パンニャ智慧・般若とは
パンニャの修行とはなにか?
スッタニパータより
学生のアジダがブッダに問う
世界に何によって覆い隠されているのですか?
世界はなぜ輝かないですか?
世間を汚すものはなんですか?
世間の大きな恐怖は何ですか?
無明avijjaアジによって覆い隠されている。根本的無知で真理を知らないことだ。
世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない
欲心が世間の汚れである
苦悩が世間の恐怖である、と私は説く
アジダが再度、問う。
煩悩の流れをせき止めるものはなんですか?
煩悩をせき止めるものは「気をつける」ことである 気をつけることができればせき止めることができる。
煩悩の流れは智慧によって塞がれる。
他の老いた修行者ピンギヤが問う
この老いた苦しみどうすれば救われるのですか?
形あるものは形が在るゆえに老いる。
形から離れ、迷いの世界に戻らないようにせよ
生誕と老衰の苦しみを捨て去る方法について説いてください
人々は妄執に陥って苦悩が生じ、老いに襲われている。
だから妄執を捨て、迷いの世界に戻らないようにせよ。
16]仏Theは、すべてのサンカラーは非永続的で本質的でないことを教えました。[19] [20]デビッド・カルパハナは、これらの主観的な性質は「仏が世界の最終的に客観的な見解を定式化しようとするのを防ぎました」[17]
条件付けられたものや気質は知覚であり、本質を持たないため、信頼できる喜びの源ではなく、非永続的です。[17]この現実の重要性を理解することは知恵です。 Saākhāraという言葉のこの「条件付けられたもの」という感覚は、4つの高貴な真実と仏教徒の依存の起源の理論、つまり無常と非自己に関する無知や誤解がTaṇhāと再生につながる方法に現れます。
30日コースの11日目
ポイントはアニッチャ
アニッチャ・ヴィージャ・ニーニャ Anicca viija nina アニッチャが明らかになる智慧
アニッチャを知ることでニッバーナのニッチャ永遠を知ることができる。
あるがままを見るためには表面が溶けて、奥へ行くこと。これがヴィパッサナー。
サンニャはサンカーラに囚われているので、サンカーラを消去してサンニャをパンニャに変えるのが修行。
パンニャとはウダヤバヤuppadavaya-dhammino「生滅を見ること」 これが解放になる。
25 paññindriya(パンニンドゥリヤ:慧根)
⇒智慧。ものごとの真理の側面を観ることができるはたらき
仏教で一番大事なことは、paññâ(パンニャー:智慧)が現れることです。仏教で言う智慧とは、無常・苦・無我・因縁の法則などの真理を正しく観ることができるはたらきです。智慧は、共浄心所(一般的な浄心所)とは別に育てなくてはいけない浄心所です。つまり、善心で生きているからといって智慧が生じるわけではないということです。そのことを理解しておいてください。
ものごとが永久的に続くと思うのは、無知ゆえです。ものごとは瞬間しか成り立たないという無常の真理を理解し、その体験へ進む方法は、智慧を発達させる道です。
たとえば人に優しくすることは善いことですが、そこで喜んで終わるのではなく、智慧も育ててもらいたいのです。どういうことかというと、善いことをしても「これはこの瞬間だけのことだ、すべてはすぐに消えていく」という無常の方向で考えてみるのです。そういうように考えると、智慧が生まれてきます。人に優しくしたからといって、その人を永久的に助けてあげたわけではないし、自分が永久的な何かを得たわけではありません。
たとえば、人に夕食をごちそうしてあげたとします。それでその人が喜んだとし、ても、ずっとその人を追いかけて「私はあなたをこの間喜ばせてあげたでしょう。あなたは満腹したでしょう」などと言いつづけるのはおかしいでしょう。
けれども無知な人の行動はそれと似ていますね。
ですから無知の人がいくら善いことをしても、力強い善い結果は得られないのです。たとえ大金を寄付しても、その根底が無知であれば、わずかな善果で終わってしまいます。智慧がある人が善いことをすれば、確実に善い結果が得られます。
私たちにも時たま智慧は生まれます。「世の中は無常だ」と思ったりするのは智慧なのです。しかし慧根はなかなか根づきません。心の中に無知という巨大な木があり、ものすごく広く深く根が張っていると考えてください。その痴根の代わりに慧根を根づかせなければならないのです。
まず無知の木のそばに智慧の木の種を植えます。
種を植えても、大きな木のそばだから、日当たりは悪いし、育ちにくくて、なかなか根づきません。ですからずっと見守ってあげて、日が当たるようにしてあげたり、水をやったり、色々と世話をしてあげるのです。そうすると芽が出て、少しずつ根を張っていくのです。
智慧の木は、たくさんの浄心所がついているから力強いのです。無知の木は大きいけれども、智慧の木よりも弱いのです。ですから智慧がある程度大きくなると、無知の木は倒れてしまいます。その代わりに智慧の根がきちんと定着します。そのようにして智慧で無知を追い払うのです。ですから私たちの仕事は、無知をなくそうとするのではなく、智慧を育てようとすることです。そうすれば無知の大木もいずれ弱くなって死んでしまいます。
ものごとは、ものすごいスピードで変化しています。それを頭だけで理解しても、心の中では「ものごとはずっと有るのだ」と思ってしまいます。心の波動はあまりにも速いのです。スピードが速ければ速いほど、そこに何かが「有る」ように思えます。
「魂が有る」「私がいる」などと思ってしまうのは心があまりにも無常だからです。実際は、人間の心もすべての現象も、流れている川のように瞬間瞬間変化しつづける実体のないものなのです。
慧根(paññindriya)は、そういうことが頭でわかるのではなく、修行(ヴィパッサナー)による体験でしっかりとわかることによって生じるのです。
「いま・ここ」は聖なる戦地。
私たちはここでしか戦えない。感覚を使って。
感覚が無明に覆われていると、苦と苦の原因が作り出す世界で生きるしか無い。
智慧が無明の覆いを剥ぎ取る。
サムダヤ はじまり 微細な世界
バヤ・ダンマ 消えていく
全身がさざ波状態になったとしても智慧がなければ心地よいと思うだけ。
生と滅が別になっており、智慧はなく、執着があり、無知である。
アニッチャ・ビジャー・ニャーナがマイナスに触れると古い岩のサンカーラが表面に浮かび上がってくる。
こうして嵐が起こり、そして消え去る。
暗黙知 発見の研究 在るから知るへ 方法の知識と智慧がキーワード
レヴィ・ブリュールは未開部族の原始的精神機能を先行的に研究していて、そこに個人の感情ないしは動機が外界の出来事としばしば同一視されていることを指摘していた。レヴィ・ブリュールはこれをとりあえず「参加」(participation)と呼んだ。
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暗黙知の図式 発見は対象知(knowing what)によっておこるのではなく、方法知(knowing how)によっておこる 「方法を自覚することが創造なのだ」と言っているばかりなのである。仮にそうだとしても(まさにそうだろうが)、これではそのプロセスはわからない。 「適用の失敗」が方法のディープレベルをよびさますということに着目していくようになる。失敗は成功の母なのだ。 |
瞑想して悟らないことが一番大事。
何かに引っかかって、未練があるから悟らない。
それは何か?を探すことができる。
ここから智慧が生まれる。
引っかかっているものが自我。
その正体をみつけると子供や仕事や病気など、どれもカンマから生まれてくるものだとわかる
対象へのこだわりを転換させる力が智慧paññā
心は意志ではコントロールできないので、維持と気づきという二つの瞑想を仏教では勧めている。
サマタ瞑想は、統一することで、心の流れを良い方向のままに維持することができる。
ヴィパッサナー瞑想は、気づき続けることで、心の流れを転換させることで心を管理することができる。
たとえば死ぬ瞬間に何か不善心所がはたらく現象にひっかかってしまったとしても、気づきを入れる癖がついているのならば、それによって流れを転換することができる。
これが智慧paññāである。
これができないと、心に映ったものに引っ張られてしまい、下手をすれば妄想の回転から逃れるのに時間がかかる。
いま・ここに生きるのが智慧paññā
本を読んでいても、おやつのことが気になって、すぐに心に浮かび、心のエネルギーが弱くなる。
このような対象に心が引っかかってしまうことを欲、執着、渇愛、無明、と呼び、これは智慧paññāがない状態であり、輪廻転生の原因である。
智慧paññāがあれば、この瞬間の「いま・ここ」に生き、それだけに集中できる。
インド・アーリア人を悩ませたのは輪廻(サンサーラ)である。輪廻転生とも訳す。業(カルマ)によって生まれ変わりがおこるという観念のことだが、再生と再死がずうっとくりかえされるというのだから、これは辛い。
自己の輪廻転生なのだから、死んでも死ねない。自分と死は切り離せない。そこで、業をつくっているらしい欲望を滅却すれば輪廻をめぐる苦悩がなくなるのではないか、そのためには苦行をしたり瞑想をしたりするのが有効なのではないかということが模索された。
ブッダが目覚める前にひっかかっていたことも、このことだった。若いブッダは苦行にも瞑想にも励んだのだが、いくら激しい苦行をしても苦しみに耐えられたとしても苦悩はなくならず、いくら瞑想しても瞑想中はともかくも瞑想がおわると欲望が再発してくるのを知って、輪廻を恐れる感情には制御不能・自覚不能な自己にまつわる根本的生存欲のようなものが関与しているのだと気が付いた。
輪廻転生が恐いのは、そのように思う自己があるからで、それならそんな自己を実感しなくなればいいのだが、それがそうならない。この、自己にへばりついて制御不能になっている根本的生存欲のことを、仏教では渇愛(かつあい)とか無明(むみょう)という。
渇愛や無明が動き出さないようにするには、どうするか。ブッダはこの根本的生存欲を脱するには「智慧」をもつ以外にはないと悟った。人生が苦渋に満ちていることを知り、世の中は無常そのものであると諦めること、そう思えることが智慧である。また自己の心身に自己を実感しないように「五蘊非我」(五蘊はすべて我に非ずという説)を感じられるようにすること、それが智慧だった。
ところが、ブッダが入滅してしばらくすると非我観が修正されてきた。心身のいずれも自己でないのなら、そもそも自己なんてものはないのではないかという考え方が台頭したのである。これが「無我」説だ。