhavō)を導きます。それが世界(存在)が維持されているメカニズムです」。
「sambhava」は「san付加する」+「bhava枠組みのあるエネルギー」、つまり「もっとエネルギー(存在)を追加させる」という意味です。また、「lōka」は世界のことで、「pavatta」は「維持する」という意味です。
少なくともSōtapannaの段階に到達しない限り、ヒトはmōha(道徳的に盲目)のレベルにおいてavijjāとして行動する可能性があり、4つの最下位の領域(apāyas)での誕生がありえるkammā bhavaを生成するかもしれないkammā(sankhāra)を生成します。
換言すれば、まだSōtapannaの段階に達していないすべての人は、トリガー(内外の信号)に応じて、pancanīvarana(5つの障害、具体的には渇望 憎悪、怠け癖(眠気) 移り気 疑い)が「マインドを覆い」、強力なakusala-mūla PSサイクルを発動する可能性がある、ということです。
たとえば、渇望kāmaccanda nīvaranaがマインドを支配した状況下では、「良い道徳的背景」を持つ人々がレイプを犯してしまったという話を聞くことがあります。
これはchandaが「 icca +anda」であることに由来します。iccaは好きで、andaは盲目なので、kāmaccandaは「kāmaすなわち感覚の喜びによって盲目にされる」ことを意味します。
道徳的な人であっても、ベッドにいる配偶者と浮気相手の姿に激怒して殺してしまった話を聞くことがあります。
これはnīvarana(障害)の2番目にあるvyāpada(憎悪)が道徳的な人のマインドを覆ってしまったからです。
これらの2つが最強のnīvaranaですが、他の3つも不道徳な行為につながるケースがあります。
thina middha (怠惰), uddacca kukkucca (落ち着かない状態)、vicikicca (aniccaの性質を知らないために賢明でないことをする傾向)によって、対象の変化にちゃんと対応しないことが起因になります。
Sōtapannaの段階に達すると、これらのpancanīvaranaの一部が永久に除去されます。
また他の一部の要素は、弱体化して障害が低減します。
たとえば渇望や憎悪とは、対象の一部だけを見て発する感情であり、それに伴う苦痛や誤謬や決めつけであるので、全体性に気づけば、「過剰な」好き・嫌いには意味がないことを体感することになるでしょう。
それが、apāyasでの再生につながる可能性のある強力なakusala-mūla PS サイクルがSōtapannaに対しては発動されない理由です。
magga phala(結実のある道、すなわちSōtapanna、最終的にはアラハンに至る道)によってgatiは変化します。magga phalaの質が高いほど、より多くの変化がgatiに起こり、最終的には消滅します。
最後に、新しいkammaの生成を開始する別の仕方があります。
これは、「私たちが楽しい行動に着手するランダムな思考を思い浮かべる」ときです。
たとえば、何かをしている時に突然と、昔に見た映画のことや、将来の旅の計画について考え始めたりすることがあります。
これらはdhammā(エネルギーのあるkamma bījaやエネルギーのない記録nāma gotta)がマインドの感覚器官であるmana indriyaに接触すること、すなわち“manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“によって始まります。
これらも因果関係kamma vipākaの経験です。
ですから、これらは偶然ではなく、過去に作成したkamma bījaによって起きた結果の一般的なケースです。
いずれの場合も、そのような「新しいkamma」を見守って、常に気づいている必要があります。
この訓練がĀnāpāna/Satipatthānaの鍵となります。
具体的な修行の実践方法
「いま・ここ」が聖なる闘の「場」
私たちは「いま・ここ」でしか闘えない。
感覚を使って。
感覚が無明に覆われていると、苦と苦の原因が作り出す世界で生きるしかない。
智慧が無明の覆いを剥ぎ取る。
「いま・ここ」の瞬間だけで修行すると縁起説が理解できる。
まず「悪い習慣」(依存、薬物、過食など)がなくなることをマインドフルネス(気づき)で試して、
その力と効果を確認してから、他のdasa akusala(10の悪行)に適用させる。
縁起の「条件と原因の法則」を理解することで、三相であるTilakkhanaを把握できるようになっていく。
これが、Sōtapannaステージへの道である。
無明avijjāの定義は、四聖諦を理解していない、ということ。
四聖諦を理解するには、「世界の真の性質」、つまりこの世の3つの特性であるanicca、dukkha、anattaを体感する必要がある。
簡単に言うと、anicca、dukkha、anattaは次の意味になる。
この世界には、長期的に私たちの満足を維持できるものはない(anicca)。
したがって、満足を得るためにおかした多くの闘争の後に、私たちは苦しむことになる(dukkha)。
したがって、これらの闘争はすべて無駄であり、誰もが無力である(anatta)。
より深い意味では、anicca、dikkhha、anattaは、「この世界」の非常性の性質の現れである。
上記の3つの特性は、人間の領域だけに当てはまるのではない。
人間界以上の領域(欲界のdeva、色界と無色界のbrahma)では苦しみが少ないが、どの31領域でも永続的な幸福を得ることはできない。
私たちは本当に無力である(anatta)。
この幻想的な幸福を求めるために、人為的なこと(特に、殺す、盗む)を行うと、苦しみに満ちたより低い領域に閉じ込められることになる。
したがって、avijjā(無明)の覆いは「本の知識」で追い払うことはできない。
「この複雑な世界の真の性質」を体感して、理解する必要がある。
私たちがそれについて知らされても、それを把握するのは簡単ではない。
なぜならば、私たちのマインドは、追跡不可能な最初(はじまり)から蓄積されてきた汚れに覆われているからである。
修行者ができること、そして、する必要があることは、
「saṅkhāra paccayā viññāṇa」のステップを止めるために、
まずは強力なvaciとkāya abhisaṅkhāra(言語と行動の自動反応回路)を停止することです。
これらが新しい強力なkammaviñña につながるからです。
Kamma viññāṇaは常に最初にmanō viññāṇaが発生し。その後に、行sankhāraを介して作成されるので、
この段階で「気づく」ことで、次のkammaviññaのステップにつながらないようすることができる。
その後に、そのmanō viññāṇaを生みだした習慣的に作成している「カルマの種」を創出しないようにする。
また習慣性を持つabhisankhāraがあれば弱体化させて、それから上書きをする。
具体的には、17ステップの心路citta vithiは処理が高速で止めることはできないので、低速処理の大脳新皮質を使用することで、これらのakusala-mūlaPSサイクルの始動を停止させることは可能で、貪瞋痴に関わる意思・言語活動と行動を中止することができる。
これがSatipaṭṭhāna/Ānapāna/vipassana瞑想によって育成できることであり、瞑想を実践する理由である。
呼吸を整え、心を落ち着かせ、5感覚自体は自分自身ではないことを確認し、心に浮かんでくる想いにゆったりと寄り添い、それらを肯定するも否定することもなく、ただ自分は「そのように感じているのだな」ということを改めて知り、また瞑想対象に集中し、また想いが現れてきても、同様に静かに穏やかにしている。
このような実践を続けていると、自分の感覚する対象が5感覚のモノ(dhātu)から、心で感覚するモノ(bhūta)に移行していく。
すると、これまで気づかなかった、dhātuの生まれては消えていく変化にもだんだんと気づくことができるようになっていく。
そして、また瞑想に集中し、潜在意識から浮かび上がる過去の想いや未来の計画などが浮かんできては、同様に静かに穏やかに、「そのようなことを感じているのだな」と見守り、また瞑想対象に意識を戻す。
このような実践を続けていると、自分の感覚する対象が過去や未来のことではなく、もっと微細なモノ(gati)に移行していく。
すると、これまで気づかなかった、bhūtaの生まれては消えていく変化にもだんだんと気づくことができるようになっていく。
この段階ではもう呼吸はしているのかどうかわからないほどになり、心は寂静の中にいるでしょう。
こうしてgatiの生滅、そしてdhammāの気付きへとだんだんと瞑想プロセスは進む。
どの段階でも必要なのが、寂しさを感じる静けさであり、クールさであり、安らかさであり、軽さである。
日常生活においては、
練習をすれば、自分に起きているプロセスに非常に早い段階でつかまえる、すなわち気づくことができるようになる。
まずは自分の行動、次に言語・意思作用、そして自分の想いにである。
「衝動的な間違った行動」、たとえば怒りや憎悪がカタチになって手に負えなくなってしまう前に停止させるには、初期段階でこのプロセスが発動していくことに気づくことである。
具体的には、このプロセスをただ察知しているだけで、プロセスは停止する。
なぜならば、このプロセスは気づかれないことによってエネルギー転換が続いていくので、察知というマインドのエネルギーが対象に照射されると、自動的に転換する対象のエネルギー流動が止まるからである。
これが、Satipaṭṭhāna/Ānapāna瞑想はまず瞑想しやすい場所で練習して、それに慣れるようになれば、次には日常生活の状況にも適用していく。これが瞑想をする目的である。
つまり縁起のシステムを理解することで、
根本悪縁起akusala-mūlaPSを中断するには、対象に対してのエネルギーの照射を中止することが必要であり、そのためには、瞑想によって「気づき」の力を育成して強化することで、受vedanāのステップで近遠ではなく中立(捨upekkhā)のタグをつけること、
そしてそれができずに渇望・嫌悪のタグが付いた場合でも、エネルギーを照射しないためには、対象への関心を粗大さから微細さに向ける、関心の温度を下げる、スポットライトを当てない、穏やかにする、呼吸を小さくする、血圧を下げる、思考対象を外側から内側へ向ける、自分の思考回路を分析し、評価・判断した根拠のあやふやさ、もっと正確にいうと自分の誤謬を瞑想を通じて学ぶことができる。
熟睡している時間以外の意識のある時間では、感覚の変化に気づいている習慣をつけると、その後は時間とともに実践者のgati(性向・方向性・自動反応アプリケーション・習慣)はより良く変化し、結果が「愚かで自他に損害を与えること」をやめるようになる。
その後、私たちのマインドは清くなるにしたがって、仏法をより深く理解できるようになる。
このような体験は特に最初の頃は段階的なプロセスとして自覚される。
あらゆる感覚のイベントは、因果関係kammā vipākaがもたらされるavyākata PSが発動することから始まる。
Avyākata 無記、善悪に属しないもの、カルマ・エネルギーの中立
この縁起プロセスは、私たちがただ見て、聞いて、嗅いで、味わい、そこから得られるデータで、プロセスが進行する。
しかし、私たちが経験するこのような感覚(vēdana)とそれに対する反応は、人によって異なり同じではない。
たとえば、同じ梅干しをみても、食べたことがある人は唾液が出るが、まだ食べたことのない人は何も反応しないように、同じ感覚入力であったとしても、各自のなかで生成されるvēdanaは人によって異なる。
経験していないことも、まずはじめは中立の縁起ではじまる。
なぜならば過去のデータを照合することができないからである。
適切な条件が整うと、Avyākata PSは、因果関係kammāvipākaをもたらす。
一度開始すると、停止させることはできず、アラハンでさえこの因果関係kammāvipākaを避けることはできない。
kamma的中立の縁起ではabhisaṅkhāraは生成せずにシンプルなmanō saṅkhāraだけであるので新たなkammaは生成されないが、因果関係kammā vipākaによる見たものや聞いたものなどに応じて、そこに関心が粘着taṇhāすると、kammaが生成する「原因型の縁起PSサイクル」が新しく開始される場合がある。
また起きている出来事を過去に体験したパターンに当てはめると、avyākata PSサイクルは発動せずに、根本悪をきっかけとしたAkusala-Mūla PSサイクルもしくは、根本善をきっかけとしたkusala-Mūla PSサイクルが発動する。
最初のavyākata citta vīthi(カルマエネルギーを生成させない心路)10億分の1秒以内に消えさるものなので止めることはできないが、その後に発動したakusala-mūlaPSプロセスは、気づいた時点ですぐに停止することは可能である。
たとえば、魅力的な対象を見ると、lōbha(貪欲)思考(apunn ābhi sankhāra)が生成される場合がある。
また嫌な対象を見ると、憎しみに満ちた考え(apunn ābhi sankhāra)を生み出すかもしれない。
路上で物乞いを見ると、(その人にお金を与える)価値ある行為につながる可能性のあるalōbha思考(punn ābhi sankhāra)を生成することがある。
これらの「見る出来事」はすべて、第一のタイプであるavyākata縁起サイクルが原因で発生している。
すべての行動はavyākata PSサイクルによって開始される。
しかし、すべてのavyākata PSサイクルが、新しいkammāを生成する「kammā生成」PSサイクルにつながるわけではない。
たとえば、デパートで展示されている品物を見ていることを想定してみる。
多くの人はただひと目それを見ただけで、それ以上のことは考えない。
しかし、ある品物を好きな人は、それをもう一度見るであろう。
また、それを本当に望んでいる人で、お金を持っていない場合には、それを盗むことさえ考える可能性さえもある。
このように同じ場所、同じ対象物であっても、各自のgatiによって、各自の執着心によって、発動するPSサイクルは違ってくる。
これらを理解し、対象と心の反応を体感する機会を増やすことで、自分の関心を物質レベルだけではなく、物質エネルギーへ、具体的にはdhātu、bhūtaそしてgati、dhammāと領域を深く拡げることが、修行の目的となり、その結果、苦しみから徐々に離脱することになる。
たとえば、「アルコール依存症のgatiを持つ人は、好きなアルコールを見るとすぐに瞬間的なアルコール依存症になる(生まれる)。
そして、「一瞬だけ生まれる」ことで、新しいakusala-mūlaPSプロセスを開始する。
その「照合(マッチング)見たアルコールとアルコールに反応する回路」に基づいてavijjāを根本とする行動が「決定」して、一連の17段階の思考プロセスの内の8番目にあるvotthapana(V)cittaで起こる。
新しいakusala-mūla(もしくはkusala-mūla)PSプロセスが開始すると、javana citta(9〜15番目)でkammaの生成を開始する。
もし本人が対象物に愛着がある場合には、この最初のcitta vīthiが終了しても、またakusala-mūla PSサイクルが起こり続ける。
このプロセスの現状を意識できる0.1秒以内の間でも、すでに数千計算式?のakusala-mūla PSサイクルが実行されている可能性がある。 0.1÷10億分の1÷17≒588万
そして、それぞれのサイクルがその都度、過去のサイクルを強化して、エネルギーを蓄積する。
しかし、このcittaの高速処理を遅くするには、低速処理の大脳新皮質を使用することでakusala-mūla PSサイクルの始動を停止させることは可能で、その結果、貪瞋痴に関わる意思・言語活動と行動を中止することができる。
これがSatipaṭṭhāna/Ānapāna/vipassana瞑想によって育成できることであり、瞑想を実践する理由である。
詳細は「具体的な修行の実践方法」の章に記述する。
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仏教用語 |
パーリ語 |
内容 |
0 |
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1 |
有分心 過去の有分心 |
bhavanga AtītaBhavanga |
完全に寝ている段階 もしくは過去からの深層意識 |
2 |
有分動揺 |
bhavaṅge-calana |
心が動きはじめる準備する段階で「動揺」が始まる |
3 |
有分捨断 |
bhavaṅge-upaccheda |
準備ができたので、有分心は「捨断」される |
4 |
五門引転心 |
pañcadvārāvajjana |
注意が感門からの信号に切り替わる段階 |
5 |
眼識 |
cakkhuviññāṇa |
視覚で「知る」段階 まだ認識ではなく単なる気づき |
6 |
領受心 |
sampaṭicchana manodvara |
cittaが眼識でその反応のコピーを受けとる 情報を受け入れることでcittaが対象に関心を持つ段階 |
7 |
推度心 |
santīraṇa manodvara |
これはどんな振動(情報)なのかと推度(推察)する 近づきたいものか離れたいものかのタグをつける |
8 |
確定心 |
voṭṭhabbana =意門引転心 manodvārāvajjana |
確定して分類する段階 眼識で「見たもの」を確定するのではなく、 「この直前のcitta(推度心)が推度したこと」を確定する。 |
9 |
速行心1 |
javana 走る、という意味 振動が七回起きる (9から15まで) |
自分勝手に推度したものを「意識化」する 入った情報を分類、照合、比較、構築、統合して感覚認識するはたらき 色声香味触意の信号エネルギーが、メンタルの意識エネルギーに変換されて感覚されて認識(分析、統合)が始まる |
10 |
速行心2 |
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速行心3 |
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速行心4 |
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最強の速行心 波の最高値(ピーク) |
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速行心5 |
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14 |
速行心6 |
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15 |
速行心7 |
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速行心1よりも強い |
16 |
彼所縁心1 |
tadārammaṇa 二回生起し、滅する |
振動の後の残響をデータ化する機能 信号が強い時にコンデンサーのような働きをする 有分心ではなく、異熟心(データ化) |
17 |
彼所縁心2 |
tadārammaṇa |
「味わい」の後に心が収まるような余韻の働き |
中立PSから根本PSへ移行するメカニズム
この循環プロセスは、3つのステップがある。
1 見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体とphassa(接触)した感覚、そして「意識したもの(dhammā)」が頭に浮かぶ。
これらは「ただ起こる」のではなく、ある理由(原因)があったために起こったものである。
具体的には、林の中を散歩しているときに出会う風景、繁華街に行った時に出会う店々、図書館に行った時に出会う本々、夢の中で出会うさまざま出来事などである。
それらの原因はkamma vipākaであり、そこにはまだ思考(非貪・非瞋・非痴、貪・瞋・痴)が関わることもないので、kammaエネルギーはなく「結果としての想い」vipāka cittaすなわち「善と悪のどちらでもない中立の想い」avyākata cittaと呼ばれる。
すなわち大脳皮質が作り出す思考には関わっていないことを意味している。
2 次に、各自が持っているāsava渇望、anusaya煩悩、gati性向に基づいて、本人のマインドが自動的に感覚入力の信号にスポットライトを当てるので、その感覚入力によって次のPSプロセスが作動する。
この感覚の対象を三蔵ではarammana [ārammaṇa:所縁,境]と呼んでいる。
これは意思回路の中で10億分の1秒で発生するので、その初期発生を制御することはできない。
manō saṅkhāraは心路citta vithi内で自動的に発生するが、javana cittaは発生しないので、avyākata cittaの一部である。すなわちまだ中立PSサイクルである。
3 もし対象物に愛着や嫌悪を抱くと、その感覚入力について意識的に考えること(vacī saṅkhāraの生成)によって、これまでに体験したタグの付いている色蘊のイメージ、そしてそれらを一般化された想蘊の概念のイメージを組み立てて自動反応回路(sankhāra)を作り、パターン認識(viññāna)をすることである。
認識システムと五蘊 そこからの離脱法
具体的には言語化、意思、思考、思想、感情化するということで、これらの共通点は自分が作ったパターンに対象を当てはめることである。
パターン認識では、自動反応回路の出力箇所が1つになるので、そこにエネルギーが一点集中して、新しいkammaの生成を開始する。
その新しいkammaは、言語活動と身体的行動を介してkāya saṅkhāraを生成し始めることで、より強くなる。
これらの3つのステップはすべて、私たちが新しいkammaの蓄積を開始したことを察知する(頭に浮かび上がらせる)前に開始されるのは、心路citta vithiが非常に高速であり、すべてがたった1つのcittavīthi内で発生するためである。
しかし、気を付ければ、数秒以内にそのような「動き回っているもの」を「キャッチ」して、apunnābhi saṅkhāraだけを止めることは可能である。
止めるのは不道徳な自動反応アプリケーションだけであって、punn ābhi saṅkhāraすなわち道徳的な思考は止める必要がない。
しかし、そのためには、そのような感覚入力に対する「自動反応」を注意深く監視する必要がある。
これがいわゆる「マインドフルネス」である。
練習すれば、すぐにそのプロセスを「キャッチ」して、悪い考え/言語活動/行動を止めることができるようになる。
この訓練を続ければ、時間の経過とともに、自動反応回路であるsaṅkhāraが弱体化し、私たちのgati(習慣の自動反応回路)はより良く変化し、「悪いこと」への愛着は自然の法則(ダンマ)の影響力によって消え去っていく。
使うものは発達し、使わないものは退化するのである。
まず「悪い習慣」(喫煙、薬物、過食など)の改善をマインドフルネスで各自がまず試し、その効果を確認してから、他のdasa akusala(10の悪習)に適用してみる。
縁起説のステップを実感することで、マインドも体も常に変化し続けるという事実を再認識し、このインプットされる信号と自動反応回路によってアウトプットが決まることを確認する。すると自分の意志ではなく、この自動反応回路によって、生命体は評価し、判断し、思考し、感情し、感覚するということが理解できるようになる。そうなると、主体と現象に執着する根拠も理由もないことを認識しながら、このような体感をするので、マインド(意思)が望む状態が長期間に渡って保ち続けることはできないことを何度も繰り返して体験することになる。
これが三相であるTilakkhanaの把握につながる。
こうして、Sōtapannaステージへの道が始まるのである。
この中立のPSプロセスは、Visuddhimagga(清浄道論)を含む現在の上座部のテキストでは説明されていないが、もちろん三蔵(Tipiṭaka)にはあり、論蔵のPaṭicca Samuppāda Vibhaṅgaで説かれている。
日本語では、論蔵の中の『分別論Vibhaṅga』の6番目にある。
(Abyākata Niddesaのセクション2.11は、全体の上から約4分の3ところにある。)
論蔵ではこのPSプロセスをAbyākataと表記されているが、辞書などではavyākataと表記されるのが一般的である。 なぜ表記がavyākataに変わったのか?
avyākataの意味は「kammaの中立」で、善と悪のどちらにも属さないものである。
現在(2020年)、日本語でのavyākata PSプロセスを説明するテキストやインターネットサイトをまだ見ていない。