ルドフル・シュタイナー 霊と魂  spirit & soul

 

 

 

 

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アストラル

 

 

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有 物質

エーテル

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神智学の門前にて  ルドフル・シュタイナー   Vor dem Tore der Theosophie

Rudolf Steiner, 1861227 - 1925330

 

準備のできた者だけに修道院長ヨハネス・トリテムは文章でメッセージを送った。

この知識は好奇心や欲ではなく、行動に移されるべきもので社会で実践を築き上げるもの。

 

 

 

 

カミ界

メンタル界

アストラル界

物質界

人間

 

 

 

自我・アストラル体・エーテル体・物質体

動物

 

 

自我

アストラル体・エーテル体・物質体

植物

 

自我

アストラル体

エーテル体・物質体

鉱物

自我

アストラル体

エーテル体

物質体

 

 

 

 

エーテル体

石にはなくて植物にはあるもの

物質的な力を手段として活用することができるもの

成長し、生殖し、栄養を接種することができる

 

エーテル体を感知する方法

高次の感覚は適切なステップを重ねることで誰でも得ることができる。

盲目に生まれた人が手術を受けて視力を得るようなものではない。

 

通常の意識を完全に保ちながら、意志の力で、物質体が目に映らないように自己暗示をかける。

催眠状態は通常の意識を低下させるものなので別物である。

物質体が存在している空間はからっぽではなく、色彩や輝きが表れる。

 

 

催眠術

心が触れ合うラポールの状態   睡眠と類似性のある意識状態  ぼんやりしている

ポジティブ 存在しないものを知覚させる

ネガティブ 存在するものから注意がそらされる  そこにあるものが見えない

      没頭していると他のものが目に入らない。

 

動物にはあるが、植物は快と苦を感じる能力がない。   あるのでないのか?

 

アストラル体

植物になく動物にはある。

動物の属によって基本色が異なる

欲望、情熱と呼ばれるものを包括する

 

アストラル体のオーラは色彩を持ち、輝いたり消えたり絶えず動いている。

 

 

内的に運動する卵型の精妙な光の雲があり、この雲の中に肉体がある。

物質体とエーテル体を消すとこの雲(オーラ)のなかにアストラ体の色と形をみる。

 

「わたし」  ヒトの裡にある「カミの言い表せない名」

内なるカミが自分にのみ語りうるもの

このカミの名である「わたし」は魂から響いている。

魂がみずからに固有の名を与えるので、ほかの者が名前をつけることができない。

たとえばヤハウェあるいはエホヴァとは「わたしは存在する」という意味であり、その名を聞いた者は素晴らしい気分を体験した。

魂がみずから与える名前によって魂の中のカミは語りはじめる。

 

詩人ジャン・パウル1763321 - 18251114日は自分の中に自我(「わたし」)を発見した時に、自分の中に不死の存在を発見した。

 

「自我」は鼻根のところに、青みがかかった卵形としてある。

教養のある人は、はっきりと知覚されず、先住民ははっきりと知覚される。

実際は空虚な空間であるが、オーラの光がまわりに輝いているので、この空間は青く見える。

 

そのオーラによってそのヒトの善悪の基準がわかる。なぜならば自我がアストラル体に働きかけるので、霊視者は魂の進化の具合を見ることができる。

 

第5の構成要素  マナス

ヒトが働きかけてアストラル体のなかに形成したもの

 

第6の構成要素  ブッディ

高次な道徳生活を通して、エーテル体のなかに形成したもの

 

神秘学徒チェラ

エーテル体に働きかける術を学んだ者

直接にはエーテル体に影響を与えることはできないが、チェラはエーテル体、すなわち生殖と成長を担う主人になる。

一般人は前世と姿形も気質も異なるが、チェラは前世と同じ習慣や気質を保っている。

第7の構成要素 アートマ

自分の物質体への働きかけを通してアートマを形成する。

具体的には呼吸と血液と神経と思考回路をコントロールする。

 

 

3つの世界

1物質界

2アストラル界  魂       死後に知る世界   鏡像のように逆になっている

3カミ界     霊

 

ヒトは3重の世界が併存するなかで生きている。

 

 

 

アストラル界         死後に知る魂の世界   鏡像のように逆になっている

外と内

邪悪な黒い姿に苛まされて不安な状態で暮らしている。

この邪悪な姿とは、自分自身の衝動、欲望、熱情がアストラル体となっているのを感知したもの。

自分から外に出ていくものが、自分に向かってくるように、自分の周りに自分自身の衝動の鏡像をみる。

逆の時間  預言

最初に結果が見え、それから原因が見える。

だから予見や予言ができるようになる。

神話

アストラル界の特徴を伝え、世界の謎を解き、高次の世界(霊感)に由来する。

ヘラクレス伝説

悪徳   美人 快楽、幸福、至福       悪に駆り立てる

美徳   地味 困難な仕事、自己犠牲     善に駆り立てる

この伝説は、ヘラクレスのアストラル体のなかに、彼自身の2つの性質が現れたことを物語っている。

衝動と力

高次の世界(アストラル界、メンタル界、コーザル界)は衝動と力をもたらし、これによってモラルは築かれる。

高次の世界の力なしに、人々はモラルを説く。これは易しいが、いくら「善良な人間になり、道徳的な生活を送る」と説いても、高次の世界の認識がなければ、モラルの作用は及ばない。

他者に義務を言うだけで、薪やガソリンを与えないからだ。

真理を認識することがモラルを築くことになる。なぜならば真理の認識によって魂に燃料を与えるからである。

 

思考だけで実際に行動していない

「憎しみを感じ、考えただけで行動には移していない」

しかしどのような思考も感情も1つの現実であり、上記のように憎しみを抱いたら、それは対象者のアストラル体に稲妻のように発せられて害する。

アストラル界をみることができるものはこれを見ることになる。

アストラル界では感情も思考も1つのカタチであるので、肉体的に害するよりも、悪い考えを持つほうがずっと悪徳であるので、これを知らせるのがモラルを築くということである。

 

真実と生命の活気

真実を語ると、それは思考のカタチとなり、それを聴いた者の生命を強める。

真理を含んだ思考は、関係する存在のところに行き、その存在を活気づけ、助け、生命を育てる要素を形成する。

嘘を語ると、その力は破壊的で生命を弱める。

よって嘘は殺人的行為だと言われる。

 

物質界との違い

アストラル界もカタチと色で成り立っているが、色は炎のように自由に空気中を虹のように漂っている。

この色彩像は自由に空間を移動し、潮汐のように振動し、線とカタチは常に変化している。

対して物質界の色カタチは、いつも対象と結び付けられているように見える。

しかし物質界とアストラル界の類似性もある。

アストラル界の色カタチは対象に固着せずに漂っているように見えるが、その色カタチの塊ははさまざまな存在にくっつき離れる。

この動きはデーヴァという霊的存在がアストラル界での表現であり、開示である、

 

メンタル界

アストラル界からカミ界へ

アストラル界では、自分の周りにある邪悪な黒い姿を「これは、私だ」というのだが、

霊的世界(カミ界)を知ると、修行者は自分の物質的な姿形を自分の外に見て、「これは、おまえだ」という。

 

アストラル界では情緒を基準にするので、「わたし」は無意識のうちに逃避して自分では気づかず認めようとはしない情感は「わたし」に由来することを認める段階であった。

つぎの霊的世界では、「わたし」は物質の肉体ではないことが確認され、「わたしではない」すなわち「おまえだ」と認識することになる。

 

このときの修行者は神界にいて、そこは色カタチだけではなく音が加わる。この音をピタゴラスは「天球の音楽」と呼んだ。

天体が運行しながら音を発して、そのハーモニーが聞こえる。

 

ファウストが霊的世界でデーヴァたちに囲まれているとき、太陽が響きを発する。

 

太陽は昔のままに響きを発し、

兄弟の星々と歌を競っている。

そして、定められた旅路を

雷のような轟を発しながら進んでいく。

 

ファウスト2部

霊耳に響きつつ

すでに新しい日が生まれる。

岩の門は音を立てて開き、

フェーブスの車輪は音を立てながら回転する。

なんという轟々たる響きを光はもたらすことか。

光はラッパのように響き、

目は眩み、耳は驚く。

聞きも及ばぬ響きを聞くことは耐え難い。

 

カミ界

カミ界からみたアストラル界

カミ界ではあらゆるものがフィルムのネガのように、物質的対象のあるところには、何も見えず、補色の関係になる。

カミ界の第1領域は「大陸」とよばれ、物質は暗く、そのまわりを光が覆っている。

物質界、すなわち生命のないものの原像がある。すなわち鉱物、植物、動物、人間の物質形態の原像である。

 

カミ界の第2領域は「海」とよばれる。

感覚がより繊細になると、生命の原像が付け加わる。

血液が体の中を流れるように、「生命」は地上の水のようにカミ界を流れている。

鉱物は見えないが、植物、動物、人間の原像が見える。

 

カミ界の第3領域は「大気圏」とよばれる。

ここでは物質界の感情と感受性、すなわち快と苦のなかに生きているものすべてが流れている。

動物的、人間的なものすべては、この領域に現れる。

 

たとえば戦争は、炎、稲妻、雷と荒天のように現れる。これは戦争の物質的な働きではなく、軍隊の激情が顕れ出たものとして目に映るのである。

 

カミ界の第4領域は「宇宙」とよばれる。

ヒトの考えのなかに生きるものすべてが含まれている。

誰の考えに関わらず、すべての考え(日常的な想いから大発見に至るまで)が世界に作用する。

 

霊界

ヒト(意識体)が行ったすべてのことは、カミ界と霊界の境にアーカーシャ(虚空)年代記として不滅の記録となる。

この年代記の知りたい点に精神を集中すると、すべてのイメージが影絵のように現れてくる。

当事者の思考が再現されるのである。

このメカニズムを誤解すると降霊会などのチャネリングと混同される。

また現れたアーカーシャ像は質問に答えたりするが、それは本人ではなく生前の思考の再現であるので、本人と混同するのは誤謬である。

思考機能の再現なので、新しい質問にも当時の本人が答えたように答える。

思考機能の源なので、当時の本人のスタイルとセンスで持って詩をつくることもできる。

 

 

欲界における魂の生活

死から再受肉まで

1物質体

2エーテル体    物質体より少し超え出ている

3アストラル体   雲のように物質体を包む

4意識体(自我体)  5マナス     6ブッディ生命霊   7アートマ霊人

 

睡眠と意識

睡眠中にヒトに意識がないのは、アストラル体(感情やシンボル)と意識体は物質体との結びつきがゆるむので、肉体の脳だけでは意識を持つことができない。

睡眠中のアストラル体は、物質体の疲れを回復させる。

 

催眠術とエーテル体と記憶

体の痺れはエーテル体がゆるんで離れているからである。

催眠術では脳が痺れてエーテル体が離れるので、何度もかけられると、夢を見ているような状態になり、めまいの発作に襲われるようになる。

エーテル体は記憶の担い手なので、エーテル体が精妙になればなるほど記憶力は増す。

エーテル体が物質体のなかに強固に嵌入していると、物質体の粗雑な振動がエーテル体の振動を覆うので、エーテル体の振動は十分に脳に伝わらない。

 

死と意識

死の瞬間に心臓にある物質体の結び目が光り、アストラル体と意識体だけではなくエーテル体も離れる。

この3つの体は死後もしばらく結びついている。

死の危険の瞬間には過ぎ去った人生の体験が走馬灯のように魂の前に現れ通り過ぎていく。

これは、エーテル体に書き込まれていた記憶が脳から離れ、魂の前に現れるからである。

この思い出はエーテル体がアストラル体と意識体から離れるまで続く。

死後にエーテル体は宇宙エーテルのなかに解消していくが、霊的に進化すればするほどゆっくりと解消し、エーテル体が解消しない段階の進化もある。

 

死後と意識

生前の意識は感覚に依存しているが、死後は目が失われ闇がひろがり、耳が失われて音がなくなり、寒暖の感覚もなくなる。

魂に活力を与えるもの、日常の意識を満たすもの、とは何だったのだろうか?そして死後には何が残るのであろうか?

この答えが死後の状態である。

この状態を欲望の場所、すなわち欲界とよぶ。

この世も欲界なので、死者の霊は絶えず、わたしたちのまわりに漂っているが物質界の人間には見えないだけである。

 

生前の楽しみは物質体の器官によるものだったが、それがない死後では魂はどのように意識を取り戻すのか?

欲望を満たす器官を持たない魂は、渇きに苦しむという意識をえる。

この苦しみは外部からではなく、楽しみが満たされないことからくる内からの苦しみである。

魂は地上から解放されて浄化されるプロセスにおいて、感覚的な望みが断たれるために起こる苦しみである。

 

魂が浄化されると欲界期は終了し、魂はカミ界に上昇するが、それまではどのように生きるのであろうか?

死後の魂は自分の人生を逆に生きる。

死の瞬間から誕生の時まで逆の順序で出来事を体験するのは、物質的なものへの執着を断つためである。

楽しみのすべてをもう一度体験するが、それを満足させることはできないので、物質的人生から離れていくことに馴れていく。これが浄化のプロセスである。

そして最後に誕生の後にある「天国」に至る。

自殺の場合は、満足が得られず、楽しみが拒まれたため死を選んだのであり、これは人生に執着していたからなのであり、魂は突然に失われた物質体を求めて、彷徨がはじまる。

自然死した場合でも、物資体によって得られる生存欲や感覚欲の喜びは得ることができないので、魂はすぐに浄化しない。

対して物質的喜びに執着のなかった人は物質体を失うことは沈痛は少ない。

 

生前は生きることで他者や動植物を喜ばせたり悲しませたり楽しませたり苦しめたりしている。

これらに魂はもう一度出遭う。

ほかの存在に与えた苦しみをすべて、自分の魂のなかで体験しなければならない。魂は他者や動植物の魂と一体になりそれらのなかに入ることができるので、どんなに苦しめられたかを知り体験することになる。

これらは業kammaではない。魂の浄化のプロセスである。

いくら「良い目的」「理念」「正義」のためであっても他者に与えた苦しみは今度は自分自身の魂が経験することになる。

魂が欲界にとどまるのは生前の寿命の1/3である。

欲界期を通過すると、アストラル体の高次な部分を低次な部分から取り出すことができる。

取り残された低次の部分である本能は第3の死体になり、アストラル界のあらゆるところを漂い、この低次の衝動と習慣は有害な影響を与える。

これらは質問や消息を理性的に答えることができので降霊会やチャネリングで現れる。

 

 

死後、輪廻転生によって人生の収穫のエキスは高次のアストラル体のなかにとどまり、魂はそれをコーザル体として有する。

コーザル体は人生の収穫から組み立てられているので、それをみれば生前や輪廻転生の状況が判断できる。

 

 

春分の太陽の上昇地点の黄道十二宮は2160年ごとにの次の星座に移動している。

3000BCは牡牛座、800BCは牡羊座、そして魚座、次は水瓶座である。

この2160年ごとにカミ界にいる人間は、ふたたび地上に受肉する。

新たな地上の様相のなかで、新たな経験を積み修行するのが、輪廻転生の意味である。

 

 

 

 

 

カミ界での魂の経験

1 大陸          ネガの形で見える

2 海と河川

3 空気、エーテル空間

4 霊的原像の領域

 

身体器官は宇宙の力から形成された

「光が目を創造した」「音が耳を創造した」「自然の叡智が脳を創造した」

1段階 前世のイメージを訂正する。前世の果実から来世のための身体のイメージを用意する。

2段階 前世では生命は自分のなかにあり知覚されなかったが、ここでは生命が流れているのを見る。

3段階 自分のうちにあった感情や情緒が雲や稲妻として自分の周りに現れる。これらを観察して魂の特徴を自分のものにして、身体に魂を吹き込む。

このようにして来世のために意識を持って自分の身体のイメージを用意する。

 

生前はアストラル体は昼には物質体の力によって曇らされ、夜には物質体の回復のために働いていた。

死後は肉体の治癒などで物質界に関わらなくてよくなった分だけ意識が目覚める。

また低次のアストラル体が捨てられ、高次の永続的な部分だけになったものがカミ界の門にいたり、

高次アストラル体の力が流れ込んで、活動に目ざめて7つの器官であるチャクラが発生する。

 

チャクラが働き始めるとヒトはアストラル界を知覚する。

5感覚器官は受動的なのに対して、この霊的器官であるチャクラは能動的に対象を包み込む。

 

 

カミ界におけるヒトの魂の仕事

 

1 大陸       物質はネガの絵のように見える  

ヒトは存在(新しい身体のイメージ)を生み出す至福を感じる

2 海と河川  ヒト、動物、植物の枠に限定されていた「生命」が、その枠内で流れているだけではなく、枠外では同じ共同体の間を流れ、またそららはすべてが繋がっており、1つの海のように流れているのがみえる。

「生命の流れ」は赤みのある藤色である。

3 空気、エーテル空間   魂と魂の触れ合いがカタチとしてみられる。

愛がカタチとなり、その至福は言語化することができない。

 

 

ヒトの自我は物質界にあるので、地上ではもっとも傑出したものである。

 

 

カミ界上位

 

カミ界下位

メンタル界

アストラル界

物質界

人間

 

 

 

自我・アストラル体・エーテル体・物質体

動物

 

 

自我

アストラル体・エーテル体・物質体

植物

 

自我

アストラル体

エーテル体・物質体

鉱物

自我

アストラル体

エーテル体

物質体

 

 

ヒトの進化と地球の変化  死者の仕事

たとえば動物の魂(自我)は物質界にはなく、アストラル界にあり、鉱物の魂(自我)はカミ界にある。

ヒトは死ぬとその魂はアストラル界で動物の魂とともに動物界を変化させ、メンタル界で植物とともに植物界を変化させ、カミ界では鉱物とともに仕事をする。

ヒトは進化するほど、カミ界上位で鉱物とともに長く働くことになる。

 

このような方法で、ヒトは地球の様相を変化させていく。正確にいうと死者の魂によってである。

「自然の力」のなかにある死者の行為が地上を改造している。

 

これらのことは伝説や童話として伝えられている。

 

2つのアストラル体をもつケース    多重人格の原因の可能性

死と再受肉のあいだには約1000年ある。(死者の魂がかなり浄化されておりカミ界で働く場合?)

死んだアストラル体が消えないうちに再受肉するケースでは、古いアストラル死体は新しいアストラル体に入り込む。つまり2つのアストラル体をもって暮らすことになる。

古いアストラル体は悪夢や幻想のなかで第2の自我として現れたり、時に幽体として目の前に現れて本人を苦しめる。

 

ヒトの萌芽

鐘の形をしたものがカミ界からアストラル界に侵入して、あたりを駆け抜けて移動している。

死者の魂は、高次のアストラル体と果実であるコーザル体をともなってカミ界にいたった。

この鐘のカタチはコーザル体であり、エネルギーは新旧のアストラル体であり、中心は黄色く、他は赤や青である。

カタチと色は前世のコーザル体(阿頼耶識?)によって決まる。

 

瞬間移動するのは、自分に適した両親を探すためである。

子供が親に似るのではない、ヒトの萌芽は自分に最もよく似た両親のところに生まれるのである。

 

この両親探しのプロセスには高次の存在の助力がある。

リピカが両親のところへ導き、

マハーラージャが萌芽のアストラル体からエーテル体を、両親の物質体からエーテル体を形成する。

子供の激しさは両親の激しさによって決定される。

完全にエーテル体に調和した物質体はないので、ヒトは魂と体との間の葛藤が生じる。

 

受肉する直前に、前世の人生と記憶と、これからの現世の人生のおおまかな概略ををまえもって見る。

前世と現世の困難な人生を見た者はショックで魂が完全に肉体のなかに入るのを控えると白痴や癲癇もちとして生まれる。

高次の魂は胎児と結びついてはいない。

最初に活動するのはエネルギー体(物質)であるコーザル体である。

 

 

子供の教育

1〜7   

7〜14

15

 

1〜7   

エーテル体とアストラル体は物質体の構築にのために働いているので、まだ外界に到達できないので、外界から働きかけることができない。

 

エーテル体とアストラル体を煩わせることなく、おのずと生じるようにして、感覚器官を通して子供に働きかける。

教材や忠告によって感覚器官に働きかけることはできないので、

比喩や手本(模範)によって働きかける。

感覚器官を通して周囲のものや人間の振る舞いを感じるので、模倣する存在になる。

具体的には、きれいなものなどを与えるのではなく、完成されていないものを与えて、内なるイマジネーションを刺激する。

物質界からの影響が大切である。

よい思考形態、高貴、心根のやさしい人々に囲まれていることが重要である。

すなわち意志・思考回路・情緒であるので、よい手本が最も重要な教育手段である。

何を言うか、ではなくどのようなあり方をするのか、が子供に作用する。

 

 

7〜14

アストラル体に働きかけるべきではないのは、内に向けて働く可能性を取り上げることで、アストラル体を害することになるからである。

 

エーテル体が生まれ出る時期なので、エーテル体に働きかける。

エーテル体は記憶、習慣、気質、性向、情熱の担い手である。

習慣が一貫して性格を貫いていないと子供は落ち着きがなくなる。

エーテル体の振動に関わる芸術である音楽に対する感覚が目覚める。

 

伝える時にはできるかげり「比喩」が使うのがよい。

比較するパターンが力となるので、歴史上の偉大な人物の話などは有効である。

良い悪いと判断するのではなく、童話や譬え話などで、エーテル体を活発、柔軟にする。

判断力の構築はまだ早いのでできるだけ判断力を呼び起こさせない。

判断とは思考パターンの確立と固定化なので、これはできるだけ遅らせるのが良い。

 

子供の「なぜ?」という質問には、抽象的に説明するのではなく、例えや比喩で答えるようにする。

具体的に、自然の動きや流れや法則などにある適格な比喩を提示する。

たとえば、幼虫から蛹、蛹から蝶に生命が変化していくことを話す。

 

「権威」がこの時期には大事である。形ばかりの強要する権威(知識、原則)ではなく、内から溢れる権威(資質、TPO、共鳴)を持つ者の前で子供は知を発展させる。

 

 

1521

判断、批評、コミュニケーションなどの母体になるアストラル体が自由になるので、この時期からアストラル体を育みはじめる。

周囲に対する感情も目ざめ、概念で把握する方法を覚える。

自分独自の完全な判断は22歳以降でよいのだが、まずは世界の判断の基準のバリエーションを学ぶ。

「霊学の観点からの子供の教育」イザラ書房

「精神科学の立場から見た子供教育」人智学出版

 

 

前世と運命  カルマ 業kamma

先祖の体験が、子孫の運命になる。

洞窟に移動したコウモリは後の子孫は視力を失うことになる。

このように原因と作用は関連している。

この物質界では人間には自我があるので個に判断基準があるのに対して、動物には自我がないので群やグループなどの「属」に判断が依拠している。

ヒトの個的判断は「原因と結果の回路」であるカルマとなり、「いま」体験するものは前世に原因があり、今日の行いは来世の運命となる。

自分の現在の運命は、前世で用意されたものである。

 

カルマの法則は人生を慰めるものである。

未来をみるべきものにするからである。

「誰にでも行為の作用が現れる」からである。

これがカルマと輪廻転生の教えである。

自分の厳しい運命は自分が作り出したものとして意気消沈することもあるが、それは前世からのものもあるので少しずつ受け入れて修正し、未来の運命は自分で築く事ができるということは意識を高揚させる。

 

大事なのはこのカルマの法則で世界を考察し、自分の人生を生きることである。

個々の事例を法則で分析することではない。

 

なぜキリスト教はカルマと輪廻転生の法則を強調してこなかったのか?

教会は信者の修行よりも信仰という従順を求めたから。?

 

 

この世におけるカルマの法則

1 前世における行為が、現世の外的な運命を定める

2 

エーテル体(気質、性格、性向)はゆっくり変化する。

アストラル体は希薄で精妙なものなので変化しやすい。たとえば神智学との出会いやシンボルや感情などで。

 

来世を考えるのならばできるだけ自分の良い経験を詳しく振り返る。

すると来世で良い記憶のエーテル体の素質を、アストラル体のなかに形成する。

周囲の世界と密接に生きると、密接に生きる素質がアストラル体のなかに形成される。

このように様々な気質はエーテル体の特性で、前世からゆらいしたものである。

 

胆汁質  強い意志、勇敢、大胆、意欲的

     社交的な前世

憂鬱質  自分自身と関わり合うので孤立する傾向  周囲の反応を気にする 自分の気持ちに鍵をかける

     非社交的な前世

粘液質  空想に耽り、無精で、感覚的な快楽を求める

     苦労や闘争のないゆったりとした前世

多血質  興味が多いが持続しない

     見ているだけで関わり合いの少ない前世

地 粘質   水 憂鬱   火 多血    風 胆汁

 

 

昔のグループから今の個々

5千年前  人類のグループとして育成する

現在    個別に自立したので、ヒトを手段して利用するのではなく、個々の成長の可能性を探る

 

 

現実の出来事と性向

病気になるかどうかは、本人の行為にかかっている。   

病気になる素質は、前世の性向にかかっている。     

個人のカルマだけではなく、民族のカルマも影響する。

 

モンゴル民族は進化から取り残されたアトランティス人であり、物質的に進化せず、アストラル体には恐怖と驚愕という腐敗物が見られる。

これにヨーロッパ人のアストラル体は感染され、次の世代の物質体には結果として癩病として現れた。

 

自分の民族性(肉体)と本当の自分(魂)を同一視することをやめて、人類全体としての1つの魂群の繋がりであることにスポットライトを当てるように人智学は何度も強調する(ゲーテアヌム通信19916月号)が、上記のようなモンゴル民族に対する見解に代わりがあるものではない。

 

 

 

聖書を理解する4つの層

1 表層意識      各読者が持つ自己流のパターンを通して理解する

2 アナロジー  比喩や類似や相似として理解する。

3 シンボリズム  象徴的にメタファーを喩えとして解釈する  各自の賢明さによってイメージが変わる

4 神秘学者    言葉どおりに理解する   霊的な認識を通して関連を見通す

 

 

 

 

神経質と唯物論

神経症とは18世紀の唯物論的世界観による起こる症状

思考の領域を物質界に限定したことにより、周囲の環境も物質の領域だけしかスポットライトを当てようとしないので神経質になる。

唯物論的世界観のメカニズムとは、この世を物質とそうでないものと区分することから発する認識の仕方であり、

換言すると、この世を物質と心に分けて認識する。

ポイントは認識と変化と自律神経の関係である。

ヒトの認識は主体と対象によって成り立っているので、この2つは相互作用の関係になる。

対象が変化するものならば、主体もその影響を受けて変化し、それに対応して、自律神経は交感神経が活性化する。

つまり、エネルギー体である心も物質も変化するものなので、主体も揺れ動くことで認識することができるのである。

 

しかし、ヒトは振動が増加する時は交感神経、減少する時は副交感神経が活性化することで、生体のバランスが保たれるように発達しており、認識や行動する時には交感神経、免疫抗体機能や消化運動や体力が回復する時には副交感神経が活性化するようになっている。

具体的には副交感神経が活性化すると、心拍や血圧や呼吸数が低下し、瞳孔が小さくなり、消化機能が活性化し、神経機能は緊張から弛緩の状態に移行する。

交感神経が活性化すると、この逆となる。

 

つまり常に変化するものを認識し続けていると、変化しないものを認識したくなり、ある人たちは金属や石などの変化が感知できないものを身の回りに置く傾向になる。

これで神経症という常に落ち着きのない状態から一時的に逃れることができるが、これが執著になると物質と心は結局は移り変わるものなので、神経は反応して心は落ち着くことができない状態になる。

 

こうして自分の外側にスポットライトを当てている限りは、何億年彼方にある星星を含めて変化し続けるものであるが、それを内側に当てると、そこには移り変わりの少ないものがあることが分かってくる。

それが「不動の主体」である。

2つのタイプが有る。

魂  マナス アハンカーラ ブッディ プラクリティ  真我  エネルギー体   深層の無意識

霊  プルシャ  アートマン             神我  非エネルギー体  観るだけの存在

 

魂の変化は宇宙規模であり、霊にははじまりもおわりもないので、これらと主体が同化した時には、自律神経は交感神経から副交感神経に移行することになる。

これが唯物論的世界観では自律神経は交感神経が活性化して、神経症に陥る可能性が増え、

霊的精神世界観では副交感神経が活性化して、心が安らぐことができる理由である。

 

 

 

善と悪

古代ギリシャ人を含めどの民族も良心という概念に相当する言葉を持っていなかった。

人類の進化のかなり後になってはじめて発生し、形成された。

 

では祖先は良心の代わりに何を有していたのか?

未開人は善悪を道徳的な概念ではなく、心地よいかどうかによって判断していた。

味や胃腸の調子という身体的レベルと気持ちという心のレベルの快・不快の経験である。

 

つまり、まずは経験して、判断した。たとえばカニバリズムにおいてもまずは経験をしなければ善悪の判断はできないと考えていた。

 

たとえばカニバリズムだと自分が食べられる可能性もある。そのような経験を輪廻転生で繰り返すと、「ヒトは食べてはいけない」という考えが形成される。

 

 

自分たちのグループに益をもたらすものであれば善、そうでなければ悪。

物質は使う主体によって両方の側面がある。

生命体が1つにつながる方向へ導くものならば良心とよぶので、良心のかわりに「一体感の経験」

 

 

論理学、すなわち思考の教えが発生したのはアリストテレス以後だという。

正しい思考は昔からあったのではなく、誤った思考を観察することである時期に発生した。

 

良心とは何か?

輪廻転生を通した経験の成果である。

長い試みの積み重ねにより、人類は知識と習慣と性向を経験の途上で獲得した。

アストラル体の性向は、エーテル体のなかにも良心の特徴として形成される。

 

来世の物質体

現世の行為はカルマの法則により来世のエーテル体と物質体に作用が顕れる

愛に満ちた献身的な人生を送ると、来世は若々しくフレッシュである。

凝り固まった習慣的な自己中心の人生を送ると、来世は早く老け、皺が多くなる。

 

病気は身体を真珠にする

価値あるものをもたらすには病気にならなければならない。

病気を通して身体は美へと高められる。

病気は来世で美しい姿形になり、

環境による感染は来世で美しい環境に恵まれる。

苦しみによって現状の問題に気づき、修正することで来世では修正された作用の結果が顕れ出る。

苦悩、苦痛、病気はカルマ的に発展して美となる。

このように生命体の進化は悪を通して善へと高められる。

 

 

宇宙霊の進化プロセス

地球において宇宙霊は生命体として鉱物を分離し、植物を分離し、微生物を分離し、虫を分離し、魚、鳥、爬虫類、両生類、哺乳類を分離し、最後に猿を放出することで進化した。

低次元の形を分離し続けることが進化のカタチである。

このように猿がヒトになったのではない。

ヒトは最初からヒトである。

色の混ざった液体から沈殿物を取り除いて、最後は色素を取り出し、純化させるかのように。

 

パラケルススやオーケンは

「人間は動物界を見たなら、『私は、それらを自分のなかに担っていた。それらをわたしは、わたしから分離したのだ』と思うに違いない」と語っている。

 

 

Lorenz Oken 177981 - 1851811日)は、ドイツの博物学者、自然哲学者

 

バーデン=ヴュルテンベルク州のBohlsbach(現在のオーフェンブルクの一部)に生まれた。姓はOkenfusで後に自らオーケンに改めた。フライブルク大学、ビュルツブルク大学で博物学と医学を学んだ。

1802年にフリードリッヒ・シェリングの自然哲学に関する論文"Ubersicht des Grundrisses des Systems der Naturphilosophie im Geist der Naturphilosophie Schellings"を発表し、ドイツの『自然哲学』の指導者の一人となった。

ゲッティンゲン大学の私講師を務めた後、1807年に、ゲーテの推薦によってイェナ大学の医学の教授の地位を得た。

1817年から1848年まで、科学、文化、歴史を扱う雑誌『イージス』("Isis")を発行した。この雑誌に政治的な批判がされたことによって、『イージス』の発行をやめるかイェナ大学の教授の辞任を求められ、教授職を辞してルドルシュタットで『イージス』の出版を続けた。

 

1828年に新たに設立されたミュンヘン大学の私講師になり、すぐに教授となった。他の大学に移ることを求められた1832年にドイツを去り、1833年にチューリッヒ大学の博物学の教授となり、没するまでその職にあった。

 

オーケンの学問的な活動はシェリングの自然が一つの精神によって統一されているという哲学を受けて、有機界の統一を主張し動物界をひとつの大きな有機体とみて、個々の動物はその部分であると解した。

最高の動物である人間を反映し、その他の動物は人間の胚発生の各段階に対応する形態をもつのであると主張した。また海水の中に原始粘液体が生じ、それが小胞(滴虫(Urschleim)と呼んだ)となって、すべての生物は、滴虫が変様し発展したと主張した。後の細胞説を暗示したとも評価されている。

 

未来において自分のうちにある善と悪を外の世界に放出する

善は善良な人種を生じさせ、悪は邪悪な人種を分離する。

 

魂の進化と人種の進化は区別される。

退廃する人種に受肉しても、悪をしなければ、死後の魂は退廃する人種ではなく、上昇する人種に受肉する。

 

秘密結社マニ教団   神聖に至るには必要な悪

この世には悪の人種がいる、と彼らは主張する。

高度に育成された悟性をもって意識的に悪を行う人々であるが、そんな人種を改造することを教団の使命とした。

普通の悪人はどこかに善の部分があり、その善を基点として教育により発展させていく方法があるが、マニ教が対象にしていたのは絶対悪である。

この絶対悪のなかで活動することで、最高に神聖な状態に到達するので、悪は人類を高めるという課題を担っていると考える

悪を克服した者は、自分の進化のために犠牲にしてきた生命体を解放する役割をまっとうする。

 

 

 

内なるものを外に分離することが進化プロセス

貝やカタツムリの殻はそららが体内の生命物質を外に分泌されたものである。

地球において宇宙霊は生命体として鉱物を分離し、植物を分離し、微生物を分離し、虫を分離し、魚、鳥、爬虫類、両生類、哺乳類を分離し、最後に猿を放出することで人類に進化した。

低次元の形を分離し続けることが進化のカタチである。

自分のなかにあった成分を晶出するのが精神の進化プロセスである

このようにヒトは自分の外に内にあったものを五感覚器官を使って知ることができる。

「外の世界のすべては、わたし自身である」ことが理解できる。

 

まだ分離されていないもの

夢はヒトが自分から紡ぎ出した全世界の遺品である。

 

世界を自分と対立するものとした。

すなわち対象と主体は同じではなく別物である、と理解しようとしている。

 

近代哲学は認識の限界を前提にして成立させた。

カントは「物自体」というヒトが認識することができないものを想定して、論理を進めた。

しかし物自体は彼の創出した仮想物であり、実際には認識に限界などはない。

認識したい意志があるのであれば修行すればよい。

もしくは修行せずに認識できないという境界線を引くのもいい。

しかしそれは「常識」という社会学であって哲学の範疇には入らない。

 

周囲の対象物は、ヒト(の中の宇宙霊)がかつて放出した痕跡である。

 

物自体 : Ding an sich、   thing-in-itself

経験できないが「理性によって接近できる本質」で「経験を生み出す何か」   たとえばカミ ブラフマー

 

「理性自体の吟味」を通じて、「人間は超越的概念(物自体)に対して、どこまで理性的に思惟・接近し得るのか」を境界策定(メタ規定)し、示そうとしたのが、カントの批判哲学

 

 

ギリシア語の「ヌース」(nous, 精神)に由来する「ヌーメノン」(noumenon, 考えられたもの)という語も、これと同義語として用いられるドイツの哲学者カントの哲学の中心概念。

大陸の合理論とイギリスの経験論の哲学を綜合したといわれるカントが、その著書『純粋理性批判』の中で、経験そのものを吟味した際、経験の背後にあり、経験を成立させるために必要な条件として要請したものが、物自体である。

 

 

「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの主張を受けて、カントは「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験する術がない、と考えた。物自体は認識する方法はなく、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。

 

カントに拠れば、物自体の世界が存在するといういかなる証拠もない。

「物自体」のような知的な秩序があるかどうかわからないが、その後の経験によって正当化されるであろう。

 

歴史的経緯

「物自体」という概念は、古代ギリシャのエレア派・プラトン・アリストテレス等によって形成された「イデア・形相」ないしは「ウーシア」概念、また、それを継承した中世のスコラ学における「神」に似た概念、すなわち、「理性でのみ接触し得る本質」という西洋思想の伝統的発想の延長線上にあり、それをカントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)の枠内で表現した概念である。

 

(他地域でこれに類似したものとしては、インドにおける説一切有部等の部派仏教における「ダルマ」(法)概念がある)

「理性自体の吟味」を通じて、「人間は超越的概念(物自体)に対して、どこまで理性的に思惟・接近し得るのか」を境界策定(メタ規定)し、示そうとしたのが、カントの批判哲学・超越論哲学(先験哲学)である。

 

自由の存在の証明

超越論的自由とは「物自体」として要請されたものである。というのも、「行為」の結果は知ることができるが、その行為を起こした「自由意志」は現象界に属するものではない。

しかし、因果律によって存在が証明できない、この「自由意志」が要請されることによって、その行為に対する道徳的責任を問うことができる。

ゆえに「自由」の存在は正当化されるのである。

 

影響

カント以後のドイツ哲学者では、ヘーゲルやフィヒテにみられるように、「物自体」という概念を斥け自我や主観のみが実在するという独我論に近い立場をとる。

ただ、ショーペンハウアーは「物自体」を「意志」と同一視し、その道徳観の基礎としている。

意志の優越を説く教説がニーチェやベルクソン、ウィリアム・ジェームズ、デューイらに主張されていることを合わせ考えると、経験によって与えられず認識されもしない「物自体」の世界が自由意志の根拠として20世紀の哲学者に残されたともいえる。

 

 

層で考察して真の理解に至る    死産の意味

感覚界だけで考察していると、病気の使命、悪の使命、外界の使命が理解できない。

 

早死する幼児 自分に欠けていたものを得るために短い人生を生き、前世に欠いたものを得て、来世を改める。

死産     エーテル体とアストラル体は物質体と結びついていたが、アストラル体は霊世界に戻るとなる。

       アストラル体が戻ったのは、神経組織と結びついている

 

この物質界でエーテル体を持つには細胞が必要である。      石⇔植物

この物質界でアストラル体を持つには神経組織が必要である。   植物⇔動物

この物質界で自我体を持つには血流が必要である。  

 

この物質界でアストラル体が結びつくには物質体に正規の器官と血流が必要である。

もし、正規の器官と適切な血流がないのならばアストラル体は霊界に帰っていかねばならない。

 

害を与えた人と同じ時代に再び受肉するメカニズム

もし他者に害を与えたのならば、死後、欲界にはいって人生を逆にたどっていくときに、再びその出来事に遭遇する。そして今度は与えた害を自分で体験しなければならない。つまりたがいに相手の内面を生き、再会に導く力を摂取するのである。この感情はアストラル体のなかに刻印される。

この苦痛からエネルギーを得る。これらの収穫した力を持ってカミ界に入っていく。

そして再び受肉したときに、その力がかつてなにかをともに体験した人々すべてを出会わせる力として働く。

 

 

地球の進化

ヒトの体

物質体    細部にいたるまで最も完成している      長い進化を通過してきたから

エーテル体  物質体ほど進化していない

アストラル体 進化の途上

自我体    進化せずに若い状態

 

地球の4段階の進化

1つの惑星が変容した4つの現象

土星  響きを発し、人間の萌芽(霊的存在 渦巻)は存在していたが、鉱物をはじめに物質がなかった。

 

太陽  惑星  鉱物界と植物界の2つが存在した

分離することを覚えたヒトは自分から生きた鉱物を外部化した。これは現在の鉱物と違う。

    ヒトは植物界であり、今の人類と比べて逆さまの特質がある。

    植物の頭である根は重力(分離していない内なる太陽)に向かい、生殖器は宇宙に広げた。

    ヒトは頭が重力に反して上にあり、生殖器は重力に向かっている。対して動物は水平である。

    古代の密儀は「宇宙の魂が、宇宙の身体の十字架にかかっている」 プラトン

    宇宙の魂は十字架(3つの段階 植物・動物・ヒト)にかかって旅をする

    後に太陽が外に現れたときに、人間植物は回転し、頭を太陽に向けた。

    第1周期  土星時代の繰り返し

    第2周期  ヒトの進化がはじまる。

 

月   第1周期  土星時代の繰り返し    柔らかい液体鉱物の誕生

    第2周期  太陽時代の繰り返し進化がはじまる。   月の中に太陽がある。 植物動物の誕生

    第3周期  ヒトの進化がはじまる。 アストラル体を得て動物人間の誕生、現在の動物のように。

    植物を分離して、ヒトは動物になる。

    この月人間は、空気を呼吸するのではなく、火(熱)を呼吸していた。

    現在では熱は血液温度として保たれているが、当時は息を吐き出すと、体は冷たくなった。

    火を噴くドラゴンがこの月存在(動物人間)のシンボルである。

    月が太陽を分離して。2つの天体が存在する。 太陽は恒星に進化する。

    第4周期  完成して太陽は恒星に進化する

    第5周期  2つの天体は再び一つに合体する

 

地球  第4周期  太陽と月は再び1つの天体として現れ、地球が形成されはじめる。

    前半には地球が火星に出逢い、浸透し合う。こうして火星の蒸気の鉄が地球に残った。

    すなわちこの鉄が血液と一体になり熱を保つがことができるようになる。

    後半には地球と水星が浸透し合うので、神秘学では地球のことを火星+水星と呼ぶ。

 

段階の間はカタチにならない時期があり、それはプララヤと呼ばれる。

形(受肉)がある時期をマンヴァンタと呼ぶ。

 

1つの現象のなかで、霊から物質、次に逆にたどって物質から霊へ消えていく7つのプロセスをを周期、あるいは「生命状態」と呼んでいる。

    幼年期 無形態カミ界構成体

    青年期 形態カミ界構成体

    中年期 アストラル構成体

    老年期 物質(エネルギー)構成体  

    逆中年期

    逆青年期

    逆幼年期

 

この1プロセスは7つの形態に区分(無形、形、アストラル、物質、アストラル、形、無形)でき、これは球期、あるいは「形態状態」と呼んでいる。

このように1周期には7つの球期があり、全部で7×7で49の変容を経験し、7つの周期を経ると、構成体はもっとも完成する。

 

現在は地球だが、これから先に3つの惑星状態(木星、金星、ウルカヌスVulcanus)がつづく

このように全体で見れば7×7×7で343の変容を経ることになる。

 

 

人間の進化

 

聖書

「はじめに、神は天と地を創造した。地は荒れて、空しかった。神の霊が水の上を漂っていた」

1:1はじめに神は天と地とを創造された。

1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。

1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。

1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。

1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。

 

 

1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。

1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

 

その後何百万年経ち、エーテル球が締め付けられて、ビスケットのような形になり、この球である地球は月を分離した。

同時期に、人間の萌芽が分節し、分化し、太陽が分離することで、はじめて対象は外から照らされた。

太陽が分離することで、地球は太陽に照らされるようになった。

こうして対象は目に見えるものになる。換言すると、照らされる対象ができ、それとともに目が作られた。

すなわち光が目をつくったのである。

すべては回転する。こうして昼と夜ができたのである。

 

 

 

太陽と月と地球は一つの天体だった。これをエーテル球と呼ぶ。

そのまわりを霊的大気が包んでいた。

霊的大気のなかにヒトの魂を形成しているすべてがふくまれていた。

エーテル球のエネルギー天体は同じものだが、なかには少し濃密な渦巻の箇所があちらこちらにあり、これが人間の萌芽である。第1根源人種?

触手のある大気に比べて、渦巻きは濃密で乱雑であった。

混沌と乱雑に混じり合った渦巻きは大気によって姿を創造した。

渦巻は肉眼では見ることができなかったが、響きによって自らを表現する人間の萌芽である。

このカタチを7つに区分することができる。

 

 

霊的大気からエーテル球天体に触手のように大気が伸び、渦巻を包んだ。

この触手は渦巻に働きかけ、ヒトの姿を形成した。

姿ができあがると、触手は霊的大気に戻っていった。

そして新たな触手が次々と渦巻きを包み、次々と姿を形成した。

こうして姿は霊的大気によって直接にもたらされた。

このときにはアストラル体はまだ霊的大気から分離されていなかった。

 

こうして霊が触手で渦巻を直接に掴むことで、人間を生み出すことができるようになった。

新しい能力である。

これは両性間の受精ではない、霊、すなわちアストラル的大気の直接の生殖である。

人間の姿は鐘の形をしており、触手をうけいれるために太陽に向かって開いていた。

これが第2根源人時代のヒュペルポレアス人である。

彼らに死ぬことがなかった。

死ぬとは意識が身体から抜け出すことであるが、意識はまだ霊的大気と分化しておらず、意識はアストラル的覆い(霊的大気)の中にあった。

個々の意識はまだなく、共通の意識があり、身体から意識が抜け出ると、隙間(中断)なく、他の身体のなかに入っていった。

意識は変化するが連続して持続した。

意識にとっては分断してもされてもいないので、まだ生まれても死なずもせず、他の身体のなかに衣装を変えるようにに入っていった。

 

かつては輝きを発し、エーテルの渦巻く植物と動物がいた。

動物は単性で雄と雌の区別がなかった。

まだ現在の鉱物は形成されず、徐々にエーテルの形態が硬化していき、アストラル的なものも、次第に入ってきた。

 

動物と植物は卵白のようなゼリー状で、くらげのようだった。この器官のある濃密化した生命体のなかに、ヒトの祖先はいた。

ヒトと動物は周囲の植物界から受精と養育のために栄養を得た。

たとえばタンポポの白液のように乳に似たものを分泌していた。

 

100万年後、地球と月は分離する。

月は生殖力を2分し、ヒトと動物は男と女に分かれ、生殖が可能になった。

この時代が第3根源人種レムリア時代である。

また地球と月の分離した後に、ヒトと動物の中には軟骨が形成されるものもあった。

かつては鉱物はすべてエーテル的であったが、ついで気体、液体であったが、ついに固体の鉱物が発生した。

地球は岩のように固い足場ができてきた。骨と岩の形成は並行して行われた。

地球の大部分は水のようであり一部に島ができ、火山活動も見られ、気温は非常に高かった。

生物は魚や鳥のように、水や大気のなかを動いていた。

生命体(ヒト)はエラを通して呼吸しており、肺はまだなく魚の浮き袋をもっていた。

 

数百万年たち、地球は固くなり、水が引いて陸と水に分かれた。

ヒト生命体は空気の影響で浮き袋は肺になり、エラは聴覚器官になった。

かつてヒトは純粋な霊に満たされ、次にアストラル的なものに満たされ、いまは空気に満たされるようになった。

呼吸は熱から空気に変化した。

外にある霊性は空気を通してヒト生命体のなかに入るようになった。

これは呼吸する空気を通して個体的な霊性(自我 神我?真我?)を受け入れることになった。

この共通の自我をアートマ(呼吸)と名付けたのは、呼吸するときに共通の自我が出入りするからである。

生命体は共通の空気のなかで生きており、個体的な自我の進入は、マナスとマナスを与えた叡智が生命体にいたることである。

このように呼吸を通して、ヒト生命体は萌芽状態のマナス、ブッディ、アートマ(自我)を受け入れた。

 

2.7 主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

 

命の息とは個体的な霊性のことである。

 

 

天使

「月」には天使がいた。彼らはかつては人間の段階であったが、時の経過のなかで高次の段階に昇ったものたちである。

彼らは物質体を持っていなかったが、まだ地球と結びついていた。

人間が必要なもの(食料、睡眠、欲)をもはや必要とはしなかったが、天使たちが統治する人間を必要とした

進化の過程で、神々と人間とのあいだに立つ存在である半神となった

彼らはヒトの本性の一部のなかに係留し、その部分によって進化を遂げていくと同時に、ヒトを助ける。

 

彼らはヒトの血液のなかで生きている。血液は情熱と衝動の場である。

これがルシファーの一群である。

聖書が彼らを誘惑者と呼ぶのは、もしルシファーの一群がいなければ神々からの贈り物を衝動で無駄にすることがなかったからである。

しかしルシファーがいなければ賢明で思慮深くあっても、独立せず、不自由な存在になったであろう。

ルシファーが血液のなかに係留したことによって、叡智と理想に向かう火のような情熱を得たのである。

 

デメリットはヒトは高みから目をそらすことができるようになり、迷う可能性が生じたことである。

換言すれば、善悪を選択することができるようになったのである。

このように悪の可能性を持って、レムリア民族は徐々に進化した。

この素質は地球に大きな変動をもたらした。

地球は震動し、レムリア人の大部分はヒトの激情によって崩壊していった。

 

アトランティス人の特徴

その後、アトランティス大陸ができ、レムリア人の子孫たちが進化した。

エーテル体の頭の点が物資体の前頭葉と重なったときに、ヒトは自分のことを「わたし」ということができるようになる。

前頭葉が霊性の道具になり、自己意識が生まれた。

これらのアトランティス人は、現代のヒトよりもずっと柔軟身体と強い意志を持ち、トカゲのしっぽのように手足が切り落とされても復旧できた。

また植物を生長させたりするなど自然に大きな影響を与えた。

またヒトが匂いを区別するように、彼らは金属を感情によって識別することができた。

夜、神々と交流した。

自然の力を自分たちに仕えさせた。

住居は半分自然のもので、岩のなかに建設された。

衝動力をエネルギーとする飛行船をつくった。

記憶力は形成していた。

 

自己意識をまだ持っていない者は推論を可能にする悟性をまだ持っていなかった。

計算をすることができなかった。

これらは第5亜種人の原セム人において、はじめて現れた。

 

アトランティスは大洪水によって崩壊した。

 

マヌは原セム人の一群に道徳や時間区分や働き方や規則などを教えて、新しい文化の始祖とした。

 

マヌ (Manu) は、インド神話の登場人物である。彼は全生命を滅ぼす大洪水をヴィシュヌ神の助けで生き延びたとも、洪水後に人類の始祖となったとも伝えられている。

 

『リグ・ヴェーダ』によれば、マヌは「最初の祭祀者」と言われるヴィヴァスヴァットの子である[1][2]

ヒンドゥー教の聖典であるプラーナ文献では、太陽神ヴィヴァスヴァットとサンジュニャー(英語版)の子であるため、マヌは「ヴァイヴァスヴァタ・マヌ」(ヴィヴァスヴァタ・マヌとも)と呼ばれる[3]

『ヴィシュヌ・プラーナ』 (32) では父は太陽神スーリヤ、母は創造神ヴィシュヴァカルマンの娘サンジュニャーだとされ、きょうだいに双子のヤマとヤミー (Yami) 、そしてアシュヴィン双神とレーヴァンタがいる[4]。ヴァイヴァスヴァタ・マヌ(ヴィヴァスヴァタ・マヌ)は、アーディティヤ神群の一員とも、アヨーディヤの初代の王とも言われている[2]

 

マヌと大洪水の物語

ブラーフマナ神話

マヌと大洪水の物語について、ブラーフマナの神話を伝える『シャタパタ・ブラーフマナ』 (1811-10) では以下の内容で語られている。

 

あるときマヌが水を使っていると、手の中に小さな魚が飛び込んで来て「数年後に大洪水で人類が滅亡するが、私を飼ってくれたら洪水の時にあなたを助ける」と話した。マヌはその魚を飼い始めたが、魚がじきに大きくなったので海に放してやった。数年後に大洪水が起こり、マヌが魚の残した助言に従って船に乗り込むと、魚が近付いてきた。魚の角に船を繋ぐと、魚は北のヒマーラヤの高い場所まで船を運んだ。

マヌが船を下りた場所は「マヌの降り場」「マヌの降りた所」と呼ばれている。このようにしてマヌは、全生物を滅ぼす大災害を生き延びることができたが、地上で唯一の人間となってしまった。マヌは子孫を得るべく苦行を重ね、水に供物を捧げる祭祀を続けた。1年後、水の中から一人の女性が現れた。ミトラ神とヴァルナ神が彼女を見初めたが、彼女は「自分はマヌの娘でありマヌの元へ行く」と言って去った。その後彼女はマヌに会い、「あなたが水に捧げた供物から生まれた」と話した。マヌと女性が始祖となってふたたび地上に人々があふれたという[1][5]

 

マヌと大洪水の物語は、『マハーバーラタ』 (3185) でも語られている。魚はブラフマー神の化身で、地上に再び生命をあふれさせるようにとマヌに語った[6]

 

プラーナ神話

時代が下り、プラーナ神話を伝える『バーガヴァタ・プラーナ(英語版)』 (824) では、魚はヴィシュヌ神のアヴァターラ(化身)の1つ「マツヤ」とされ[6][7]、「マヌ」は王仙サティヤヴラタに対してヴィシュヌが与えた称号とされた[8]

 

ブラフマー神の1日(カルパ)の終わる頃、太陽神ヴィヴァスヴァットの子でシュラーッダデーヴァと呼ばれるサティヤヴラタが苦行の日々を送っていた。あるときサティヤヴラタが祖霊に水を捧げる儀式を行っていたところ、手の中に小さな魚が飛び込んで来て「大きな魚に食べられないように私を守ってほしい」と言った。

サティヤヴラタはその魚を瓶に入れて飼い始めた。じきに魚が成長したため池へ移し、その池にも余るほど成長したので湖へ、そして海へと移していった。

ここに至ってサティヤヴラタは、その魚の正体がヴィシュヌ神だと気付いた。魚はサティヤヴラタに、7日後に大洪水が起こることを教え、「船を用意するから7人の賢者(英語版)とすべての種子を乗せるように」と告げて姿を消した。7日後に大洪水が起こり、サティヤヴラタが魚の助言に従って船に乗り込むと、ヴィシュヌの化身の1つ・角のある魚「マツヤ」が近付いてきた。サティヤヴラタは蛇王ヴァースキの体でマツヤの角に船を繋ぎ、このようにして彼は世界の帰滅(英語版)を生き延びることができた[1][9][10]。マツヤの語る言葉によって真理を悟ったサティヤヴラタは、次のカルパ、すなわち現在のカルパを生きるヴァイヴァスヴァタ・マヌになった[11]。なお、『バーガヴァタ・プラーナ』での大洪水は、カルパが終わるたびに起きては世界を一時的に帰滅させる洪水とブラーフマナ神話での大洪水とを結び付けたものだと考えられている[12]

 

表話編歴

プラーナ文献によるとマヌは14人いるとされる。14人のマヌとは、

スヴァヤムブヴァ・マヌ

スヴァーローチシャ・マヌ

アウッタミ・マヌ

ターマサ・マヌ

ライヴァタ・マヌ

チャークシュヤ・マヌ(英語版)

ヴァイヴァスヴァタ・マヌ(あるいはシュラーッダデーヴァ・マヌ(英語版)、サティヤヴラタ・マヌ。前述の洪水伝説に登場する)

サーヴァルナ・マヌ(英語版)

ダクシャサーヴァルナ・マヌ

ブラフマサーヴァルナ・マヌ

ダルマサーヴァルナ・マヌ

ルドラサーヴァルナ・マヌ

ラウチャ・マヌ

バウティヤ・マヌ

14人である。カルパの終りに世界は帰滅するとされるが、カルパは全部で14期あり、そのためそれぞれに1人の人類の祖マヌが存在する[13]。また1人のマヌの生存期間をマヌヴァンタラ(英語版)といい、それぞれが天の1200年、人間界の432万年に相当するとされる[14]

 

現在のマヌは第7のヴァイヴァスヴァタ・マヌであり、太陽神ヴィヴァスヴァットの子である[15]。ヴィシュヌ神が救ったのはこのマヌとされ[16]、彼からイクシュヴァークをはじめとする諸王家が誕生したと説明されている[17]

 

1のスヴァヤムブヴァ・マヌ(スヴァーヤムブヴァ・マヌ[2]、スヴァーヤンブヴァ・マヌ[12]とも)は、ブラフマー神(スヴァヤンブー)の息子とされている[12]。スヴァヤムブヴァ・マヌの述べた教義をまとめたのが『マヌ法典』だとされており、彼から始まる7人のマヌの名前が記されているとい

 

『マヌ法典』

紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている法典(ダルマ・シャーストラ)。世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。

 

1章:世界の創造

2章:ダルマの源

2章:受胎から幼児時代

2章:学生、修業期の行動の準則

3章:婚姻及び婚姻形式の選択

3章:家長期の行動の準則

4章:家長期の行動の準則

5章:家長期の行動の準則

6章:老後期の行動の準則

7章:王の行動の準則

8章:王の行動の準則

9章:王の行動の準則

9章:ヴァイシャの生業

9章:シュードラの生業

10章:混血集団と特有の職業

10章:窮迫時の生活法

11章:罪と贖罪

12章:輪廻及び真の至福を齎す行為

 

 

インディアンの信条とアトランティス人

「神は雷、稲妻、木の葉、波の音で語る。」とインディアンは説く。

同じようにアトランティス人は自然を貫く音に、魂のレベルで直接に触れて、神々の世界と行き来した。

音を対象として認識するのではなく、自然の音の波動と自分の音の波動を重ねることでそこに生まれる共鳴を体感するというアプローチである。

このアプローチが、宗教がこれまで伝えてきたことであり、現代都市文明の生活者が無意識に求めていることである。

 

論理的な思考が発展すると、霊視力は奪われれていく。

論理とは一つのものを分断して、そこから次におきる状況を説明するアプローチであるので、直接に「一なるもの」を把握するアプローチとは相反するからである。なんでも「分ける」ことを基盤にしてしまう人々が霊視力がなくなるのは当然のことである。

自然は分析できるものとなればそこには神性(一なるもの)はない。

自然が神の身体であることは理解できなくなっていった。

こうして古いものを犠牲にして新しい能力を獲得した。

問題は新しい「分ける」能力に固執して、古い能力を否定したことである。すなわち温故知新の生活を忘れ、温故をすて、知新だけに執著するという片寄った生き方をする一群が現れてしまったことである。

身体を基準にすることで、魂を失ったのである。

しかし、この魂の扉を閉じることで、「自然の背後に神がいるに違いない」と思考する新たな一群も生まれた。

それが宗教の語源である。religionはラテン語のre「再び(again/強意」ligō「縛る/結ぶ(bind)」から、しっかり結ぶ、という意味であり、「再び/強く結ぶ」 「神と人間を絆で結びつける」を表す。

 

どのようなアプローチがあるのか?

インド人は自然の背後に隠れている神をブラフマンと呼び、表の自然の世界は幻であるマーヤーだとした。

先住民が木の葉の一枚一枚に神性を感じたのに対して、インド人は「外界にはどこにも神性は現していない。ヒトは自分の内面に沈潜して、高次な深層意識に波長を合わせることで、ブラフマンの神性が探求できる」と考えた。この原存在への修行がヨーガであった。

デメリットは外的なものから目をそらし、外的文化を高めることに関心がないことで、メリットは神のなかに上昇することを実践した、ということである。

 

ペルシャ人はヒトの内面と外界の両方に神性はあると確信していた。

外界は神性の模像であるので、外界を改造しなければならないという思想があった。 

外界は幻であるマーヤーだけではなく、神の世界も並立するのが現実の存在であると考えた。

外界を永遠の霊の模像にするために改造する理念を持った。

たとえば農夫として自然に働きかけ、自然を改造した。

善霊オルムズドと改造しなければならないアーリマンの2つの力があると考えていた。

しかし外界のなかに法則を見出すことはせずに、外界は理解できないものとして捉えていた。

 

セム人は外界の法則を学ぶことをはじめた。

星空を見上げ、星星のの進行がヒトの人生にどのように影響を与えるかを観察して、法則を見つけようとした。

たとえばエジプト人は、シリウスが現れたときにナイル川は氾濫する、と考えた。

偉大な叡智が自然の経過を支配しており、すべては偉大な法則にしたがって生起している、とした。

星を物質的な天体のレベルの自然法則だけでではなく、生命体と具体的に関連づけられる法則として追及したのがカルデアの司祭であった。

すべての星は魂が吹き込まれており、惑星は霊の身体であり、星座は神性のシンボルであるので、ヒトは霊たちのふところの一部として包み込まれている、と感じた。

先住民の自然との霊的体験を、叡智に満たされた物質(外界の星々)の観察から法則を見出して学問として体系づけることで、ふたたび神性とつながるアプローチをとった。

 

古代ギリシャ人は完成された自然を研究するよりも、ゼウスなどの神々を物質(大理石)の中から掘り出そうとした。そして、ついにはヒトの霊性を自然の物質(大理石など)に刻み込むようになった。

どちらもヒトの霊性をカタチにするアプローチである。

セム人が星々の動きにしたがって共同体(国家)を形成するのに対して、ギリシャ人は内なるイメージから共同体を形成した。

 

ゲルマンとアングロサクソン人は、ヒトの内なる霊性を外界に刻印するのではなく、自然法則を外界に刻印した。

世界全体に流れている法則を研究し、その法則を全世界(物質界)に刻印するのが使命であるかのように。

外界の法則である、重力、熱、蒸気、電気などの宇宙の法則を発見し、ゼウスの像ではなく蒸気機関車を作った。

そしてそれらの発明を使って感覚全体を上書きしようとした。

こうして人類は物質界と強い関係性をもつようになり、唯物論的考え方をするようになった。

ここまでがヒトが物質界を改造してきた無垢の時代である。

 

 

これらが「外界との接し方」の人類史である。

物質から目をそらし、次に認識し、そして叡智を知り、その物質を征服し、最後には発見した自然法則を物質界に組み入れて、物質にある神性(霊性)と再び結びつく手段としようとした。

 

しかしこのアプローチをでは、ヒトの意識と宇宙の霊性を結びつけることは不十分だった。

霊性(神々)との関係を失い、物質界のみが残されたというのが現状である。

こうして物質的世界を手に入れる能力を得て、霊的能力を失った。

換言すれば自然法則を通して外界を支配することを学び、ヒトは霊感覚を失ったのである。

これにはどのような意味があるのか?

霊感覚を失うことで物質的世界を得ることができるようになったと理解すべきなのか?

そしてこの物質世界での安定を基盤として、霊感覚の復活に至るのが進化なのだろうか?

 

 

地動説と天動説

どこに立って世界を見るかの違いでどちらも正しい。

アストラル界からみればプトレマイオスの天動説であり、物質界からみればコペルニクスの地動説である。

天動説のメリットは、ヒトと宇宙の関係を適切に表現していることで、

デメリットは太陽系の惑星の動きを予測できないことと、地球は静止していると誤謬していることである。

 

地動説のメリットは地球は地軸で回転しながら太陽の周りを回っていること、そして全体系は渦巻状に絶えず動いていることを明らかにしたことで、

デメリットは、視点を人工衛星(ニセ神)にすることで自分自身の視点を他者に預けてあけ渡してしまったことである。

 

真理とは進化し、相対的なもの

もっと丁寧にいえば、真理とは各自の段階やTPOによって向き合い包まれ霊的に導かれることがらであるので、誰でもどこでも通用する真理などはありえない。幼児には幼児の真理があり、老人には老人の真理がある。

科学の法則のことを真理とは呼ばず法則とよぶのは、各自を精神的な進化に導くものではなく、物質界だけでの普遍性に留まっているからである。

 

また、真理は特定の時代に、特定の教えになる。

かの時代にかの空間で、外的物質から離れて内的霊性を探求するのも真理であれば、

この時代にこの空間で、自然法則を外的物質に刻印するのも真理である。

ただ内的霊性を探求し、外的物質に叡智をみつけ、内的霊性を外的物質に刻印しようとした時代を経て、この時空に霊性と自己意識の繋がりを探求する真理がある。

 

真理はほかのものと同様に進化するのである。

真理は神霊の形態である。影である。カタチである。多様な変化である。

絶対の真理があるのではなく、「各自はかつてのそして未来の兄弟たちが立っているところに、各自のTPOの必要性に応じて真理を生きている」

各自の時代や地域や環境や性質や状況に応じて真理は語るものである。

比べたり競うために真理があるのではなく、共に生きるために真理がある。

現代には現代の真理に対するアプローチがある。

 

真理を語るときに大切なのは、すべてが1つに繋がっているという事実である。

この繋がっているものから自分の判断や言動や行為をおこなう。

これではじめて、他者は互いに理解し合うことができる。

これを愛と呼ぶ。

この共同性を実践しないかぎり霊的な進化はない。

 

 

修行

霊的感覚を養うには、共同体の感覚を発展させること、すなわち自分の自我を考慮し、その頑強な狭さを柔らかく拡げ開放することが初めのステップとなる。

現代でいうと自己中心の思考(利己主義)に時空を少し減らして、「私たち」という地点で考え、その「私たち」という枠を拡げていくことである。

 

夢と高次の世界

夢は変性意識の状態であり、多くの要因がある。

願望、情感、思考、記憶、経験が夢というカタチで表現される。

また別の一面が夢にはあり、内的(アストラル的)時間の表現でもある。

高次の世界の印象が、夢のなかに移行することがあるからだ。

これは霊的進化を育む。

一瞬のうちに夢は心のなかを通過し、一連のシンボルを作り出す。

内的発展を通して高次の世界を知覚しはじめると、それはまず夢のなかで開示される。

この場合は、夢は以前よりも規則的で意味のあるものになり、夢を通して内的世界を認識する。

 

夢は物質界では経験できない事物と結びつくのが観察される。それは覚醒時の体験や想い(空想・妄想)とは関係のないものもあり、何かを意味していることに気づく。

この意味に気づくことが前進である。

現実の本質が夢のなかで明らかにされるからである。

そしてその夢を目覚めたときに確かめて理性的に分析することができる。

そのためには夢を叡智のイメージとして利用するのではなく、そのイメージが日常生活に入ってくるのを静かに待たねばならない。

待つことができると、イメージを徐々に意識的にコントロールすることができるようになる。

オーラ、魂とアストラル界を実際に観察できるようになる。

アストラル体の色と形が何を現しているのか学び理解することができる。

そして次第に魂界を判読することをシンボルを通して学ぶことができるようになる。

「アカシャ年代記より」

 

意識の連続性の取得

意識の連続性を学ぶと、眠りによって意識を失うこともなく、夜も昼も絶えることなく明瞭な意識のなかに生きることになる。

しばらく経つとイメージにと音と言葉が加わり、修行者はそれを理解するようになる。

あらゆる事物が自分の本来の名前と、ほかの事物に対する関係を語る。

修行者がカミ界にはいった証である。

この状態になると、チャクラが時計回りに回転する。

このチャクラの回転を通して刺激された振動が、アストラル実質との接触を生じさせ、アストラル界を知覚できるようになる。

 

リズムを取り入れる方法

規則正しいアストラル体が、不規則な物質体とエーテル体を眠りのなかで補充し調整する。

しかし疲労がなければ、その力がチャクラを形成するが、チャクラを形成する修行者に疲労があると、物質体とエーテル体から力を取り上げることになるので、病気になる。

この力を埋め合わせるのは宇宙のリズムの力である。

たとえば毎朝瞑想をし、夜は逆の順序でふりかってみることでリズムの力が入ってくる。

宇宙体系はリズミカルに経過する。

太陽の運行、四季の経過、昼夜の交替などのように自然はすべてがリズムである。

植物も動物もリズムのなかで生長するが、ヒトは表層意識と作り上げてしまった自動反応回路によって不規則で混乱した生活を送ってしまっている。

 

しかし、この調和とリズムを物質体とエーテル体にもたらす手段がある。

1 思考のコントロール   落ち着きを思考の流れに入れる    一分間のアーナパーナ

2 自分のイニシアティブ  自動反応回路や外的強制ではなく、自分の内側からの意志で行動する

3 冷静さ         天に昇る歓喜でも死ぬほどの嘆きのどちらにもいかない調整力

これらによって、芸術の感覚が失われることはない。冷静さというのは、最高の喜びと深い苦悩のなかで我を捨ててエゴイスティックにごまかすのではなく、そのなかでも自分を保ってちゃんと喜びと苦しみを感じることである。

4 公正さ          あらゆる事物のなかに善すなわち霊性をみる態度である。

5 信頼           自分の過去の事例から未来を判断しない

新しい体験には、心の扉を開いて、新しい信頼を持って向き合う。

6 内的均衡         5つの特性をとおして、徐々に自然に形成される調和

 

無理に魂と肉体を分離させると、物質体は自身の特性に夢中になり、さまざまな病的な行為に偏る傾向がある。

いままで表に現れていなかったものが顕になることがある。それまでは魂性によって和らいでいたものが際立つので道徳の進化なしに叡智に取り組むことは危険である。

 

まずは観照をして安定した自己意識を確立してから、それから霊的世界に耳を傾けるのが順序である。

観照の段階では、イメージと対象の関係を学ぶことが必須であり、それをせずにアストラル的体験に入っていくと、なんでも逆さまになるアストラル的体験の荒れ狂う海の中にいることになる。

アストラル界に履いる前に過剰一般化しないことを学ばなければならない。

だからこそ、事物の関連性やどのようにすらば正しい道がわかるのかを説いてくれる導師が必要となる。

 

物質界では物質的感覚で物質界に存在するものを知覚する。

アストラル界ではアストラル的感覚でアストラル界に存在するものを知覚する。

カミ界ではカミ的感覚でカミ界に存在するものを知覚する。

この道を行くときに必要なものはどの世界にも共通した「論理的な思考」である。

この論理的思考によって物質界でも高次な世界にも通用することを学ぶことができるのである。

参考文献

「自由の哲学」

「真理と学問」

 

 

東洋の行法

1禁戒   嘘つかない、殺さない、盗まない、放蕩しない、熱望しない

正確にいうと虫を殺さず、他者の時間を盗まず、利子を得るようなこともしない。

 

2勧戒   宗教的慣習を守る  

形式から文化は生まれるからである。 内的なものはカタチをとおして外的に表現される

欧米ではもっとも自由主義な人こそ唯物的ドグマに支配されている。

大学教授は自分のドグマを教えている

新聞記者は無謬性というドグマに支配されている

 

3坐法    姿勢によって霊的流れがまっすぐに身体のなかを通っていくことができる

 

4調息   空気を汚さなず使い切ることで、呼吸によって生き物を殺すことをやめるのが呼吸学

無意識の賢者の石によって、ヒトは二酸化炭素を吸引してエネルギーにすることができる植物になる。

するとヒトは身体が透明で柔らかい炭素からできたものになる。そのときに賢者の石をみつける。

吐き出した空気をふたたび吸い込むことができるようにする。

呼吸プロセスにリズムを持ち込むのが必要となる。

リズミカルに息を吐く呼吸である。

このような呼吸によって生命を育成する。「点滴石を穿つ」

 

5制感     感覚的知覚を抑制して自動反応回路のインプットを減らし、アウトプットの印象が起きないようにする。

1つの感覚的印象にとどまることで、ほかの印象に移行しないようにする。

 

6凝念     あらゆる感覚的印象から離れ、シンボルのなかだけに生きることで、思考をコントロールし、自由意志によってのみ、あるシンボルにべつのシンボルをならべていく。

 

7禅定     自分でシンボルを作り出す。本当の数字や三角形は外界には存在しないが、完璧なシンボルに精神を集中させる。

感覚的な対象物がないシンボルを瞑想することを禅定という。

「道の光(道を照らす光)」メイベル・コリンズ

 

8三昧      シンボルで心を満たすことを長期にわたり続けることで、シンボルは消え去り、意識のなかになにもないようにする。しかし眠ることなく意識を保っている。

思考のない意識に霊的諸力がその内容を注ぎ込む。自分の考えがあるかぎり霊力は秘密を露わにせず、霊的世界を開示しない。

 

 

キリスト教の実践

ヨハネ福音書の内容を瞑想する

「はじめにロゴスがあった。そしてロゴスは神のもとにあった。ロゴスは神であった。」

この文章のなかに5分間生きる修行を長年つづけると、これは理解の対象ではないことを体験する。

この言葉の隠れた力を体験し、その力を通して、魂の内的変化を体験して、霊視的になる。

こうして福音書をアストラル的に見ることができるようになる。

 

導師の指示に従ってはじめの5節を瞑想する。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は初めに神と共にあった。

すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」

7日間、1章を魂のなかに通過させる。

次の7日間は2章を魂のなかに通過させる。

このようにして12章に至る時には、アーカーシャ年代記に記されているとおりに当時のパレスチナを体験する。

13章では修行者はキリスト教的秘儀参入を体験する。

 

1洗足    自分よりも低い者たちのところまで身を沈める   動物は植物に感謝し、喜んで仕える

大勢の人々の足を洗っているヴィジョンを見て、自分の足に水が注がれているのを気づくという謙虚さに浸透されたら、次の段階に進むことができる。

 

2鞭打ち   私に向かってくるすべての苦悩に確固として立ち向かう、と宣言する。

夢のなかで自分が鞭打たれ、生活のなかで体中に点の痛みを感じることである。

 

3茨の戴冠  自分の最も聖なるものをバカにされても毅然と耐えることを学ぶ

夢で茨の冠をかぶり、生活のなかで頭痛を感じる

 

4磔刑    自分の体を最も重要であるという感情を克服する。

夢のなかで十字架にかけられ、生活のなかで右胸、両手、両足に赤い点が現れる。

5死     地上的なものに対して死んだようになる。

夢では、いたるところを闇が支配して、地上界がそのなかに沈んでしまい、生活のなかでは黒いヴェールがかかっている感覚になる。

この状態では、修行者は地獄下りをしており、この世で悪として存在しているものをすべてを知る。

ついで、ヴェールが引き裂かれ、カミ界が現れる。

 

6埋葬    自分の身体だけではなく、自分を取り巻くすべてを自分に属してものであると感じる。

自分の身体は皮膚を越えて広がり、修行者は孤立した存在ではなく、地球全体と結合する。

地球は私の身体となり、大地のなかに埋葬される。

 

7復活    魂が脳から全く自由になる。

これらの7段階を生き抜いた時に、キリスト教は魂の内的体験となり、イエス・キリストと一致して、修行者のなかに存在するようになる。

 

 

 

薔薇十字の修行

アブラハム教の信仰と知識との分裂と葛藤に陥った人たちに適している修行法が薔薇十字会の思想体系

この世界の最高の知識が、超感覚的すなわち霊的な真理と全く一致していることを示す。

表層的な科学の影響で信仰から離脱しようとしている者にとって、キリスト教を正しく認識するものでもある。

ヒトから低次の自己を取り出すのが修行の目的である。

 

神智学の初期の誤謬

外界を無視して、自分の中を見なければならない、という誤ちをしていた。

自分の内をみると、低次の自我のみを見出し、それを神的なものだと勘違いする。

しかもそんな低次の自我などは五感覚器官を使うときしか存在しないのに、である。

覗き込むのではなく、内面を照らす大きな(高次の)自己を認識するのが修行の目的である。

 

 

低次と高次の自己認識

低次の自己   私はここに立っている。わたしは凍える。

        私はここにいる。私は目のなかにいる。その目は太陽を見る。

高次の自己   私は寒さでもある。寒さのなかの自己は、私自身を寒くしているから寒いのだ

        私は太陽のなかにいる。そして、太陽の光のなかでおまえの目を覗き込む。

 

低次の自己を克服する  日常生活の自分の意見にこだわっている低次の自己を観察する  

「汝自身を認識せよ」

「どのような特性も一面的である。ではどこが一面的なのか?その一面性を調和あるものにせよ」

一面性の対局にある特性を通じて実践する。

自分の意見は一面性しか表現していないので大事だと思うことをやめる。

求めているものを受け取るのに「待つ」という忍耐を覚える

 

高次の自己は低次の自己を放棄することで生まれる認識

日常生活の自我には高次な自我はない。高次な自我は外側のすべてのものにある。

星、石、虫、猫のなかに存在する。

自分の高次な自己は、外界の大きな自己の一部にすぎない。

物質的なものはないのだから、病気も存在しない、と患者に教えるは誤謬である。

 

高次の自己に至る道

1 他者の考え方学習する  人類全体の思考を自分のなかに生み出す試行をする。

他者の思考を信じる必要はない。その考え方を学習によって知る。

厳密な思考を学習することで、厳密な論理的思考を形成するのである。

 

何を学習するかではなく、どのように学習するかにスポットライトを当てる。

換言すれば、対象ではなく、こちらの考え方と対処の仕方をTPOのなかで「いま・ここ」にスポットライトを当てて作り上げていくのである。

 

また、真理をしることで、思考の流れが作り出されることに気づくことだ。

惑星体系の叡智を考えることで、そこから道徳が生じる。

道徳から学んでも、そこから正しい叡智は学べない。

 

2 イマジネーション認識の獲得  「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」イザラ書房

どのようなものも先に学習したものと比べることで比喩になる。

たとえば目の前に植物のシソをおき、そのなかに沈潜する。

自分の魂をシソのなかにいれるのである。

この訓練をするとアストラル的観照にいたる。

しばらくすると植物からゆらめく光のようなものが生じる。

そのゆらめく光とはシソの「生長」がカタチとして現れたものである。

 

今度は一粒の種を目の前において、どのように生長していくのかを見る。

これがイマジネーション認識を獲得する方法である。

 

3 秘密の文字の修得

新しい文化がはじまる進化段階のしるしは渦巻である。

星雲、カタツムリ、

Mは叡智の印である。上唇の形と波の形に由来する

叡智のシンボルは水である。

このような秘密の文字の修得が薔薇十字の修行で行われる

 

4 生活と呼吸にリズムをもたらす

 

5ミクロコスモスとマクロコスモスの照応

人類のもっている器官は太陽では生じない。

たとえば肝臓はアストラル体があることではじめて形成される。

たとえば温血は自我体(メンタル体)があることではじめて形成される。

 

鼻根に注意を集中して、導師から与えれれた言葉を結びつけると、自我の本性を知ることができる。

目の内部に集中すると、光と太陽の内的本質を知ることができる。

アストラル的本性は、ある言葉を肝臓に集中させることによって知ることができる。

注意を向けた器官をとおして、自分から抜け出ていくのが、正しい自己進化である。

このように物質を通して物質を作り出す原因となるものに至る。

 

6 大宇宙への自己沈潜

禅定、観照のことである。

たとえば目の内部に沈潜して、器官という観念を払い落として、目が示すもの、すなわち光のことのみを考える。

すると器官の創造者にいたり、大宇宙に出ていくことになる。

そして身体がどんどん大きくなり、やがて地球全体と同じ大きさになり、さらにはもっと大きくなり、あらゆるものが自分のなかにあるようになる。そうするとヒトはあらゆる事物のなかに生きることを体感する。

 

7 三昧

神的な至福

最後の段階でシンボルについて考えることもやめるので、思考内容はなくなるが、思考活動は残る。

こうして霊的世界に憩う。

 

これらの修行法はヨーロッパ的人間に合わせて作られたもので、都市文明の皮相な物質世界を克服して至ることができる道である。

 

 

地質学と神秘学

地質学  地球は生命のない天体で内部には液体状の物質がある

 

神秘学  地球には互いに混ざり合っている層があり、上層から

鉱物地球  卵の殻のよう

液体地球  水銀のような鉱物的液体  霊的特徴を持ちはじめる  生命を消し去る力をもつ

空気地球  感覚を破壊する実質で、苦痛を快感に、快感を苦痛に変えて、現に存在する感覚を消し去る

形態地球  霊的なものをカタチ(物質的なもの)に形成する  別名は水地球

物質的な事物のネガがある。たとえば塩の塊を消滅させると、そのネガが生じる。

あらゆる事物の特性が事物から分離して周囲(空虚な時空)に移行する。

果実地球  みなぎる成長エネルギーに満ちているが上方の層によって押さえられている。

      上層の形態を支える「生命」

火地球   火のような感情と意志をもつ。痛みを感じ、自動反応する。

地球鏡   この層の実質に集中すると地球の特性すべてが反対のものに変わる

      直接にこの層だけを霊視すると、緑のものは赤として、悲しみは喜びとして現れる。

粉砕地球  すべてが無数に複製される。地上の戦いと不調和の原因である。

      すべての悪は実質的にここで準備され、悪を世界にもたらした。

      ダンテの「神曲」ではカインの奈落として描かれている。

      この力があることで、人類は調和的に共同することができる。

地核    霊的な悪の力の根源    世界に黒魔術が発生する

 

ヒトにはこれらのすべての層が関係しており、これらの力は絶えず放射されているので、絶えず対応しなければならない。

修行をして、生命的な空気を吐き出すことができるようになると、火地球を克服できる。

苦痛を平静さによって霊的に克服できると、空気地球を克服できる。

人々が一致協力できると、粉砕地球を克服できる。

 

地球は進化するものを阻むが、意志によって変化し霊化される。

ヒトの進化はみずからを地球に分け与え、地球内部を改造するという意味がある。

 

地震で死んだヒトは来世では精神的で敬虔な人物になるのは、地上は無常であることを衝撃によって深く知り、物質ははかなく、霊は強いことを学んだからである。

地震の時に生まれた新生児が唯物論的な人になるのは、火地球の力が解き放されて地震が起きたので、同時期の新生児は影響を受け、激情などの強い自動反応回路、すなわち外界の信号に対して無意識にアウトプットを反応する性質(回路)、すなわち唯物論的生き方をするのである。

 

このように地球はヒトの意志に関連し、ヒトは地球を変化させ、高貴なものにする。

修行は自分のためではなく、自然にとって必要なものであることを理解しなければ先に進むことができない。

自分の意見を断念し、自分を真理の道具であろうとするものである。

自分の想いを諦めると、真理は霊たちの方からやってくる。