aniccaを気づき続ける方法   sampajāno

 

 

ātāpī sampajāno satimā

 (ardent with awareness of mind and body at the level of sensations and with constant thorough understanding of anicca).

 

 

 

 

 

anicca saññāをマインドに沈めるためには、aniccaの自然を自分の人生の実例で熟考する必要があります。

 

「自分の満足のためにこの世で何かを維持することはできない」

しかし、一度言われたら、その声明を的確に評価するだけでその真実を見ることは難しくありません。 

自分が満足できるものを何でも維持できるなら、それは自分の体とマインドもそうでなければなりません。:「これは私の体であり、これらは私の考えだ」。したがって、自分の心身を熟考することから始めなければなりません。

 

 

アーナパーナ瞑想してみたらすぐにわかります。自分のマインドをあまりにコントロールできない実情にびっくりして呆れるでしょう。

 

 

3.目を閉じて、何か、あなたの妻、夫、友人、家、何でもマインドに留めてください。ある特定の時間、1つの主題についての考えを維持できますか?

•それを行うことはできません。私たちのマインドは、「より魅力的な思考」を求めて、さまようことを好みます。たとえば、魅力的な物体を見たとき、または何か精力的なことをして、激しく呼吸しているとき(最初のケースでは、kamaccandanīvaranaが強く、 次のケース、uddaccanīvaranaすなわち「興奮性」が高い)。

•したがって、心が落ち着いているときは、心を何かに留めるのが少し簡単ですが、それでも長くは続きません。

 

 

4.これらの例について自分で確認することが重要です。仏法は、単に読むだけでなく、経験することです。

•「仏が言ったことは本当に真実であることを自分自身で確認する」ことによってのみ知恵を培うことができます。盲目の信仰は、誰も真実に近づきません。したがって、真の瞑想とは、真の純粋なDhammaを学び、自分の経験に基づいて的確に評価することです。

 

5.自分の心を思い通りに保つことができないことを確認したら、次のステップは自分の体を好きなように維持できるかどうかを考えることです。

•身長、肌の色、髪の毛などの基本的な身体の特徴を変更できないことは明らかです。 。したがって、大部分は、生まれた身体と一緒に生きなければなりません。

 

6.次に、私たちが現在持っている身体を考え、その外観が気に入ったら、そのようにそれを維持できるかどうかを確かめます。

•もちろん、特に若い場合は、しばらく維持を行うことができます。しかし、それができない時が来ることは避けられません。自分の両親や祖父母を見ることで、その古い写真を見て、彼らがあなたの年齢だったときに元気で若くて活気があったことを確認できます。

•したがって、長期的には満足できるように「自分自身」と見なすものでさえ維持することができないという事実を熟考する必要があります。これは、「aniccasaññā」を大幅に育成するためです。

事前に「人生における不可避なもの」について考えておいたほうがよいでしょう。

 「優雅な死」と呼ばれるようなものはありません。部外者には「人は優雅に老化している」ように思えるかもしれませんが、本人は、たとえ通常の健康状態であっても、それがどれほど難しいかを知っています。昔やったように物事を行うことができず、感覚の喜びも前と同じレベルで楽しむことはできません。すべての感覚能力は時間とともに低下します。

 

私たちは感覚の楽しさ(つまり楽しいものを手に入れる)を満喫することに忙しいのです、このよう

 

 

 

 

9.釈尊は、私たちがこの世界に戻ってくる理由は、「この不満足な性質」を認識していないという事実だと説明しました。どんなに苦しんでも、私たちは常にそれらを乗り越えることができると考えています(そして、時にはそれを行いますが、最後には全員が死にます)。どういうわけか「このシステムを打ち負かす」、つまりこの世で幸福を達成し、その幸福を維持できるという誤った認識を持っています。間違った「nicca saññā」があります

•彼は、この「nicca saññā」がある限り、将来の苦しみから逃れることはできないと言いました。解決策は、苦しみに関する最初の真実(Dukkha Sacca苦諦、解消できる苦しみ)に組み込まれています。私たちがする必要があるのは、長期的に見れば何事も満足できるように維持することができないという、この世のanicca natureを完全に理解することです。

•ほとんどの人が気付いていないという事実は、ただの知覚の変化によって運んできた重い荷物を持ち上げているにすぎないことです。これが「nirāmisa sukha」の基本です。

 

 

 

10.この間違った「nicca saññā」があるとき、私たちは喜んでこの世を受け入れます、そしてそれは「paticca」です(「pati+icca」、「pati」は拘束、「icca」は喜んで意味します)。それが起こると、「samauppāda」(「sama」は同様(similar)で、「uppāda」は出生(誕生)を意味します)は必然的に続きます。

 

出生は、自分の考え方の重要な一面である「gathi」に従っています。欲張りすぎると、「空腹の幽霊」の世界に生まれるかもしれません。過度に怒りや憎しみがあれば、その考え方が普及している場所、すなわちniraya (地獄)で生まれます。

別の言い方をすれば、間違った「nicca saññā」を持っている場合、感覚的な喜びを得るために不道徳なことをする傾向があります。それから、それらの因果kamma vipākaは、この人生と将来の人生の両方において、より悪い存在につながります。

 

そのような出来事を努力して止められる場合は、その努力の結果である「冷静さ」の素晴らしさを振り返って見ることができます。これが「Ānāpāna」または「Satipatthāna」のすべてです。

 

•ところで、kammavipākaは確実に起こるとは保証されていません。多くのkammavipākaは、条件を満たさないことで回避できます。

したがって、「気づきサティ」と一緒に生活するとき、そのような多くのkammavipākaは避けることができます。

 

12.これらを整理するにはいくつかの熟考が必要な場合がありますが、常に広い視野を見る必要があります。無知は「全体像」を認識していません。私たちは、その瞬間に識別されたもので衝動的に行動する傾向があります。しかし、「anicca saññā」を育むと、その傾向は弱まります。

•「気づきサティ」または「マインドフル」で行動することは、「この世界のaniccaの性質」にマインドフルであることです。これが「Ānāpāna」と「Satipatthāna」の両方の基礎です。

Nibbanaそして、(すなわち)「冷静さ」は、「anicca saññā」を育むことにより、まさにこの人生において経験することができます。

“.

aniccaは「満足できるものを何も維持できない」ことを意味するかもしれません。そして、与えられた例から、その声明の真実を見ることができます。しかし、それはほんの始まりです。 aniccaとは何かを知らされたばかりです。Sōtapannaの舞台にたどり着くには、「智慧をもってそれを見る」必要があります。これは、「dassanena pahathabba」すなわち「物事をあるがままに見始める」と呼ばれるものです。

•「anicca saññā」を開発する必要があります。マインドは、aniccaが意味するものの本質または正しい認識を把握する必要があります。本の知識は一つのことであり、「マインドでそれをつかむ」ことはもっと深いものです。

 

4.釈尊は、「この世界」についての私たちの「saññā」(時には幸福を提供できるものもある)は「vipareetha saññā」、つまり歪んだ、または間違った認識であると言いました。 31の領域での再生プロセスを注意深く調べると、長期的にみると、その誤った認識が、ほとんどの苦しみをもたらしています。

•この世界の「aniccaの性質」をある程度理解すると、間違った認識が変わります。それが、この世界を「Samma Ditthi」すなわち「正しい見解」で本当に見る時です。 こうしてSōtapannaになります。

 

Anicca – True Meaning“.

 

 

aniccaとは私たちが長期にわたって満足して維持できるものは何もない」ことです。

次に、実生活のあらゆる機会にこの概念の妥当性のチェックを開始する必要があります。

•またaniccaは単に「私たちが長期的に満足のいくものを維持できないこと」ではありません。aniccaのこの特徴のために生じる他の多くの含意があります。釈尊がaniccaを「atteeyathi」という語句でも表しました。つまり、「肉のない骨を噛む犬のようなもの」です。犬は骨を非常に高く評価して、その「味」を大切にします。しかし、その骨には本当の味すらありません。それはマインドによって作られた味で、時々、その歯茎が出血し始め、犬自身の血を味わっているのかもしれません。

 

これが「atteeyathi」です。メンタルな満足を得るために絶えず乾いた骨を噛んでいて、やがて疲れてしまう犬のように。これを私たちは生涯続けてきました。(人間の領域で生まれた場合)。多くの人々は最終的に老年期にこれを認識しますが、それについては何とかするには遅すぎるかもしれません。

•年をとると、そのような活動から喜びを引き出す能力が低下します。若くして人生を楽しんでいた友人、親戚、両親、または祖父母がいて、今は苦しい状況にある場合、長年にわたって彼らに何が起こったかを簡単に見ることができます。今、彼らはそれらのすべての活動をしようとするエネルギーを持っていません、そして、たとえある程度行ったとしても、彼らの感覚能力は、多くの感覚の喜びをもたらさない所まで低下しました。

•しかし、ほとんどの人はまだ若い頃の喜びについて考え続けています。これは、彼らに「何らかの形でそれらの経験を取り戻す」方法を模索するように促す場合さえあります。そして、それが失敗すると、うつ病が始まります。

 

 

9.マインドが「絶え間ない苦悩」の重荷を認識し、すべてに耐えても本当の利益がなかった時には、喜んで重荷を放棄して、マインドは自動的に切望を失い始めます。これは、「不要な愛着を放棄する」ための鍵です。The Incessant Distress (“Peleema”) – Key to Dukkha Saccaを参照してください。

 

したがって、すべてのタイプの苦しみは、最終的にaniccaが原因で発生します。

 

 

10.これらは、瞑想(または熟考)するための重要な概念です。これは本物のvipassanā bhāvanāです。

•しかし、少なくとも従来の5戒と「BIG EIGHT」を控えることを確実にすることが重要です。

killing, stealing, sexual misconduct, lying, gossiping, slandering, harsh speech, and getting “drunk” with not only drugs or alcohol but also with wealth, fame, power

 

そうでなければ、マインドはこれらの概念を理解するのに十分なほど落ち着かないでしょう。 「本の知識」と「anicca saññā の発展」の違いは、進むにつれて徐々に明らかになります。

•だから、Dhammaの概念を読んで、聞いて、熟考することが非常に重要です。これは、Saptha Bojjanga七覚支(ニッバーナに至る7つの要素)(dhamma vicaya調査)の一要素であり、vimansa と呼ばれるSatara Iddhipāda という優れた瞑想を得る力の1つです。概念が明確になると、anicca saññāが自動的に開発されます。

•そして、時間が経てば、それをよりよく理解できるようになります。自分の体の中で「感じ始め」ます。11. Magga Phala and Ariya Jhanas via Cultivation of Saptha Bojjanga

•これは、アラハンの境地に至るまでのプロセスです。アラハンの段階でのみ、aniccaを本当に理解していると言われています。

 

 

11.最後に、誰かが長い年月を費やし「無常」を瞑想しても結果がないのであれば、「anicca」の性質について瞑想するのに時間をかける価値があるのでしょうか。私が経験するところでは、正しいことをするのかどうかで大きな違いが生まれることを知っています。

•間違ったaniccadukkha, anatta(および間違ったānāpānasati bhāvanāと他のいくつかのこと)を熟慮するのに45年も費やしました。 ところがaniccadukkhaanattaの正しい解釈を知った最初のdēsanā(談話)が私の進歩を即座に変えたと本当に信じています。それは大きな効果でした。

•最終的に重要なのは、単に「良い気持ち」や禅定に到達することではなく、 apāyasで生まれるのに適した「gati」を除去したかどうかを認識することも重要です。したがって、人は自分の人生を振り返り、貪欲、憎しみ、無知を取り除くことで大幅な改善が見られるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

aniccaの多層体験

無常aniccaには多くの実感があります。

常に変化し続ける、というのはどのような体験なのでしょうか?

 

この世界を「見たくない」というのには底流にある「怒り」が具象化したものなので、そこには無常の智慧はない。

「俗世間の快楽は微々たるもので飽きてしまった。限界がわかったら無意味なものだ」というのが欲界の智慧。

「眼耳鼻舌身に依る喜びは限定されていて不自由で本当にばかばかしく無意味だ」という腑に落ちる納得が禅定の智慧

 

無常そのものを体験できなくても、概念だけを徹底的に叩き込んで、無上に基づいて考えるようになればそれはそれで智慧のある生き方になる。

無常の概念とは、この世のものは「生まれては、住まい、消え去っていく」性質であることを知ること。

実践では、ヴァイブレーションとは生まれて消えているということなので、振動の波の中で暮らす

 

体を構成する細胞は「生・住・滅」をくり返しています。

さらに、細胞を構成する分子はもっと早く、「生・住・滅」をくり返しています。

さらに、分子を構成する原子はもっと早く、「生・住・滅」をくり返しています。

さらに、原子を構成する素粒子はもっと早く、「生・住・滅」をくり返しています。

さらに、素粒子を構成するBhūtaはもっと早く、「生・住・滅」をくり返しています。

さらに、Bhūtaを構成するSuddhātthakaはもっと早く、「生・住・滅」をくり返しています。

さらに、Suddhātthaka を構成する四大元素はもっと早く、「生・住・滅」をくり返しています。

 

真理は「ある」でも「ない」でもなく、ただ「生・住・滅」である。

 

科学 計測できる世界

認識 各自が体験を再現できる世界

認識できる世界   大多数の人が体験を再現できる世界(身体・心的障害者は大多数には含まれない)

認識できない世界  特別な環境や訓練や性質を持っている人たちの体験は含まれない

事実 計測できる世界 + 認識できる世界

常識 認識できない世界を排除して、多数が認識できる世界だけの因果関係を基盤にして作った社会のルール

 

無常に関しての

概念とは、この世のものは「生まれては、住まい、消え去っていく」のが性質であることを知ること。

実践では、ヴァイブレーションとは生まれて消えているということなので、振動の波の中で暮らす

真理 「ある」でも「ない」でもなく、ただ「生・住・滅」である。体感するまでは信仰、もしくは指標。

   それを実体験で確認して体現するのがアラハンへの「道」

 

私  認識できない世界を排除しないで、認識できない世界の因果関係を熟慮して頭の隅に置いておく

   その因果関係が可能かどうかは瞑想と観照contemplationをして追体験を試みる

 

 

 

Sōtapanna道へのaniccaの理解  私説 足りないことを加えていく

前提はaniccaとは常に「生・住・滅」と変化し続けるのがこの宇宙の自然摂理であることを再認識する。

1歩目は「自分が望むことが保てるのは一時的なことで長期でみると維持することができない」ことを自覚して生きること。

2歩目は、31領域の輪廻転生の視点から、心も物質も結局は溶解していくもの、儚いもの、「ある」ではないもの、摑まえることができないもの、空しいもの、虚しいもの、流浪するものであることを認識して、そこでは何をやっても自分は無力であることを実感すること。

第3歩目は「わたし」を同化させていた体、心、五蘊、魂などから1つ1つ離れていくこと。

そして「実際にはこれまで信じていた「わたし」は「ある」ときもあり、「ない」ときもあり、「生・住・滅」と流れるエネルギーのことを「わたし」と呼んでいたんだ」と自覚すること。

4歩目は静穏な気持ちで物質と心の変化に気づき続け、自身がエネルギーの流れになることで、概念や一般名詞を基準にしなくても暮らせること。

5歩目はaniccaによる認識です。波動、つまり生まれては消えていくものを基準に感覚する生活を送る。

視覚では噴水の形は消え、一個一個の水しぶきを見て、

聴覚では鳥のさえずりは消え、音の点が拡がり、

味覚ではカレーの味は消え、スパイスと温度と歯ごたえと5味が拡がり、

嗅覚ではバラの香りは消え、甘さと仄かさと酸味と螺旋が拡がり、

触覚では一点のツボは消え、絶え間なく立ち上る無数の蠢きの箇所となり、

意覚では編集して統合することを止め、分解したあるがままとなる。

こうして、生じるあらゆる感覚は、無常の具体的な表れとなる。

6歩目は、生じるものは必ず消え去り、2度と再現されないという体験と、そこからくる強い確信。

これが道を歩き続ける推進力になる。

第7歩目は、・・・・・・・・・。

 

そして「わたし」(自意識)は涅槃nibbānaに瞬間的に戻ることを体感する。

瞑想するたびに新しくわかったことを付記していく。アラハンになるまで各段階のanicca体験があるので内容は徐々に深みを増していく。

 

自分の中で起こるすべてのことを意識すると同時に、変化することを理解してそれに反応しないように努めます。 これが真の智慧です。

自分自身の本質の理解であり、自分自身の奥深くにある真実を直接経験することによって達成される理解です。 これはブッダが「yathā-bhuta-ñāna-dassana」と呼んだもので、現実をありのままに観察することによって生まれる智慧です。 この智慧があれば、人は苦しみから抜け出すことができます。 起こるあらゆる感覚は、無常の理解を生み出すだけです。 すべての反応が止まると、渇望と嫌悪のサンカーラがすべて止まります。 現実を客観的に観察する方法を学ぶことで、人は自分自身に苦しみを生み出すのをやめます。

 

 

 

 

 

 

 

参考資料  Anicca-sanna

 

Anicca Saññā Sutta        The Discourse on the Perception of Impermanence | S 22.102/3:155-157

 

 

Anicca-saññā: Perception of impermanence, is defined in the Girimananda Sutta A.X. 60 as meditation on the impermanence of the five clusters of clinging:

Though, with a faithful heart, one takes refuge in the Buddha, his Dhamma-Teaching and the Sangha Community of Bhikkhus; or with a faithful heart observes the rules of morality, or develops a mind full of loving-kindness, far more advantageous is it if one cultivates the perception of impermanence, be it only for a moment A.X. 20. See A. VI, 102; A. VII, 48; Ud. IV, 1; S. XXII, 102.

References

Maha Thera NyanatilokaManual of Buddhist Terms and Doctrines, Buddhist Publication Society, first edition 1952.

 

 

'perception of impermanence', is defined in the Girimananda Sutta (A.X. 60) as meditation on the impermanence of the five groups of existence.

"Though, with a faithful heart, one takes refuge in the Buddha, his Teaching and the Community of Monks; or with a faithful heart observes the rules of morality, or develops a mind full of loving-kindness, far more meritorious it is if one cultivates the perception of impermanence, be it only for a moment" (A.X. 20).

See A.VI. 102; A.VII. 48; Ud.IV. 1; S.22. 102.

 

 

 

 

 

 

How to Cultivate the Anicca Saññā

It takes an effort to get the anicca saññā and get to the Sotapanna stage. Reading about the anicca nature is not enough.

Revised November 26, 2017; major revision June 28, 2022; revised August 25, 2022 (#1)

Acquiring Anicca Saññā Requires an Effort

1. Many people tell me, “I think I understand what anicca means. But then what?”.

 

anicca saññāの育成方法

anicca saññāを取得し、Sotapanna段階に到達するには努力が必要です。 aniccaの性質について読むだけでは十分ではありません。

 

 

anicca saññāを入手するには努力が必要

1. 多くの人が私にこう言います。 「aniccaが何を意味するかはわかると思うけれども、それでどうするの?」

 

anicca が何を意味するのかを少しでも理解できれば、それは大いに役立ちます。 そして、時間をかけて熟慮すれば、それは難しいことではありません。 Sotapannaは、aniccaの性質とanattāの性質を完全に理解しています。 次のステップは、dukkhaasubha(楽しみがない、不快)の性質を完全に理解することです。Vipallāsa (Diṭṭhi, Saññā, Citta) Affect Sakhāraを参照してください。 

Sotapanna Anugāmiには、aniccaanattāについてのdiṭṭhi vipallāsa(混乱)はないかもしれませんが、saññācitta vipallāsaはあるかもしれません。 したがって、時間をかけてanicca saññāを育成することが重要です。

aniccaについて読んで学ぶことと、anicca saññāを体験することは別のことです。 まず、saññāとは何かを理解することをお勧めします。Saññā – What It Really Meansを参照してください。

anicca saññāをマインドに定着させるには、自分の人生の実例を用いてaniccaの性質を熟慮する必要があります。

 

2. A Buddha must first point out the essential truth about this world, i.e., “that we cannot maintain anything in this world to our satisfaction.” But once told,  it is not difficult to see the truth by critically evaluating that statement.

If one CAN maintain ANYTHING to one’s satisfaction, that HAS TO BE one’s own body and mind: “This is my body, and these are my thoughts.” Therefore, one should start by contemplating one’s own body and mind.

 

2. 釈尊はまず、この世界についての本質的な真実、つまり「私たちはこの世の何ものも満足に維持することはできない」ということを指摘しました。しかし、一度語られてしまえば、その発言を批評的に考察することで真実を見ることは難しくありません。

 

人が満足のいくまで何かを維持できるとしたら、それは自分の体とマインドにちがいありません。「これは私の体であり、私の考えです。」 と。

したがって、自分の体とマインドを熟慮することから始めるべきでしょう。

 

The Mind – Can We Keep It the Way We Want?

3. Close your eyes and try to fix your mind on your wife, husband, friend, house, or anything else. Can you keep your thoughts on that one subject for any significant time?

Thus when one’s mind is calm, it is a bit easier to keep the mind on something, but still not for too long.

 

マインドを望みどおりに保つことができますか?

3. 目を閉じて、妻、夫、友人、家、その他のことに心を留めてください。 その 1 つのテーマについて、有意義な時間にわたって考えを持ち続けることができますか?

 

それは不可能です。 私たちのマインドは「より魅力的な思考の対象」を求めてさまよってしまいます。 たとえば、魅力的な物体を見たり、何か激しい運動をしたりしたときなど、マインドが興奮しているときは、さらに困難になることに気づくでしょう。 最初のケースでは、kāmacchanda nivarana が強力です。 後者の場合、呼吸は荒くなります。 どちらの場合も「興奮度」は高いです。

したがって、マインドが落ち着いているときは、何かに心を留めておくのが少し楽になりますが、それでもあまり長くは続きません。

 

4. It is essential to verify for oneself these examples. Buddha Dhamma is to be experienced, not just read.

One can cultivate wisdom only by “verifying for oneself that what the Buddha said is indeed true.” Blind faith will not get anyone close to the truth. Thus true meditation is to learn the true and pure Dhamma and critically evaluate it based on one’s own experiences.

 

4. これらの例を自分で検証することが重要です。 Buddha Dhammaはただ読むだけではなく、体験するものです。

 

人は「釈尊の言ったことが本当に真実であることを自分の目で確かめる」ことによってのみ智慧を養うことができます。 盲目的な信仰では誰も真実に近づくことはできません。 したがって、真の瞑想とは、真実で純粋なdhammaを学び、それを自分の経験に基づいて批評的に考察することです。

 

5. Once we confirm that one cannot keep one’s mind to the way one wants, the next step is to consider whether one can maintain one’s body the way one likes.

We cannot change our basic body features like height, the color of the skin or the hair, etc. Furthermore, if one is born blind or without a limb, there is nothing one can do about that. Thus to a significant extent, we have to live with the body we were born with.

 

5. マインドを思い通りに維持できないことが確認できたら、次は体を思い通りに維持できるかどうかを考えます。

 

身長、肌や髪の色など、体の基本的な特徴を変えることはできません。さらに、生まれつき目が見えなかったり、手足がなかったりした場合、それについては何もできません。 したがって、かなりの程度、私たちは生まれ持った体で生きなければなりません。

 

The Body – Can We Keep It to Our Liking?

6. Next, consider our body and see whether we can maintain it like that if we like that appearance.

Therefore, we need to see that we cannot even maintain things that we consider “our own” to our satisfaction in the long run. That is to help cultivate the “anicca saññā” to a large extent.

 

体を自分の好みに保つことができますか?

6. 次に体について考えて、その外見が気に入れば、その体を維持できるかどうかを考えてみましょう。

 

もちろん、特に若い場合は、しばらくの間はそうすることができます。 しかし、それができなくなる時が必ず来ます。 それは、自分の両親や祖父母を見ることで確認できます。彼らの古い写真を見て、彼らがあなたの年齢の頃にどれほど若くて活気に満ちていたかを確認してください。

したがって、私たちは、「自分のもの」と考えているものを長期的に満足に維持することさえできないことを理解する必要があります。 それは「anicca saññā」を大幅に育成するのに役立ちます。

 

The Truth Will Set You Free!

7. Contrary to those who believe that thinking along these lines is “depressing,” it can be liberating to realize the truth. Those who keep trying to “patch up one’s losing body assets” by artificial means end up “highly depressed” and even commit suicide. It is better to have thought about the “inevitabilities of life” ahead of time.

Each person dies helplessly at old age or dies unexpectedly of an accident or a significant illness. There is nothing that can be called “graceful death.” It may seem to outsiders that “one is aging gracefully,” but that person knows how hard it is, even if at average health. One cannot do things the way one did once, and one cannot enjoy any sensory pleasure at the same level. All our sense faculties degrade with time.

 

真実はあなたを自由にします!

7. このような筋道で考えることは「憂鬱」であると信じている人たちとは対照的に、真実を理解することは解放感をもたらす可能性があります。 人為的な手段で「失った身体の価値を埋め合わそう」と努力し続ける人は、最終的には「極度のうつ病」に陥り、自殺することさえあります。 「人生の必然性」については、事前に考えておいた方が良いでしょう。

 

十分に深く考えれば、そのような問題にどれだけお金を投じても、最終的には無力になることがわかります。 昔の映画スター、美人の女王、ボディビルダー、政治家、国王、皇帝などのことを考えてみて、彼らが最後にどうすることもできずに亡くなった様子を見てください。

人は誰でも、老衰でなすすべなく亡くなったり、事故や重篤な病気で予期せず亡くなったりします。 「優雅な死」と呼べるものはありません。 部外者には「美しく年を重ねている」ように見えるかもしれませんが、その本人は、たとえ平均的な健康状態であっても、それがどれほど難しいかを知っています。 本人はかつてやったように物事を行うことはできず、同じレベルで感覚的な喜びを楽しむこともできません。 私たちのすべての感覚機能は時間とともに劣化します。

 

8. This was the basic message of the Buddha, and it is not something he made up. He just revealed the truth about the nature of this world, which any average person would not think about themselves. We are too busy enjoying sensory pleasures (or trying to acquire enjoyable objects) even to think about it.

More importantly, he revealed a way to eliminate this cycle of births wrought with suffering.

 

8. これは釈尊の(経験した)基本的なメッセージであり、彼が(頭で)作り出したものではありません。 彼は普通の人ならば考えもしないこの世の性質の真実をちゃんと明らかにしました。

私たちは感覚的な喜びを楽しむ(または楽しい物体を手に入れようとする)のに忙しすぎて、それについて考えることさえしていません。

 

釈尊はまた、私たちが何かをしなければ、これが将来も永遠に続くことも示しました。 私たちは生まれ変わり、輪廻の同じサイクルを何度も何度も繰り返します。 この輪廻におけるほとんどの転生は、困難と苦しみがはるかに大きい下位 4 領域で行われるため、事態はさらに悪化します。

さらに重要なことに、彼は苦しみを伴うこの転生の繰り返しをなくす方法を明らかにしました。

 

We Have a Distorted (ViparītaSaññā About the World

9. The Buddha explained that we keep returning to this world because we don’t realize “this unsatisfactory nature.” No matter how much suffering we go through, we always think we can overcome them (and sometimes we do, but in the end, we all die). We have the wrong perception that somehow we can “beat the system,” i.e., attain happiness and MAINTAIN that happiness. We have the incorrect “nicca saññā“. It is not real nature. The Buddha called it “viparīta saññā.”

That does not mean one will give up trying to give up everything and go to a forest; see, “If Everything is Anicca, Should We Just give up Everything?“. One needs to spend time in actual meditation, which means always trying to “see the anicca nature” around.

 

私たちは世界について歪んだ(Viparītasaññāを持っている

9. 釈尊は、私たちがこの世に戻り続けるのは、「この世の満足できない性質」に気づいていないからだと説明しました。どれだけの苦しみを経験しても、私たちは常にそれを克服できると考えています(そして時々そうできることもありますが、最終的には誰もが死にます)。

私たちは、何らかの方法で「システムに勝つ」ことができる、つまり幸福を達成し、その幸福を維持できるという誤った認識を持っています。 この間違った「nicca saññā」を前提にして暮らしています。しかし、それはこの世界の本当の性質ではありません。 釈尊はそれを「viparīta saññā」(歪んだ概念)と呼びました。出典?

 

この「nicca saññā」がある限り、私たちは将来の苦しみから決して逃れることはできない、と彼は言いました。 解決策は、苦しみの最初の真実(Dukkha Sacca、取り除くことができる苦しみ)にあります。私たちがしなければならないのは、この世界の「aniccaの性質」、つまり「長い道のりの中では私たちは満足のいくまで何も維持できない」ということを完全に理解することです。

ほとんどの人は、認識を変えるだけで、それまで背負っていた重い荷物が軽くなるということに気づいていません。 そこに「nirāmisa sukha」(寂静とした楽、クールダウン)の基礎があります。Peace of Mind to Nibbāna – The Key Stepを参照してください。

だからといって、すべてを捨てて試すことを諦めて森へ行くこと、を意味しているわけではありません。

If Everything is Anicca, Should We Just give up Everything?を参照してください。

実際の瞑想に時間を費やす必要があります。それは、常に周囲の「anicchの性質を見る」ように努めることを意味します。

 

Saṁsāric Suffering Maintained With Nicca Saññā

10. When we have this wrong “nicca saññā,” we willingly embrace this world, and that is “Paṭicca” (“pati” + “icca,” where “pati” is bind and “icca” means willingly). When that happens, “sama uppāda” (where “sama” is similar and “uppāda” means birth) follows inevitably; see, “Paṭicca Samuppāda – “Pati+ichcha” +” Sama+uppäda.”

In other words, when one has the wrong “nicca saññā,” one tends to do immoral things to get what one perceives to provide sensory pleasures. Then vipāka of those kammā will lead to worse existences in the future, both in this life and, more importantly, in future lives.

 

Nicca Saññāで維持されるSasāricの苦しみ

10. この間違った「nicca saññā」を持っているとき、私たちは進んでこの世界を受け入れます。それが「Paicca」(「pati+icca」、「pati」は束縛、「icca」は喜んでという意味です)です。 そうなると、必然的に「sama uppāda」(「sama」は似ている、「uppāda」は誕生を意味します)が続きます。Paicca Samuppāda – “Pati+ichcha” +” Sama+uppädaを参照。

 

このようにして、私たちは自分が望んでいるあらゆる種類の「存在」に転生することになります。

しかしそれは、私たちが人間に生まれ変わることを切望すれば、それが得られる、という意味ではありません。 むしろ、転生は「gati」の視点から見ると、本人の考え方が重要になります。あまりにも貪欲すぎると「餓鬼」の世界に生まれるかもしれません。 過度に怒ったり憎んだりしていると、その考え方が蔓延する場所、つまりniraya(地獄)に生まれます。

言い換えれば、間違った「nicca saññā(幸福を達成し、その幸福を維持できるという認識)」を持っていると、感覚的な喜びをもたらすと思っているものを得るために不道徳なことをする傾向があります。 そして、それらのkammāvipākaは、今生においても、そしてより重要なことに来世においても、すなわち未来の悪い存在たちにつながるでしょう。

 

Necessary Background to Cultivate Anicca Saññā

11. As one cultivates the “anicca saññā,” one begins to stay away from the ten immoral actions more and more due to clear comprehension that such efforts are unfruitful.

By the way, kamma vipāka are not deterministic. One can avoid many kamma vipāka by not allowing conditions for them to take place; see, “What is Kamma? – Does Kamma determine Everything?“. Thus, when living with “sati,” many such kamma vipāka can be avoided.

 

anicca saññāを育成するために必要な背景

11. anicca saññā」を育むにつれて、そのような努力(幸福を達成し、その幸福を維持する)は実を結ばないという明快な理解のために、10の不道徳な行為からますます遠ざかり始めます。

 

他者を犠牲にしてお金を盗み100年しか続かない「良い暮らし」を手に入れることに何の意味があるのでしょうか? そして、それには利子をもつけて支払わなければならないでしょう。

一時的な満足のために他者を言葉で罵倒することが、最終的には自分自身を傷つけるだけであるとしたら(たとえ自分を奮い立たせておくだけであっても、後に降りかかるkamma vipākaは言うまでもなく)何の意味があるのでしょうか? このような出来事を止めることができれば、その努力によって生じた「クールダウン」を振り返り見ることができます。 それが「Ānāpāna」と「Satipaṭṭthāna」を実践する理由です。

誰かがあなたを物理的に傷つけたとしても、反撃することに何の意味があるのでしょうか? その人を傷つけることで、あなたは身体的に良くなるのでしょうか? その体の痛みは消えるのでしょうか? それも理由なく起こったわけではありません。 それは、いつか行われた悪いkammaの結果(kamma vipāka)です。

 

ちなみにkamma vipāka は決定的なものではありません。 kamma vipākaの多くは、そのような条件が発生しないようにすることで避けることができます。What is Kamma? – Does Kamma determine Everything?を参照してください。したがって、「sati(感覚とanicchaへの気づき)」とともに生きるとき、そのような多くのkamma vipākaを避けることができます。

 

Mindfulness – Be Mindful About the Anicca Nature

12. It may take some contemplation to sort these out, but one must look at the broader picture. Ignorance is not being aware of the “whole picture.” We tend to act impulsively by reacting to events. But that tendency will diminish when one cultivates the “anicca saññā.”

 

マインドフルネス – aniccaの性質に注意を払う

12. これらを整理するには少し熟慮がいるかもしれませんが、より広い視野で世界を見る必要があります。

無知とは「全体像」(短期ばかりではなく長期の視点)を認識していないことです。 私たちは出来事に反応して衝動的に行動する傾向があります。 しかし、「anicca 常に変化し続ける性質への理解」を育むと、その傾向は薄れます。

 

sati」すなわち「マインドフルであること」で行動するとは「この世界のanicchな性質」を意識することです。 それは「Ānāpāna」と「Satipaṭṭthāna」の両方の基盤です。

Nibbānaすなわち「クールダウン」は、まさにこの人生において「anicca saññā」を養うことによって経験することができ、それによってさらに努力する動機が与えられます。 Living Dhammaを参照してください。

 

 

 

How to Cultivate the Anicca Saññā – II

Saññā is normally translated as “perception”, but it has a much deeper meaning. Learning about anicca is the first step, but cultivating anicca saññā is critical.

Revised November 26, 2017; June 29, 2022

Saññā – What Is It?

1. Saññā is normally translated as “perception”, but it has a much deeper meaning; see, “Saññā – What It Really Means.“ Anicca saññā has many different aspects, and in this and the next post, we will discuss some of these deeper aspects; see the link at the end of this post.

 

anicca saññāの育て方  II

saññāは通常「知覚」と訳されますが、もっと深い意味があります。 aniccaについて学ぶことが最初のステップですが、anicca saññāを育むことが重要です。

 

saññā – それは何ですか?

1. Saññā は通常「知覚」と訳されますが、もっと深い意味があります。Saññā – What It Really Meansを参照してください。anicca saññāにはさまざまな側面があります。今回と次回のトピックでは、これらのより深い側面のいくつかについて説明します。 このトピックの最後にあるリンクを参照してください。

 

これらを読むと、anicca が「満足に何かを維持できないこと」を意味することが理解できるかもしれません。 そして、挙げられた例から、その言葉の真実性がわかります。 しかし、それはほんの始まりにすぎません。 aniccaとは何なのかを知らされたばかりです。 さて、Sotapannaの段階に到達するためには、人は「智慧をもってそれを見る」必要があります。 これは、「dassanena pahātabba」すなわち「物事をありのままに見始める」または「Yathābhūta Ñāa」と呼ばれるものです。

cf.  dassanan[Skdarśana]  見ること   pahātabba 排除される必要があるもの

 

anicca saññā」を育成する必要があります。 マインドはaniccaが意味するものについての正しい認識の本質を把握する必要があります。 本の知識もありますが、「マインドでそれを把握する」ことはさらに奥が深いのです。

Sotapannaの段階に到達するには、歪んだ見解 (diṭṭhi) と歪んだsaññāの両方を取り除くことが必要です。Vipallāsa (Diṭṭhi, Saññā, Citta) Affect Sakhāraを参照。

これは、その問題に関する 2 つのトピックのうちの 2 番目です。 前回のトピックで、私たちは、自分だと思っているもの、すなわち自分の体と自分の思考を満足に保つことは不可能であることが分りました。

How to Cultivate the Anicca Saññāを参照してください。

 

Knowing About Something – Different Levels

2. When contemplating external objects, there are many “levels of saññā“: the more one KNOWS about a given object, one tends to cultivate a “better saññā” about it.

 

何かについての知識 – さまざまなレベル

2. 外部の対象について熟慮するとき、「saññāのレベル」は多層にわたっています。対象について知識が増えるほど、「より良いsaññā」を育む傾向があります。

 

この重要な違いを説明するために例を挙げてみましょう。リンゴを見たことのないアマゾンのジャングルから来た人にリンゴを見せたとします。 彼にはそれが何なのか分からないでしょう。彼にリンゴを持たせて「リンゴ」という言葉を教えると、彼はリンゴが何であるかを分りますが、もう一度リンゴを見せられたときに「それはリンゴ」だと言う意味でのみです。 彼はリンゴがどんな味なのかまだ知りません。 彼はリンゴの味を知るためにリンゴをいくつか食べなければなりません。 彼は、よりおいしい「熟したリンゴ」を識別する方法などをまだ知りません。彼が「熟成」のさまざまな段階、さらには異なる品種のリンゴを経験することでリンゴという一般名詞を理解することができます。

リンゴについて本当に理解するには、リンゴのさまざまな側面をすべて経験する必要があります。 そうして初めて、人はリンゴをイメージし、それを持つとどんな感じがするのか、どんな味がするのかなどを知ることができるのです。そうなると「一般名詞のリンゴ an apple」という言葉を聞くと、その人のマインドには経験したすべてのリンゴが瞬時に思い浮かびます。

 

 

3. In another example, if we see someone at work regularly at a distance, we can recognize him as X if we meet him at the market. But we would not know much ABOUT him. However, if we get to associate with him and start doing things together, pretty soon we will know much more about him.

 

3. 別の例では、職場である人を遠くから定期的に見かけた場合、その人と市場で会った時にX だと認識できます。 しかし、彼についてはあまり知りません。 しかし、彼と付き合い始めて、一緒に何かを始めれば、すぐに彼のことをもっともっと知るようになるでしょう。

 

その時点になると、彼の姿を垣間見ただけで、彼のすべてのことが頭に浮かびます。 望めば、彼には何人の子供がいるのか、どこの学校に通ったのかなどを思い出すことができます。

したがって、「saññā」にはさまざまなレベルがあります。人や何かと関わることが増えれば増えるほど、その人や概念に対する私たちの「saññā」は成長していきます。

しかし、私たちの人物 X についての「saññā」は実際には正しくない可能性があります。 ある日、警察がXが児童虐待を行っている証拠ビデオを発見し、疑いの余地がないことが判明したとします。その瞬間、私たちの「saññā」、つまり X に対する認識は永久に変わります。 私たちはもう彼を子供たちにさえ近づけさせません。

 

Viparīta Saññā – Distorted Perception of This World

4. The Buddha said our “saññā” about “this world” — that it can provide happiness — is a “viparīta saññā” (pronounced “vipareetha), i.e., it is a distorted or wrong perception. If one carefully examines the rebirth process in the 31 realms, that wrong perception has provided us with the most suffering in the long run.

 

Viparīta Saññā – この世界の歪んだ認識

4. 釈尊は、「この世」についての私たちの「saññā」、それが幸福をもたらす可能性のあるものでも、それは「viparīta saññā」つまり、歪んだ、すなわち間違った認識であると言われました。 31 領域における輪廻転生のプロセスを注意深く観察すると、その間違った認識が長期的には私たちに最大の苦しみを与えます。

 

この世界の「無常性」をある程度理解すれば、間違った認識も変わるでしょう。 それは、人がこの世界についての「Sammā Diṭṭhi」、すなわち「修復された(余分なものを除去した)ビジョン(見解)」を本当に見るときです。 こうして人はSotapannaになります。

魚が「隠された釣り針」に気づかず、おいしい虫を呑み込み、耐え難い苦しみを受けるのと同じように、私たちは通常、「おいしい物質的なもの」に隠された苦しみを「見る」ことはありません。 魚には決してそれを理解することはできませんし、普通の人である私たちも自分自身でそれを理解することはできません。

それを理解できるのは釈尊だけであり、そのことを教えることができ、私たちは時間をかけて熟慮することでそれを理解することができます。

 

5. Therefore, one should not be discouraged if one does not even realize “what the big deal is” about anicca. Like everything else, understanding comes with repeated application and thinking about it. If one can see that “it makes sense” to say, “anicca describes the inability for us to maintain anything to our satisfaction in the long term” that is a good start. Then one should start checking the validity of that concept at every opportunity in real life.

Various aspects of anicca are discussed in: “Anicca – True Meaning“.

 

5. したがって、aniccaについて「何が重要なのか」さえ理解できなくても、落胆する必要はありません。 他のすべてのことと同様、繰り返し応用して考えることで理解が深まります。「anicca は、長期的には満足のいくものを維持することができない」と言うのは「理にかなっている」ことがわかれば、これは良いスタートです。 そして、実生活のあらゆる機会にその概念の妥当性をチェックし始める必要があります

 

また、aniccaは単に「長期的に満足のいくものを維持できないこと」ではありません。 aniccaのこの特性により、他にも多くの影響が生じます。 釈尊がaniccaを説明した別の方法は、aṭṭiyati (aṭṭeeyath) という用語を使用しました。 つまり、「犬が肉のない骨を噛んでいるようなもの」です。 犬は骨をとても大切にし、その「味」を大切にします。 しかし、その骨には本当の味さえありません。 それはマインドが作り出す味ですが、時には歯茎から出血し、自分の血の味を感じることもあります。

aniccaのさまざまな側面については、Anicca – True Meaningで説明されています。

 

6. Just like a dog will spend hours and hours chewing its “highly valued” bone, we also give much value to sense pleasures that are fleeting in nature. We do get brief instances of real pleasure, but we do not realize the effort and suffering that we go through to get that brief sense of pleasure. Most of the time, the pleasure is a “pleasure of anticipation”. We trudge through hard work with the mind cheering on showing the “possible pleasures to be had”.

 

6. 犬が「貴重な」骨を何時間もかけて噛むのと同じように、私たちも自然の中でつかの間の喜びを感じることに多くの価値を置いています。 私たちは本当の喜びをつかむ瞬間はありますが、そのつかの間の快感を得るためにどれほどの努力と苦しみを経験しているかには気づいていません。 ほとんどの場合、その喜びは「期待の喜び」です。 私たちは「得られる可能性のある楽しみ」を見ることで心を励ましながら、大変な仕事を乗り越えます。

 

釈尊はこれを(その昔時代に)目の前の藁に向かおうと重い車を熱心に引きずる牛に喩えました。 目の前の「賞品」のことだけを考えているため、努力の無駄に気づきません。 重荷を感じず、あるいは感じていてもその苦痛を無視して「あと少しの報酬」を期待しています。平均的な人間の考え方とそれほど変わりはありません。

私たちに生じる喜びのほとんどは長く続くものではなく、「火」すなわち苦痛を単に鎮めることです。 水は喉が渇いたときに一番おいしく感じます。 喉がとても渇いたときにどう感じたか考えてください。 最初の一口の水は天国のようでした。 しかし、水を飲む量が増えて喉の渇きが減ると、「快感」も減っていきます。せいぜい2杯飲むと、「快感」は不快感に変わります。 

 

Unseen Drawbacks of Sensory Pleasures

7. The same thing applies to any of the sense pleasures. We are constantly under pressure from the mind to “provide relief to one or another sense faculty”; this is “dukkha dukkha that we discussed elsewhere. If we have not eaten anything for a while, we get the urge to eat something tasty. If we have not listened to some good music for a while, that urge kicks in. If you think about any sensory pleasure, this is true.

 

感覚的な喜びの目に見えない欠点

7. 同じことが感覚的な喜びにも当てはまります。 私たちは常に、「何らかの感覚機能を解放しなければならない」というマインドからのプレッシャーにさらされています。 これは、別の場所で説明した「dukkha dukkha」です。 しばらく何も食べていないと、おいしいものが食べたいという衝動にかられます。 しばらく良い音楽を聴いていないと、その衝動が湧き上がります。感覚的な喜びについて考えてみると、これは真実です。

 

多くの人はセックスを非常に高く評価しています。 しかし、その喜びをどれだけ長く続けることができるでしょうか? 性的快感のほとんどは、それについて考えるだけで得られます。 それはほとんどがマインドが作ったものです。これについては注意深く考える必要があります。 「空想」に費やす時間と「実際のセックス」にどれくらいの時間を費やしますか?

この世で一番美味しいものを食べても、お腹がいっぱいになると美味しくなくなります。 しかし、私たちはその後もその食事を何度も食べたときの「素晴らしい経験」を思い出し続けます。 すると、もう一度食べたいという衝動が生まれます。

この「物足りなさ」、さらには「何かが足りない」という感覚が「aṭṭiyati」です。 犬は骨を噛むのに飽きて放っておいてしまうかもしれませんが、しばらくすると衝動が戻ってきて再び噛み始めます。

 

8. Even if we are fully content and lying on a comfortable couch, we may get a “feeling of unfulfillment”, that something is “missing”. We then get the idea, “to go and watch a movie” or to “drop by a friend’s place to chat”. Then we have to get in the car and drive there. We do not even feel the burden associated with getting dressed and driving because our minds are focused on the pleasure of “watching the movie” or “having a good time with a friend”. And after that session, we have to drive back and if it was a bad movie we might even get a bit depressed.

 

8. たとえ完全に満足して快適なソファに横たわっていても、何かが「欠けている」という「満たされない感覚」を感じることがあります。 そして、「映画を見に行く」または「友達の家に立ち寄ってチャットする」というアイデアが浮かび上がります。 それから車に乗ってそこまで運転しなければなりません。 私たちは「映画を観る」「友人と楽しい時間を過ごす」という楽しみに意識が集中しているため、着替えや運転に伴う負担さえ感じません。 そして、その後、車で家に戻らなければなりませんが、もしそれがひどい映画だった場合、私たちは少し落ち込むことさえあるかもしれません。

 

これが「aṭṭiyati」です。 メンタルの満足感を得るために乾いた骨をひっきりなしに噛んでいる犬がやがて疲れてしまうのと同じように、(人間の領域に生まれた場合は)私たちが来世でもやっていることです。 多くの人は年をとってからこのことに気づきますが、そのときは何もすることができず手遅れになる可能性があります。

年をとるにつれて、そのような活動から喜びを得る能力は低下します。 若い頃は人生を楽しんでいたのに、今は悲惨な状況にある友人、親戚、両親、祖父母がいる場合は、彼らに長年にわたって何が起こったのかを容易に理解できます。 現在、彼らにはすべての活動のエネルギーはなく、たとえある程度できたとしても、感覚機能は感覚的な喜びをあまり提供できない地点まで低下しています。  

しかし、ほとんどの人は今でも、若い頃に味わった楽しみを思い出し続けています。 このため、「なんとかしてその経験を取り戻す」方法を模索するようになることもあります。 そしてそれが失敗するとうつ病が始まります。

 

Yathābhūta Ñāṇa – Removal of Viparīta Saññā

9. As the mind realizes the burdens of the “incessant distress”, and that one has endured all that for no real benefit, it will gladly give up those burdens and the mind will start losing those cravings automatically. This is the key to “giving up unnecessary attachments”; see, “The Incessant Distress (“Pīḷana”) – Key to Dukkha Sacca“.

 

Yathābhūta Ñāa  Viparīta Saññā(間違った、すなわち歪んだ認識) を削除する  

viparīta[adj] reversed changed wrong  逆転している、間違っている

 

9. マインドが「絶え間ない苦痛」の重荷を認識し、そのすべてに何のメリットもなく耐えてきたことに気づくと、喜んでそれらの重荷を手放し、マインドは自動的にそれらの渇望を失い始めます。

これが「不要な執着を手放す」ための鍵です。

 

The Incessant Distress (“Pīana”) – Key to Dukkha Saccaを参照してください。

そのトピックでは、aniccaが私たちが大切にしているものに予期せぬ「変化」を必然的にもたらしたときに、私たちがどのように苦しみに遭遇するかについて説明しています。 これはviparināma change mind 心変わりdukkhaです。viparināma dukkhaによる影響をより多くのsakhāraを作成する言動で克服しようとすると、さらに苦しみに遭遇します。それがsakhāra dukkhaです。 そして、「悪いタイプのsakhāra」すなわちapunnābhi sakhāraを行うと、直接的な苦しみ、すなわち「dukkha dukkha」の耐えられない領域での輪廻転生につながります。 したがって、あらゆる種類の苦しみは最終的にanicchaによって生じます。 

 

10. Those are key concepts to meditate on (or contemplate). This is real vipassanā bhāvanā.

 

10. これらは瞑想(または熟慮)すべき重要な概念です。 これが本当のvipassanā bhāvanāです。

ただし、少なくとも従来の 5 つの戒め、場合によっては2. The Basics in Meditationで説明した「ビッグエイト」を自制することから始めることが大切です。そうしないと、これらの概念を理解できるほどマインドは冷静になれません。

「本の知識」と「成長するanicca saññā」の違いは、読み進めるにつれて徐々に明らかになるでしょう。

だからこそ、Dhammaの概念を読み、聞き、熟慮することが非常に重要なのです。

これはSaptha Bojjhaga (dhamma vicaya)の構成要素の 1 つであり、vīmaと呼ばれるSatara Iddhipāda 1 つです。 概念が明確になると、自動的にanicca saññāは成長します。

 

vīma觀:[f] experiment investigation  観慧,思察,審察,思量,思惟the fourth of the Iddhipādas

観察つまり、感知して吟味すること。

この力が強いと、言葉の限界や概念の問題、つまり哲学がすぐに解明できるようになる。

相手の良い点と欠点が的確に分かるようになる。

vīmasatiになる可能性もあるが、心所は智慧paññā 

 

Satara

iddhipāda[m] basis of psychic power 神足

Cattāro iddhi-pādā chandiddhi-pādo  viriyiddhi-pādo cittiddhi-pādo vīmasiddhi-pādo.

意欲という神足、精進という神足、心という神足、という神足

 

 

そして時間が経つにつれて、それをよりよく理解できるようになります。 人は自分の体の中で何かを「感じ始める」でしょう。11. Magga Phala and Ariya Jhanas via Cultivation of Saptha Bojjhagaを参照してください。

これはアラハンの段階に至るプロセスです。 aniccaはアラハンの段階になって初めて真に理解できると言われています。 しかし、ここでの私たちの目標は、少なくともSotapannaの段階に到達することです。 そして、上のトピックで私自身の経験で述べたように、それはまさにこの人生で実行できるのです。

 

Not Just Impermanence – Anicca Is Much Deeper

11. Finally, if anyone has spent long times — may be years — meditating on “impermanence” without results, it would be worthwhile to spend some time meditating on the “anicca” nature. I know by experience that will make a big difference if one does it right.

 

 

無常だけではない - aniccaはもっと深い

11. 最後に、もし「無常」について瞑想(熟慮)しても結果が出なかった人がいるなら、「anicch」の性質について瞑想することに(何年もかかるかもしれませんが)時間を費やす価値はあるでしょう。 私の経験から、正しく行えば大きな違いが生まれることを知っています。

 

私は間違ったaniccadukkhaanattā (そして間違ったānāpānasati bhāvanāなど) について4 5 年も熟慮していました。 aniccadukkhaanattāの正しい解釈を私に見せてくれた最初のdēsanāが私のこの世の理解と瞑想の進歩を瞬時に変えたと心から信じています。 それは深い影響力でした。

また、最終的に重要なのは、単に「良い感情」を持っていることやjhānāsに到達することでさえもなく、apāyāに生まれるのに適した「gati」を取り除いたかどうかです。

したがって、自分の人生を振り返ってみることで、貪欲、憎しみ、無知を取り除く上で大幅な改善が見られるはずです。Transition to Noble Eightfold Pathを参照。