「プラトンの哲学」藤沢令夫(岩波新書)  の分有の問題点

藤沢氏は中期対話編の中でイデア論が拡大されていく過程をたどり、後期に属する対話編『パルメニデス』においてその不備を自ら示したプラトンが、最終的に「場」(コーラー)の概念の導入によってこれを克服したことを論述している。

 

ここでいう不備とは、

個物xはイデアΦを分有することによってFである(Fという性質をもつ)」という記述方式によって、F(感覚される性質)とそれがあってこそFがあるところのΦ(思惟されるイデア)との区別が、x(個物)とF・Φ(性質・本性)との区別の陰に隠れて不明確になること──つまり、「xはFである」によって記述される常識のものの見方のしたたかさ(個物という観念のしたたかさ)によって、イデアが不要な余計物とみなされてしまうことである。

そして、これに対するプラトンの解決方法は、「分有」に基づく記述を「似姿」もしくは「原範型」(パラディグマ)に基づくものに置き換え、「イデアΦの似姿が場のここ(Fの知覚像が現れている所)に受け入れられて、Fとして現れている」といった記述方法を採用することである。

 

p156

「美」そのもの(美のイデア)を除いて他の何かが美しいとすれば、それはただ、そのもがかの「美」そのものを分けもっている(分有)からにほかならない」

p159分有用語の記述方式の難点

「個物XはイデアΦを分有することによってFである(Fという性質をもつ)というこの記述方式においては、個物Xが記述の主語しての重責を担っていて、あたかも、イデアΦを分有し性質Fをもつということに先立ってまず個物Xが、その当の主体として確在していなければならないかのように記述される

記述   イデアΦがFをもつ→個物X

プラトン イデアΦ(実在) →個物XがFをもつ (影)

 

常識的思考はモノと性質を分けて考えている。

まずは実体としての椿がある。この椿はピンク色や多花弁や香の性質を持っていると認識する。

個物Xと性質Fを分離させて考える。

しかし実際には個物Xと性質Fは一体したもので分離させることはできない。

この椿とこの香は一体であり、この香はこの椿であり、この椿はこの香であるので、分離などできない。

 

このように常識的な記述によって、プラトンのイデア論と読み手との間に違いができる。

常識的記述は観念(一般化)を中心にする常識的思考を発動させ、個物Xと性質Fとの区別を安定させ、これを基本枠とする。

一般化とは個々のユニークな存在を類同することなので、一般的記述ではプラトンのイデア論を伝えることが難しい。

たとえば「イデア原因論はトートロジー同語反復だ」という批評もこのイデアΦと性質Fを同一視してしまっている批評家だからしてしまう意見であった。

 

プラトンの主張      イデアΦ(実在) →個物XがFをもつ (影)

観念から考える批評家   イデアΦ=性質Fなのでプラトンは同じこと言葉を変えていっているにすぎない 

プラトンが主張しているのはカタチのないイデアΦが形に成るときにFになるのであって、

決してデアΦ=性質Fなのではない。

 

p165

「パルメニデス」(第一部)において炙りだされたイデア論の不備は・・・逆に類同化されて無力化されるという、取り返しのつかぬ事態におちいる危険性がきわめて大きいということであった。

 

常識思考とは観念を基準にして、眼の前のありのままの状態を見ないで観念という過去に学習した思考パターンで、眼の前の現実を観念として解釈することである。