ニミッタと丹光
パオ僧院
◎アーナパーナ・サティを行っているとニミッタが現れる
「アーナパーナ・サティ」を行っていると、ニミッタ(似相)という光が出てきます。けれども、ニミッタが安定するまで、呼吸に気付いていなければなりません。このように、長く、継続して呼吸に気付いていられると、ニミッタが強くなって輝いてくるようになります。人によってニミッタの形は違ってきますが、月、太陽、星、棒状になって現れてきます。
ニミッタが強くなってきて、このような形に変わってきます。最初は、いろんな色や光が出てくることがあっても、集中力が高まってくると、ある形に変わってきて、鼻の先に止まるようになってきます。20〜30分、じっと止まるようになると、呼吸への気付きをやめて、ニミッタへを観て集中力(気付き)を保つようにします。そうすると、なおいっそう、集中力(気付き)が高まっていくようになります。
禅定は、パーリ語でジャーナといいますが、心を一カ所に留める力をいいます。空を飛んだりする超能力は別の話しになりますが、ニミッタに心を集中し、一体化が長くなり、1時間くらい継続できるようになると、集中力(気付きの力)は、「禅定の力」「禅定の集中力」となってきます。
◎ヴィパッサナではニミッタに集中しない
ですが、光(ニミッタ)を見てはいけない瞑想の場合もあります。それが「ヴィパッサナ瞑想」の段階にときにでてきます。サマタの瞑想の場合は、禅定を得られるために、ニミッタを使って集中力を深めていきます。
けれども、ヴィパッサナ瞑想の場合は光(ニミッタ)を見ていけない場合も出てきます。光(ニミッタ)に頼ってしまうと、楽しくなってしまうとかが起きて、瞑想が進まないことも起きるからです。ですからヴィパッサナ瞑想の段階では、ニミッタに頼らないようにもなっていきます。サマタ瞑想の場合はニミッタを使って禅定に入るようにしていきます。
パオ瞑想センターの瞑想方法は仏陀が伝えた瞑想方法を少しの修正も入れずに現在まで護持してきた最高の宝刀です。
どうぞ参考にしてください。
(アナパナサティからジャーナまで)
慈悲の瞑想をおこなう
アナパナサティ(入出息の気づき)を修行する場合、それに先立ち、少し時間をとって、自分自身への慈悲の瞑想をすることをおすすめします。自分自身への慈悲の瞑想をすると、まず心がしずまり、安らかになります。さらに、注意がからだに向けられ、心がほかのところにさまよいでることなく、からだに集中できるようになります。
次の順番で、慈悲の心をあなた自身に向けて送りましょう。
(1)わたしが危害に遭いませんように
(2)わたしに心の苦しみがありませんように
(3)わたしにからだの苦しみがありませんように
(4)わたしがすこやかで、幸せでありますように
各ステップを心がしずまり、リラックスするまで、くりかえしてください。そして次のステップに進みます。
このようにして、こころが安らかになったところでアナパナサティに移ります。アナパナサティを修行すれば、多くの人が禅定(ジャーナ)を達成することができますが、そのためには、アナパナサティの方法を体系的に知ることが大切です。
アナパナサティにおける気づきの対象は入息と出息ですが、これにはっきりと気づくには、上唇(鼻の下)と鼻の出口の周辺で入息、出息に意識を集中しなければなりません。これらの場所は接触点ともいわれますが、これはアナパナサティの主たる対象ではありません。主たる対象は入出息つまり接触点を通過する空気なのです。
呼吸が通過するときに皮膚に生じる感覚はアナパナサティの対象ではありません。呼吸による空気の流れが皮膚に触れているとき、圧迫感、冷たさ、暖かさ、緊張感といった感覚に注意が向くことがあるかもしれませんが、これらの感覚はアナパナサティの対象ではありません。対象はあくまでも呼吸によって出入する空気なのです。したがって、空気が接触点を摩擦するときに生じる感覚はすべて無視しなければなりません。
心はつねに鼻の部分におき、空気が体に入っていくのを追いかけないようにしてください。もし、心が肺や腹部にまで追いかけたら、緊張感や不快感が生じるでしょう。そうならないようにするためには、心を鼻の部分につなぎ止めておかねばなりません。呼吸の空気が通過する鼻の先の部分または上唇に心をおきつづけるのです。
集中力の育成
アナパナサティを行う過程で大切なのは気づきです。気づきの力が十分でないと、すぐにいろいろな考えが浮かんできます。それでは瞑想してもなんの益もありません。したがって、一つ一つの入出息に気づきを加えねばなりません。心を呼吸にのみ振り向けるのです。気づきとは一体なんでしょう。気づきとは何かを思い続けることです。なにを思い続けるのですか。いつ、どこにいてもつねに心は入出息になければなりません。
皆さんも経験されているかもしれませんが、集中しようと努力しているのに、心は、猿が木から木へと飛び移るように、すぐに対象から走り去ってしまいます。そうならないようにするには、心の訓練が必要です。訓練によって心をコントロールできるようになります。それでは猿のようにあちこちと飛び回る心を訓練するにはどうすればいいのでしょうか。ひもで心をつなぐのです。ひもによって心をコントロールするのです。そのひもとは何でしょう。それが気づきです。気づきによって、心をつなぎ、一点に固定するのです。
二本のひもを使って心をつなぐことができます。一本のひもでサルのような心をつなぎ、もう一本ひもで心を入出息に集中するのです。この二本のひもはお互いにあまり遠く離さないようにしなければなりません。心を入出息に戻しつづけてください。そのうちに心は入出息にとどまるようになります。気づきによって繰り返し心を戻し続けると、ついには心は息から外にさまよい出ることに疲れ、息に定着します。しばらくの間でも、心が息にとどまれれば喜びを感じるでしょう。
瞑想リトリートでは入出息というただ一つの対象にだけ心を開き、それ以外の対象には心を閉ざしてください。心が入出息に注意を向けないと心の汚れがわきあがってきます。そうなると瞑想はなんの効果もありません。ですから、心を入出息だけに開くということをけっして忘れないでください。心をコントロールするのはたいへん難しいことです。一つのドアにだけ心を開け続けるのはそんなにやさしいことではありません。
心は簡単に入出息から出ていってしまいます。心がさまよっているのに気づいたら、すぐにストップをかけ、入出息に戻してください。心を対象に戻し続けてください。このように続けていると、しばらくすると、心から安らかさと幸せが湧いてくるでしょう。
接触点
接触点とは何でしょうか。それは入出息が通過する場所のことです。鼻周辺の一箇所に集中するのは、心が空気の流れといっしょにからだの内部や外部についていくのを防ぐためです。心が息いっしょに肺や胃に入ったり、体外に出たりすると、風の要素(風界)を感じやすくなります。四界(四大)の一つである風界を感じる瞑想法と入出息に気づくアナパナサティとは同じく空気をもとにしてはいますが互いに異なった瞑想法なのです。四界分別観の場合、体内での空気の動きを感じるため空気とともに体内に入り、風界を観察するのです。
アナパナサティの場合、瞑想の対象は接触点ではなく、上唇または鼻の先端を通過する呼吸なのです。呼吸の振動や冷たさや暖かさといった感覚に注意するならば、それはアナパナサティでなく四界分別観の修行なのです。
アナパナサティの修行法とは接触点における入出息に注意を向け、一つ一つの入出息にはっきりと気づくことです。心を上唇または鼻の先端に集中し入息と出息に完全に注意を振り向けるのです。呼吸が速く通過しているときには、呼吸が短いと知り、呼吸がゆっくりと通過しているときにはそれが長いと気づきます。決して、からだの内外にまで、呼吸についていってはいけません。早い呼吸は心臓に結びつきやすいものです。胸が緊張したり、締め付けられるように感じるかもしれません。このような場合は、リラックスし、呼吸をおそくしなければなりません。心臓やその鼓動には注意を向けないようにしましょう。心をリラックスさせ、呼吸に集中し、はっきりと気づきましょう。
呼吸を数える(数息)
瞑想中に多くの雑念が浮かんでくるときは、次のように呼吸を数えるとよいでしょう。「入る、出る、一。入る、出る、二。入る、出る、三。・・・」。八まで数えて一にもどり、これを繰返します。呼吸にうまく集中できるようになれば、数えるのはやめ、たんに入出息に集中します。呼吸になれるにしたがい、退屈になるかもしれません。その場合は、長い呼吸と短い呼吸を区別するようにします。ここで長いとか短いというのは呼吸の時間のことをいっています。
五つの障害(五蓋)を克服する
1.貪欲(sensual desire)
(現象) 欲望の対象には物質的なものと非物質的なものがある。何かを楽しみたい欲望、よい食べ物や音楽に対する欲望、これらは快楽の追及とそれにかかわるものへの執着を生み出し、集中を不可能にする。
(対策) 五門(眼、耳、鼻、舌、身)を護る。不浄観、無常観を修行する。強い気づきによって常に心を呼吸に引きもどす。
2.瞋恨(ill‐will)
(現象) 人や物事に対する不快や怒りを感じる。
(対策) カルマ、縁起の法について思いをめぐらし、だれもが自分のカルマを背負っていることを考える。慈心観、捨心観、遍禅(color kasinas)を修行する。強力な気づきによって心を呼吸(または瞑想対象)に引きもどす。
3.掉挙(restless and remorse)
(現象) 心は不安定であり、対象からそれる。そして悲しみと後悔を感じる。
(対策) 心の不安定性に気づき、心を呼吸(または瞑想対象)に引きもどす。
4.昏沈睡眠(sloth and torpor)
(現象) 心が暗く、明るさがない。眠い。心は瞑想対象に注意を向けられない。
(対策) 背中をまっすぐに立てる。耳を下にひっぱる。指を刺激する。深呼吸をする。死随念をする。軽さを瞑想する。強力な気づきで心を呼吸に引きもどす。
5.懐疑(skeptical doubt)
(現象) 自分には十分な能力がないと自信をなくす。ときには、ブッダ、ブッダの教え、師の教えを疑う。
(対策) 疑いを捨てる。ブッダの教えを学び、修行によって実際に経験する。
微細な呼吸に気づく
呼吸が微細になったときは注意が必要です。多くの人がこの段階で間違った方向に行ってしまいます。次の二つの間違った方向が考えられます。
1.からだが気持ちよくなり、注意がそちらにいってしまって呼吸を忘れてしまい、その結果集中力が落ちてしまう。
2.この段階では、心がしずまったと感じられ、心は瞑想対象に気づき続けることを止め、呼吸にもどろうとしない。そして簡単に有分心に落ち込んでしまう。
有分心の状態では、心は機能せず、瞑想対象もなく、何もありません。なかには、これでジャーナあるいは悟りに達したと考える人もいます。しかし、ジャーナは何もない状態ではありません。ジャーナはニミッタという対象に気づき続けることによって達成されるのです。
ですから、この時点では十分に注意する必要があります。呼吸が微細になったとき、10−15分間、呼吸に気づき続けると目の前に最初のレベルのニミッタが現れます。それは、たぶん煙、雲、光のようななんらかの色です。
呼吸が非常に微細になると、人によっては呼吸を感じなくなり、呼吸が再びあらわれるのを待つあいだに雑念が生じることがあります。そのようなときには鼻に注意を向け、柔らかく息を吸い込んでください。そうすることによって、自然の呼吸がもどってきます。ただ、柔らかく、ゆっくりと吸い込み、決して強く吸い込まないようにしてください。強く吸い込むと呼吸がそれまでよりも粗く、早くなってしまい心は落ち着かず、胸が緊張することになります。
ニミッタ(集中の証し)
ニミッタには次の三つのレベルがあります。
(1)第一のレベル:しばらく呼吸に気づき続けていると、目の前になんらかの色または煙あるいは雲などがあるのを感じます。どんな色かはその人の知覚によって違います。黄色の場合もあるし、白色の場合もいます。しかし、それがどんな色であろうと、それを無視しなければなりません。けっしてそれに注意を向けてはなりません。この現象について、これはなんだろうとか、この光は自分の体から出ているのだろうかそれとも外から来たものだろうかとか、自分は進歩しているのだろうか、といった疑問をもってはいけません。
そんなことを考えると好奇心から目を開けたくなったり、第一レベルのニミッタに注意を向けたくなります。目は閉じたままで、ニミッタに注意を向けたり、集中してはいけません。注意を向けるとニミッタは消えます。リラックスし、それがどんなものであろうと、そのままにして、ひたすら呼吸に気づきつづけるのです。
(2)第二のレベル:呼吸に気づき続け、その結果、集中力が増すとニミッタは白い光に変わります。ときにはそれは輝いていることもあります。しかし、それに関心を持ってはいけません。この段階でニミッタに注意を向けるとニミッタは消えるか、体全体に広がってしまい、集中力は落ちてしまいます。
(3)第三のレベル:呼吸に気づき続けることにより、集中力が強くなると、ニミッタは水晶、ガラスあるいは朝の明星のように透明ではっきりしたものとなります。ニミッタが鼻の先端に近づくか、入出息と一つになってから、5−10分したら、気づきの対象を呼吸からニミッタに変更し、呼吸は手放します。この段階からはひたすらニミッタに集中することにより合一(ジャーナ)のための修行に入ります。
ジャーナ(集中の達成)
(1)心と透明なニミッタとの合一の修行する場合、微細な呼吸に集中するときと同様、あまり努力しすぎてはいけません。リラックスし、透明なニミッタに満足しています。緊張しすぎたり、ニミッタを保持しようと努力しすぎるのはいけません。努力しすぎると透明なニミッタは消えてしまいます。もし透明なニミッタが消えたら、ニミッタが現れるのを待つのでなく、入出息にもどってください。そうすると再びニミッタがあらわれます。
ニミッタに集中しているときニミッタをあまり変えようとしてはいけません。ニミッタが消えない限り、そのまま気づき続けます。透明なニミッタに集中するときは、ちょうど美しい景色や絵のまえで満足し、リラックスしながら見ているのと同じようでなければなりません。あるがままに、やすらかに透明なニミッタをみる。透明なニミッタに気づき続けると、やがて喜びと平安を感じるようになります。
合一の修行の最初に心をゆっくりと透明なニミッタに近づけると心は磁石がくっつくようにニミッタにくっつきます。心が透明なニミッタに入りこんだり、少しだけ入ることもあります。あせったり、努力しすぎたりすると、ニミッタはきえてしまいます。心は少なくとも1時間から2時間、ニミッタと合一します。
(2)心が透明なニミッタにくっついているとき、心を透明なニミッタで止めてしまい、透明なニミッタがどこかにいってしまったのか分からなくなることがあります。これは、心が有分心に落ちこむという誤りを犯しているのです。この誤りに気づくことはきわめて大切です。ジャーナは心の機能が止まったり、何も分からなくなるということではありません。ジャーナにおいても、なお心は透明なニミッタに気づき続けています。このとき心は透明なニミッタという対象が明瞭で透明であることをはっきりと知っています。これが尋(vitakka)という機能なのです。透明なニミッタに気づき続けることが伺(vicara)という機能です。合一のあいだ心には、喜と楽という二つの感情が生じてきます。
(3)合一のあいだ、雑念は起きません。心にはただ喜び(喜)、幸せ(楽)、平安があるだけで、それ以外の感情はありません。合一は1時間、2時間あるいは3時間続けなければなりません。合一にあるときはなにかを考えたり、手や足や体を感じてはいけません。合一のときにあるものは、喜び、幸せ、平安の中で透明なニミッタに気づき続けていることだけです。
五禅支の識別
ジャーナから出たあと、五禅支を識別する必要があります。最初のステップは心臓の底にある有分心に注意を向け、透明なニミッタのしるしが有分心に現れているかどうかをチェックします。すばやくチェックをしたあと、すぐに心を透明なニミッタにもどしてください。チェックにあまり時間をかけてはいけません。すべての精神活動は心臓の底にある心処色から生じます。
次のステップは五禅支をチェックすることです。それには、先ず五禅支の意味を知らねばなりません。それから有分心に五禅支があるかどうかを確認するために、有分心で五禅支をチェックします。チェックの方法は透明なニミッタと心の間に五禅支を見ることによって行いますが、五禅支を一度に見てもいいし、一つずつみることもできます。五禅支の意味とそれぞれのチェックの方法は次のとおりです。
(1)尋(vitakka)とは、ニミッタがアナパナサティの対象であることを心が知ることです。尋の意味を理解したあと、心処色において尋を感じることによって尋を確認し、ふたたびニミッタに注意をもどします。
(2)伺(vicara)とは、心がニミッタに気づき続けていることです。伺の意味を理解したのち、心処色においてそれを確認し、それを感じたら、ふたたびニミッタに注意をもどします。
(3)喜(piti)は、心がニミッタを好むことを意味する。心処色において喜を確認し、ふたたびニミッタに注意をもどします。
(4)楽(sukkha)は、ニミッタを経験しているあいだ、心が幸せを感じていることを意味します。心処色において、楽の感じを確認し、ふたたびニミッタに注意をもどします。
(5)一境性(ekaggata)とは、心とニミッタが一つに結びつくことを意味する。ニミッタに完全に集中すると、心が静まります。そのあとふたたびニミッタに注意をもどす。
また、喜と楽の違いを知ることも大切です。喜と楽は基本的には同じですが、これらが順番に生じるときは、楽よりも喜がさきに感じられます。例えば、旅人が長い間砂漠を歩いてきて、渇きを感じ疲れているとします。旅人が前方に池があり、そのほとりに木のあるのを見ると、強い喜びを感じます。かれは急いで池に近づき、水を飲み、木の下で休みます。このとき彼は楽を感じます。これが喜と楽の違いです。ジャーナを修行すればはっきりと分かりますが、ジャーナの段階によって、感情は異なったものとなります。第二禅では喜が明瞭であり、第三禅では楽が第二禅のときと比べてより明瞭に感じられます。
禅の五自在
五禅支を確認したあと、禅の五自在を修行します。五自在は次の通りです。
(1)引転自在:心処色において五禅支を確認するためジャーナから出ることができる。
(2)省察自在:五禅支を省察できる。
(3)入定自在:いつでも、また、たとえば10分間とか好きなだけジャーナに入り、ニミッタと合一できる。
(4)住定自在:たとえば一時間とか、自分で決めた時間だけジャーナに留まることができる。
(5)出定自在:自分が決めた時間にジャーナから出ることができる。
第二、第三、第四禅の修行
初禅の五自在に習熟したら、第二禅の修行に入ります。初禅から出たのち、諸禅支を考察し、初禅には、それが五蓋に近いことあるいは尋と伺が粗いという欠点のあることを知ります。そして粗い尋と伺を捨てることを決意し、喜、楽、一境性しかなく、もっと平安な第二禅に達しようと願います。
第二禅では喜が強く感じられます。初禅と第二禅の違いを考察したあと、透明なニミッタに合一し続け、第二禅に入ります。首尾よく第二禅を達成すると、第二禅の五自在を修行します。
第二禅の五自在の修行に満足したら、第三禅へと進むことになります。第二禅から出て、まず第二禅の三禅支を省察します。喜が粗いこと、第三禅の楽、一境性とくらべて平安さで劣るという第二禅の欠点を続けて考察します。第三禅を達成するにはふたたび透明なニミッタに集中します。第三禅を達成したあと、第三禅の五自在を修行します。
第三禅の五自在に習熟したら、第四禅に進みます。第三禅から出て、第三禅の禅支を考察し、第三禅の欠点を見ます。第三禅には楽という粗い禅支があり、そのため第四禅に比べて平安さで劣ります。第四禅を達成するために、楽という粗い禅支をすてることを決意し、ふたたび透明なニミッタに集中するのです。
このようにして、第四禅に入りますが、そこには平静と一境性という二つの禅支しかありません。第四禅を達成したあと第四禅の五自在を修行します。
ミャンマーの比丘尼、ディーパンカラ・サヤレー(Dipankara Sayalay,1964年〜)師が国内で行ったリトリートに参加した記録を報告している。
サヤレー師は「はちみつ法友会」という団体が日本に招聘したのだが、幼少期から瞑想に取組み、大学時代にはパオ・セヤドー(Pa Auk Sayadaw, 1934年〜)師の下でサマタ瞑想とヴィサパーナ瞑想を学ぶ。彼女は短期間で修行を終え、1990年にはパオ瞑想センター(Pa-Auk Tawya
Monastery)にて尼僧として出家し、それ以降、瞑想指導者としての訓練を受けたという。ミャンマーのメイミョーにはサヤレーの瞑想センターがあり、1996年から世界各地の仏教センターに招かれ、オーストラリア、米国、カナダ、台湾、イギリス、マレーシア、シンガポール、日本等で瞑想指導をしている人物なのである。
なぜ、ここでサヤレー師なる人物をいきなり登場させてみたのかというと、彼女の来日時の法話が「菩提樹文庫」に掲載されており、ここに「ニミッタ」について詳しく解決されていたからだ。逆に言えば、「ニミッタ」や「慈悲」のキーワードで検索してみても、なかなか他のサイトはヒットしない。そこで、サヤレー師が数年にわたって行った諸法話のうち、ニミッタに言及した部分を抜粋し、以下のようにまとめるという作業をやってみた。
気づきと努力と集中力はセットである
「ブッダが私たちに教えてくださった涅槃へ到達する道は「八正道」である。これは、「戒・定・慧」の三グループにわけられる。一つ目は、「戒」。戒律、道徳に関する教え。二つ目は、「定」。禅定の「定」で、集中力を養うこと。三つ目は、「慧」。智慧の教えである。二つ目の「定」は三つあり、正念(サティ)・正精進(努力)・正定(集中力)の三グループからなっている(4)。
目の前に煙やボーっとした光が見えてくる
例えば、「アナパナ・サティ」をしているときには、入ってくる息や出て行く息を見て、「正念(マインドフルネス、サティ、気づき)」を養う必要がある。そして、この「気づき」と「努力」とが進むと、集中力が高まってくる。呼吸を観察することに幸せ感を覚えるようになり、呼吸に親近感を感じるようになる(4)。
目の前に「色」や「煙」あるいは「雲」等があることが感じられ(2)、10〜15分、集中力が深まり、本当に幸せで楽しい気持ちで呼吸を対象にして見ることができると、顔の前に次第に明るい光が見え始める(1,3,4,7)。この明るくボーッとした心の中に現れる光のことを「ニミッタ」と呼ぶ(6)。最初はぼんやりしているし(7)、灰色、緑色、青色、黄色、オレンジ色等、人によってどのような色で見えるのかも違う(1,2,3,4,6,7)。けれども、何色が見えてもかまわない(4)。
ニミッタの出現は集中力が深まった証である
ニミッタは、呼吸に集中ができていないときにはまったく見えない(3)。端的に言えば、ニミッタとは集中力の「しるし」であり(8)、ニミッタが現れたということは集中力が高まったということである(4)。心が集中するからこそニミッタが現れ、ニミッタに集中していくことでさらに心を集中させていくことができる(8)。
ニミッタに興味を持つとニミッタは消えてしまう
けれども、初心者の集中力はまだ不安定な状況にある。このため、ニミッタも不安定な状況にある。最終的にはニミッタを集中の対象にしていくことにはなるが、いきなりニミッタに意識を集中することは非常にまずい(8)。
例えば、好奇心が湧いて「これは何だ」とついつい見たくなってしまうのだが見てはいけない(1)。けっしてニミッタに注意を向けてはならない。「これはなんだろう」とか「この光は自分の体から出ているのだろうか」とか「外から来たものだろうか」とか「自分は進歩しているのだろうか」といった疑問ももってはならない(2)。あくまでも呼吸に集中し続ける(1)。初めの段階で光の方に注意や関心を向けると集中力が途切れてすぐにニミッタは消えてしまう(1,2)。なぜならば、呼吸に対して集中ができているからこそニミッタは現れるのであり、呼吸に対する集中が破れたら、集中力が失われてニミッタも失われていくからである。要するに呼吸に対する集中がニミッタを産むことから、ニミッタが現れてもそれに飛びつかず、ただ呼吸に集中していかなくてはいけない(8)。リラックスして、そのままにひたすら呼吸に気づき続けていくのである(2)。
白い光への変化〜第二段階のニミッタ
実は、ニミッタには三段階がある(1,3,4,6,7)。ニミッタを見ようとはせず、意識を呼吸に向けたままでいると、その色がだんだん白っぽくなってくる。この白色化がニミッタの第二段階である(1,2,3,4,5,6,7)。この段階でも関心を持ってはいけない。この段階でニミッタに注意を向けるとまたニミッタが消えるか、体全体に広がってしまい、集中力が落ちてしまう(2)。「見たい見たい」と思って見てしまうとニミッタがなくなってしまうのは、心が興奮して静かでなくなっているからである(1)。
ニミッタの拡散に注意せよ
パオ・セヤドー師はこう注意する。
「瞑想経験では、最初にニミッタが現れる人と、光が現れる人とがいる。ニミッタは、アナパナの鼻の入り口の集中ポイントに現れてくる。一方、『智慧の光(ライトオブウィズダム)』は、中心を持たずにボワーッと体を包むようなかたちで現れる。この光とニミッタとの違いをはっきりと理解しておかなくてはならない。ニミッタは集中対象になるが、光は集中対象にはならないからである。したがって、光がボヤーッと現れても、それに対して集中しないでいただきたい」(8)
サヤレー師も同じ注意を以下のような表現で行っている。
「まだ安定していないニミッタに集中してしまうと、ニミッタが広がってしまう。光が身体全体をおおって快い感覚になると、それが『禅定 (ジャーナ)』であるという人もいる。けれども、それは本来の禅定とは少し違う。まだ光が安定していないのに光に集中すると光が拡散してしまい、そのとき心は光と言うよりも空間に向いていく。心地よさからそれを禅定と間違えてしまうことがあるが、それはまだ禅定ではない」(6)
透明のクリスタル化〜ニミッタの第三段階
さて、ニミッタに集中できる状態が1時間、2時間と長くなり(8)、白い色が見えても、さらに呼吸に意識を集中し続けていていると、白い色がさらに明るさを増し(3,4)、光そのものがゆっくりと鼻の方に近づいてくる(3,6)。鼻先に止まるようになってくる(7)。この状態になってもさらに呼吸に意識を向け続けていると、明るい白色の輝きがさらに増し、明るいガラスやクリスタル、氷の塊、ダイヤモンド、あるいは、朝の明星のような透明な光になってくる(2,3,5,6,7,8)。この透明になった段階でも、力を入れてしまうと心が焦ってしまい、平和な感覚がなくなる。するとなかなか透明化しない。この段階では待つことが重要である。何かをしてやろうとするのではなく、ただ待つ。するとだんだん透明化し、ダイヤモンドやガラスのようになってくる。それまで待つことが大切である(6)。つまり、ニミッタが見えてくるとどうしてもニミッタを見たくなるが、ニミッタがクリスタルのように輝いてきて、安定してくるまで待たなければならない(3)。
ニミッタが光輝いたら呼吸から意識をシフトさせる
ニミッタはダイヤモンドのように輝く光になることが最も望ましいが、たとえそこまでいかなくても、クリスタルの輝きを持つようになれば、ニミッタの第三段階(3,4)、パティパーガー・ニミッタ(似相:浄亮光)となる(4,8)。これは、ニミッタとしては最高のものである(8)。
この白い輝く光のニミッタが安定的に現れて、鼻の先端で5〜10分も安定してきたら、今度は呼吸ではなくニミッタそのものに意識を集中する(1,2,3,4,5,7,8)。呼吸を「手放し」(2)、ニミッタの中へと入っていく(8)。
1時間、ニミッタが見られれば禅定に近い
そして、このニミッタを唯一の対象にして、1時間でも2時間でもずっとニミッタを継続的に見続ける(3)。これをアナパナ・ニミッタと呼ぶ(4)。1時間もニミッタを見ていられるようになれば、禅定に入ったとことになる。まだ、「初禅」ではないが、それに近い「禅定(近行定)」になったことになる(5)。ニミッタがはっきりと、安定して1時間でも2時間でも、心がニミッタに集中して留まっていられる状態になると、身体の下がなくなるような感覚になる。これが「アーナパーナの禅定」である(6)。
3時間、ニミッタを見続けられれば第一禅定に入って行ける
こうして心がニミッタに集中できるようになると、心も身体も非常に軽くなり(3,4)、次第に幸せを感じ始める。心はコントロールされ、1つの対象にしっかりと集中し、2時間でも3時間でもさまようことなく深い瞑想状態に入れるようになる(3)。すると、身体の感覚がなくなり、ただ、心とニミッタを見ている幸せ感だけになっていく(1,4)。
湖の中に石を投げたら沈んでいくように、ニミッタの中に心がスーッと沈んでいく状態になっていく(8)。完全なる没入状態、それが「禅定(ジャーナ)」と呼ばれる心の状態である(1,8)。この没入状態に入るまでアナパナ・サティを続ける(2)。五禅支という五つの禅の要素が現れ始める(4,6)。すると第一禅定に入っていくことができるようになる(7)。
「集中することが難しい」と思われるが、次のヴィパッサナーのステップに行くと、さらに難しくなる。なぜならば、ヴィパッサナーは、「集中力」が基礎になっているからである(4)。
ニミッタは禅定に向けたステップへのごく入口
おわかりいただけたであろうか。サヤレー師に言わせれば、ニミッタは、「ヴィパッサナー瞑想」に入るためのごくごく入口にすぎず、この「ヴィパッサナー瞑想」ができることでやっと「禅定」、それも、四つある禅定の最初のとっかかりになるだけなのである。
とはいえ、3時間以上もニミッタが見続けられなければならないというのは、あまりにもハードではないか。「接心」のために連続した休暇を取ることすら、多忙なビジネスマンには難しい。すると、どうなるか。短時間でも成果があがる「スピリチュアル・メソッド」が求められることになる。良心的であっても、いまある方法をミックスした独自の瞑想方法が開発されていくことになる。2016年5月10日のブログ「接心は大切F インターアクト 間奏」でも「スピリチュアル・ビジネス」について若干ふれたが、メソッドのコンタミネーション問題は、「効率性」の追及という米国社会そのものが抱える問題と、その影響下にある日本とも見事に重なって来るのである(続)。
サヤレーの画像はこのサイトより
【引用文献】
(1) ディーパンカーラ・サヤレー「アーナパーナサティ」菩提樹文庫
(2) ディーパンカラ・セヤレー「集中力の開発」菩提樹文庫
(3) ディーパンカーラ・サヤレー「カルマと再生」菩提樹文庫
(4) ディーパンカラ・サヤレー「涅槃に至る瞑想」菩提樹文庫
(5) 2008年1月3日ディーパンカーラ・サヤレー「サヤレー法話―四界分別観―物質の生滅を観る」菩提樹文庫
(6) 2011年12月30日ディーパンカラ・サヤレー「サヤレー法話―集中と出離」菩提樹文庫
(7) 2012年4月29日ディーパンカラ・サヤレー「サヤレー法話―40の瞑想法―」菩提樹文庫
(8)パオ・セヤドー「アーナパーナ・サティと七覚支」菩提樹文庫
1. すわりかた
1.
楽に座れる方法、胡坐でも楽座でもいいです。足は組んでも組まなくてもよいです。
2.
背中を真直ぐにします。横からみて後頭部−背中−腰(お尻)が一直線になるような姿勢をとります。
3.
腕を自然に前におろして、左手の上に右手を重ね、体の中央に置きます。両膝の上に置いてもよいですが、今説明した方法ですと体が自然に真直ぐになります。
4.
"sati"を鼻の下の呼吸の接触するところにおきます。"sati"は日本語で『念』とか『気付き』と訳されています。
5.
呼吸を観察する場所は鼻の穴の前か、人中と呼ばれる、鼻の下のくぼみです。そこに意識を持っていき、海辺で波が引く満ちるを足で感じるように、呼吸の吸う・吐くを人中か鼻の前で感じます。それをサティするといいます。
2. 瞑想の仕方
1)最初は呼吸を数えます。
吸って吐いて 1、吸って吐いて 2というふうに 1から8まで数えたらまた 1に戻って数えます。
これを瞑想を開始してから15〜30分間位繰り返し続けます。
1から8まで数えている間や、8が終って次の1を数えるまでの間に妄想が入らないように集中して下さい。
2) 呼吸を数えるのを30分位続け、息の集中が強くなったと感じたら数えるのを止めて下さい。
吸う息・吐く息がよくわかる(意識できる)ように集中して瞑想します。
この状態が30分〜1時間"妄想"しないで瞑想が続くようにがんばってください。
3)30分〜1時間続くようになったら、息の開始から終了までをみるように集中します。
呼吸の長さに関係なく、ゆっくり(長い)息も早い(短い)息も呼吸は自然に続け、息の始めから終わりまでをみます。
4)今説明した呼吸の観察が30分〜1時間続けることができたら、次は息が感じられなくなるくらい静かになったイメージをえがきながら瞑想します。
呼吸が静かになったら、この『静かで感じとることができなくなった息』がわかる(意識できる)ように"sati"を強くします。
"sati"が弱い人は、息がみえるように呼吸を不自然に強くするのはやめてください。そうすると間違った瞑想になります。静かな息をみるためには"sati"を強くして、自然に呼吸を続けていればみえてきます。
静かな息がみえるようになったらそれを1時間位続けてください。1時間続けて瞑想ができるようになると、"ニミッタ"があらわれることがあります。ニミッタというのは、通常は強い光が現れて、その光が輪になって、静止している状態です。
5) ニミッタが現れてもすぐにニミッタに意識を向けるのは良くありません。アーナ・パーナの呼吸にまだ意識を向けてください。
ニミッタが強くなり、光り輝き、遠くにあったニミッタが鼻の前辺りまで おりてきたならば、そのニミッタに意識を集中してください。
6) そして、"ニミッタ"と呼吸が一体になるまで瞑想を続けます。
この"一体になる"とは"ニミッタ"に意識をうつしても呼吸がわかり、 呼吸に意識をうつしても"ニミッタ"がみえる状態のことをいいます。
7)"ニミッタ"と呼吸が一体になり、その状態を1時間続けて瞑想ができたら、 "ニミッタ"だけに意識をうつします。
"ニミッタ"だけに集中する瞑想を毎日1時間続けることができるようになったら、心臓にある"意門"に2・3分だけ意識を向けます。そうするとそこに光がみえます。
"意門"の中にある"アナパナ似相"をみます。この"アナパナ似相"がみえるまでこの作業を何回か繰り返します。
8)心臓のなかにある"意門"に"アナパナ似相"の光をみることができたら、再び"ニミッタ"だけに意識を移し、1時間位集中を続けます。
9)"ニミッタ"だけに集中することというのは、呼吸はもう観る必要がないということです。ニミッタだけを1時間続けることができたら、"ニミッタ"と"意門"のアナパナ似相を同時に意識し、それを保ちながら"五禅支"を確認します。
五禅支
〈備考〉"似相"とは"patibaana-nimitta"のことです。
五自在
以上が出来たならば初禅となります。
【導きの光??】未知なる輝き!!丹光と7つのチャクラの関係性。
ある日のことなのですが、いつものように布団に入り目を閉じて、暖かなベッドがあることに深く感謝しつつ眠りに入りました。
そして、うとうとしてくるのを待っていると、瞼を閉じているはずの目の前が一瞬「ピカっ」と光りました。
気のせいじゃね??って思っていたらだんだんと深い蒼の光がブワァ〜って拡がってきたのです。
「やばい、とうとう幻覚まで見えるようになった、、、、」と思いかけましたが、不思議と怖い感じはしなく、最近ではコロコロ変わる色などを楽しみながら見るまでになってしまいました(笑)
実はこの寝ている時に見える光は「丹光」と呼ばれているものです。
「なんか変なもの見えるようになってしまった、、、、」って落胆してるあなた。
この記事を読んでぜひ安心していただけたらと思います。
今回の記事の目的
1.丹光とは??
2.チャクラとの関係
3.丹光が見えるようになるためには??
未知の光??丹光についての解説
丹光とは?
まずはざっくりとした知識から知っておきましょう。
「丹光」とは、目を閉じた時瞼の裏に見える光のことを言います。
色や形や表れ方は非常に様々です。瞼をとじていて真っ暗なはずなのに光が見えたら丹光だと考えていいかも知れません。
しかし、電気を消して目を閉じた時によく見える光の残像とは違ったものです。前者は徐々に見えてくるもので、後者は徐々に消えるので、違いは明瞭です。間違わないようにしましょう。
丹光が見える条件は?
丹光が見えるようになる、見える時の条件などの情報は様々です。
よく見られるものとして
です。
総じて見ると「とにかく心がリラックス」している状態になると見えるのではないか??と言うのが筆者の意見です。
三つ目の「第三の眼の開眼により見える」というのは、厳密に言えばあまり関係ないとの意見もありますが、現代人の松果体は子供から大人になるにつれて縮小していくとの研究があるので関連性が全くない話ではなさそうですね。
また、「昨日寝てる時光ったやつ、あれ何?!!また見たい!!意地でもみたい!!!」
というように頑張って見ようとしても見れません。これは筆者も体感済みで、自分の意思で見ようとしてたら寝落ちしているということが多々有ります(笑)
すんごくザックりとした言い方をすれば、「あるがままの自然体の自分」で居られる方は丹光がより見えやすくなるということだそうですね。
言葉にし難いのですが、筆者的には執着(躍起になること、頑張ること)を捨てて身を委ねる
(流れに身をまかせる、エゴを放棄する)と、ふとした瞬間に見えたりしますので参考にされてください。
丹光の表れ方
丹光の表れ方は様々です。
今まで筆者が体験したものをあげると
上のあたり(?)で一瞬ピカっと光る
といった具合です。本当に表れ方はバラバラで、「どういった状態でこの表れ方になるのか??」というのは正直まだわからないです。
しかし、上記の一点でも当てはまれば、丹光が見えていると言えるでしょう。
筆者は、最初は「ピカっ」と光る白いフラッシュが続いていて「これが丹光かな?」と思って信じ始めたら日数を得てはっきりと判別できるようになりました。
ですので、「見えると信じること」も必要だと感じられますね。単なる憶測なのですが、未知を遮断せずに受け入れることが可視化に繋がるように思います。
一発それっぽいのが見えたらあとはどんどん見えてくるようになると思いますので、疑うことなかれ、これに限ります。
丹光の色で自分がわかる??チャクラとの関係
丹光には色がある
先ほども述べましたが、丹光には様々な色があります。
これも、一定のものが日によって変わったり、複数が同時に見えたり、一度にころころ変わったりパターンは様々です。
ちなみに筆者は「蒼(深い青)」「緑」「紫」「白」「金色」などがよく見えます。
丹光の色とチャクラの色の相関
チャクラとは?
それではこの氣になる丹光の色に関してなのですが、見える色によって自分の状態がわかるといいます。
ちなみに色は「チャクラ」と呼ばれる、体内のエネルギーが通るゲートのようなものと深く関係があるとされています。
当ブログでお伝えしている「氣」「プラーナ」「波動」「意識」などがこれに当たると思われます。
これらをひとくくりに「エネルギー」として、その出入り口のようなものだと捉えてください。
↓エネルギーについては以下の記事でも触れてます↓
7つのチャクラ
性器と肛門の間から頭頂部にかけてチャクラは7つあるとされておりそれぞれに対応する色と担う力があるとされています。
第1チャクラ=赤色、生命力、現実を生きる力
第2チャクラ=オレンジ、自立心、創造性
第3チャクラ=黄色、自信、活力
第4チャクラ=緑色、愛、感情、情緒
第5チャクラ=青色、コミュニケーション、表現力
第6チャクラ=藍色(覚醒後は紫)、叡智、直観力、霊性
第7チャクラ=紫色(覚醒後は白色)、高次元のつながり、人生の目的
ちなみに番外編として
第0チャクラ=足元のエネルギーの出入り口
第8チャクラ=白色。覚醒により第7チャクラが頭頂部のさらに上に位置された時
というのもあります。
上記の「覚醒」とは全てのチャクラが開くことを指し、これにより第7チャクラが8番の位置に移行することです。
この状態ではエネルギーの循環が通常よりはるかに活発に、そしてサイキック能力(霊的能力)のような力が覚醒されます。
↓上記のサイキック能力は松果体の脱灰化のそれと非常に似ています
万物のエネルギーは=氣の流れはトーラス構造状に循環すると以前お伝えした通りで
エネルギーは最下層の第0チャクラから最頂点の第7チャクラを通過して時計回りに循環します。この循環がスムーズに行われていることが、肉体と精神両方の健康につながるそうです。
また、番外編で0番と8番があったように、厳密にいえば7つのチャクラという概念はあくまで大きくくくったものにすぎないそうで、実際はもっと複雑だとか。あくまでわかりやすい理解として9つのチャクラを理解しておきましょう。
つまり、上記の色に該当しないものが見えても何らおかしいことはないということですので、ご心配ないようお願いします。
丹光とチャクラの関係性
肝心のチャクラと丹光の関係性については、この二つの意見が有力です。
筆者的には後者が信ぴょう性に値すると思っています。
チャクラは人によって強弱の個体差があり、それによって見える光の色が変わります。
また見える光の色は日によって変わったり、数秒に変わったりなどもあるので、段階的に開いたチャクラの色が見えるというのはあまり当てはまりませんね。
活性化したチャクラが入り乱れていたり、覚醒して倍そうで循環していると考えれば、色の変遷については腑に落ちます。
また、それぞれの見える色によっての占い的な意味はネットに多々落ちていますが、筆者がそれについてあまり共感できなかったのと単なる知識不足の意味こめて、あえて今回は触れないでおきます。
と言いますのもこれらの情報を真に受けると、筆者は「緑から白、たまに金」の丹光をよく見かけるので、サイキック能力などが覚醒していることになります。
しかし、オーラが見えたりとか幽霊などのアストラル体の視覚やテレパシーなどの想念でのコミュニケーションはとれません(笑)
近い体験はしていても、確信につながるようなことはないです。
これらのことから「この色が見えたからこうだ!」みたいなのはあまり気にしないでいいと思われます。
嘘ではないとは思いますが、個々の解釈によって異なってくるであろうことだからです。
ですから、先ほどのチャクラと色と意味の対応をご覧になって、活性化しているチャクラを知り、自分なりに心当たりのあることをざっくり考えているくらいでいいと筆者は感じます。
丹光が見えるようになるには??
あくまで、自然体で
最後に丹光を見えるようになるためには??ということについて、やめて置いた方がいいことと、お勧めの方法を列挙して終わりにしたいと思います。
丹光が見えるようになるための方法はいろいろありますが
非推奨
推奨
です。
まずそもそもの話で、丹光が見えるようになるためには「頑張ってはいけない」と冒頭でも述べました。なんとなくですが理由はこれに限ると感じます。
無理解による瞑想は逆にチャクラのバランスを破壊してしまったり、あっちの世界のタチの悪い存在に出くわすことが多いそうで危険が多いですし、サードアイは漫画みたいに修行して開眼するものじゃないです。
レベルを上げる感覚というよりかはどちらかというと「自然=自己」に還っていく感覚が近いです。
ですので、まずはとにかく直感的にやりたいこと素直にやること、そしてどんどん満足していくこと。そうしたら徐々にエゴが剥がれ落ちて行って本来の自分が見えてきます。それと同時に見えるものも見えてきます。
そして、その自己回帰のような一連の流れをさえぎる不純物を取り除いて心と体を清めること、その見極めが必要です。これは同時に松果体の脱灰化へとつながっていくはずなのです。
白以上の丹光の可視化=第8チャクラの開花=松果体の脱灰化=サイキック能力の目覚め
この仮説が成り立つとしたら、そうは思えないでしょうか??????
丹光とは?その意味について
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スピリチュアルでは丹光の意味を、今の自分の身体や精神状態を表しているとしています。丹光の色や模様で、心身のエネルギー状態に気づけると捉えています。
また、内なる自己からのサインであるともいわれます。日々の生活に追われ疲れ果てていたり、本来の自分を忘れ、流れのままに生きていたりする時に、本来の自分はどうありたいかを気づかせるための内なる自分からのサインが丹光というわけです。
丹光の色や模様によっては、高次元の入り口であるとされ、宇宙(神)から送られる愛や守護のメッセージであるともいわれます。
丹光と第三の目
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丹光が見えるのは、肉眼の目ではなく第三の目で見ているとされます。第三の目とはサードアイともいい、額の真ん中、眉と眉の間にあります。丹光が見えない人も目を瞑って、眉間に意識を持っていき集中するとうっすらとした光を感じられるでしょう。
お釈迦様などの仏像の額には丸い小さな膨らみがあります。仏画には白いまるや渦巻で、仏像には小さな膨らみ、真珠などの宝石がはめこまれていることがあります。そこが「悟りを開いた者」の証しでもある第三の目です。
第三の目が開かれると、人の五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)では、感じ取れない力が発揮されます。いわゆる第六感といわれ、カンが冴えて予知能力や人の心を読み取ることができるようになる可能性があります。
丹光とチャクラ
丹光が見える第三の目は、インド哲学やヨガでいうところの第六チャクラに当たります。チャクラとは、サンスクリット語で車輪の意味で、人の生命力である気が渦巻状に身体から出たり入ったりする出入口のことです。
尾てい骨から背骨を通して上に上がり頭頂まで、七つのチャクラがあります。それぞれのチャクラには大切な役割と発光している色があります。それぞれのチャクラが開かれ、気の循環がバランス良く行われていると、心身ともに健康で活力に満ちた状態となります。
チャクラの役割と色
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第一チャクラ |
尾てい骨の辺り 生存本能や安心感をつかさどる 色は赤 |
第二チャクラ |
へその下5センチ辺り 創造性や性的エネルギー 色はオレンジ |
第三チャクラ |
みぞおち辺り 自尊心や自立した意志を表す 色は黄色 |
第四チャクラ |
胸の真ん中 愛や共感する心を表す 色は緑 |
第五チャクラ |
のど仏の辺り 創造力など自己表現を表す 色は水色 |
第六チャクラ |
額の真ん中 眉と眉の間 直観力など第三の目 色は青 |
第七チャクラ |
頭頂 百会 高次元との繋がりを表す 色は紫色 |
丹光が見える人の特徴とは?
丹光が見える第三の目は、誰もが生まれた時から持っているものだといいます。仕事や人間関係の軋轢など日々の生活に追われるうちに、自分の直観よりも人の意見や外界からの刺激にとらわれていると第三の目が閉じてしまい、丹光が見えなくなってしまうのです。では、丹光が見える人はどのような特徴があるのか解説しましょう。
特徴@心が穏やかな人
心が穏やかな人は、怒りや心のざわつきなどの感情に流されることが少なく、いつもピュアな心を保てますから丹光が見える可能性が高いです。
特徴A幼い子ども
Photo by Victoria_Borodinova
赤ちゃんが、大人には見えない何かを目で追って微笑んでいることがあります。子どもの頃、眠ろうとして目を閉じた時に光が見えて面白いなと思ったり、怖いなと思ったりした経験がある人は多いでしょう。万華鏡を覗いているようだと言う子どももいます。
純真無垢で今を生きている子どもには、丹光が見えているようです。子どもの頃に見えていた丹光が、大人になって日々の暮らしに追われ雑念で頭をいっぱいにしていると、第三の目が閉じて見えなくなってしまうのです。
特徴B精神統一が出来ている人
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一つのことに打ち込み、今を生きている人、精神統一が出来ている人は丹光が見えているといいます。活躍しているスポーツ選手が、素晴らしい結果を成した時、周りの景色が消えて光の中にボールだけが止まって見えたという話をすることがあります。
芸術家がすぐれた作品に着手している時には、現実とは違うビジョンが見えているといいます。頭の中が真っ白になっていたと表現する芸術家もいます。
一つことを成し遂げるスポーツ選手や芸術家、昔の偉人や賢者は目を開けたままでも丹光が見えているのでしょう。
特徴Cいつも感謝している人
Photo by BriF
いつも全てのものに感謝することは、普通の人にはなかなか出来ないことかも知れません。でも人生の中で身に余る幸運な出来事があったり、思いがけず夢が叶ったりした時、心の底から感謝の気持ちが湧いてくることがあります。
そんな時、心がピュアになり目に映る全てのものが輝いて見え、キラキラした丹光が見えることがあります。
特徴D霊感力やサイキックな力を持つ人
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感受性が強く敏感な人や霊感のある人は、人に見えないものを見る力を持っています。第三の目が生まれながらにして発達していて、丹光が見える可能性があります。
ただし、良いものにも悪いものにも開かれていますから、ネガティブなものが見える時には、チャクラの調整が必要でしょう。
丹光が見えるようになる方法とは
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丹光が見えるようになるには、閉じたり衰えている第三の目を開くことが鍵となります。修行僧のような厳しくも難しい修行を考える必要はありません。
日常のざわついた心を鎮め、自分の内側に意識を集中する時間を少しでも持つことで、徐々に第三の目が開いて行くのです。次に丹光が見えるようになる方法を紹介します。
方法@瞑想する
Photo by Pexels
丹光が見えるようになる第三の目を開く最良の鍵が瞑想です。お釈迦様は瞑想中に悟りを開いたといいます。瞑想を習慣にすると、丹光が見えるようになるばかりでなく、仕事の効率が上がった、人間関係が良くなった、落ち込まなくなったなど、その効果ははかり知れないものがあります。
瞑想は、胡坐を組むことが基本ですが、組めなければ椅子に座っていてもかまいません。背筋を伸ばして、両手の平を上に向けて目を軽く閉じます。身体に力の入らない状態で、ゆっくりと複式呼吸を繰り返し、呼吸に意識を向けます。
雑念が浮かんで来ても、流れるままにしておきましょう。そのうち頭が空っぽになる瞬間が訪れます。眉間に意識を持っていくと、うっすらとした丹光が見えてきます。始めは上手く出来なくても、何度か練習するうちに必ず見えて来ますから、諦めずに続けてみてください。
方法A丹田呼吸法をする
Photo by Sponchia
丹田呼吸法とは、第二チャクラでもある丹田を意識して呼吸をすることです。呼吸筋である横隔膜を上下させて呼吸をする複式呼吸と同じですが、違いは丹田を意識して呼吸をする点です。
呼吸法を行う時には、お腹を締めつけるような衣服は避け、ゆったりとしたものを身につけましょう。無理のない姿勢で座り、背骨を真っ直ぐに立てます。始める前に、へその下5センチあたりの丹田に手を当てて確認しておきましょう。
目は瞑るか、前方下に視線を向けます。呼吸は鼻からが基本です。心の中で1から8までゆっくりと数えながら吸っていきます。鼻から胸、みぞおちから丹田へと流れていくイメージで吸い込み、丹田で止めます。
丹田を意識して力を込めながら吐いて行きます。丹田からみぞおち、胸から鼻へと流れるイメージで吐いて行きます。吐くときは、吸う時よりもゆっくりと時間をかけるようにします。
方法Bヒーリング音楽を聴く
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ヒーリング音楽を聴くことで、ストレスによる疲れや悲しみや怒りを鎮め、心身がリラックスすることが出来ます。心の垢を落としざわつきがなくなると、丹光が見えやすくなって来ます。
モーツアルトやバッハなどのクラッシク音楽にもっとも効果がありますが、自分の好きな音楽でもかまいません。ロックなどの激しい曲や悲しさを誘う曲ではなく、ゆったりとした落ち着く曲を選びましょう。川のせせらぎや波の音、雨の音などの自然音にもヒーリングの効果があります。
丹光が見えるようになる練習の注意点
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瞑想や呼吸法の練習をする時間帯は、始めは休日や週末などゆったりとした時間の取れる時にしましょう。びっしりと予定が詰まって時間を気にしているようでは、集中できず瞑想そのものが嫌になってしまうかも知れません。
誰かに激怒していたり、酷く悲観していたり、心配事で頭がいっぱいだったりして集中出来ない時は、きっぱりと止めましょう。ネガティブな感情が増幅されてしまう危険があります。掃除をしたりジョギングをしたりお風呂に入ったりして、身体を使って頭をからっぽにした方がいい時もあるのです。
初心者は真夜中は避けましょう。瞑想は高次元の入り口になりますが、低次元の入り口にもなります。丹光が見えていると思っていたら、魔界へとつながる道だったということもあります。
もちろん慣れてきたら、どんな時間帯でもかまいません。出勤前のわずかな時間でも瞑想をして心を整えてから会社に行くという達人もいます。
丹光の色別の意味解説【基本色】
瞑想や呼吸法を習慣にして、丹光の色や形などの映像を意識していると、日々、色や形が変化していることに気づくでしょう。丹光の色はチャクラの色と対応されていて、自分の身体や精神のエネルギー状態を知る手がかりになります。日常生活の気づきにもなる丹光の基本色の意味を紹介していきます。
赤の丹光の意味
鮮やかな赤や、明るいマゼンタに近い赤の丹光は、生命力に満ちあふれている状態を表しています。しっかりと大地に根を下ろした大木のように、地に足をつけた生き方が出来ている、生存本能が満たされ安定感のある状態です。
オレンジ色の丹光の意味
オレンジ色の丹光は、創造性が満ちていることを表しています。日々の生活の中でさまざまな工夫をして楽しんだり、何かを創り出すことに喜びを感じているでしょう。性的エネルギーにも関係していますから、愛する人との関係も充実しているかも知れません。
黄色の丹光の意味
黄色の丹光は、自尊心や自分の意志を表しています。自分を愛し大切に出来ている、他人や外界に流されずに、自分の意志で行動していく力強さのある状態です。
緑の丹光の意味
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緑色の丹光は、ハートのチャクラに対応し慈愛に満ちていることを表しています。愛や思いやり、共感性に優れ、人と心の交流をし合うことで生きている実感を得ることができている状態です。
水色の丹光の意味
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水色の丹光は、のど仏あたりのチャクラに対応していて、自己表現を表しています。スカイブルーのような綺麗な水色なら、自分の意志を言葉でしっかりと表現出来ています。文章や絵画などの創作で自己表現出来ている時でもあります。
青色の丹光の意味
Photo by O12
青の丹光は、直観力やサイキックな能力を表しています。チャクラの位置の色では、第三の目に当たり、直観力が冴え、人や出来事の本質を見抜ける時です。思考するよりも、自分の感性を指針に行動した方が結果的に良くなる時期でもあります。
紫の丹光
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紫色の丹光は、高次元との繋がりを表しています。現世では最高級の色で、お坊さんの袈裟にも多く、天命や使命に添った生き方ができている人です。紫色の丹光が見えるようになったら、高次元の入り口に立ちつつあるかも知れません。
白い丹光
Photo by Ellasommer
白い丹光は、高次元の波動に近づきつつある浄化された魂を表しています。悩みや不安などから解放されて、自分で自分の心をコントロールできている時には、眩しいほどの白光を見るといいます。
丹光の色別の意味解説【レア色】
Photo by Artturi_Mantysaari
丹光の色には、基本色の他にも特別な色があります。インディゴブルーや金銀、虹色は神秘の色で、宇宙や高次元から送られてくる光といわれます。神秘に満ちたそれらの色が、どのようなメッセージを持っているかを解説します。
インディゴの丹光の意味
Photo by ColiN00B
宇宙に浮かぶ地球のようなインディゴブルーは、第三の目が開かれていることを表しています。直観力が増し、シンクロニシティが頻繁に起きるようになり、夢で見た風景が現実にそのまま現れたりすることがあります。自分の直観を信じて行動しても大丈夫だというサインになります。
金銀の丹光の意味
Photo by MichaelGaida
銀色や金色の丹光は、もっとも波動が高く人格の高さを表しています。眩しいほどのゴールドの丹光なら高次元からのコンタクトとされます。宇宙や神からの愛の波動であったり、守護や応援のメッセージであったりします。
虹色の丹光の意味
虹色の丹光は、希望や夢のサインを表しています。自分の夢に向かって、胸をふくらませながら歩いている時でもあり、間もなくその夢は叶うというサインです。守護の天使からの応援のメッセージになります。
丹光の色別の意味解説【柄や模様】
丹光は、色だけではなく形や模様の映像で見える時があります。いくつかの色が重なった渦巻状であったり何かの形であったりしますが、怖がらずにじっと見てください。そこから今の自分の感情を知り、進むべき道への指針にすることが出来ます。
マーブルの丹光の意味
色が細く重なり合って流れたり、渦を巻いたりしているマーブル模様は心の中の迷いを表しています。綺麗な色が美しく重なり合っている時は、いくつかの選択技から結果的に良い物を選び出せるサインになります。濁った色が重なり合っている時は混迷を表し、選択の結果がトラブルに発展していく可能性があります。
水玉模様の丹光の意味
Photo by Glamazon
水玉の丹光は、心の中の楽しさや嬉しさを表しています。もし何か心配事があるとしても、間もなく解決していく、良い方向に向かっていくというサインになります。
幾何学模様の丹光の意味
Photo by doomrabbit
幾何学模様の丹光は、宇宙と直結していることを表しています。明るい華やかな色で心地良く感じるなら、宇宙に守られているサインになります。尖った角が、心に突き刺さるような心地なら混迷を表し、宇宙が、もう一度自分を見つめ直すようにとメッセージを送っているのです。
チャクラを意識して丹光の色を見てみよう
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丹光の色は七つのチャクラに対応しています。瞑想をして丹光が見えるようになったら、第一チャクラから順にチャクラの発光色をイメージしながら、第七チャクラまで上げていきます。チャクラの位置に心地良さを感じるようであれば浄化が進んでいる証しです。
色が濁っていたりネガティブなイメージが浮かぶようなら、チャクラの気の循環が出来ていない状態です。生活習慣の改善で体調を整えたり、瞑想やヒーリングで心を癒したりする必要があります。
丹光の色で、自分の健康状態が分かり、今の運気や進むべき道を知る手がかりになるとすれば素適なことです。是非、丹光が見える人になって、豊かな人生を送っていきましょう。