日本人が知らないブッダの話 スマナサーラ
4つの記録
経典 入滅後の500人の阿羅漢の第一結集で編集
律蔵 出家弟子が守るべき227の戒律
論蔵 釈尊の教えを後になって理論説明したもの。
註釈書 入滅後数百年後に書かれた伝記的なエピソード(おはなし、作り話) 四門出遊
ジャータカ 釈尊の過去世を記録する文学 修行(波羅蜜)を積んだ内容
ジャータカJātaka
本生譚(ほんしょうたん)とも呼ばれ、釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物語である。
パーリ語版は、パーリ語経典経蔵小部に収録されている。
2600年前の状況
ゴータマ 家系の姓 最上の牛という意味
釈迦 雪山のふもとのコーサラ国に属す太陽の種族 小部スッタニパータ第3章422偈
オッカーカ王が祖先で、他族との混血を嫌い姉妹との同棲生活(交叉いとこ婚)をしていた釈迦族
シャカとは「やり遂げた」という意味 長部アンバッタ経
クシャトリヤ(領主)階級
政治状況 釈迦族はコーサラ王パセーナディに従属している 中部98ワーセッタ経
16の国が群雄割拠して覇権を争い部族国家は侵略され滅ぼされる残酷な時代
代々住んでいた土地を略奪され、奴隷や流浪の民や復讐の機会を狙う集団となる。
この酷い時代に仏教は共感された。
死後200年 アショーカ王は「戦勝の褒美は敵の数を増やすこと」ことを悟った王。
仏教の輪廻転生を受け入れたバラモン教
ブッダ以前のバラモン教のウパニシャッド哲学には、輪廻の教えはない。
リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダはあったが、アタルヴァ・ヴェーダはまだなかった。
チャンドーギャ・ウパニシャッドには輪廻に関するあやふやな教えは記されているが、バラモンがクシャトリヤに伝わる教えを聞き書きする形式になっている。
仏教や沙門宗教から取材して書かれたのが、ウパニシャッドである。
因縁によって現象が顕れては消えていく無常の中で、個を分析すると、輪廻という表現になる。
釈尊が過去世で菩薩だった時の10種の波羅蜜
1 布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna )
分け与えること。dānaという単語はラテン語のdar 与えるを意味する。
具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。
2 持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla )は、戒律を守ること。
在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
罪を犯さず、自分の命が危うい状態においても道徳は破らない性格を形成する。
3 離欲 nekkhamma
俗世間の欲に対して未練や執着を感じないこと。
地位や名誉を捨てて出家できる能力。
4 般若波羅蜜 - 般若 (はんにゃ、Paññā)
全ての事物や道理を見抜く深い智慧のこと。
最終的には、般若波羅蜜を希求することによって調御、成就される。
5 精進波羅蜜 - 精進毘梨耶(びりや、Vīrya )は、努力すること。
目的に達するまで、着々と英雄として進む能力。
悪をなくして善を完成させる。
6忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Khantī)
あきらめない性格を培うこと
非難、批判を受けるので、それでもエネルギー0への道を貫くことが忍耐。
7 真理 sacca
迷信、偽り、信仰から真理を発見できる能力
長部1の「梵網経」に世界に現れる宗教哲学のすべてが網羅されている。
8 誓願 adhitthāna
達するべき目的を明確にして、心に定めること。
9 慈悲 mettā
誰に対しても恨みに憎しみをもたないで、一切の生命が幸福であるように慈しむこと
10 無執着 upekkhā
プラスとマイナスの感覚(受vedanā)ではなく、このどちらでもない感覚に上書きすること。
過去の28仏のつながり
5c頃の文献 経典というよりも仏伝文学
スメーダ行者が菩薩として修行を始め、燃燈仏に授記される経典 小部13 アパダーナ(譬喩経)
燃燈仏から釈尊に至る25仏の伝記をまとめた註釈文献 小部14 ブッダワンサ(仏種姓経)
28仏の寿命は8万年から100年の間
マハーマーヤー(麻耶夫人)の子供
長部14 大譬喩経 過去の6人のブッダの伝承について語っている経典
中部123 稀有未曾有法経 17の奇跡的な瑞祥が現れることを語っている経典
増支部4集127
恐れと寿命と智慧の関係
生老病死に追われると、恐れと欲と怒りと憎しみの感情が強くなり、智慧が現れる余裕がない。
長部27 起世因本経
マーヤー夫人の白象の夢
象は瑞祥の象徴。白象は最高の兆しのシンボル。
仏伝では白象は仔象であり、蓮の花を鼻に持って入胎する。
蓮の花は覚りの象徴。
ジャータカ物語のニダーナカター
サンマーサンブッダ
正自覚者
仏教の真理が全く知られていない世界で、修行を積むことで完全な覚りに達し、それを諭す能力を持つ者。
自分で悟った初めての独覚者という意味で「正自覚者」
Sambuddha san
+ bhava + uddha
uddha is rooting out
one who rooted out existence in 31 realms
余計な(付加された貪瞋痴)意識エネルギーから根本的に離脱したもの
samとは付加された貪瞋痴を指すのか? 言葉や理性を含めたものではないのか?
だからこそ諭す能力が備わるのではないか?
随覚者 アヌブッダ 正自覚者の教えに従って実践して覚りに達する人、阿羅漢
独覚者 パッチェーカブッタ 自分ひとりの能力で覚りに達するが、真理を諭す能力を持たない人
如来 タターガタ
釈尊は自分のことを「わたし」とは言わず、如来と言います。
増支部4集23
タタは真理、タターガタは真理と一体になった人のこと。
17の奇跡的な瑞祥が現れることを語っている経典
中部123 稀有未曾有法経
1正念、正知を備え、トゥシタ天に生まれ変わり、
2次に母胎に入り、
3物質ネルギーの世界、ダークマターの世界、ダークエネルギーの世界が振動してつながっていることを相互で理解し、
4守護天使が母胎を守り、
5母は戒律によって物質エネルギーへの執着から離れ
6母は物質エネルギーへの関心と物質エネルギーからの関心から離れ、
7母は与えられたよき物質エネルギーを楽しむ
8母は安らかで疲労がなく病いがない
9出産の7日後にこの世をさり、トゥシタ天に生まれ変わる
10ちょうど10ヶ月で出産する
11立ったまま出産する
12出産の瞬間は初めに神々が次に人々が受け止める
13菩薩は大地に触れることなく、4守護天使が母の前に置く
14菩薩は水、粘液、血液に汚されず清浄に出る
15菩薩が母体から出る時に冷と熱の2つの噴水が空中から現れる
16菩薩は大地に立ち、北に向かって7歩進み、あらゆる方角を眺め、「これが最後の生存である」と語る。
17物質ネルギーの世界、ダークマターの世界、ダークエネルギーの世界が振動して現れる。
受vedanā、想saññā、考えvitakkaが生まれ、働き、滅することが知られます。
こうして心を自由自在に管理できる最高の奇跡が顕現します。
これはブッダの教えを実践すると誰にでも達することができる能力です。
天上天下唯我独尊は日本人(漢字翻訳)の誤解
漢訳仏典による翻訳によって誤解が生じました。
Aggohamasmiokassa, jeṭṭhohamasmilokassa, seṭṭhohamasmilokassa. とは
私は、世界第一人者、最年長者、最勝者であるという意味なので、天上天下唯我独尊と訳されたのですが、
ポイントはこの後に続く、
Ayamantimā jāti natthi dāni punabbhavo. で
「これは最後の生まれである、もはや2度と生まれない」であり、
「これが、この世(輪廻転生)における最後の生存である」という宣言です。
釈尊の名前
新しい文献の小部アパダーナには、シッダッタとあるが、古い経典にはない
弟子たちはバンテー(尊者)、バガワー(世尊)と呼んでいて、名前を呼べるものがいないので古い経典には記されていない。
ブッダの32相
大譬喩経
長部30相好経
スッタニパータ第3章セーラ経
満月
釈尊の降誕2月15日、成道2月15日、入滅2月15日 輪廻からの離脱 物質→霊
入胎4月15日 出家4月15日 輪廻への介入 霊→物質
叔母マハーパジャーパティー・ゴータミー
実母の妹、義母、乳母、
中部142 施分別経
増支部8集51
贅沢な皇太子時代
雨季、夏、冬と3つ宮殿
増支部3集38
中部75マーガンディヤ経
ブッダワンサ経
ニダーナカター経
サマーディ禅定を修習していた少年時代
中部36大サッチャカ経
中部85ボーディ王子経
中部100サンガーラワ経
ゴータマの妃ヤソーダラー
ブッダワンサ経
ヤソーダラーとデーワダッタは実の姉弟
後に釈尊より先に78歳で阿羅漢として死去
小部13アパダーナ
老病死から現在の若さや健康に対する驕りが消える
コーサラ国に服従し、滅亡の可能性が高い釈迦族に期待された希望の星
どんなことをしても結局何の役にも立たない虚しい行為という事実に気づいた。
誰も発見していない老病死になっても幸福である道にチャレンジして、それを発見する。
増支部3集38
中部26聖求経
息子ラーフラの名前の意味は悪魔なのか龍神なのか
ジャータカ物語のニガーナカターは伝承という作り話が多く、
ラーフラは邪魔とあるが、資料価値の高い経典類には出てこない。
ラーフとはアーリア人の神であるデーワに対抗する、土着の神アスラに属する龍神のこと。
後世ではヒンドゥー教の影響でデーワは善神、アスラは悪神と区別されたが、龍は土着の偉大さを表す象徴であった。
後世では阿修羅となったが以前はアスラはデーワとともに「天」に属する神霊とされていた。
一説では釈迦族のトーテムはナーガ(龍)であったので、めでたい名前。
釈迦族はアーリア人なのか土着民なのか
DNAは不明だが、文化的にはインド土着の影響が強い
アーリア文化圏では瞑想の習慣はなく、火の中に生贄をして天を祀っていた。
マガダ国のビンビサーラ王との出会い
出家した釈尊がラージャガハ(王舎城)で若きビンビサーラ王と出会う。
スッタニパータ 405〜424 世尊が語ったというアーナンダ尊者が証言する形の詩
聖なる歩みと苦行
バラモン教では永遠の命を得るために苦行を推奨していたが、実際に実践してみると無意味であり、
禅定による聖なる道を歩んだ。
アーラーラ・カーラーマ仙人 無所有処定 色界禅定4
ウッダカ・ターマプッタ仙人 非想非非想処定 無色界禅定3、4
中部26聖求教
3つの喩え 対象と心と智慧 苦行の限界
「水(欲望の対象)の中の樹液(心の欲愛)に濡れた木は擦っても火(智慧)は起きない」
「水(欲望の対象)の外の樹液(心の欲愛)に濡れた木は擦っても火(智慧)は起きない」
「水(欲望の対象)の外の樹液(心の欲愛)のない乾いた木は擦ると火(智慧)が起きる」
この後にウルヴェーラーのセーナーニ村で苦行の実践をしたので、心が汚れることはなく最高のものであったが、心の安らぎを得ることはなく、人法を超えた最勝智見(一切の苦しみを超えて達する最終解脱)の真理を発見することはできなかった。
中部36大サッチャカ経
中部85ボーディ王子経
苦行の放棄と菩提樹(アッサッタ)の下
利益をもたらさない苦行を離れたのは実に良かった 相応部4.1
5人の側近は失望して側を離れる
中部36大サッチャカ経
中部85ボーディ王子経
サンガーラワ経
菩提樹の下で覚りを開くまで座を立たないと誓う
ニガーナカター
四聖諦以外の智慧
初弾から4禅に、それから
宿住智 自分の過去世を詳細に思い出せる智慧
天眼智 見たいものを何でも見られる超越した能力
その結果、業kammaにより輪廻することを望まぬ智慧 死生智
漏尽智 煩悩を滅尽して解脱を完成させる智慧 四聖諦を観察して得る
の3明を得る。
中部36大サッチャカ経
中部85ボーディ王子経
瞑想時に悪魔と戦う
瞑想する権利の証拠を出せという悪魔に、釈尊は「この大地が証言する」と言って大地に触れると、地震が起きた。
中部36大サッチャカ経
中部85ボーディ王子経
の註釈書
悪魔が釈尊に
「生きたまえ、生きることが優れている。生きて諸々の善行為を行いたまえ。多大な功徳が積まれる」と語ると
「功徳は私には微塵もいらない。私には確信、精進、智慧があって修行に励んでいる。どうして命を惜しむ必要があるのか」「修業によって感覚を乗り越える。欲を期待しない心の清浄を見よ」と応えた。
スッタニパータ3章パダーナ経(精励経)425−449
悪魔の10種の軍隊 ヒトの心の汚れであり弱み
欲望、気鬱、ひだるさ(空腹)と渇望、渇愛、無気力、脅えること、疑うこと、偽善と強情、利得・名声・不正に得た富、自讃他貶
釈尊は悪魔を「智慧で叩き潰す。思考を自在にして、気づきを確立させて、弟子を指導して国から国へと旅する」
悪魔はゴータマが美味しい肉だと思ったが石であったので、7年後に去った。
成道後の悪魔
起こる煩悩を制御するのであれば、それはまだ覚りに達していない修行の最中である。
釈尊は煩悩を滅尽して完全たる覚りに達している。
今、般涅槃しなさい
長部16大般涅槃経
悪魔の娘たちの誘惑
智慧の完成が覚り 縁起説 苦しみが生まれるプロセス
一切の苦しみからの解放は12因縁を順逆に観察して智慧が生じた
相応部12,10 相応部65
戒律制定のプロセス
戒律制定のプロセスを記録したものが律蔵の大品に掲載されている。
成道と樹木
菩提樹下で7日間の禅定、
次にアジャパーラニグローダ樹下でまた7日間、解脱の楽を享受しつつ座っている時にバラモンを定義し、
次にムチャリンダ樹下でまた7日間過ごした時には雨が降り続いたので、龍王ナーガラージャはその体を釈尊に巻き付いて守りった。
ラージャーヤタナ樹下でまた7日間、解脱の楽を享受しつつ座っている時に、タブッサとパッリカという商人が帰依して最初の在家弟子となった。
その時にもらった釈尊の頭髪はヤンゴンにあるシェーダゴン・パゴダに納められている。
次にアジャパーラニグローダ樹下でまた解脱の楽を享受しつつ座っている時に、世間が無明に覆われていることを改めて観察して説法する意欲が薄れていった。
「生きることに耽溺している人々には『生きることによって生きることが生じる』という因縁の理解が難しく、人々は全く理解しないので、説法しても結果は私が疲れ果てることにすぎない」
それを感知したサハンパティ梵天は無明の闇から抜ける唯一のチャンスがなくなると危機感をいだき、説法するように懇願した。
梵天勧請のエピソード
律蔵大品
聖求経
ボーディ王子経
人は生きることは苦であることを認めたくはないので、生きることに執着している。
修行者でさえ解脱することではなく、永遠の命に達するという執着を目的にしている。
したがって、真理を語っても誰も耳を傾けず、耳を傾けても理解できない。
しかし、中には理解できる人もいる。また理解できる神もいるので、説法しなくてはいけない。
1理解できる能力のある人に説法する
2誰にでも理解できるように説法の仕方を変える。
これが経典の特色である。
初転法輪
バーラーナシー近郊の鹿野苑で元側近の5人に、自らが解脱に達したことを3度繰り返したが、比丘たちは受け入れなかった。
律蔵大品
中道と八聖道と四聖諦
majjhimā patipadā 中道、聖道、正道、超越道
実践してはいけない2つの極端な修行
1 5欲で体を楽しませる。 眼耳鼻舌身から入る情報にふける。
2 自分を虐めて苦行すること
具体的には
八聖道ariyo aṭṭhaṅgiko maggo,
sammādiṭṭhi 正見 Dhammāの因果法則、四聖諦を理解する
sammāsaṅkappo 正思 異常な欲の思考、異常な怒りの思考、攻撃する思考から離れる
sammāvācā 正語 嘘、誹謗中傷、陰口、無駄話
sammākammanto 正業 殺生、盗み、邪な行い
sammāājīvo 正命 罪を犯して生計を立てない
sammāvāyāmo 正精進 悪を犯さない努力、善を行う努力
sammāsati 正念 身体の行動、感覚、心、真理に気づく
sammāsamādhi 正定 瞑想実践で心を育てる
四聖諦
Maggānaṭṭhaṅgiko seṭṭho, saccānaṃ caturo padā;
Virāgo seṭṭho dhammānaṃ, dvipadānañca cakkhumā.
あらゆる道の中で八正道が最も優れている。
あらゆる諦(サティヤ)の中で四諦が最も優れている。
あらゆる状態の中で離欲が最も優れている。
あらゆる両足で立つ者の中で具眼者(釈尊)が最も優れている。
パーリ仏典, ダンマパダ 273
dukkha sacca 苦諦 生存が苦であるという真理
無意識であった「生」の肯定から、生は苦しみであることを発見する
愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊そのものが苦
samudaya sacca 集諦 欲望の尽きない苦には原因があるという真理。
生きるとは苦であるのに、なぜ必死に生きているのか?
渇愛を発見する
欲愛 5欲に対する執着 細胞の本能
有愛 生きることへの執着 心の本能
無有愛 破壊への執着 魂の本能
nirodha sacca 滅諦 欲望のなくなった状態が苦しみの消滅の境地であるという真理。
渇愛がある私たちはどうすべきか?
「生きていたい」という衝動が滅した境地を目指すことを発見する
無意識であった「生」の肯定から、生は苦しみであることの発見、そしてその原因が生の本能であることの発見
そしてその生の本能から離脱するという「生きる目的」の発見
magga sacca 道諦 苦滅にいたるためには七科三十七道品の一つである八正道によるという真理
具体的な涅槃に達する方法
八聖道の実践
四聖諦の解説
中道の実践
四聖諦を3つの方法で完成させる 4聖諦3転12相
1 真理を理解する
2 その真理に対応する方法を発見する
3 その対応を実践する
無我の意味
無我とは無心のことではなく、この世には独立した「我」というものは概念だけで、そんなものは存在しないという意味です。
五蘊(色・受・想・行・識蘊)は無我である。
どこにも永遠の魂と言えるような実体などはない
無我相経 相応部(サンユッタニカーヤ)第3(蘊篇)、6(接近の章),7
律蔵
ニガーナカター
「無我相経」で説かれている「我」(パーリ語:アッタン、サンスクリット:アートマン)
は、何を意味しているのでしょうか。
1.我 =「自己」を意味する説
原始仏教では、「我」をウパニシャッドでのアートマン(輪廻の実体としての霊魂=我)
という意味での「無我」としては、明確に説かれていない、という説(中村 元)
2.我 =「輪廻の実体・魂」を意味する説
「無我」は、輪廻の実体としてのアートマン(我・魂)が無いことを意味します。
集団改宗
ウルヴェーラーの結髪バラモン行者1000人 カッサパ兄弟 相応部35、28
サンジャヤの弟子サーリプッタとマハーモッガラーナと250人 律蔵大品
経典誤記の可能性
成道後1年の間に、息子のラーフラが覚りに達したと律蔵にあるが、10年近くは立っていると推測される。
227の戒律が作られた理由
成道12年後には、純粋な求道心だけではなく、思惑を持って出家を志望する者が現れてきた。
般涅槃する前にはアーナンダ尊者に、些細な戒律については廃止してもよい、と釈尊は言明した。
男性出家(比丘)の模範 増支部2集12
サーリプッタ 預流果の覚りの世界を初心者に経験させる能力が長けていた
マハーモッガラーナ どんな瞑想からでも一来果に導く能力に長けていた
女性出家(比丘尼)の模範 ダンマパダ註 長老尼偈(テーリーガーター)註
ケーマー ビンビサーラ王の妃の1人 預流果の覚りの指導
ウッパラワンナー 瞑想の指導
最初の女性出家
釈尊の叔母マハーパジャーパティー・ゴータミー
「いにしえの聖者たちも見出すことができなかった真理の道を、いまでは7歳の女の子も知っている」
アパダーナ長老尼の譬喩
アーナンダ尊者の助言によって女性も出家できるようになった。
男性在家(優婆塞)の模範
在家で到達できるのは不還果まで
チッタ居士 チッタ相応 相応部41.1-10 維摩居士のモデル?
ハッタカ・アーラワカ居士 若く覚りタレント的存在でファッションとしての仏教も広げた
女性在家(優婆夷)の模範
クッジュッタラー 釈尊の説法を記憶して、説法した
難陀母 ヴェールカンディヤーナンダマータ 神通力の達人 禅定の達人 増支部7集50
最初の優婆夷(女性在家仏教徒)
スジャーター・セーナーニである
増支部1集
ソータパンナ(預流果)の覚り
アターナピンディカ居士 祇園精舎を布施
ヴィサーカー・ミガーラマーター 7歳で預流果に至った ダンマパダ註53偈 増支部註
どちらも布施するものの第一人者 増支部1集14
初めの預流果は四聖諦の真理を1つずつ理解して、対応を発見して、実践することを説いた初転法輪の説法を聴いたコンダンニャ・バラモン。
阿羅漢の覚り
五蘊(色・受・想・行・識蘊)は無我である。 無我相教
永遠の魂と言える実体などはない。 律蔵、ニダーナカター
弟子の特徴を紹介
増支部1 集
教団分裂を企んだデーワダッタ
ヤソーダラーの弟
釈尊の25歳年下 アーナンダ尊者やアヌルッダ尊者と同時代
20歳ごろに出家
神通力に長けていた
清貧な原理主義者
アジャータサットゥ阿闍世王子の帰依を得る
教団分裂したのは釈尊が72歳、デーワダッタ47歳の時だと推定されている。
一番愛しいのは自分
コーサラ国のパセーナディ王の妃マッリカーは敬虔な仏教徒であった。
王が妃に「この世で一番愛しい人は誰か?」と尋ねたところ「自分」だと答えました。
相応部3集コーサラ相応
仏教は戒律教ではなく覚り教
仏教の憲法は「ヒトは覚るべし」であり、戒律は覚りのサポートである。
覚りとは、反応する対象が物質から粒子、そしてエネルギー、最後に0になることである。
デーワダッタのように「比丘は生涯托鉢だけで生活すべき」と決めてしまうと、戒律が覚りよりも優先されてしまうことになる。
釈尊の教えは「戒律の心を認識して、布施に執着しない」ことです。
サンガの組織
個人が守られ、我見を主張しないシステム
仏教の主は、釈尊の教えであるダンマと戒律ヴィナヤとそれを実践するサンガであり、
釈尊自身ではない。
法ではなく、個人が主となるとサンガは分裂する。
覚りではなく、人が主となると道は閉ざされる。
教えや戒律を受け入れない時点でサンガのメンバーではない。
最期の1年を描いた大涅槃経 長部16
ラージャガハからクシナーラーに到達して入滅するまでの旅の記録
七不衰退法 仏教政治論
マガダ国のアジャータサットゥ王がラージャグリ八(王舎城)の外にある霊鷲山にいる釈尊にワッサカーラ・バラモンを使者として送ります。。
裕福で文化度も高い小国ワッジー国を攻めたいと考えているが、どう思うかということでした。
釈尊はそのときに直接に答えず、後ろに控えた弟子のアーナンダに向かって問いかけ、それを使者に聞かせます。
釈尊は次々にアーナンダに質問します。
「頻繁に集会を行っているか」
「議会を和合をもってよく行っているか」
「新たな出来事には掟を作り、昔からの掟をよく守って暮らしているか」
「古老を尊敬しているか」
「婦女子の保護は進んでいるか」
「伝統的な儀礼を行っているか」
「聖人を尊んでいるか」
と、合わせて七つの項目について尋ねます。
それに対してアーナンダが「おおむねよく行われている」と肯定的に答えると、
釈尊は大きくうなずいて
「それではワッジー国の将来の繁栄が期待されこそすれ、衰亡の恐れはないであろう」と答えます。
その報告を聞いた阿闇世はワッジー国の征服を断念します。
七不衰退法は王政ではできない方法で、定めた法律を守り、精神の豊かさを得る方法を語っています。
サンガ組織もこの不衰退法によって運営管理されている。
大涅槃経のサーリプッタ尊者
この時にはサーリプッタ尊者は入滅していので、長部28「歓喜教」や相応部47.12から挿入されたもの。
サーリプッタの釈尊が過去と未来にも現れない人であると信仰を語った時に、
過去や未来の人たちの心の中そして釈尊自身の心の中のすべてを知ったのか、それは立証されないものだと答えた。
サーリプッタは「法の推知(仏教の真理に基づいた思考)」に基づいて言明したと返すと、
それは論理で達した推知であると答えた。
信仰とは、その真理はその本人にとっては証明されていない、ということである。
仏教には、無条件の信仰はなく、あるのは、論理的に可能である「信」である。
根拠のない信仰は迷信であるとして却下される。
法の鏡
各自で自分が達している境地を判断できるようにした。
1 ブッダに対して決してゆるがぬ信頼を備えていること
2 ダンマに対しして決してゆるがぬ信頼を備えていること
3 サンガに対して決してゆるがぬ信頼を備えていること
4 ブッダが定めた5つの戒を欠けることなく守っていること
この四つが正しく実践できていれば、死後の運命については心配しなくていいことを「法の鏡」という。
すなわち、未来をありありと映し出し、より良い未来がそこには保証するもの
信仰さえあれば救われるということではなく、信がゆるがぬものであることが必要で、そのためには真理を体感することで証明するものである。
自灯明・法灯明
長部経典16「大般涅槃経(Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章の「自灯明・法灯明」
「自分を灯にして、自分を頼りにして、他に依存しないで生きなさい。真理を灯にして、真理を頼りにして、他に依存しないで生きなさい。」
Tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā.
自灯明attadīpāとは何でしょうか?
「自灯明」とは、自己観察をすることです。身体(身)、感覚(受)、心、その他の現象(受)と いう四つの側面から自己観察をするのです。
「自灯明の実践=「Satipaṭṭhāna(サティパッターナ、四念処)の実践」である。
、「Kāyānupassanā(身随念)、Vedanānupassanā(受随念)、Cittānupassanā(心随念)、Dhammānupassanā(法随念)の四念処(Satipaṭṭhāna)を修しなさい」ということなのだ。
『ニワーパスッタ(撒餌経)』(中部25)に、森に 餌を撒いて狩人が待ちかまえている譬えがあります。
「空腹を満たしたら幸福になるだろう」と思った獣の期待は、そこで潰えるのです。
眼耳鼻舌身に入る情報は、人間にとっては狩人が撒いた餌のようで、それにかぶりついているので、輪廻を脱出できず、悪魔(狩人)の思うままになっている。
自己観察をすると、その網が 破れて人の心は自由になります。それが自灯明の真意です。
法(dhamma、ダンマ)とは真理のことです。
真理とは、意見、見方、感想、見解ではない、ありのままの事実です。要するに、「法灯明」 とは、ブッダの教えを理解することです。そして、法に導かれる人は、指導されているように自己観察をするのです。
自己観察をする人が、 ありのままの真理を発見するので、法を発見するのです。
ですから、自灯明・法灯明というのは同義語なのです。
「自灯明・法灯明」の本当の意味は、「四念処(Satipaṭṭhāna)を修せよ」ということである。
では、なぜ「自灯明(attadīpā)」「法灯明(dhammadīpā )」となぜ言葉を変えたのか?
スマナサーラ長老によれば、「たとえていえば、植物性のタンパク質を取りなさい。豆腐を食べなさい、というような意味」だという。
たとえば、「この洞窟を調べなさい」(自灯明)と言われて調べたところで、宝物(真理)を発見する。
「宝物を探しなさい。洞窟の中にあります」(法灯明)と言われたならば、宝物を(真理)を意識して洞窟を調べてそれを発見する。
アルボムッレ・スマナサーラ長老『自立への道』(サンガ)p.124
悪魔の敗北宣言
釈尊に「涅槃に入ってください」と悪魔が懇願したのは、ブッダが涅槃に入られても、比丘や在家により、仏教は無事に世に広まることが明確になったからである。
これが大涅槃経の編纂者が語りたかったことである。
自分の死期を決められる阿羅漢
阿羅漢だけに限られた能力で自分で死期を決めなければならない。
改竄されたサンスクリット語の 大涅槃経
パーリ語仏典では、仏教の唯一の目的は解脱に達することである。
対して、後のサンスクリット語仏典では、「この世界は美しいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」と改竄して、釈尊の人格を煩悩にまみれている一般人のレベルにおとしめた。
これは釈尊が「生きることは苦である。一切の現象は無常である」と説いているのに対して、大乗は解脱にこだわるのは小乗であり、覚りに達するよりも優れた道は、菩薩として社会貢献をして、輪廻の世界に留まり、そこで暮らすことであると、考えたためだからである。
四大教法(Cattaro Mahapadesa) 真のブッダの教えの見分け方
仏滅後、正しい教えを守るために
(1)釈尊の(直接の)言として新しい事がらを、
(2)僧団の(直接の)言として新しい事がらを、
(3)長老たちの(直接の)言として新しい事がらを
(4)長老の(直接の)言として新しい事がらを、
言い出す者があれば、喜ばずきらわずに聞き、これを経と律とに照して明らかにし、相違すれば捨てるべきこと。
『長阿含経』(『大正蔵』巻1-17c)
「智慧」を基準として「選択」することも「信念」であり、それが「崇拝」に至る。
「真の教え」は各自の考えに過ぎず、信じている人だけにとっての真理である、という批判もある。
しかし、
釈尊の最後の食事
これまでも何度も赤痢にかかった
スーカラ・マッダワ 北伝仏教の解説ではキノコ料理、南伝仏教では豚肉料理
パーリ語のスーカラは豚、マッダワは上等という意味の形容詞
毒キノコではありえないのは、敬虔なチュンダが接待した釈尊に不確かなものを出すことがないため。
仏教は菜食主義ではない。主義は仏教の教えに相反するものである。
托鉢でいただくものを断らないのが慣わし。
肉料理を食べても仏教の教えに反することはない。
現代でも供養する食物を捨てるのは、お下がりをいただく程の地位ではない、というブッダに対する敬意の表し方。
巡礼すべき4大聖地
降誕の地ルンビニー
成道の地ブッダガヤ
初転法輪の地サールナート
般涅槃の地クシナーラー
転輪王
転輪聖王とは、古代インドの思想における理想的な王。
地上をダルマ(法)によって統治し、王に求められる全ての条件を備えるという。
サンスクリット語cakra vartiraajan。チャクラは「輪」、ヴァルティンは「動かすもの」の意味。
インドラ神の力を象徴する戦車の車輪とする説や、世界を照らす日輪(太陽)とする説、或いは輪状の武器チャクラムとする説や、マンダラを表すという説もある。
この輪宝は理想的な王である転輪聖王の無限の統治権のシンボルであった。
ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)半ば以降から輪を王権のシンボルとする観念はインド世界に存在し、転輪聖王の概念もその延長上にあるものである。
転輪聖王に関する記述は『転輪聖王師子吼経』や『大善見王経』といった仏典の随所に登場する。
転輪聖王観
世界は繁栄と衰退の循環を繰り返し、繁栄の時には人間の寿命は8万年であるが、人間の徳が失われるにつれて寿命は短くなり、全ての善が失われた暗黒の時代には10年となる。
その後、人間の徳は回復し、再び8万年の寿命がある繁栄の時代を迎える。
転輪聖王が出るのはこの繁栄の時代であり、彼は前世における善行の結果転輪聖王として現れる。仏陀と同じ32の瑞相を持ち、4つの海に至るまでの大地を、武力を用いる事無く、法の力を以って統治する。
転輪聖王には金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の4種類がある。鉄輪王は鉄の輪宝を持ち、(古代インドの世界観で地球上に4つあるとされた大陸のうち)1つの大陸を支配する。同様に銅輪王は銅の輪宝を持ち、2つの大陸を、銀輪王は銀の輪宝を持ち、3つの大陸を支配する。そして最上の転輪聖王である金輪王は、金の輪宝を持ち、4つの大陸全てを支配するという。
また、法(ダルマ)に則った統治を強調するものとして、「輪王はまさに法に依り、法を敬い、法を重んじ、法を尊び、法を幡とし、法を旗印とし、法を第一としてクシャトリヤたち、家臣達、軍隊、バラモン・ガハパティ達、市民、地方民、シャモン・バラモン達、獣類、鳥類に対し、法にかなった守護、庇護、保護を加える。」とする記述もある。
聖なる八支の道
聖なる八支の道が見られる法と律のみが沙門の性質がある。
沙門とは真理(解脱)に達する観を行う者のこと。
八聖道こそが覚りへの道
→八聖道以外、他の修行法では覚りに達しない。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい 最後の言葉
vaya-dhammā saṅkhārā, Appamādena sampādethāti
根源のエネルギーも消え去るカタチでしかない。怠ることなく完成を目指しなさい
sampādeti:[saṃ + pad + e] tries to accomplish
釈尊の遺骨 仏舎利 Śarīra
釈迦入滅の地クシナガラで舎利はドーナ・バラモンの采配で8等分され、それに、容器と残った灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納された。
マガダ国王舎城
釈迦族カピラ城
プリ族アッラカッパ
コーリヤ族ラーマガーマ
ヴェータディーパ
パーワーのマッラ族
クシナーラーのマッラ族
ドーナ・バラモンは壺
モーリヤ族 炭
釈迦族の滅亡
釈尊の滅後 大般涅槃経
釈尊の存命中 ジャータカ註465、 法尊重教は釈尊が最晩年の80歳の時
釈迦族は自民族の優秀性を誇り、他国民を見下す高慢な民族だったことが滅亡を招いたと分析 ダンマパダ註47、
参考資料
知識と智慧の違い
知識は苦の原因、智慧は安穏の原因 Knowledge promotes suffering,
wisdom promotes happiness.
アルボムッレ・スマナサーラ長老
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga
第24章 比丘の章
382.
Yo have
daharo bhikkhu
Yuñjati buddhasāsane
So imaṃ lokaṃ pabhāseti
Abbhā muttova candimā
たとえその年若くとも 比丘はブッダの教法に
専念すれば 世を照らす 雲間を出でし月のごと 訳:江原通子• (Dhammapada 382)
正自覚者の意味
仏教は智慧を推奨する教えです。ブッダという言葉は、智慧に達した人という意味です。お釈迦様にブッダ(Buddha)と言うのです。解脱に達する人は誰でも智慧を完成するので、理論上はブッダ(buddha)です。
Buddhaとは、固有名詞ではなく普通名詞です。解脱に達した聖者たちのなかで、本師であるお釈迦様を示すために、サンマーサンブッダ(sammāsambuddha)という言葉を使うのです。Buddhaを覚者と訳します。Sammāsambuddhaを正自覚者と訳します。
真理に達する道と正反対の道を歩んで、人々は様々な修行方法を試していたのです。当然、だれも真理に達することはできなかったのです。お釈迦様も覚りに達する前に、インドにあった様々な修行法を試してみたのです。しかも、その試し方は尋常なものではなかったのです。修行方法を教える師匠たちも、感動してしまったのです。やがてお釈迦様が、世にある修行方法では決して真理を発見することはできないと理解したのです。それからは人の話に頼らず、自分で理解した方法(中道)で修行して、覚りに達したのです。釈尊は覚りに達する道の先駆者なのです。人間・神々を乗り越えた才能を持っていたので、言葉で語ることは不可能な、真理に達する道と解脱について、解き明かすこともできたのです。他人の指導を受けず解脱に達したことと、その道を他人に解き明かせる能力が具わっていることを加えて、お釈迦様にbuddhaではなく正式的にsammāsambuddha と言うのです。テーラワーダ仏教では、解脱に達した聖者たちにブッダという言葉を使用しないのが習慣です。代わりに、阿羅漢と言うのです。ですから、buddhaもsammāsambuddhaも両方、お釈迦様を示す言葉として使っているのです。
阿羅漢と如来の意味
ブッダの九徳の一番目は arahaṃ (阿羅漢)です。これは解脱に達する誰にでも、敬語と して使う言葉です。二番目の徳は sammāsambuddho ですが、この言葉は解脱に達した弟 子たちのためには、決して使用しないのです。道の先駆者は釈尊一人だけです。お釈迦様はご自分を指して言う時、sammāsambuddhoという言葉を使わないのです。
漢訳仏教語では如来と訳されている、Tathāgato という言葉を使うのです。如来とは、真理に達した人、という意味です。この言葉には自分を賛嘆する意味が入っていないのです。現代日本語で言えば、「卒業者」程度の意味です。先に卒業したので、卒業しようと励んでいる人々に教えたりアドバイスしたりする資格があるのだ、という意味を示したかったのだろうと思います。如来の意味もお釈迦様が定義されたのです。
1.
過去・現在・未来に関わる一切の物事について、時期を見計らって、意義のあるものを、人の役に立つように、またありのままに語るのです。
2.
人間・神々を含む一切の生命が知るもの・考えるもの・経験しているもの全てについて、覚っているのです。
3.
自分で覚って発見している真理のみを他人に語るのです。
4.
自分が解脱に達してから涅槃に入るまで説くことは必ずその通りである、変わることはあり得ない。
(Dīghanikāya 長部 29 Pāsādikasuttamパーサーディカ経)
現世利益の話
ブッダの道を実践しようとする人は誰でも、智慧を目指すべきです。それ以外の何かを期待するのは、正道だとは言いづらいのです。
しかし私たちはそもそも人間なので、健康になりたい、長生きしたい、人間関係のトラブルを無くしたい、能力を開発したい、豊かになりたい等々の数えきれないほどの希望を持っているのです。ブッダが説かれるように生きてみれば、それらの希望が失望で終わることは決してないのです。その個人にとって欠かせない希望は、いとも簡単に叶うのです。
この現象は、有難いと言うべきものではないのです。「仏教のお陰で、仕事も能率が上がりました。社員が明るく頑張ってくれるようになりました」等の話は、有難くはないのです。それはただ、俗人の希望が叶っただけの話です。
仏教は俗人のためにできあがったサービス・ステーションではないのです。智慧を目指すべきです。
喩えで説明します。ある人がアメリカの一流の大学に入って、研究したいと思っているとします。見事大学に合格して、その人は飛行機に乗ってアメリカへ旅立つのです。十二時間の空の旅になります。普段食べない食べ物や飲み物のサービスがあります。その人は結構楽しみます。もしその人が「私がアメリカの一流大学に入学しようとしたのは、飛行中の食事や飲み物を楽しみたかったからです」と言ったとしましょう。どう思われますか?
たとえファーストクラスで飛んだとしても、飛行中のサービスは大したことではないでしょう。旅の目的は大学で行なう研究でしょう。仏道も同じことです。智慧を開発するのが目的です。途中でいろいろサービスもあります。サービスに足を取られると大損です。仏道を実践すると、現世利益は飛行中のサービスみたいに当たり前のことです。しかし機内食を食べる目的で飛行機に乗る人の頭はどうかしているのです。
なぜ仏道を実践すると日常生活もうまくいくのでしょうか?
それは仏教が真理を語るからです。本当のことを言っているからです。正しい道を教えているからです。ひとが不幸になる、失敗する原因を示して、戒めているからです。しかし私たちは、現世利益に足を取られることなく、先へ先へと進まなくてはいけないのです。
智慧のことは分からない
智慧とはどういうものでしょうか?
いま自分に智慧が無いから、それはどういうものかと知ることは難しいのです。一度も見たことのない花の絵を描きなさいと言われても、描けないのです。自分で妄想して、何か描くかもしれませんが、それは本物にはなりません。よい例があります。ヒンドゥー教ではたくさん神々がいるのです。しかし誰一人として神を見たことが無いのです。それでも人間が神像を作るのです。グロテスクな作品になります。赤ん坊を口に咥えたり、人の首をつなげたネックレスを掛けたり、首にコブラを巻いたりしている神像になります。頭はゾウ、身体は人間で、ネズミを乗り物としている神像もあるのです。ネズミが可哀想だと思います。このようになるのは、実物を経験してないからです。
知識は簡単に変わります
ですから智慧について、あれこれと考える必要はないのです。必ず間違えます。私たちにあるのは知識です。知識とは、五感から入るデータによって、頭のなかに現れる概念のことです。データが入るたびに知識も変わるのです。それからデータは、ありのままにインプットしようとはしないのです。自分の都合によって、捏造した現象を概念にするのです。人間にはネコが可愛い生きもので、ヘビは嫌いな生きものです。犬の死骸は不潔なもので、アンコウの死骸は高級食材なのです。見た目はあれほど悪いのに、気持ち悪い、不潔、という感じは起きないのです。このように我々は、五感から入る情報を自分の都合で捏造するのです。評価のラベルを貼るのです。アンコウを初めて見る子供なら、キャーッと泣いたり、怖いと言ったりする可能性があります。それはその子供の知識になります。しかしアンコウを食べてから魚の死骸を見たら、気持ち悪いと思えないでしょう。
知識とは真理ではなく人間の都合
私たちの知識は全て、人間という種の都合によって捏造した概念です。それも固定していないのです。知識はつねに変わってしまうのです。人間には、生きるために知識が必要です。知識と生存欲は密接に繋がっています。知識が沢山あることは有難いです。知識があると存在欲が強まるのです。それで生きることが苦しくなるのです。知識が無いと生きる能力も弱まるのです。それで生きることが苦しくなるのです。知識とは一時的な感想です。一定しないのです。例えば歴史を学んだとしても、その知識は一定しないのです。新しいデータが発見されたら、自分の知識を変えなくてはいけないのです。
真理を発見することが智慧です
智慧とは人間中心に物事を見ることではありません。すべての生命の立場から見ることでもありません。これは不可能なことです。智慧とは、実際なんなのかと知ることです。一切の主観、感情、見解、先入観を取り除いて、ありのままに、まったく評価のラベルを貼らないで、六根に入るデータを確認することで現れる能力が智慧です。それには訓練が必要です。脳のいまの働くパターンをバイパスしなくてはいけないのです。徐々に現れてきます。すべての現象の本当の姿を発見した人が、「一切を知っている」と言うのは正しいです。しかし「一切智者」と言うと、人間は誤解します。世のありとあらゆるすべての知識を知っていることだと思ってしまいます。世にある知識は、残念ながら正しくないのです。一時的な感想に過ぎません。それには終わりが無いのです。知識がいくらあっても、知らないもののほうが圧倒的です。知識に頼っても、みじめに生きるはめになります。
喩えで説明します。ある病人がいるとしましょう。その人はその日その日、何かを訴えるのです。頭が痛い、耳が痛い、関節が痛い、食欲が無い、身体がダルい、眠れない、起きられない、気持ちが悪い、ヤル気が出ない、周りが鬱陶しい等々と訴えたりします。それぞれの症状にそれなりに手当もします。しかし一向に病気が治らない。一つの訴えに手当をすると、別なところで別な症状が現れます。そこでその人は、身体を全体的に検査してもらいます。肺がんが発見されます。それで今までの無数の症状の訴えは、すべて肺がんのせいであったと分かるのです。一つ一つの症状に、限りなく手当することは道ではないと理解します。(現実的には不可能ですが)治療して肺がんが完治したとしましょう。それで全ての症状の訴えが消えてしまうのです。
苦を増やす知識
この喩えで、仏教の智慧の世界はどのようなものかと説明します。生きることは苦なのです。何をしても、苦が別な苦に変わるだけです。友達が居ないとそれが苦です。友達が居るとその関係で苦が起きます。人が知識を得るのも、苦を無くす目的です。しかし知識を得て振り返ってみたら、苦が増えただけではないかと発見します。智慧とは、なぜ苦しみが起こるのかと発見することです。それからその原因を取り除くことです。それで一切の苦が消えるのです。それが出来た人には、この世にある如何なる現象であっても、それを知っていることになるのです。
最終的な解決は智慧です
仏道実践を始めたら、智慧がジワジワと現れてきます。智慧が現れた分、人生は楽になります。いくら知識があっても、智慧には叶わないのです。わずかな智慧がある人でも、知識人などよりも瞬時に、正しい生き方を発見するのです。問題が起きたら、すぐ正解がみつかるのです。智慧は概念をためる働きではなく、物事をありのままに観られる能力のことです。知識には完了はないが、智慧には完了があります。智慧のある人は、普通の人間と同じであると思ってはいけないのです。
智慧があると子供でも超人
お釈迦様の八十人の大弟子のなかで、アヌルッダ尊者という聖者がいました。誰よりも、天眼という神通能力が優れていたのです。天眼とは、見たいものを何でも見られる超越した能力のことです。遠くにあるもの、他次元のものなど、何でも観られるのです。アヌルッダ尊者が過去生で修行していた時、たいへんお世話になっていた人がいたのです。阿羅漢になってから、どのような修行の結果として、自分にこの優れた能力が付いたのか」と調べたところで、過去生で徳を積んだ時お世話になった人のこと分かったのです。いまその人はある遠いところに生まれているのだと分かって、その人に恩返しするために、そちらに行ったのです。その家の人々のお布施をいただいて、その村に住むことにしたのです。家の主人が、安居のおわった日に必要な品物もお布施しました。尊者はお布施を断りました。理由を訊いたら、「管理する弟子がいないから」ということでした。主人は「それでは自分の長男を出家させます」と言ったのです。尊者は「長男にも用がない」と断ったのです。さらに主人が「それなら次男を出家させます」と言ったところで、尊者も認めたのです。次男はまだ子供です。しかしアヌルッダ尊者は「この子は出家儀式で剃髪する間で阿羅漢に達する人である」と最初から知っていたのです。そのとおり、次男は沙弥出家すると同時に阿羅漢に達したのです。この沙弥は、かなり優れた神通能力を開発したのです。その沙弥が起こした神通は世に広く知られたのです。子供の才能には皆驚きました。それについてお釈迦様が、「たとえ子供であっても、仏道を歩む者は、雲から顔を出す満月のように、この世を輝かすのだ」と説かれたのです。
道は皆に開かれています
仏道を実践するならば、子供であっても超人になるのです。人間の次元を超えるのです。このエピソードにある神通の話に、目が眩んではならないのです。神通力を目指して修行してはいけないのです。智慧を開発するために修行すると、神通力もたまにおまけで付いてくる可能性があります。神通は仏教で評価していないのです。仏教の本当の目的を忘れず実践するならば、誰でも俗世間の一般人より優れた人間になるのです。
今回のポイント
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仏教は智慧を推奨します
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ブッダとは覚者のことです
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真理を語る人が如来
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知識は正解ではありません
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本生譚(ほんしょうたん)とも呼ばれ、釈迦がインドに生まれる前、ヒトや動物として生を受けていた前世の物