ニヤーヤ学派 梵: Naiyāyika

ニヤーヤは理論(あるいは論理的考察)を意味し、論理の追求による解脱を目指すインド哲学の学派。

アクシャパーダ・ガウタマ(Akapāda Gautama)が著したとされる530程のスートラ(定句)による『ニヤーヤ・スートラ』を根本テキストとする。

 

仏教論理学者が対象は観念の構築物であると考えるのに対し、

ニヤーヤ学派では認識や言語は実在世界に即対応し、それをありのままに指示していると考える。

仏教論理学者にとって直接知覚が思惟の加わらない<無分別知>であるのに対し、

ニヤーヤでは直接知覚は有分別でありうる。

「白い牛」という認識において、「白」も「牛」も外界の実在であるとする。

推論に関しては、推論の結果が知覚や<信頼できる言葉>と矛盾するならば、それは推論が誤りであるとする。

つまり、推論はただ論理的に正しければ良いのではなく、日常経験や宗教の伝統とできる限り矛盾しないことが重要視される。

一方、ヴェーダのような<信頼できる言葉>を無条件に許容したわけでもなく、言葉の信憑性は語り手の信頼性に依存すると考えたが、ヴェーダは神の言葉であるという見解が定着するにつれ、結局はヴェーダの記述は正しいとされるようになった。

 

 

因中無果論を解明したのはヴァイシェーシカ学派である。実在論的で、多元的で、因果や応報を考える前に、世の中にはいくつもの範疇(句義)があるので、これらが無作為に動くと仮定すると因果応報が勝手に動くことになり、論理的矛盾が起きて収拾がつかなくなる。

そこで、範疇を実体・性質・運動・普遍・特殊・内属・非実在などに分けて、これらが多元的に動いているということを見つめるべきだとした。

そうすれば、原因と結果は必ずしも部分と全体の関係に還元などできないことが見えてくる。

 

因中有果論と因中無果論の両方から自在になろうとしたのはニヤーヤ学派である。

この学派は有効な知覚とは何かを求めて、直接知覚、推論、類比、証言という4つの認識方法が原因と結果の関係に自在な見地をもたらすとした。

いずれも因果応報をのりこえるというものではないが、インド哲学が「何が何の原因なのかをどのようにして決めようとしてきたのか」ということを、ギリシャ・ヨーロッパ的な根源を勝手に確定して、その上に論理を構築して解決しているのとは違い、独自な方法論にチャンレンジしている。