パオ僧院の教え

 

Description: http://www.geocities.jp/bodaijubunko/f05.jpgパオの瞑想法は今日きわめて重要であるように思えます。
それはブッダの教えた修行法を今に伝えているからです。
2010
年に来日されたパオ・セヤドーは、「これは私のオリジナルな方法ではなく、ブッダの教えた修行法である」とおっしゃっています。
テーラワーダの修行体系の基礎は、ブッダゴーサ長老の「清浄道論」に収められていますが、パオの瞑想はほとんどこれに沿って進んで行きます。すなわち戒(戒律を守る)・定(サマタ瞑想によりサマーディ、禅定を得て心を清浄にする)・慧(ヴィパッサナー瞑想により洞察智を得る)という三学です。

ここではパオの瞑想関連の法話を集めました。
パオの修行全体について理解するには、まず「パオ森林僧院における教えと修行」を読まれると良いでしょう。

 

 

パオ森林僧院における修行の進め方

2012年8月25日(土) クムダセヤドー浜松市瞑想会 法話

パオ森林僧院の修行体系について

1.五戒を守る・・・「戒」
まず修行にとって大事なことは、「戒律」をしっかりと守ることです。在家は五戒を守ることです。できれば八戒斎(はっかいさい)または十善戒(じゅうぜんかい)を守ることです。戒律は、瞑想を進める上で欠かせません。戒律が出来ていないと、まず修行は進みません。

五戒の一番最初は殺生(せっしょう)。殺生をしませんということです。生き物を殺すことがないように注意しないとなりません。
不殺生戒(ふせしょうかい)。

二番目は偸盗(ちゅうとう)。盗むことですけれども、そういうことをやらないように注意をすることです。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。

三番目は邪淫(じゃいん)。不倫しない。不倫をして相手の家庭を壊してはならないということです。
不邪淫戒(ふじゃいんかい)。

四番目は妄語(もうご)。嘘を付かないことです。
不妄語戒(ふもうごかい)。

五番目は、自分の意識を弱めること。たとえば麻薬、お酒、薬物といったものをとらないことです。
不飲酒戒(ふおんじゅかい)。


戒律を守る上で欠かせない慚愧(ざんき)の心
また五戒を守る重要な心の働きは、ヒリ(慚:ざん)とオタパ(愧:き)です。

・悪いことを行うことへの恥ずかしさ(ヒリ:慚)、
・悪いことを行うと悪い結果が来ることを怖がる心(オタパ:愧)

ヒリとオタパがないと、簡単に悪を犯してしまいます。
ヒリ(慚)とオタパ(愧)は、戒律を守るために一番重要な心です。この二つは、自分の心を綺麗にする重要なダンマ・教えになります。戒律を守りたいとしたら、まずヒリ(慚)とオタパ(愧)が自分の心に培うように努力することが大切です。


2.禅定〜アーナパーナサティ・・・「定」
この「戒律」を基本とし、「戒律」の上に、「禅定(定)」が出来てきます。
ですからパオ瞑想では、まず「戒律」をしっかり守って、それから禅定を作る瞑想に入ります。

アーナパーナ瞑想を行う場合は、呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します。この間に、他のことや妄想、思考が入らないようにします。

次第に光(ニミッタ)が現れてくるようになります。呼吸に長く集中(気づく)できればできるほど、ニミッタが安定してきます。最初はゆれていたり、人によっていろいろな形に出てきます。しかしどんなニミッタが出てきても構わずに、呼吸に集中して(気付きを入れて)いきます。そして集中力(気付きの力)が長ければ長いほど、ニミッタも安定してきます。

ニミッタにはいろいろな形があり、その人その人によって形は違います。
ある人は丸い形、星の形、棒の形、雲の形、ダイヤモンドなどいろいろと出てきます。
ニミッタは、自分の鼻の先に止まって光って現れてきます。
ニミッタが安定して動かなくなってきたら、呼吸からニミッタに集中します。ニミッタに1時間集中できるように練習します。
1時間なら1時間、決意した通りに集中できるようになると、第一禅定、第二禅、第三禅定、第四禅定に行くことを教えることができます。


40種類のサマタ瞑想を実習する
アーナパーナ瞑想で禅定が完璧にできるようになれば、次は四十種類のサマタの瞑想の仕方を教えます。

アーナパーナ瞑想が成功すれば、まず「三十二身分」を行います。「三十二身分」とは体の三十二箇所を確認する瞑想です。
「三十二身分の瞑想」とは、アーナパーナ瞑想で得た禅定力で、髪の毛、体毛、皮、骨、肉、すい臓、心臓、腎臓、腸、胃などの体の32の部分を見ていく瞑想です。

三十二身分ができれば次は「白骨観」です。
白骨観とは不浄観とも言われます。

白骨観が出来れば、骨の白色を取って、白遍の瞑想を行います。白遍などは「十遍処(カシナ)」の瞑想といいます。白遍以外にも赤、青、黄などカシナの瞑想には10種類あります。

カシナの瞑想をマスターしたら次は「慈悲の瞑想」です。
その後に「仏随念」「死随念」を行っていきます。


3.ヴィパッサナ瞑想・・・「慧」
ここまで出来れば禅定は完璧にマスターしていますので、今度は禅定力を使ってヴィパッサナ瞑想を行っていきます。しかしいきなり無常・苦・無我を悟るヴィパッサナ瞑想はしないで、ヴィパッサナ(観察)する対象をまず確認します。

・ルーパ瞑想
ヴィパッサナ瞑想には段階があって最初に「ルーパ瞑想」を行います。ルーパ瞑想は「物質の現象」を見るヴィパッサナ瞑想になります。

最初に「四界分別観」を行います。四界分別観では、地・水・火・風という四大元素を観察していきます。四界分別観を行うと自分の体の中が小さな微粒子で出来ていることが見えるようになります。
そしてこの微粒子に、10種類の要素が含まれていることを観察していきます。その10種類とは、地・水・火・風という四元素、栄養素、臭い、色、味、命根、パサダ(透明)の10要素です。四界分別観のヴィパッサナ瞑想で、これら10種類の要素を観察していきます。

なお微粒子は、10種類の要素だけでなく、8種類の要素が含まれた物質(微粒子)もありますし、9種類の要素から成る物質(微粒子)もあります。
物質は、含まれる要素の数によって3タイプに分けられます。

・ナーマ瞑想
ルーパ瞑想をマスターしたら今度は「ナーマ瞑想」に進みます。ナーマ瞑想とは「心の現象」を観る瞑想です。これもヴィパッサナ瞑想の一つです。ナーマ瞑想では、「心」と「心所(心の成分)」を観ていきます。

・縁起瞑想
ナーマ・ルーパができれば「縁起の瞑想」に進みます。「縁起の瞑想」とは原因と結果を観察する瞑想です。どういう原因でどういう結果を生じているかを観ていく「縁起の瞑想(十二縁起の瞑想)」を教えます。

・四特相
十二縁起の瞑想が終われば、次に先の物質を4段階に分けて広めて観察する瞑想方法に進みます。「四特相」といいます。ナーマ・ルーパの瞑想は、最初は一種類の相で見分けて、無常・苦・無我を見ていきます。四特相では、4つの方法で、ナーマ・ルーパの現象(無常・苦・無我)を見ていきます。地・水・火・風の性質等を観察していきます。

・ヴィパッサナ瞑想
四特相をマスターすれば、やっとここで完全なヴィパッサナを行います。何を見ても無常・苦・無我を見通せるようになります。


パオの教え方とは
パオの教え方は、最初は「戒律」から始まり「戒律」が基本になります。
そして戒律の上に「定」、要するに禅定があります。
禅定を作ったら「智慧」の行、つまりヴィパッサナに進みます。
要するに、「戒・定・慧」を行っていきます。
戒(五戒などの戒律)、定(禅定)、慧(ヴィパッサナ)

簡単にはできないと思いますけれども、速く進む人もいれば遅く進む人もいます。
初心者は、アーナパーナだけでも大変ですけれども、マスターできるように努力してがんばっていくことです。
またこのようにたくさんのカリキュラムを書くと大変だと思うかもしれませんが、アーナパーナが成功すればすぐに進んでいきます。
第一の壁はアーナパーナで、アーナパーナで得た禅定によって、他のことはできるようになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パオ森林僧院における教えと修行         ビク・モネイヤ 翻訳 仏教文献翻訳の会

 

編集者まえがき

本書は、パオ森林僧院の修行内容について概説した「TEACHING & TRAINING Pa Auk Forest Monastery」を翻訳したもので、四聖諦からはじまり涅槃に至るまでの道を 手際よくまとめてあります。本書をお読みになり、さらに詳しく知りたい方は、姉妹編で ある、「パオ・セヤドーのサマタ・ヴィパッサナー瞑想」に進んでいただければいっそう理解が深まると思います。 脚註の参考文献については、原著では英語版のものについて載せてありますが、日本語版で手に入る以下のものについては、その該当箇所を記しておきました。

清浄道論:水野弘元博士訳「南伝仏教大蔵経・清浄道論一〜三(大蔵出版)」のページ数。 Knowing and Seeing」:日本語訳「如実知見」(Pannyadhika 女史によって翻訳されサイト上に公開されています)の該当箇所。「K&S」とあるのは英語版です。 http://web.archive.org/web/20070405093323/www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/

アビダンマッタサンガハ:「南方仏教哲学教義概説・アビダンマッタサンガハ刊行会」のペ ージ数。また、中部経典などの経典については、できる限り日本語名を記しておきました が、不明なものはそのままにしてあります。 本書が仏教修行についての全体像を理解する助けになりますことを願っています。

2010 6 仏教文献翻訳の会

 

目次

序章 ・四つの聖なる真理 ・三学の修習 パオ森林僧院における教えと修行

第一章、戒

1 段階 戒清浄

第二章、定

2 段階 心清浄 ・初学者のためのサマタ瞑想 ・呼吸への気付き ・その他のサマタ瞑想の習得 ・四界分別観

第三章、智慧

3 段階 見清浄 ・物質性の識別 ・精神性の識別

4 段階 渡疑清浄 縁起を見る

5 段階 道非道知見清浄 ヴィパッサナーの実践

6 段階 行道知見清浄 十六の洞察智の育成

7 段階 知見清浄 ・涅槃の実現 ・覚醒の四段階

結語

パオ・セヤドー小伝

付図

 

 

序章

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブッダッサ 阿羅漢であり、正自覚者であるかの世尊を礼拝し奉る。 四つの聖なる真理(四聖諦) 四つの聖なる真理(四聖諦)はブッダの中心的教えです。それはあたかも車輪の中心(ハ ブ)であり、そこからブッダの他の全ての教えがスポークとなって放射状に広がっている かのようです。ブッダは、菩提樹の下で偉大なる覚りを開かれてから間もなくして、ベナ レス(*1)の近くにあるイシパタナの鹿野苑(ろくやおん:サルナート)において、初め てこれら四つの真理を五人の苦行者(*2)に説かれました。その一つの教えをもって、約 2500 年前に完全なる覚りを得られたブッダは最上の法輪を転じ、やがて仏法を確立されま した。 四つの聖なる真理(四聖諦)とは次のものです。

1.苦の聖なる真理(苦聖諦)

2.苦の起源(原因)の聖なる真理(苦集聖諦)

3.苦の滅尽の聖なる真理(苦滅聖諦)

4.苦の滅尽に至る道(方法)の聖なる真理(苦滅道聖諦)

 

*1.ベナレス:今ではヴァラナシと呼ばれており、今日のブッダガヤにおけるブッダの成 道の地から 200 q程離れたところにあります。

*25 人の苦行者:かつてブッダが 6 年間に及ぶ厳しい苦行を敢行した間、ブッダとともに 生活し、ともに修業をしていた 5 人の苦行者のことです。

*3.真理(ダンマ):ブッダの教えや教義、普遍的法則、究極の真理、四聖諦のことを指し ます。

 

1.苦の聖なる真理(苦聖諦)

「比丘たちよ(*1)、いったい何が苦の聖なる真理でしょうか?

生まれることは苦です。 老いることは苦です。病は苦です。死ぬことは苦です。愁い、悲しみ、苦痛、憂鬱 と苦悩 はいずれも苦です。嫌な人と付き合うことは苦です。好きな人と別れることは苦です。欲 しいものを獲得できないことは苦です。要するに、執着された五つの集合体(五取蘊)は 4 3 苦です。」(相応部経典 56.11『初転法輪経』Dhammacakkappavattana Sutta

 

「五つの集合体(五蘊)」(*2)とは、物質からなる身体的集合体(色蘊・しきうん)と、 感受(受蘊)、知覚(想蘊)、精神的形成作用(行蘊)(*3)、および意識(識蘊)からなる 四つの精神的集合体(名蘊・みょううん)のことです。これらの五つの集合体(五蘊)が 宇宙全体における全ての物質性と精神性を形成しています。「執着」は、つかむという心の 活動に当てはまります。「その作用は、手放さないこと」(*4)です。 しかし、何故にこの五つの集合体(五蘊)は執着の対象になりやすいのでしょうか? それは無知であるが故に、私たちは物質性と精神性のことを「主体たる私」、「客体たる私」、「私のもの」というように間違えて見てしまうからです。それこそがこの微妙な自己の感覚(自我感)であり、このような自我感が、私たちの知覚を歪めて「執着」を生み、その跡に続いて数え切れない諸々の心身の苦痛を引き起こすのです。

第一の聖なる真理において述べられる「苦」(*5)には、次の3つの種類があります。

@.肉体的もしくは精神的苦痛としての苦(苦苦)これは、もっとも明らかな意味での 苦です。生、老、病、死によって生じる苦であり、愁い、悲しみ、苦痛、憂鬱、苦悩によ る苦です。

A.変化に関連した苦(壊苦)これは、何ごとも執着していることは、たとえそれが肉体的もしくは精神的に楽しい感覚であっても、それらの感覚が止むときに苦を生む原因となり得ることです。言い換えれば、「楽しい物事と別れるのは苦である」。

B.五つの集合体(五蘊)そのものに内在する苦(行苦)これら五蘊のそれぞれは途絶えることなく生起と消滅とが連続する状態にあり、ある瞬間と次の瞬間とが同一であるということは決してありません。最小の微粒子や最も原初的な意識形態から、広大な宇宙や31の地すべてに至るまで、あらゆる物質的・精神的現象は、全て「無常」という容赦のない法則に従っています。このタイプの苦(行苦)は、私たちの内側と周囲で常に生じ続けており、また、条件づけられた全ての存在における根本的な不安定性と不満足性の原因となっています。

*1.「比丘」:修行僧、托鉢僧。とりわけブッダの教えに従う僧侶達の集団(サンガ)の構 成員を指す。

*2.「五蘊(カーンダ)」: その内容は、22P から 24P までを参照のこと。

*3.「精神的形成作用(サンカーラ・カンダ:行蘊)」:意志、決意として最初に働く心の要54素の集合体(蘊)。 *4.「その作用は、手放さないこと」:「清浄道論」(水野訳)第三巻、第十七品、(八)渇愛の 縁より取あり(253P) *5.苦(ドゥッカ/ドゥッカター):相応部経典 45.165。仏教辞典(pp.54-55)で定義さて います。

 

2.苦の起源(原因)(苦集聖諦)

「比丘たちよ、いったい何が苦の起源(原因)(*1)の聖なる真理でしょうか?

それは、再生へと繋がり、歓喜と貪欲に密接な関係があり、また、あちらこちらで喜びを探し求める「渇愛」です。 すなわち、

@)感覚的快楽に対する渇愛(欲愛)

A)存在への渇愛(有愛)

B)非存在への渇愛(無有愛) です。」 (相応部経典 56.11「初転法輪経」Dhammacakkappavattana Sutta

 

@).感覚的快楽に対する渇愛(欲愛)とは、悦ばしい光景、悦ばしい音、悦ばしい匂い、 悦ばしい味、悦ばしい触感、悦ばしい思考を渇望することです(*2)。何時でも何処でも、悦ばしい思考や悦ばしい身体感覚が起これば、それを求め、執着するようになります。すなわち食物、性行為、心地よい物、財産、友人、愛する人、様々な娯楽、などに対してです。欲しいものを得ても、その瞬間の身体的、精神的な快の感覚は、それが消滅する時に 苦しみの原因となります。欲しいものが得られないときには、それもまた苦しみです。苦しみを感じると、嫌悪感が生起します。私たちが他者を批難すると、嫌悪感は憤慨・憎悪 へと拡大します。このようにして、感覚的な喜びへの渇愛から憎悪や対立が生じます。憎悪や対立が生じることで、苦しみは倍増します(*3)。

A).存在への渇愛(有愛)とは、この生を望み、次の生(天界への再生など)を望み、究極的には永遠の生を望むことです。

B).非存在への渇愛(無有愛)とは、自己の存在と意識を消滅させたいと望むことです。

 

あたかもロウソクの炎に誘い込まれる蛾のように、生きとし生けるものはこれら三つの渇愛により、抗し難く欲望の対象へと引き寄せられます。そして次々に執着を引き起こし、「輪廻(サンサーラ)」(*4)と呼ばれる再生の循環を引き起こします。

「比丘たちよ、輪廻(サンサーラ)の始まりは想像もできないことです。無明に妨げられ、 渇愛にとらわれて、再生の輪をさ迷い徘徊する衆生の始まりは、知ることができません。

比丘たちよ、どちらの方が多いと思いますか?

すなわち、この長い輪廻の道をさ迷い、徘徊してきた間に、好ましからざるものと共になり、好ましきものと別れざるを得ず、泣き 叫び、嘆き悲しんで流した涙と、四大海の水を比べて。

この長い輪廻の道をさ迷い、徘徊し続けてきた間に泣き叫び、嘆き悲しんで流した涙 は・・・それだけで、四大海の水の量よりも多いのです。・・・比丘たちよ、それほどの長き時間にわたって苦痛、苦悩、災難を経験し、墓を増やしてきたのです。」 (相応部経典 15.3「涙経」)

さらに、「巨大な海が干上がり、消えて無くなる時がいつかは来るでしょう。巨大な大地が火に呑まれ、消えて無くなる時がいつかは来るでしょう。それでもなお無明に妨げられ、渇愛 にとらわれて、再生の輪をさ迷い、徘徊し続ける衆生の苦しみに終わりが来ることはないでしょう。」

(相応部経典 22.99「束縛経」Gaddulabaddha Sutta

 

これが輪廻(サンサーラ)の本性であり、既に数え切れない程宇宙(*5)は生成消滅して きましたが、その間、衆生の苦しみは絶えることなく続きました。無明に妨げられ、渇愛にとらわれ、衆生は常に展開している再生の輪をさ迷い、徘徊しており、そうした再生は 31の地」(*7)において、卵生、胎生、湿生、化生(*6)を通じて起こっています。地獄の最下層から人間界、さらには天界の最上階に至るこれら31の地には全ての衆生が皆含まれています。

死の瞬間に渇愛が現存するならば、その人(あるいは他の生き物)は、これら31の地のいずれか一つにおいて再生するでしょう。あらゆる新たな再生とともに、新たな一組の集合体(五蘊)と「もう一つの苦しみの生」(*8)も現れます。この過程を真に理解する者は、その過程を終わらせること以外は何も望みません。

*1.苦の起源:苦の起源に関する詳細な分析のために、本書「縁起」に関する説明を参照のこと。

*2.悦ばしい光景等:色、声、香、味、触(感触)、法(思考など精神的対象)は、六つの感 覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体、意識)のそれぞれの対象である。ある色形を見たとき、 ある音を聴いたとき、ある味を感じたとき、等々の感覚には、悦ばしいもの(楽受)、悦ばしくないもの(苦受)、どちらでもない中立的なもの(不苦不楽受)がある。

*3.中部経典の『大苦蘊経』(Mahâdukkhakkhanda Sutta)において、ブッダは次のよう 7 6 に説明しています。

「また、感覚的悦びを原因として・・・王族は王族と喧嘩をし・・・貴族は貴族と・・・戸主は戸主と。母は子と喧嘩し、子は母と、父は子と、子は父と、兄(弟)は弟(兄)と喧嘩し、兄(弟)は妹(姉)と、姉(妹)は弟(兄)と、友人は友人と。男たちは剣と盾を手に取り、弓と矢筒を身に付け、弓矢と矢を投げ、剣を閃かせて、滑りや すい城壁に襲撃をかける。そしてそこで、人々は、弓矢と矢を受けて傷つき、煮えたぎる 液体を跳ね散らされて、ずっしりした重石の下敷きにされて押しつぶされ、剣で首を刎ねられ、それによって、死を招くか、死ぬほどの苦痛を味わう。つまり、これもまた、感覚 的悦びによる危険である・・・単なる感覚的悦びが争いの原因となる。」

*4.「輪廻(サンサーラ)」:文字どおりに「走り続けること」もしくは「終わりなく放浪し 続けること」

*5.「宇宙のサイクル劫(カッパ)」:計ることができない程の長い時間の周期のこと。イーオンともいう。一つの劫(世界周期)は4つの時代に分割される。

(1)世界の消滅(宇 宙の衰退と崩壊)の時代、

(2)カオス(混沌)継続の時代、

(3)世界形成(宇宙創造) の時代、

(4)形成された世界の継続の時代、

の四つである(劫:カッパ)の定義は仏教辞 p.76 から採用した)。より深い詳細については相応部経典 15.5, 増支部経典 IV.156 およ VII.62.を参照のこと。

*6.「化生(自然発生)」:中部経典 12.32「大獅子吼経」Mahâsîhanâda Sutta

*7.「31 の地」については、付図 IV を参照。詳細については、中部経典序文 pp.46-48 アビダンマッタ・サンガッハ V.§6 (131P)の表を参照。

*8.「もう一つの苦しみの生」:ほとんどの場合、四つの悲惨な地(動物界、餓鬼界、阿修 羅界、地獄)におけるもう一つの苦しみの生涯となる。この説明については本書 35P の脚 3 と、付図 IV と相応部経典 56.102-131.を参照。

 

3.苦の滅尽(苦滅聖諦)

「比丘たちよ、苦の滅尽の聖なる真理とは何でしょうか?

それはまさしく渇愛の完全な消滅、滅尽であり、渇愛を諦め、捨棄し、手放し、排除することです。」

(相応部経典 56.11『初転法輪経』Dhammacakkappavattana Sutta

これは、再生の循環から人を解放する聖なる真理です。それは涅槃(ニッバーナ)と呼 ばれ、「悲しみと汚れの無い、捕われの身からの最終的な安全保障です。」 (中部経典 26.『聖求経』Ariyapariyesan. Sutta

ダンマパダから引用されたある偈において、ブッダは次のように述べています。

「ほんの僅かな人たちだけが、はるか遠くにある 『涅槃(ニッバーナ)』 (*1)という対岸(彼岸)に行き着く。他の全ての者たちはこちらの岸(此岸)をただ走り回るだけである。」 (ダンマパダ 85

「こちらの岸(此岸)」とは私たちが自己と呼んでいる五蘊のことに他なりません。渇愛の風に吹かれ、衆生はあちらこちらと此岸を走り回る。自己の苦しみがどこから来るかを理解できないために、生から生へと巡るのです。それとは正反対に、彼方の岸(涅槃)は、「形成されざるもの(五蘊の不在)」、「不生」、「不老」、「不死」であり、「完全なる平安」です(*2) それゆえに、「形成されざる要素」(*3)と呼ばれています。

「ここでは、地、水、火、風は いずれも足場を持ちません。長いものと短いもの、粗大なものと微細なもの、善いものと 悪いもの、精神と物質、これら全てに終止符が打たれます。」(長部経典『ケヴァッタ経』 Kevata Sutta より)

彼方の岸へと渡った者は輪廻(サンサーラ)から解放されます。そのような人は「阿羅 漢(アラハン)」(*4)と呼ばれます。すなわち、無明と渇愛を完全に滅尽した尊敬すべき人です。ブッダは、「聖なる人生の究極の目標」(*5)としての阿羅漢果の達成にしばしば言及しました。ブッダはそれを、「この上ない至福」とも呼びました(中部経典 75「マーガンデ ィヤ経」Mâgandiya Sutta)。 そうではあっても、阿羅漢がまだ身体を持っている限り、完全に苦から免れてはいませ ん。不可避的にその体は老い、病気になり、死を迎えるのであり、たとえ阿羅漢といえど も、そのプロセスを止めることはできません。阿羅漢が死を迎えたときに達成される般涅槃(パリニッバーナ)(*6)によってはじめて、体を持つことから生じる肉体的苦痛が終焉し ます。 そのとき(般涅槃)までは、固有の慈悲心から、阿羅漢は仏道を歩んでいる他の者を指導・援助することを選択するでしょう。その最も良い例として、ブッダと二大弟子であるサーリープッタ尊者、マハーモッガラーナ尊者を思い浮かべることができます。この方々は、多くの人たちにとっての善友(*7)となり、恐るべき再生の循環と苦の束縛からの解放を 探し求める人々にとっての避難所となりました。無我と無執着の精神をもって、サーリー プッタ尊者はかつてこのように言われました。

「私は生きることに愛着はなく、死ぬことにも愛着はない。般涅槃(パリニッバーナ)が訪れるのをただ待ち受けるだけである。公務員が給料日の訪れを待っているように。」

*1、涅槃(ニッバーナ):文字通りには、「(ロウソクの炎を)吹き消す」もしくは、「消火・ 9 8 寂滅」ということ。注釈書によれば、「欲望からの解放」である。解説書は次の意も含めている。「渇愛の滅尽」、「貪欲・怒り・迷妄の寂滅」、「最終解脱」、「真理の至高なる拠り所」 詳細は、「K&Spp37-38、中部経典 140.「界分別経」

*2(これらの言葉は「感興のことば」8.3, 中部経典 26.「聖求経」および清浄道論からの引用)。

*3.「形成されざる要素」(asankhata dhâtu):「不死の要素」とも呼ばれます。「形成されざる要素」は四つの究極的な真実(勝義諦)の一つです。勝義諦は、(1)心、(2)心所、(3) 色(物質)、(4) 形成されざる要素(涅槃・ニッバーナ)の四つです。このうち(1)(2) 及び (3)は形成された要素(条件付けられた存在)です。(清浄道論(水野訳)三巻、十六品、二、 八、()苦の滅の解釈(138P)を参照)涅槃については『如実知見』第三章付属 問答(三) Q2 を参照)。

*4.「阿羅漢 Arahant」:文字どおりには、「敵を打ち破った人」です。阿羅漢と阿羅漢果に ついての詳細は本書 33P35P を参照のこと。

*5.「聖なる人生の最終的な目的地」:複数の経を通じてよく見られる言葉です。「聖なる人生」という用語は、「比丘」と「比丘尼(男性の比丘に対応する女性出家者)」の人生のことを述べるものです。

*6.「般涅槃」Parinibbâna(パリニッバーナ):「無余依涅槃」、「最終涅槃」とも呼ばれる。この用語は、阿羅漢が死を迎えるときに五蘊の衣を余すことなく滅尽することを述べるものです。

*7.「善友」kalyâna-mitta(カリャーナ−ミッタ):有徳の賢者であり、他者の幸福を気遣い、他者を正しい道へと導くことのできる人です(しばしば瞑想の先生の別称として用いられる)。詳細は「清浄道論」(水野訳)第一巻、三品、七、()、業処を授くる善友(197P) を参照。

 

4.苦の滅尽に至る道(苦滅道聖諦)

「比丘たちよ、聖なる真理において、いったい何が苦の止滅に至る道でしょうか?

それは 正にこの聖なる八正道です。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、そして正定です。」 聖なる八正道を別の名で呼ぶとすれば「中道」です。

イシパタナにおける初めての説法において、ブッダが五人の苦行者たちに対して説明したのは、

「如来(タターガタ)が見出した[中道]とは、両極端を避けること」でした。

ブッダが述べた二つの極端とは、自分のしたいままにさせることと、自分に苦行を強いることです。

一つは、五感の刺激による快楽を通じて幸福を探求することであり、それは「低劣で粗野な俗人のやり方であり、下品で無益なもの」です。

もう一つは、身体を痛めつけ、苦行を通じて幸福を探し求めることであり、それは「苦痛で下品、かつ無益なもの」です。 ブッダはしばしば次のように説きました。

「感覚的快楽の追及によって苦を終わらせることは決してできないし、また苦行によってもできない。いずれの極端においても、最終的に得られる結果はより多くの苦しみを生むだけである。これら二つの極端な道を避けることによって、聖なる八正道が「平安、直接的智慧、覚り、涅槃(ニッバーナ)へと導くのである。」

賢明な医師がまず初めに病気の診断を行い、次にその病気の原因を説明し、それから治療法を提案し、そして最後に具体的な薬を処方するように、ブッダは、病気を診断し(第一聖諦)、原因を説明し(第二聖諦)、治療法を提案し(第三聖諦)、そして具体的な薬を処 方しました(第四聖諦)。

最良の薬と賢者が称賛するように、「この聖なる八正道こそは」 渇愛による熱を鎮めて全ての苦しみからの解放をもたらす鎮静薬です(*2)。このダンマという薬を服用することにより、老いと死を越えることができるでしょう。(『ミリンダ王の問 い』II.V「推論により解かれる問題」)

*1、如来(タターガタ):ブッダの呼称であり、「かくの如く来る人」あるいは「かくの如 く行く人」を意味する。

*2、「薬の喩え」は「清浄道論」(水野訳)第三巻、第十六品、二、十一、譬喩より(145P)。「熱と鎮静薬の喩え」は「吉祥勝利偈」より。

 

三学の修習

訓練という目的から、八正道のそれぞれは、三つの実践的項目に分けられます。

T)戒(シーラ)、道徳性の訓練と育成から成ります。

U)定(サマーディ)、集中の訓練と育成から成ります。

V)慧(パンニャー)、智慧の訓練と育成から成ります

三学の訓練を始めるのに先立ち、初歩的な読書と学習が役立ちます。少なくとも四聖諦の基礎的理解を得るのに十分な学習をすると良いでしょう(*1)。それは初歩的な段階の正見に当たります。その理解を欠くと、教えに対する確信を得ることが難しいでしょうし、訓練に取り掛かり、継続して進めようという気が起きないかもしれません。また、間違った動機でこの訓練を始めるかもしれないし、知らず知らずに道から逸れてしまうかもしれま  せん。

 

T.戒(シーラ:道徳性)   1.正語 2.正業 3.正命

U.定(サマーディ:集中) 4.正精進 5.正念 6.正定

V.慧(パンニャー:智慧) 7.正見8.正思惟

 

この訓練そのものは、少しずつ浄化を進めていく過程であり、忍耐力、根気強さ、そして専念を必要とします。修業者は、この道を進み、戒(シーラ)から定(サマーディ)を通って慧(パンニャー)へと進んでいくに従って、日々の生活にその恩恵を見出し、教えに対するより大きな確信が自然に生まれてくるでしょう。

「これが戒であり、これが定であり、これがが慧です。戒が完全に育成されたときに、サマーディ(定)は大いなる成果と恩恵をもたらすものとなり、サマーディ(定)が完全に 育成されたときに、智慧は大いなる成果と恩恵をもたらすものとなります。」(長部経典 16.2.4「大般涅槃経」より)

 

T.戒(シーラ):三学の初めの訓練であり、倫理と徳行の全ての面を含むものです。その実践は、心を乱したり他者との争いを生むような不善な行動を抑制することによって、サ マーディ(定)の育成を促進します。

U.定(サマーディ):二番目の訓練であり、深く途切れることのない集中力の育成です。 この集中力は、サマタ(静寂)瞑想を修習する間に単一の対象に心を留め置くことから生 起するものです。サマーディ(定)は、本質的に集中を妨げる障害(*2)を抑制するのであり、このようにして、心は静けさと鋭い洞察力と力強さを得ることができます。それは智慧を育成するために欠くことのできないものです。

V.智慧(パンニャー):三番目の訓練はヴィパッサナー(洞察瞑想)の修習を通して智慧を 育成することです。サマーディ(定)が障害(五蓋)を鎮めるのに対して、智慧は五蓋を滅します。ヴィパッサナーは文字通りには、明らかに見ること、あるいは洞察を意味しますが、五蘊における三つの相(*3)を直接見ることから生まれる経験的な智慧と定義されます。

三つの相とは、

1.無常(anicca)―五蘊は生じたらすぐに消滅していく。

2.苦(dukkha)―五蘊は常に生滅に苦しめられている。

3.無我(anatta)―五蘊には自己がない。五蘊の内側にも外側にも、自己と呼ばれ得るいかなる永続性のある実体や本質は存在しない。

 

二度目の説法で、ブッダは前述した五人の比丘とこれら三つの相について話し合いました。

「いかに思いますか、比丘たちよ。形あるもの(色)は永遠のものでしょうか、無常のものでしょうか。

尊師よ、無常のものです。

受・想・行・識は永遠のものでしょうか、無常のものでしょうか。

尊師よ、無常のものです。

では、永遠でないものは苦でしょうか、幸福でしょうか。

尊師よ、苦であります。

では無常であり苦であり変化するものについて、『これは私のものである。これが私である。 これは自己である』と言うことができるでしょうか。

いいえ、尊師よ

比丘たちよ、このように見ることで、聖なる修行者は物質(色)への迷いから覚め、感覚 (感受)への迷いから覚め、知覚(想)への迷いから覚め、形成作用(行)への迷いから覚め、意識(識)への迷いから覚めます。迷いから覚めることによって、修行者は感情に動かされなくなります(*4)。この出離を通じて修行者の心は解脱します(*5)。」

「解脱」は、ここでは阿羅漢果智(*6)による涅槃の実現を指しています。それを得ることで真の四聖諦に目覚めます(*7)

苦、苦の生起、苦の滅尽、そして苦の滅尽に至る道。これが 菩提樹の下でおよそ二千五百年前にブッダが経験した偉大なる悟りです。それは無上の平安と幸福で、人間が求めることができる最高の目標です。この境地を得ることはその人にとってブッダから遺産を受け取ることであり、法を擁護し守護する人となることです。

「そして純粋な法が長く続きますように。それが多くの人々への恩恵と幸福をもたらし、世界への慈悲の心から発して、神々(*8)と人間への恩恵と幸福をもたらしますように。」(長部経典『大般涅槃経』)

 

*1.巻末推薦図書リストを参照のこと

*2.障害(nivarana):五蓋(ごがい)のこと。五蓋とは、

(1)感覚的欲望、(欲愛蓋)

(2) 悪意(瞋恚蓋)、

(3)怠惰と無気力(昏沈・睡眠蓋)、

(4)落ち着きのなさと深い自責の 念(掉挙・後悔蓋)、

(5)懐疑的な、疑念(疑蓋)という五つの煩悩。

詳細は、「如実知見」第一章付属 問答() 五蓋についての補足、 および「仏教辞典」p.110 を参照。

*3.三つの相:詳細は「清浄道論」(水野訳)第三巻、第二十品、四、三相の提起(338P)参照。

*4.感情に動かされない(virâga):あせていくこと、離脱、貪欲の消滅。この文脈では渇愛からの解放。

*5.相応部経典 22.59「無我相経」参照。

*6.阿羅漢果智:悟りの核心を形成する二つの洞察智の二番目。詳しくは 34P 参照

*7.相応部経典 56.5

*8.神々(deva):天界の存在

 

 

パオ森林僧院における教えと修行

パオ森林僧院で教えられる瞑想の体系は三蔵(パーリ聖典の三つのかご、または大きな分類)とその注釈書に基づいています。三蔵には律蔵(戒律のかご)、経蔵(説法のかご)、そして論蔵(優れた理法のかご)があります。パーリ聖典はパーリ語が話し言葉だったときにさかのぼり、ブッダの本来の教えを含むと考えられています。本書では分かりやすくするために、戒・定・慧の三学を主見出しとし、主題となる項目を概略的に述べるよう構成しました。

三学はさらに七つの清浄の段階に細かく分類されます。これはもともと『中部経典』の『七車経』で述べられ、西暦400年前後のバダンターチャリヤ・ブッダゴーサ(仏音)によりまとめられ、広く尊ばれた注釈書である『清浄道論』で説明されたものです。

清浄の七つの段階は、今生で涅槃を実現するために、身(身体的行為)・口(ことば)・意(心)の悪業を体系的に浄化する段階的な公式を与えてくれます

 

清浄道七つの段階   七つの清浄

  1.戒清浄

  2.心清浄

智慧  3.見清浄(ものの見方の清浄)

4.度疑清浄(疑いを乗り越えることによる清浄)

5.道非道智見清浄(何が道で何が道でないかについての智見による清浄)

6.道知見清浄(道についての智と見解による清浄)

7.知見清浄(智と見解による清浄)

 

第一章 戒(道徳)

戒は正語、正業、正命からなります。これらの三つの道の要素は、善い行いのための基礎であり、またすべての仏道修行の基盤でもあります。戒の功徳を侍者のアーナンダ尊者に説くにあたり、ブッダは次のように語りました。

「それゆえに、アーナンダよ、善い行い(戒)の目的と功徳は、後悔からの自由です。後悔からの自由には喜びがあります。喜びには歓喜があります。歓喜には穏やかさがあります。穏やかさには幸福があります。幸福には集中があります。集中があると物事をありのままに観られます。物事をありのままに観られると、出離と平静があります。出離と平静にはその目的と功徳として観察と理解(知見)があります。ですからアーナンダよ、善い行いは一歩ずつ頂へと導くのです。」(*1)

*1 増支部経典 X.I.1 Kimatthiya Sutta

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1 段階 戒清浄

善い言葉と行いによる清浄 清浄道論の「四段階の清浄」によると、戒を守ることは、四つの修習に分けられます。 この四つの修習とは以下の通りです。

1. 行為(正語と正業)に対する自制上座仏教の僧侶のための二百二十三の戒律(Patimokkha)

沙弥のための十の戒律と七十五の修習(Sekhiya) 、上座仏教尼僧のための八または十の戒律。

在家のための五または八の戒律。

2. 眼、耳、鼻、舌、身体と心の感覚器官に対する自制

3. 生活の清浄(正しい生活) ― 戒律に即した生活

4. 食物、住居、衣服、薬という四つの必需品の(節度ある)使用に対する内省

 

パオ僧院では、すべての滞在者は僧院の規則を順守することが求められます。この規則は、出家と在家信者が戒を正しく守ることにより、サマーディ(定)を育むよう、生活のあり方を支えます。すべての滞在者は、最低限、以下に示す在家のための八戒を守ることが求められます。

1. (虫類を含む)生き物を殺さない

2. 与えられたもの以外を取らない

3. 不道徳な(あらゆる性的)行為をしない

4. 嘘をつかない

5. 酒や(麻薬を含む)人を酩酊させる薬物は摂らない

6. 正午以降に食事をとらない

7. 舞踊、歌、音楽や芸能(あらゆる娯楽)を観たり聴いたりしない。装身具、香水、化粧 で身を飾らない。

8. 高く大きな寝床の(豪華な)ベッドで寝ない

僧侶、沙弥および八戒尼については、七番目の戒律が二つに分かれます。

八番目が九 番目の戒律になり、十番目の戒律である「金銀 (実際には現金、クレジットカード、小切 手、宝石、その他為替などあらゆる形態の金銭) の使用や所持の禁止」が加わります。

戒の実践による幾多の清浄の功徳については、清浄道論に以下のように記されています。

 

その戒のもろもろの功徳を、まさに誰が語り尽くせよう

黄の栴檀の香しさも、

映え出づる月の光も、

この世の人々の渇望を静め、なだめることはない

しかるに、この冷涼の究極たるこの聖なる戒がその炎を鎮める

 

天に昇り行く階段、或いはまた涅槃の都に入るべき門として、

戒に等しきもの他に何処にあるか?

 

真珠や宝珠で飾り立てられた諸王といえども、

戒の飾りで飾られた行者のようには、美しく輝くことはない。

 

この偈にて知られるごとく、戒は如何に功徳をもたらし、 諸徳の根元として有るものが、如何に諸過失を粉砕する力となることであろうか。(*1)

 

*1.「清浄道論」(水野訳)第一巻、第一品、四(20P 16 15

 

 

第二章、 (サマーディ - 集中)

定には、正精進、正念(気付き)、正定が含まれます。

 

正精進は四種類あります。

1. 不善(*1)が生じないように精進する。

2. 不善が既に生じているならば、滅するように精進する。

3. (*2)が未だ生じていないならば、生じるように精進する。

4. 善が既に生じているならば、増すように精進する。

 

正念にもまた 4 種類があります。

1. 身体に対する気付き(*3) - 入息出息、四界分別観、三十二身分(*4)、姿勢(座位、立位、 歩行、仰臥)

2. 感覚に対する気付き快、不快、中立の感覚

3. 心に対する気付き諸々の意識の状態 - 善心、不善心、どちらでもない心

4. 心の対象に対する気付き四聖諦、五蘊、五蓋等を含む物質的、精神的現象。

 

 正定は、四つの禅定(*5)により定義されます。

以下の正定に関する記述は、長部経典 大念処経「Mahasatipatthana Sutta」からのものです。

 

「また、比丘たちよ、正定とは何か? ここに比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の心の状態を離れ、尋(心を対象に向ける働き)と、伺(継続して対象を観る働き)のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

次に、尋と伺が消え、静寂で、心が統一され、心の集中より生じた喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。 喜びを捨て、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽のある、聖者たち(*6) が『平静をそなえ、念をそなて住む者は幸せである』と語る、第三の禅に達して住みます。

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静と念による清浄のある、第四の禅に達して住みます。 比丘たちよ、これが、 正定と言われます。」(*7)

 

四つの禅定に加えて、清浄道論は、近行定(*8)と呼ばれる異なる種類のサマーディ(定) について記しています。 近行定は、四つの禅定に先立つ深い集中状態のことです。近行定では、禅支(*9)は実際の禅定ほど明瞭でなく、心は時折、集中を欠くことがあります。 両種のサマーディ(定)は、ブッダによって教えられた四十のサマタ瞑想(*10)の一つを 修習することにより得ることができます。

これらの瞑想のうち、あるものは、低い段階の禅定まで到達し、あるものは、四つすべての禅定まで到達します。また、あるものは近行定までしか達することができません。

 

*1.不善 (akusala) (下記参照)の反対

*2.善 (kusala) (自分と他者に対して)健康的、肯定的、賢く、寛大で、慈愛を持つこと。

戒に従い「有益、健康的、道徳的によく潔白、良好なカルマの結果として生産的であること。 精神的な意味合いとして、不貪、不瞋、不痴を伴うあらゆるカルマの意志の働き」 (仏教辞典, p.88 より.)

*3.気付き (sati):「さまようことがない」と特徴づけられる対象に対する綿密な認知。

「如実知見」第一章 、五根のバランス、および アビダンマッタサンガハ II.2.§5 共浄心 (49P) 参照

*4.三十二身分瞑想の名称 については、24ページ参照

*5.禅定/四つの禅定 (また高度の禅定として知られる) 五つの感覚活動(視覚、聴覚、 臭覚、味覚、触覚)と五蓋が一時的に棚上げされて生じる集中。完全な気付きと明快さの意識状態を示す。(禅定の定義は 「仏教辞典」 p.70 より引用)

*6.聖者 (ariya-puggala) 四段階の悟り( pp.45-46 参照) のいずれかを得た人。

*7.長部経典 22「大念処経 (Mahasatipatthana Sutta) 同じ節の拡張版が中部経典の119.「念身経」(Kayagatasati Sutta)にあります。

*8.禅定の詳細については「清浄道論」(水野訳)第一巻、第三品、業処把握の解釈(171P)および第四品、()四種禅(279P)参照。

*9.禅支: 四つの禅定に関連する特定の精神要因。 これらの要因には、(心の)尋の作用、 (心の)維持作用、喜び、幸せ、一境性、平静があります。

この禅支と対応する禅定段階 については、付図 I: 1 参照。 詳細は「如実知見」第一章 、禅那(ジャーナ)参照。

*10.四十のサマタ瞑想についてはアビダンマッタサンガハ IX..§2 四十業処略説の要目(274P) または清浄道論(水野訳)一巻、第三品、七、(四)四十業処(220P)、詳細については第三品〜第十一品参照。

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2段階  心清浄      集中力の育成 ・初学者のためのサマタ瞑想

パオ僧院の修行者は、集中(サマタ)瞑想の中から好きなものを選んで瞑想を始めることができます。多くの場合、はじめのサマタ瞑想として、アーナパーナ・サティ(ânâpânasati 呼吸による気付きの瞑想)か四界分別観の二つのうちどちらかを選ぶよう薦められます。

四段階の禅定のそれぞれを達成し、熟達を目指す初心者によく薦められるのが、アーナパ ーナ・サティです(*1) 四界分別観は、初めに禅定の基本的育成をせずに、直接ヴィパッサナー(vipassanâ)瞑想への道を行きたいという瞑想者に薦められます。また、四界分別観から始める瞑想者には、ヴィパッサナーに進む前に他のサマタ瞑想を徹底させるという選択肢もあります。

禅定に至るまでのレベルに必要な集中を得るには、継続的な修習が必要です。 パオ僧院の瞑想者は1日につき平均7時間半の坐禅瞑想を行っています(*2)

僧院で皆が集まってする公式の坐禅瞑想は、男女別に分かれた区画の各瞑想ホールにおいて行われています。

坐禅瞑想を正しく行うには、目を閉じて、緊張を解き、背筋を伸ばした姿勢で座ります。

坐禅瞑想の間には、歩く瞑想が薦められます。

集中力の育成を図るため、瞑想者は会話を最小限にとどめ、瞑想ホールの内外では沈黙を保つことが求められます。 瞑想指導者との定期的なインタビューは、瞑想修習の大きな助けになります。

 

*1 五自在の内容については、付図表2参照。 詳細については「如実知見」第一章 、禅那(ジャーナ)参照。

*2 この日程には、午後4時、午後6 時の2 回行わる各15分間の、読誦の時間が含まれています。 ------------------------------------

 

・アーナパーナ・サティ(呼吸による気付きの瞑想)

このサマタ瞑想は、四段階すべての禅定まで育成することができます。四段階の禅定を 習得することにより、その他全てのサマタ瞑想の修習と、それに続く物質性と精神性の分析を容易にします。アーナパーナ・サティを修習するには、呼気が鼻孔か上唇のいずれかに触れる点に集中します。

自然に呼気の出入りを感じ取り、気付きを維持するようにしてください。

心がどこかにさ迷いだすたびに、気付きを呼気に戻さなければなりません。

集中が深まるに従って、瞑想者の呼吸はますます穏やかになるでしょう。

この時、瞑想者は、喜び、平静、幸福や心身の軽安といったサマタ瞑想の恩恵を経験し始めます。

集中の深まりを示すはじめの徴候は光の出現です。

この光が鼻孔のあたりで呼吸と融合するとき、ニミッタ(*1)と呼ばれます。

この初期段階では、ニミッタは灰色で、不安定で不明瞭かもしれません。この時点で、ニミッタに注意を向けようとすると、おそらくニミッタは見えなくなります。そうすることなく、ただ呼吸に焦点を合わせ続けていると、やがてニミッタは安定してきます。 一旦、ニミッタが安定すれば、瞑想者は、ニミッタに注意を移すことができます。継続的な気付きにより、12時間あるいは3時間以上ニミッタに専注することができるでしょう。

このような方法で継続すれば、ニミッタは徐々に光を増し、より明瞭になるでしょう。 これは集中した心が作り出す光だからです。ブッダはこの光を「知恵の光」(*2)と呼びました。

四段階の禅定ごとに、近行定から禅定に進むにつれ、この光はさらに明るさを増していきます。

この光は、五つの集合体(五蘊)を識別し、さらに進んだ瞑想段階であるヴィパッサナーの実践を行うことを可能にします。

 

*1 ニミッタ: 印(しるし)、兆候、イメージ、対象、原因、条件; この文脈では、集中の兆候。

知覚の違いにより、アーナパーナ・ニミッタは人によって異なって見える。

詳細は「如実知見」第一章 如何にして安般念を修行するのか、および第一章付属 問答() Q1-24 、「仏教辞典」 p.107 および 「清浄道論」(水野訳)第二巻、第八品、九、安般念(76P)参照。

*2.智慧の光:「智慧の光」第二章 智慧の光とは何か 参照。

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その他のサマタ瞑想の習得

アーナパーナの禅定を習得したなら、その他の瞑想法に進むことができます。例えばア ーナパーナ・サティなど一つの瞑想を完全に習得したなら、他の瞑想については1日に一つ習得できるほど、容易になります。こうした瞑想法には、以下のようなものがあります。

・三十二身分(*1) :自身の身体の器官やその他の要素を観察し、他の生命の三十二身分を観察する。

・十のカシナ(十遍):ある物質的特性(例えば地、水、火、風、光、空間や様々な色)を対象とする瞑想。

・四無色界禅: 空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処 ・四梵住(*2) :慈しみの瞑想 (すべての生命に慈愛を送る) 悲、喜、捨の瞑想。

・四護衛禅:慈しみの瞑想(怒りの克服)、仏随念(信の育成)、不浄観(感覚的欲望の克服) (*3)、および死随念(死はいつでも起こりうることを見る)

 

最初のサマタ瞑想の修習を完了した後、パオ僧院では、通常、三十二身分の後に、白骨観 (三十二身分の一つ)と白遍(十遍)を行います。これに、残るサマタ瞑想が続きます(*4)

修行者がサマタ瞑想のすべて、またはその一部を行うか、あるいはどれも行わないかについては各人の好みです。しかし、サマタ瞑想を習得することで、集中力を強化し、智慧の光を強化し、信、精進、軽安、慈悲、冷静、捨などの望ましい特性を育成する助けになります。

また、サマタ瞑想の強固な基盤を築くことで、ヴィパッサナー瞑想の修習に速やかに移行することができます(*5)。充分な数のサマタ瞑想を習得し、ヴィパッサナーへの移行の準備ができたと感じたら、四界分別観の修習を始めることができます。

 

*1 三十二身分: この修習は、一つのサマタ瞑想として数えられています。 詳細は「如実知見」第二章 三十二の身体部分 参照。

*2 四梵住 (brahmavihârâs) (mettâ), (karunâ) および喜 (muditâ) は第三禅定まで到達でき、捨 (upekkhâ) は、第四禅定においてのみ修習することができます。

*3.不浄観(asubha bhâvanâ) 腐敗して膨れ上がった死体の心的イメージに関する瞑想。

この瞑想の修習方法については、「清浄道論」(水野訳)第一巻、第六品、不浄業処の解釈(353P)参照。

*4.パオ僧院で指導されるサマタ瞑想の全リスト(それぞれの到達点を含む)については、付図I、表3参照。

*5、セヤドーによれば、強力な集中が、特に後半段階の瞑想では成功のための主要要因の一つになります。

 

 

四界分別観 (Four-Elements Meditation)

このサマタ瞑想により、近行定の育成まで可能です。 この瞑想は、四十あるサマタ瞑想のうち、ただ一つ物質性の分析に用いられるため、ヴィパッサナーへの入口となります。

この修習では、身体を構成する地、水、火、風の四つの要素(四界)に焦点を合わせます。

これらの四つの要素(四界)のそれぞれには、修行者が識別習得すべき物理特性があり、全体で十二にのぼります。

1. 地の要素 硬さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ

2. 水の要素 流動性、粘着性

3. 火の要素 熱さ、冷たさ

4. 風の要素 支持性、推進性

 

修行者は、推進性から始め、続いて硬さ、粗さ、重さ、というように十二の特性を個々に識別していき、最終的には、十二全ての特性を同時に識別することができるようになります。そうなれば修行者は、人があるのでもなく、私があるのでもない、ただ各要素だけがあるのを見るようになります。

集中力が育成されると、煙のような灰色の光を見ることになります(*1)。さらに、四つの要素(四界)に集中を続けるなら、その光は白さと明るさを増して行き、修行者の全身はあたかも透明な氷の塊のようになります。

修行者が「氷の塊」の中にある四つの要素(四界)への集中を維持し続けるなら、それが輝き、光芒を放つことに気づくでしょう。少なくとも半時間継続してその輝きの中で四つの要素(四界)に集中することができたなら、近行定に達したといえます。修行者は、その光を利用して、身体の固体塊を何兆もの無数の「ルーパ・カラーパ」(rupa kalâpas)(*2)と呼ばれる微小粒子に分解することができます。

また、修行者は、これらの微粒子が、ものすごい速さで生起、消滅するのを見ることができます。

この段階に至ったら、サマタ瞑想の修習としての四界分別観の育成を完了とし ます。

修行者は、瞑想の次の段階であるルーパ・カラーパの分析による物質性の分析に進むことができます。

また、まだ行っていなければ、この時点で禅定の育成を行うことも、四界分別観に戻る前にその他のサマタ瞑想を行い、物質性と精神性の分析に進むこともできます(*3)

 

*1 強力な瞑想禅定を育成した瞑想者は、この段階を非常に早く通過することができます。

*2 ルーパ・カラーパ:「物質の密集」

*3 この瞑想の選択肢については、付図 II 参照。

 

 

第三章 智慧 (パンニャ:Pañña

智慧は正見と正思惟からなります。

正見とは四聖諦―― 苦、集(苦の原因)、滅(苦の滅 )、道(苦の滅尽への道)――への正しい理解を言います。

正思惟とは、正見を得るために 心を正しく用いることです。

智慧の育成とは、誤った見方を正しい見方に、誤った思惟を 正しい思惟に置き換えることです(*1)

誤った見方をする人は、「時に正しく、時に誤った道に入り、時に高地に、時に谷に、時に平坦地に、時にでこぼこ道にさ迷う盲人のよう」です。

また、次のようにも云われています。盲目に生まれし故、 先達の助けなく、求め、彷徨う時に正しき道を選び、時に誤りの道を選ぶ愚者が求めるは、先達なき転生時に功徳を行い、時に不善を行い苦しむされど、法(*2)を知り、真理(*3)を見れば 無明は去り、遂に心安らかに行く(*4)

 

*1 誤見の説明は、「如実知見」第七章附属 問答 Q,10 を参照。

*2 法: ダンマ; ブッダの教え; 究極の真理

*3 真理: 四聖諦

*4.「清浄道論」(水野訳)第三巻、第十七品、(一)無明の縁より行あり(199P)参照。

 

 

3 段階  見清浄     究極の物質性と精神性の分析

・いかにして物質性を分析するか

ルーパ・カラーパ(物質微粒子の集まり)はあまりに早く生起、消滅するので、はじめは分析するのに困難を感じるでしょう。

ルーパ・カラーパは特定の大きさと形状を持つ非常に微細な粒子であるように見えますが、それは密集(カラーパ)の幻影をまだ完全に見抜くことができないからです(*1)

この幻影を見抜くには、カラーパの消滅を無視して、一粒のカラーパの四つの要素(四界)に専注します。

四つの要素を識別できるなら、さらに別の物質性についても分析することができます。

すべてのカラーパは、少なくとも八種類の物質性を持っています。

1.地要素 2.水要素 3.火要素 4.風要素 5.色彩 6.香り 7. 8.食素(栄養素)

あるカラーパには、九番目に命色 (生命維持の要素)が含まれています。

また、あるカラーパには前記九種類に加え、次の三つのうちの一つを加えた十種類の物質性が含まれています。(10-i) 浄色 (透明性の要素) (*2)

(10-ii) 心色 (心臓の要素) (*3)

(10-iii) 女性色 男性色 (*4)

これらのカラーパに含まれる八から十種類までの物質性は、究極の構成要素であり、これ以上分解することはできません。

これらは、修行者の体内の究極的な物質性であると定義されます。

体の内側にある物質性の分析を終えたら、体の外にある物質性、すなわち他の生命、および無生物についても同じ手順で行います。

 

・いかにして精神性(心)を分析するか

精神性を識別するには、第一禅定に入るか、または、サマタ瞑想のうち四界分別観のみ修習してきた場合には、近行定から始めます。禅定(または近行定)から出て、その段階の禅定に伴う禅支を分析します

この場合は、第一禅定の意識に伴う五つの禅支です。 同じ手順で、第二、第三禅定でも繰り返し行います(*5) 観察により修行者は、心とは、カラーパよりもさらに速く生滅する、連続した意識に他ならないことに気付きます。

心は、最小七から最大三十四の心所とともに生起します(*6)

さまざまな種類の意識とそれに伴う心所を識別したら、その他の意識と心所の識別を行わなくてはなりません。例えば、対象を見るときや音を聞くときに生起する意識などです。

瞑想の進展に従って、八十九種類の意識とそれに伴う五十二種類の心所を識別し分析できるようになります。 様々な意識は大きく分けて、善心、不善心、そのどちらでもない心の三つに分けられます。

これら様々な意識のすべてと、それに伴う五十二の心所が、「究極の精神性」として定義されるものです。

修行者が自からの心についてその精神性の分析をし終わったら、同じ手順で他の生命にについての心の分析を行います(*7)

自身の内と外の精神性の間を交互に 行き来し、無限の宇宙にまで徐々に意識の範囲を広げるように、この二つの分析を何度も繰り返さなければなりません。

最後に、前と同じく、内と外の物質性と精神性とを一緒に分析します。この段階で、修行者はいかなる生き物も、人間も、どこにも存在せず、ただ究極の物質性と精神性のみが存在することを見抜きます(これが見清浄です)。 このように物質性と精神性を知り、理解することは、五つの集合体(五蘊)への執着を知り、理解することであり、五蘊への執着を知り、理解することは第一の聖なる真理苦聖諦を知り、理解することになります。

 

*1 密集の説明については「如実知見」第四章(2)如何にして色聚を分析するか、および第一章付属 問答() Q1-3 参照。

*2 眼、耳、鼻、舌、および身体の五感のそれぞれに浄色(透明性の要素)が存在します。

十種類の物質性に関する詳細については、「如実知見」第四章如何にして淨色を分析するか、参照。

*3 心色を含むカラーパは、心的活動(精神性)の基となる六番目の感覚器官である心臓の中にのみ存在します。

*4 性色を含むカラーパは、全身の六つの感覚器官(六処)にくまなく散らばっている。

*5 四段階の禅定とそれに伴う禅支については付図I 参照。

*6 七から三十四の心所には常に、感受(受蘊)、知覚(想蘊)、精神的形成作用(行蘊)の三つが含まれいる。

*7 この手順によって、修行者が他者の心を個別に識別できるようになるわけではなく、ただ全般的に識別するだけです。他者の心を見抜き、知るための能力は、(「清浄道論」で「直接知」と呼ばれる) 高次元の力の一つです。 高次元の力については「清浄道論」(水野訳)第二巻、第十二品〜十三品 参照。

 

 

第4章 渡疑清浄 縁起を見る

涅槃(ニッバーナ)に達する前に、第一聖諦だけでなく、第二聖諦すなわち、苦しみの原因を知り、観察する必要があります。増支部経典のティタヤタナスッタで、ブッダは第二聖諦を次のように説明しています。

 

「比丘たちよ、苦の原因についての聖なる真理とは何であるか。

1無明を条件として

2意志的形成作用(サンカーラ)が起こる(*1

3)意思的形成作用を条件として、意識が起こる

4)意識を条件として、精神性と物質性(名色)が起こる

5)精神性と物質性を条件として、六つの感覚器官(六処::眼・耳・鼻・舌・身・ )が起こる

6)六つの感覚器官(六処)を条件として、接触が起こる

7)接触を条件として、感受が起こる

8)感受を条件として、渇愛が起こる

9)渇愛を条件として、執着が起こる

10)執着を条件として、生成(有)が起こる

11)存在を条件として、誕生が起こる

12)誕生を条件として、老、死、愁い、悲しみ、苦痛、憂鬱 と苦悩が起こる。

 

「これら大いなる苦しみの原因はこのようなものである。比丘たちよ、これが苦しみの原因についての聖なる真理と呼ばれるものである。」(増支部経典のティタヤタナスッタ Tithâyatana Sutta III.61

 

上記の下線で示した12の要因は縁起の循環を形作っています。

それは、いかにして精神性と物質性が過去、現在、未来の三世にわたって相互に条件付けあっているかを説明した教えです。

ブッダは縁起説を教えの核心の一つととらえ、それなしには四聖諦の正しい理解に達することはできないと考えて、次のように述べています。

 

「縁起を見るものはダンマを見る。ダンマを見るものは縁起を見る。」

(中部経典 28.28 「大象足跡経」 Mahâhatthipadopama Sutta

瞑想において縁起の枠組みを修行の指針として使うことで、心理的・物質的レベルでの原因と結果の働きを分析することができます。

これは超能力によるものではなく、むしろ、究極の物質性と精神性を分析したことにより生まれた、洞察智によるものです。

強い集中力を伴ったこの洞察智があれば、縁起における要因間の因果関係だけでなく、個々の要因を観察、理解することができます。

この分析により、何故そして如何にして、無明と渇愛の結果が不可避的に苦しみをもたらすかが正確にわかるでしょう。

縁起の観察を始めるには、自らの心と体における精神性・物質性を分析できるような、近い過去のある瞬間を選びます。ここを出発点として原因と条件についての連関をたどり、胎児期、そして受胎時の最初の意識にまでさかのぼります。

サマタの修習によって培った強い集中力があれば、前世の、臨終の瞬間の意識までさかのぼり、識別することができるでしょう。

そこまでくれば、人間として、ある環境の下に生まれてきたのは、前世の死の時に熟した過去のカルマの直接の結果であることがはっきりと分かるでしょう。

同じ手順で、前世へと導いた条件、さらにその前の世へと導いた条件を識別し、さらに同じようにしてできるかぎり多くの過去世の識別を続けます。

このようにして瞑想の訓練を続けていくうちに、 ある顕著なパターンが現れてきます。

修行者は以下のことを観察するようになります。

 

・意識的に行った行為が、如何にして無知と渇愛により駆り立てられたか

・ある特定の行為により、三世において、如何にしてその結果を味わうか。すなわちその 行為がなされた世、次の世、さらにそれに続く世において。

・如何にして、善い身・口・意の行いが、善い(楽しい)結果だけをもたらすか(*2)。

・如何にして、悪い身・口・意の行いが悪い(苦痛な)結果だけをもたらすか(*3)。

・ある特定の行為によるカルマの力が、最終的に善い、または悪い結果を生じるまで、如何にして何世にも(何劫でさえも)渡って持ち越されるか。

 

悪いカルマを避けることによって未来の苦しみを防ぐことができ、同様にまた、善いカ ルマによってより幸せな生へ、さらにより高次元の世界への再生までも導かれることが理 解されるでしょう。しかし、幾世にもわたって完璧なまでに戒をまもり、数え切れないほ ど善い行いをし、さまざまな禅定(*4)を培ったとしても、それだけでは苦しみの原因である、無明と渇愛を断ち切るのに充分ではありません。

ただ智慧だけがその力を持っています。しかしこの智慧を養うためにはヴィパッサナーの修習をしなければなりません。ヴィパッサナーの修習が完全なまでに熟し、阿羅漢果を獲得したとき、身、口、意のあらゆる意志的行為が完全に浄化されて、停止し、新たなカ ルマを作ることはないでしょう。

これを達成すれば、死とともに五蘊がまったく消滅し、輪廻から最終的に解放され、あらゆる苦しみが終わるでしょう。

 

「比丘たちよ、苦しみの停止についての聖なる真理とは何であるか。

1)無明が停止することにより

2)意志的形成作用(サンカーラ)が停止する

3)意志的形成作用が停止することによって意識が停止する

4)意識が停止することにより精神性と物質性(名色)が停止する

5)精神性と物質性が停止することにより、六つの感覚器官(六処)が停止する

6)六つの感覚器官が停止することにより、接触が停止する

7)接触が停止することにより、感受が停止する

8)感受が停止することにより、渇愛が停止する

9)渇愛が停止することにより、執着が停止する

10)執着停止することにより、生成(有)が停止する

11)生成が停止することにより、誕生が停止する

12)誕生が停止することにより、老、死、愁い、悲しみ、苦痛、憂鬱 、苦悩が停止する

 

「これら大いなる苦しみの停止はこのようなものである。比丘たちよ、これが苦しみの停 止についての聖なる真理と呼ばれるものである。」(増支部経典 III.61「ティッターヤタナス ッタ」)

 

第三聖諦を直接に経験するまでは、無明によって妨げられ、渇愛に囚われながら、再生の輪をさ迷い続けるでしょう。しかし、他ならぬあなたがた修行者はこれらの教えを実証するすべをすでに持っています。

過去世を見たのと同じ方法で来世を識別することで、これを成し遂げることができます。

修行者は、阿羅漢果を得て、無明が余すところ無くなるまで、来世の識別を続けるべきです。

そしてさらに、最終的な涅槃において五蘊が余すところ消滅するときまで、来世の 識別を続けるべきです。

さまざまや善い原因や条件があるなら、現世において、あるいは来世において、あるいはそれに続く来世のいずれかにおいて般涅槃(パリニッバーナ)が 起きることは可能です。(*5

ここまでくれば、過去世と来世の双方の分析を終えています。

すでに物質性と精神性は 単に過去の原因と意志の結果にすぎず、今度は未来の結果の原因となることを理解しています。

すなわちこうした原因と結果を離れて、人や生き物はあり得ないことを理解しています。

過去世や来世の存在の真実や、カルマの働きについて、疑いの心を浄化すれば、さらに次なる浄化のステップへと進み、ヴィパッサナーの実践に取り掛かります。

 

*1.意志的形成作用(サンカーラ):縁起の連鎖で二番目に来るものでカルマに関係する。

身、口、意における善か不善の意志的な行いが、未来の生存を条件づける。

カルマの説明 としては「仏教辞典」p77、「アビダンマッタ・サンガッハ」V. 3. 業の四集(142P) 、「清 浄道論」(水野訳)第三巻、第十九品、度疑清浄の解釈(306P) 参照。

*2.善行為:      第二章 (サマーディ - 集中)  脚註参照

*3.悪(不善)行為:  第二章 (サマーディ - 集中) 脚註参照

*4.禅定状態はあらゆる心の汚れを、無明や渇愛でさえも一時的に抑えることができます。

しかしこうした穢れは潜在的傾向として残り、禅定から出るやいなや再び作用し始めます。

禅定に熟達すればより高次の色界や無色界に再生することができます。

しかし、こうした幸福な世界に再生したとしても、来世においてより低次の厳しい苦しみの世界へ落ちないという保証はありません。

一たびこうした「悲惨な地」に落ちれば、多くの場合、そこから抜け出すことは極端に難しくなります。

*5.しかし、瞑想をやめ、悪い行いに係われば、状況は変わり、未来の結果は違ったものになります。

 

5 段階 道非道知見清浄   ヴィパッサナーの修習

正式なヴィパッサナーの実践は、「形成されたもの」(*1)について、次の49カテゴリー(範疇)それぞれにおいて無常・苦・無我という三つの相を識別することから始めます。

 

2 つのカテゴリー:物質性と精神性

5 つのカテゴリー:五蘊

12 のカテゴリー:縁起の十二の要因

12 のカテゴリー:六つの感覚器官(眼、耳、鼻など)と、六つの感覚対象(視界、音、匂いなど)

18 のカテゴリー:六つの感覚器官、六つの感覚対象と、それに対応する六つの意識 (眼識、耳識、鼻識など)

 

相応部経典の「泡塊経」(Phenapindupama Sutta)において、ブッダはいかにして五蘊を調べるかについて述べています。

 

「それならばまた、比丘たちよ、どんな物質、どんな感受、どんな知覚、どんな精神的形成作用、またどんな意識であろうと、過去、未来、現在であろうと、内側、外側であろうと、粗雑、微細であろうと、劣っていようと、優れていようと、遠かろうと、近かろうと、 比丘はそれを見て、熟慮し、注意深く調べる。」

 

 これは「形成されたもの」についてのカテゴリーを注意深く調べるときに、ヴィパッサ ナー実践の標準となるものです。例えば、物質性と精神性の2つのカテゴリーについて、 現世だけではなく、過去世や来世をも調べ、その知覚を無限の宇宙にまで拡げていかなくてはなりません(*2)。

 

「形成されたもの」について、49のカテゴリーすべてを完全に調べ終わったとき、無常・ 苦・無我が、その原因も含め、物質と精神のあらゆる面に行き渡っているのを、はっきりと知るでしょう。

そしてブッダが、「確固とした条件、不変の真実、不動の法」としての三 つの特質を述べたときの真意を理解するでしょう。(*3

 

こうしたやり方で洞察をいっそう 深めていくとき、ある段階にくると、洞察における十の染汚(ぜんな)が生じます。

 

十の染汚とは、

1.光 2.智慧 3.喜 4.軽安 5.楽 6.確信 7.策励(大いに励むこと) 8.安住 9.捨 10.微欲

微欲を除けば、こうした状態はそれ自体で欠点とはいえません。しかし、それらが生じると瞑想者は、次のように思いたい誘惑にかられます。

 

「このような(力強い)光、智慧、 喜び、軽安などは今まで経験したことがない。間違いなく道に達した。果(すなわち涅槃) を得たのだ」。

こうして瞑想者は道でないものを道だと思い、果でないものを果だと思います(*4)

こんなことが起これば、瞑想の前進は止まり、瞑想の基本的な課題を失い、ただ坐って「光、智慧、喜び、軽安など」を楽しむだけに終わります(*5)

このような状況でこそ、経験ある指導者は瞑想者をそこから救い出すことができます。

それは染汚(ぜんな)であることを指摘し、それを無常・苦・無我と見ることにより乗り越えるよう促すでしょう。

これら十の染汚から心を浄化すれば、それは「道非道知見清浄」と呼ばれるものです。

それ故にこう言われます。

「光や智慧や喜びや軽安の状態は道ではない。染汚からはなれ、道を守って進んで行くのが洞察智である。」(*6)

 

*1.形成されたもの:形作られ条件づけられたあらゆるもの。つまり物質と精神のすべて。 五蘊。

*2.詳細については「如実知見」第七章 涅槃を見極めるための観智の育成 参照。

*3.増支部経典 III.134「生起経」(Uppâdâ Sutta

*4.「清浄道論」(水野訳)第三巻、第二十品、三、色・非色法の思惟法(328P)。道果 についてはp.44 参照。

*5.「清浄道論」(水野訳)第三巻、第二十品、七、十の観随染(363P) 参照。

*6.「清浄道論」(水野訳)第三巻、第二十品、七、十の観随染(370P) 参照。

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6 段階 行道知見清浄 十六の洞察智の育成

涅槃を見るためには、十六の智慧を段階的に育成して行く必要があります。

十六のうち、はじめの三つの智慧(*1)の育成については、すでにサマタとヴィパッサナーの修習を通じてなされています。三つの智慧によって浄化された心をもってさらに次の八つの智慧の育成に取り組むことになります。

 

1.生滅智 2.壊滅智 3.怖畏智 4.過患智 5.厭離智 6.脱欲智 7.省察智 8.行舎智

 

この八つの智慧のはじめのもの、生滅智(*2)は、実際は二つの智慧からなっています。

つまり(@)原因智(「形成されたもの」の原因の生滅)と(A)瞬間智(「形成されたもの」の瞬間的な生滅)です。原因智は前に行った縁起の分析から育成され、また瞬間智は前に行った物質性と精神性の分析から育成されます。

さらには、もう一度、「形成されたもの」をカテゴリーに分け、(原因智でも瞬間智でも)ふさわしい智慧をもって、以前行ったように、それぞれのカテゴリーを精査する必要があります。すなわち、過去世、現世、来世について調べ、無限の宇宙にまで知覚を広げていきます。

 

生滅智を完全に習得したならば、次の段階の壊滅智へと進みます。

この洞察智を育てる には、「形成されたもの」の生起から関心を移し、もっぱら「形成されたもの」が瞬間的に なくなり、壊滅する局面に関心を向けるようにします。

一たびこの方法に習熟すれば、もはや女、男、子供、動物そして生き物と呼ばれる他の一切を見ることはなくなるでしょう。

カラーパさえ見ることはありません。ただ究極的な物質と精神が継続的に滅していく有り様を見るだけです。

この一連の洞察智が一つずつ育成されて行くにつれ、すべての条件付けられた生存が持つ、本来的な苦や恐怖といった本性への理解が次第に深まって行きます。

迷いから覚め、 輪廻(サンサーラ)から逃れたいとますます思うようになり、「形成されない」世界すなわち涅槃(ニッバーナ)へと心が向くでしょう。

 

*1.はじめの三つの智慧:(1)名色分離智、(2)縁摂受智(縁起を見る)、(3)思惟智(さ まざまな「形成されたもの」のカテゴリーについて、無常・苦・無我を識別する)です。

十六の智慧の一覧については付図 III、詳細は「如実知見」第七章 涅槃を見極めるための観智の育成 参照。

*2.生滅智の育成についての詳しい説明は、「如実知見」第七章 生滅随観智 参照。

 

第7段階 知見清浄 涅槃の実現

ここでなすべきことは、ついに悟りを達成するため、すなわち、涅槃を知り、見るために、最後の五つの洞察智を育成することです。

五つの洞察智とは、

1.随順智 2.種姓智 3.道智 4.果智 5.観察智

これらの五つの洞察智に関する初めての経験がたとえ1秒しか続かなかったとしても、人生は根本的に変容するでしょう。

無数の生涯に渡って心を悩ませてきた疑いや迷妄は即座に消え去るでしょう。

暗黒と苦しみの王国への束縛であった鎖は突然取り除かれ、これまで知り得たいかなるものをも越えた自由と喜びを経験するでしょう。

しかしこれは最終点ではなく、阿羅漢果という最終点に到達するために、すべての瞑想者が通り過ぎなくてはならない四段階のうち第一段階にすぎません。

これら四段階のそれ ぞれにおいて、四聖諦に対する理解はますます明瞭なものとなり、何世にも渡って心を暗 闇で覆ってきた無明という雲を徐々に晴らして行くでしょう。

ブッダは漸進的に生じるこの清浄の段階を、打ち砕かれる煩悩(汚れ)の数と、最終的な解脱までに要する生涯の数に従って述べています。

ブッダはこれらの煩悩を束縛と呼び ます。なぜならそれらは存在するものを輪廻に縛り付けるからです。

10個の束縛(十結)があり、その一つ一つは悟りの特定の段階に対応しています。

十結(十の束縛)とは; 五下分結:五つの下位の束縛(*1)

1.自己があるという見方(有身見)

2.懐疑的な疑い(疑)

3.習慣やしきたりに対する執着(戒禁取)

4.感覚的な欲望(欲貪)

5.悪意(瞋恚)

5つの上位の束縛(五上分結)(*2)

6.色界禅への渇望(色貪)

7.無色界禅への渇望(無色貪)

8.うぬぼれ(慢)

9.落ち着きのなさ(掉挙)

10.無明

 

輪廻(サンサーラ)の始まり以来、これら十結は私たちの支配者でした。

悟りの四つの段階を進むにつれ、それぞれの段階に対応する束縛は破壊され、それら煩悩の束縛から解放されるでしょう。それぞれの段階は同じ基本的パターンに従っています。すなわち、

 

1.随順智は、次の2つの心刹那に起こる種姓智と道智の生起という変化に対する瞑想者の心構えを準備させます。

2.種姓智 は凡夫(*3)から聖者への変化を導きます。これが涅槃をその対象とする最初の洞察智です。

3.瞑想者の意識が「形成されざる要素」に集中するとき、道智(*4)が生じます。

「雷」(*5) のような力をもって、道智は「貪欲の塊(かたまり)を貫き、破砕します。

怒りや迷妄が以前のように心を貫き、激発することは決してありません。」(*6)

この瞬間に、束縛(結) は破壊されます。

4.果智(*4)は「道」の直接的結果として生じます。瞑想者は、道智により実現された 程度に応じた解放を体験し、出世間(世俗を越えたもの)に専心する至福と平安を享受します。

火が消された後でも、バケツの水が残り火を冷やすように、果智は心を落ち着かせ静めることによって束縛を滅し尽くします。(*7)

5.観察智は、果智が終わり、再び有分心に入った後で生じます。その後瞑想者は五つのことを再考します:

1)道、(2)果、(3)涅槃、(4)取り除かれた束縛、(5)これから破壊すべき束縛(*8)

これらが涅槃に至る過程の概要です(*9)

 

*1.五下分結は存在を欲界(感覚的世界)に結び付けています。欲界は四つの悲惨な世界、人間界、六つの天界を含みます。詳細は附図 IV 参照。

*2.五上分結は存在を色界および無色界に結び付けています。その世界では、物質性は極めて希薄(色界)か、完全に欠如して純粋な精神性のみが存在します(無色界)。五上分結の詳細は附図 IV.参照。

*3.凡夫(puthujjana):文字通りには「多くの人々の中の一人」。十結によって未だ再生の輪に縛られ、聖者にまだ到達していない人。

*4.道智と果智(「道と果」とも呼ばれる):これらは覚醒体験の中心を形作る二つの洞察智です。

道智(マッガニャーナ)は覚醒のそれぞれの段階で一度だけ生じ、涅槃をその対象とし、さらにそれに対応する果を生起させます。

果智(パラニャーナ)もまた涅槃をその対象とします。この果智は、道の意識の刹那直後に生じる出世間的な意識の刹那を意味します。それは、次の高次の道に到達するまで、ヴィパッサナー修習の間に無数に生起するでしょう。

*5.「清浄道論」(水野訳)第三巻、第二十二品、一、四道智(430P)

*6.「清浄道論」(水野訳)第三巻、第二十二品、一、四道智(433P)

*7.水の直喩はセヤドーとの質疑応答のセッションからです。

*8.束縛を再考する過程は自発的になされなくてはなりません(阿羅漢はなんの束縛も有していないので、五つの項目についての再考は行いません)。

*9.最後の五つの洞察智に関する詳細な記載については、「清浄道論」(水野訳)第三巻、 第二十二品、智見清浄の解釈(430P)を参照。

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覚醒の四段階

覚醒の四つの段階は以下の通りです。

 

i. 預流 (sotâpatti)道果 −この段階では(1)自分があるという見方(有身見)、(2) 疑、(3)儀式や日常の決まりきった行為にたいする執着(戒禁取)という三つの最も粗い束縛が完全に破壊されます。

有身見が破壊されることで、邪見(*1)が除かれます。

戒禁取が 破壊されることで、預流者は、それら習慣儀礼によって浄化がなされるのではなく、むしろ八正道によってこそ浄化がなされるのだと理解します。

疑が破壊されることで、預流者は仏、法、僧(*2)に対する揺らぎ無い信頼を得ます。

そのような人はもはや四つの悲惨な地(*3)のいずれにも生まれ変わることはなく、またそのような転生へと導く不善な行いをなし得ません。例えば、預流者は意図的に他の生き物を殺すことや、他人の所有物を盗ることや、故意に嘘をつくことは決してしないでしょう。

この段階の悟りに達した人は多くても7回の生涯のうちに最終的な解脱に達するでしょう。

 

ii. 一来(sakadâgâmi)道果 この段階では、(4)感覚的な欲望(欲貪)、(5)悪意(瞋 恚)という4番目と5番目の束縛は非常に弱まりますが、完全には破壊されていません。 この段階の悟りに達した人は最終的な解脱に至るまでに、1回以上人間界に生まれ変わることはないでしょう。

 

iii. 不還道果 この段階では(4)感覚的な欲望(欲貪)、(5)悪意(瞋恚)は完全に破壊されます。このレベルの悟りに達した人は、五下分結による感覚的に存在する世界 にはもはや縛られません。

欲貪が破壊されると、不還者は五感(*4)の対象に対する渇望や切望の思考を楽しむことは決してないでしょう。瞋恚が破壊されることで不還者は怒ったり、恐怖にかられた行動をすることは二度とないでしょう。

このような人は梵天界(色界)に 生まれ変わり、感覚の世界(欲界)に戻ることなく、そこで最終的な涅槃に至るでしょう。

 

iv. 阿羅漢道果 この段階では、(6)色界禅への渇愛(色貪)、(7)無色界禅への渇愛 (無色貪)、(8)慢、(9)掉挙、(10)無明という残りの五上分結が完全になくなります。

十結を完全に破壊することで、阿羅漢は完全に浄化された状態に達し、31の地への執着も もはやなく、無明や欲の最後の痕跡もきれいになくなります。

ここに到達することで、縁起のサイクルは終わりとなります。

このような人にとっては、「生まれは滅ぼされた。聖なる生に住し、なすべき事はなし終えた。もはやいかなる生存にも戻ることはない。」(*5 )

もし一つの達成によって四聖諦の本質を表現できるなら、それは疑いなく阿羅漢果の達成です。

事実、イシパタナでの最初の説教を始めとし、ブッダが完全に覚醒した人として45年の間教えたもの全ては、一つの目的に向けられていました。

「比丘らよ、この聖なる生涯は利益のために名誉や名声を得るものではなく、利益のために徳を得るものでもなく、利益のために定を得るものでもなく、利益のために知識や見識を高めるものでもない。

比丘らよ、揺らぐことのない心の解放(*6)こそがこの聖なる生涯の目的、中心、終点である。」(*7

 

ブッダが阿羅漢果を達成したとき、これら歓喜の言葉を述べられた。

「幾多の生涯にわたり、私は輪廻を彷徨った、家(*8)の建て主(*8)を探しもとめたが、 見つけることはできなかった。 何度も何度も生まれるのは苦しみに満ちている。 ああ、家の建て主よ! あなたは見られてしまった。 もう二度と家を建てることはないだろう。 たる木(*8)は全て壊され、 むな木(*8)は粉々に砕かれた。

心は条件づけられないところに達し、 渇愛は終焉を迎えた。」(*9 )

 

*1.邪見:これは特に 12 種類の自己に関する見解と関連します。(「中部経典」109.「マ ハープンナマ経」、「如実知見」第七章附属 問答 Q10 参照)

*2.僧:比丘と比丘尼の共同体、この内容においては4つの段階のいずれかに到達することを通して崇高な人となった比丘と比丘尼を指します。

*3.四つの悲惨な地:動物界、餓鬼界、阿修羅(巨人と鬼)界と地獄これらは31の地でも最も低い地です。ブッダによると、殆どの人間と天人は悲惨な地に生まれ変わります

(付 IV と「相応部経典」.56.102-113 を参照)。

*4 五感:五つの身体的な感覚の基礎で、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触るがそれぞれ五つの対象に対応しています。

*5.阿羅漢の達成に関するこの記述は、各経典を通じ多くの経の文末に書かれています。

*6.解放:この文脈において、解放とは阿羅漢果智による涅槃の実現を意味します。

*7.「中部経典」M.29.7「大心材喩経」Mahâsâropama Sutta

*8.立て主は渇愛、家は体(五蘊)、たる木は煩悩、むな木は無明を喩えています。

*9 大悟の後にブッダによって語られた「歓喜の言葉」Udâna Vatthu、「ダンマパダ」 153-154,

(パオ森林僧院の瞑想ホールで毎朝唱えられます)

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結語

本書は四聖諦と三学に関する一般的な概説から始まっています。そして、パオセヤドーの「如実知見」にも述べられているパオ森林僧院での主要な瞑想法にも触れています。

記述に含まれるものは;戒の訓練、アーナパーナサティ(呼吸への気付き)、四界分別観、究極の物質性、精神性の識別、縁起、ヴィパッサナーの実践、十六の洞察智、四段階の悟り、などです。

この結語まで読まれて、皆さんは自宅でこれからどのように瞑想修習を確立したら良いだろうと思うかもしれません。あるいは、資格を持った指導者の下でサマタ・ヴィパッサナーの修習を追求することができる、環境の整った当地のような森林僧院に来たいと思うかもしれません。

在家者として、最も良い最初のステップは、アーナパーナ・サティ(呼吸への気付き)です。

1時間(あるいはできるだけ1時間近く)から始めて、1日最高2あるいは3時間修習します。

毎日の瞑想が成功の鍵であるということを念頭においてください。

その実践 を支えるために、在家者のための五戒をしっかり護る強い努力をすべきです。もしパオのリトリートに参加することができるなら、それは修行にとって大きな後押しになるでしょう。

ブッダの時代に、多くの在家者が三学の修行を成功裏におこない、道果を達成して、聖者になることができました。しかしブッダは、しばしば在家生活についての懸念について語りました。

多くの責任と気を散らすものがあり、在家生活は必然的に思いがけない出来事と失望に満ちています。

一方、伝統的な森林僧院での修行は多くの利点を持っています。

すなわち僧院では次のものがあります:

・同じ心を持った人々による、支えになるコミュニティ

・法友たちと賢明な教師

・戒を護ることを支える環境

・気を散らす物がほとんどない人里離れた環境

・わずかな責任

・伝統的なテーラワーダ仏教の実践、

特に修行僧院の生活様式を支える文化と在家の人々。

毎日の時間割以外に、僧院には特別なスケジュールがありません。リトリートに来ることを計画するなら、一般的に、より長く滞在するほど得るものも大きいでしょう。準備的に いくらかの本を読んでおくと修行の助けになるでしょう。

 

推薦書リスト

Knowing and Seeing (Revised Edition) by the Venerable Pa-Auk Tawya Sayadaw; 2003

Life of the Buddha by Bhikkhu N.namoli: Buddhist Publication Society; Kandy, Sri Lanka; 1972, 1992

The Word of the Buddha by Nyanatiloka Mahathera B.P.S. Kandy, Sri Lanka; 1971, 2001

The Middle Length Discourses of the Buddha by Bhikkhu N.namoli and Bhikkhu Bodhi:

Wisdom Publications; Somerville, Massachusetts; USA; 1995, 2001

 

 

パオ・セヤドー小伝

アチンナ師は、「パオ森林僧院セヤドー」として(また、正式な呼び名ではありませんが パオ・セヤドー」として)一般に知られている、パオ森林僧院の僧院長でありその教師です。

「セヤドー(Sayadaw)」とは、「尊敬されている教師」を意味するビルマ語です。

セヤドーは 1934 年に、首都ヤンゴンの三角州地域のおよそ百マイル北西、ヒタンダ・タ ウンシップ、リーチャウン村に生まれました。

1944 年、10歳のときに沙弥としてその村で 出家しました。次の10年の間に、いろいろな教師の下で(戒律、経典、アビダンマを含む)パーリ語テキストを勉強し、典型的な学僧沙弥の生活を送りました。

まだ沙弥のうちに三つのパーリ語試験に合格しました。

1954 年、20 歳のとき、セヤドーは比丘としてのより高い得度を受けました。そして学識 ある年長僧の指導の下でパーリ語テキストの研究を続けました。

1956 年には権威あるダンマチャリア試験に合格しました。これは仏教におけるパーリ研究の博士号に等しく、そして「ダンマ教師」の称号を受けます。

次の8年間はいろいろな高名な教師から学ぶために、ミャンマー全土を旅して、ダンマの探求を続けました。

1964 年、10回目の「雨安居」(vassa)のときに、瞑想の実践を強くすることに心を向け、森林での居住を実践し始めました。パーリ語テキストの勉強は続けましたが、その時代の尊敬すべき瞑想教師からの指導を探し求めて、得ることができました。

次の 16 年間は、主に森林での修行生活をし、ミャンマー南部、モン州でこれらの日々を過ごしました。

3年間をムドン・タウンシップ(モーラミャインのすぐ南)で、そして13年間をイェー・タウンシップ(およそ百マイル海岸を下がったところ)で過ごしました。 この期間に、パーリ語テキストの勉強と瞑想に彼の時間を捧げ、非常に簡素な生活を送りました。

1981年にセヤドーはパオ森林僧院の僧院長、アッガパンニャ師からメッセージを受け取 りました・・・。

僧院長は死に瀕しており、アチンナ師に修道院の後を見てくれるよう頼みました。

5日後に、アッガパンニャ師は亡くなりました。僧院の新しい僧院長として、アチンナ師は「パオ森林僧院セヤドー」として知られるようになりました。

セヤドーは僧院の運営の監督もしましたが、ほとんどの時間は、上の森に建てた竹の小屋で、離れて瞑想をしました。そこはタウンニョー山地の基部にそって走る、人の住まない丘の地域でした。

この地域は後に上の僧院として知られるようになりました。

1983 年から、僧たちと在家の人々がセヤドーのところへ瞑想修行にやってきます。1990 年代初期には外国の瞑想者たちが僧院に来始めました。

セヤドーの評判が着実に上がるににつれて、上の僧院は簡単な竹の小屋とひと握りの弟子から、250以上のクティ(瞑想者の小屋)のある森へと次第に拡張していきました。

現在では、男性用の大きな2階建ての瞑想ホール、図書館(下の階にはオフィス、コンピュータルームと男性用宿泊所)、診療所、病院、食事供養のホール、2 階の食堂、そして受付ホールとセヤドーのための住居があります。

下の僧院には、180以上のクティの設備、新しい台所、女性用の大きな3 階建ての瞑想ホール(一階には宿泊施設)と5階の寄宿舎(建設中)があります。

現在、パオ瞑想僧院には 130人以上の外国人の僧侶、尼僧と在家の修行者が滞在しています。雨安居の3カ月の間には、平均600から700を数えます。

お祭りの時には在家の人と共に僧院の人口は時に 1500人を超えます。

1997 年にセヤドーは、教えの全過程を詳細に説明した、大作「涅槃への修行」と題した、パーリ語からの豊富な引用によって支えられた全5巻の大冊を出版しました。

現在それは ビルマ語とシンハリー語のみです。

199914日に、セヤドーの業績が認められ、政府は「Agga Maha Kammathanacariya 」の称号をを与えました、それは「大変尊敬される瞑想教師」を意味します。セヤドーは流暢な英語を話し、1997 年からミャンマー国外で、 講義や、リトリートを行ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アーナパーナ・サティ入門

パオ・セヤドーによるアーナパーナ・サティ(呼吸による気付きの瞑想)の初歩的解説

集中力の開発

ディーパンカラ・サヤレーによるアーナパーナ・サティ(呼吸瞑想)の説明

パオ僧院修行階梯図(PDF)

パオの修行段階をパゴダの絵で図解しているもの。

パオ・セヤドー問答集(PDF)

パオ・セヤドーが様々な質問に答えています。

智慧の光(PDF)

パオ・セヤドー法話:アナパナ瞑想から道果に至るまでが書かれています。

如実知見(PDF)

パオ・セヤドー法話:問答を交えて修行の階梯が述べられています。

パオ森林僧院における教えと修行(PDF)

パオの修行体系の概説書。四聖諦から説き、戒・定・慧と進んでいく修行について

「七つの清浄」にそって解説。

パオ・セヤドーのサマタ・ヴィパッサナー瞑想(PDF)

上記「教えと修行」の内、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想をさらに詳述。

菩提資糧(PDF)

悟りを開くにはどんな波羅蜜、徳、修行が必要なのか、というお話です。

リンク

項目

出典

内容

     如何にして苦に終止符をうつか

ビルマ森林僧院滞在記

パオセヤドーが2002年に来日されたときの講演

なぜ瞑想するのか、苦を克服するにはどうすれば良いかが述べられています。

清浄道論

クリシュナムルティ学友会

田大観師の和訳で、上中下に分かれている。(上)は戒と定(サマタ瞑想)。

(中)は定。(下)は智慧(ヴィパッサナー)について。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『清浄道論』(しょうじょうどうろん、パーリ語:Visuddhimagga, ヴィスッディ・マッガ、「清浄-道」)は、5世紀頃に書かれた上座部仏教の代表的な注釈者であるブッダゴーサ(仏音)の主著であり、上座部仏教圏における最高権威の実践綱要書[1][要追加記述][2]。大寺(マハーヴィハーラ)派であるブッダゴーサが、2-3世紀に成立した無畏山寺(アバヤギリ・ヴィハーラ)派の実践綱要書『解脱道論』を底本にしつつ、諸典籍を参照しながらまとめ上げたものとされる[1][2]

 

 

223章から成る[3]1-2章が「戒」(戒律)、3-11章が「定」(禅定・サマタ瞑想)、第2部の12-23章が「慧」(ヴィパッサナー瞑想)に関して。

 

1

序章 : 因縁等の論(Nidānādi-kathā

1 : 戒の解釈(Sīla-niddeso

2 : 頭陀支の解釈(Dhutaga-niddeso

3 : 業処把取の解釈(Kammaṭṭhāna-ggahaa-niddeso

4 : 地遍の解釈(Pathavī-kasia-niddeso

5 : 余遍の解釈(Sesa-kasia-niddeso

6 : 不浄業処の解釈(Asubha-kammaṭṭhāna-niddeso

7 : 六随念の解釈(Chaanus-sati-niddeso

8 : 随念業処の解釈(Anus-sati-kammaṭṭhāna-niddeso

9 : 梵住の解釈(Brahmavihāra-niddeso

10 : 無色の解釈(Āruppa-niddeso

11 : 定の解釈(Samādhi-niddeso

2

12 : 神変の解釈(Iddhividha-niddeso

13 : 神通の解釈(Abhiññā-niddeso

14 : 蘊の解釈(Khandha-niddeso

15 : 処・界の解釈(Āyatana-dhātu-niddeso

16 : 根・諦の解釈(Indriya-sacca-niddeso

17 : 慧地の解釈(Paññā-bhūmi-niddeso

18 : 見清浄の解釈(Diṭṭhi-visuddhi-niddeso

19 : 度疑清浄の解釈(Kakhā-vitaraa-visuddhi-niddeso

20 : 道非道智見清浄の解釈(Maggāmagga-ñāa-dassana-visuddhi-niddeso

21 : 行道智見清浄の解釈(Paipadā-ñāa-dassana-visuddhi-niddeso

22 : 智見清浄の解釈(Ñāa-dassana-visuddhi-niddeso

23 : 慧修習の功徳の解釈(Paññā-bhāva-nāni-sasa-niddeso

内容

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(20177月)

まず冒頭の序章において、三学(戒・定・慧)が仏教教理の諸説を包摂し、仏道という清浄な道を達成させるものであることが説明される。

 

1章では、まず冒頭で従来の三学(戒・定・慧)の説示が簡略すぎるので、その詳細をここで述べていく旨が述べられる。続いて戒(戒律)の詳細な説明が続く。戒の定義、戒の意義、戒の効用、戒の福利、戒の種類(1種類〜5種類)など。

 

2章では、前章で述べられた戒の完成をもたらすものとして、頭陀行(俗塵の払拭行)について述べられる。13の払拭行(1糞掃衣、2三衣、3施食、4家の貧富不選、5坐堂食、6鉢食、7食の時間制限、8林住、9木依、10野外住、11墓場行、12坐具行、13常坐)など。

 

3章からは、定(禅定)の話に移行していく。禅定の定義、禅定の意義、禅定の種類(1種類〜5種類)、禅定の修習方法(10の障害、善き朋友、6つの自己性質、40の業処)など。

 

4章から第9章までは、定(禅定)のための瞑想対象である40の業処(四十業処)の詳細な説明が続く。

 

4章では、四十業処の内の「十遍」の1つである「地遍」の詳細な説明がなされる。人里離れたところで小さな円筒形の山を作り、そのイメージを「地」の言葉を唱えながら取り込み、拡大・微細化させつつ禅定へと入っていく手法。

 

5章では、「十遍」の残りの9つ(水、火、風、青、黄、赤、白、光、虚空)についての説明。前章の「地遍」と同じく、きっかけとなるオブジェクトから、そのイメージを、その名を唱え続けながら取り込み、禅定へと入っていく手法。

 

6章では、四十業処の内の「十不浄」の説明がなされる。墓場へ行き、膨張、青瘀、膿爛、断壊、食残、散乱、斬斫離散、血塗、蟲聚、骸骨といった各種の状態の死体の観想から、禅定へと入っていく手法。

 

7章では、四十業処の内の「十随念」の説明がなされる。まず、仏、法、僧、戒、捨、天、死、身至、安般、寂止という10の想念対象(業処)の概説がなされ、続いて、仏、法、僧、戒、捨、天までの6つの随念の詳細が述べられていく。

 

8章はその続きで、「十随念」の残りの4つ、死、身至、安般、寂止の随念について詳細が述べられていく。「死随念」は他者や自身の死を様々な観点から想念する手法。「身至念」(身随念)は32に分割された自身の身体(三十二身分)を想念する手法。「安般念」は呼吸に意識を集中させるいわゆる「アーナーパーナ・サティ」のこと。「寂止随念」は苦の寂止としての涅槃を想念する手法。

 

9章は、四十業処の内の「四梵住」(四無量心)、すなわち「慈・悲・喜・捨」を用いた手法の詳細が述べられる。これを簡略化したものが、いわゆる「慈愛の瞑想」(慈悲の瞑想)と呼ばれるもの。

 

10章は、四十業処の内の「四無色界」、すなわち空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の禅定、いわゆる「四無色定」について。

 

11章は、四十業処の残りの2つ、「食厭」と「四界(四大)」について。前者は、食事やそのための托鉢に対する良くないイメージを想念することで、食に対する倦厭感を育み、食に対する欲を断つことで集中力を養う手法であり、「食厭想」と呼ばれる。後者は四大(地・水・火・風)の性質(地は20、水は12、火は4、風は6、計42)に分けられた自身の身体を観想する手法であり、「四界分別観(四界差別観)」と呼ばれる。最後に4-11章で述べられてきた四十業処に関する総括的な内容を述べて終わる。ここまでが第1部。

 

続いて第2部。第12-13章では、第四禅の後に獲得できるとされる「神通力」について詳述される。

14章では、五蘊について詳述される。

15章では、十二処・十八界、すなわち六根(六内入処)・六境(六外入処)・六識について詳述される。

16章では、22の認知的・心的機能(根)と、四諦について詳述される。

17章では、十二因縁について詳述される。

18章では、七清浄の3番目「見清浄」、すなわち十六観智で言うところの「名色分離智」について詳述される。

19章では、七清浄の4番目「度疑清浄」、すなわち十六観智で言うところの「縁摂受智」について詳述される。

20章では、七清浄の5番目「道非道智見清浄」、すなわち十六観智で言うところの「思惟智」「生滅智」について詳述される。

21章では、七清浄の6番目「行道智見清浄」、すなわち十六観智で言うところの「生滅智」から「行捨智」までの「八智」と「()随順智」について詳述される。

22章では、七清浄の7番目「智見清浄」について詳述される。十六観智の「種姓智」や、四向四果など。

23章では、ヴィパッサナー瞑想を通じての智慧獲得による4つの福利について述べられる。

最後に、仏道の清浄な道が語られ終わったことを確認しつつ締め括られる。

 

日本語訳

『南伝大蔵経』 第62-64巻 「清浄道論(1-3)」 高楠順次郎監修、水野弘元訳 大蔵出版

『清浄道論』 全3巻、正田大観、Evolving2016