見解がよくなっただけで悟れる?

 

10の不道徳の行為をやめることで、Sōtapannaになれるのか?

 

 

Sōtapannaの一歩手前である預流向には、アラハンになるまでに必要なことを頭で理解さえできれば至ることができると言われています。

この宇宙の基本的な法則の知識があれば、7回転生を繰り返す間に離脱を阻害する結び目を解くことができると考えられているからです。

その中でも、キーポイントとなるのは除去しなければならないのは深層意識にある「悪い見解」です。

このために表層意識や言動が不道徳な行為を実践してしまい、この世界に留めてしまう「カルマの種」kammabījaを次々と生み続けてしまうからです。

 

 

 

 

不道徳な行為とは?

悪い見解とは?         この宇宙の法則を否定すること

悪い見解を行わないとは?    宇宙の法則を否定しないこと

 

上座部仏教における常識(良い見解の法則)とは?   

死後の世界と31領域における輪廻転生

メンタル体とbhavaの理解

マインドが物質を創造していること

涅槃nibbānaには完全なマインドの世界が実在すること

この宇宙の特徴である三相aniccā,dukkhā,anattāを段階的に深く実感すること

自分で作った自動反応回路によって、ヒトの意識は始めからこの世界をそのまま認識できていないということ

苦の原因は五蘊の中にある執著であること

 

このようなことを理解していないことから生まれる知識、科学、学問は対象の本性を理解できず、狭めた範疇の中で因果関係(法則)を基準にすることに終始しているので、どれも良い見解ではありません。

 

良い見解はすぐに理解できないため、これらのことをすぐに信じる必要はありませんが、だからといって確かめる経験もせずに、このような考え方をすぐに否定してしまうことは悪い見解になってしまいます。

したがって、まだよくわからないことを否定するのではなく、それを調べている最中だという心構えになれば悪見に陥ることはなくなります。

 

 

 

1.身体、言語活動、およびマインドで不道徳な行為をなされます。(kāya, vaci, and manō sankhāraにつながります)。

詳細はSankhara, Kamma, Kamma Beeja, Kamma Vipakaを参照してください。

実際には、最初にmanō sankhāraをコントールする決心から始めます。そして、この一部は、vaciおよびkāya sankhāraにつながります。これらは、10の不道徳な行為(dasa akusala)と呼ばれます。 10の不道徳な行為は、次の3つのカテゴリに分類されます。

間違った見解は最後に挙げられることもありますが、このcittaが不道徳の元凶となります。

 

3つの manō sankhāra(マインドで行われる不道徳な行為):

1.Abhijjā​​(貪欲、他者の持ち物に対する欲望)

2.Vyāpāda(悪意、憎しみ)

3. Micchā Ditthi(間違った見解)

 

4つのvacisankhāra(言語活動で行われる不道徳な行為):

1.Musāvāda(うそ)

2.Pisunāvācā(中傷)

3.Parusāvācā(厳しい言葉)

4.Sampappalāpā(軽薄な話)

 

3つのkāya sankhāra(身体に対して行われる不道徳な行為):

1.Pānātipātā(殺し)

2.Adinnādānā(与えられていないものをとる)

3.kāmēsumicchācārā(性的な不正行為だけでなく、過剰な感覚の喜びも)

 

 

 

 

Buddha Dhamma(この文脈では「自然の法則」)で、常に重要なのはその人の意図です。それに基づいて、10dasa akusala40に拡張されます。

たとえば、自分で盗むことだけが問題なのではありません。これには、他の誰かに盗まれさせる、他人の盗む行為を助ける、そのような行為をした他人を賞賛することも含まれます。

たとえば間違った見解micchā ditthiにはmicchā ditthiを他の人に広めたり、他の人にmicchā ditthiを育てることを奨励したり(たとえば、転生プロセス(輪廻)は本当ではないなど)、そのような間違った見解を賞賛したりすることも含まれます。

他のすべての10dasa akusalaについても同じです。

これらの40のアクションをちゃんと回避できるようになりはじめると、Nibbānaの初期段階、つまりマインドの「冷静さ(温度が下がる)」を感じ始めます。

一定のストレス、マインドの興奮は徐々に緩和されます。

 

 

 

Sōtapannaには絶対にできない6つ行為があります。それらは母親や父親を殺す、アラハンを殺す、釈尊を傷つける、サンガたちの分裂を引き起こす、micchā ditthi すなわち間違った見解をする、ことです。

 

したがって、Sōtapannaのステージより下の人がdasa akusalaを実行してしまうことは避けられません。Sōtapannaでさえ、micchā ditthi だけを完全に除去しただけです。Sōtapannadasa akusalaのいずれをも喜んでコミット(関わりは)しませんが、上記の6つを除いて、いくつかコミットする可能性はあります。

 

間違った種類のビジョン (diṭṭhi) を持つことは非常に危険です。 そのようなdiṭṭhi は、dhammaを学ぶことによってのみ取り除くことができます。

そのような間違ったビジョンや認識を排除するだけで、人はSōtapaññāになります。 原典の確認

Sōtapannaの段階で取り除かれる 3 つのsanyojana (sathkaya diṭṭhi vicikicca, silabbata paramasa) はすべてmicchā diṭṭhi によって生じます。

 

不可欠なことは、可能な限りそれらを避ける必要があることを認識することです。

Dhammaを学び、回避することの利点を理解するにつれて、それはより簡単になります。

 

 

間違った見解micchā ditthiとは、31領域ある「この世」の本質的な特徴を理解していないことです。

 

 

 

 

「完全な世界観」が無い(無知)のため、次の3つの主な間違っている世界観を持つ可能性があります。

i)原因なしにすべてが生まれた    (ahētukaditthi

ii)良い面も悪い面も効果を生まない  (akiriya ditthi

iii)死後はない            (natthika ditthi

 

これらの世界観を保持している場合には、不道徳な行為を実行する可能性があり、将来、すなわち来世の転生(輪廻転生)で、apāyas(最下位の4領域)の転生につながるkamma vipākaを保持しているからです。

 

5つの戒律に従っていればapāyas(下位界)での転生が免除されると想定してしまうのも、よくあるmicchā ditthiです。その誤解した信念自体がapāyasの転生につながってしまいます。

 

 

悪見micchā ditthi 間違った見解  

このような特定の間違った見解すなわちmicchā ditthi10個あります。

 

1)他に与えることでkammicの恩恵がない、

2)「借り」を返済する必要がない(他の人があなたのためにしたことに対して)、

3)聖なる人とabhiññāの力を持つyogisを尊重することの恩恵がない、

4)原因kammaは結果vipākaを持たない  

5)母親の面倒をみるというkammicの恩恵がない

6)父親の面倒を見るというkammicの恩恵がない

7)この世界は存在しない「natti ayanlōkō

8Paralowaは存在しない「natti parōlōkō」  死と誕生の間の世界  冥界?

9oupapātikaの誕生はない(即時の完全な形態の誕生の否定) 動物と人間界以外は完全形態

10)前世を見ることができる聖人やヨギは存在しない。

 

7-10)の説明については、

Micca Ditthi, Gandhabba, and Sotapanna Stageを参照してください。

paralowaとは、gandhabbaとして待機している連続した誕生の間の場所のことです。

Hidden World of the Gandhabba: Netherworld (Para Lōka)を参照してください。

 

 

 

akusalaとは、「niyata micchā ditthi」すなわち「確立された間違った見解」を保持することです

 

例えば、転生プロセスがあると考える準備さえできていない場合などです。したがって、上記の10のカテゴリーのいずれかにしっかりしたとした疑問を抱くと、間違った見解(niyata micchā ditthi)を確立します。

 

重要な点は、間違った見解を確立している場合は、自分の行動に原因と結果があることに気づかずに世界を見てしまっていることです。

釈尊が世界の本質を説明しなければ、そのことに気付かないからでしょう。それらには、転生プロセスの有効性、他の領域の存在、地球のような数え切れないほどの惑星系の宇宙の存在などが含まれます。

科学者が発見しているように、私たちが経験/理解していない多くのものが自然にはあります。

たとえば、現代科学では宇宙の質量の4%しかわかっていないことを証明しています。

(ダークマターとダークエネルギーの存在は確認されているが、何であるのかわかっていません)

 

したがって、オープンマインドを保ち、これらすべてが理にかなっているかどうかを確認するために、より多くのDhammaを学ぶ必要があります。 

 

 

Sōtapannaによって完全に除去される唯一のakusalamicchā ditthiだけです。

Sōtapannaの段階では、主にaniccadukkha, anattaを理解することで、micchā ditthiが除外され、想像を絶するほど大量の汚れが取り除かれます。

 

 

「これがすべて真実であるとどうやって知ることができますか? rūpa /arūpalokāapāyas(地獄)の存在、または自然なる出産の証拠はあるのでしょうか?」と思っているかもしれません。

 

「この世界」について知らないことがたくさんあります。これらの検証/確認を科学だけに頼ることはできません。私たちの世界が数個の銀河よりも大きいことを科学が受け入れたのは、過去50年以内のことにすぎません(現在、科学は数十億の銀河があることを確認しています)。

釈尊は2600年前にcakkavāla(星系すなわち宇宙星団系)が存在すると述べたのに対し、科学は過去100年でそれらを確認したばかりです。

 

 

すべての不道徳な行為は、マインドの中のmanō sankhāra(深層意識の自動反応回路)から始まることは容易にわかります。 vacisankhāra(表層意識)またはkāyasankhāra(身体的条件反射)のいずれかは、欲、憎しみ、つまり世界の本質を知らないこと(無知)によって行われます。

 

 

そして、道徳的行動の基礎は正しい世界観から生まれます。

意識生命体には識別可能な始まりがないという事実(Sansaric Time Scale, Buddhist Cosmology, and the Big Bang Theory)は、私たち全員が想像を絶するほど長い間、この転生プロセスを経験していることを意味します。したがって、私たちは31の領域のほとんどで生まれた経験があり、( Anāgāmisのために予約されている領域は除いて)それぞれで無数の転生してきました。

 

上記の事実は、この長いsansāra(すなわちsamsāra転生プロセス)のある時点で、各生命体が他のあらゆる生命体と関連してきたことを意味します。

 

釈尊は、「この長いsansāraのある時点で、あなたの父親、母親、兄弟ではない生命体を見つけるのは難しい」と言いました。出典元?

無限大は把握するのが難しい概念です。無限に関連する(科学の)把握しにくい考えについて語る興味深い本は、David Deutschの「無限の始まり:世界を変える説明」です。“The Beginning of Infinity: Explanations That Transform the World”

 

したがって、「私たち」は、人間だけでなく、すべての生命体を意味し、31流域の存在はお互いにつながっています

これが、生物を殺したり、誰かから盗んだり、言葉で誰かを虐待したりするのが間違っている理由です。

これらは道徳の基盤です。これが、10の不道徳な行為を行うのが良くない理由です。

 

 

 

 

悪見の背景

10の悪い見解は正しい見解を否定しないことで、十分です。

もし正しい見解とは何を指しているのかに興味が湧いたら、以下のことを参考にしてください。

体験するまでは以下のことを信じる必要などは一切ありません。

しかし同様に、これまでの体験してきた世界観と違うからと言ってただちに否定することも避けてください。

自分は体験したことがないが、そのように受容する見解をする人もこの世の中にいるのだと、理解してもらえれば嬉しいです。

もし余裕がある時に、それらを熟慮してもらってその可能性をこれまでの自分の人生を通じて考えてもらえれば十分です。

 

 

1)他に与えることでkammicの恩恵がない、

 恩恵がないと断定することで、この宇宙が因果関係によって成り立っていないと考えてしまう可能性があります。

原因kammaに対して結果vipāka がいつ顕れるかは条件によってわかりません。

それが現世か来世かもわからないからです。

ですから来世を体験していないからそれを信じられなくても、恩恵がないと断定して、他に与えることに消極的になるのは悪見になります。

31領域から見ると、どの生命体もつながっていると可能性はあります。

 

 

2)「借り」を返済する必要がない(他の人があなたのためにしたことに対して)、

 返済の必要がないと断定することで、この宇宙が相互関係によって成り立っていないと考えてしまう可能性があります。

借りたものを返すことで、どちらも成長し、この31領域が三相であることを理解しやすくなってくる可能性があります。

 

3)聖なる人とabhiññāの力を持つyogisを尊重することの恩恵がない、

 恩恵がないと断定すると、この宇宙にはabhiññāの力が存在しないと考えてしまう可能性があります。

マインドにはjavana cittaのエネルギーで四大元素という物質を創造する力があることを否定することになります。

 

4)原因kammaは結果vipākaを持たない  

 恩恵がないと断定することで、この宇宙が因果関係によって成り立っていないと考えてしまう可能性があります。

原因kammaに対して結果vipāka がいつ顕れるかは条件によってわかりません。

それが現世か来世かもわからないからです。しかしこれまでの経験から因果関係がないと決めつけてしまうのは悪見になります。

 

5)母親の面倒をみるというkammicの恩恵がない

母親の面倒をみるというkammicの恩恵はないと断定してしまうと、母親に対する感謝を否定してしまう可能性があります。

gandhabbaとして気持ちが落ち着くことなく彷徨っている時にこの肉体を提供してくれたのは母親です。母親の存在と因果関係を大事にしているのであれば、恩恵がないという判断はしません。

 

6)父親の面倒を見るというkammicの恩恵がない

父親の面倒を見るというkammicの恩恵はないと断定してしまうと、父親に対する感謝を否定してしまう可能性があります。

gandhabbaとして気持ちが落ち着くことなく彷徨っている時にこの肉体を提供してくれたのは父親です。父親の存在と因果関係を大事にしているのであれば、恩恵がないという判断はしません。

 

7)この世界は存在しない「natti ayanlōkō

この世界は存在しないと断定してしまうと、31領域の世界を否定してしまう可能性があります。

 

8Paralowaは存在しない「natti parōlōkō」  死と誕生の間の世界  (冥界)?

Paralowa(冥界)は存在しないと断定してしまうと、メンタル・ボディや転生など31領域の世界を否定してしまう可能性があります。

 

9oupapātikaの誕生はない(即時の完全な形態の誕生の否定) 動物と人間界以外は完全形態

oupapātikaの誕生はないと断定してしまうと、31領域の世界を否定してしまう可能性があります。

 

10)前世を見ることができる聖人やヨギyogisは存在しない。

前世を見ることができる聖人やヨギは存在しないと断定してしまうと、輪廻転生や31領域の世界やそれらのつながりを見る能力を否定してしまう可能性があります。

 

自分の行動は、現世だけでなく(主に)将来の人生にも影響を与えることを理解する必要があります。 また、有害な行為から得られるものはすべて一時的なものであり、心に平穏を残すことはできません。

 

 

 

 

 

意図は重要な要素

 

釈尊は「Cētana ham Bhikkhavē kamman vadāmi」、「比丘よ、kammaとは意図である」と説きました。

私たちはどんな種類のkammaがコミットされたかを特定する意図を常に持つ必要があります。

例をあげましょう。子供を攻撃している犬を誰かが撃った場合、ここでの意図は子供を救うことです。一方、誰かが「ターゲット練習」のために犬を撃っている場合、そこには言い訳はありません。人間の生命は動物の生命よりも数百倍も貴重だからです。

時には、特定の行為を見ただけでは、kammicの因果関係を判断できないことがあります。行為を行う人のみが、それが善意であるか悪意であるかを知っています。したがって、通常、他の人の行動を判断することは賢明ではありません。

それが深層意識の自動反応回路の場合でさえ、それをちゃんと知ることができるのは本人だけです。

 

ある人の表層的な善意によって、来世の転生に関わる苦しみを他者に与えていたとしても、悪意よりも善意のほうが大切と言えるのか? 表層的な善意は善意とは呼ばないのか?

 

たとえば、親の子供に対する懲戒行為は、kāyasankhāra(スパンキング)またはvaci sankhāra(言語的脅威)のように見える場合がありますが、ほとんどの場合、親は子供に対して善意を持っている可能性があります。

また多くの場合、複数の競合する問題が関わっている場合に何をすべきかについて他人に助言することは難しいことです。たとえば、子供が空腹で泣いているときに、食べ物を盗んで自分の子供に食べさせても大丈夫でしょうか?子供が不正行為をしているときに、子供を叩いても大丈夫でしょうか?親のみが状況に基づいてその決定を下すことができます。

 

 

 

Kammaの相対的な重み

重大な問題の1つは、比較的軽微な結果を伴う行動を避けようとする一方で、より大きな結果をもたらすことを無意識のうちに行ってしまうことです。

例を見てみましょう。

底に多くの穴があるために水が減っていく大きな水槽があるとします。いくつかの穴はピンホールのサイズで、いくつかは少し大きく、いくつかの穴はもっと大きいので、水はアッという間に失われていきます。このような場合、大きな穴を最初に塞ぎたいと思うでしょう。次に、中サイズの穴を修正し、ピンホールを最後に塞ぐでしょう。

 

10の不道徳な行為の相対的な重みを定量化するのは簡単ではありません。ただし、kāya sankhāraは、同じ生物に向けられている場合、vaci sankhāraと比較して「kammic ポテンシャル」が高いことははっきりとわかります。誰かを物理的に傷つけることは、言葉による虐待よりも悪いのです。

 

別の例です。ある人が特定の人に対して嫌悪の思いを一日中持っているとします。

それはその人に話をして「自分のマインドから負荷を取り除く」よりも悪いことかもしれません。

ただし、それも必要ないかもしれません。

最良の解決策は、その人に対してmettā (愛情のこもった優しさ)を養い、憎しみに満ちた考えを取り除くことです。

永続的な幸福を提供するように設定されていない世界で幸福を見つけるためのこの絶え間ない努力が常に大事であることを私たちは認識する必要があります

 

kammaの因果関係は、不道徳な行為をした生物の「意識レベル」にも強く依拠しています。

人間を殺すことは、動物を殺すことに比べてはるかに強い結果をもたらします。

これはHow to Evaluate Weights of Different Kammaで説明されています。