禅病
日本の禅宗には臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3派がある。
臨済宗は、悟りを追求する「純粋禅」として、南宋から渡来した蘭渓道隆(らんけいどうりゆう/1213-1278)から始まった。
この流れは鎌倉末期から南北朝の時代に、「応燈関の三代」と呼ばれる日本臨済禅の頂点に至る。
南宋の虚道智愚(きどうちぐ)に師事した
大応国師(南浦紹明〔なんぽしようみよう〕1235〜1308)
大燈国師(宗峰妙超〔しゆうほうみようちよう〕1282〜1337)
関山(関山慧玄〔かんざんえげん〕1277〜1360)である。
現在に伝えられる日本臨済宗の法系は関山の応燈関であり、他の法系は絶えてしまった。
その白隠がまだ若い頃、「禅病」に罹って、難渋した。
著作の『夜船閑話』に、罹患した原因から始まって、症状や、治療の過程が、かなり詳しく書かれている。
【訳】
禅の修行を始めるにあたり、こう誓った。
「悟りを求めるために、勇猛心を発憤し、絶対に退かない」
かくて、ひたすら修行に精勤し刻苦勉励すること足かけ三年にして、一夜、悟りの境地に至った。
これまで抱いていたいくつもの疑惑はその根底から氷解し、輪廻転生の初めからつきまとっていた業もまた完全に消え去った。
そして、こう思った。「究極の悟りの境地も、もうすぐだ。昔から何十年もかかるといわれてきたが、自分の場合はそうではなさそうだ」。嬉しくて嬉しくて、文字どおり狂喜乱舞の状態だった。
ところが、数カ月して、冷静に自分の状態をかえりみると、坐禅の動と静とがまったく合っていないことに気付いた。両極を行きつ戻りつするばかりで、そこからどうしても抜け出せない。
そこで、こう思った。「なおいっそうの精進が必要だ。命がけで修行しなければならない」というので、歯を食いしばり、両眼をカッと見開き、寝ない、食べないで、頑張った。
発病すると、こうなってしまった。
一カ月もしないうちに、心臓はどきどきしっぱなし、呼吸が苦しくなり、下半身は氷に使っているように冷え、谷の激しい流れのすぐそばにいるみたいな轟音が耳に響きっぱなしになり、内臓は不調になり、なにかにつけてひどく不安や恐怖にとらわれ、心も体も疲労困憊し、寝ようとすれば悪い夢ばかり見る。両脇はいつも汗をかきっぱなし、両眼はつねに涙で濡れている。
これが、白隠が罹った「禅病」の症状である。
その正体については諸説あるが、白隠が抑うつ状態、それもかなり重篤な状態になってしまったことは確かだ。そして、禅の厳しい修行が心身に尋常ならざる緊張状態を長期間にわたってもたらした結果、発症したことも確かだ。
現代に続く「禅病」と、その治療法
ある禅僧も、30歳代の前半で、ひじょうによく似た症状になり、「深い穴に落ちこんで、下から火であぶられて、ひりつくような感じで、どうやってもそこから逃げられなかった」という体験をした。
しかも、禅病の厄介なのは、治ったと思っても、ある日、あるとき、突如として、ぶりかえすことだという。
心身ともに回復して、良い気分になり、寺の裏庭で、ほころび始めた梅の花を見て、そのかぐわしい香を嗅いだ瞬間、いわゆるフラッシュバックのように、禅病の最悪の症状がよみがえってきたという。結局、克服するには何年もかかったと聞く。
白隠の場合は、白幽子(はくゆうし)という謎めいた人物と出会い、かれから「軟蘇(なんそ)の法」を授かって、危機を脱した。
ビジネスパーソンの「瞑想ブーム」が危ない理由
昨今、瞑想がブームである。
トランセンデンタル・メディテーション、マインドフルネスなど、各種各様の瞑想法が話題になっている。
目的もさまざまある。気楽な健康法として、仕事の合間のリラクゼーションとして、本気で「悟り」を求める方途として、瞑想が実践されている。そのなかで、わたしが最も危惧しているのは、仕事の効率をさらに高める手段として実践される瞑想である。実は、これがけっこう多い。
たしかに、瞑想することで、心身がともにリラックスした状態になり、解放された心身環境が新たなアイデアや発想を生むことは、十分にあり得る。
現に、アップルの創始者のスティーブ・ジョブズは、日本の曹洞宗の禅僧に師事していた。
しかし、仕事の効率をさらに高める手段として実践される瞑想は、その人を非常に危険な心身状態にしてしまう危険性が否めない。
たとえば、瞑想を実践して、良い仕事に結実したとしよう。
このように、瞑想と良い結果がうまく結び付いているときは、まだ良い。
ところが、瞑想と良い結果が結び付かなくなったとき、その責任の一端が瞑想にあると考える人が出てきても、さして不思議ではない。
そんなとき、選択肢は二つある。その瞑想を止めるか、よりいっそう瞑想に励むか、である。どちらを選んでも、あまり良い方向へは進まない。なぜなら、どちらも「結果」を求めているからだ。
そこに問題の根源がある。なぜなら、禅宗が実践してきた坐禅などの瞑想法は、「結果」を求めないとされてきたからだ。ただただ、ひたすら坐る。それが本来である。
白隠ほどの天才宗教者ですら、悟りという「結果」を求めて、そのあげくに「禅病」に罹ってしまったのである。
『夜船閑話』【原文】
山野(さんや)初め参学の日、誓つて、勇猛の信々(しんじん)を憤発し、不退の道情(どうじょう)を激起(げきき)し、精錬(せいれん)刻苦する者既に両三霜、乍(たちま)ち一夜忽然(こつぜん)として落節(らくせつ)す、従前多少の疑惑、根(こん)に和して氷融し、曠劫(こうごう)生死(しょうじ)の業根(ごうこん)、底(てい)に徹して漚滅(おうめつ)す。自(みづか)ら謂(おも)へらく、道(みち)人を去る事寔(まこと)に遠からず、古人二三十年、是(こ)れ何の捏怪(ねっかい)ぞと、怡悦(いえつ)蹈舞(とうぶ)を忘るる者数月。向後(きょうご)日用を廻顧(かいこ)するに、動静(どうじょう)の二境全く調和せず、去就(きょしゅう)の両辺總(りょうそう)に脱洒(だっしゃ)ならず。自(みづか)ら謂(おも)へらく、猛(たけ)く精彩を著(つ)け、重ねて一回捨命(しゃみょう)し去らむと、越(ここにおい)て牙関(げかん)を咬定(こうじょう)し、双眼(そうがん)晴(せい)を瞠開(どうかい)し、寢食ともに廃せんとす。
既にして、未(いま)だ期月(きげつ)に亘(わた)らざるに、心火(しんか)逆上し、肺金(はいきん)焦枯(しょうこ)して、双脚(そうきゃく)氷雪の底(そこ)に浸すが如く、両耳(りょうじ)溪声(けいせい)の間(あいだ)を行くが如し。肝膽(かんたん)常に怯弱(きょじゃく)にして、挙措(きょそ)恐怖多く、心身困倦(こんけん)し、寐寤(びご)種々の境界を見る。両腋(りょうえき)常に汗を生じ、両眼常に涙を帯ぶ。
偉人のうつ病について 白隠の場合
江戸時代の禅僧である白隠(はくいん)の生涯を彼に生じた精神症状を合わせてお話ししたいと思います。
白隠は、1685年静岡県の東海道13番目の原宿の比較的裕福な家に生まれました。
15歳の時に得度して、慧鶴(えかく)と名づけられました。原宿にあった臨済宗の松蔭寺の見習い僧から修行をはじめ、19歳の時から14年間雲水修行の旅に出ます。長野飯山の禅師 恵端(えたん)の元で一旦悟りを得ます。
しかし、その後、厳しい座禅修行を食事や休養を無視して継続したためか、重い神経症、またはうつ病と思われる精神状態を呈します。
その後、白幽(はくゆう)という深山の隠者に秘法を伝授してもらい、それによって症状は軽快、原宿の松蔭寺に戻り修行を続けるとともに雲水たちの指導を行います。
松蔭寺は臨済宗の本山である妙心寺などとは異なり、田舎の無名の寺ですが、白隠の評判は日に日に高くなり、全国から雲水が訪れるようになりました。その結果、白隠は500年に1度の僧とまで言われ、その後の現在の各所の臨済宗の系統はすべて白隠の元から出ているとのことです。
うつ状態が治ってから悟りに至るというのは、金次郎と同じです。仏陀(ゴータマ・シッダルタ)もそうではないでしょうか。5-6人で厳しい修行を何年も継続し、やせ細るが悟ることはできず、満身創痍となり、皆から一人脱落します。もう、ヘロヘロになっているところを村の娘のスジャータが差し出したミルク粥を口にして、徐々に心身の力を回復し、菩提樹の下で瞑想を行い、まもなく(比較的短時間で)悟りを得ます。別れた修行者たちに追いつき、彼らにまずその悟りの本質を伝えました。
白隠は、「江戸時代僧侶の行脚距離に関する研究―白隠和尚が歩いた距離―」(渡邊義行、教育医学、2009)という論文があるほど歩いています。
彼は、30歳から50歳くらいの間はあまり歩かず松蔭寺にいました。その歩かない時期に大悟したのです。
金次郎も桜町で彼の移動に「廻村」という名がつくほど歩いています。彼が悟ったのも、成田山で断食中、つまり移動しない期間でした。それ以前の2か月ほど彼は旅に出ていたのです。
マザーテレサも彼女の仲間もスラム街へと毎日非常によく歩いています。彼女が神の声(スラム街に行って助けよというような内容)をはっきり聞いたのは、ダージリンに向かう汽車の中です。彼女はその時椅子に座って止まっていたのです。
そういえば、ガンジーも良く歩いています。歩いている写真が多いです。また、彼の一番有名な歩行は、「塩の行進」です。英国の塩の専売に抗議して、300キロも以上歩き、その間に同行者は爆発的に増え、最後にダンディー海岸で塩をすくい上げるという象徴的な出来事に至ったのです。
このように悟りには、食、歩行などいろいろと共通点があるような気がします。
哲学者は同じところを歩くというのがあるのじゃないでしょうか?西田幾多郎が歩いたのが京都の哲学の道、
エマニュエル・カントは ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード) で生まれ、生涯の間半径15kmを出なかったと言われてます。
おそらく同じところを繰り返して歩いており、反復運動とかリズムというものを思考の進展に役立てたのかもしれません。宮沢賢治も歩いている写真が多くありますね。ほかに移動する人といえばキリストもでしょう。
そして、比叡山の千日回峰行2回の酒井雄哉(ゆうさい)です。酒井は、僧侶になる前、大学の図書館の仕事を辞めてから、ばつが悪くてしかたなしに毎日のように東京中を長距離歩いていました。
酒井は千日回峰行の前に、阿弥陀仏の周りを90日間歩いて回り続ける常行三昧(じょうぎょうざんまい)をやりました。
彼は数日で足がむくんでピンチになるのですが、ある方法(呼吸の仕方)を偶然?思い出してやり遂げることができました。
彼の素晴らしいところは、ガンジーといっしょで、初めはそれほど立派な人間じゃない、どちらかというとダメ人間の要素も含んでいるのです。それが少しずつ変わっていって偉人と呼ばれるような領域に入っていく、そこが実に面白いです。
ガンジーは結構赤裸々に自らの恥部まで描いています。父親の看病を熱心に行い、介護係が代わって、開放感や疲れがあったのでしょう、妻とイチャイチャしているときに、父親が死んだという知らせを受けます。まじめな彼はそれを一生の不覚であると後悔します。また、ピーナッツの袋を一度開けたらやめられないで食べ続けてしまうとか、兄の金の腕輪を削って、売って煙草を買ったとか・・・。酒井も重要なところでおかしくなって逃げだしてしまうことの繰り返しでした。
彼は自分の得意な歩くということを極め、その結果体質も変化し、うどんだけ食べていれば生きられるようになりました。
彼は杉並区荻窪で父親とラーメン屋をやっていたのですが、荻窪の再開発でなくなりました。今はルミネ、タウンセブン、西友のあたりでしょう。だけど、計画性はなく、稼いだ金はみんなでその日に使ってしまっていたそうです。
さて、ずいぶんと横道にそれてしまいましたが、白隠の話にもどりましょう。
白隠はものすごい量の書画を残しています。表現も繊細で写実的だったり、漫画チックだったり、多彩さやユーモアに溢れています。多産は天才の共通点かもしれません。
白隠の性格ですが、自伝「いつまでぐさ」に幼少時のエピソードがあります。
原宿の寺に日蓮宗の僧侶である日厳(にちごん)上人が来て、八熱地獄の苦しみを詳しく説いたそうです。
それを聞いた白隠は、恐れおののき、その晩、一睡もできなかったということです。感受性が強い、あるいは神経質であるといえましょう。ある時、母と風呂に入りましたが、薪は怒涛のように燃え上がり、白隠は八熱地獄のことを思い出し、恐怖のあまり金切り声で泣き出しました。どうしたらこの恐怖から逃れられるかと白隠は母親に聞きますと、母親は北野の天神様(京都の菅原道真を祭った神社)を敬い申し上げることだといいます。
それで白隠は安心します。また、隣村に浄瑠璃芝居の一座がやってきたことがあります。「日親上人鍋被り」という芝居をみましたが、それは法華経の行者は、火に入っても焼けないといい、真っ赤に焼けた鍋を頭にかぶらされたが、微笑んで驚かず慌てない、これを見て、白隠は幼なごころに出家しようと決めたのだといいます。
白隠は、15歳で原の松蔭寺で出家得度。修行に励みますが、19歳の時、英傑とされる巖頭和尚が首を切られて死んだ話を読み、これでは出家しても役に立たないと絶望し、もだえ苦しむこと3日、食欲がない状態が15日ほど続いたといいます。また、焦熱地獄の苦しみも思い出しました。何か変えようと、今度は詩文を勉強しましたが、詩作の腕が上がっても死んだ後の苦しみを免れないと思い、心が沈み、目には涙が浮かんできたといいます。
彼にはそういった精神身体症状が出現し始めました。そんな問題を抱えながら、雲水として寺を転々とし、迷いながらも座禅修行を継続したようです。そこに最初の悟りの時が来ます。越後の英岩寺で七日間の断食を終えたとき、ふと遠くに響く鐘の声を聞いて、心身脱落し、歓喜に堪えず大声を出したといいます。ところが、その後、大いに慢心して、誰を見ても土くれのように思えるようになってしまいました。そのことにも気づかずにいました。
英岩寺で出会った雲水の宋格とともに宋格の師である長野飯山の正受老人(恵端:えたん)を訪ねます。
しかし、自分では修行者として一定以上の水準に達したと考えていた白隠(当時は慧鶴:えかく)は、正受老人に、「この穴倉坊主め」と縁側から突き落とされます。恵端には一見して慧鶴の高慢さ、慢心が目についたともいわれます。公案を出されましたが、慧鶴の答えは正受老人には受け入れられず、罵倒されることが続きます。そんな日が続き、自信もなくなりますが、熱心に修行は続けます。
ある日、気分が落ち込んだまま托鉢に出かけました。ある家の門前に凝り固まったように立っていると「あっちへ行け」と言われる声にも気が付きません。その家の主人が怒って、箒を逆さにして頭をやたらに殴り、慧鶴は倒れて意識を失いました。ちょうどその時、3−4人の旅人が通りかかり、「どうしましたか」という声で慧鶴は意識を取り戻しました。眼を開くと、何とこれまでの難解な公案がたちまち光り輝くように明らかになっていることに気が付き、歓喜のあまり手をたたいて大笑いしたと言います。助けた人は、狂僧だとい言って逃げていきます。
慧鶴が正受庵に戻ると、老師が縁側に立っており、「言うてみなさい。何かいいことがあったであろう」と言います。慧鶴は、詳しく所見を述べました。その後、いくつかの公案を出されましたが、少しの滞りもなく通過できました。そんなある日のこと、老師は、慧鶴の背中をなでて、「長生きせよ。決して小を得て満足してはならない。悟り後修行をせよ。・・・・すべての衆生を救済しようとすることであり、いささかも利名のためにしないならばそれがまことの仏祖の児孫だ」といいます。悟り後の修行には、菩提心が第一であるとも知らされます。慧鶴が正受老人のところにいたのはわずか8か月ですが、正受庵の後継者になれと言われます。それは宋格ではないですか?と白隠はいいますが、宋格はその後早くして死んでしまったそうです。
なお、正受老人についてもいろいろと興味深いことが分かっています。やがて、その後、白隠は42歳の時に、菩提心とは法施利他(ほっせりた)の善業にほかならないと気付いたと言います。
昔、春日の大神がある解脱した上人に「およそすべての智者、高僧も、菩提心がない者はことごとく魔道に堕ちる」と言われたことがあると聞いたというが、それがわかったといいます。人のために尽くさなければ意味がないということです。
慧鶴は、沼津の大聖寺の老師の介護をするために正受老人に見送られて、飯山から郷里に帰ることになりますが、また、波乱があります。慧鶴は再び不調に陥ります。
「座禅が過ぎたのか、心火が逆上し、肺金が損なわれ、水分が枯渇して、思いがけずも難治の心疾にかかってしまった。何をしてもおどおどとして、心身ともに怯弱で、両脇にはいつも汗をかく。日常生活の中での道中の工夫は少しもできず、いかなる治療をもってしても救えない病である」。
ほかの伝記である夜船閑話にも「肺は熱を持ち、両足は冷え、両耳は耳鳴りのため谷川の水音を聞いているようである。肝胆は常にか弱く、立ち振る舞いはびくびくするようであり、心神はともに困憊して寝ても覚めても種々の幻想が浮かび、両脇に冷や汗をかき、両眼には常に涙が溜まっているようになった」と記載しています。
各地の高名な禅僧を尋ねて救いを乞うたけれども、禅病であるとされたが具体的な手立ては誰も知らなかったといいます。
そんな中、ある人から、山城の国白河(長野県飯山)の山奥の洞窟に白幽という仙人がいて助けてくれるかもしれないと聞きます。26歳の慧鶴は大変な苦労をしてようやく白幽の住む洞窟にたどり着きます。おそるおそる洞窟のすだれの中をうかがうと白幽が目を軽く閉じて座っており、机の上には、中庸、老子、金剛般若経だけがあります。慧鶴は白幽に今までのこと、病状のことを話します。白幽は慧鶴を診察して、これは座禅が過度になり、節度以上の修行をしたので、この重症になってしまった。実に治療困難な禅病だと診断します。鍼、灸、薬も効かない。内観の法を行わないと再起できないと白幽は言います。
「荘子の言葉で真人はの呼吸は踵でするが、凡人の呼吸は喉でするという言葉があるが、身体の上部は常に清く涼しくすることが必要で、同時に下部は常に温かくするように心掛けないといけない」という。そして、白幽は「我が風体が道士のようだから、我が説くところは仏教と大いに異なるものと思うかもしれないが、そうではなくこれは禅だ」ともいいます。そして、道元の話などもします。
そして、軟酥(なんそ)という鴨の卵ほどの大きさの色も香りも清浄なものを頭の上に置いたと想像するよういいます。その風味は微妙に香り、頭をあまねく潤し、浸々としみながら降りてくる。そして、両肩、両腕、肺、肝、胃腸を注ぎ潤す。両足を温め潤し、そこで止まる。
この観想を続けるならば、どんな病も治り、徳も積もり、いかなる仙術も道術も成就するであろうと言います。
慧鶴は、郷里に帰り、この内観の法を密かに修め続けたといいます。すると3年もたたないうちにそれまでのいろいろな病気が治り、そればかりでなく難しい公案がすっかり根底からわかるようになった。そして、足が冷えて困っていたのも治り、厳冬の日でも足袋もはかずにすますようになったといいます。
白隠は、「このような話をするのは、生まれつき優れた素質があって、すでに修行ができあがった諸君のためにではない。痴鈍で病に悩んでいる、かつての私のような諸君が、この書をよく読んで子細に観察するならば、必ずや少しは助けになるだろうと思うからである。そして、夜間船閑の中でその大略を記し、それ以来、僧俗男女を問わず、この内観法によって難治の重症が治り命が助かったと、松蔭寺にお礼を言ってくるものが多数あった」といいます。
たとえ良いことであっても執着は執着なのでしょう。それは、初めは、自分のためなのですが、利他の考えになっていく。自分のつまらないものを捨てていくということなります。
文献 いつまでぐさ『壁生草』、夜船閑話