一切皆苦 どうしてこの世に苦を感じないのか
幻想の中で暮らしていればこの世の苦は感じない。
生まれついた時から備わっている不幸
3つの先天的感情 欲・怒り・無知 貪瞋痴 トンジンチ
これらの煩悩が苦しみを産み出す。
これが自然の法則である。
諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。 Aniccā vata saṅkhārā uppādavayadhammino,
生滅(へのとらわれを)滅しおわりぬ、寂滅をもって楽と為す。 Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho
パーリ仏典, 長部16, 大般涅槃経
「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。
「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」後半偈は還滅門。
「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではない。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけである。
生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。
生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。
この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。
生きていなくてはならない理由
Kama tanha 欲愛 肉体は常に刺激を欲しがるのが特徴
Bhava tanha 存在欲 細胞は刺激に依存しているので、これによって生きようとしてしまう
Vibhava tanha 破壊欲 肉体の依存の無いところに永遠があると思い、肉体を超越する怒りの感情
生命体は感覚にタグをつけて二つに分けてしまうので無明である
Avijja 無明 ありのままの現実を発見していないこと 無知のこと
Tanha 渇愛
細胞の仕事は、ココロに入力されるデータをフィルターにかけて、存在欲を支えるか、もしくは邪魔するかの二つに振り分ける。
ココロは二種類の色眼鏡を通して世界を知ろうとしている。これでは、ありのままに観察することができない。
すなわち、すべての生命に無明がある。
罪とは原始脳の要求を抑えられなくなった大脳管理システムの故障。
痴漢 原始脳 可愛いものを触りたい 大脳 相手は嫌がる
この葛藤がストレスなのだが、どうすれば管理システムが故障しないように気を付けることができるのか?
生きるとは疲れること
dukkha
苦とはパーリ語のdukkhaのことで、痛みという解釈もあるが、上座部仏教では欠けているもの、不満足性、不完全性という訳のほうが文脈に合う場合が多い。
上座部仏教ではDukkhaとは涅槃(解脱、仏性、本来の面目、空)への道の気づきの大切な魂への門であり、道標であるという解釈をする。
DukkhaとはAnicchaという諸行無常とセットで体感して理解するものなので、漢字の苦とは同一ではない。
現象界は無常なので、それに固執すると痛みを伴ってしまい、満足できない状況であるという意味である。
そしてこの「苦」のおかげで最終的にAnatta(諸法無我)と一体になる。
dukkhaの対語はSukha 幸せなので不幸miseryと訳すのが通例である。
釈迦は、体の感覚とはdukkha vedana、すなわち苦の感覚であると明言している。
これらの3つを体験すると現象を分析して精査することで現実をとらえ、例えば美の奥側にある真実を理解できる
渇望や執着、および情欲や貪欲がドゥッカ(dukkha、苦)の源泉であり、そしてそこから抜け出す唯一の道は徹底的な観察であること。
抑圧し、そして/あるいは、表出することには、いずれにせよ大して価値はありません。深く理解することが大切なのです。
Lakkhana 3つの特徴
anicca 無常impermanent
dukkha 苦 満足できていない状態 unsatisfing suffering
anatia 無我 no-ego この世は波動なので「我」は表層だけでのカタチ 深層では「我」と現象は一体化している。
一切皆苦の「苦」の原語は、パーリ語ではドゥッカ(dukkha)であり、パーリー語の場合には単に、日本語の「苦しい」という意味だけではなく、「不満」や「価値がない」といった意味合いもあります。
阿毘達磨(アビダルマ)文献によれば、苦は「逼悩」の義と定義される。「圧迫して(○○に)悩まされる」という意である。
これは自分の脳からの視点から見ると、「自分の思い通りにならない」ということです。
次にこれを仏の視点から見ると、「あらゆるものには執着するほどの価値がない」といったニュアンスも持つ。
この苦には二つの用法がある。
一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。
前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。
後者は、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どのような立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。
お釈迦さまが「Sati の実践によってのみ解脱に至れます」と説かれているのです。
それほど大きな力を持っているはたらきなのですから、sati を理論的に説明することは容易ではありません。理屈で理解するためには厖大な学問が必要です。Sati については理屈で理解しようとするよりも、自分で実際に修行をして体験してみるのが一番てっとり早くわかり、しかも自分の人生にもたいへん役に立ちます。
もし「気づき」がなければどんな状態になるのか?
「聞くこと」を例にしてみると、耳に音が入った瞬間に「気持ちのいい音楽だ」「悲しい思い出がする」などと感情や記憶や固定概念で、瞬間的に気持ちがよくなったり、イヤになったりします。
このように、「聞くこと」によって煩悩(欲・怒り・無知)が自動的に無意識の内に生じてしまいます。
音に「怒りなさい」と命令されると怒り、「執着しなさい」と命令されると執着する。まるで音の奴隷状態です。音だけではありません。「見るもの・音・匂い・味・皮膚感覚・妄想や思考」という六つの感覚器官から入る情報に、私たちは命令され、支配され続けています。そしてそれによって自分のココロを煩悩に差し出しつづけるという羽目に陥っています。感覚の対象(この場合は音)によって、意識が操られているのです。この支配されている状態から離脱するのがsati (気づき)です。自分の感覚に気づくことによって、欲や怒りの条件反射を止め、これを続けることで、煩悩が生じない状態に移行していきます。
といっても、好きな音楽が聞こえた時、「音」に気づこうとしても、直ちに惹かれる気持ち(執着)がなくなるわけではありません。Sati を長年、毎日毎日正しく積み重ねていくと、条件反射としての対象への執着が薄れてくるということです。この練習をしていると、少しずつ六感から入力される情報に束縛されないようになっていきます。
そして、Sati をちゃんと実行していれば、集中力(サマディ)、智慧(パンニャ)、精進などが意図せずともついてきます。ですからお釈迦さまは、「精進しなさい、智慧を育てなさい」ということよりも「sati を絶えずがんばりなさい」ということをずっとおっしゃっています。
Sati の実践は「その時、その時、今の瞬間の自分に気づいていく」というとても簡単なやり方なので、年齢を問わず、修行を始めてすぐの初心者から実践できます。そして sati を正しくつづけると、その人を人格者に育て上げ、究極の悟りまで運んでくれ、解脱するところまで成長させる道だと説いています。Sati の道は、涅槃まで一方通行で進ませる不思議な道です。これは、何か神秘的な体験を得る道ではありません。
TANHÂ:渇愛 タンハー
Idam kho pana bhikkahave dukkhasamudayam
ariyasaccam.Yâyam tanhâ ponobbhavikâ
nandî râgasahagatâ tatra tatrâbhinandinî
seyyathîdam.Kâmatanhâ bhavatanhâ vibhavatanhâ.
『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。
苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち、五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)
tanhâ(タンハー)とは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています。
渇愛の特色の一つは『punabbhava』。これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです。たとえば欲深い人はそれなりに色々なことをしていくし、立派な人間になりたいという人もそれなりに色々なことをしていきます。そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません。「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません。次から次へと「何かになること」をくり返していきます。
次に『nandî râgasahagata』。nandî は「喜び」。râga は「愛着」。両方とも喜ぶ心です。 sahagata は「伴っている」。渇愛には喜びが伴っているというのが、二つ目の特色です。三つ目は、『tatra tatrâbhinandinî』。tatra tatraは「その場その場で」abhinandinî は「喜び」。自分の状態をことごとく気に入っていること、大事だと思ってしまうことです。渇愛の三つの特色のうち二つまでが喜ぶことで、とにかく渇愛を喜ぶ心が私たちの中にいつでもあるのです。「渇いている」というと苦しいようですが、生命は何かを探し求めていくことを気に入っていて、いくら苦しくてもそこから離れたいとは思いません。決して自分の生き方を捨てたくはないのです。幸福な人がその状態を楽しむのはわかりますが、不幸な人でさえ、自分の状態に愛着しています。すぐに怒って喧嘩をする人はそれがよくないとわかっていても、やめたくありません。病気になったら、病気が生き甲斐のようになってしまいます。そういうふうに生命のシステムができているのです。
次に、渇愛には三つの側面があります。三本の糸を寄り合わせて一本にしているような状態なのです。その三つとは『kâmatanhâ』『bhavatanhâ』『vibhavatanhâ』です。
『kâmatanhâ』は五官(眼耳鼻舌身)に刺激を与えたいという欲です。食べたり、運動したり、遊んだり、勉強したり、仕事をしたり、結婚したり、離婚したり、すべて五官に刺激を求めているのです。私たちの生活はほとんどこの kâmatanhâ という欲によって動かされています。
『bhavatanhâ』というのは生存欲です。「生きていきたい」「死にたくない」という気持ちです。
次の『vibhavatanhâ』というのは破壊欲、「嫌なものを排除したい」という欲です。生命は生きていきたい。そのためにずっと競争をしたり戦ったりしています。そして自分にとって好ましいものを欲しいと思い、プラスにならないものを憎んで破壊したいと欲します。人間は自分にとってマイナスだと思えば、平気で何人でも人を殺します。人を殺すと罰されるから我慢をしているだけです。どうしても戦う対象に勝てなくて怒りが大きくなると、自殺をします。この破壊欲は、あらゆる場面でいろんな形で現れています。
すべての苦しみのもとは、「生きていきたい」「ほしい」という心のはたらきです。仏教では、「ほしい、ほしい」と思うのは真実がわかっていないからだといっています。無明から渇愛が生まれるのです。無明と渇愛がうまく絡み合って、無始なる過去から終わりなく苦しみをつくり出しています。そこから脱出しましょう、客観的に自分を観ることによって、無明と渇愛を消していきましょう、というのがお釈迦さまの教えなのです。
「すべてはどんどん変化する、何にしがみついていても虚しい、結局はどうということはない、すべてはdukkha(苦)だ」とわかる。 それが正見です。
自分をさらに観察すると、心の中には常に「まだ満たされていない、生きていきたい」という根深い衝動があるのに気づきます。 それが渇愛です。 怒りも、憎しみも、怠けも、欲も、だらしなさも、いいかげんなところも、すべて渇愛からくるのです。 「生きていきたい」から、どんなだらしないことでもする。 その上に「私はそういう人間ではない」と平気で隠したりもします。 善人ぶるのもすべて、渇愛のせいです。 観察する一個一個の項目は、すべて苦であって虚しいものであるのに、それでも生きていきたいのはなぜか。 それは、わけもわからない衝動である「渇愛」―これのせいなのですね。 世の中のすべての生命は渇愛によって苦しみを味わっているのです。
苦しい時は、そこにある渇愛を理解しようとしてみて下さい。 たとえば、母親が子供の登校拒否で悩んでいても、「あの友達が悪い、学校の先生が悪い」などと泥沼にはまって苦しむのではなく、これも根元的な執着である渇愛による苦しみであることを理解するのです。 世の中の争いはすべて渇愛から生まれます。 夫婦喧嘩にしろ、学校での仲違いにしろ、会社の中でのトラブルにしろ、国同士の戦争にしろ、すべては渇愛から生まれるのです。
渇愛があるのは、自分の心です。 何かを見たり、聞いたり、食べたりして、それで欲や怒りが生まれるのです。
原因は自分の心にある――ということは、自分の心からウイルスを取り除いて治療すれば、問題はなくなるのですね。
渇愛がなくなれば苦しみがなくなる。
それこそが最高に幸福な状態(涅槃)です、とお釈迦さまはおっしゃっています。
では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。
方法がなければ、いくら立派な教えであっても意味がありません。
お釈迦さまは、その方法もちゃんと教えておられます。それが八正道なのです。
そのような四聖諦(苦集滅道)という四つの真理を理解することが正見です(<1>苦(dukkha)を知る、 <2>苦がどのように生まれるか、その原因を知る、 <3>苦が消えた状態を知る、 <4>苦を消滅させる方法を知る)。
正見というのは、頭がすごく整理されていることです。ゴチャゴチャした曖昧な思考で苦しまず、しっかりと真理を納得していることなのです。