四念処

: cattāro satipaṭṭhānā, チャッターロー・サティパッターナー)

仏教における悟りのための4種の観想法の総称。

四念処観(しねんじょかん)、四念住(しねんじゅう)とも言う。三十七道品の中の1つ。

 

釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である。

 

パーリ語経典においては、『大般涅槃経』等で繰り返し言及される他、以下でも、詳しく説かれている。

『大念処経』(大念住経、長部第22経)

『念処経』(四念処経、中部第10経)

 

内容

身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)

受念処(受念住) - 一切の受は苦(ドゥッカ)であると観ずる(一切皆苦)

心念処(心念住) - 心(チッタ)の無常を観ずる(諸行無常)

法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)

 

 

四念住の止観という観点からの位置づけ

-

分別説部

説一切有部

経量部

 

無畏山寺派(法喜部)

大寺派(上座部)

 

身念住

止観

 

受念住

止観

 

心念住

 

法念住

 

これら部派において共通するのは最後の法念住をこそ観であると見ていたことで、それ以外については各部派相違しています。

では、なぜ、法念住をもって観とするのか。

それは諸々の事象・ものごとの無常・苦・空性・非我を全く現観するのが、縁起せる諸々の事象を全く明らかにしえるのが、法念住においてだからこそです。

ここにおいて「法を見たもの」「如実知見」した者が、声聞乗でいうところの四双八輩の最初たる預流果(須陀洹[しゅだおん])、菩薩乗でいうところの不退転(阿毘跋致[あびばっち])といった聖道に入り、ついには悉地を得るためです。

ところで近年、ビルマ発のヴィパッサナー・ムーブメントとでも呼称すべき、「ヴィパッサナーだけで良い」「ヴィパッサナー(観)の瞑想こそ修めるべきで、サマタ(止)の瞑想は不要でむしろ時に害毒」などといった、仏教の瞑想についての見解を持つ一類の人々が、世界中にあるようです。

そして、そのような人々の中には、「四念住は観の修習法である」「仏教の瞑想とは純粋なヴィパッサナーだけである」などと考え、人にそう教えている者らがあるようです。

確かに、いま上に示したように、これは分別説部大寺派(上座部)の見解などではなく、説一切有部によるものですが、「一応」四念住をもって観の修習であるとする見解はあります。しかしながらそれも、すでに上に示したように、ただちに「四念住=観」とされるのでは決してありません。

一概にあるいは一面的に、止と観とをまったく別個のものとして断定し、それぞれ切り離して実践するような仕方がそもそも誤っているとも言えるのですが、諸部派によってその理解が異なっていることを承知した上であえて言うならば、四念住とはいわゆる止観双運・止観双修の修習法です。

実に、仏陀によって開示された菩提への道、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八正道[はっしょうどう]のうちの正念とは、まさしくこの四念住を意味するものに他なりません。

正念とは、俗間の僧職者や学者がもっともらしく説明するような、「正しい念い」などといった漠然として抽象的ものではなく、上に示した如きまったく具体的修習法なのです。

 

 

 

 

 

「四念処 法の観察」 スマナサーラ長老法話

 

眼耳鼻舌身意について(2016年東京ウェーサーカにて)

 

http://www.ustream.tv/recorded/86877225 (期間限定公開動画)

 

 

 

ヴィパッサナー冥想は四念処経に基づいてやるんですね。

 

そこで、身・受・心・法という、体を観察する・感覚を観察する・こころを観察する・ありのままの真理を観察する、という方法ですね。これは歩く冥想などなどによって、自動的にこころが成長して、それぞれのステージに行くんです。無理やってもあんまり意味がないんです。

 

しかし、なかなか進まない場合は、同じヴィパッサナー冥想を、ちょっとサマタ方法に入れ替えて訓練するということもあります。

それで法の観察が四番目なんですね。一番智慧がある人々がやるセクションで、いくらかサマーディ冥想にも入るようにと紹介したいと思います。

 

「わたし」というのはどうやって自覚が生まれるのかというと、眼耳鼻舌身意という感覚器官の働きなんです。

別に「わたし」がいるわけじゃないんです。この感覚器官六つの働き方によって、虹みたいな感じで、蜃気楼のような感じで、見えてくるんですね、「自分」が。

暑いときに、あるカラクリがあって蜃気楼が見えるんであって、蜃気楼自体が実在するわけじゃないんです。カラクリがあって目の錯覚が起こる。

それで、眼耳鼻舌身意、六つ。それはこういうふうに観察します。

これから言う言葉の意味を理解して、冥想だということで、丁寧な気持ちで唱えてください。

 

まず、眼。

 「眼」この眼は変化するもので無常です。

この眼はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものではありません。

わたしのものにならない眼に執着しないように励みます。

 

眼に入る色(しき)という見える対象は、変化するもので無常です。

眼に入る色(しき)という見える対象は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない眼に入る色(しき)という見える対象に、執着しないように励みます。

 

眼に見えるものが触れることによって、眼の感覚が生じます。

眼の感覚は変化するもので無常です。

眼の感覚はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない眼の感覚に執着しないように励みます。

 

眼の感覚から眼識(がんしき)が生じます。

この眼識は変化するもので無常です。

この眼識はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない眼識に、執着しないように励みます。

 

眼識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。

この眼識から生じる煩悩は変化するもので無常です。

この眼識から生じる煩悩はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならないこの眼識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

(「眼」の章おわり)

 

「眼はわたしではありません」。六つの器官をまとめて、「わたし」という錯覚が生まれる。それを自分に言い聞かせちゃうんですね。「眼に見える対象も、わたしではありません」「わたしのものでもありません」。

眼は「わたしの眼」とは言えないんですね。眼は眼の勝手です。わたしに管理できない。だから物があったら眼識が勝手に生まれるんですね。「わたし」には赤いものを黄色いとみることができない。

だから、わたしの管轄外だから。管轄外のものは「わたしもの」じゃないでしょう。

そうやって感覚が、煩悩が、思考妄想が、生まれる。思考妄想も、そのように勝手に、無常で、「わたしではありません」と捨てちゃいますね。

 

次は「耳」です。

「耳」この耳は、変化するもので無常です。

この耳は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない耳に、執着しないように励みます。

 

耳に触れる音は、変化するもので無常です。

耳に触れる音は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない耳に触れる音に、執着しないように励みます。

 

耳に音が触れることによって、耳の感覚が生じます。

耳の感覚は変化するもので無常です。

耳の感覚はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない耳の感覚に、執着しないように励みます。

 

耳の感覚から耳識(じしき)が生じます。

この耳識は変化するもので無常です。

この耳識はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

 

わたしのものにならない耳識に、執着しないように励みます。

耳識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。

この耳識から生じる煩悩は変化するもので無常です。

この耳識から生じる煩悩はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならないこの耳識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

(「耳」の章おわり)

 

 

はい、次、ちょっと集中してください。

本当は眼が一番簡単です。

 

つぎの三番目は「鼻」。鼻の世界だけ考えてください。鼻と言うのはこの鼻(指さして)です。こちらの飾ってある花ではないんです。この、「鼻の世界」。そこに自我が生まれるんですね。でも無常ですから、そこに自我はありません。「そこにわたしはいません」ということで、思考を集中してみてください。

 

「鼻」

この鼻は変化するもので無常です。

この鼻はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない鼻に、執着しないように励みます。

 

鼻に触れる香りの対象は、変化するもので無常です。

鼻に触れる香りの対象は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない鼻に触れる香りの対象に、執着しないように励みます。

 

鼻に香りが触れることによって、鼻の感覚が生じます。

鼻の感覚は変化するもので無常です。

鼻の感覚はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない鼻の感覚に、執着しないように励みます。

 

鼻の感覚から鼻識(びしき)が生じます。

この鼻識は変化するもので無常です。

この鼻識はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない鼻識に、執着しないように励みます。

 

鼻識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。

この鼻識から生じる煩悩は変化するもので無常です。

この鼻識から生じる煩悩はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならないこの鼻識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

 (「鼻」の章おわり)

 

次は、自分の「舌の世界」。このように仏教では「世界」と言うんです。眼の世界、耳の世界……。そこは無常で変化する。

「わたし、わたし」とわれわれは、identify、自分だと勘違いする。自分ではありません。それをよく理解して六根にいったら、自分が消えちゃうんです。

 

「舌」

この舌は、変化するもので無常です。

この舌は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない舌に執着しないように励みます。

 

舌に触れる味は、変化するもので無常です。

舌に触れる味は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない舌に触れる味に、執着しないように励みます。

 

舌に味が触れることによって、味の感覚が生じます。

味覚は変化するもので無常です。

味覚はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない味覚に執着しないように励みます。

 

味覚から舌識(ぜつしき)が生じます。

この舌識は変化するもので無常です。

この舌識はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない舌識に、執着しないように励みます。

 

舌識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。

この舌識から生じる煩悩は変化するもので無常です。

この舌識から生じる煩悩はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならないこの舌識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

(「舌」の章おわり)

 

次に自分の体に集中してください。

「身」

この身体は、変化するもので無常です。

この身体は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない身体に執着しないように励みます。

 

身体に触れる対象は、変化するもので無常です。

身体に触れる対象は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない身体に触れる対象に、執着しないように励みます。

 

身体に対象が触れることによって、身体の感覚が生じます。

身体の感覚は変化するもので無常です。

身体の感覚はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

 

わたしのものにならない身体の感覚に、執着しないように励みます。

身体の感覚から身識(しんしき)が生じます。

この身識は変化するもので無常です。

この身識はわたしではありません。

 

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない身識に、執着しないように励みます。

身識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。

この身識から生じる煩悩は変化するもので無常です。

この身識から生じる煩悩はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならないこの身識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

(「身」の章おわり)

 

最後は、こころですね。仏教では「意」と言います。意識の意。

これはちょっと難しいかもしれませんけど、冥想する方々にとってはそれほど問題ではないと思います。

「意」

この意という認識機能は、変化するもので無常です。

この意という認識機能は、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない意という認識機能に、執着しないように励みます。

 

意に入る法というものごとは、変化するもので無常です。

意に入る法というものごとは、わたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない意に入る法というものごとに、執着しないように励みます。

 

意にものごとが触れることによって、意の感覚が生じます。

意の感覚は変化するもので無常です。

意の感覚はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない意の感覚に、執着しないように励みます。

 

意の感覚から意識が生じます。

この意識は変化するもので無常です。

この意識はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならない意識に執着しないように励みます。

 

意識から思考妄想・愛着・怒りなどの煩悩が生じます。

この意識から生じる煩悩は変化するもので無常です。

この意識から生じる煩悩はわたしではありません。

因縁によって変化するので、わたしのものでもありません。

わたしのものにならないこの意識から生じる煩悩に、執着しないように励みます。

(「意」の章おわり)

 

これは六根に関するヴィパッサナー冥想で、サマタ冥想にもなります。

お釈迦様の時代にも、お釈迦様はかなりいろんな経典で、いろんな方法で、このように、覚りに達しないお坊様たちを誘導するんですね。このくらい言ったら覚るというケースはたくさんありましたけど……。こちらは……ないでしょうね、おそらく(笑)。

 

しっかりと『実感的に』行けば、ものすごい智慧が現れます。

最後にお釈迦様のまとめた言葉を唱えます。

 

 

お釈迦様の言葉パーリ語(動画38分頃) sabbe sankara aniccha......

 

「一切の現象は無常であると智慧で発見するとき、苦に対して、輪廻転生に対して飽きるのです。これこそが解脱への道です」 (日本語訳)

 

✨✨✨✨この功徳を生きとし生けるものに回向いたします ✨✨✨✨

 

dukkhappattā ca niddukkhā,

bhayappattā ca nibbhayā.

Sokappattā ca nissokā,

hontu sabbepi pānino.

 

苦しんで悩む生命が苦しみなく

恐れて悩む生命が恐れなく

悲しんで悩む生命が悲しみなく

一切の生命が安穏でありますように

 

 

 

 

 

四念処(しねんじょ)

「四念処・しねんじょ」・(四念住・しねんじゅう)とも呼ばれています。

・身念処(しんねんじょ)・身念住(しんねんじゅう)

・受念処 (じゅねんじょ)・受念住(じゅねんじゅう)

・心念処 (しんねんじょ)・心念住(しんねんじゅう)

・法念処 (ほうねんじょ)・法念住(ほうねんじゅう)

 

四念住・四念処【身受心法】は原始仏典には「よく気を付け、熱心に正しく自覚し、落ち着いて過ごし、世間の貪り憂いを克服すべき」とでてきます。

「念」(ねん)はパーリ語でサティ(sati)で
@記憶(教えを)する。
A心が散漫になったりしないように注意力を促す。
B四念処(サティパッタ−ナ)の常に無常・苦・無我を念頭に置く
の意味があります。

 

原始仏典にでてくる「四念処・しねんじょ」

長部経典 第2経「沙門果経」(しゃもんかきょう)では

「小・中・大の戒律の教え」「感覚器官の防護」「四念処」の教えがでてきます。そして、「満足」「五蓋の除去」「色界の四禅」「無我の洞察」「神通力を得て」「漏尽智」の煩悩が消滅して『四諦』を理解するとでてきます。

 

長部経典 第22経「大念処経」(だいねんじゅきょう)では

「身体について(身体は不浄)」
・髪・毛・血・歯・皮・肉・筋・骨・骨髄・腎臓・心臓・血液・小便、等々自分の細部までを観察する
・地水火風の要素を観察する
・死体の瞑想、墓場に捨てられた死体がカラスや犬に食べられ腐っていくのを観察する

「感覚について(感受は苦)」
・楽しみ、苦しみ、非肉体的の感受が生起し消滅するのを観察する

「心について(心は無常)」
・貪り、怒り、迷妄、心の統一、広大な心が生起し消滅するのを観察する

「もろもろの存在(事象・法)について(あらゆる物質は無我)」
・五蓋について、生起と消滅を観察する
・六識の束縛の生起と消滅を観察する

「呼吸の仕方」は
念ずることを目の前に据えて坐る、気を付けながら息を吸い、息を吐く、
身体の活動を静めて、私は息を吐こうと思い実修する。
自分の内に、他人の外の身体について観察、身体の中で生起してくるもの、
消滅する現象を観察する。
ただ「身体のみが存在する」と思い、依存がなく、執着がなくなる。

と表現されてでてきます。