なんのために冥想するのか?

著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老       初版発行日:2016429

 

 

はじめに――冥想は現代人のアクセサリー?

今回のテーマは、「なんのために冥想するのか?」です。もしかすると皆さんは、そんな質問をする必要はないのではないか、と思われるかもしれません。冥想に興味があるという方々は、日本だけではなくて世界中どこにでも結構いるのです。中東はどうかわかりませんが、アジア・ヨーロッパの国々では冥想というのが日常的なことになっているぐらいです。

ここで私がポイントとして提示したいのは、現代アメリカや西欧の社会で、冥想が盛んに実践されているということです。冥想は、西洋の人々にとって、日常の苦しい生きかたに添えられるちょっとしたアクセサリーになっているのです。

いわゆるカウンセリングを受けるのは、アメリカでも西欧でもごく普通のことです。日本人にとって、カウンセリング通いは日常茶飯事になっていません。少し問題を抱えている人が行くだけです。東洋のほうでは、自分の国スリランカもそうですけど、滅多にカウンセラーのところに行かないのです。
精神科医はいますが、酷い病気の人とやり合っているだけで、普通の人は全然行かない。そういう考えはないのです。

しかし、西洋ではカウンセリング通いが誰でもやるべきものになっていて、大統領をはじめ皆カウンセリングを受けたりする。冥想もまた、そういったカウンセリングの習慣の一部になっているのです。

私が強調したいのは、「冥想ってそんな甘い話ではないですよ」ということです。冥想、とりわけお釈迦さまの説かれた冥想を実践するのは一体なんのためなのかと、これからしっかりと学んでみましょう。

 


第一章 身体とこころの「進化」論

 

進化とは適応である

進化とは、成長ではなく「適応」です
・進化過程で退化する能力は、必ずしも悪い・いらない・邪魔ということではないのです。

進化ということを勘違いしないでください。私たちは成長しているわけではなく、ただ適応しているのです。そこで、進化すると、代わりにいろいろなものが退化するのです。退化するものだからと言って、邪魔だ、悪いものだと決めることはできません。

・人間を観察すると、進化過程では、ある能力が落ち、ある能力が発展し、ある弱みが減り、新たな弱みが現れる、といったことが見えます。

たとえば、人間社会では色々なものごとを計算する必要があります。社会が複雑になるにつれて、計算の量がどんどん増えてきます。それで私たちは計算機を使うようになりました。結果としてどうなったのかというと、頭で暗算する能力が落ちたのです。皆でいろんな工夫をして頭で計算していた頃のことなど、考えられない状態になっています。しかし、一方で現代の私たちは、昔の人々などより遥かに膨大な計算を瞬時にしているでしょう。これって、進化なのか退化なのかよくわからないのです。

日本ではソロバンという道具で計算していましたけど、インド文化系ではそれも使いません。長い割り算やあれこれも、頭の中でソロバンもなく瞬時にし終えるのです。そのためには、結構頭を整理整頓して動かさないといけない。しかし、電卓やいろいろな機械が発明されたことで、その計算能力もガクっと退化してしまったのです。

そういうわけで、進化とは新しい環境に適応するだけのことに過ぎないのです。適応する過程で、ある能力は減る、ある能力が増える、ということが起こります。

そこで、減った能力は要らないのか、邪魔なのかと言えば、ちょっと待って欲しいのです。いまの私たちに抜群の暗算能力があっても、別に何も悪いことはないでしょう。

人間の体力はどうでしょうか? 現代のアスリートは、かつてオリンピックに出た人より遥かにすごい記録を出しています。今は、人間の身体に持てる能力のギリギリのところでオリンピックをやっているのです。では、人間は全体的に体力が向上しているといえますか? そこは問題なのです。

皆、機械任せで、機械に生かされているのです。それでどうなったかというと、体力が衰えると困ります。病気になります。そうなってくるとスポーツセンターやジムに通って、人間にはなんの役にも立たないことをやっているのです。それで、ちゃんとスポーツセンターに行って健康でいるのだと、しっかりした身体を維持しているのだと喜ぶのです。しかし、その身体を維持するのは大変なのです。

では、昔のおじいさん、おばあさんたちの時代はどうでしょうか? 皆、結局は健康でしょう。日本には八十才、九十才の方がたくさんいます。私たちは、その方々の健康状態に敵わないと思います。その体力はスポーツセンターで鍛えたものではないでしょう。ですから昔の生きかたに適応して、ちゃんと体力が備わっていたのです。今、私たちは現代の生きかたに適応したおかげで、スポーツセンターがないと、早死にする破目に陥っているのです。

数字だけ見れば、昔のオリンピック記録を笑ってしまうぐらい、今の記録はすごいのです。では人間の体力が全体的に向上しているのかというと、なんだかちょっとわからない。そのように進化という現象について、多面的に理解してほしいのです。

・進化とは、ただ現状に適応するだけのことであり、良いとも悪いともいえません。
・当然、思考能力・判断能力も、この進化の流れから自由にならないのです。

進化というのは現状に適応することです。適応できた生命だけが生き残るのです。

そこで、これからじわじわと仏教の世界に入らなくてはならないのです。仏教から見れば、進化するのは肉体だけではありません。思考能力・判断能力というものも進化するのです。

・思考、判断能力の進化も「生き残る・生存する」目的で起こるものです。

ですから、私たちは肉体だけではなくて、思考も進化します。脳も進化します。何度もいいますが、進化とは人が進んで向上することではないのです。環境の変化に応じて、適応するだけのことです。その過程で、能力が上がったり下がったりします。進化という言葉をもっと適切な単語に入れ替えるならば、「変わること」です。

進化を意味する英語の単語はevolution(エヴォリューション)です。その単語はもともと、「回転する」という意味を持っていたのです。Evolutionの正しい日本語訳は、「進んで化ける」ではなく、「変化する」であるべきです。なぜならば、生命は進んでいるわけではないからです。「今の私たちは昔より進んでいる」というフレーズは、現実をあらわすものではなくて、ただの感想です。人の能力の上がり下がりは両方とも進化の過程で起こるのです。では、進化するときの目的は何なのでしょうか? なぜ人は進化するのでしょうか? なぜ環境に苦労しながら適応するのでしょうか? 決して「立派な人間になろう」という目的ではありません。何がなんでも生き残るためなのです。

・したがって、人間の知識開発も良いとも悪いともいえず、ただ単に適応できたに過ぎません。

人間は犬よりもずっと頭がいいのだ、と言って自慢しない方が身のためです。これぐらい頭脳が発達しないと、人類は種として生き残れないのです。犬はあの頭でも、大丈夫です。熊さんもあの頭で大丈夫です。生き残れます。すごい知識を持っていないと生き残れないのは、人間だけです。

 

進化と退化の条件

・悪条件でなければ、肉体的・精神的進化はないのです。

私たちは進化を無邪気に喜んでいます。しかし、ちょっと待ってください。悪条件に遭遇しないと、進化が起こらないのです。なのに、人は誰も悪条件を期待しません。いつでも良い条件を欲しがります。もし、不運にも良い条件ばかりに遭遇したら、進化ではなく退化してしまうのです。進化するために悪条件が欠かせないというのは、おもしろいポイントです。

条件がよければ「退化」が始まります。

そこで、私たちは周りの条件を変えようとしているでしょう。特に人間はある程度進化してから、環境を変えることになってしまったのです。いい条件を作ろうではないかと。これは、自分たちで自分たちの進化をストップさせようとしているのです。
人類は、飛行機を作って、新幹線を作って、パソコンを作って、インターネットを開発して、データ送信システムなど、あれこれ開発しながら環境を変えていきます。良い条件を作るために必死なのです。そのために、世界そのものを変えている。世界を変えることによって、私たちは自分の進化をストップさせているのです。
例えば、部屋に冷暖房をつけておけば、身体が温度差に適応して変化しなくても構わないことになります。進化とは、ものごとを変えることではなく、身体と精神の変化なのです。

では、進化が止まったらどうなるのかというと、退化するのです。ですから、今現在生きている私たちは、進化しているか、退化しているかということは、これはちょっとよくわからない。答えが出てこない。いわゆるどんな答えでも、それなりに理由があります。進化しているのだと言えば進化しているのです。

たとえば私たちの身体の形とか。たとえば博物館などに行ってみると、日本の昔の侍装束とか鎧とかがありますね。ある日それを見たら、あまりにも小さくて、本物ではなくて子供用ではないかと思ってしまったのです。それで一緒にいた人に訊いてみたら、昔は日本人の身体はそれぐらいだったそうですね。私たちは歴史のドラマなどを見て、立派なお侍さんだと言っている人々でも、皆おチビさんだったのです。

今の日本人などはどうでしょうか? 今の日本人とヨーロッパ人と一緒に並んでいたとしても、全然、どちらがどちらかわからないのです。ですから、そういう風に見ると、やはり日本人は身体的に進化しているのです。

しかし、別な面で見ると、進化どころではなくて、ひどく退化しているのです。学校に行きたくない、仲間とウマが合わない、仕事はしたくない、社会人になる勇気はない、人と挨拶したくないとか、そういうふうに精神的に弱い人間もたくさんいます。現代社会に適応できない方々です。

もう一つポイントがあります。私たちは自然環境を変えたのです。空気・水だけではなく、いま私たちの食べ物も、昔食べていたものと変わっています。変えたのです。酸っぱいはずのトマトが、いま甘いのです。ですから、いま生まれてくる子供たちは、破壊された環境に適応しなくてはいけないし、激しい電磁波に適応しなくてはいけない。添加物をいっぱい入れて店で売っているインスタント食品に、適応しなくてはいけないのです。
しかし、適応できない子供たちも生まれてきます。その子供たちはかなり苦しむのです。一つの例はアトピーです。私たちが普通に食べている卵、乳製品、小麦粉、お米、油などに激しく反応する身体を持って生まれるのです。いまの環境に適応できない人々には、生きることがとても辛いのです。家族と医療の協力があって、弱い身体を持って生まれる人々は、なんとか生きていられます。まことに悲しいことです。そうやって見方を変えてみると、いま私たちは退化しているのか、進化しているのか、どちらかよくわからないのです。

ここでは、「悪条件でなければ進化はない」ということだけ憶えておいてください。条件がよければ「退化」します。

 

こころの進化

・仏教はこころの働きを調べるのです。
・知識人が使う「進化」という言葉は仏教にありません。
・実際に起こるのは、「進化」ではなく「変化」です。
・したがって、物事は一定せず、止まりません。
・そこから、絶えず変わる、変化する、という「無常論」を発見します。

仏教から見れば、「進化」とはあまりにも肯定的な単語です。使いません。その代わりに「変化」といいます。物質的な世界も、生命体も、変化するのだと説くのです。

ダーウィンさんは「進化論」を発見して、くたくたに批判されました。仏教は、そうではなくて「無常論」を発見したのです。無常論は誰も理解しようとしませんが、それに対して、誰もケチをつけられないのです。

・こころの変化、進化の過程は興味深いものです。

仏教は進化論ではなく、無常論なのです。進化論の場合は生命だけ、地球上の生命体だけの話です。無常論の場合は、全宇宙のすべてが入るのです。地球外生命がいれば、その生命も入ります。変化しないと何も成り立たない、つまり「無常でなければ何も成り立ちません」ということですから。仏教のものごとを考えるスパンは、俗世間の思考とかなり違うのです。無常論から見ると、物質の変化だけではなく、こころも進化するでしょう。変化するでしょう。こころの変化に注目すると、ちょっとおもしろいことがあるのです。

・悪条件に晒されたら、こころは「悪くなる」方向に進化する可能性が高いのです。

身体が悪条件にさらされると、適応しようと思って強くなります。一方、こころが悪条件にさらされると、何かおかしくなるのです。たとえば、学校でいじめられても、いじめられた子は精神的に強い人間にならないのです。進化論が正しいのであれば、悪条件に適応して、とても頑丈な子に成長してほしいところです。実際には、頑丈になるどころか、登校拒否に陥ったり、自殺したりするのです。自殺までいかなくても、こころが悪くなるケースというのは、たくさんあります。

たとえば、私たちも悪条件にさらされたら、気持ち悪くなったり、怒りっぽくなったり、不信感に陥ったり、仲良くすることができなくなったり、凶暴になったり、犯罪をしたりと、こころが悪化してしまうでしょう。これは、ちょっとおもしろい現象です。なんだか、進化論とは全然合わないのです。ですから、お釈迦さまは「進化」という言葉を使っていないのです。その代わりに、「無常」と「因果法則」という言葉を使うのです。

・条件がよければ、また退化しようとします。

だったら反対に、条件がよければ私たちはすくすく育つはずでしょう。それも違います。学校は親切で、周りの環境が良くて、家の状況も良くて、必要なものはなんでもすぐ揃う、という環境で育つ場合は、進化するはずです。
しかし、結果は怠けに陥ってしまうのです。頑張らない人間になります。条件が良ければ退化するならば、条件が悪ければ進化するはずでしょう。逆にいうと、条件が良ければ進化するならば、条件が悪ければ退化するはずです。こころの変化の場合、このように明確なことはいえないのです。
こころとは、条件に関係なく一方的に退化しようと頑張っている組織のようです。これはとてもおもしろい現象だと思います。興味を持って理解してください。こころの進化は身体の進化と違うのです。

・しかし、稀な場合は、悪条件で発展したり、良い条件で発展したりすることもあり得ます。

これは稀なケースですから、仏教でそんなことを言っているのかと皆さん疑われるでしょう。仏教のテキストは少し古いものですから、言いかた、表現方法が現代と異なっているのです。

仏教の世界には、ジャータカ物語という説話文学があります。お釈迦さまの前世物語だと信仰されていますが、事実はどうかよくわかりません。そのストーリーの中で、いつでも主役は菩薩だと決まっています。だから、菩薩が主役を演じる物語をすべてジャータカ物語というのです。菩薩とは覚る以前の、お釈迦さまの前世です。ジャータカ物語には、お釈迦さまの前世物語というより、仏教が私たちに言いたい、教えたいことがらがストーリーの形で説かれているのです。

仏教の世界では、「覚る前のお釈迦さまも、正しく生きてみようと挑戦してきたのだ」という前提があります。ジャータカ物語の中で、菩薩はどんな悪条件でも見事に乗り越えてみせます。良い条件だったら、それまた見事に乗り越えてみせる。そういうストーリーばかりなのです。

この「悪条件であろうが良い条件であろうが人格を向上させる」という菩薩の性格は、人間の中でも稀なものです。ジャータカ物語で語っているのは、条件が悪いなら悪いで、良いなら良いで、いかに自分が成長するのか、という教訓なのです。

・「昔より今、われわれは進んでいる」という言葉に裏付けはありません。

まとめて言えば、私たちはよく「昔よりは進んでいる」と言いますが、あまり裏付けはないということです。だって、進化は良いものなのか悪いものなのかわからないでしょう。そんな、白黒決められません。ですから仏教の言葉を理解すればよいのです。アメリカのキリスト教の方々は、進化論に反対でしょう。ヨーロッパでは反対しませんけど、仏教ではもっとクールなことを言っているのです。「進化ではなくて変化である。仏教は無常論なのだ」と。

 

意図的な進化

・進化するまで待たずに、意図的に変化させることもできます。
・成功すれば都合の良い結果になるのです。

進化は自然法則ですが、進化が起こるまでじっと待つか、意図的に進化させるか、という選択ができます。意図的に進化させようと思うのは、どうせ自分の都合でしょう。自分に都合の良い状況を作りたいでしょう。それは、別に悪いことではないのです。

たとえば、体力がなくて病弱の子供が、青年になってくると「これはまずい」と思って、意図的に行動する。しっかりした指導の下で、コーチの下でスポーツする。しっかりした食事コントロールをする。毎日頑張る。結果として、きわめて健康で筋肉もりもりの人間になります。
日本でもいくつか現実的なケースがありました。テレビで見たものですけど、若いときの写真を見たら、ものすごく貧弱な身体で病弱だったのに、今見るとすごいキン肉マンで、筋肉モリモリ。とても美しくてかっこいい身体なのです。それは意図的な進化を起こした結果です。というわけで、計画を立て意図的な進化を引き起こすのは、なかなか良いことなのです。

・物質の意図的な変化には「科学的発展」といいます。

私たちは、物質を変化させること、環境を変えることに「科学的発展」と言っています。自然界にあるさまざまな物質を組み合わせて人間に必要なものを作り出し、物質エネルギーの法則を発見してさまざまな機械を開発するのです。
身体がウィルスの攻撃を受けたら、病気になります。そこで、医学研究者はウィルスに対応するワクチンを開発するのです。それらはすべて意図的な進化・変化です。人間の都合によって意図的に変化させるので、悪いものではありません。科学発展によって、人間は楽に生きているのです。

・こころを意図的に発展させることが「冥想」です。

このように、身体を発展させることも科学的なのです。「では、こころをどうやって意図的に進化させるのか?」というところで、冥想と呼ばれる実践方法を使うのです。ですから冥想という方法も、必ず科学的なものでなければいけません。

・自然進化には四十億年かかったが、意図的に起こす変化の結果はすぐ現れるのです。

自然変化は、待たない方が無難です。何万年かかるかわからないのです。私がとても気になっているポイントは、人間の大脳はものすごく進化しているが、まだ大脳に適応した生きかたができていないことです。いまだに原始脳に支配されて生きているのです。それでは、動物と同じです。
そのうち変わるだろうと思いますけど、それを待っていたら三十万年ぐらいかかるでしょう。三十万年も経つと、この地球があるかないかもわかりません。だって、人間は脳の動物的な機能を使って環境を変えているのですから。それでも、自然進化が起こるまで、万年単位で待つべきでしょうか?待ったとしても、皆さんにとってなんの関係もない話です。二十万年、三十万年後の話ですから。

というわけで、答えは明確です。「自然進化を待たず、意図的な進化をしよう」ということなのです。待ってはいられません。身体が弱い人々が意図的に頑張って強い身体に進化させるように、こころが弱い人々も意図的に頑張って強い精神を作らなくてはいけないのです。
誰のこころも、本来、弱いもののです。こころは、条件がどうであっても退化しようとする性質を持っています。菩薩のエピソードを例に出して、稀なケースもあるのだと前に説明しました。計画を立てて、早くこころを進化させましょう。この場合は、「進化とは変化」という意味にはならないのです。意図的に行なう進化なので、「成長・向上」という言葉を使うべきです。

・冥想とは、こころを都合良く意図的に進化させることです。

もう一度言います。冥想とは、そういう実践なのです。現代的にイメージされている、ちょっとしたアクセサリーではないのです。冥想について説明するための前提の話は終わりました。もう、これで十分でしょう。

 

 

 

第二章 宗教の冥想とブッダの冥想

冥想はなんのためにするのか、ということはもうわかりましたね。
ここから、冥想そのものの中身に入っていきます。

 

生きるというエネルギー(働き)

・肉体という物質があります。
・物質のことは化学・物理学でも理解しており、物質的な働きを発見しています。

現代科学では、身体のことはとっくに理解しています。
身体だけではなく、物質はどのように働くのか、酸素とは何か、原子とは何か、素粒子とは何か、といった分野についてもほとんど解明されています。

・しかし、「生きもの、命あるもの」としての身体の動きは、物理法則と似ていないのです。
・物理法則と生命の働きは完全に違います。

私たちは素粒子の研究もしていますが、生き物としての自分は何をやっているのか、よくわかっていないのです。ここでは、「物理法則と生命の働きは完全に違う」ということを強調したいのです。ですから物理学・現代科学では、「命とは何か」ということを理解できないのです。

・物質を支配・管理する働きを、仏教では「こころ」という名前で確認するのです。

ブッダの実践では、肉体はありがたいものでも、命あるものでもなく、単純な物質の塊(物体)として観るのです。身体が単純な物体であるならば、完全に物質の法則に従わなくてはいけません。そこで両者の違いが観えてきます。
身体という物体は、物質の法則に従う場合もあるし、物質の法則と違った働きをする場合もあります。現代の知識では物質はたくさんの種類に分けられますが、お釈迦さまの時代には()(すい)()(ふう)という四つに分けていました。地球も山も川も身体も、地・水・火・風なのです。空気も水(液体)も炎も、地・水・火・風で構成されています。
しかし生き物の身体(物体)は、物質の法則と違った働きをするのです。

たとえば、池の水が枯渇したら、池は池でなくなってしまうでしょう。しかし、池は困りません。「私の存在がなくなったら大変なので、さっさと水を汲んできて、また元の池に戻らなくては」ということにはならないのです。
では、私の身体の水分が減ったら?急いで補給しようとするのです。これは明らかに変なことでしょう。雷が落ちて、そのあたりの崖が二つに割れたとしましょう。そのままです。では、何かにぶつかって私の腕が折れたとしましょう。どうします?治療して治します。元に戻してもらいます。物質という観点から見れば同じはずなのに、まったく違うことをやっています。

・こころとはエネルギーであり、働きです。

ここで、何らかのエネルギーが物質を支配しようとしていることが見えてくるのです。私の骨が折れることも、物理法則にかなった出来事です。耐えられない負荷がかかったら、骨はポキッと折れます。全然、不思議ではないのです。
しかし、身体はこれを認めません。元に戻そうとして、骨を再生するのです。折れたところを繋げてくれるのです。では、誰がそれをやっているのか、そのエネルギー・働きは何なのかと言えば、仏教は「こころ」であると説くのです。こころとは単純な一つの何かではなくて、かなり複雑なエネルギーの総称です。

 

健康のために運動する

・身体の健康のために運動は欠かせないと信じています。

なぜ「信じている」と書いたのでしょうか? 皆さん、これは事実だと思っているでしょう。しかし、言葉の使い方がちょっと甘いのです。運動すれば体力はつくかというと、必ずしもそうとは限りません。運動したら、身体が壊れて病気になる場合もあります。リミットを考えなくてはいけないのです。ジョギングすればいいというものでもありません。どのぐらい、どの程度で運動するのかという、そのリミットを忘れたら、健康を害する結果になります。
私たちは、リミットを忘れているというより、精密に言葉を使わないで、無責任に「運動すれば健康は保てる」と言っているのです。現実を精密に表してはいない言葉に、私たちはただ乗っているのです。それは信仰というべきものです。

・しかし、身体の支配者・管理者の運動は疎かにしているのです。

誰でも、身体のことばかり心配しています。地球の資源をほとんど、肉体の維持管理に使っているのです。肉体の支配者のことは、心配していないし、発見もしていないのです。肉体の支配者である「こころ」の面倒を診て、こころを健康な状態に保つならば、肉体について余計に心配する必要はないと思います。

物質のことばかり追い続けた結果、この世界はある程度まで物質的な豊かさに達したのです。しかし、人間は幸福を感じていません。あらゆる問題を惹き起こして、社会はトラブルばかりです。それでやっと、「こころのことも心配しなくては」と思い始めたのです。

・俗世間にも「こころの栄養」という言葉が現れています。

NHKでも、「こころに栄養をあげましょう」というキャッチフレーズを使っていました。こころの栄養に関連する番組も放送しています。

運動やスポーツのように、科学的に調べて推薦された方法はありません。
・ただ、本を読んだり、何かを考えたりするだけに留まっています。

身体のことになると、すべて科学的に調べるのです。身体に必要な栄養とは何か、量はいかほどか、運動はどのようにどの程度するべきか、どうすれば快眠を得られるのか、などなどについて詳しく調べています。
こころにも栄養が必要だとするならば、こころのことも科学的に分析しなくてはいけないはずです。こころの栄養になるものは何か、こころが衰退する毒になるものは何か、どのようにこころの運動をして成長させるべきなのか、などについても科学的な研究が必要なのに、そのような研究は俗世間にはないのです。こころの存在に気づいたばかりなので、無理もない話です。

 

科学的こころの運動

肉体に必要な運動ですが、いい加減にやってはダメなのです。きちんと科学的に調べてトレーニングしなくてはいけない。こころの場合も同じことです。こころにも運動が必要です。いい加減にではなく、科学的に取り組まなくてはいけません。身体もエネルギーで、こころもエネルギーなのですから。

・ブッダはこころの働きを科学的に発見して、こころを健康に保つ方法を説かれました。
・冥想とは、その実践方法です。

コーチについてコーチの指導のもとで筋肉トレーニングするのと同じく、冥想もまた指導のもとで正しくこころの運動をすることになります。こころの働きを知っている人の指導が欠かせないのです。物質と同じく、こころも一種のエネルギーです。このエネルギーの働きかたは、物質エネルギーの働きかたと違います。物質には進化がありません。合成したり分解したりという変化はあります。
こころというエネルギーには進化があると理解しましょう。私たちはこころを成長させてないから、こころは自分の力をほとんど発揮できず、とても弱く機能しているのです。こころの働きを妨げる汚れが、いっぱい溜まっています。こころを成長させるとは、冥想という方法によってこころの汚れを落とし、意図的に進化させることです。

・インド文化のほかの宗教も冥想を推薦しています。

冥想は、仏教の専売特許ではないのです。もしかすると、冥想を始めたのはインド文化かもしれません。インドにいま現在あるバラモン系のヒンドゥー教文化では、文学的に調べると、それほど冥想文化はないのです。しかし、モヘンジョダロ、ハラッパーといった古代文明の出土品を調べたところ、宗教家が冥想しているように見えるシール(印章)などが発見されています。

巨大なインド半島には、冥想の文化がもともとあったにも関わらず、アーリア民族に占領されたことで、ただの戦争文化になり下がってしまったのです。アーリア民族が奉じたヴェーダ聖典には、冥想について何も書かれていません。ヴェーダ聖典は紀元前三千年頃の作品です。ヴェーダの次に出てきた、ブラーフマナという注釈書にも、冥想のことはあまり出てこないのです。

それからずいぶん時間が経ち、紀元前六百年頃にアーラニヤカという大部の文献が現れます。アーラニヤカとは「森に住む」という意味の単語です。その頃になってくるとバラモン人も、森で修行してもいいのではないかという感じになったようです。

ということは、アーリア人がインドを侵略してもう二千年ぐらいたってから、お釈迦さまの時代より少し前になってようやく、「修行してもいいのではないか」と思うようになったのです。これは、もともとインドにあったネイティブ文化の影響が入ったためではないかと推測できます。

それから、ウパニシャッドという文献では、冥想を推薦しています。ウパニシャッドが生まれたのは、お釈迦さまとだいたい同じ年代です。お釈迦さまが生まれて活動していたときは、現在のように多数のウパニシャッドはなかったのです。お釈迦さまはウパニシャッドをよくご存じで、内容の間違いを示して批判されたことも経典に見られます。
しかし、ウパニシャッド文献の具体的な名前は一つも出てこないのです。要するに、冥想とこころの働きについて、様々な師匠たちが考えたことはあっても、文献にはなっていなかった、ということです。

以上のように、実際のところ、インドにおいても冥想の文化はじわじわ表面に現れてきたもので、その起源はモヘンジョダロやハラッパーなどの古代文明にあると言えるようです。

・既存の冥想は、身体に「永遠の魂・ātman(アートマン)」が宿るという信仰のもと、魂を浄化する目的で行われました。

インド古代文明の時代にも、冥想というこころを成長させる方法はあったかも知れません。しかし、その実情はまったくわからないのです。私たちが文献的に知ることができるのは、紀元前六世紀頃から徐々に現れて発展した思想です。インドは冥想を発明・発展させた国だと言っても構わないのです。

冥想修行に励むインドの人々が前提としていたポイントがあります。それは、「肉体を動かす力は魂である」ということです。「魂」と、お釈迦さまが仰る「こころ」は、同義語ではありません。彼らは前提として、魂には、永遠不滅であること、至福であること、という特色があると信じていたのです。それに反対して、「魂は永遠不滅ではない。死後、断滅するのだ」と説く人々、また「魂は至福ではない。苦・楽の両方がある」と説く人々、「魂は苦のみである」と説く人々もいました。魂のスケールについても、様々な意見がありました。有限という人も、無限という人もいたのです。魂はどのように現れたのか、ということにも、異見があったのです。「永遠であるから、始原はない」「魂はいつか突然、現れた」「突然現れたので、いつか完全に消えることもある」などなどの異見です。ジャイナ教は、魂は全知全能であると説きました。
魂についてはかくも多くの異見が花開いていましたが、主流のバラモン教(現代のヒンドゥー教)では、それほど見解の差はなかったのです。魂について異見を持っていたのは、非主流の宗教家たちです。インドの修行者たちが、冥想実践や苦行など他の修行方法をおこなう理由は、魂を浄化するという目的のためでした。

お釈迦さまは科学者でしたから、この話に笑ってしまうのです。「魂を浄化しようと励む前に、まず魂があるか否かを確かめなさい。魂があると仮定して、それから実践方法を組み立てるのはおかしいのだ」と。
冥想を始めるにあたって、「もしかすると魂みたいなものがあるのではないか?」と仮定するところまではいいのです。それから、魂を発見するために研究するでしょう。これを科学的にいいかえれば、「仮説を立てて研究しなければならない」ということになります。
しかし、インドの人々は最初から「魂がある」と断定して疑わなかった。お釈迦さまはそのポイントを非難して、他宗教の冥想方法には、根本的な間違いがあると示されました。とはいえ、完全に間違っているとも説かれなかったのです。

お釈迦さまは「魂がある」というその仮説について研究しました。徹底的に調べて、「魂というものはない」という結論に、明確に達してしまったのです。
まず、無常という事実は、すべての現象に対して当てはまります。無常でなければ、世の中は成り立たちません。魂は常住なので、無常とは正反対です。ゆえにインドの既存宗教は最初から上滑りしているのだ、と切り捨てて、自分自身で真理を発見することにしたのです。

そのようなわけで、「ブッダの冥想と言っても、インドにあった冥想でしょう?」と言われてしまうと、私たち仏教徒たちは、素直に賛成することはできなくなるのです。

 

宗教の冥想と仏教の冥想

・宗教とは信仰について語るものなので、神秘的ではあるが、科学的ではありません。

諸宗教の冥想は神秘的なものです。しかし、だれも魂を発見していないので、信じるしかないのです。信じることに頑張るならば、すべては神秘ということ、ミステリーということになります。これは定義的にそうなるのです。

・そのため、冥想は日常的な生きかたから離れた、神秘体験を求める作業になってしまうのです。

世の中の冥想とは、日常生活から離れて神秘体験を経験しようとする努力です。インドの冥想であっても、日本で行われている冥想であっても、神秘体験を目指しているのです。西洋人にとっては、ちょっとした現代社会向けにアレンジされたアクセサリーという感じでしょう。

・仏教の冥想は「こころの科学」です。

インドの宗教では冥想にyoga(ヨーガ)という言葉を使います。皆さんはヨガと呼びますけど、正しい発音は「ヨーガ」です。ヨーガというのは、いわゆる真の魂と個の魂を繋げること、合体させることです。ヨーガとは「合体」という意味なのです。

真なる大本(おおもと)の魂と、自分が持っている小さな個の魂を合体させることにヨーガというのです。それに対して仏教では、「bhāvanā(バーワナー)・成長・向上のプロセス」という言葉を主に使っています。とは言っても、ヨーガ、ヨーギという言葉は仏教経典にも出てきます。冥想することをyuñjati(ユンジャティ)といったりします。

しかし精密に、専門的に定義するならば、「仏教の冥想とは、こころの科学である」という定義になるのです。

 

 

精神的成長――サマーディの解説

・どんな信仰であろうとも、修行したり、戒を守って生活したりすると、それにふさわしい精神的な成長が起こります。

いま私は他宗教の冥想について批判的な話をしましたが、完全に否定して捨てる意図はないのです。こころも物質も無常です。ですから、変化するのです。たとえ科学的でなくても、何かの冥想方法を実践すれば、それなりのこころの変化が起きます。冥想の結果はゼロといえないのです。

理屈ばかりをいうならば、このように批判することができます。「あなたは魂が永遠不滅だと、変化しないのだと信じています。あなたの信仰が正しければ、魂が汚れるはずはない。もし魂がもともと汚れているならば、どれほど修行しても魂は変化しません。だから、あなたの冥想にはなんの結果もありません。無駄骨です」と。
しかし、これは理屈ばかり投げつける喧嘩腰の言葉に過ぎないのです。魂が永遠不滅だと盲信して冥想しても、こころはそれなりの変化を遂げます。仏教は「こころは無常なり」と説くので、他宗教の冥想も断言的に否定することはできないのです。

そういうわけで、信仰の如何に関係なく、キリスト教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、日本大乗仏教の信者であろうと、だれでも冥想してみれば、戒律を守ってみれば、修行してみれば、それなりの変化が現れるのです。

・しかし、各宗教の教え・修行の仕方などは違うので、精神的成長を自分の信仰に合わせて解釈することになります。

そこで、様々な宗教を持つ方々が冥想をします。冥想によって、こころが変わります。変わったら、その変化を自分の宗教の教理学で説明するのです。

わかりやすい例を挙げて説明します。あるキリスト教の方が冥想するとします。当然、神様を熱心に信仰しているのです。その人が冥想を通じて、なんとなくいろいろ精神的なことを体験すると、それについて、「神様を体験した」「神様の存在を自分が確認しました」というふうに解釈します。「やはり、神様がいらっしゃるのだ」と結論づけるのです。しかしその方は、自分の経験を客観的に調べないで、信仰に基づいて解釈したという事実に気づいていません。解釈とは推測なのです。

同じように、日本大乗仏教の方が冥想する。たとえば真言密教の方が冥想する。冥想すると、精神的にいろいろ変化が起こります。普通と違う経験を味わうのです。そうすると真言密教の方々は、「やっぱり大日如来様が自分を変えてくれた」「私は大日如来を経験しました」と解釈したくなるのです。

お釈迦さまから見ると、これは面倒くさい現象です。元々、信仰とは非科学的なものでしょう。それに基づいてあれこれと論じられると困ります。ですから、お釈迦さまは科学的な、知識人の態度でアプローチしたのです。信仰を一切いれずに、「こころは修行によってどのように成長するのか?」と、明確に分析してしまったのです。「どんな信仰の人でも、こころの成長はこのように起こります」と。

たとえば人間ならアメリカ人であろうが、フランス人であろうが、日本人であろうが、生まれたときは赤ちゃんで、それから成長する。パターンが全部決まっているでしょう。「フランス人なら、生まれてすぐに歩き出す」とか、あり得ないことでしょう。「フランス人の赤ちゃんは、生まれておっぱいを吸うとかそんな下品なことはしません」とか、「フランス人の赤ちゃんは、おっぱいを吸わないでちゃんとナイフとフォークを持って食べています」とか、そんなことはあり得ないのです。フランス人の赤ちゃんであろうが、日本人の赤ちゃんであろうが、生まれたらおっぱいを吸って成長するのです。

そういうことで、科学的に観るならば、こころの成長についても、すべての人間に適用できる解説があるはずなのです。

・ある一人は「大自然と一体になった」といい、別な一人は「神を体験した」という。「光になった」「真空になった」という人もいます。
・この解釈の違いは困ったもので、宗教間の争いにもなるのです。

これらは冥想する人々が言う言葉です。大自然と一体になったとか、神と一緒になりましたとか、神が現れましたとか、どれも非科学的な発言なので面倒くさいのです。

冥想を通して神秘体験を得た人は、自分の考えを変えません。人が経験したものをむやみに否定することはできません。冥想体験者たちは、自分の経験に基づいて自分の見解を誇示するのです。そのような方々は、他人の話には耳を傾けません。
ですから、自分の教理学、自分の宗教の説明で神秘体験を解釈するのは、とても危険なことです。人類の調和がなくなるのです。宗教家が戦争を引き起こしてしまうと、冗談になりません。争いのスケールがものすごく拡がるのです。

お釈迦さまは、この問題を微妙なやり方で解決します。宗教はなんであろうとも、各人の冥想体験は決して否定しないのです。その理由を喩えで説明します。
ある人がアンパンを食べたとしましょう。アンパンがとても美味しいと、その人は喜んでいる。そこで他の人が出てきて、「いいえ、アンパンは美味しくはない。あなたの経験は間違っている。アンパンは不味いはずです」といったとしても、その話は成り立ちません。食べた人にとって美味しかったことは事実です。ですから、人の冥想体験は否定できません。その体験を自分の主観、自分の信仰、自分の哲学に合わせて解釈するところが疑問になります。
お釈迦さまは、「修行者の解釈は見解(主観)である」と説くのです。要するに、「経験は認めますが、あなたの教えは間違っている」ということです。

・ブッダは精神的な成長を心理学的に説明します。
・方法はなんであろうとも、正しく集中力を育てる場合は四段階の成長があるのです。
・こころの働きを物質から離れるようにする場合、また四段階の成長があります。
・この成長の名称はsamādhi(サマーディ)です。

いわゆる、八種類のサマーディがあるという教えです。宗教間の争いをなくすために、お釈迦さまは皆が使うサマーディという単語をあえて採用したのです。

お釈迦さまは、とても精密に語られています。精神の向上状態を分析するときは、他宗教も使っているサマーディという言葉を使う。その一方で、冥想実践に関しては、ヨーガ(合体)という言葉を避けて、バーワナー(成長)の語を主に使ったのです。バーワナーは仏教的な単語です。

サマーディと言っても、宗教によって意味が違います。たとえばヒンドゥー教のヨーガを修める人々、特にウパニシャッド哲学者は「samodhāna(サモーダーナン)・一つにまとめる」という意味の言葉を使います。人間は「自分は他と違うのだ」と思っています。そうではなく、「一即一切である」「一切とは一である」「一とは一切である」と、これが「その通りである」とわかることが彼らのサマーディなのです。「一即一切」はウパニシャッドに出てくるフレーズです。

単語は同じですが、お釈迦さまの場合はサマーディを「集中力」という意味で使用するのです。「一即一切」のような、形而上学的で意味不明な定義は捨てています。こころとは激しく動き回るエネルギーです。様々な対象のなかで、光の速度よりも早く走り回るのです。一つの対象だけを明確に認識することは決してしません。要するに、普通のこころは混乱状態でいるのです。
そこで意図的に、こころに一つの対象を明確に認識させるように訓練するのです。成功したら、ばらばらに働くこころが一束になったような働きをします。それをサマーディ(集中力)と呼ぶのです。「統一」という単語も使えます。こころが一束になって働くと、八つの段階で成長するのです。段階は八つですが、四つずつにわけて解説しています。

最初の四つは、身体にこころが依存した状態です。仏教用語では、色界禅定といいます。次の四つは、こころのエネルギーが身体から離れた状態です。仏教用語は無色界禅定です。これは現代人には少し理解が難しい状態です。「身体からこころが離れたら死んでいるだろう」と思うかもしれません。死んだわけではなく、こころが成長しただけなのです。こころが成長すると、身体が一時的に停止するのです。身体が停止しても死なないということは、現代人の知識では理解できないと思います。

・八種類のサマーディは仏教だけではなく、ほかの宗教でもあり得る・起こり得ることです。
・仏教では、八種類のサマーディの成長に「智慧の開発」という別な実践方法も加えました。
・神秘体験するのではなく、真理を発見することで、こころが最終的に清らかになり、自由(解脱)に達する方法です。
・智慧の冥想の場合も、四段階で成長が起こるのです。

サマーディ状態に達することができても、こころがずっと安定してくれる保証はないのです。修行が成功したと思って気を抜くと、集中力が弱くなります。こころは再び、様々な対象のなかで走り回る状態になります。要するに集中力が消えて、サマーディが無くなったということです。こころが様々な対象のなかで走り回るときは、再び欲・怒り・嫉妬などの汚れが現れてしまう。
お釈迦さまは、この状態のことを「解脱」だと思わなかったのです。こころを完全に清らかにして、二度と汚れない状態に達しかったのです。そのためには、「物事をありのままに知る」という智慧が欠かせないとわかったのです。真理を発見することが必要だと思ったのです。真理を発見した人が、再び闇に陥ることはありません。

この理論は、そんなに難しくないのです。わかったことは、もうわかってしまったことです。もう二度と忘れないのです。
生まれつき目が見えない人が、もし「世の中に色なんかは存在しない」と主張するとしましょう。それから良い医者の治療を受けて、目が見えるようになります。すると、その人は世の中に色が存在すると発見します。その発見は何が起きても変わりません。たとえ、その人の目が再び悪化して、見えなくなったとしても、彼は「世の中には色が存在するのだ」とわかっているのです。もとの考えには二度と戻れません。真理の発見とは、そのようなものなのです。

そういうわけで、お釈迦さまはインドの冥想世界に「智慧」を開発する冥想方法を紹介したのです。
冥想修行中に様々な神秘体験が現れても、超越した能力が現れても構いませんが、修行者の目的は「真理を発見して智慧を開発すること」です。神秘体験にも超越した能力にも捉われてはいけないのです。
お釈迦さまは八種類のサマーディに達する方法も、さらに進んで「智慧を開発する方法」も説かれたのです。智慧の開発もまた、四つのステージで起きます。仏教用語では、その四つのステージを預流果(よるか)一来果(いちらいか)不還果(ふげんか)阿羅漢果(あらかんか)と名付けています。

 

 

 

第三章 「それでも、冥想しなくてはいけない?」――強制的進化プログラム

ここまで、仏教の冥想に関して説明してきました。それでも「なぜ冥想をしなくてはいけないのか?」という疑問がまだ消えていないかもしれません。

冥想とは、強制的な進化プログラムなのです。皆さんにすみやかに理解してほしいのは、進化は強制的なほうがありがたい、意図的に取り組んだほうがありがたい、ということです。
私たち人間が進化を自然任せに放置したら、もしかすると退化して地球上から消える可能性もあります。自然界は、この先の未来も人間が生き続けるという保証はしていないのです。「適応できるものだけが残れ」というのが厳しい自然法則なのです。
それがゆえに、お釈迦さまは「それでは強制的に、意図的に進化しましょう」と提案なさっているのです。

 

進化もこころ

・人間の進化過程で、他の生命より頂上に立っているように見えます。

人間という種を他の動物と比較すると、私たちは頂上に立っているように見えます。なぜ人間が頂上に立ったのかという理由は、ダーウィンの教えでは説明がないところです。科学者には物質の研究しかできないので、とりあえず人間の身体を解剖してみるのです。比較のために、人間に近い猿も解剖してみます。そこで、発見するのは何でしょうか?

・人間の場合、身体を調べると脳が進化しているのです。

その中でも、違うのは大脳だけです。小脳と原始脳は猿と同じなのです。人間の場合は、チンパンジーよりもゴリラよりも大脳が進化しています。つまり、大脳が大きいのです。

・脳とは、見る、聴く、嗅ぐ、味わう、感じる、考える、判断する、行動するといった機能の指令を出している部位です。

犬猫も同じことです。見る、聴く、嗅ぐ、考える、ということをやっています。ある程度まで進化した動物たちには、大脳があります。その脳が、見る、聴くなどの仕事をして、生きるために必要な指令を出すのです。一般人向けの医学書などでは、脳が司令塔であるように書かれています。

・物質には指令は出せません。

司令塔はどのように働くのでしょうか? 脳に様々なタンパク質が現れます。身体の他のところでも、必要なタンパク質を作るのです。どこでどのようなタンパク質を作ればよいのかと、脳が神経を通して電気信号を送るのです。現代人の知識で、「脳の指令」と言っているのはこの働きです。指令だといいながら、すべて物質の働きとして説明しているのです。

そこで疑問に思うのは、「物質には他の物質に指令する力があるのか?」という問題です。どう考えても、物質は物質に指令を出しません。物質の組み合わせで、物質が自然に変化してゆくだけの話です。
上から石が落ちて、下にあった石に当たって、下の石が二つに割れました。上から落ちた石は、誰かの指令を受けて落ちたわけではありません。下にあった石に新しいエネルギーが入ったので、二つに割れてしまったのです。

物質の変化とは、そのようなものです。身体の中に起こる出来事も、物質の変化のみでは説明に困るところがあります。自然法則の変化はワンパターンなのです。
しかし、身体の変化はそうではありません。例えば、座っている人が立とうとする。立つ指令が下ったのです。しかし、立っている途中に、また座ることにする場合もあります。前の指令が、結果を出す前に変わってしまったのです。木の枝の熟した実を見て、今日か明日落ちるだろうと推測はできます。座った人が何分後に立つかと、どのように身体の変化を起こすかと、正しく推測することは不可能です。身体は物体なので、「あなたは二十時間、座ったままではいられません。必ず立ちます」などと大雑把でいい加減な推測はできますが、そのようなものに推測とはいえません。

現代人の知識で何をいったとしても、仏教的には「物質は物質に指令を出さない」と言わなくてはいけないのです。物質によって変化が起きているだけです。変化と進化は同じではないのです。
進化とは、ある方向へむかって変化することです。変化には、方向性を示すことはできません。身体の場合には、変化も進化もあるのです。方向性のある変化を、進化と呼ぶか退化と呼ぶかは、言葉を語る人の主観によります。

・身体の機能はこころの働きです。

指令を出しているのはこころです。その指令にしたがって、電気信号を起こす機械が脳です。こころとは物質を支配・管理するエネルギーであり、脳はこころの下で働く臓器に過ぎないのです。

身体の一部が壊れたら、修復できます。脳も身体の一部だとするならば、一部壊れたら修復できるはずです。脳の研究をする科学者たちが、脳を修復する方法を発見し、適切なプログラムを作ればよいのです。そうすれば、脳が正常に働かないゆえに起こる様々な病気を治療できる可能性は大いにあるでしょう。

仏教と脳科学が別れるポイントが、そこにあるのです。脳科学者たちは、脳が指令を出していると主張します。仏教の見方では、脳も臓器の一つに過ぎません。ただの物質なので、他の物質に指令は出しません。あくまで、指令を出すのはこころです。
こころの指令によって、脳をはじめ他の臓器にも変化が起きるのです。

・人類に到達するまで、生命の進化には四十億年もかかったといいます。
・しかし、知識が発展したため、年寄りには追いつけないスピードで現代人は成長・変化しているのです。

私たちみたいな年寄りから見れば、孫世代の子供たちを理解することすら難しいことです。それだけ進化しているのです。今は電子機械文明になっています。年寄りには馴染みづらい社会ですが、逆に孫たちにとっては電子機器のない生活を想像することすらできないでしょう。人間のあいだでは、十年二十年の年の差があるだけで、互いに理解できないことがたくさん増えるのです。

若い人々から見れば、年寄りの私たちが時代遅れで、退化しているように見えているかもしれません。わずかな時間でそれほど激しい変化は、動物界では起きません。人間は自分好みで手を加えて、犬と猫の身体の形を変えています。しかし、犬猫の精神状態を変えることはできないのです。セントバーナード犬とチワワ犬に形の違いはあっても、所詮は犬です。
人間の場合、形にはそれほど変化がなくても、精神的には際立った変化があるのです。

現代人の進化には、億年単位の時間はかかりません。十年単位で変化するのです。その変化は身体というより、脳の機能の変化なのです。この変化を起こしているのは、知識です。科学者たちが二百年かけて蓄えた知識も、その子供世代は一年で学んでしまいます。知識こそが進化を早めている要因です。

・こころの指令により、肉体的成長・文明・知識の発展が起こります。

現代に起きている激しい変化はすべて、知識によるものです。知識とはこころの管轄です。こころには、自分勝手に行動を惹き起こすことはできません。だから、身体という機械に徹底的に依存するのです。
身体とは、いくつかの臓器(機械)を組み立てて出来たものです。それぞれの臓器にはできることが決まっています。脳も一つの臓器であって、何ができるのかと決まっているのです。
私たちは機械を作る時も、様々な働きをする部品を組み立てます。機械が出来上がったからと言って、機能はしません。精密にできたテレビ・自動車・飛行機などの機械は、自分勝手に働いてはくれません。機械を動かすために、エネルギーを入れなくてはいけないのです。エネルギーを与えたら、前から決まっていたパターンで動いてくれます。
身体という機械には、こころというエネルギーが不可欠です。そのエネルギーが入ることで、各臓器は決まった動きをしてくれるのです。また、こころは各細胞の中で働くので、機械のように外からエネルギーを注入する必要はありません。

人には、言葉を喋るという機能が付いています。しかし、それに関わる臓器は勝手に動きません。喋りたいという意志が起きたならば、その意志に管理されて、発話をつかさどる臓器システムが働くのです。意志が働かなければ、脳には自分勝手に人を喋らせることはできないのです。

こころはいくつかの次元で機能します。私たちがよく知っているのは、考えたり、感情を惹き起こしたりする次元です。考える時の意志は明確です。感情が強くなると意志も強くなりますが、その時、私たちは意志があるか否かがわからなくなります。ですから、発作的にやりましたよ、といいます。思考と感情によって起こる身体の変化は誰でも知っています。
それから、「生きていきたい」という存在欲の次元でも、こころが働きます。心臓・消化器・肺・脳などは、存在欲という意志で動きます。存在欲とは、「生きていきたい、死にたくない」という気持ちです。人は存在欲に気づかないので、現代人はこのような働きに「無意識」と名付けているのです。

「生命は環境に適応する働きによって進化したのだ」というのは、ダーウィンさんの考えです。「すべては神の意志によって起こるのだ」というキリスト教会の教説が凶暴だったために、”On the Origin of Species”(『種の起源』)という本でも徹底的には説明していないようです。それから、たくさんの科学者の方々が自由に進化論を解明しました。今では、誰もダーウィンさんが間違っていると言わないのです。
科学者に研究できるのは、当然、物質の変化です。ですから、自分にできる範囲で、発見したデータに基づいて語るのです。

ここで、私は仏教の立場から、ダーウィンさんの進化論にもう一つファクターを加えたいと思います。それは存在欲というファクターです。生命は、環境に適応する努力によって変化したのですが、「生きていきたい、死にたくない」という存在欲がこころの中で起きて、その変化を惹き起こしたのです。
要するに、悪い感情に対応する目的で、細胞たちが反応したのです。考えることのみがこころであると勘違いしている場合は、納得いかない意見かもしれません。考えなくても、こころは働くのです。

ですから、ダーウィンさんに失礼かもしれませんが、私は「進化はこころの管轄です」と言いたいのです。こころがなかったら進化はありません。例えば、富士山にはこころがないので進化しません。しかし、変化はします。無常です。富士山の周りに住んでいる無数の生命たちは、環境に応じて進化します。それは、生命には皆、こころがあるからなのです。

 

・冥想とは強制的こころの進化プログラムです。

進化論から冥想というテーマに戻りましょう。仏教的に言えば、地球上に現れた進化は、こころの影響があるからこそ起き続けている出来事なのです。こころに存在欲がある限り、様々な変化がこれからも自然に起こるのです。
しかし、自然の流れには気が狂うほど時間がかかります。単細胞の生命が人間になるまで、約四十億年かかったと言われています。人間がより完成に近づくまで、さらに四十億年かかるのだと言われたら、どう思われますか?私たちにとっては、進化とはなんの関係もない話になるでしょう。
さらに、「肉体的に弱まっている人間という種が、そこまで生き続けられるのか?」という問題もあります。

そこで、偉大なる革命者であるお釈迦さまの提案があります。それは、「強制的にこころを進化させましょう」ということです。「決して、自然の流れに任せてはいけない」という話です。強制的な進化によって、これ以上の進化は成り立たないと言える頂点まで、こころを進化させるのです。それはまた、二、三週間で達成できることだと強調されるのです。
自然の変化は、進化になるか退化になるか決まっていません。強制的な進化の場合は、まぎれもない進化なのです。強制的に退化させることは、成り立たない話です。その点で考えても、進化・成長を自然の流れに任すのは、危険であると理解できるはずです。

次の問題は、「そんな話が信じられますか?」ということです。お釈迦さまは四十五年の間、インドの各地方で、十万単位で数えられるほどの成功者を輩出したのです。それから、二千五百年の仏教の歴史もあります。「確実に成功する」という保証もしているのです。何かの宗教に引っかかって、存在すらしない魂の救済を一生期待して死ぬくらいなら、ブッダの道を二、三カ月間試してみて、結果が現れなかったらやめればいいのです。
しかし、説かれたとおりに実行して、結果が皆無だったという人は、一人もいません。最後まで進めなかった人々は、その理由もわかっています。方法に問題があったのではなく、自分のこころの状況に問題があったと知っているのです。ここまで確かな道は、たとえ科学の世界であっても存在しません。この「こころの強制的進化プログラム」とは、一般の言葉でいえば、「ブッダの冥想」なのです。

 

 

こころの本来の姿

・こころは、存在欲・怯え・無知(貪瞋痴(とんじんち))という基礎エネルギーで働いています。

仏教はこころの科学ですから、こころについて明確に説明しています。こころというエネルギーを調べてみると、三つの衝動で動いていることがわかるのです。それは、存在欲と怯えと無知です。

・生きるとは、存在欲・怯え・無知というエネルギーを蓄えることです。

そこで、生きるということは、身体の仕事ではなくて、こころの仕事なのです。身体ではなく、こころが生きていきたいから、私たちは生きているのです。見たり聞いたりすることで、こころは基本衝動にエネルギーを蓄えます。いわゆる貪瞋痴に、さらに貪瞋痴のパワーを、エネルギーをずっとあげ続けているのです。生きるとは、ただそれだけのことです。貪瞋痴をどんどん貯金しよう、蓄えようと励んでいるだけなのです。

皆さんも誰だって、それをやっています。勉強すると、欲が増えます。あるいは怒りが増えるのです。仕事をするとは、欲を増やす、怒りを増やす行為です。あるいは、無知を増やす、行為なのです。料理や洗濯をすることでも、欲を増やし、怒りを増やし、無知を増やしているのです。映画を見たり、音楽を聴いたりしても同じことです。欲が生まれなかったら映画を見ません。恐怖映画でも、怖くならないと見る気にならないのです。恐怖映画とか、グロテスクな映画とか、バイオレンスな映画を通して、「もう嫌だ」という感じを得たいがために、わざわざ観に行くのです。集約すれば、生きるとは、存在欲・怯え・無知というエネルギーを蓄えることなのです。

・こころに「燃料切れ」はありません。

というわけで、こころに「燃料切れ」という事態はあり得ません。絶え間なく燃料が供給されている状態なのです。

・存在欲・怯え・無知を蓄えることが「生きること」になっているので、物質的・文化的な変化があっても、人間としては皆、昔から今まで、だらしない、恐ろしい存在なのです。

人類社会はものすごい文明を築いています。でも、人間を生命としてみたら、昔も今も全然変わっていません。生きるとはこころの仕事ですが、そのこころは貪瞋痴だけなのです。昔の人間も貪瞋痴で、江戸時代の日本人も貪瞋痴で、現代日本人も貪瞋痴です。

 

脳味噌の機能から説明

それから、脳の機能を説明します。脳とこころは一つではないが、現代人の知識世界では身体の機能の一環として、脳の機能もわかりやすく説明しているのです。脳を研究する人々は、こころとは脳の働きだと言っています。それは正しい結論ではないのですが、物質的なデータを重視する科学世界では仕方がないことでもあります。

・脳科学は人気のある学問になっています。

身体のことを説明している本よりは、脳の働きを説明する本のほうが、一般人も喜んで読んでいるようです。いまは脳の働きを調べる機械が開発されているので、新たな興味深い研究分野にもなっています。現代の脳科学は、昔の脳科学とはずいぶん違います。人の身体になんの悪影響も与えず、生きている脳をチェックすることができるようになっているのです。

・人間には、ものの理解はできるが、機能・働きの理解は難しいようです。

科学とは「もの」の理解なのです。触ったり、見たり、測ったりすることができる「もの」の研究なのです。しかし、働きがなければ、ものが存在するのだと発見することも不可能です。例えば、火は熱い。触ったら火傷します。その発見は、自分の身体に何か働きが入って、変化が起きたことなのです。
しかし、科学者はその働きを無視して、「火の熱さは何度か、火傷はどの程度か」と、もので理解するのです。人間には、機械やメーターが惹き起こすデータが必要です。機能を研究しないのです。

人間の知識はすべて、五根(眼耳鼻舌身)から入るデータに基づいたものです。五根に反応しないものを知る余地はないのです。ですから、「こころの働きを研究しよう。自己・自我とは何なのかと研究しよう」と思って、脳という物体・ものを調べることになるのです。
仏教の場合は、はじめから機能・働きの研究であって、ものの研究ではないのです。仏教では、物質について説明をする時でも、原子・電子など、ものの単語は使いません。定義する場合も、こころと物質を機能で定義するのです。

・こころの科学的な説明は、脳の説明になります。

例えば、人がものごとを見るとしましょう。科学者は、脳のなかで視覚が生まれる場所を割り出そうとします。脳細胞のなかで、電気信号がどこを行ったり来たりしているのかと調べるのです。働きを使って、「もの」を探しているのです。仏教の立場から見ると、逆さまのやり方に思えてしまいます。
仏教では、「働きがあるからものがあると推定するのだ」という立場なのです。「脳がある」とは、何か働きがあるから発見することです。
見る・聴く・嗅ぐ・考えるなどの働きを通して、脳のなかにそれぞれの仕事を司るモジュールがあるのだと、脳科学者がいうのです。脳科学者の立場は、モジュールがあるから働きがある。仏教の立場は、働きがあるからモジュールがあると推定する。
現代脳科学では、脳細胞の仕事は固定したものではなく、定まっていないといいます。見る機能を司るモジュールの神経細胞に何かトラブルが起きたら、その仕事は他の神経細胞にやらせることも可能なのです。ただし、それなりの訓練は必要です。

昔の脳科学では、例えて言えば「水はグラスで飲むことに決まっている」というような話です。しかし、水を飲みたければ、グラスでもカップでもお皿でもできます。手のひらで掬って飲むこともできます。蛇口に口をつけて、飲むこともできます。たいした訓練ではありませんが、ある程度訓練していないと、どんな器を使ってでも水を飲むことはできなくなるのです。
現代脳科学は、「神経細胞に定まった機能はないが、ある程度で役割分担しているのだ」という立場です。スプーンでも水は飲めるが、紙コップかグラスを選ぶことに決まっている、というような話です。

・脳の働きを学んでみても、冥想をする必要はわかります。

神経細胞には、ある程度の働きが自然法則によって与えられています。定まっているわけではないのです。それから、使わない、使えない、使うチャンスが起きない神経細胞もたくさんあります。進化論の立場から考えると、無駄・役に立たない・必要でないものが存続するわけがないのです。
ではなぜ、脳のなかに必要以上に神経細胞が溜まっているのでしょうか?使わない神経細胞も使うことができるならば、われわれは奇跡的に進化できることでしょう。仏教はそれを推薦しているのです。人間に、超人間になる道を教えているのです。
ですから、冥想とは、使われていない脳細胞に仕事ができるよう訓練を施すことです。併せて、使っている脳細胞にも失敗なく仕事できるように訓練することです。

 

 

 

第四章 脳開発としての冥想――大脳を奴隷状態から解放する

ここからは、原始脳と大脳の葛藤、そして脳の開発という視点から、冥想実践の意味を考えてみたいと思います。

 

原始脳と大脳

・原始脳はほとんどの生命にあります。

脳細胞がなくても、しっかりと生きている生命はいます。しかし身体の細胞の数が増えていくと、細胞が組織化されるのです。それを管理する細胞組織も必要になります。ですから、身体が大量の細胞でできている生命の場合は、脳が現れてくるのです。それは原始脳と言われるものです。原始脳の仕事は、様々な細胞組織を管理して命をつなぐことです。思考能力がなくても、この作業はできます。

・開発した大脳は、人間の特権のようです。

哺乳類には大脳組織もあります。たくさんの仕事をしなくては、生き続けられなくなったということでしょう。身体の大きさに比例して、大脳が大きくなります。しかし、大型動物の大脳と人間の大脳を比べると、人間のほうが比較的に大きいようです。大きな大脳を持つ他の生命と人間を比較しても、人間のほうが大脳を中心的に使って生きているようです。ゾウさんたちと違って、われわれは激しく思考しないと生き続けることができないのです。

・しかし、大脳は原始脳が出す指令で働くのです。

そこに問題があるのです。人間は大脳中心に生きていると言っても、その大脳は原始脳の指令で働いています。大脳が発達していると言ったところで、人間も他の生命と同じく、「いかに生き延びられるのか?」ということしか考えていません。大脳の能力をすべて、生き延びる目的で使っているのです。それは大した能力ではありません。どんな生命にも、自分の寿命を延ばして生きることはできないのです。脳がない生命も、脳がある生命も、結局は自分の寿命として許される範囲で生きて死ぬだけです。
大脳を活発に使っているからと言って、人間に他の生命より優れていると自慢することはできません。人間の大脳は、原始脳の指令に縛られているので、開発不可能な状態に陥っているのです。

・見る、聞く、……考える、判断する、意思で行動する、善し悪し、価値観などの働きは、大脳がやっています。
・それらの働きは、完全無知な、感情だけで働く原始脳の指令で行なわれているのです。

見る、聞く、判断する、考える、善し悪しを決める、価値観を持つ、などの働きは、大脳の仕事です。例えば、一個の石ころを取って、大脳で判断を行ないます。「これはルビーです。五百万円の価値があります」とする。また他の石を取って、「これはただの石ころです。なんの価値もありません」と決める。実は、両方とも石ころです。
しかし大脳が、石ころAは高価なものであり、石ころBにはなんの価値もない、と区別するのです。この判断は、決して科学的、客観的で正しい判断とはいえません。生き続けたい、という欲の感情によって下された判断なのです。

大脳は頑張っています。正しい判断をしようと努力もしている。しかし、その大脳は、裏で原始脳に支配されているのです。
そのため、すべての判断は、「生き延びられるのか? 死を避けられるのか?」という二つのバイアスに制約されます。存在欲・怯え・無知という三つの感情に支配されているがゆえに、大脳には、ありのままの事実を発見する客観的な判断ができないのです。大脳には、「真理を発見できない」というハンディがあるのです。

 

大脳は奴隷

存在欲と怯えと無知のみの原始脳が、大脳に信号を送ります。
・大脳はその信号に反応する奴隷になっているのです。
・その結果、存在欲と怯えと無知の感情が増大します。

例えば、「怒ってはいけない」と大脳は知っています。しかし大脳に、怒らずにいることは不可能です。原始脳から怯えの信号が入ると、大脳は怒るのです。怒ってしまって悪い結果になったり、生きることが苦しくなったりすることも大脳は経験しますが、「怒ることはいけない」と原始脳に教えてあげることはできません。怯えの感情が入ると、人間も他の生きものも戦いに行きます。生き延びる目的で戦うのです。客観的に見れば、生き延びるための戦いで自分の命を失うという矛盾です。
しかし、その話は、原始脳に理解不可能なのです。戦いで負けそうになると、さらに怯えが増して、大脳に強烈に信号を送るのです。大脳は後先の結果に構わず、原始脳の指令に従います。怯えの指令で動いた大脳が、原始脳の怯えをさらに増大させる、という結果を出すのです。

欲の感情で活動すると、欲が増大する。怒りの感情で活動すると、怒りが増大する。無知で活動すると、さらに無知が増大する。客観的に考えると、悪循環のまずい状態です。
しかし、大脳は奴隷なので、原始脳という主人の指令に従順でいるしかありません。そもそも、逆らう力を持っていないのです。

・生きていきたい、死にたくはない、敵をつぶしたい、などの信号が原始脳に現れます。
・客観的なデータを知ることができる大脳は、「それはその通りに行かない」と知っているのです。

生きていきたい、死にたくない、という気持ちは、皆さんもお持ちでしょう。しかし、少々考えてみてください。死にたくない、という希望は、決して叶わないものです。生まれた生命は皆、必ず死ななくてはいけないのです。あえて言わなくても、誰でもわかっていることです。でも、わかっているからと言って、生きていきたい、死にたくない、という希望は消えるものでしょうか?

人は誰だって死ぬ、自分も死ななくてはいけない、という事実は大脳で知っているのです。しかし、私たちはその事実を認めたくはないのです。事実はどうであろうと関係なく、私たちは、生きていきたい、死にたくはない、命を脅かす出来事に対して恐怖感と怒りを抱きます。それは原始脳の管轄です。
大脳は原始脳の奴隷なので、事実を知っても主人に逆らうことができないのです。事実を知ることは、大脳の管轄です。事実を知っていても、仕方なく無知な行動をするのは、原始脳の指令のためです。

今日は車で来る時に、お年寄りの書いた川柳の本をいただいて少し開けて読んでみたところ、「延命は 不要と書いて 医者通い」という一句がありました。年を取っているのだから延命治療はいらないよ、と言いつつも、今日も診療所に通っている。まさに、これなのです。

ですから、「延命治療はいらない」と言っているのは大脳なのです。この川柳を読んで、「これは大脳と原始脳の戦いぶりをちゃんと表現しているのだ」と私は理解しますけど、歌を書いた人もそうはわからないでしょう。自分の矛盾に笑っているだけです。大脳の思う通りにいかないとわかっているのです。

奴隷は葛藤を感じながら、病みながら、失望感に(さいな)まれながら、行動します

悩み・苦しみ・葛藤は、大脳が感じるものです。明るく自由に行動することは、大脳にはできません。大脳の仕組みから考えると、葛藤がないほうが仕事をしやすいのです。悩みではなく喜びを感じるならば、充実感を憶えるならば、仕事をしやすいのです。
しかし大脳に、この機会は一向に訪れません。大脳は原始脳の奴隷です。奴隷に自由はありません。素直に笑うことはできません。幸福は感じません。惨めに原始脳の指令に従わなくてはいけません。これが大脳中心に生きていると思っている人間の、本当の生きかたなのです。

 

大脳の開発

冥想とは、脳の開発だともいえます。
・原始脳に人質にされている大脳を救済することです。
・生きることの支配権をその資格のある大脳に与えることです。
・それは、生まれた時点でついている脳のプログラムのままでは達成できません。
・新たなプログラムを作らなくてはいけないのです。

英語ではhardwiringといいますが、生まれた時点で脳の基礎的なワイヤリングができていて、配線が繋がっているのです。しかし、その基本的な配線のままではダメです。生まれたままの配線の機能をストップさせて、新しい配線をしなくてはいけません。新しい配線では、大脳に支配権を与えます。せっかく肉体的に進化したのだから、これを全面的に使うことにするのです。

運転がまるっきりできない人が、高級車のポルシェを買ったとしましょう。買って、店の人が家まで車を運転してあげてガレージに入れてくれる。ポルシェを買えるくらいだから、どうせ金持ちでしょう。ガレージもあります。これで意味がある?それで誰かが、「あなた運転を習いなさい」と運転免許を取らせてあげて、やっとポルシェの価値が出てくるのです。

私たちもポルシェどころではない、もっと何千倍も価値のある大脳を持っているのです。皆、大変な価値のある大脳を持っているのに使えないのです。免許証を持っていないようなものです。それでは、宝の持ち腐れになります。
大脳を自由に使える能力さえあれば、人間は幸福になれます。むやみに欲張ったり、他人と戦ったりすることなく居られます。人は必ず死ぬ、ということは事実なので、生きるときは執着なく、穏やかに、安穏に生きることができるのです。
冥想実践とは、脳に新たなプログラムを書き加えることです。苦しみばかりを作る、悪循環のプログラムを削除するのです。大脳を正しく使って、幸福に生きる能力を身につける方法が、冥想なのです。

 

脳開発のメリット

・大脳の指令で生きるというプログラムは、今までのプログラムと180度違います。

そう思いたくはないという気持ちはわかりますが、人間の生きかたは、他の生きものとなんの変わりもないのです。自分は優れていると、皆、思っています。
しかし、証拠は何もないのです。自分が優れているという錯覚によって、自分で自分の脳を洗脳するのです。そうすると、生きるための(から)勇気が現れるようです。

脳を開発すれば、このみじめな生きかたが全く変わります。葛藤のない、悩みのない、落ち込みのない、失望感のない、苦しみのない、死ぬのは怖いという怯えがない、何にも囚われない、自由な生きかたを得られます。大脳を開発した人こそが、完璧な科学者であるというべきです。そして、完璧な現実主義者になります。
完璧な現実主義者なら、死ぬのは怖いと思わないでしょう。その人にとって、死は変化し続ける現象のなかで起こる、ある一つの現象に過ぎないのです。「生きるとは、瞬間瞬間に起こる生死の流れである」と、わかるのです。驚くことでも、大胆な出来事でもありません。あってはならないことが起きたわけではないのです。

脳を開発していない場合は、死という現象を考えたくもないし、認めないのです。病気になりたくはないから、いざ病気に罹ると、「あってはならないことが起きたのだ」という気持ちになって激しく精神的に悩んで落ち込みます。冷静でいられなくなります。
脳を開発した人にとって、あってはならないと言える現象は、何一つもないのです。老いること、病気になること、親しい人と別れること、財産がなくなること、自然災害に遭遇すること等々の一つとして、あってはならない現象ではなくなるのです。ですから、何が起きてもこころの安穏は揺らぎません。希望を作って悩まないのです。希望とは、人間のエゴの錯覚から現れる、自然法則に逆らう足掻きであると、もう発見しているのです。

要するに、世にいる普通の人間とまったく違う、超越した人格者になっているのです。原始脳は大脳を支配しません。原始脳は細胞の維持管理をするという、自分の本来の仕事だけをするのです。大脳は事実に基づいて、なんのバイアスもなく、正しい判断を下します。人生から「失敗」という言葉が消えるのです。

ここまで述べた脳の開発には、まじめに冥想をすれば、だいたい二、三週間で達することができます。コツコツやったとしても、一ヶ月、二ヶ月続けると、人格はそれなりに変わっています。ブッダの冥想では、100%の確実性で結果が出るのです。

・新たな神経回路を丁寧に作る作業が冥想実践です。
・今までの生きかたでは、いくら頑張っても一向に幸福にはならなかった。安らぎはなかった。平和は成り立たなかった。苦しみは絶えなかった。
・では、大脳に命の支配権を与えてみたら如何でしょうか?

生命が四十億年かかっても果たせなかった脳の進化が、すぐに達成できます。

・要するに、今まで人類が悩んできたすべての苦しみ・問題は、冥想が成功すると消えるのです。
・文化的・文明的な変化はあっても、人間はいにしえから問題ばかり抱えています。
・脳の開発・冥想実践によって、精神的な問題、生きかたに関する問題が消えるのです。

 

 

 

第五章「常識」的な人間・人生とは――私たちの生きかたを素直に観察する

ここからは、常識的な人間とは何か、私たちの生きかたはどうなっているのか、というテーマについて素直に、正直に、インチキなしに観察してみましょう。

 

目標に向かって

・皆それなりの目標・目的を作って、それに向かって生きようとしています。
・しかし、ブリザード(大吹雪)を防寒服もなく、通り抜けるような厳しい生きかたになるのです。

ある目的・目標に向かって生きようとするけれど、その道はブリザードを通り抜けるように厳しいのが現実です。私たちに、その道を歩きとおす力はないのです。防寒服がないので、じきに死んでしまいます。ほとんどの人間が、目的に達しないまま死ぬのです。
はっきり言えば、すべての人間は、悔しさを抱いたまま、嫌々、死ぬのです。これが現実です。

・社会からの攻撃は計算済みです。

私たちが何かやろうと思ったら、社会はそれに攻撃します。しかし、これは初めからわかっていることです。学生さんたちが、就職のために面接に行くと、ほかの学生さんたちも応募しているので競争になることはわかっています。これは悩みの種になりません。ある会社が四人の求人を出したところで、二百人が就職試験を受ける。四人しか選ばれないということは、二百人の誰もが覚悟の上です。その場合、自分が選ばれなかったのは、自分より点数の高い仲間がいたからでしょう。それは社会的な攻撃ですが、誰も問題にしていないでしょう。

・自分のこころが内から反対して、破壊行動を起こしていることに気づかないのです。

私たちのこころが、破壊行動をしていることが問題です。この事実に気づいてほしいのです。
人は皆、社会と競争して負けるのではなく、自分のこころの攻撃に負けているのです。何をしようとしても、外から来る障害はわかりきっています。それには勝っても負けても、皆、納得するのです。
しかし、こころは成長したくない、怠けたいのです。それで何かに挑戦すると、やる気を失ってしまいます。「自分にはできるはずもない」と、精神的に負けを認めて落ち込みます。また、「いま面倒くさいんだから、あとでやります」と、やるべきことを延期します。それが怠けです。
またこころは、別な面白いことがあるのではないか、と思ったりします。こころにとって面白いことがあるならば、すでにそれをやっているはずです。それなのに、大事なことに挑戦するときに限って、「別な面白いことがあるはずだ」という気分になりがちです。すると、こころが曖昧状態・不安に陥って、挑戦をやめてしまうのです。
「内から来る攻撃」とは、そのようなものです。

 

こころの反撃行為

・「わかっちゃいるけど、やめられない」というフレーズで表現される状態です。

これは日本でよく使われる言葉ですが、なかなか立派なフレーズです。これが私たちの本当の状態であり、常識的な生きかたなのです。どんな人間も、「わかっちゃいるけど、やめられない」のです。これはなぜかと仏教から分析すると、「あなたの大脳が奴隷・人質にされているから」という答えが出ます。大脳を奴隷にしている、人質にとっている犯人は、原始脳なのです。

・怠けたくはないが、怠ける。
・欲張りたくはないが、欲張ってしまう。
・怒りたくはないが、怒ってしまう。
・無知なことはしたくないが、無知なことばかりしてしまう。

○○したくない」と思うと、逆にひどくなってしまうのです。私は無知なことはやりたくないのに、他の人よりもやってしまう、という状態に陥るのです。怒りたくない、怒りたくないと思っていても、他の人より怒ってしまいます。

・必要なことを学んで憶えたいが、必要なことに限って忘れてしまう。

いらないことなら、いくらでも憶えているでしょう。認知症になる方々も、必要なことは全部忘れてしまうのに、どうでもいいことばかり憶えているのです。

・勇気を出せない。
・自信がない。
・根拠もなしに怯えている。
・明るく活発に生きてみたいが、こころは悩みで、心配で、落ち込みで、暗黒状態にある。
・嘘をつきたくはないが、ついてしまう。
・正直に生きたいが、現実はその反対です。
こころを清らかにしたいのだが、やればやるほど汚れてしまうのです。

人間として一番タチが悪いのは、他人に「こころ清らかにしなさい」と教える宗教家・聖職者だったりするでしょう。人間の社会はそんなものなのです。

・「エゴをなくしたい」と努力すると、結果は気持ちの悪いエゴイストになって終わってしまいます。

結局、何一つも上手くいかないのです。

 

・外からの攻撃はなんとかなるが、内からの攻撃に勝てるでしょうか?

先ほど出した例ですが、入社試験に二百人が応募した。しかし、四人しか選ばれない。ある学生さんのお父さんが、この会社の社長と大変仲良しで、「ちょっと酒でも飲まないか?」と社長を高級レストランに呼んで、仲良くごちそうを食べて、「実は俺の息子がお前の会社の試験を受けた」と打ち明ける。そうすれば、「ああ、そう。名前は?」ということで、コネで受かってしまうでしょう。公の場合は違法ですけど、民間企業の場合は別に不正行為でもないのです。

ということは、外からの攻撃は裏で手をまわしてでも回避することはできます。しかし、内からの攻撃はどうにもなりません。お父さんは裏から手をまわして、我が子が仕事に就けるようにしてあげようと頑張ったのです。しかし、我が子にやる気がなかったらどうなる?自信がなかったらどうなる?わがままだったらどうなる?もう終わりでしょう。

 

内から壊れるこころ

・こころは貪瞋痴の感情によって活動します。
・貪瞋痴には、正しい判断も、正しい活動もできません。
・その上、生命は、安らぎ・安穏・幸福などを期待するのです。
・しかし、こころの基本衝動は、苦しみ・悩み・失望・落ち込みなどの結果をもたらす貪瞋痴です。

私たちは安らぎを欲しがるけれど、原始脳で、貪瞋痴によって生きているから、安らぎ・安穏・幸福などはあり得ないのです。貪瞋痴からは悩みしか生まれません。失望しか生まれません。

・だから、生命は自分が期待する目的に達する方向ではなく、反対の方向へと歩むのです。

すべて人間がそうなのです。さまざまな立派な目的を作って、それを目指して生きようとします。しかし、その生きかたは貪瞋痴に指導されているので、結果が現れる方向とは逆に進んでしまうのです。人は目的をめざしてガムシャラに努力する前に、内からの攻撃に対応する必要があるのです。

・要するに、こころは内から壊れるものです。
・自分の敵とは、結局、自分自身なのです。

 

Diso disa ya ta kayirā, verī vā pana verina;

Micchāpaihita citta, pāpiyo na tato kare.

Dhammapada 42

 

敵が自分の敵に対してやることよりも酷いことを、
育てていない、調教していない我がこころが、自分自身にするのだ。

憎む人が憎む人にたいしてやるよりも酷いことを、調教していない心は自分自身にする。

 

 

こころは放っておくと堕落する

・植物などは放っておくと元気に成長することもあります。
・自然をいじらないで放っておくならば、早く元に戻るのです。

たとえば人類は自然をさんざん破壊していますが、この地球上から人間が消えたら、わずか数十年で自然は見事に元に戻ると言われています。自然は人間が作った不自然なものを壊して、ものの見事に、もとの均衡状態に戻るのです。

・しかし、こころは反対の方向へ働きます。
・こころは放っておくと堕落するのです。
・汚れて悪に染まってしまいます。

他のものならば、放っておいても構いません。病気になっても、死に関わる病気でなければ、放っておけば治ります。しかし、こころだけは、決して放っておいてはならないのです。

 

結論――未完成のまま惨めに人生を終えたいですか?

・したがって、人は必ずこころを育てるべきです。
・こころを清らかにするべきです。
・信仰や迷信などに染まった、非科学的、非論理的な無責任な方法ではなく、お釈迦さまの説かれた現実的な実践方法で、こころを着々と育てなければならない、ということになります。
・人が冥想しないならば、他に何をすべきだと言えるのでしょうか?

人は何をすればいいのでしょうか? はっきり言えば、ただ冥想するべきなのです。他はすべて、二の次のことです。

・人格を完成し、幸福に満たされ、悩みを乗り越えて、人生を終えたいですか?
・答えがYESならば、冥想実践することです。

他に方法はないのです。

そういうことで、冥想実践はこころが成長する、こころが進化する強制的プログラムです。こころの進化は、四十億年待たないでも、四十日あれば完成する強制プログラムです。これをやらなくてはいけないのです。

話はこれで終了です。どうもありがとうございます。


 

 

 

 

気になるところのまとめ 

ヒトの脳はものすごく進化(変化)しているが、いまだ原始脳で生きていて、大脳に適応した生き方ができていない。

 

自然進化が起こるまで万年単位で待つべきか?

 

意図的に進化しよう。大脳を取り外すわけにいかないのであれば、それに対応できるココロを作る必要がある。

意図的に行うものなので、「成長」もしくは「向上」という意味です。

 

こころは、条件がどうであっても退化しようとする性質を持っています。

 

冥想の起源

もしかしたらモヘンジョダロ、ハラッパー?

ここから出土した宗教家が冥想しているように見える印章が発見された。

BC600年にアーラニヤカ(森に住む)という大部のバラモンの文献が現れます。

 

 

仏教とヒンズー教の違い    魂のリインカネーションと瞑想の定義

ヒンズー教 肉体を動かしている力は魂である  魂は永遠不滅、至福    魂を浄化させるのが修行の目的

ジャイナ教 魂は全知全能である

 

釈尊 「魂を浄化しようと励む前に、まず魂があるか否かを確かめなさい」

    仮説を立てるのはいいが、それは証明しなければならない。ヒンズー教では断定して疑わなかった。

    修行の結果、「魂というものはない」という結論に明確に達した。

    無常という事実はすべての現象に対して当てはまる。

    無常でなければ世の中は成り立たない。

 

 

仏教の冥想とは、ココロの科学である。Bhavanaすなわちココロの成長・向上のプロセスである。

ヒンドゥー教の冥想とはyogaのことで、梵我一如で合体させること。

 

サマーディとは

精神的な成長、集中力、統一のこと。

Cf. ヒンドゥー教ではsamodhanamと言い、一つにまとめる意味で、すべては一つで、一つはすべてである「一即一切」を指す。

 

 

解釈とは見解、すなわち推測、過去の学習による意味付けでしかない

冥想により各自、各宗派は新たなことを体感し、これを既知のシステムをつかって解釈して合理化する。

解釈とは推測のことである。推測のパターンは既知の学習による因果関係に依存する。

 

釈尊は、人の冥想体験を否定しない。ただその体験を各自の信仰、哲学に合わせて解釈するところが疑問になる。

「修行者の解釈は見解である」  象を触る6人の盲人

 

 

ココロが物質に指令を出す、仏教では。

脳とは内臓、物質は物質に指令を出せない。神経学や物理学では可能だとされている。

それは指令ではなく、物質によって物質が変化しているだけ。

進化はある方向へ向かって変化すること。

変化には方向性はない。

身体は変化も進化もある。

 

ココロとは

ココロが指令を出し、それに従って電気信号を起こす機械が脳です。

物質を支配し管理するエネルギーのこと。

脳はココロの下で働く臓器です。

ココロは行動できないので、身体という機械に徹底的に依存している。

 

進化論   ココロから始まった

生命体の「生きていたい」「死にたくない」という存在欲がココロの中で起きて、環境に適応した変化をひきおこした。

感情に対して細胞が反応した。

脳がなくても、考えなくてもココロは作動します。

植物や微生物やホヤのように。

生命体のココロに存在欲があるから、様々な変化がこれからも起きる。

 

ココロのエネルギーは?

存在欲、怯え、無知(貪瞋痴)、この3つの衝動が基礎エネルギー

ココロは貪瞋痴の感情によって活動するので正しい活動ができない(苦しみ、失望、悩み)のに、大脳は平和、安らぎ、安穏、幸福を期待する。

立派な目的を作って、それを目指すのに、結果は貪瞋痴の誘導された反対の方向に向かう。

ココロは外ではなく、内側にある調教できていない存在欲、怯え、無知によって壊される。 ダンマパタ42

 

ココロは自然の状態に置いておくと堕落する。つまり大脳が望む清らかな世界から見ると汚れて悪に染まる。

 

 

 

 

科学の限界

人の知識は五官器官から入るデータに基づく。

これに反応しないものは知る余地がない。

ココロや自我の働きを研究しようとしても脳という物体を調べるしかない。

 

仏教は機能を研究する。

働きがあるからモノがあると推定する。